第 1 部

 

総  説

 

 

 

序   説

 

 1976年の国際社会は,石油危機の深刻な影響を受けた74年,また,インドシナ半島における紛争の終結を迎えた75年との対比においては,様々な不安定要因を引き続き内包しつつも,概して比較的波乱の少ない1年であつた。

 大統領選挙の年に当たつた米国は,重要な国際問題に関して積極的なイニシアティヴをとりにくい状況にあつた。ソ連としても,「緊張緩和」外交推進を唱えながらも,米国のこのような内政上の動きに見通しをつけることができないこと等より,個々の問題についてはおおむね慎重さが目立つた。また,最高指導者の死去が続いた中国も,対外活動において積極さが見られなかつた。更に,世界諸地域における対立あるいは紛争の当事者の多くは,これら諸問題の拡大防止・局地化に関心を有し,慎重に対処しようとする姿勢を示した。

 このことは,国際関係全般にかかわる戦略兵器制限交渉(SALT-II),米中関係,中ソ対立,朝鮮問題,中東和平問題,南部アフリカ問題,中欧相互均衡兵力削減交渉(MBFR)等々,75年以前からの幾多の重要懸案の解決が77年以後に持ち越されたことをも意味した。

 国際経済にとつては,76年においても,73年秋の石油危機によつてもたらされた打撃からの回復及び新たな安定的発展の道の模索が依然として主要な課題であつた。先進民主主義諸国は,このような課題に取り組むため,これら諸国間の協調の努力を続けたが,国によつて失業,インフレ,通貨不安,国際収支のアンバランスなど深刻な経済困難は改善をみるにいたらず,一部には停滞感の深まる中で年末を迎えた。

 南北問題解決のための対話の努力は,76年においても続けられたが,南側の要求は,この過程でますます具体化した。しかし,この過程においては,南北の相互依存関係に対する認識も深まり,問題解決へ向けてのより具体的措置を模索する努力が続いた。

 また,海洋問題に関しては,米国,カナダ,EC諸国,ノールウェー,ソ連等200海里水域を設定する国が急速に増加し,200海里時代の到来が趨勢となつた。

 このような国際環境の下において,自由主義世界第2位の経済力を擁するわが国に対する国際社会の期待は,かつてないほどに大きいものがある。現代の国際社会が直面している諸々の課題の解決は,決して容易なものではない。しかし,わが国としては,国際社会の期待に応えることがわが国の国益をよりよく反映した国際関係の形成に資するものであることを認識しつつ,わが国の国力に見合う形でこれら課題の解決のため積極的に貢献していかなければならない。

 第1部では,第1章において76年を中心にわが国をとりまく国際環境を概観し,第2章においては,このような国際環境の下におけるわが外交にとつての基本的課題について述べ,さらに第3章でわが国が行つた具体的な外交努力を説明してみることとする。

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第1章 1976年の世界の主要な動き

 

 1976年の国際情勢の主要な特徴は,前掲序説で述べたとおりであるが,以下に同年を中心にその主要な動きを概観することとする。

 

1. 米中ソ3国及び各地域の動向

 

(1) 米国,中国及びソ連の動向(2国間関係を中心として)

(イ) 米 ソ 関 係

 米ソ関係は,76年を通じ,全般的に停滞気味に推移した。その背景としては,次のような要因を考えることができよう。まずソ連は,「緊張緩和」の意欲を繰り返し強調しながらも,米国大統領選挙の帰趨に確固たる見通しをつけえなかつたこと等より,対米関係に慎重な立場で臨んだということが考えられる。他方,フォード政権(当時)については,ソ連の軍備増強やアンゴラ進出に対する米国国内の警戒心の高まりもあり,戦略兵器制限交渉(SALT-II)において安易な妥協を行つたという批判を招くことは大統領選挙を控えて不得策であるとの政策的判断が働いたこと,また,選挙に敗れた後は,もはや米ソ関係につき大きな行動の余地がなかつたこと等の事情を考えることができよう。

