第5節 西 欧 地 域
(1) 欧州の東西関係
(イ) 概 観
75年夏,ヘルシンキにおいて欧州安全保障・協力会議首脳会議が開催され,最終文書が採択された。しかしながらその後の東西関係には目立つた進展はなく,特に西側が重視している人,情報の交流の分野での東側の緩和措置については,西側ジャーナリストに対する査証発給手続の簡素化の他,具体的な動きはみられない。この間ソ連は,10月ジスカール・デスタン仏大統領,11月のシェール独大統領の訪ソ等の際にも,イデオロギー闘争に緊張緩和はないとの原則的姿勢を示した。またソ連は全欧共産党会議への準備を活発化するとともにソ連・東独新友好相互援助条約を締結するなど東欧圏の結束固めとみられる動きを示している点が注目される。
(ロ) 欧州安全保障・協力会議(CSCE)
75年7月30日から8月1日,ヘルシンキで参加35カ国の首脳会議が開催され,(a)欧州の安全保障に関する諸原則,(b)経済,科学・技術及び環境分野における協力,(c)人道上及びその他の人,情報の交流拡大における分野における協力,(d)会議のフォロー・アップを内容とする最終文書の署名が行われた。本件会議においては,東側諸国が国境の不可侵をはじめとする安全保障原則に重点を置いたのに対して,西側諸国は,安全保障の基本となる相互の信頼醸成措置及び緊張緩和の前提としての人,情報の交流拡大を重視した。
この会議は,欧州の政治史上,一時期を画する出来事であつたといえるが,本会議の実質的な意義は,同合意事項が今後いかに具体的に実施されるかによるところが大きいと思われる。なお,本件会議のフォロー・アップに関しては,77年6月のベオグラード会議において検討される予定である。
(ハ) 中欧相互均衡兵力削減交渉(MBFR)
73年10月からウィーンで開催されている中欧相互均衡兵力削減交渉において西側は,東西間の戦力(戦車をはじめとする通常兵力)の不均衡を是正することを主要目標として,削減段階を2段階にわけ,(i)第1段階は米ソ両軍のみとする,(ii)第2段階では,米ソ以外の国々の兵力削減を行い,東西の地上兵力につき共通の上限を設定するという基本的な立場をとつている。これに対して東側は,地上兵力のみならず空軍,核戦力とも削減の対象に含め,75年から3段階にわけて兵力,軍事力を15%以上削減することを提案している。
75年12月に至り,西側は,東西双方の地上軍を対象とする共通のシーリングを設けるとの考え方を東側が受け入れることを前提条件として,米・ソ両軍の削減のほか,在中欧の米軍戦術核弾頭及び若干の核運搬手段を削減することを内容とする新提案を行い,東側の反応が注目されたが,その後も交渉の具体的進展はみられなかつた。
(2) 欧 州 統 合
(イ) 欧州共同体の統合強化への努力は,6月の英国国民投票において英国のEC残留が決定されたこと,また74年12月に設置が決定された欧州理事会が軌道に乗り,首脳レベルでの協力が強化されたこと,(注)あるいはロメ協定の成立,欧州議会直接選挙制への移行の決定等にみられるようにある程度の進捗ぶりを示した。しかし,国際経済の混迷あるいは域内諸国間の経済力格差の拡大等を背景として,EC統合の基盤である経済・通貨面の協力においては多くの困難がみられ,統合のテンポはかならずしも順調ではなかつた。
(ロ) 政 治 協 力
75年における主な政治協力の概要は次のとおりである。
(a) EC・アラブ対話
74年11月に設置が決められた一般委員会はPLO代表問題等をめぐる意見の対立のため,75年においては開催に至らなかつたが,専門家作業部会を通じ対話は続けられた。
(b) ポルトガルに対する緊急援助が討議され,7月の欧州理事会では援助と同国における民主制維持に関する声明が採択された。
(c) 欧州議会直接選挙を78年5~6月に実施する旨基本的合意が成立した。
(d) 78年以降統一規格の旅券を導入する旨の合意が成立した。
(ハ) 経 済 統 合
欧州共同体は75年の厳しい経済環境の中にあつて統合強化の努力を払い,3月には懸案となつていた欧州地域開発基金が正式に発足し,また,新欧州計算単位(新U.C.)の使用が開始された。7月にはほぼ1年半ぶりにフランス・フランが共同フロートに復帰し,また夏以降EC委員会の勧告に基づき,EC諸国において不況克服のための景気対策がとられた。更に開発途上国との関係においても,75年2月,ACP(アフリカ,カリブ海,太平洋)諸国との間でロメ協定が調印される等の成果をあげた。
