第 2 部
各 説
第1章 各国の情勢及びわが国とこれら諸国との関係
第1節 アジア地域
1. アジア地域協力機構とわが国
(イ) 東南アジア開発閣僚会議は,わが国の提唱で66年に創設されたもので,東南アジア諸国における経済開発の共通の諸問題について,閣僚レベルで率直な意見を交換することにより,参加諸国間で経済・社会開発のための地域協力を推進することを目的とするものである。
(ロ) 第10回会議は75年10月ないし11月にシンガポールで開催される予定であつた。しかしながら,ASEAN首脳会議(76年2月)準備の都合等もあり,主催国のシンガポールは開催の具体的措置をとつておらず,76年3月現在未だ会議は開催されていない。
(ハ) 本会議を母体として種々の地域協力プロジェクトが生まれているが,これらのプロジェクトのうち主要なものは,次のとおりである。
(a) 東南アジア漁業開発センター(略称SEAFDEC)
本センターは,東南アジアの漁業開発の促進を目的として67年12月に設立された政府間国際機関で,閣僚会議が生みだした最初の地域協力プロジェクトである。
加盟国(75年12月末現在)は,日本,マレイシア,フィリピン,シンガポール,タイ及び南ヴィエトナムの6カ国で,現在事務局は訓練部局が兼務している。センターには訓練部局(バンコック),調査部局(シンガポール),及び養殖部局(フィリピン)があり,それぞれ加盟各国の研修生に対する漁業訓練,域内の漁業資源の調査,及び漁業資源の養殖に関する研究等を行つている。
わが国は,同センターに対し船舶,機材の調達資金等を拠出しており,75年度は,養殖部局機材供与費として3,708万円の拠出を行つた。また,専門家については,76年3月末現在訓練部局,調査部局及び養殖部局に対しそれぞれ1名,6名及び8名を派遣しており,その他奨学金として75年度訓練部局20名分,調査部局6名分,養殖部局10名分を拠出している。このほか各部局に対しそれぞれ専門家養成奨学金(1名分)を,また運営費一部補助金として75年度10万ドルを拠出している。
(b) 東南アジア貿易投資観光促進センター(略称SEAPCENTRE)
本センターは地域協力により,東南アジア諸国からの輸出を促進するとともに,これら諸国への投資及び観光客の増大を図り,もつてこれら諸国の国際収支の改善をはかることを目的とする政府間機関で,72年1月発足,事務局は東京にある。
加盟国はインドネシア,カンボディア,ラオス,マレイシア,フィリピン,シンガポール,タイ,南ヴィエトナム及びわが国の9カ国であるが,カンボディア及び南ヴィエトナムは,75年の政府の変更以後,センターの活動に参加していない。
センターは,東南アジアの加盟国の物産展・観光展の開催,これら諸国産品の日本国内市場調査,対日輸出有望商品の発掘調査,これら諸国への投資促進のための調査団の派遣・セミナー・会議の開催,東南アジア観光促進のためのセミナー開催等の事業を行つている。
わが国は,センター経費として,75年度において約1億9,500万円を拠出した。
(c) アジア租税行政及び調査研究グループ(略称SGATAR)
第5回閣僚会議(70年)における提案に基づき,域内各国の税制,税務行政の改善・強化を図るとともに,投資にインセンティブを与えるため,税制上の環境を整備することが重要であるとの観点から各国間の情報交換のためのスタディ・グループが設置され,以来会合を重ねてきている。前回第5回会合は75年5月バンコックで開催された。
(d) 運輸通信地域協力ブロジェクト
第2回閣僚会議(67年)において,東南アジア諸国の運輸通信部門拡充のための地域協力を推進するため,東南アジア運輸通信高級官吏調整委員会(COORDCOM)の開催が決定された。
COORDCOM(日本はオブザーヴァー)は,67年9月クアラルンプールで第1回会合を開催して以来,定期会合の開催を重ね,各種開発プロジェクトのフィージビリティ調査の実施とりまとめ,東南アジアの総合的運輸調査である「地域運輸調査」(RTS,アジア開銀により71年9月に完成)のフォローアップ等を行つてきている。COORDCOMは,RTSの諸プロジェクトの実施推進を中心として,更にその活動を継続強化していくため,常設事務局(SEATAC)を72年クアラルンプールに設置し,73年1月から活動を開始せしめた。
わが国は,SEATACに対し,75年度において約1,300万円の資金協力を行つた。
(e) 家族・人口計画政府間調整委員会(略称IGCC)