 これに加え,米ソ2国間の個々の問題に関する両国の主張・利害の相違も,容易に解消されうる性質のものでなかつた。

 すなわちSALT-IIは,主として巡航ミサイルとバックファイアーの取扱いをめぐつて進展せず,米ソ貿易協定についても最恵国待遇問題をめぐつて行き詰まり,解決のきつかけのないままに推移した。またソ連の対米石油輸出に関する交渉も,3月には中断された。

 ただし,両国は,当面の関係停滞はやむをえないとしつつも,両国関係における緊張緩和の基調を維持することに努めた。5月に平和目的地下核爆発に関する協定が締結されたのも,米ソ双方によるこうした努力の一環であつたとみられる。

 カーター新政権は,内外の人権問題を重視するという基本的立場から,ソ連に対しても体制批判派擁護の姿勢を示し,これに対してソ連の反発が一時顕著であつた。しかし,SALT-II妥結に対する両国首脳の関心は高く,そのための話し合いは引き続き進められている。

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(ロ) 米中関係

 米中関係正常化の問題は,76年においても具体的な進展を見なかつた。このような関係停滞の背景には,台湾問題に関する双方の立場が不変であつたという事情がある。これに加えて76年においては,大統領選挙を控えたフォード政権(当時)の国内的配慮,及び指導者の交代に象徴されるような中国内政における急激な変化等,双方における国内事情も考慮する必要がある。

 なお,カーター大統領は,米中関係改善に意欲を示しながらも,台湾問題に関しては慎重な姿勢をとつている。

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(ハ) 中ソ関係

 中ソ関係は,実務関係において目立つた動きがなく,また,イデオロギー面においても従来からの対立が継続したままであつた。硬直化した両国関係に関し,毛沢東主席(当時)の死を契機として改善に向う可能性を予想する向きもあつたが,中国は,引き続き反ソ路線を堅持し,また,中国非難を控えたソ連も,両国関係改善は中国の出方如何によるという姿勢を崩さず,11月再開された国境交渉も何ら進展のないまま77年2月には中断され,結局両国関係は,何ら改善されることなく推移した。

 また,国際場裡における両国の対立は,75年に引き続き厳しいものがあつた。

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(ニ) 各国の国内情勢

(a) 米  国

 建国200年に当たつた76年の米国内政は,大統領選挙を中心に展開し,主要な政策決定は選挙後に持ち越された。大統領選挙では,8年ぶりに民主党が勝利を収めたが,その勝利の主な原因としては,ヴィエトナム戦争,ウォーターゲート事件等を経験した米国国民の間に新しい政治を求めるムードが高まり,政治への信頼回復を強調し,新鮮な印象を与えたカーター候補が,ヴィエトナム戦争終了後,党内対立を癒した民主党のほぼ一致した支持を背景に,接戦ながら多くの有権者を引きつけたことが考えられる。

 77年1月,第39代大統領に就任したカーター大統領は,国民の支持を得ることを重視しつつ,その政治基盤の強化に努めてきた。

 なお76年第1四半期には回復傾向が顕著であつた米国経済は,その後再び成長率が鈍化し,失業率及び物価も上昇し,76年の貿易収支も前年の大幅な黒字から一転して大幅の赤字となつた。ただし,11月以降,生産,小売等は回復に向かい,失業率も低下するなど,経済動向には明るい兆候が見られるに至つた。

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(b) 中  国

 中国内政は,周恩来総理(当時),朱徳全国人民代表大会常務委員長(当時)及び毛沢東主席(当時)という革命の最高指導者の死去が続き,また,その間における天安門事件の発生とトウ小平副総理(当時)の失脚等によつて大きな転機を迎えた。そして10月に至り,王洪文,張春橋,江青及び姚文元のいわゆる「4人組」が排除されるとともに,華国鋒主席の任命が決定された。新たに発足した華国鋒体制は,「4人組」批判運動を強力に展開するとともに,党内団結の回復と経済の再建・建設に力を注いだ。

