第3章 わが国の行つた外交努力

 

第1節 各国との関係の増進

 

1. アジア地域

 

(1) アジア一般

 アジアの諸国とわが国は,平和と繁栄を分かち合うべき隣人として,特に相互依存の関係が深い。わが国は,このような認識から,アジア諸国との関係緊密化と相互理解の増進に努めるとともに,同地域の安定と開発に寄与することを基本方針としている。

 1976年のアジアにおいては,中国における周恩来総理及び毛沢東主席の死去に続く華国鋒新体制の成立,板門店事件に象徴されるような朝鮮半島での緊張の継続,ASEAN諸国とインドシナ諸国との関係調整など多くの不安定的要素がみられたが,全体的には対立を避け安定を求める動きが見られた。

 また,東南アジアの地域協力機構であるASEANについては,同機構発足以来初の加盟国間の首脳会議が開かれるなど,各加盟国及び地域としての強靭性強化のための域内協力につき進展があつた。

 わが国は,このような情勢を踏まえて,アジア各国との関係の強化を進めるとともに,地域協力機構であるASEANとの関係を維持し発展させることに努めた。76年中わが国が行つた外交努力の主な点は,以下のとおりである。

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(2) 朝 鮮 半 島

(イ) 朝鮮半島は,その平和と安定が,わが国のみならず東アジアの平和と発展に深い係り合いを有している地域である。同半島には,76年8月の板門店事件の発生にも見られるように,不幸にも依然として南北対立と緊張が見られる。朝鮮半島の緊張緩和を進めるため,南北双方の当事者が平和的統一に向けて実質的な対話を再開することが強く望まれる。

(ロ) わが国は,同地域における平和を支えている微妙なバランスを崩さぬよう配慮しつつ,この地域に対する外交を進めている。すなわち,韓国との友好協力関係の維持発展を基本とし,北朝鮮との間には貿易・人物,文化等の交流を漸次積み重ねてゆくとの政策をとつている。

(ハ) 76年においても韓国の要人の訪日,韓国美術5千年展の開催等により,日韓間の友好関係は更に深まることとなつた。また12月下旬に,韓国において反共法違反等で無期懲役の判決を受けていた3名の日本人が,韓国政府の刑の執行停止の措置により帰国することができたことは,広く人道上の観点からも日韓関係にとり喜ばしい出来事であつた。

(ニ) 75年減少傾向を示した日韓貿易は,76年においては再び活況を呈し,往復で約47億ドル(前年比33.3%増)となつたが,日本の対韓民間投資は,前年に引き続き低調であつた。12月には例年どおり第13回日韓貿易会議がソウルにおいて開かれた。政府レベルの経済協力及び研修生の受入れ,専門家の派遣等の技術協力は例年どおり実施され,3月にはソウル大学校工科大学に対する第3年度分の10億円の実験機材供与を中心とする無償援助,11月には109億円にのぼる通信施設拡張計画及び忠北線複線化計画のための円借款の書簡交換が各々行われた。

(ホ) 北朝鮮との間には国交はないが,貿易,人物,文化等の分野における交流は近年相当拡大している。しかし,76年の貿易は,北朝鮮の外貨事情悪化を反映し,往復で約1.7億ドルと75年より更に減少した。なお,北朝鮮とわが国関係企業との債務繰延べ交渉は合意に達した。

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(3) 中  国

 日中関係は,国交正常化後4年余の間,全般的に着実に進展してきた。日中両国が善隣友好の関係にあることは,アジアにおける平和な国際環境を維持するうえにおいて,特に大きな意味をもつとの見地から,わが国としては,72年9月に発出された日中共同声明を基礎として,両国の善隣友好関係を一層確固たるものとするよう努力している。

(イ) 各種実務協定の実施については,76年6月北京において漁業協定に基づく日中漁業共同委員会が開催され,協定の実施状況等に関し,意見交換が行われた。また,海運協定発効後の日中海運関係の具体的体制作りの一環として,日中双方における民間海運団体の設立及び右団体の代表連絡事務所の相互設置に関する交換公文が,76年8月東京において署名された。

(ロ) 日中平和友好条約については,74年11月以来東京及び北京で交渉が続けられ,75年9月にはニューヨークにおいて初の外相レベルでの会談が行われたが,76年10月にも再びニューヨークにおいて,小坂外務大臣(当時)と喬冠華外交部長(当時)との間で意見交換が行われた。

(ハ) 経済関係では,76年の貿易総額は,30.3億ドルと,対前年比で19.8%減少した。これは,中国の内政事情及び自然災害に加えて,わが国の不況の影響によるものとみられる。他方,経済ミッションの往来は75年を上回り,124団体を数えた。また4月の大阪国際見本市に中国が初参加した。

(ニ) その他,人事・文化交流も活発に行われ,76年3月からわが国において中国古代青銅器展が,また,10月からは魯迅展が開催された。他方,日中間の海底ケーブルが76年10月に完成,開通した。

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(4) モ ン ゴ ル

 モンゴルとの関係は,72年2月の外交関係樹立以来順調に発展している。76年中も文化取極に基づく各種の文化交流が継続して実施されたほか,77年2月にはモンゴル人民大会議員団が訪日し,更に3月には懸案の日本・モンゴル経済協力協定の署名がウランバートルで行われた。

