第6節 ソ連・東欧地域
1. ソ 連
(イ) 内 政
ブレジネフ政権にとつて1975年は起伏の多い年であつた。
すなわち,新年冒頭からブレジネフ書記長の中東訪問延期,あるいは同書記長の健康状態をめぐつて種々の臆測が流れる一方,甚しい農業不振をはじめとする経済停滞の打開に多大の努力が必要とされた。
75年4月,党中央委総会はブレジネフ批判派とみられていたシエレービン政治局員を解任するとともに,第25回党大会の開催日を76年2月24日と決定し,いわゆる緊張緩和外交路線を再確認した。その間,緊張緩和外交推進と裏腹にイデオロギー面での活動活発化が図られた。欧州安保協力首脳会議の終了に際しては,党政治局,最高会議幹部会,大臣会議の合同会議(8月)が,これを緊張緩和の新段階と評価する一方,欧州における協力拡大がイデオロギー活動の展開を前提とする旨国内の注意を喚起した。また,滞仏中の作家マクシモフの国籍剥奪(1月),ノーベル平和賞受賞者サハロフの出国不許可(11月)など反体制派への締めつけを意味する事例が生じた。
75年初頭,党中央委は第9次5カ年計画の首尾よい遂行をめざして全国的な社会主義競争の展開,労働生産性の向上を呼びかけたが,消費財生産優先を打出した野心的な第9次5カ年計画は,72年の凶作に加えて75年の農業不振のため大幅な後退を余儀なくされた。また,工業生産の増加率は対前年比7.5%であつたが,5カ年計画期間を通じると第24回党大会の指令の下限をかろうじて達成(43%)したにとどまり,その他の重要指標においても計画に達しないものがあつた。なお,前年に引続き国防力充実の努力が継続された。
以上のごとき情勢の下に,75年12月1日,中央委総会は第25回党大会の議題及び報告者を決定し,同月14日,第10次5カ年計画の基本方向に関する草案を発表し各級党組織その他の討議に付した。
第25回党大会は予定どおり76年2月24日開催されたが,ブレジネフ書記長の中央委報告のうち内政面での力点は経済問題及びイデオロギーの引締めに置かれている。またコスイギン首相は第10次5カ年計画を中心とする経済報告を行つた。両者の報告を通じて第10次計画では経済の均衡ある安定成長,生産財生産重視への政策転換,農業の機械化,土地改良及び化学化を中心とする農業振興,並びに先進資本主義諸国との貿易の積極化などにより国内経済の建て直しをめざしている。
なお,ブレジネフ書記長はその報告の中で,多年の懸案である新憲法草案については慎重審議中であると述べ具体的提案はなされなかつた。また,党大会における指導部人事の結果はブレジネフ書記長の指導的地位の一層の強化を示したが,従来から注目されていた指導部の若返りは見送られた。ただ,農業不振との関連で注視されたポリャンスキー農相は政治局員として再選されず,次いで農相の地位からも解任された。
(ロ) 外 交
対外政策の面では,第24回党大会以来のいわゆる緊張緩和政策の推進に主たる努力が向けられた。欧州安保協力会議については幾多の曲折を経て,首脳会議の開催と最終文書の調印に漕ぎつけ,国境不可侵等の諸原則に対する関係各国の承認をとりつけることに成功した。
また,ブレジネフ書記長は,76年2月の第25回党大会において,新平和綱領を打出し,国家関係における緊張緩和路線の継続を確認して西側諸国に対する平和攻勢の姿勢を明らかにする一方,緊張緩和は階級闘争を放棄するものでないとしてイデオロギー面での共存を否定し,民族解放闘争支援の立場を明確にしている。
(a) 対 米 関 係
75年1月,ソ連在住ユダヤ人の出国問題と関連づけられた米国の新通商法が発効するや,ソ連は72年に調印された米ソ貿易協定の実施見合せを米国に通告した。また,74年11月のウラジオストック合意に基づくSALT-II交渉も停滞し,ブレジネフ書記長の訪米も75年中は遂に実現しなかつた。
75年中のハイ・レベルの会談としては,ジュネーヴにおけるキッシンジャー・グロムイコ会談(2月,5月,7月),ヘルシンキにおけるフォード・ブレジネフ会談(7月末及び8月初め),およびフォード・グロムイコ会談(9月)が開催された。また,米ソ貿易経済協議会(10月),米上院及び下院議員の訪ソ(6月,8月)が行われ,7月には米ソ宇宙船アポロ・ソユーズのドッキングが実施された。10月には米ソ穀物協定(1981年9月までの間,穀物の対ソ輸出年間600万トン)が成立,12月には海運協定が仮調印された。