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(c) ソ  連

 ソ連においては,2月~3月の第25回党大会以後も人事及び政策につき大きな変化は見られなかつた。経済面では,75年に大凶作を経験した農業において,穀物が大豊作を記録した。工業も76年計画を超過達成したが,この点に関しては,目標自体が低い水準に抑えられていたことも理由の一つと考えられる。また,ソ連経済の弱点のひとつである低い労働生産性には十分な改善は見られなかつた。

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(2) 各地域の動向

(イ) 朝鮮半島情勢の推移

(a) 南 北 関 係

 朝鮮半島情勢は,8月の板門店事件を契機に緊張が高まつたものの,南北双方及び関係大国の慎重な対処,行動により,事態が深刻化することは回避された。

 一方南北対話は,75年に中断されたまま今日に至つており,南北間関係は,依然として膠着状態を続けた。

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(b) 対 外 関 係

 外交面では,非同盟諸国をはじめとする諸外国に対する韓国及び北朝鮮の外交工作の帰趨が注目された。まず,北朝鮮については,8月の非同盟諸国首脳会議における外交工作が不調に終り(朝鮮問題に関する北朝鮮提案に20カ国以上が留保),また,国連においては,いつたん提出された北朝鮮支持派の決議案が,9月の総会開会直前に撤回されるという事態がみられた。

 韓国は,引き続き非同盟穏健派諸国を中心に朝鮮問題解決のための現実的アプローチの必要性を訴えた。

 なお,カーター新大統領は,就任後,かねて選挙戦中からの公約であつた在韓米地上軍撤退を公約どおり進めることを再確認している。

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(c) 国 内 問 題

 韓国は,民主救国宣言事件に見られるように,反政府活動に対して強い姿勢で臨みつつ,引き続き自主国防体制の強化と経済建設の努力を続けた。北朝鮮は,対外債務を抱えており,また,次期経済計画が未発表であること等から,依然として経済的苦境にあつたと見られる。

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(ロ) インドシナ情勢の推移

(a) 内政の動向

 インドシナ3国は,76年において,それぞれの国の事情に従つた社会主義体制の整備に努めた。すなわちヴィエトナムは,7月南北統一を正式に実現し,12月の労働党大会において統一後の社会主義革命路線を決定するとともに,第2次5カ年計画を策定した。ラオスは,75年12月に全国人民代表大会で採択された「行動計画」を指針としつつ社会主義建設を進めた。またカンボディアは,1月に憲法を公布し,4月の人民代表議会で選出された政権の下で自力更生を旨とする独自の政策に基づく復興を進めた。

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(b) 対 外 関 係

 インドシナ3国の対外政策に関して注目されたのは,これら3国と中ソ両国との関係であつた。ヴィエトナムは,基本的には対ソ・対中自主路線を維持しつつも,援助力において中国にまさるソ連との関係がより緊密化する傾向がうかがわれた。ラオスも中・ソ等距離を志向しているが,実際にはソ連,ヴィエトナムの影響力が強い。これに対してカンボディアは,ソ連との関係を調整することなく,また大使の交換も行わないまま,中国寄りの姿勢を維持した。

 インドシナ3国と東南アジア諸国連合(ASEAN)の各国及びビルマとの関係の推移も注目された。ヴィエトナム及びラオスは,機構としてのASEANに対して警戒的な姿勢をとり続けた。しかしヴィエトナムは,二国間関係では,7月に対東南アジア諸国政策の4原則を明らかにするとともに,同月フィリピンと,また8月にはタイと,それぞれ外交関係を樹立する等,関係改善の意欲を示した。一方カンボディアは,全体的には閉鎖的ともいいうるその対外姿勢に特に大きな変化は見せなかつたが,4月以後,ビルマ,マレイシア,フィリピン,シンガポールと外交関係を樹立した。また77年3月には,イエン・サリ副首相がマレイシア,シンガポール,ビルマを訪問するなど,近隣諸国に対して友好の姿勢を示し始めたことが注目された。