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(5) ASEAN5カ国及びビルマ

 76年においてもASEAN5カ国及びビルマの諸国は,それぞれの困難な事情を抱えながらも,引き続き自国の政治・経済・社会の基盤を強化する努力を続けた。ASEANは,76年2月に発足以来初の加盟国間の首脳会議を開いた。

 わが国は,これら各国の基本方針を支持し,経済・技術協力の一層の推進に努めるとともに,これら諸国との幅広い対話及び交流を通じて,安定的な相互の信頼関係を築き上げることに努めている。

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(イ) ハイレベルの交流

 76年1月,宮澤外務大臣(当時)は,マレイシアの故ラザク首相の葬儀に,政府特使として参列した。他方,これら諸国からは,76年9月にフィリピンのロムロ外務長官が来日したのを皮切りに,インドネシアのウィジョヨ国家開発企画庁長官(10月),ビルマのウ・ルィン副首相(11月),マレイシアのリタウディン外相(11月),インドネシアのマリク外相(12月)等が相次いで来日し,わが国首脳と,国際情勢や2国間の協力問題等について意見交換を行つた。

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(ロ) 経済面における協力の推進

 わが国は,経済発展と国民生活の向上を目指すこれら諸国の自助努力を支持し,76年においても積極的な協力に努めた。例えば,11月に東京で開かれた対ビルマ援助国会議では,積極的な姿勢を打ち出し,同会議の成功に大きく貢献した。76年における円借款の供与については,上記のビルマのほか,6月のインドネシア援助国会議(IGGI)においても,積極的な方針を示し,またフィリピンに対しても,50億円の商品援助借款を供与した。また,4月には民間人を中心とするASEAN諸国経済関係調査団を派遣して,意見交換を行つたほか,第8回日・タイ貿易合同委員会を7月に東京で開催する等,相互理解に努めた。

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(ハ) 対話の促進

 わが国は,東南アジアの国々と,経済関係のみに偏らない,幅広く安定的な関係を築くことに努めており,日本・インドネシア・コロキアム(両国有識者による意見交換のための会合),東南アジア日本留学生の集い等を開催するとともに,東南アジア青年の船,中堅指導者招聘等の事業を推進した。

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(6) インドシナ地域

 わが国は,体制の相違を越えて広く世界の国々との交流を深めるとの立場をとつており,かかる見地より,ヴィエトナム及びラオスに対する経済協力,カンボディアとの外交関係の回復等,大要以下のような外交努力を行つた。

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(イ) ヴィエトナム

 わが国は,76年7月2日南北両ヴィエトナムが統一され,ヴィエトナム社会主義共和国が発足したことにつき翌7月3日通報を受けるや,総理大臣及び外務大臣よりそれぞれ先方首相及び外相に対し祝電を発出し,統一ヴィエトナムとの間で引き続き友好関係を維持発展させたいとのわが政府の意向を伝えた。

 経済協力の面では,インドシナ地域の戦後の復興と開発のために応分の協力を行うとの観点より,75年の旧ヴィエトナム民主共和国(北ヴィエトナム)に対する85億円の無償援助に引き続き,統一後のヴィエトナム社会主義共和国に対し50億円の無償援助を供与することとし,9月14日取極を締結した。この援助は,ヴィエトナム社会主義共和国の復興と発展に資するため,セメント工場建設に必要な各種の設備及び機材を同国政府がわが国より購入するため使用されることとなつている。

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(ロ) ラ オ ス

 ラオスにおいては,75年12月にラオス人民民主共和国政府が発足した。わが国は,同国との間に従来より存在してきた伝統的な友好関係を引き続き維持発展させていく方針であり,かかる観点より76年4月にはナム・グム・ダム建設第2期工事に対し20億円余の追加借款を,また12月には道路建設用機材3億円の無償援助をそれぞれ供与した。わが国の協力ぶりは,新政府より高く評価されている。

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(ハ) カンボディア

 75年4月のわが国の先方新政府承認,9月の右承認に対する先方の謝意表明に続き,わが国は,76年8月2日,カンボディアとの外交関係を回復した。9月にイエン・サリ外務担当副首相が非公式にわが国を訪問した際には,宮澤外務大臣(当時)との間で今後の両国関係につき話合いが行われた。

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(7) 南西アジア

 インド亜大陸とインド洋地域は,非同盟諸国又は開発途上諸国の主要勢力からなり,また米中ソの利害関係が複雑に錯綜していることから,国際政治上無視できない重要な地域である。わが国は,これら諸国との意思疎通を深め,かつこの地域の安定と各国の開発にできる限り協力するとの方針に基づき,主として以下の外交努力を行つた。

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(イ) 定期協議(事務レベル)

 パキスタンとの第4回定期協議が76年8月(東京),インドとの第11回定期協議が12月(ニューデリー)にそれぞれ開催され,2国間関係及び国際情勢を中心に率直な意見交換が行われた。

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(ロ) 人的交流

 スリ・ランカのパンダラナイケ首相が76年11月公賓として訪日したのをはじめ,モルディブのヒルミィ副大統領(5月),ネパールのタパ大蔵大臣(12月)を含む多数の要人が訪日し,南西アジア諸国とわが国との相互理解の増進に寄与した。