緊張緩和政策については,米国側にはソ連がこれを戦略的に自己に有利に利用しているとして警戒心が高まり,他方ソ連側は緊張緩和は民族解放運動及び階級闘争を妨げるものではないと言明するなど,両者間の考え方の差異が表面化し,75年中の米ソ関係は停滞の様相をみせた。
このような状況の下で,ソ連は米国内の「緊張緩和」反対勢力を批判しつつ,対話によつて米ソ関係の改善を図るという基本路線に維持しているとみられる。
(b) 対西欧関係
ソ連の西欧に対する緊張緩和外交は,欧州安保協力会議の終結により一応の成功を収めた。また,英・仏両国首相(75年2月及び3月),仏大統領(10月),独・伊両国大統領(11月),あるいはデンマーク女王(5月),ベルギー国王(6月)などの訪ソ,グロムイコ外相の訪伊(6月),コスイギン首相の訪土(12月)などを通じ東西間の対話に努め,仏,独,英諸国はじめEC諸国との経済協力の促進を図つた。
しかしながら欧州安保協力会議のフォローアップをはじめ,中欧兵力削減交渉,ポルトガル情勢,ベルリン問題等についてソ連と西欧諸国との基本的立場の隔りは依然大きく,緊張緩和外交の限界がいわば露呈したとみる向きが多い。
なお,ソ連主導の下に75年半ばに開催を予定されていた全欧共産党会議は,仏,伊共産党のほかユーゴ,ルーマニア両党の抵抗により75年中には開催されるに至らなかつた。
(c) 対東欧関係
ソ連は西欧との緊張緩和を進めつつ,東欧諸国の団結強化に腐心した。ハンガリー党大会(3月),ポーランド党大会(12月)にはブレジネフ書記長が出席し,また,ハンガリー,チェコ,東独,ユーゴの解放30周年に際してはそれぞれ党政治局員等の首脳が出席し,社会主義体制の優越性を強調して,社会主義共同体の団結,イデオロギー活動での協力を訴え,ワルシャワ条約締結20周年(5月)に際してもその意義を強調した。東独との間では新友好協力相互援助条約に調印(10月)した。ユーゴとの関係では首相,外相等を招待して74年のコミンフォルミスト反チトー集団逮捕事件以降の両国関係の改善に努めた。
コメコンを通じる経済統合についても特定の分野では進展をみつつあり,ソ連は自国の第10次5カ年計画策定と関連して,7月から11月にかけて圏内諸国と76~80年国民経済計画の調整作業を終了した。
(d) 対中国関係
75年1月,中国の新憲法が採択されるや,ソ連はこれを反ソ性を明文化したものとして非難し,その後も相互の激しい非難応酬が行われた。ソ連は,当面中国の内外政策が急激に変化することを期待するのは非現実的であるとする態度をとつている。
75年12月末中国は,74年3月中国領を侵犯したヘリコプター事件のソ連人乗員を釈放したが,その後の両国関係には基本的変化はなく,第25回党大会においてブレジネフ書記長は毛思想とその政策をマルクス・レーニン主義に敵対するものと断ずる一方,平和共存原則に基づく対中国正常化の用意を表明した。
(e) 対アジア関係
ソ連のアジアに対する基本的関心の一つは中国の影響力拡大を阻止することにある。ソ連は北越およびインドを対アジア影響力拡大の拠点と考えているごとくであり,レ・ジュアン北越労働党第1書記の訪ソ(10月)の際にはかなりソ連寄りの姿勢を明らかにさせることに成功した。
なお,欧州安保協力会議終了後,ソ連はアジア集団安保構想の必要性を強調したが,ソ連としては長期的外交目標として同構想の実現を期しているものと思われ,第25回党大会で打出された新平和綱領でも「アジア大陸諸国の共同努力を基盤として,この大陸における安全保障に努めること」の1項が掲げられている。
(f) 対中東・アフリカ関係
中東問題に関しては米国のステップ・パイ・ステップ方式に対し,ソ連はジュネーヴ会議による包括的解決を主張しているが,3月キッシンジャー米国務長官のシャトル外交失敗後もジュネーヴ会議再開にこぎつけることができず,結局9月の第2次シナイ協定成立を傍観せざるを得なかつた。その間エジプトは米国との関係を深めるに至り,これに対しソ連はシリア,PLOとの協力関係緊密化とリビア,アルジェリア等に対する働きかけを図る一方,米国に対しては11月,ジュネーヴ会議再開を呼びかけた。しかし,決め手を欠くソ連外交は,中東問題について明らかに後退を余儀なくされ,76年3月にはエジプトがソ連・エジプト友好・協力条約を破棄するに至つた。