 なお,ヴィエトナムの国連加盟は,8月及び11月の安保理で審議されたが,米国が拒否権を行使し,実現しなかつた。

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(ハ) 東南アジア諸国(インドシナ3国を除く)の動き

(a) 域 内 関 係

 東南アジア諸国は,76年において引き続き国家としての強靭性の強化に努めた。ASEAN諸国は,2月に同機構設立以来初のASEAN諸国首脳会議を開くなど,域内の連帯強化に向けての努力を強めた。

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(b) 各国の対外関係

 東南アジア諸国は,インドシナ情勢の変化にどのように対応するかが注目された。ASEAN諸国は,76年中,インドシナ諸国との関係を再調整することに引き続き努力を払つた。

 中国及びソ連との関係に関しては,フィリピンが6月にソ連との間に国交樹立を行つた。しかし各国は,基本的に中ソ両国に対する慎重な態度を崩さず,従つて,目立つた動きは見られなかつた。

 ASEAN諸国と米国の関係の推移も注目された。これら諸国の指導者は,米軍のヴィエトナムからの撤退という状況を踏まえ,タイからの米軍撤退等に見られるように,自主独立外交路線を強めたが,域内における米国の役割に対する期待は根強く,大統領選挙後の米国の対東南アジア政策の動向には,引き続き大きな関心を示した。

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(c) 各国国内情勢

 各国国内情勢中,特に目立つた点を挙げれば,次のとおりである。まず,フィリピンでは,10月の国民投票により,戒厳令の継続と暫定立法議会の創設についての憲法の一部改正が成立し,マルコス政権の基盤が一層強固なものとなつた。マレイシアにおいては,1月にラザク首相(当時)が死去し,フセイン副首相(当時)が首相となつたが,その政策に大きな変化は見られなかつた。他方,タイにおいては,10月,軍部がクーデターを起してターニン政権を擁立し,官選議員から成る国政改革議会を設置するに至つた。シンガポールでは,12月に総選挙が行われ,与党人民行動党が,三たび全議席を独占して,現政権の安定性を示した。インドネシアでは,77年5月の総選挙に向けて,国内世論が活発化する動きが見られ,またビルマでは,国軍内の若手士官がクーデターを企てるなどの動きがあつたが,いずれも政権の存続を脅かすものとはなつていない。

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(ニ) 南西アジア情勢

(a) 各国内政の動向

 インド亜大陸諸国の国内政治・経済情勢は,76年を通じ,内在的に種々の不安定要因を含みつつも,大きな混乱はなく一応の安定を維持した。インドにおいては,非常事態宣言の下における政治体制を合法化することを意図した憲法改正法案が11月に議会を通過し,また,バングラデシュでは,11月,ゼアウル陸軍参謀総長が戒厳司令官の地位に就任し,その権力基盤を一層強化した。

 しかし,77年に入り,3月に行われたインド及びパキスタンの下院総選挙の結果等にみられるように,南西アジア諸国の国内情勢はひとつの転換期を迎えつつある。すなわちインドでは,ガンジー首相(当時)の率いるコングレス党が野党連合のジャナタ党に大敗し,インド史上初の非コングレス党政権であるデサイ政権が誕生した。他方,パキスタンでは,ブットー首相の率いる人民党が大勝したが,野党連合(PNA)は,選挙に不正があつたとしてブットー首相の辞任と総選挙のやり直しを求める運動を起したため,パキスタン内政は,不安定な局面を迎えるに至つた。

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(b) 各国の対外関係

 域内諸国間関係においては,76年5月にインド・パキスタン間の外交関係が正常化したのをはじめ,パキスタン・バングラデシュ関係等についても関係改善が進んだ。なお,77年3月に発足したインドのデサイ政権は,域内諸国との友好善隣関係を進めるとの姿勢を示している。

