第3節 北 米 地 域

 

 

1. 米   国

 

(1) 内   政

(イ) 今日の米国内においてはかつての公民権運動,社会福祉問題などの如き大きな争点は見い出されず,国民の最大の関心は景気回復などの経済問題に向けられている。

 また1976年は大統領選挙の年であるが,75年半ばから,米国内政の焦点はこの大統領選挙をめぐる動きに置かれている。

 この大統領選挙戦においてみられる米国内政の基本的底流としては次の点が指摘できよう。このような流れは,特に76年2月以降各地で行われた予備選挙において顕著となつている。

(a) 反ワシントン・ムード

 今日の米国民の間には,ヴイエトナム戦争とウォーターゲート事件の後遺症として,漠然とした反ワシントン・ムード,ないしは過大なる中央権力に対する反発が存在し,民主党のカーター候補や共和党のリーガン候補などは,このようなムードを踏まえて,従来のワシントンの中央権力に対する批判的姿勢を強く打ち出し,選挙民にアピールしたとみられている。

(b) 保守的ムード

 国民の多数は自己を中道ないし保守と位置づけているとの結果が世論調査で明らかにされている。予備選挙において,民主党ではリベラル派の候補が序盤戦においてほとんど脱落し,中道保守よりのカーター候補が幅広い支持を集めたこと,共和党では従来から中道ないし保守とみられていたフォード大統領に対し,共和党保守派のリーガン候補が愛国的保守主義を主張し,南部を中心に強い支持を得たこと,等の背景には米国内のこうした保守的ムードがある。

(c) 南部,西部の比重増大

 米国南部及び西部が同国政治全体に占める比重を増大していることもいま一つの特徴といえる。民主党において,南部出身であり全国的に知名度の低かつたカーター候補が南部のみならず全国的支持を得るに至り,また共和党でも中西部出身のフォード大統領と西部出身のリーガン候補の間で激しい指名獲得争いが行われたが,こうした傾向は,従来米国の指導者が東北部を中心としていたことと対照的であり,人口及び産業の南部及び西部への移動に伴い,同地域の政治に占める比重が増大しつつあることを物語るものといえよう。

(ロ) フォード政権の施政方針

 フォード大統領は,75年1月の一般教書では,「米国の状態はよくない」と述べたのに対して,76年1月19日議会に提出した一般教書では,米国の状態は大いに好転していると述べ,さらに,景気回復等明るい面を強調しつつ,米国民は独立200年のこの年に,米国がたどつてきた目ざましい進歩の道を想起し,将来についても自信と希望を持つべきであると述べた。

 同教書は「新しい現実主義と新しい均衡」という言葉に象徴されるバランスのとれた保守主義を中心テーマとし,「政府は奉仕し,国民が支配する」と述べているが,この背景としては,近年米国民の中に政府権力の肥大化,大企業への力の集中等に対する批判が高まつてぎていることが挙げられよう。

目次へ

 

(2) 経   済

(イ) 75年の米国経済は,名目ベースで7.3%の増加,実質ベースで1.8%の減少をみて,GNPは1兆5,163億ドルを記録した。これで74年(実質1.7%減)に引続き,2年連続米国経済は実質ベースで減少をみたことになる。これを四半期別にみると,第1四半期(1~3月)は,在庫調整の急激な進展に伴う在庫投資の減少を中心に,個人消費の停滞,住宅建築及び設備投資の減少により,実質ベースで9.9%の減少を記録した。しかし,第2四半期(4~6月)においては,在庫投資の引続く減少にもかかわらず,所得税払戻し,減税により個人消費が回復をみせるとともに,住宅建築も増加に転じ,また74年10月以降毎月連続減少していた鉱工業生産指数も4月以降上昇に転じて,実質ベースで5.6%の増加となり,74年の第1四半期から75年第1四半期まで5四半期にわたつたマイナス成長に漸くピリオドを打つた。第3四半期(7~9月)においては,個人消費,住宅建築,政府の財サービス購入等の最終需要の着実なる増加に加えて,在庫調整の急速な鈍化により11.4%の実質経済成長(GNP)を記録するに至り,不況からの力強い回復を示した。その後第4四半期(10~12月)においても,個人消費が順調に増加するとともに,設備投資が減少にピリオドを打つ等最終需要の増加に伴い,実質ベースで3.3%の経済成長を記録した。この間ニューヨーク市財政危機が連邦援助措置の表明によつて一段落したこと,また76年減税案に関して大統領と議会とで妥協が成立し,実質的に増税となるような事態が回避されたこと等により,国民の経済に対する信頼感も回復してきた。このように,年間では実質1.8%の減少であるにもかかわらず,米国経済は75年第2四半期以降着実な景気回復過程に入つている。