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(ハ) 経 済 関 係

 76年3月,経済関係発展の方途を探るため政府派遣経済使節団がパキスタンに派遣されたほか,わが国との片貿易是正のため開発輸入促進調査団がパキスタン,ネパール,スリ・ランカ(76年2月から3月)及びバングラデシュ(77年3月)に派遣された。

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(ニ) 経済・技術協力関係

 資金協力の分野では,わが国は,76年1月から77年3月までの間に,南西アジア地域諸国全体で約1,051億円の円借款,約35億円の無償援助,約1,500万ドル(約47億円)のKR食糧援助の供与をそれぞれ約束した。また,技術協力の分野では,76年度中の実績(新規)は,研修員受入れ296名,専門家派遣119名,青年協力隊派遣44名であつた。このほか,農業協力プロジェクト開発調査,鉱工業プロジェクト開発調査,食糧増産援助調査,経済協力調査等のための各種調査団が派遣された。

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2. 大洋州地域

 

(1)

 大洋州地域は,豪州,ニュー・ジーランド,パプア・ニューギニアに加え,フィジー,西サモア,トンガ,ナウルの4島嶼国及びソロモン諸島,ギルバート諸島等の非独立地域から成つている。

(2)

 豪州及びニュー・ジーランドは,わが国とともにアジア・太平洋地域に属する先進民主主義国であり,経済的相互補完性を基礎として,わが国との間に政治的・経済的に密接な関係を維持,発展させてきている。わが国としても,アジア・太平洋地域の安定の維持及び繁栄の促進のためには,豪州,ニュー・ジーランドを含む先進民主主義諸国との協力が基本的に重要であるとの認識に立つて,これら諸国との間に,永続的かつ緊密な友好協力関係を拡大,発展すべく,従来にも増して一層の努力を傾注していく考えであるが,76年においては次の努力が払われた。

 日豪間では,76年6月,フレーザー首相がわが国を公式訪問し,その際,両国関係を経済の分野のみならず,政治・文化・教育・社会等幅広い分野において,一層強化,拡充することを目的とする友好協力基本条約が署名された。本条約は,日豪関係の長期的発展のための基礎を成すものとして,画期的意義をもつものである。また,同年2月には日豪文化協定が発効し,更に同年4月には,豪州政府により,両国間交流促進を目的とする豪日財団が設立された。

 更に,77年1月には,第4回日豪閣僚委員会が東京で開催され,日豪関係の中核を成す経済関係,特に,農産物・鉱物資源貿易,漁業,産業・労使関係,運輸等の諸問題につき忌憚のない意見交換が行われた。

 ニュー・ジーランドとの間においても,76年4月,マルドゥーン首相の訪日を始め,両国政府間に緊密な交流が維持された。特に,酪農品等農林畜産物の対日輸出について頻繁に意見交換が行われ,両国の国内事情につき相互の理解が深められた。

(3)

 75年9月に独立したパプア・ニューギニアは,東南アジアと南太平洋を結ぶ要ともいうべき位置にあり,わが国としては,同国の安定・発展に貢献すべきであるとの観点から,特に漁業,林業等の分野で経済協力を進めてきている。

 その他,南太平洋地域のフィジー,西サモア等開発途上にある国々においても,近年とみに経済,社会開発の動きが活発化してきている。更に,海洋秩序の最近の動きについては,これら諸国は,域内協力機構である南太平洋フォーラムを通じ,域内漁業資源の管理,開発に強い関心を有している。わが国としては,これら諸国の経済・社会開発の自助努力に呼応して,従来以上に経済協力を拡大し,友好協力関係を促進していく考えである。

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3. 北 米 地 域

 

(1) 米  国

 日本と米国は,民主主義と自由経済体制を分かち合う先進工業民主主義国として,政治,経済,文化,教育,科学等国民生活のあらゆる分野における相互交流の度合いを深めており,このような米国との友好協力関係は,わが国の外交の基軸をなすものである。

 また,国際的相互依存関係が深まるにつれ,先進工業民主主義国としての日米両国の協力の重要性も増大している。世界景気の回復,インフレの克服,自由貿易体制の擁護,エネルギー問題,南北問題等幾多の試練に対処するため,日米両国は,単に2国間問題の解決のためのみならず,広く世界的視野から国際の平和と安定に貢献するために協力し合うことを期待されている。

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(イ) 三木総理大臣の訪米

 こうした状況の下での日米協力の一環として三木総理大臣(当時)は,76年6月27日及び28日の両日,フォード大統領(当時)の提唱によりプエルト・リコで開催された主要国首脳会議に参加し,英国,フランス,西独,イタリア,カナダの首脳とともに国際経済上の諸問題につき意見交換を行うとともに,帰途ワシントンを訪問して6月30日フォード大統領と会談し,国際社会及び日米2国間の諸問題につき率直な意見交換を行つた。

 76年には,また,こうした首脳会談以外にも両国政府間で様々なレベルにおいて話合いが行われたが,9月には小坂外務大臣(当時)が国連総会出席の機会にキッシンジャー米国務長官(当時)と会談し,日米関係全般を概観するとともに,対中関係,朝鮮問題等についても意見を交換した。