第5回閣僚会議(70年)における提案に基づき,人口問題に関し域内閣僚レヴェルで意見交換を行うため,70年10月クアラルンプールで第1回の東南アジア家族・人口計画閣僚会議が開催され,第2回会議は73年5月タイのチェンマイで開催された。2回にわたる会議では家族・人口計画に関する意見及び情報交換が行われ,常設事務局をクアラルンプールに設置すること(第1回会議)が合意された。この合意により設置された政府間調整委員会(日本はオブザーヴァー)は毎年開催されており,また,専門家会合,セミナー,研修旅行等各種の活動も進められてきている。
わが国は,IGCCに対し,75年度において約700万円の資金協力を行つたほか,わが国の国連人口活動基金拠出金より運営費として10万米ドルを贈与した。
(イ) アジア開発銀行は,アジア及び極東地域の経済開発に寄与することを目的として設立され,66年12月から業務を開始した。加盟国は,76年4月にタック諸島の加盟が承認された結果,域内28カ国,域外14カ国,計42カ国となつた。
(ロ) アジア開銀の75年12月末現在の応募資本は32億200万ドル(うち払込資本10億5,600万ドル,請求払資本21億4,600万ドル),借入金累計額は6億1,900万ドル(借入残高5億3,000万ドル)である。わが国の出資額は6億300万ドル(うち払込資本1億9,300万ドル,請求払資本4億1,000万ドル)であり,最大の出資国(シェア18.8%)となつている。またわが国は,アジア開銀に対して,日銀から300億円,輸銀から75億円,計375億円の借款を供与しており,そのほかわが国市場において,260億円のアジア開銀債が発行されている。他方特別基金財源には緩和された条件による融資を行うための多目的特別基金(75年12月末現在4,100万ドル)及びアジア開発基金(同6億5,100万ドル)と贈与ベースにより技術援助を行うための技術援助特別基金(同1,900万ドル)とがあるが,目下,多目的特別基金をアジア開発基金に移管して一本化する作業が進めらてれおり,ほぼ完了しつつある。わが国は,75年12月末現在,アジア開発基金(多目的特別基金を含む)に対して3億1,500万ドル(シェア45.5%),技術援助特別基金に対して1,200万ドル(シェア61.5%)をそれぞれ拠出している。
(ハ) 75年12月,総額8億3,000万ドルのアジア開発基金第1次資金補充の実施が決議され,現在,わが国を含め拠出予定国(アジア開銀の先進加盟国)において所要の国内手続がとり進められている。また,授権資本の第2次一般増資について目下アジア開銀事務局において検討が進められている。
(ニ) 75年12月末現在の融資承諾累計額は,通常資本19億2,500万ドル,アジア開発基金(多目的特別基金を含む)6億5,900万ドル,計25億8,400万ドルである。これを部門別にみると,公共事業9億800万ドル(シェア35.1%),農業及び農業関連産業5億8,900万ドル(22.8%),工業5億6,800万ドル(22.0%),運輸・通信4億9,200万ドル(19.0%)等であり,主な借入国は,韓国4億3,700万ドル(シェア16.9%),フィリピン3億4,800万ドル(13.5%),パキスタン3億3,500万ドル(13.0%),インドネシア2億6,700万ドル(10.3%)である。また技術援助の累積実績(プロジェクト融資に組込まれた部分を除く)は3,100万ドルであり,その財源には,技術援助特別基金のほか,UNDP等から委託されている資金があてられている。
(イ) アジア生産性機構は,61年5月,アジア諸国における生産性の向上を目的として設立された国際機関で,わが国をはじめとする14のメンバーからなつており,事務局は東京にある。
この機構は,訓練コース,シンポジウム等を開催するほか,専門家の派遣,視察団受入れ等により,中小企業の経営改善,生産技術の向上などにつき,協力を行つている。
(ロ) アジア生産性機構は,設立10周年にあたる70年を「アジア生産性年」としてアジア地域における生産性向上運動を強力に展開し,生産性意識の高揚につとめた。更に71年からは,分担金の引上げにより財源の強化を図るとともに,引き続き積極的に事業を推進している。わが国は,同機構に対して75年,49万2,000ドルの分担金及び1億346万7,000円の特別拠出金を拠出し,またわが国で実施される同機構の事業費の一部として51万2,000ドルを支出した。