(ロ) 75年の米国経済は,「失業」及び「インフレ」との闘いの年であつた。失業率の動向をみると,74年の秋から上昇傾向を強め,74年の10月に6%台,12月に7%台,75年の2月に8%台へと急激に上昇し,5月には8.9%にも達して,失業者数も825万人を数えるに至り,失業は経済問題であるにとどまらず社会問題にもならんとした。しかしその後,景気回復に伴い徐々に低下する傾向を示し,12月には失業率8.3%,失業者数774万人にまで減少した。一方インフレ動向に関しては,74年に卸売物価が18.9%,消費者物価が11.0%と2桁インフレを経験したが,75年にはそれぞれ,9.2%,9.1%の上昇にとどまつた。現在の景気回復が主として消費の回復によるものであり,これがインフレに敏感に反応するものであるため,政策当局は,議会・労働界また米国の景気回復に期待をませる諸外国からの景気刺激策の要望をしりぞけて,インフレ再燃防止を主眼とする極力慎重な政策運営を行つてきた。

(ハ) 76年に入つても米国経済は予想以上に順調に推移しており,失業率やインフレ動向は鎮静化の方向にある。しかし,インフレ再燃の懸念は依然根強いものであるし,失業率も高水準であることに変わりはない。また設備投資動向は本格的な上昇を見せるには至らず,今後の長期的成長を考えた場合不安材料は少くない。政策当局は引続きインフレ再燃防止を主眼とした,慎重な政策運営を行つていくものと思われる。

 

米 国 G N P 動 向

目次へ

 

(3) 外   交

 米国は,75年を通じて,わが国を含む西側諸国との関係重視,ソ連,中国との対話継続,世界経済の諸問題の解決・調整のための積極的なイニシアティヴの発揮,中東情勢の安定化等に努めた。米国はインドシナからの離脱により対アジア外交上の大きな制約から解放され,また米国経済の回復,中ソ対立の継続等の要因もあり,総じて米国の世界政治における指導力は,インドシナ情勢の展開にもかかわらず維持されたといえよう。

 75年春のインドシナの事態を目のあたりにして,アジア諸国の不安が一時高まつたが,これに対し,米国は,当該国がその強靭性を高めるための自助努力を続け,また米国との既存の同盟関係存続を望む限り,これを引続き援助していくという基本政策に変りはないことを繰り返し強調した。また,12月には,フォード大統領が中国訪問後,インドネシア,フィリピン両国を訪問して関係の緊密化に努めるとともに,その帰途ホノルルで行つたいわゆる「新太平洋ドクトリン」演説の中でアジア・太平洋地域に対する米国の基本政策を総括的な形で明らかにした。朝鮮半島については,同地域の平和と安全の維持のため対韓コミットメントは遵守するとの決意を明確にしている。

 75年における米ソ関係は,全般としては,停滞気味であつた観がある。米ソ協調の根幹にかかわる戦略兵器制限交渉(SALT-II)は,74年末のウラジオストックの合意に基づき75年内に妥結するものと一般にみられていたが,戦略兵器の範囲(ソ連の戦略爆撃機バックファィア米国の巡航ミサイルの取扱い)等で解決が得られず最終合意に達することができなかつた。したがつて,この署名に合わせて計画されていたブレジネフ・ソ連共産党書記長の訪米も実現をみなかつた。一方,経済関係においても,74年12月に米国が対ソ融資を大幅に制限する輸銀法延長法及び対ソ最恵国待遇と信用供与をソ連のユダヤ人出国問題と関連づける新通商法を成立させたが,これを不満としたソ連は,75年1月,米ソ貿易協定の発効を棚上げにする旨米国に通告し,このためもあつて米ソ間の貿易量は,日本,西欧諸国とソ連との貿易に比し伸び悩んだ。ただし,10月に米ソ長期穀物協定が締結されたことは,米ソ経済関係の停滞の中で注目された。