しかしながら,域内諸国間の経済力格差の拡大等を背景として,国内政治上の困難をかかえるイタリアにおいて発生した通貨不安は,他の域内通貨へと波及し,76年3月,フランス・フランは共同フロートからの再離脱を余儀なくされる等統合への歩みも76年に入りやや停滞した感もある。
(3) NATO
NATO諸国は,東西間の軍事的均衡の維持がいわゆる「緊張緩和」の大前提をなすものであるとの立場を維持しており,CSCEの終結以後もワルシャワ条約機構側が,引続き軍備増強に努めていることに強い懸念を表明している。また,各国の経済・財政難に加え「緊張緩和」へのムードもあり,一部の国では東側への警戒心が弛緩する傾向にあること等の問題を生じている。しかしNATO諸国は軍事技術の相対的優位の確保,装備の合理化・標準化等の検討を通じ防衛努力を維持した。またギリシャ・トルコ間の対立,ポルトガル,スペイン,イタリアの内政不安等NATO南翼の情勢は依然流動的であり,NATO北翼におけるソ連軍の動向とともに注目を集めた。
(4) 各 国 情 勢
(イ) ドイツ連邦共和国
74年5月に発足したシェミット内閣は,75年においても引続き経済困難の克服と各種の内政改革施策の実施に努力した。
石油危機以後の経済困難,特に失業問題は深刻であり(75年の失業率4.8%,GNPの伸び-3.6%),また勤労者の財産形成,職業教育法改正等内政改革も,財政赤字や税収不振にも左右されて必ずしも所期の成果を挙げ得なかつた。しかし,経済情勢に関しては,75年初めよりの所得税減税,8月の景気対策プログラム等一連の施策が一応の成果をあげ,景気は底入れし,回復過程に転じた。
外交面では,シュミット政権は,対米関係の重視と,欧州統合の推進に重点をおいており,シュミット首相の訪米(75年10月)等を通じ,独米関係の緊密化と米欧関係の調整を努めた。他方,従来からECにおける大幅な財政負担を甘受してきた西独も,財政困難もあつて,加盟国の経済安定はまず自力で実現すべきであるとの立場を表明しEC予算の削減,EC統合事業の効率化等を主張した。対ソ関係については,ソ連は依然としてベルリン問題等に関し,厳しい態度を維持し,各種実務協定交渉及び経済協力の大型プロジェクトの交渉も進捗せず,全体として大きな進展はなかつた。また,東欧諸国との関係においても10月,在ポーランド独系人の出国,信用供与,年金等に関する独ポ協定が締結されたことが注目されるほか特に大きな動きはみられなかつた。
(ロ) フ ラ ン ス
74年5月登場したジスカール・デスタン政権は,与党派内で多数を占めるドゴール派の支持取付けに配慮しつつ,国民の「変化」への期待に応えるため「新しい政治」への意欲を示した。また経済困難の克服にある程度の成果をおさめ,ジスカール大統領の政治路線は一応の安定を示すに至つた。
内政面では,仏大統領の新しい多数派形成のための与党各派再編成の動きがみられ,特にUDR(ドゴール派)はシラック幹事長の指導のもとに国民議会における第1党としての勢力と自信をとりもどした。その後(6月),シラックは幹事長職をボール在郷軍人担当行政長官に譲り,首相職に専念,ジスカール大統領に積極的に協力する姿勢を示してきた。
他方,左翼連合については,74年秋より,社会党の伸長を背景としたミッテラン書記長を中心とする左翼陣営再編成の動きに対する共産党の反発等から,社共間にあつれきが生じた。両党間の対立の溝はその後,ポルトガル問題等をめぐり,むしろ深まる傾向がみられるが,72年6月の共同綱領を軸とする協調路線は維持されている。
外交面では,ジスカール・デスタン政権は,基本的には,ドゴール・ポンピドウ外交路線を踏襲しつつ,対米関係の調整,EC統合の推進,南北問題についての進展促進などを軸として,活発な外交をすすめたが,特に主要国首脳会議,及び南北対話の場としての国際経済協力会議をフランスのイニシアティブにより成功裡に開催しえたことは特筆される。
(ハ) 英 国