国際稲研究所は,急激な人口増加をたどるアジア地域において米の生産増大を目的とし,60年にフィリピンに設立され,62年から正式に活動を開始した。同研究所では,稲の品種改良全般について広範な研究計画を実施しており,60年代後半の「緑の革命(グリーン・レボリューション)」をまき起こしたIR8をはじめ,現在までに,IR20,IR22,IR24,IR26など一連の高収量品種の育種に成功している。また,世界の稲に関する技術文献の収集,保存,研究成果の出版,関係各国及び諸機関等との共同研究の実施,アドヴァイザーの派遣,研究員の受入れなどを行つている。
現在,農業研究に関しては,先進諸国,開発途上国,国連諸機関その他から成る国際農業研究協議グループが結成されているが,国際稲研究所は,その協議グループ傘下にある研究所として農業研究分野における国際協力体制の重要な一環を担つている。
わが国の国際稲研究所に対する協力は70年度から開始され,同年度には305万2,000円を拠出したにすぎなかつたが,その後毎年拠出を増大し,74年度には8,116万円,75年度には2億780万5,000円を拠出した。わが国は,世界的に食糧問題が注目を集めている現在,本研究所の役割はますます重要度を加えており,これをさらに積極的に支援していくべきであるとの観点から,76年度には植物生理学部門運営費,作付体系研究経費等従来からの拠出対象に新たに土壌微生物学部門運営費及び遺伝子評価利用研究経費を加えることとし,3億800万円の拠出を行う予定である。
本機構加盟国は,国際情勢の変化を反映して,数年来ASPAC活動に対する熱意を失いつつあり,既にASPAC閣僚会議は73年以降事実上活動を停止しているところ,75年には4つの下部機構のうち,科学技術サービス登録機関(REGISTRY)及び経済協力センター(ECOCEN)につき,以下のように活動停止の決定が行われた。
(イ) 科学技術サービス登録機構
本機構が設置されていたオーストラリアの前労働党政権は,その成立以来ASPACに消極的態度をとつてきていたが,本機構についても,これがASPACの下部機構である限りこれを自国内に置くことは最早受け入れ難いとの立場を明らかにし,これをASPACより切り離し,ESCAP(国連アジア・太平洋経済社会委員会)の下に移管することを提案した。しかし,ESCAP側では,同機構の引き受けについてコンセンサスが得られず,結局,本機構の活動は75年6月30日をもつて停止されることとなつた。(タイは2月に,またオーストラリアとニュー・ジーランドは6月に本機構から正式に脱退する旨を通告した。)
(ロ) 経済協力センター
本機構についても,75年いつぱいは,主としてアジア地域における貿易投資に関する調査活動を行つてきたが,75年10月に至つて機構の所在国たるタイが,新たに75年7月以来開かれた中国との関係への配慮もあつて,機構の活動停止を要請したため,同機構の活動は76年3月末をもつて停止されることとなつた。
(ハ) 以上の結果,ASPACの4つの下部機構の中で活動を続けているものは,文化社会センター及び食糧肥料技術センターのみとなつた。
(イ) 67年にフィリピン,インドネシア,マレイシア,シンガポール及びタイの5カ国を加盟国として発足したASEANは,75年4月のインドシナ情勢激動のあと,5月13日から15日までマレイシアのクアラルンプールで第8回の定例閣僚会議を開催した。この会議では,政治・社会体制の相違が相互関係進展の障害であつてはならず,インドシナ新政権との間にも平和5原則に基づき友好関係樹立の用意がある旨表明された。また,域内協力については,前回閣僚会議と同じくその強化の必要性が強調されたほか,ASEAN域内の特恵的貿易制度設立のために貿易交渉機関を設置すること,及びASEANの産業補完のためのガイドラインが採択された旨発表された。さらに,ここ数年来拡大しつつある域外諸国との協力に関しては,EC,豪州,ニュー・ジーランド,カナダ,オランダとの協力関係が高く評価された。
(ロ) 他方,インドシナ情勢の激動は,結果的にASEAN加盟国の団結を助長し,初の首脳会議開催への動きを醸成した。首脳会議については,フィリピンのマルコス大統領が71年11月の臨時外相会議で一度提唱したことがあつたが,同大統領は75年4月のプノンペン陥落の機会に,早期にアジア情勢について話合うためとして,再びこれを提唱した。本件は,5月の閣僚会議ではインドシナ情勢を考慮したためか何ら言及されなかつたが,加盟国間の連帯を高めるべきとの認識はその後高まり,9月には首脳会議開催が本決まりとなつた。かくしてASEAN初の首脳会議は,その後の5回に及ぶ高級官吏会議と2回の外相会議という周到な準備を経て,76年2月23日・24日の両日インドネシアのバリ島で行われた。その結果,ASEAN協和宣言,東南アジア友好協力条約などが採択された。