アフリカにおいてはソ連は,北アフリカ諸国あるいはソマリアに対して積極的な接近策をとつた。また,アンゴラ独立運動内部の抗争を契機として,民族解放運動支持の主張を具体的支援行動に移し,MPLA(アンゴラ解放人民運動)全面支持を明らかにするとともに,これが緊張緩和政策と矛盾するものでない旨強調したが,米ソ間あるいは東西間に進行してきた緊張緩和に大きな影を落とす結果となつている。
(イ) 北方領土問題(平和条約交渉)とグロムイコ外相の来日については,第1部総説第2章第1節6で記述したとおりである。
(ロ) シベリア開発協力問題
(a) 日ソ間で既に実施に移されたシベリア開発案件は,パルプ・チップ用材の開発輸入,ウランゲル港湾(ナホトカ近郊)建設,第1次極東森林資源開発,南ヤクート原料炭開発及び第2次極東森林資源開発の5件であり,このうち第1次極東森林資源開発プロジェクトは73年で終了した。
(b) 従来から日ソ当事者間で話合いが行われていた案件のうち,サハリン島陸棚石油・天然ガス探鉱については,75年1月に基本契約が,また同10月に借款契約が締結された。日米ソ3国間の共同プロジェクトであるヤクート天然ガス探鉱については,76年3月に基本契約(74年12月に締結された基本契約を一部変更)及び借款契約が日米ソ3国の当事者間で締結された。
(c) 日ソ当事者間で現在話合いが行われている案件は,パルプ・プラント建設であるが,本件については74年10月の第6回日ソ・ソ日経済委合同会議(於モスクワ)でソ側が正式に提案を行い,日本側がこれを受けて,交渉が開始された。
(d) これらの日ソ間の諸プロジェクトに対し,政府は,それぞれのプロジェクトが経済的・技術的にみて実行可能であり,かつ互恵平等の原則の下に,当事者間の話合いが双方に満足のいく形でまとまるのであれば,信用供与等必要な協力を行うとの立場をとつている。また,石油,ガス等の大規模プロジェクトについては第3国の参加を得て進めていく方針である.
(ハ) 日 ソ 貿 易
(a) 75年の日ソ貿易高は,通関統計で輸出16億2,600万ドル(FOB),輸入11億7,000万ドル(CIF),合計約27億9,600万ドルに達し,74年に比較し,往復で11%の伸びを示し,また,輸出が大幅に増加(48%)した反面,輸入は国内需要の不振を反映して減少(18%減)したため貿易収支は62年以来13年ぶりにわが方の出超に転じた。
(b) わが国の対ソ主要輸出品目は鉄鋼及び同製品,機械設備,繊維及び同製品,化学製品等であり,主要輸入品目は木材,白金等非鉄金属,綿花等繊維原料などである。
(ニ) 日ソ漁業交渉
(a) 日ソ漁業委員会第19回会談(さけ,ます,にしん等)
北西太平洋日ソ漁業委員会第19回会談は,75年3月3日から東京で開催され,4月178,日ソ双方の委員が合意議事録に署名して終了したつその結果,75年(豊漁年)におけるわが国のさけ・ますの漁獲量は前回豊漁年である73年(91,000トン)を4,000トン下回る87,000トンと決定された(ソ連側の75年における漁獲量は10,000トン)。
なお,北緯45°以南のいわゆるB区域における共同取締り問題については,ソ連側は日ソ漁業条約第7条に基づきソ連監視船の単独乗入れを強硬に主張したが,最終的には,74年度と同様,日本側監視船に日ソ双方の監督官が乗船して共同で取締ることに合意し,その旨の書簡が交換された。
(b) 日ソ政府間かに・つぶ交渉
第7回かに交渉及び第4回つぶ交渉は2月28日よりモスクワで行われた。
かに交渉については,かに資源に対する日ソ双方のそれぞれの法的立場を留保したうえで,4月21日に最終的な合意をみ,仮調印が行われたつ交渉の結果,わが国のカムチャッカ半島西方水域におけるたらばがに漁業は行われないこととなつたが,わが国の75年のかに全体の漁獲量としては0.2%の減少にとどまつた。