 また,過去14年間にわたり対立ないし冷却状態が続いていた中印関係においては,関係改善の兆しがみられ,76年4月に大使交換につき合意された。

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(ホ) 大洋州地域の情勢

 75年末の総選挙で政権を獲得した豪州の自由党・国民地方党連合政権及びニュー・ジーランドの国民党政権は,政権交代の原因ともなつた経済困難の克服に力を注いだ。しかしながら,インフレ問題等経済情勢の回復は必ずしも芳しくなく,両国は,76年11月末相次いで通貨の切下げ措置をとつた。

 外交面では,豪州,ニュー・ジーランドともに,前労働党政権に比して対米協調を重視し,同時に日本,ASEAN,南太平洋諸国との協力関係の推進,更には中国との友好関係維持にも努めた。

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(ヘ) 西  欧

 76年には,多くの国において総選挙(スウェーデン,西独,マルタ,イタリア,ポルトガル)あるいは首相交替(英国,フランス)があつた。特にイタリアにおける共産党の進出とスウェーデンにおける社会民主党の敗退が注目された。またスペインでは,77年6月の総選挙実施をめざす民主改革が進み,ポルトガルにおいても新憲法が制定されて民主化への基盤が整えられてきた。

 経済面では,欧州共同変動相場制からの仏フランの再離脱,英ポンド及び伊リラの下落,独マルク切上げ等の通貨問題に象徴されるように,西独等経済力の強い国と英国,イタリア等経済力の弱い国との間の格差が拡大し,その是正問題は,欧州共同体の主要問題として強く意識されるに至つた。

 NATOは,特にワルシャワ条約軍の軍備増強に強い憂慮を示し,加盟国間の協力強化,在欧米軍増強,武器の標準化等体制の維持及び強化に努めた。

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(ト) 欧州の東西関係

 欧州の東西関係は,75年には欧州安全保障協力会議(CSCE)首脳会議があつたが,76年には大きな進展がなかつた。すなわち東西関係の焦点のひとつは,CSCE最終文書の合意事項特に第3バスケット(人と情報の交流)の実施を求める西側の主張に東側が如何なる反応を示すかにあつたが,東側は西側プレスへの反論キャンペーンあるいは西側ジャーナリストの旅行制限緩和等硬軟両様の対応を見せた。また東側は,環境・運輸・エネルギー全欧協力会議の開催,核兵器の先制不使用等を提案したが,西側の反応は冷たく,夏以降論議は盛上りを欠いた。

 欧州における東西関係のいまひとつの焦点である中欧相互均衡兵力削減交渉(MBFR)は,76年も継続されたが,具体的進展は見られず,むしろ東側の軍事的増強努力が継続したことに対する西側の警戒心の高まりが顕著であつた。

 経済面では,2月にコメコン側から対欧州共同体(EC)包括協定締結の提案が行われ,これに対してEC側は,11月,専ら情報交換を対象とする協定の交渉を行うことを逆提案した。また,キッシンジャー米国務長官(当時)は,6月に開催された経済協力開発機構(OECD)閣僚理事会において東西経済関係再検討に関する提案を行つた。

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(チ) 中 東 地 域

 アラブ諸国内部においては,第2次シナイ協定等をめぐつて既に対立がみられていたが,この対立は,レバノン紛争に対するシリアの介入によつて更に複雑かつ深刻なものとなつた。また,中東和平に向けての話し合いには,新たな進展がなかつた。

 75年4月に勃発したレバノン内戦は,76年に入つて,キリスト教徒と回教徒との間の抗争にパレスチナ解放を目指す諸勢力,更にはシリアをも巻き込む複雑な紛争に発展した。

 こうした状況の下で,アラブの対立激化を憂慮するサウディ・アラビア等のイニシアティヴにより,10月,アラブ6首脳会議ついで第8回アラブ首脳会議が開催され,レバノンにおける停戦及び平和維持軍の派遣,パレスチナ解放機構(PLO)の地位に関するカイロ協定の遵守等が合意されることにより,レバノン紛争は一応の鎮静をみるに至つた。