 12月のフォード大統領の訪中に際しては,米中両国間の関係正常化につき実質的進展はなかつたものの,両国は,今後とも上海コミュニケを基礎とし両国関係正常化を進めていくことを確認し,また,相互の立場及び政策の違いは認めつつ,国際情勢及び二国関係につき直接意見交換を行うことを重視し,対欧州政策等について両国の立場の共通点を確認した。インドシナ情勢の急変により,両国間の対立要因は減少したとも思われ,「新太平洋ドクトリン」演説の中でも,中国との関係が国際政治上の恒久的一要素を構成すると述べられているように,米国や対中関係重視の姿勢は維持されている。

 中東地域については,米国は,75年9月のエジプト,イスラエル間の第2次兵力引離し協定の成立に精力的に外交努力を行うとともに,両国に多額の援助を約し,早期警報監視施設に米人要員を派遣するなど,中東和平の維持促進につき,その責任と役割を一層増大させた。また,米国は,75年秋以来のアンゴラ内戦に際し,ソ連その他の軍事援助に対して警告を繰り返すとともに,対アフリカ外交に積極的姿勢を示した。

目次へ

 

(4) わが国との関係

(イ) 日米関係全般

 75年は,120余年に及ぶ日米修交史上初めて天皇・皇后両陛下の御訪米が実現し,また三木総理大臣も8月に訪米するなど日米両国の友好関係にとり極めて実り多い年であつた。

 キッシンジャー米国務長官も1日米関係はかつてないほど良好である」と述べたが,単に政府レベルのみならず国民各層の交流も一層活発化し,両国民の相互理解と相互信頼は,両国の文化的,歴史的諸条件の差異を乗り越え,高度な水準に達しつつあるといえよう。

 日米関係は,単に両国間の懸案を解決するだけでなく,世界の先進民主主義国家として,民主主義体制の維持・発展及び国際政治,経済諸問題の解決のため,緊密な協議と協力を行うなど「成熟したパートナーシップ」を樹立しつつある。

 なお米議会において10月7日に日米友好法案が可決され,同法に基づき日米友好信託基金も成立し,1972年に設立された国際交流基金と相まつて日米両国間の学術,文化,芸術活動も一層活発化することが期待される。

(ロ) 経 済 関 係

(a) 75年の日米貿易は,世界的不況による需要減退の中で若干の縮小となつた。すなわち米側センサスベースによると,対米輸出が前年比8.7%減の113億ドル,輸入が前年比10.4%減の96億ドルとなり,貿易収支は17億ドルの日本側黒字となつた。日本の貿易総量は70年から75年までの間に約3倍となつたが,日米貿易の方はその間に約2倍の伸びにとどまつている。このことからわかるように,貿易相手国としての米国の割合はここ数年次第に低下しており,70年においては約30%であつたものが,75年には20%となつている。しかし,依然として米国はわが国の最大の貿易相手国であり,今後ともその重要性に変化はないものと思われる。

(b) 貿易面とならんで,資本投資関係においても米国は最大の相手国である。米国の対日投資は74年末の累計額で33.4億ドルに達している。一方,わが国の対米直接投資は,75年3月末における許可額累計で25.7億ドルとなつており,総許可額中の20.3%を占めている。一時期米国内にみられた海外からの投資に対する警戒的な動きは,現在では薄らいできており,連邦及び州政府は投資導入に積極的な姿勢をとつている。わが国からの対米投資は今後とも増大していくものと思われる。