つぶ交渉についても,つぶ資源に対する日ソ双方の法的立場を留保したうえで,4月21日に仮調印が行われ,75年の北西太平洋におけるわが国のつぶ漁獲量は樺太東方水域で殻付1,500トン(74年と変らず),オホーツク海北部水域でむき身1,125トン(74年と変らず)となつた。
(ホ) 日本近海におけるソ連漁船の操業問題
(a) 近年,わが国沿岸の水域におけるソ連漁船団の操業に伴い,わが国沿岸漁民の漁具等に多大な被害が発生している。このため,漁業の操業に関する事故を未然に防止し,事故が発生した場合にはその迅速かつ円滑な処理をはかることを目的として,75年3月以来モスクワにおいて日ソ間協定を締結するための交渉が行われた。この結果,6月7日東京において,わが方宮澤外務大臣とソ側イシコフ漁業大臣との間で「漁業操業に関する日本国政府とソヴイエト社会主義共和国連邦政府との間の協定」の署名が行われ,同協定は国会承認を経て10月23日発効した。
(b) 本協定は,本文15カ条及び4附属書から成り,漁船の標識及び信号,漁具の標識,漁業の操業の規則,情報の交換等漁船と漁具に関する事故の未然の防止のための措置に関する事項および漁業損害賠償請求処理委員会の設置等漁業紛争処理に関する事項等について定めている。
(c)本協定に基づき,東京及びモスクワに設置された漁業損害賠償請求処理委員会は,それぞれ76年3月にその活動を開始した。
(ヘ) 北方水域における本邦漁船の拿捕
北方水域におけるソ連官憲による本邦漁船の拿捕事件は,依然として頻発しており,75年における本邦漁船の拿捕件数は42隻,290名であり,同年中に20隻,272名(その内18名が74年から越年)が帰還した。なお,1946年から76年3月31日まで,ソ連に拿捕された漁船及び漁船員の総数は1,502隻,12,570名に達した。その内,ソ連側から返還された漁船は921隻,帰還した漁船員は12,523名で,拿捕の際または途中で沈没した漁船は25隻,抑留中に死亡した漁船員は36名である。
(ト) 墓 参
(a) 政府は61年以降ソ連本土(戦後ソ連本土に抑留され死亡した邦人の墓地),樺太(終戦時まで居住していた邦人の先祖の墓地)および北方諸島(終戦時まで居住していた邦人の先祖の墓地)の3地域について墓参を実施してきた。しかし,ソ連側は日本側が墓参を希望する地域の多くが「外国人立入禁止区域」内にあるとして日本側の希望を部分的にのみ許可してきた。
(b) 75年度においては75年1月宮澤外務大臣が訪ソした際グロムイコ外相との間で行つた墓参に関する話し合いを踏まえ,4月ソ連側に対し,ソ連本土,樺太及び北方諸島への墓参につき許可方申し入れた。これに対し,7月ソ連側は,歯舞群島の水晶島及び志発島,ソ連本土のアングレン,コカンド及びカガン,並びに樺太の真岡及び豊原への墓参に同意する旨回答してきた。
政府はその後,北方諸島のうち色丹島,国後島及び択捉島への墓参についても許可するようソ連側に対し再三にわたり再考を促したが,ソ連側は,「外国人立入禁止区域」を理由に許可し得ない旨回答してきた。
(c) 北方諸島(歯舞群島の水晶島及び志発島)への墓参は8月19日~21日に,ソ連本土への墓参は8月28日~9月4日,樺太への墓参は8月26日~30日にそれぞれ実施された。
(チ) 未帰還邦人
(a) 戦後ソ連領に残留した邦人は59年までに大部分が「集団引揚」の形で帰還した。さらにその後も若干の邦人が帰国したが,現在に至るもなお,帰国を希望していながらソ連本土及び樺太に居住することを余儀なくされている邦人がいる。(76年3月31日現在で残留邦人数425人,うち帰国希望者数95人-家族を含めれば379人-が確認されている。)
(b) 政府は,これまで機会あるごとに帰国を希望する上記の邦人に対し,ソ連側が遅滞なく日本への帰国を許可するよう要請し,76年1月にグロムイコ外相が来日した時にも宮澤外務大臣より同様の要請を行つた。
(c) その結果,75年1月より76年3月までの間に4人(家族を含めれば14人)が帰国し,2人が一時帰国した。
2. 東 欧
東欧各国は,これまでの比較約順調な経済発展と生活水準の着実な向上と相まつて,近年,内政は安定している。