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(ロ) 米国独立200年祭への参加

 日米両国は,単に政治及び経済の分野のみならず,科学技術,文化交流の分野でも友好関係を拡大させてきているが,米国独立200年祭の年である76年は,官民を通じて日米両国民が交流の輪をより一層拡大させた年であつた。

 主要国首脳会議の帰途ワシントンを訪問した三木総理大臣は,6月30日のフォード大統領との会談の際,同大統領に対し,日本国政府及び国民を代表して独立200年を祝福したメッセージを手交するとともに,同日,ワシントンのケネディ・センター内の小劇場建設のためわが国政府及び国民が寄附した資金の贈呈式にフォード大統領とともに立ち合つた。

 わが国は,また,同じく政府及び国民からの贈り物として,ロス・アンジェルス,サン・フランシスコ,シアトルの3都市に桜の苗木を寄贈した。

 さらにわが国は,ニューヨークの帆船祭への日本丸の参加派遣,盆栽の寄贈等,官民を問わず多くの行事に参加したが,これらの努力は,文化的,歴史的背景を異にする両国がそれらの相違を乗り越えて真の相互理解に達するために有意義であつたといえよう。

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(ハ) 米国新政権発足後の日米関係

 米国では,76年11月2日の大統領選挙で民主党のカーター候補が現職のフォード大統領に対して勝利を収め,翌77年1月20日,第39代大統領に就任した。

 カーター新大統領は,かねてより,日本や西欧諸国との連携強化を重視しており,こうしたことからも日米友好関係は,より一層緊密化するものと思われる。

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    (a) モンデール副大統領の訪日

カーター大統領は,就任の直前,日本及び西欧諸国の首脳と電話で会談し,意思の疎通を図るとともに,同盟国重視政策の第1歩として就任直後の77年1月23日から約1週間にわたり,モンデール副大統領を主要西欧諸国及びわが国に派遣した。

ベルギー,西独,イタリア,英国及びフランスを歴訪後,1月30日から2月1日までわが国を訪れた同副大統領は,1月31日及び2月1日の両日福田総理大臣と会談し,世界経済,2国間貿易,アジアの平和と安定等について率直な意見交換を行うとともに,カーター大統領に代り福田総理を米国に招待した。

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    (b) 福田総理大臣の訪米

福田総理大臣は,77年3月米国を訪問し,21日及び22日の両日,カーター大統領と会談した。両国首脳は,「世界の中の日米協力」を中心テーマとして,世界経済が直面する諸問題,アジア・太平洋地域の平和と繁栄,原子力平和利用問題,2国間貿易問題及び核拡散防止問題等について忌憚なく話し合い,国際社会が当面する諸問題に対処するうえで,両国の提携関係を一層強化していくことを確認し合つた。また,カーター大統領は,福田総理大臣からの訪日招待を快諾しており,今後の日米友好協力関係の一層の増進が期待される。

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(2) カ ナ ダ

(イ) 日加両国は,経済面できわめて緊密な関係にあるが,近年,政治,文化,科学技術等多岐にわたる分野においても協力関係を発展させてきている。ともに太平洋地域に位置する先進工業民主主義国として,わが国は,カナダとの友好協力関係を多方面にわたつて強化することを方針としている。

 76年には,トルドー首相夫妻が訪日したのをはじめ,政府及び民間レベルにおいて活発な交流が行われ,両国民の相互理解増進のための努力が積極的に行われた。

(ロ) トルドー首相夫妻の訪日

 トルドー首相は,76年10月20日から26日まで,わが国政府の招待により夫人を伴い訪日した。トルドー首相は,滞在中両陛下から謁見を賜わり,三木総理大臣(当時)と2度にわたり会談し,日加両国の2国間問題及び国際問題について意見の交換を行つた。トルドー首相は,また,福田副総理大臣(当時)以下関係各大臣と会見したのをはじめ,前尾衆議院議長(当時)を表敬訪問し,国会議員有志及び経済界の主要な代表と懇談した。トルドー首相と三木総理大臣及び福田副総理大臣等関係閣僚との会談等を通じて,日加間及び国際的諸問題に対する日加両国の立場,政策に関する相互理解が一層深められ,両国の緊密な協力関係の基盤が更に強化された。

 特にトルドー首相訪日に際して,日加文化協定及び日加経済協力大綱が署名された。日加文化協定は,人物交流,各種機関間の交流,その他種々の手段を通じて,文化及び教育の各分野における両国の交流を拡大促進するための奨励,便宜供与等を規定したものであり,今後日加間の文化,学術交流がより安定した基盤に立つて拡大,強化される柱となるものである。また,日加経済大綱は,両国政府がその経済関係の一層の緊密化を目標としている旨の政策意図を内外に表明したもので,日加経済協力関係の今後の一層の発展に確たる指針を提供するものである。本大綱は,両国政府が日加間の経済協力活動を検討し促進するために通常年1回合同委員会が開催されることを規定している。

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4. 中南米地域

(1)

 わが国と中南米諸国の間には,深刻な政治問題が存在せず,伝統的に友好協力関係が保たれてきている。中南米地域に対するわが国の外交は,相互の自主性を尊重しつつ,相互理解を促進し,互恵的協力関係の緊密化を図ることを目標としている。

(2)