この会議は,加盟国首脳が小異を捨て大同についてともかく初めて一堂に会し,今後のASEAN発展のため新たな方向づけを行つたという意義において,ASEAN史上画期的なものであつた。その方向づけはまず,ASEAN地域の安定のためには経済発展が必要かつ唯一の方法であり,そのために経済協力を一層強化すべきとの共通の認識であつた。次に,今後は政治面での協力も強化することが合意された。ただし,これはASEANの政治・軍事ブロック化を意味するものではなく,特に安全保障面での協力は,非ASEANベースで行う旨が明らかにされた。更に,インドシナ諸国に対しては,平和的協力関係を呼びかけるとともに,東南アジア友好協力条約に加入条項を設けるなどの配慮を行つた。
(ハ) わが国は,従来よりASEANを東南アジアの自主,自立の地域連帯機構として高く評価してきたが,特に上記首脳会議の開催に際しては,三木総理よりのメッセージを送り,また閉会後は宮澤外務大臣の談話を発表して会議を積極的に評価するとともに,今後ASEANと対話を一層促進し,協力関係を進める意図を明らかにした。
そのASEANとの具体的協力の場としては,既に73年以来ゴム問題に関する日本・ASEANフォーラムが設置されて毎年会合を開いてきたが,75年については7月に第3回の事務レベル会合が開かれ,天然ゴムの需要増大のためにわが国が協力を行う旨が合意された。その第一歩として,76年1月にはわが国より天然ゴム調査団が加盟5カ国を訪問し,またASEAN側からは同3月に天然ゴム専門家チームが来日した。
2. 朝鮮半島
(イ) 南北朝鮮関係
(a) 南 北 対 話
離散家族捜しのための南北赤十字会談は,73年7月の第7回本会議を最後に中断状態にあるが,本会議再開のため,74年7月以来実務者レベルによる話合いがもたれており,75年中には8回の実務会議(第7回~第14回)が開催された。
韓国側は,老父母の再会,書信の交換,墓参団の交流及び第8回本会議のソウル開催(本会議は南北交互に開催することになつており,第8回本会議は,ソウル開催の順番である)等を主張しているのに対し,北朝鮮側は,再開の先決条件として反共法,国家保安法など反共法規の撤廃,全ての反共機関の解散をあげ,ソウルは雰囲気が不安であるので,平壌で開催しようと主張し,本会議の再開合意には達していない。
また,南北調節委員会についても,73年12月以来同委員会の運営を正常化させるための副委員長会議が板門店で開催されてきたが,第11回副委員長会議の開催予定日の前日である75年5月29日,北朝鮮側が,戦争の危機を醸成している韓国と会談しても成果はなく,当分の間延期するとの一方的措置をとつたため中断した。
その後,韓国側は,数次にわたり副委員長会談の無条件再開を提案しているが,北朝鮮側は再開の前提条件として反共宣伝と国民弾圧の中止,戦争挑発策動の中止及び2つの朝鮮政策の撤廃等を要求しており,双方の主張は大きく対立して,再開の見通しはたつていない。
(b) 軍事的緊張
第2トンネルの発見(75年3月),金日成主席の中国訪問(同年4月),米国のインドシナ半島からの撤退(同年4月)及び西海における一連の軍事衝突等により,韓国側は,北朝鮮の南侵の脅威が高くなつたとみなし,一時的に緊張が高まつた。
この緊張も韓国側が防禦準備等の促進及び総力安保体制確立のため一連の国内措置を講ずるとともに,米国が再三にわたり韓国に対する防衛公約の遵守の再確認をしたこと及び韓国における戦術核の配備を公表したこと(同年6月)等により夏頃以降次第に落着きをとり戻し現在に至つている。
また同年前半には西海における北朝鮮船舶の追跡・衝突・沈没事件(2月26日~27日),北朝鮮機の白ニヨン島付近上空侵犯事件(3月24日,6月9日),北朝鮮船舶の白ニヨン島付近領海侵犯事件(7月12日)等の局地的軍事紛争が集中的に発生した。西海において海軍,空軍の衝突事件が増大していることが注目される。
(c) 南北の対外政策
北朝鮮は,75年において,モザンビーク,フィジー,ポルトガル,タイ,ケニア,ビルマ,エティオピア,リベリア,テュニジア,サントメ・プリンシペ,カーボ・ヴェルデ,シンガポール,コモロ,アンゴラの14カ国と新たに外交関係を樹立した(76年3月31日現在外交関係設定国数は韓国が93,北朝鮮が88,うち南北双方ともに設定している国は46)。また北朝鮮は,非同盟諸国会議への加盟(韓国は未加盟)を実現する一方,韓国が既に加盟している世界気象機構(WMO)及び国際通信連合(ITU)にも加盟した。更に国連総会においては,北朝鮮側の決議案が初めて採択された。