内政面における主要課題は,インフレと失業を中心とする経済問題であつた。75年前半30%前後の高率の賃上げが相次ぎ賃金・物価情勢は極めて憂慮すべき事態となつたので,政府及び労働組合会議は,8月から1年間は賃金引上げの上限を週6ポンドとする方針を決定した。このガイド・ラインは労使とも遵守しており,賃金・物価情勢は後半かなり落ち着いた。しかし,75年の英国経済情勢は小売物価上昇率24.2%,(1年平均),失業者数120万人(12月),経常的な赤字17億ポンドと極めて困難な状態で推移した。また,北アイルランド問題に関しては,英国政府は制憲議会の開催により事態の打開を図つたが成功せず,英国政府による直接統治が続いている。
外交面では,6月EC加盟継続の是非に関する国民投票の結果EC残留が最終的に決定したほか,2月ウィルソン首相の訪ソが実現し,71年のソ連外交官追放事件以来冷却化していた英ソ関係がほぼ原状に復したことを示した。
(ニ) イ タ リ ア
内政面では6月15日の統一地方選挙における共産,社会両党の躍進とキリスト教民主党の退潮が注目された。
特に共産党は得票率33.4%を獲得し,第1党キ民党に得票率1.9%の差に迫つた。この地方自治体における左旋回の傾向は,国政レベルにおいても62年来継続していた中道左派政権の存立に影響を及ぼすこととなり,74年11月以来モーロ内閣に閣外支持を与えていた社会党が,キ民党との従来の協力関係を解消する方向に動き,妊娠中絶法案や緊急経済政策等の国会重要審議に消極的態度をとるようになつた。また,キ民党自身も地方選挙敗戦の責を負つてファンファーニ幹事長が辞任した後,党内派閥間の思惑の相違もあり,必ずしも強力な施策を打ち出すことができず,76年1月7日,社会党が閣外支持の撤回を決定するや同日モーロ内閣は総辞職するに至つた。
経済情勢については,75年は内外の需要減と生産活動の冷え込みで戦後初の負の成長(-3.7%)を記録したが,国際収支はある程度改善され,物価上昇も若干抑制された。75年の終り頃から景気回復の徴候がみられているが,輸入の増加と外国からの借款返済(年間で6,000億リラ)とにより外貨準備は減少してきている。
外交面では,ランブイエにおける主要国首脳会議に出席し,先進民主主義国間の協調緊密化に努めるとともに,75年後半のEC議長国として欧州統合の促進に貢献したほか,ヘルシンキ宣言を契機にユーゴと協定を結び,戦後の懸案であつたトリエステ問題に終止符を打つ等の実績をおさめた。
(ホ) ポルトガル
3月11日の反クーデター事件を契機として「軍部運動」内で急進派が急速に台頭し,4月25日制憲議会選挙で社会党が第1党となり,共産党は第3党に留まつたにもかかわらず,「軍部運動」急進派は共産党と共同して主要産業の国有化等にみられる左傾化政策を推進した。しかしながら,軍部内急進派及び共産党勢力の台頭は,「軍部運動」穏健派,社会党等からの激しい反発及び北部地方を中心とした反共暴動等を惹起するに至り,8月,親共派ゴンサルヴェス首相は遂に更迭され,アゼヴェド海軍中将を首相とする新政府が,社会党等穏健派を中心として9月中旬発足した。その後軍部内急進派の反政府活動により政情は混迷を続けたが,11月末急進派降下部隊の反乱事件を契機に,アゼヴェド政府が,反乱軍を鎮圧するとともに反政府的な軍要人を追放あるいは逮捕する等の強硬措置をとつた結果,政情は年末になつて安定化に向かうこととなつた。
(ヘ) ス ペ イ ン
11月下旬,フランコ主席が病没し,ファン・カルロス皇太子がファン・カルロス1世として即位した。スペインは,内戦以来40年近く続いたフランコ体制から脱し,新国王の下で,12月中旬,大幅な内閣改造を行いリベラル派の大物政治家を入閣せしめるとともに,国内的には開放体制への移行,対外的には,EC加入をはじめとする西欧諸国との関係緊密化の方向に進むこととなつた。
なお,11月中旬,スペイン領サハラ問題をめぐつてスペイン,モロッコ及びモーリタニア3国間に合意が成立,スペインは,76年2月末までに同地域より撤収し,モロッコ及びモーリタニア両国代表で構成される臨時管理機構に管理権を移譲することとなつた。
(1) 要人往来・定期協議
(イ) 英国女王の来日
英国女王エリザベス2世陛下及びエディンバラ公は,5月7日から12日までわが国を公式訪問された。これは,英国元首による最初の御訪日であり,昭和46年10月の天皇・皇后両陛下の御訪英とともに日英両国の伝統的親善関係を象徴するものである。