 中南米諸国は,世界でも有数の資源保有地域,食糧生産地域であり,また,中南米諸国の海域には有望といわれる漁場が多い。このため資源・食糧不足という世界的問題の解決のために,中南米諸国が果す役割は極めて重要になりつつある。

中南米諸国は,近年,その政治的安定を背景として,積極的に国内の経済社会開発計画を推進している。このような計画を遂行するために,経済ナショナリズムを引き続き堅持する諸国がある一方,アルゼンティン,チリ,ウルグアイのように経済ナショナリズムとの調和を図りつつも,積極的な外資導入策を打ち出している国もある。中南米諸国は,国内経済開発等のため,わが国にも積極的に接近してきており,わが国としても,可能な限り,中南米諸国の対日期待に応えるよう努めている。

(3)

 上記のような考え方に基づき,76年においてわが国は,次のような外交努力を行つた。

(イ) 76年9月ガイゼル・ブラジル大統領が国賓としてわが国を訪問した。同大統領の訪日は,両国国民及び政府間の相互理解を深めることにより,移住にはじまる両国間の伝統的友好協力関係を一層強化した。

(ロ) その他,ロドリゲス・キューバ副首相,マルティネス・デ・オス・アルゼンティン経済大臣をはじめ,パラグァイ,チリ,ペルー等から閣僚を,またグァテマラより国会議長を招待し,これら諸国との相互理解を深めることに努めた。

(ハ) 中南米諸国のわが国に対する経済技術協力期待に応えるため,コスタ・リカ,ペルーへの円借款供与,スリナムに対する漁業訓練船の無償供与をはじめとする各種協力を強化し,更に,新規の経済技術協力案件を発掘するため,パラグァイに経済協力調査団を派遣した。またコロンビアとの間では,技術協力をより円滑に遂行するために,技術協力協定を締結し,ペルーとは水産分野での協力を円滑に行うため,水産加工センター協力協定を締結した。

 多国間協力としては,わが国は,76年7月米州開発銀行の正式な域外加盟国となつた。

(ニ) 文化交流面では,文化人招聘,日本語教師派遣等文化交流の推進を行つた。また,ブラジルの日本文化研究所に対して助成を行つた。

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5. 西 欧 地 域

 

 わが国にとつて西欧諸国との協力関係は,西欧諸国が国際社会において占める地位と役割に鑑み,また,米国を含めた先進民主主義国間の協力強化の観点からも極めて重要である。わが国は,このような基本的な考え方に基づき,76年においても引き続き2国間あるいは各種の国際的フォーラムにおいて,西欧各国との対話と協調の緊密化に努めた。また,近年日欧関係には特に大きな懸案がなく比較的順調に発展していたところ,76年後半以降,EC諸国において,不安定な政治情勢,鉄鋼,造船等の基幹産業の不振を含む深刻な経済情勢を背景として,日欧間の貿易不均衡をめぐり対日批判が高まり,政治問題化する様相を見せるに至つたが,わが国は,日欧間の友好を維持,強化するとの観点から問題の円満解決に努めた。

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(1) 対話と協調の緊密化

 首脳間の交流としては,三木総理大臣(当時)がプエルト・リコにおける主要国首脳会議に出席し,西欧4カ国を含む各国首脳と率直な意見交換を行つた。また,フランスからシラック首相(当時)がバール貿易相(現首相),ソーヴァニャルグ外相(当時)を伴つて来日(7月)し,三木総理大臣等と会談を行つたほか,この機会に日仏外相定期協議が行われた。その他フランスから産業科学相(4月),国土整備・計画相(9月),英国からは外相(5月,日英定期協議開催),大蔵省次席大臣(6月),産業担当国務大臣(9月),デンマークからは外相(6月),ノールウェーからは海運相(9月)等,要人の訪日が相次ぎ,わが国関係閣僚との間で意見交換を行つた。

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(2) 日欧貿易問題

 EC側は,76年10月の経団連土光ミッションの訪欧,11月の欧州理事会等の機会に,わが国に対し,従来より問題化しつつあつた貿易収支の不均衡,わが国一部特定産品の対欧輸出急増,対日輸出障壁等の改善を強く要請するに至り,76年後半以降日欧貿易不均衡問題が顕在化するに至つた。これに対し,わが国は,

(イ) 自由貿易原則を維持する。

(ロ) 貿易不均衡の問題については,貿易外収支をも考慮に入れ,かつ,国際経済全体との関係からも考慮する必要があり,いずれにしても拡大均衡の方向で解決すべきである。

(ハ) ECの対日輸出拡大のためには基本的にはEC側の努力が必要であるとの基本的立場に立ちつつ,輸出及び輸入の両面において,当面わが国として実施しうる限りの協力を行つた。また,このような経済面における日欧間の摩擦には両者間の理解の不足,更には双方の経済的,社会的,文化的体質の異質性等に由来する面も少なくないことに鑑み,わが国としては,各種レベルでの人的往来の活発化,広報活動の強化等,相互理解の増進に努めた。

 今後ともわが国としては,経済面においては拡大均衡を目指し,各種の諸困難の克服と,新しい協力関係の開拓に努めるとともに,政治面での対話の強化,文化交流の促進等幅広い協力関係の形成に努めていくことが肝要である。