しかし,西側諸国からの輸入価格の高騰や,西側諸国への輸出停滞に伴い,国際収支上の困難が増しているほか,エネルギーをはじめとする主要原材料の供給源であるソ連との交易条件も悪化している。このため,国際収支及び財政上の均衡の回復維持のため,輸出努力の強化と資源の節約にせまられており,その経済状況は厳しさを増すことが予想されている。
(イ) ドイツ民主共和国
国際的な承認を得て多角的な外交を展開しはじめたが,外交の基本は,従来通り社会主義国との団結維持,強化におかれ,ソ連との新たな友好協力相互援助条約の締結によつて,ソ連との緊密な関係が再び強調された。他方,西独との間の実務関係の処理を進めるとともに,わが国や米国等の西側諸国との接触の拡大に努めている。
内政面では,民法の大改正等,独自の国家としての体制整備のための諸施策が講じられており,経済全般の順調な発展を背景に,政府の掲げた生活水準向上の目標は着実に実現されてきている。
わが国との関係は,73年の国交樹立以来,文化交流が盛んに行われ,75年の貿易額は総額で7,776万ドルであつた。
(ロ) ポーランド
75年は,5年前に発足したギエレク政権が一方で党内粛清,党員証書替え,地方党・行政組織の改革を行い,他方で民生向上の第4次5ケ年計画を完遂して,プレステージをあげ,その体制をおおむね完成した年であつた。同年は,農業は不振であつたが,工業生産は順調であつた。
わが国との貿易は33,704万ドルであつた。
(ハ) チェッコスロヴァキア
75年におけるチェッコスロヴァキアの情勢には大きな変化はなく推移し,フサーク政権は経済生活の向上,国内引締めの維持および中道路線をとることにより安定度を一段と高めた。しかし,国民の志気は未だ沈滞から脱していない。
わが国との貿易は7,049万ドルであつた。
(ニ) ハンガリー
75年3月開催の第11回党大会は「自由化」政策の妥当性は経験的に立証ずみであるとして,従来の路線の堅持を再確認しつつも,厳しい経済環境を克服するためには,「中央統制」の強化も必要最小限度においてやむを得ずとの指針を打ち出した。75年においてはハンガリー党,政府は,人事,政策の両面において急激な変革を回避しつつ,この指針に沿つた施策と措置を展開した。わが国との貿易は4,358万ドルであつた。
(ホ) ルーマニア
75年においてもチャウシェスクの強力な権力体制は維持され,自主独立外交も活発に展開された。高度経済成長政策は,世界経済の低迷に加え,7月の大洪水のため実現が危ぶまれたが,75年終了した5カ年計画は期限前達成を果たしたと発表された。他面,この政策は国民生活を圧迫し,また外貨不足に拍車をかけたことも否めない。
わが国との貿易は18,167万ドルであつた。
(ヘ) ユーゴースラヴイア
内政面で特に大きい変革はなかつたが,反体制分子の摘発と,自主管理体制擁護のキャンペーンが行われ,ポスト・チトーに備えて党によるイデオロギー引締めが強化された。経済面では年央に実施された一連の引締め措置の結果,後半に至つてようやくインフレはスローダウンし,貿易収支も改善の方向に向つた。
外交面では伸長を続ける非同盟勢力の中で,ほぼ一貫して南北対立を避ける方向に動いたことが指摘される。
わが国と貿易は12,667万ドルであつた。
(ト) ブルガリア
ブルガリアはこれまで後進農業国から工業国への転換をはかり,高度経済成長政策の下に順調な発展を遂げ,生活水準も逐年目立つて向上し,ジフコフ政権は安定度を高めてきた。しかし,国際経済情勢の変化による外的要因から,資源・資金の節約,品質改善,資本効率の向上という工業化政策の体質改善の必要に迫られているものとみられる。
わが国との貿易は6,814万ドルであつた。
(チ) アルバニア
中国との友好を第一とし,「ソ連修正主義」と「米帝国主義」の双方を攻撃するという基本姿勢に変化はなかつた。
経済関係3閣僚が更迭され政権上層部内に意見の不一致があつたことを推測させたが,「ホッジャの党,シェフの政府」といわれる現指導部の国内把握は依然として強いものがあると認められる。
わが国との間には僅かな貿易(840万ドル)を除いて,交流はほとんどない。