75年においても,アフリカの政情は,74年に引続き非自治地域の独立の動きを中心に進展した。まず,ポルトガル施政地域の独立が相次ぎ実現し,モザンビーク,カーボ・ヴエルデ及びサントメ・プリンシペがそれぞれ新国家として誕生した。また,アンゴラにおけるポルトガルの施政も終了したが,解放運動団体間の争いに加え,諸外国の介入もあつて,アンゴラは内戦状態に陥つた。このほか,仏領コモロ諸島が一方的に独立宣言を行い,OAU及び国連に加盟した。更に,スペイン領サハラにおいては,モロッコが平和行進を行う等,同地の将来をめぐり緊張が高まつた。
一方,南ア政府が74年末に打ち出した対アフリカ緊張緩和政策は,75年を通じ概ね引続き推進された。また,南ローデシアの白人政権と黒人解放組織(ANC-アフリカ民族評議会)との間に話合いの端緒が開かれたが,両者間の立場の差,ANCの分裂等により,実質的進展はなかつた。
経済面においては,一次産品の価格下落及び世界的不況の波がアフリカ諸国に深刻な影響を及ぼし,一部アフリカ諸国の政情不安をもたらした。
このほか,西アフリカ諸国経済共同体条約及びEC-ACP(アフリカ・カリブ海・太平洋諸国)間のロメ協定がそれぞれ署名された。
東部・中部・西部・南部における各国の政情とわが国との関係のうち特記すべき事項は次のとおりである。
エティオピアでは,銀行,金融機関及び保険業,特定企業(日系5社を含む),農地,市街地及び賃貸家屋等の国有化が順次断行された。また,軍事政権は,3月,帝政を廃止し,将来の政体は国民が決定する旨布告を発表した。その後8月27日には,ハイレ・セラシェ前皇帝が病死した。エリトリア地方における解放勢力と政府軍との間では,1月から3月にかけ武力衝突が激化した。軍事政権は,8月にエリトリア問題検討のための閣僚委員会を設立する等問題解決に努力したが,局面打開には至らなかつた。仏領アファール・イッサの独立問題をめぐり,ソマリアとの角逐が激しくなり,両国間の緊張は高まつた。
ソマリアでは,旱魃に伴つて生じた難民の救済とその長期的解決策としての定着計画を精力的に実施した。
ケニアでは,一連の爆弾事件や有力政治家カリウキ議員の暗殺等の事件が発生した。これらの事件を契機として反政府の動きがみられたが,ケニャッタ大統領は強硬な措置をもつて対処し難局を切り抜けた。
わが国との経済協力関係では,9月に新ニヤリ橋計画に対する49億円の円借款の交換公文署名が行われた。また,わが国は,2月,ケニアのコレラ禍に対し,人道的見地から1,500万円相当のコレラ・ワクチンほか医薬品の緊急援助を供与した。
タンザニアでは,世界的不況等の影響による経済的困難を背景として,第3次5カ年計画の1年繰延べを決定した。そのような中で10月行われた大統領選挙ではニエレレ大統領が92%の支持を得て再選され,ウジャマー村建設,タンザニアナイゼーション等の社会主義的施策が引続き推進された。
ウガンダではアミン大統領の元帥昇格が宣言され,同大統領は軍の掌握を更に権威づけると共に,OAU元首会議(カンパラで開催)では議長に就任した。
ザンビアでは,土地私有制の廃止を含む大幅な内政改革を実施した。しかし,銅価の低迷と輸送問題の深刻化により経済状態は悪化した。これにアンゴラ内戦の影響等が加わり,76年1月には,非常事態宣言を行うに至つた。
わが国との関係では,75年2月,ムワンガ外相(当時)が公賓として来日し,わが国要人との相互理解を深めた。また,8月には,わが国にザンビア大使館が開設された。
マダガスカルでは,2月ラチマンドラバ首席の殺害事件の発生とこれに対処するアンドリアマハゾ将軍を長とする軍事執政官府の成立等内政不安が続いたが,6月,ラチラカ海軍中佐が最高革命評議会議長(国家首席)に就任して事態を収拾した。更に,12月,新憲法草案,革命憲章についての人民投票が行われ,国民の圧倒的支持が与えられた。この結果,12月31日,新憲法が公布され,マダガスカルは,国名もマダガスカル民主共和国と改めると共に,祖国,革命,自由をモットーとし,社会主義革命を原則とする新たな国造りの方向に向うこととなつた。