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6. ソ連,東欧地域

 

(1) ソ  連

(イ) 日ソ関係全般

 ソ連は,わが国と政治理念及び社会体制を異にする国であるが,同時にわが国にとつて重要な隣国である。したがつて,わが国の対ソ外交の基本は,ソ連との間に相互理解と信頼に基づく安定した善隣友好関係を確立することである。このような日ソ関係の確立は,日ソ両国国民の利益に応えるのみならず,東アジアひいては世界の平和と安定にとつても重要な貢献をなすものである。

 わが国は,このような基本的立場に立つて日ソ関係の増進に努めてきており,近年両国間の関係は,貿易,経済,文化,人的交流等の諸分野において順調に進展してきている。例えば,わが国の1976年の対ソ貿易量は,往復で34億ドルを超え,西側先進諸国の中でも最大の対ソ貿易国の1つとなつている。またシベリア開発に係る経済協力についても,66年以来7つのプロジェクトが実施に移され(そのうち2つは実施済み),わが国がシベリア開発協力に関連して,ソ連に供与した信用供与総額は約14.7億ドルにも及んでいる。

 以上のように日ソ関係は,実務面において順調に進展しているが,他方において歯舞群島,色丹島,国後島及び択捉島の北方4島のわが国への返還を実現して日ソ平和条約を締結するという重要な問題は,最大の懸案として依然残つている。

 わが国は,日ソ間に真に安定的かつ永続的な友好関係を確立するためには,北方領土問題を解決して平和条約を締結することが不可欠であるとの立場に立ち,従来からこの問題の解決に努力してきた。

 国交回復後20周年にあたる76年は,1月にグロムイコ外相が来日し,初めてわが国において平和条約交渉が行われたのを初めとして,2月の第25回ソ連邦共産党大会におけるブレジネフ書記長演説(わが国の北方領土返還要求を指して「一部の者の不法な要求」であると述べた),5月のマチェーヒン事件(ノーヴォスチ通信記者の国内法違反の廉による逮捕事件),7月のバイカル号事件(日本人女子学生殺害事件),8月の土光経団連会長の訪ソに際してのブレジネフ書記長との会談,9月の北方4島への墓参中止,ミグ25型機の函館空港強行着陸事件,宮澤外務大臣(当時)の根室視察及びニューヨークにおける小坂外務大臣(当時)とグロムイコ外相との会談,そして最後に12月のソ連最高会議幹部会令による200海里漁業水域の設定と数多くの出来事があつた。

 これらの出来事の中には,日ソ関係の進展とは基本的に係り合いのない偶発的なものもあつたが,ブレジネフ書記長演説あるいは北方4島への墓参中止など,領土問題に対するソ連側の厳しい態度が示される局面もみられた。またソ連の200海里漁業水域設定に伴い,従来両国関係の重要な柱の1つとなつてきた日ソ漁業関係は,新たな枠組みを形成する必要に迫られることとなつた。

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(ロ) 北方領土問題(平和条約交渉)

 76年1月グロムイコ外相が来日し,日ソ外相定期協議及び日ソ平和条約締結交渉が行われた。宮澤外務大臣(当時)とグロムイコ外相との間の平和条約交渉及びグロムイコ外相と三木総理大臣(当時)との会談においては,領土問題が最大の問題として話し合われたが,ソ連側の態度は依然として固く,領土問題について具体的な前進はみられなかつた。しかし,数次にわたる交渉の結果,最終的には,共同コミュニケにおいて,北方4島の問題が「第2次大戦の時からの未解決の諸問題」の中に含まれるとの了解の下に作成された73年10月10日付の日ソ共同宣言の当該部分の全文が確認され,平和条約の早期締結のため交渉を継続することが合意された。

 しかるに,2月24日第25回党大会においてブレジネフ書記長は,「平和的解決の諸問題に関連して,日本には時として外部からの直接的な教唆の下にソ連に対して根拠のない不法な要求を提起しようとする者がいる。」と述べ,わが国の北方領土返還要求につき事実を著しく歪曲した不当な主張を行つた。これに対しわが国は,外交ルートを通じ,改めてわが国の基本的考え方を明らかにし,ソ連側の注意を喚起した。

 また,ソ連側は,北方領土への墓参に関し,長年にわたり確立されてきた人道的見地からの慣行を無視し,旅券携行とソ連政府の査証を取得することを要求してきたため,76年度の墓参は中止のやむなきに至つた。

 9月11日,宮澤外務大臣(当時)は,現職の外務大臣として初めて根室を訪れ,洋上から北方領土を視察したが,これは,交渉当事者である外務大臣の現地視察を是非とも実現してほしいとの地元のかねてからの強い要望に沿つたものであり,これにより北方4島の一括返還を実現して平和条約を締結するとの政府の一貫した態度が改めて確認された。

 他方,9月末にニューヨークで開催された国連総会の際に行われた小坂外務大臣(当時)とグロムイコ外相との会談において,グロムイコ外相は,平和条約の問題につき話し合う用意はあるが,領土問題を解決して平和条約を締結する考えはないとの厳しい態度を示した。これに対し小坂外務大臣(当時)は,北方4島の問題が平和条約によつて解決されるべき未解決の問題であることについては,73年の首脳会談で確認されていることを指摘するとともに,改めて北方領土問題に関する日本の立場を明確にした。