また,金日成主席は,4月と5月に中国,ルーマニア,アルジェリア,モーリタニア,ブルガリア,ユーゴースラビアの各国を歴訪したが,この目的は,これら諸国との関係強化をはかるとともに,非同盟諸国との連帯を強化することにあつた。
他方,韓国は朴大統領が,75年年頭記者会見を通じて,北朝鮮に対し,南北不可侵協定締結の受諾等を内容とする5項目を提案した。
また,外交活動の面では,インドシナの新情勢に対処して,米・韓共同防衛体制強化に重点をおくとともに,北朝鮮に対抗して,非同盟諸国外交の強化,東欧共産圏を含む親北朝鮮諸国との修交努力,南北朝鮮の国連同時加盟推進,及び資源獲得と市場拡大のための経済外交に重点を置いた。
75年を通じ韓国は新たに3カ国(ビルマ,シンガポール,スリナム)と外交関係を設定したが,他方,インドシナ情勢の変化もあり,4カ国(ラオス,南ヴィエトナム,カンボディア,ダホメ)との外交関係が断絶した。
(ロ) 韓国の政情
(a) 緊急措置の宣布と総力安保体制の確立
韓国政府は,維新憲法の存続に対する賛否を問う国民投票を実施したあと(2月12日),緊急措置違反者の釈放(2月15日~17日)など緩和政策を示したが,74年以来継続的に発生してきた学生,宗教界,野党等による反政府運動は鎮まらず,3月末よりソウル市内の各大学で学生デモが起り始め,これが全国に波及する動きをみせた。これに対し韓国政府は,4月8日高麗大学に休校を命じる大統領緊急措置第7号を宣布した。
他方,ヴィエトナムの新事態の発生と折からの金日成訪中を背景として,韓国政府は,75年5月13日一切の改憲運動と学生デモを禁じる大統領緊急措置第9号を宣布し,次いで,総力安保体制促進のため「学徒護国団」,「民防衛隊」を組織し,「防衛税法」及び「社会安全法」等を立法化した。これら一連の国内措置と米国の度重なる対韓防衛公約履行の発言により,一時国民の間に高まつた安全保障上の不安は解消し,反政府運動も鎮静し,総力安保体制が定着した。
(b) 新内閣発足
朴大統領は75年12月19日,4年半継続した金鍾泌総理を更迭し,崔圭夏国務総理を首班とする新内閣を発足させた。
(ハ) 韓国経済の状況
75年の韓国経済は実質経済成長率8.3%を記録し,74年に引き続き低調であつたものの,下半期の輸出回復に先導されて緩やかではあるが着実な景気回復傾向を示した。すなわち海外需要の停滞により74年下半期から輸出が伸び悩み75年に入つても低迷したが,輸出努力と一部先進経済国の景気の持ち直しにより,下半期に至つて輸出が回復し始め,工業生産も着実に伸長した。国際収支面では,政府の輸入抑制策が奏効し貿易収支赤字は前年比約5億ドル改善して14億ドルに,経常収支赤字は約2億ドル改善して18億ドルにおさまつた。資本収支では国際金融機構等からの長期資本の導入が順調であり,外貨準備高は75年末で前年末比5億ドル増の15億ドルとなつた。物価は,75年末では前年末比卸売物価は20.2%,消費者物価は25.4%上昇したが,前年に比し安定的に推移した。7月に自主国防力強化のための財源として付加税的性格の防衛税が新設されたが,物価にそのまま転嫁されて物価上昇の一因となつた。
(ニ) 北朝鮮の政情
北朝鮮は,従来より思想・技術・文化の3大革命路線を進めてきたが,75年は,特に経済6カ年計画(1971~76年)を労働党創建30周年記念日である10月10日までに繰り上げ達成することを目標とし,3大革命路線の一層の強化のもとに,国民の一大奮起を促した。朝鮮労働党創建30周年記念行事では,党を中心としての団結と思想闘争の強化,経済建設の促進,殊に技術革命の継続強化等が強調されるとともに,3大革命路線を更に推進していくことが確認された。また75年末からは,従来にも増して金日成主席のチュチェ(主体)思想による唯一思想体系の確立,経済建設への奮起を訴える13大革命赤旗獲得運動」が全国的規模で展開された。また,75年9月からは,11年制義務教育が全国的に実施された。
(ホ) 北朝鮮の経済の状況
75年9月22日,北朝鮮中央統計局は,経済6カ年計画(1971~76年)を1年4カ月繰り上げて8月末に達成し,国民所得は,74年現在70年に比し1.7倍となり,工業生産の年平均増加率は同計画目標の14%を上回る18.4%を記録し,5,126の工場・企業所が計画を完遂するとともに,この間に1,055の工場と職場が新設され操業を開始した旨発表した。しかし,同計画が繰り上げ達成されたとされているものの,次期経済計画は発表されず,1976年は,経済6カ年計画の未達成部門(例えば鉄鋼,セメント)を遂行し,次期経済計画に移行するための緩衝期間であるとされていることや,74年末頃から対外債務支払遅延問題が明らかになつてきたこと等から,75年の北朝鮮経済は,かなり困難な状況にあつたとの見方が行われている。北朝鮮の外貨事情悪化の原因としては,自国船舶を有していないこと,傭船が困難であつたこと,国内輸送手段の不足,港湾施設の不備,亜鉛等非鉄金属の国際価格の下落,輸出不振,支払能力を無視した先進諸国からの機械類の導入等があげられている。