モーリシャスでは,政情は安定的に推移したが,2月には,大型サイクロンに見舞われ,大きな被害を被つた。わが国は,これに対し,4,000ドルの見舞金を贈つた。
ザイールにおいてはいわゆる「ザイール化措置」及び「急進化措置」の実施に当り困難が生じ,また,主として銅価の下落により外貨準備が急速に悪化する等の状況がみられた。
ガボンでは,石油価格の高騰と石油の増産により,国家経済は一大好況時代を迎えた。かかる経済事情を背景にトランス・ガボン鉄道の建設に着手したが,わが国は,これに協力し,7月,ボンゴ大統領訪日の際,30億円の円借款供与のための協定が署名された。
コンゴーでは,12月には,労働党政治局員の総辞職と革命特別委員会の設立及び大幅な内閣改造が行われ,マルクス主義思想に基づく政策が一層鮮明となつた。
中央アフリカでは,3月,ジスカール・デスタン仏大統領の出席も得て「仏語圏アフリカ諸国頂上会議」がバンギで開催された。
ルワンダでは,ハビャリマナ大統領が,7月,国の唯一かつ最高の機関として,「発展のための国民革命運動」を創設する等,国家機構に大きな変更を加え,ハビャリマナ体制の強化を図つた。
象牙海岸では,75年も引続き高度経済成長路線が維持された。11月の大統領選挙では,ウフェ・ボワニ大統領が四選された,対外的には,対話・穏健路線は変らず,就中,9月のドナ・フォロゴ情報大臣の南ア公式訪問は注目された。
ガーナでは,アチャンポン政権が,政治経済的困難に対処するため,大規模な内閣改造を行うと共に,内閣の上に立つ最高軍事評議会を創設した。
わが国の対ガーナ債権処理問題は,3月13日これに関する交換公文の署名により終結をみた。
ナイジェリアでは,7月,クーデターが発生し,ゴウオン国家主席が失脚し,モハメッド政権が誕生した。新政権は,国内体制建直しのための施策を積極的に進めていたが,76年2月,クーデター未遂事件が発生し,モハメッド主席は射殺され,オバサンジョ総参謀長が新たに主席となつた。経済面では国際収支が悪化し,この結果第3次開発計画の手直し,インフレ抑止等の経済的な諸措置がとられた。
わが国との関係では,アコボ石油・エネルギー大臣をはじめ,開発計画に関連する要人の来日及びわが国調査団の派遣等が活発であつた。また,ナイジェリアは,10月にはガット35条の対日援用を撤回した。
リベリアでは,10月の大統領選挙で,トルバート大統領が再選された。対外関係では,対話路線を実践し,特に,2月,トルバート大統領が,モンロヴィアを来訪した南アのフォルスター首相と会談したのが注目された。
わが国は,2月,リベリアの電気通信施設拡張のため,18億円に上る円借款につき,交換公文の署名を行つた。
ギニアでは,セク・トーレ大統領の強力な指導体制が続いた。対外的には,OAU内急進派の姿勢を貫く一方,フランスとは相互に外交代表の交換を実現した。
セネガルは,9月,わが国に大使館を開設し,12月には,対日ガット35条の援用を撤回した。
モーリタニアでは,内閣組織の一部改定を行い,党と国家組織との一元化が図られた。わが国との関係では,モーリタニアは,1月,対日ガット35条の援用を撤回した。
ガンビアでは,ジャワラ大統領が訪問外交等によつて幅広い外交政策を実施したが,わが国にも6月非公式に訪問した。わが国からは,水産ミッションがガンビアに派遣された。
上ヴォルタでは,12月のゼネストを頂点に国内情勢は不安定であつたが,対外的にはマリとの国境紛争を解決した。
チャードでは,4月,軍部によるクーデターが発生し,マルーム将軍を首班とする軍事政権が成立した。
ニジェールでは,クンチェ政権が2度のクーデター計画に見舞われた。わが国との関係では,ムンケラ外務・協力担当国務大臣(当時)が訪日(11月)し,わが国政財界の要人と会談した。
カメルーンでは,アヒジョ大統領が4選されたほか,憲法の一部改正が行われた。
ダホメは,11月30日,国名をベナン人民共和国と変更した。