 77年3月15日から開催された日ソ漁業交渉において,ソ連側は,後記(ハ)のとおり北方4島周辺水域を含んだソ連200海里水域をわが方が受け入れることを迫り,交渉は難航した。

 (結局本件交渉は,77年5月27日領土問題に関するわが方の立場をいささかも損わない形で妥結した。)

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(ハ) ソ連邦の漁業水域設定と日ソ漁業交渉の開始

 76年12月10日,ソ連邦は200海里漁業水域の設定に関する連邦最高会議幹部会令を公布し,ソ連邦の沿岸に接続する200海里の漁業水域において魚類その他の生物資源に対し主権的権利を行使すること,外国人が上記水域において漁業を行うことはソ連邦と外国との間の合意によつてのみ認められること等を明らかにした。更に,ソ連邦は,77年2月24日付の連邦大臣会議決定により上記幹部会令の北西太平洋における適用水域を規定するとともに,この水域において当該幹部会令が規定する措置を3月1日より実施する旨明らかにした。(わが方は,この適用水域の中にわが国固有の領土である北方4島の周辺水域が含まれていたことから,2月25日,官房長官談話により,かかるソ連邦の一方的措置は認められない旨直ちに抗議するとともに,同26日,佐藤外務次官よりポリャンスキー在京ソ連邦大使に対し上記抗議を申し入れた)

 ソ連邦の200海里体制への移行に伴い,日ソ両国間には新たな漁業秩序を形成する必要が生じ,77年2月28日より3月5日まで鈴木農林大臣が訪ソしてイシコフ漁業大臣と会談し,その結果3月3日,日ソ間において新たな漁業協定を締結すること,取り敢えず77年については同年末までを適用期間とする暫定取極を締結するとのラインで話合いを開始することにつき了解が成立した。これを踏まえ,同年3月15日より東京において従来の日ソ公海漁業条約に基づくサケ・マス交渉が,また,モスクワにおいては,ソ連邦の200海里体制への移行を背景として本邦漁船の操業確保に関する交渉が,それぞれ開始された。

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(ニ) 墓参及び未帰還邦人

 76年1月のグロムイコ外相来日の際,宮澤外務大臣(当時)より,北方4島,ソ連本土及び樺太への墓参実施がわが方の希望どおり実現するよう,また戦後残留を余儀なくされている日本人の帰国が早期に実現するよう配慮を要請した。これに対しグロムイコ外相は,墓参については日本側の希望を原則として好意的に検討する旨,また,未帰還邦人については本人から具体的要請があれば好意的に検討する旨約した。(ただし,76年の北方地域墓参は,(ロ)で述べたとおり,中止のやむなきに至つた。)

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(2) 東  欧

 わが国は,経済,文化及び人的交流の促進を通じて友好関係の強化を図ることを対東欧外交の基本方針としているが,76年においても,幅広い交流によつて,相互の国民間における理解の増進が図られた。

 ユーゴースラヴィアのツェモヴィッチ蔵相(10月),ハンガリーのフサール副首相(10月)等の訪日が行われたほか,わが国からは,皇太子殿下及び妃殿下のユーゴースラヴィア訪問(6月),植木総務長官(当時)のブルガリア訪問(7月)をはじめとし,2次にわたる政府科学技術協力調査団あるいは金融調査団の東欧諸国派遣(5月~6月)等,広く各層にわたる人の往来があつた。

 わが国とこれら東欧諸国との関係強化は,ハンガリーとの通商航海条約の批准発効(9月),ルーマニアとの間の租税条約署名(2月),チェコスロヴァキアとの間の文化協定署名・発効(1月)等にも示されている。

 わが国の対東欧貿易は,75年に対前年比約1割減少の約9億1,000万ドル(往復)となつたが,76年には更に減少して約8億6,000万ドルとなつている。これは,わが国の不況によりわが国の輸入が低水準にあるうえ,東欧諸国の外貨不足及び西側債務累積がさらに深刻化したことにより,これら諸国も輸入抑制策を採らざるをえなくなつていることによるものと考えられる。しかし,東欧諸国は,新経済発展5カ年計画を成功裡に進捗せしめるためには,西側先進諸国の高度産業技術導入を必要としていること,またわが国のプラント輸出市場として重要であるほか,産業協力等の分野においてもなおわが国との経済・貿易関係発展の余地は大きいと思われる。

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7. 中近東地域

 

(1)

 中近東地域は,近年,重要な石油供給源及び輸出市場としてわが国に対しても,また国際政治及び経済全般に対しても大きな影響力を有するに至つている。また,この地域における重大な紛争の発生は,世界の平和と安定に重大な係り合いを有し,ひいては,わが国の経済発展にも大きな影響を及ぼすものと考えられる。

 わが国は,このような認識の下に,中東に公正で永続的な平和が早急に達成されることを切望し,そのための国際的努力を支持するとともに,経済貿易関係の強化,経済技術協力の推進,人的・文化的交流の促進を通じて,これら諸国との友好関係の維持増進を図つている。

 76年を通ずる主要な動きは,次のとおりである。

(2)