 77年に入つてからは,3月にアフリカ・アラブ首脳会議が開催され,アフリカ諸国は,中東問題に関するアラブ側の立場を支持する態度を確認した。また,PLOもアラブ諸国との意見交換を活発に行い,3月にはパレスチナ国民評議会を開き,現実的な路線をとる兆しを見せるとともに,アラファト体制の強化を図つた。

 こうしたアラブ側の動きに対し,国際的な調停の動きも活発となつてきた。すなわち,ワルトハイム国連事務総長は,ジュネーヴ会議再開実現のため,77年2月に中東諸国を歴訪した。また,米国のカーター新政権も,同じく2月にヴァンス国務長官を中東に派遣し,各国首脳の意見を聴取するとともに,3月以降,関係国首脳を順次ワシントンに招き,意見交換を行つている。

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(リ) アフリカ地域

 76年にアフリカ情勢は,非自治地域独立運動特に南ローデシア問題をめぐつて,国際的にも大きな関心を集めた。

 すなわち南ローデシアでは,アンゴラにおけるアンゴラ解放人民運動(MPLA)による政権確立の影響もあり,白人少数政権打倒をめざす黒人ゲリラ活動が活発化した。事態の悪化を懸念した米国は,キッシンジャー米国務長官(当時)を派遣し,政治的解決をめざす努力を行い,その結果,スミス政権は2年以内の多数支配移行を認めるに至つた。その後,黒人解放勢力,議長国英国及びスミス政権の間でジュネーヴ会議が開催されたが,暫定政府の構成等をめぐつて合意が得られず,会議は中断された。

 ナミビアでは,南西アフリカ人民組織(SWAPO)が南アフリカ政府との直接交渉を要求していたが,これに対し南アフリカ政府は,78年末のナミビア独立を認めるなど,76年半ば頃より姿勢を若干柔らげるに至つた。

 南アフリカ共和国においては,6月以降黒人暴動が頻発したが,アパルトヘイト政策に基本的な変化は見られなかつた。

 非自治地域として残されていた地域に関する動きとしては,6月にセイシェルが英国より独立したことが挙げられる。

 なお,アフリカ諸国の経済動向としては,ナイジェリア,ガボンなどの産油国,ケニア象牙海岸などのコーヒー産出国等一部諸国を除いては,一次産品輸出の低迷と輸入品価格の高騰による国際収支の逆調及び物価の上昇により,引き続き国内経済の停滞に悩む国が多かつた。

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(ヌ) 中南米地域

 76年における中南米諸国の動きの中で注目されることは,アルゼンティンにおいて軍部が政権を掌握し,南米南部における軍部支配の傾向が強いことがうかがわれること,また,一般に経済運営の方式として合理性をより尊重する傾向が出てきたこと等が挙げられよう。

 キューバは,2月の新憲法の制定によりソ連への傾斜を一層明確にし,ソ連その他のコメコン諸国との協調を主軸とする外交を展開した。しかしながら,経済面では砂糖価格の暴落から経済建設の資金不足に悩んでおり,第1次5カ年計画の遂行もその初年度においてつまずきを見せるに至つた。

 米国は,76年において,新通商法の適用,パナマ運河交渉につき中南米諸国の意向を尊重する方針の表明,キッシンジャー米国務長官(当時)による中南米10カ国訪問等,73年に同長官の提唱した「新しい対話」外交を再開し,中南米諸国との関係促進のための努力を強めた。

 他方,中南米諸国と社会主義諸国との関係においては,ソ連のペルーに対する戦闘機供与が目立つた程度で,全体としては低調であつた。ただし,ソ連のヴェネズエラへの接近は,ソ連のエネルギー戦略,対開発途上諸国外交の一環として注目された。