(ハ) 日米安全保障条約

(a) 密接な協議,協調

 日米安保条約は,民主主義の基本的価値観を分かちあい,相互信頼と協力によつて結ばれている日米両国の緊密な関係を具現化したものとして,現在のアジアにおける国際政治の枠組みを構成する重要な柱の一つとなつている。75年中も日米両国の間で,安保条約の円滑かつ効果的な実施を図るための密接な協議および協力が引続き進められた。

 まず,75年4月に宮澤外務大臣が訪米してフォード大統領及びキッシンジャー国務長官と会見したほか,8月には三木総理大臣とフォード大統領との首脳会談が行われ,その際安保条約をめぐる諸問題についても話合いが行われた。これらの話合いを通じ,安保条約は極東の平和と安全の維持に大きく寄与してきているとともに,アジアにおける国際政治の基本的構造の不可欠の要素であり,同条約を引続き維持することは,両国の長期的利益に資するものであること,また,米国の核抑止力は日本の安全に対し重要な寄与を行うものであることが認識された。また米側は日本側に対し,核兵力であれ通常兵力であれ,日本への武力攻撃があつた場合,米国は日本を防衛するという安保条約に基づく誓約を引続き守る旨確言したのに対し,日本側は,日本が安保条約に基づく義務を引続き履行していく旨を述べた。

 また,75年8月末には,坂田防衛庁長官の招待によりシュレシンジャー国防長官が訪日して,三木総理大臣,宮澤外務大臣及び坂田防衛庁長官と,安保問題を中心に日米両国が関心を有する諸問題につき,自由かつ率直な意見交換を行つた。

 また,両国政府の外交及び防衛当局者で構成される安保運用協議会は,75年中計6回開催され,安保条約及びその関連取極の円滑かつ効果的な実施をはかるための協議を行つた。

(b) 防 衛 協 力

 75年8月の三木総理大臣とフォード大統領との会談において,両首脳は,「安保条約の円滑かつ効果的な運用のために一層密接な協議を行うことが望ましいことを認め」,「両国が協力してとるべき措置につぎ両国の関係当局者が安全保障協議委員会の枠内で協議を行う」ことを合意した。これに引続き,8月末の坂田防衛庁長官とシュレシンジャー国防長官との会談において,日米防衛協力に関する諸問題について研究協議するための場を安保協議委員会の枠内に設けることが了解された。

(c) 在日米軍施設・区域の整理統合

 政府は従来から,日米安保条約の目的の達成と施設・区域周辺地域の経済・社会的発展との調和を図るべく努力してきた。75年中も在日米軍施設・区域の整理統合計画の推進に最大限の努力を傾注した結果,在日米軍施設区域のうち,計5カ所の全面返還に加え,数多くの一部返還が実現した。

(ニ) 漁 業 問 題

 米国の沖合200海里に漁業専管水域を一方的に設定せんとする議会の動きは75年の第94議会になつて,国連海洋法会議の動向の影響もあり急速に進展した。すなわち,同年10月下院において,また76年1月に上院においてそれぞれ法案が通過し,その後両案の相違を調整した両院協議会案が議会により可決され大統領に送付された。そして4月13日大統領は右法案に署名し「1976年漁業保存管理法」が成立した。このような国内法制定の動きに対し,わが国は,再三にわたり反対の立場を明らかにした。米国沖合で総漁獲量の15%を漁獲しているわが国としては本法の成立によつて極めて大きな影響をうけざるを得ない。

(ホ) 航 空 問 題

 日米両国政府は,1972年に修正された日米航空協定附表(双方企業がそれぞれ運営し得る路線を規定したもの)の附属書において明記されているとおり,沖縄のわが国への返還の日から5年の期間の満了前,すなわち遅くとも1977年5月15日以前に前記附表の修正につき協議することとなつていることに鑑み,当該協議に備える目的で,76年2月5,6日の両日ホノルルにおいて航空実務者レベルによる非公式協議が開催され,率直な意見の交換が行われた。同協議においては,また輸送力と運賃の問題等双方が直面する困難な問題についても討議がなされた。