(ロ) 日独定期協議
宮澤外務大臣は,国際経済協力会議に出席のため訪仏した機会に12月19日西独に立寄り,ボンにおいてゲンシャー独外相との間で第8回日独定期協議を行い,国際政治・経済情勢に関し意見交換を行つた。
(ハ) 日・仏定期協議
宮澤外務大臣は前項の定期協議の後,12月22,23日,パリにおいてソーヴァニャルグ仏外相との間で,第12回日仏定期協議を行い,国際政治,国際経済問題(特に通貨・資源問題),更に貿易,原子力協力等の分野における日仏協力関係について意見交換を行つた。
(ニ) オランダ外相の来日
ファン・デル・ストゥール蘭外相は外務省賓客として,75年1月8日より12日まで来日し,宮澤外務大臣との間で,東南アジア情勢,欧州情勢,国際経済問題等に関し,意見交換を行つた。
(ホ) デンマーク外相の来日,
アンダセン・デンマーク外相は外務省賓客として11月16日より21日まで来日し,宮澤外務大臣との間でアジア情勢を中心とする国際政治情勢一般に関し,意見交換を行なつた。
(2) 日・西欧経済関係
(イ) 現 状 概 略
75年においては,経済活動は世界的に停滞傾向にあつたが,わが国と西欧との貿易も,日本通関統計で輸出81億3,089万ドル(FOB),輸入43億9,541万ドル(CIF)で,74年に比し輸出は95%,輸入は84%に落ち込んだ。対EC貿易についても,輸出56億7,500万ドル(前年比95.1%),輸入33億7,100万ドル(同84.7%)で,輸出入とも前年の規模を下回つた。なお貿易バランスは,わが方の出超が37億3,548万ドルと前年に比べ,更に3億7,648万ドルの拡大をみた。
西欧諸国の一部では依然として対日警戒心が払拭されていないため,わが国はかかる西欧側の事情を考慮し,適切な輸出秩序維持にも努力している。
また日欧間の経済関係は貿易面のみならず,対欧及び対日投資の増大,エネルギー,科学技術等における共同プロジェクトの推進,第3国での開発協力等を一層活発化することによりその拡大均衡を図ることが期待されている。
(ロ) 日本・ベネルックス電子産品政府間協議
日本製電子産品の対ベネルックス3国への輸出急増に伴い,73年の政府間協議により,わが国は74,75年のみ年間輸出自主規制を実施してきたが,75年12月に東京で開催された政府間非公式協議の結果,日本側の自主規制は75年末で終了されることが確認された。
(ハ) 貿 易 交 渉
わが国は本年もノールウェー(3月),スペイン(5月),スウェーデン(6月),オーストリア(12月)等の西欧諸国と貿易につき協議を行つた。
(3) 日・EC関係
(イ) 一 般
75年の日・EC関係も前年に引続き順調な進展をみせた。すなわち,10月にはムニョッツァEC副委員長が訪日し,更に,事務レベルにおいても6月には,東京において日・EC上級事務レベル協議及び日・ECSC定期協議が行われたほか,年末には,ブラッセルにおいて,同じく上級事務レベル協議(11月),日・ECSC定期協議が開催された。また,75年6月には,在EC日本代表部が機構上正式に設置され,わが在ベルギー大使館が兼轄することになつた。
(ロ) 日・EC通商関係
(a) 1970年以来,日・EC統一通商協定交渉が行われてきており,現在,GATTの新国際ラウンドの枠内において実質的解決を図るよう努力が行われている。
(b) 日・EC間の繊維問題は,1976年7月に日・EC繊維協定が署名,締結される予定となつている。
(c) 日・EC間の自動車貿易においては,従来より日本車の対EC輸出が,EC車の対日輸出に比べて圧倒的に多く,EC側はこれが日本の自動車検査に起因するとしてその是正を求めてきていたが,1976年5月に日・EC自動車問題協議会が開催されることとなつた。
(d) その他,日・EC間では,日本からの造船,鉄鋼,ベアリング,電子卓上計算機の輸出等の問題が協議の対象となつた。
(4) そ の 他
日独科学技術協力協定に基づく第1回合同委員会の開催74年10月に締結された「科学技術の分野における協力に関する日本国政府とドイツ連邦共和国政府との間の協定」に基づき,75年5月東京において第1回合同委員会が開催された。