(イ) 緊急措置違反日本人2名の釈放
74年以来日韓間で外交問題となつていた日本人緊急措置違反事件は,韓国における韓国法適用の問題として,第一義的には韓国の国内問題であつたが,日本政府は,外国における邦人保護の立場から,早川氏及び太刀川氏両名につき,事件当初より人権の尊重及び公正かつ迅速な解決を申し入れるとともに,具体的には弁護士の斡旋や差入れの仲介等の便宜を供与したり,家族・館員との面会実現等につき韓国側に各種の働きかけを行つた。また日本政府は事件の早期解決を目指し,韓国側が日韓友好の見地から適切な配慮を示し,両名が早期に帰国できることが望ましい旨を外交ルートで再三にわたり韓国側に申し入れていたところ,75年2月17日に至り,国民投票で維新体制が信任された機会に,韓国政府は「日本との友好関係を考慮して」大法院に係属中であつた両名を釈放した。早川・太刀川の両氏は同日帰国した。
(ロ) 金大中氏事件
73年8月に発生した金大中氏拉致事件について,韓国政府は75年7月22日金東雲元駐日韓国大使館書記官の捜査結果に関する口上書をわが方に寄せ,その中で韓国側は(a)事件後取り敢えずその職を解き捜査を行つたが,思わしい結果が得られず74年8月14日捜査を一時中断した,(b)その後も秘かに捜査を続行したが,嫌疑事実を立証するに足る確証を見出し得す不起訴処分となつた,(c)しかしながら,捜査の結果判明した本人の東京における言動は,日本の警察当局の嫌疑を受ける等,国家公務員としてその資質を欠き品位にもとるものと認め公務員としての地位を喪失させた,旨通報越した。
(ハ) 日韓外相会談と第8回日韓定期閣僚会議
75年7月23日,24日の両日宮澤外務大臣は訪韓し,金東祚外務部長官との間に会談が行われ,同会談において閣僚会議の早期開催が合意された。
この合意に基づき,9月15日ソウルにおいて第8回日韓定期閣僚会議が開催された。日本側より,福田副総理兼経済企画庁長官,宮澤外務大臣,安倍農林大臣,河本通産大臣が出席し,(1)日韓関係一般及び国際情勢,(2)両国の経済情勢,(3)日韓経済関係(貿易・経済協力)につき討議し,共同コミュニケが発表された。
(ニ) 通 商 関 係
75年のわが国の韓国向け輸出は約22,5億ドル(前年比15.4%減),輸入は約13,1億ドル(同比16.6%減)で,輸出入比率は前年と同じく1.7対1であり,貿易収支黒字幅は約9億ドル(74年は約11億ドル)に減少した。
日韓貿易は国交正常化以降,順調に拡大してきたが,73年秋の石油危機に伴うわが国の景気の停滞を反映して,75年初めて輸出入とも前年を下回つた。
韓国は,わが国にとつて輸出相手国として73年より2位であつたが,75年には4位となり,また韓国からの輸入は,わが国の消費需要の冷え込みにより伸び悩んだ。わが国の不況が日韓貿易に与えた影響は深刻で,一部商品については,国内業者の間から韓国側の秩序ある輸出を求める動きが生じ,75年2月及び5月には繊維,なかんずく大島紬及び絹織物,同年10月及び11月には漁業,殊にまぐろの貿易につき,両国事務レベルの協議(いずれもソウル)が行われ,調整が行われた。
このほか,4月に日韓のり会談(東京),12月に第12回日韓貿易会議(東京)が開かれた。
(ホ) 経済協力関係
8月に農業振興及び北坪港開発のための234.2億円の円借款供与の書簡交換が行われ,一般の無償資金協力としては,11月にソウル大学校工科大学に対する機材供与のための書簡交換が行われた。
更に,技術協力として研修生の受け入れ,専門家の派遣,各種開発調査の実施,医療協力,技術訓練センターの実施等幅広い協力を実施した。
他方,民間輸出信用については,わが国は一般プラント,漁業協力及び船舶輸出に75年末現在輸出承認ベースで約10億ドルの延払輸出を行つた。
なお,日韓国交正常化の一環として65年6月22日に署名された請求権協定に基づく韓国に対する経済協力(有償2億ドル,無償3億ドル)は,75年12月17日,10年間の期間満了に伴い,所期の目的を達し,予定通り終了した。
(ヘ) 民 間 投 資