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2. 主要な多数国間問題

 

(1) 先進民主主義諸国の経済

 先進民主主義諸国の経済は,76年上期の回復傾向のあと,年央頃からそのテンポがかなり鈍化した。

 先進民主主義諸国の経済においては,国によつて景気回復速度にかなりの跛行性が見られ,また,個人消費及び設備投資の不振が景気回復の制約となつた。このような状況の下で一部の国においては,景気回復に伴いインフレ再燃の懸念も生じた。また景気回復が進まない一部の国においては,インフレ,高い失業率,国際収支の悪化という苦しい状態が続いた。国際金融面では,このような各国の経済力格差の拡がりを反映して,一部通貨の動揺が起つたし,また通商面でも,一部の国において,大量失業等の困難な国内情勢を背景に,保護貿易主義的な動きが見られるに至つた。

 6月にプエルト・リコで開催された主要国首脳会議は,75年の第1回会議を受けて,各国間の協調を強めることにより国際経済上の諸問題に対して有効に対処せんとする先進民主主義諸国の共通の意思を確認するものであつた。

 なお域内の一部に深刻な経済問題を抱える欧州共同体(EC)とわが国の間で貿易収支不均衡問題が顕在化したが,自由貿易の原則にのつとり,相互協力によつて問題の深刻化を回避するための努力が続けられた。

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(2) 南 北 問 題

 南北間の対話の基調は,76年においても維持され,特に75年12月に開始された国際経済協力会議(CIEC)や5月の第4回国連貿易開発会議(UNCTAD)総会において,南北問題全般にわたる検討が行われた。しかしながら,8月の非同盟諸国首脳会議においても示されたように,開発途上国側は,常に「新国際経済秩序」の樹立という最終目標を掲げつつ,「UNCTAD一次産品総合計画」の採択を求めるなど,その要求はむしろより具体的になる傾向を強めた。

 このような状況の下で,76年中に予定されていたCIEC閣僚会議は,同年中に開催しても双方の合意が達成されない可能性も危惧された結果,開催されず,CIECは終了するに至らなかつた。

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(3) 新しい海洋秩序の形成

 76年においては,第3次国連海洋法会議の第4会期及び第5会期がニューヨークで開催された。第4会期では,第3会期に議長より提示された単一交渉草案を基礎に審議を行い,その改訂版が作成された。第5会期では,改訂単一草案の中で意見の対立の大きい深海海底開発問題,経済水域の法的性格,大陸棚の外縁の定義等の問題について交渉が行われた。しかし,特に深海海底開発問題をめぐつて,先進国と開発途上国との対立は大きく,会議は,第6会期を77年夏に開催することを決めたのみで,具体的成果を収めることなく終了した。

 同会議の難航は,漁業資源保護の観点からの沿岸国による管轄権拡張の動きを急速に促進することとなつた。これに対し,遠洋漁業や国際海運の利益保護の見地から,わが国等の諸国は,沿岸国による管轄権の拡張はあくまで海洋法会議を通ずる国際合意によつて行われるべきことを主張した。しかし,米国等の主要国による200海里水域設定が口火となつてEC諸国,ソ連等も同様に200海里水域の設定に踏み切り,200海里時代の到来が趨勢となつた。またこれに伴い,200海里水域を前提とした2国間漁業協定が相次いで締結されることとなつた。

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(4) 核拡散防止問題

 1974年にインドが核実験を行つて以来,核拡散防止のための規制を強めるべきであるとする主張が米国を中心に高まつていたが,76年10月フォード米国大統領(当時)は,かかる主張の強まりを背景に,核兵器製造能力につながる使用済み核燃料の再処理等原子力の平和利用問題について厳しい政策を発表した。また,カーター大統領は,フォード政権以上に厳しい態度でこの問題に臨んでおり,核拡散の危険を回避しつつ如何に核エネルギーの平和利用を進めるかという問題が国際的に大きな焦点となるに至つた。

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