(ヘ) 日米科学技術協力

(a) 日米科学技術協力審査委員会

 73年,日米両国首脳会談において両国は科学技術協力の分野での一層広範な協力拡大をめざして従来の協力計画を全般的にレビューすることに合意した。この合意に基づき75年4月に日米科学技術協力審査委員会が発足し同年11月まで鋭意検討作業が行われた。その結果これら協力事業は多大な成果をあげつつおおむね順調に進行していること,今後協力拡大のため有望とみられる分野として各種エネルギー開発研究,環境保全,海洋科学等が挙げられることが報告された。なお審査の対象となつた代表的協力計画としては日米科学協力委員会,日米医学協力委員会,日米天然資源開発利用会議,日米公害閣僚会議,日米エネルギー研究開発合同会議,日米原子力協力合同会議,日米宇宙開発協力合同会議,日米運輸専門家会議,日米実験用通信衛星協力計画がある。

(b) 日米科学協力委員会等

 日米科学協力委員会は1975年7月東京において第13回本会議を開催,各活動部門から過去2カ年の活動報告を受けると共に今後の計画事業に関する幅広い討議を行つた。また,日米医学協力委員会は,1975年米国メリーランド州ベセスダにおいて第11回本会議を開催し,過去1年間の諸活動報告と検討を行つた。

 また天然資源開発利用日米会議(UJNR)は11月,ワシントンにおいて第8回本会議が開催された。この会議の下部機構として,水産増養殖,蛋白資源,耐風耐震設計等17の専門部会が設置されており,情報,データ及び研究成果の交換等が行われている。

目次へ

 

2. カ ナ ダ

 

(1) 内   政

 74年の総選挙で多数党政権に返り咲き,揺ぎない地位を確保したトルドー自由党政権は,長期的視野に立つた施政方針を打ち出した。その基本的施策は,従来の路線を堅持しつつ,インフレ対策を現下の最重点課題とし,同時にいわゆる公正な社会を目標とする国内諸制度の進歩的改革と国民生活向上の推進に積極的に取り組むというものであつた。

 74年の総選挙で敗れた進歩保守党及び議席数半減の大敗をきつした新民主党では75年にはいると党首交代の気運が高まり,同年7月ブロードベンド下院議員が新民主党首に,76年2月クラーク下院議員が進歩保守党党首にそれぞれ選出された。

 75年にカナダ10州中5の州で議会選挙が行われ,マニトバ,サスカチュワン,ニュー・ファンドランド,オンタリオ各州ではそれぞれ与党が勝利を収めて政権を維持したが,ブリティッシュ・コロンビア州ではパレット首相が率いる新民主党が敗れ,ベネット社会信用党政権が成立した。

目次へ

 

(2) 経   済

 74~75年の世界的不況の間,カナダにおいても海外需要減退による輸出の減少と住宅建設の大幅な落ち込みがみられたが,個人消費,政府支出及び企業設備投資が他の諸国に比べて堅調であつたところから,景気の落ち込みはマクロで見る限り比較的軽微であり,75年第2四半期以降は,堅調な個人消費と住宅投資の回復に支えられて,きわめて緩慢ではあるが回復基調を持続している。しかし,鉱工業生産活動の落ち込みはかなり顕著であり,また失業率も高水準を持続するなど,特に製造業界における不況はかなり深刻で,不況感は現在に至るも依然強いものがある。

 個人可処分所得の大幅な伸びによる活発な個人消費は,一方においてインフレマインドの定着につながり,賃金水準は米国を大きく上回つてカナダ産業の海外競争力の弱体化となり,これが貿易収支の大幅な赤字となつていると考えられるため,連邦政府は75年10月から賃金物価政策をとつているが,労働生産性の向上が伴わないため,インフレ対策,競争力強化ともに効果は十分に現われていない。

 

カ ナ ダ 経 済 動 向

 

目次へ 

 