韓国側資料によれば,わが国の民間資本の韓国への進出状況は認可ベースで75年は24件約10万ドル(外国人投資全体額の51%)で,累計すると743件616百万ドル(同66%)にのぼる。しかし対韓投資の最盛期だつた73年に比べると約173にとどまり,国内景気不振による企業の投資意欲の減退と資金調達難を反映して,74年に引き続き低調であつた。
(ト) 漁 業 問 題
75年秋頃から,北海道釧路沖漁場で韓国大型漁船の操業により,わが国沿岸漁業者が敷設する漁具が破損される等の事件が発生したため,日本側は韓国側に操業秩序を維持するための協力を要請した。
(チ) 竹 島 問 題
わが国政府は,韓国の竹島不法占拠に対し,従来からくり返し抗議してきているが,11月にも,韓国側に対し,同島における各種建造物の設置及び官憲の駐在につき,抗議するとともに,これらの撤去を求める旨の口上書を発出した。
(イ) 松生丸事件
9月2日,松生丸(田川船長ほか8名乗組)は黄海北部において操業中,北朝鮮漁船より突然銃撃(死者2名,負傷者2名)を受け拿捕・連行された。
日本国政府は早速,日本赤十字社を通じて松生丸の乗組員・遺体の早期釈放,返還を要求した結果,負傷者2名を除く乗組員は松生丸と共に9月14日,負傷者2名は11月14日帰国した。
北朝鮮側は,松生丸が領海に不法に侵入し,警備艇の停船信号に応ぜず逃走したため,米国または韓国のスパイ船と考え,発砲・拿捕したと発表したが,政府は本事件の関係者からの事情聴取を含め慎重に調査を進めた結果,本事件は,北朝鮮の主張とは異なり,北朝鮮当局の船舶が公海上において無防備な松生丸を警告なしに銃撃したことが明らかとなつた。このため,政府は,在外公館において,北朝鮮側に直接抗議しようとしたが,先方が面会に極めて消極的反応を示したため,止むなく,11月19日,(a)確立された国際法に違反する北朝鮮の行為に対する強い抗議,(b)責任者の処分及びこの種事件の再発防止措置の要求,(c)遺族への2万ドルの救済金及び負傷者への治療に留意しつつ,かかる措置により救済されていない損害の賠償請求の権利の留保を内容とする政府見解を発表した。
(ロ) 通 商関 係
75年の貿易は,北朝鮮における外貨事情の悪化及び日本における不況を反映して,急激に減少した。わが国の輸出は1億8千万ドル(前年比28%減),輸入は6千万ドル(前年比40%減)であり,また北朝鮮のわが国企業に対する債務支払遅延の問題が生じた。
(ハ) 人 的 交 流
(a) 邦人の北朝鮮への渡航は,年間旅券発給数によれば705名であつたが,渡航目的別には,商用が多くなつている。
(b) 北朝鮮からの入国者数は84名で,73年の315名,74年の161名に比し,大幅に減少した。
(c) 在日朝鮮人の再入国は,従来の北朝鮮への里帰りから,近年,スポーツ,学術,文化,商用を目的とするものなどに,徐々に範囲が広まりつつあるが,75年には更に教育,祝典関係の増加(例えば,全国科学者討論会参加,北朝鮮創建27周年記念祝賀団等)がみられた。
3. 中国及びモンゴル
(1) 中 国
(a) 概 観
75年1月全国人民代表大会が開催され,新憲法の採択,国務院人事の決定等が行われた。この大会では文革・批林批孔運動が展開された過去10年の内外政策を総括し,批林批孔運動の継続,経済発展重視の姿勢を打ち出した。しかるに2月以降イデオロギー面を強調する運動が相い継いで展開され,更に76年1月周恩来総理の死去を契機として,これらの運動は「走資派」批判運動に発展し,同年4月初めにはトウ小平副総理の解任,華国鋒の総理就任という事態にまで立ち至つた。
他方,対外関係においては,従来からの「覇権主義反対」の基本路線は堅持され,ソ連を第一の敵として攻撃するとともに,いわゆる「第三世界」の諸国に対して積極的な外交活動を展開し,同時に西側先進諸国との関係の維持発展を図る路線が継続された。また,経済面においては76年から開始される予定の第5次5カ年計画をひかえ,農業・石炭等に関する全国会議が75年9月以降相次いで開催された。75年度における農工業生産は全般的には好調と伝えられているが,対外貿易は世界的不況の影響も受けてほぼ前年並みに留まつた模様である。
(b) 国内動向(内政)
(i) 全人大会の開催