西サハラでは,モロッコによる西サハラ向け平和行進(11月6日~9日)により,同地域をめぐる情勢は一段と緊張を増した。しかし,スペインの西サハラにおけるプレゼンスを76年2月末までに終了することを骨子としたモロッコ,モーリタニア,スペイン間のマドリッド協定(11月14日)に従い,スペインは76年2月26日をもつて西サハラからの撤退を完了した。かかるマドリッド協定に対し,現地の解放勢力であるポリサリオ戦線及びアルジェリアは反発し,ポリサリオ戦線は,76年2月27日,サハラ・アラブ民主共和国の独立宣言を行つた。一方,モロッコ,モーリタニアは,同年4月14日,西サハラを分割併合すべく,両国間の国境線を確定する協定を締結した。
南アフリカ共和国は,アパルトヘイト政策に対する国際世論の非難に対処するため,74年に引続き,ホテル,レストラン等の非白人への一定限度内の開放等の調整措置をとる一方,反対派に対しては,厳しい統制,規制措置を適用した。
対外的には,デタント政策の下,モザンビークに対しては,内政不干渉政策を維持したほか,南ローデシア問題では,スミス政権に圧力を行使し,平和的解決のため努力を払つた。また,穏健派アフリカ諸国との間で首脳訪問,招待外交が展開された。
しかし,アンゴラ内戦に際しては,76年はじめにかけ,武力を含む介入を行い,世界の世論の非難を浴びた。また,第30回国連総会への参加を自発的にとりやめた。
南ローデシア問題解決のため,8月末,スミス首相とムゾレワANC(アフリカ民族評議会)議長との間で制憲会議が開催されたが,見るべき成果なく散会した。ANCは,9月に急進派と穏健派に分裂したが,制憲会議は,穏健派ヌコモ議長とスミス首相との間でその後何回か開催された。しかし,76年3月19日に至り,事実上決裂した。
わが国は,国連事務総長の要請に応え,7月,南ローデシアへの集団旅行自粛を周知徹底するための措置をとつた。
ナミビア問題について,フォルスター南ア首相は,5月20日,(イ)南アには領土的野心のないこと,(ロ)領土保全の尊重,(ハ)OAU,国連関係者との対話の用意があること,(ニ)SWAPO(南西アフリカ人民組織)の代表権否認の4点を骨子とする声明を発表した。また,ナミビア在住諸部族からなる「制憲会議」が発足し,9月12日には,3年以内の独立を目指した「意図宣言」を発表した。これよりさき,国連ナミビア理事会のミッションが,5月来日し,わが国要人とナミビアの将来につき意見交換した。
ポルトガル施政地域の一つであるモザンビークは,6月25日にモザンビーク人民共和国として独立した。同国は,農業開発を最優先する社会主義国家建設の努力を行つている。同国は,76年3月3日には,南ローデシアとの間に戦争状態が存在することを宣言すると共に,国境閉鎖,通信・交通の断絶を声明し,これを直ちに実施に移した。
わが国は,6月,自然災害の被災者及び帰国難民の救済のため,国連難民高等弁務官を通じ1億2,000万円の緊急援助を行つた。また,6月25日のモザンビーク独立と同時に同国を承認した。
他のポルトガル施政地域の内,カーボ・ヴエルデは7月5日,サントメ・プリンシペは同月12日それぞれ独立し,わが国は,それぞれ11日,22日にこれら諸国を承認した。
アンゴラでは,1月31日に暫定政府が発足し,11月11日に独立する予定となつていた。しかし,暫定政府発足後,3解放運動団体(MPLA,FNLA,UNITA)間の対立により暫定政府は機能し得なくなつた。このような状況の下で,11月11日には,ポルトガルがアンゴラに対する施政を終了した。
これに対し,11月11日FNLA及びUNITAは,アンゴラ人民民主共和国の独立を,また,MPLAは,アンゴラ人民共和国の独立をそれぞれ宣言した。かかる両者の対立に加え外国勢力の介入もあり,アンゴラは内戦状態に陥つた。しかし,76年2月には,アンゴラ人民共和国政府がアンゴラを実効的に支配するに至つた。
わが国は,76年2月20日,アンゴラ人民共和国を承認した。