(3) 外   交

 トルドー政権の外交政策は対米友好関係を維持しつつ,近年カナダ国内にみられる対米ナショナリズムの高揚を背景に,自主外交,いわゆる"第三の選択"政策を推進し,外交の多元化,就中欧州及び日本との関係を緊密化することにあつた。欧州との関係については74年10月,75年2月の2度にわたるトルドー首相の訪欧等を通じ交流拡大の努力が払われた。その結果12月にはEC理事会で,カナダ・EC経済協力基本協定の締結について原則的な承認が得られ,両者間でそのための交渉が開始されることとなつた・米国との関係では,外国資本がカナダの既存の企業を取得する場合にはカナダ政府の事前の承認を要すること等を骨子とする外資審査法の成立,カナダ版タイム誌等に対する税制優遇措置の廃止,サスカチュワン州政府による同州酸化カリ企業の州有化政策実施等のカナダの国内諸施策によつて米国側が打撃を受けたため,両国間に摩擦が生じ,3月にサイモン米財務長官,10月にキッシンジャー米国務長官がそれぞれカナダを訪問し,意見の交換が行われた。75年にカナダはCIECにおいて先進国側の共同議長国となつたこと,CSCEに署名したこと等,国際的舞台で活躍した場面もあり,また韓国,アルゼンティンへのカンドー型原子炉の輸出に関する交渉をまとめた。

目次へ

 

(4) わが国との関係

(イ) 日加関係全般

 75年は,日加両国が今後さらに政治,経済,文化,科学技術等多岐にわたる分野で協力関係を育成拡大し,もつて「日加関係の基盤を一層幅広く,かつ深みのあるものとする」との74年の日加共同声明に基づき,日加関係緊密化への一層の努力が払われた年であつた。政治面では,6月にカナダよりマッカッケン外相をはじめ5閣僚が来日して東京で第7回日加閣僚委員会が開催され,両国が共通の関心を有する問題について意見交換が行われた。同閣僚委員会のほか,9月の国連特別総会及び12月のCIECが開催された機会をそれぞれとらえて75年3度にわたり宮澤・マツカッケン日加外相会談が行われ,国際情勢及び日加関係について話合いが行われた。また75年には日加間の国会議員交流の気運が醸成され,7月にこの第一段階として佐々木衆議院議員一行がカナダを訪問した。科学技術面では,5月に第2回日加科学技術協議が開催され,現行協力プロジェクトのレビュー及び新協力可能分野の探求が行われたほか,9月にはドルーリー科学技術大臣兼公共事業大臣が来日した。文化面では,74年の日加共同声明に基づき,75年3月に日本政府はカナダにおける日本研究基金として100万ドルを寄贈し,文化協定か日加両国政府間で現在交渉中である。また日本政府は,ブリティッシュ・コロンビア州所在のピアソン・カレッジ日本館建設のため6,000万円を寄贈した。このほか75年には日加資源委員会(6月,東京),日加航空交渉(11月,東京)及び北太平洋漁業国際委員会(11月,ヴァンクーヴァー)がそれぞれ開催された。

(ロ) 経 済 関 係

(a) 75年における日加貿易は対加輸出が約11,5億ドル(前年比27%減),同輸入が約25億ドル(前年比6.6%減)で,輸出入とも前年比を下回る結果となつた。

 主要輸出商品は乗用車,テレビ・ラジオ・プレーヤー,電子通信機器,繊維織物,トラック・バス,鋼管・接続具,鋼板等であり,他方,主要輸入品は従来と同様,石炭,小麦,銅鉱石,菜種,パルプ,大麦等であつた。

 なおこれまでの日加貿易はわが国からの製品輸出,カナダからの原材料輸入というパターンで推移しているが,カナダ側は付加価値を高めた製品輸出を望んでいる。

(b) 最近カナダはわが国及びECとの経済関係の緊密化に力を注いでいる。6月の日加閣僚委員会に続き,11月に日加事務レベル協議が行われ,資源・エネルギー,製造業,農業等について個々の業種毎に,今後の日加間の協力を具体的な形で取り進める方途について意見交換が行われた。この結果わが国よりタールサンド開発,ウラン探鉱開発,石炭(一般炭)の3つの分野について使節団を派遣することとなつた。

目次へ