 76年には,中東和平交渉の進展は見られなかつたが,わが国としては,従来より,中東における永続的平和が達成されるためには,安保理決議242の全面的実施及びパレスチナ人の国連憲章に基づく正当な権利の尊重が必要であるとの立場をとつており,更に,わが国は,紛争の平和的解決のためにすべての関係当事者が早急に話合いに入ることを国連その他の場で呼びかけている。

 わが国は,PLO(パレスチナ解放機構)をパレスチナ人を代表するものと認識しており,また,パレスチナ人を代表するPLOが中東紛争,なかんずくパレスチナ問題の当事者として和平交渉に参加を認められることが適当であるとの立場をとつている。76年4月にはPLOのカドウーミ政治局長が来日し,また,12月には,東京にPLOの事務所を開設するためにPLOの代表が来日している(同事務所は,77年2月1日に正式に開設された)。

(3)

 経済面においては,76年には,わが国の石油輸入の約8割が,サウディ・アラビア,イラン,アラブ首長国連邦,クウェイトなどの中近東産油国により占められており,また,中近東地域に対する機器を中心とするわが国の輸出も増加を続けている。その結果,同地域との貿易額は76年には,わが国総貿易額の約20%を占め,米国と並ぶに至つている。同地域の多くの諸国は,豊富な石油収入をもとに経済社会開発計画を積極的に進めており,わが国との経済関係の一層の拡大・深化が予想される。

 これら諸国は,経済・社会開発,工業化との関連で,わが国など先進工業諸国からの各種経済協力を強く期待している。わが国政府は,76年に,エジプト,モロッコ,スーダン及びイランの4カ国に対する総額464億円強の円借款の供与を含む資金協力及び機材供与,研修生の受入れ,専門家の派遣などの技術協力を推進し,全体として同地域に対する経済協力は順調に進展している。また,76年1月には河本通産大臣が,サウディ・アラビア,イラン,イラク及びエジプトの4カ国を訪問し,経済技術協力を含めこれら諸国との協力関係の促進を図つた。

(4)

 更に,わが国は,中近東諸国との人的・文化的交流の拡大に力を入れている。76年には,2月にモロッコのオスマン首相夫妻,3月にジョルダンのフセイン国王夫妻,5月にカタルのアブドル・アジーズ石油財政相及びリビアのマブルーク石油相,10月にエジプトのサダート大統領夫人等の要人の訪日があり,わが方からは,1月に河本通産大臣(当時)が中東諸国を歴訪し,6月には,皇太子・同妃両殿下がジョルダンを公式訪問したほか,官民の有力者の中東諸国訪問が行われた。また,文化面での交流についても,わが国よりの生け花巡回派遣や展覧会の開催等を通じ,その拡大が図られている。人的・文化的交流は,国民の間に相互理解と親近感を醸成する最も良い手段であり,わが国としても引き続き尽力していく考えである。

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8. アフリカ地域

 

(1)

 わが国は,友好親善と互恵協力関係を増進することを対アフリカ外交の基本としているが,76年においては,それまでに培つたわが国とアフリカ諸国との多面的な関係を,更に具体的な協力関係に高めるべく外交を推進した。

(2)

 南部アフリカ問題は,アフリカ諸国最大の共通関心事であるが,わが国は,従来から一貫して深い理解と同情とをもつて,同問題の公正な解決のために可能な範囲内で,できる限りの協力を行うことを基本的立場としてきており,具体的には以下の措置を執つた。

(イ) わが国は,2月20日アンゴラ人民共和国を承認し,9月9日には外交関係を設立した。また,わが国はモザンビークとも77年1月9日に外交関係を設立した。

(口) わが国は,国連安全保障理事会における援助要請決議に基づき,モザンビークに対し,12月14日UNHCR(国連難民救済高等弁務官)を通じて2億5,000万円の緊急援助を行うとともに,77年3月4日にはWFP(世界食糧計画)を通じて3億1,000余万円相当の食糧援助を行うとの交換公文をWFPと締結した。

(ハ) わが国はまた,南部アフリカにおける人種差別,植民地支配の犠牲者の救済及び教育,訓練を目的とする国連南部アフリカ関係基金に対し,前年に引き続き76年も総額21万ドルの拠出を行つた。

(3)

 アフリカ諸国に対する経済・技術協力については,各国の国家建設の努力に対し側面から協力するとの立場から,わが国は,引き続き協力を強化しているが,76年は下記(イ)にみるごとく無償資金協力面でのかなりの進展が見られたのが特徴的である。

(イ) わが国は,5月にガンビアの漁船増隻計画に対し1億円,12月にニジェールの輸送力増強計画に対し3億8,000万円,更に77年3月にはセネガルの漁業振興計画に対し3億5,000万円の無償資金協力を行うこととし,それぞれ交換公文が締結された。

(ロ) マダガスカルのナモロナ河発電計画のため,6月,10億円の円借款供与の交換公文が締結された。

(ハ) アフリカ諸国がわが国の経済・技術協力に期待するところは大きいが,76年にはマダガスカル経済商業大臣及び財政計画大臣,セネガル工業開発・環境大臣,チャード外務大臣及び経済大臣等が相次いで訪日し,2国間の協力につき話合いを行つた。

(4)

 このほかわが国は,1月20日に在ギニア大使館を開設した。

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