75年1月全国人民代表大会が10年振りに開催され,新憲法と「憲法改正報告」の採択,「政府活動報告」の承詔,国務院,全人大会常務委員会の人事の決定が行われた。 国務院の新陣容は,周恩来総理(再任),トウ小平を筆頭とする12名の副総理及び29名の閣僚が任命されたが,経済関係閣僚に21名の実務経験者が任命された。また,全人大会常務委員には,文革や批林批孔運動で活躍した人々が多数選ばれるなど,「老中青の三結合」(老年,壮年,青年幹部の結合)の傾向が顕著であつた。 一方,新憲法は,毛沢東思想を基本とし,国家機関に対する党の指導が強化された点などが特色であつた。「政府活動報告」は,今後の基本方針として国内団結と批林批孔運動の継続を強調しつつ,経済発展重視の姿勢を示し,「今世紀内に農業,工業,国防,科学技術の近代化を実現し,国民経済を世界の前列に立たせる」構想(いわゆる「四つの近代化」)を明らかにした。 |
(ii) プロレタリア独裁理論学習運動
75年2月初めより,本運動が大々的に展開された。これは,中国で現在実施されている諸経済制度には資本主義下の制度と大差ない面が多く,これに制限を加えなければ資本主義復活の危険があるとして,理論学習を呼びかけたものである。 |
(iii) 水滸伝批判運動
ついで8月末より,水滸伝批判運動が全国的規模で展開された。これは,水滸伝が投降主義をとつた主人公の宋江を宣揚する小説であるとして,その徹底的批判を呼びかけたものである。本運動の背景もプロレタリア独裁理論学習運動と同様,中国の修正主義化防止の名の下に何らかの国内抗争の存在を示唆するものと観測されていた。 |
(iv) 教育問題をめぐる論争
11月中旬清華大学,北京大学を中心に始まつた教育問題をめぐる論争は,人民日報が12月初めよりこれを大きくとり上げるに至り,大きな論争に発展した。この論争は,同年の7,8,9月中国の教育界には,文革以来行われて来た教育革命を否定する「奇談怪論」があつたとし,かかる主張を「右からの巻き返し」をはかる修正主義復活傾向であると攻撃したものである。 |
(v) 老幹部の死去
このように,75年を通じて種々の運動が展開されたが,人事面では長征以来の老幹部の死去が報じられた。即ち4月には,董必武(同年1月まで国家主席代理),12月には党副主席の康生,更に76年1月には建国以来総理の任にあつた周恩来が相次いで死去し,指導部における世代交替が進行しつつあることを印象づけた。 |
(vi) 走資派批判闘争
(あ) 76年に入り,それまで教育問題に限定されていた論争は,1月の周総理葬儀後急速に拡大し,科学技術界の反右派闘争(1月31日,人民日報)となり,更には「今回の闘争の重点は党内の走資派を叩くことにある」(2月6日,人民日報)と説明され,国政の基本路線全般にわたる批判闘争に発展した。 (い) この段階での批判は,政策面で走資派が国政のかなめたる「階級闘争」と副次的なものに過ぎない「安定団結」,「経済発展」とを同列に置いて「三項目の指示」とし,また農業,工業,国防,科学技術の「四つの近代化」を強調することによつて革命闘争を軽視したとするものであり,他方人事面では走資派が「老中青の三結合」に従つて若手幹部を登用せず,逆に文革時に失脚した幹部を復活させ重用したというものである。 3月に入ると走資派が文芸革命や,「はだしの医者」などの医療革命を否定した旨攻撃される等,走資派の言動をあらゆる角度から批判する段階に至つたが4月初めまでの公式報道では,名指しの批判は行われていなかつた。 (う) この批判運動は当初党の指導の下に秩序あるものにとどまつていたが,4月5日北京の天安門広場において群衆の騒動事件が発生した。これに対し,中国当局は本騒動を「反革命事件」と断定しその鎮静化に努力するとともに,4月7日には2月7日以来総理代行の地位にあつた華国鋒を党第一副主席,国務院総理に任命し,とう小平を党内外のすべての職務から解任(ただし,党籍のみ保留,監察処分)することに関する党中央政治局の決議を発表した。 |
(c) 外 交
(i) 対 米 関 係
75年10月キッシンジャー国務長官の訪中に続き,12月初めフォード大統領が訪中し,毛沢東主席およびとう小平副総理と会談した。共同声明は出されなかつたが,双方は演説の中で今後とも上海コミュニケを基礎として両国関係を進めていく意向を表明した。 その後76年2月ニクソン前大統領の訪中の際,華国鋒総理代行は,「毛主席が定めた対外路線,方針,政策を遂行する」旨述べ,内政面における動きにもかかわらず,対米政策を含む対外政策は不変であることを強調した。 |
(ii) 対ソ連関係
ソ連との関係では,喬冠華外文部長の国連演説(9月)や諸論文で,「戦争を起こす危険は主として社会帝国主義にある」とし,またアンゴラ問題に対するソ連の態度を繰り返し非難し,更に「前門の狼,後門の虎」との諺をもつて,東南アジアに対するソ連の進出に対する警戒の必要性を折に触れて呼びかける等,対ソ攻撃をさらに強めた。 他方中国は12月,74年3月新疆に不時着しスパイ容疑で拘留されていたソ連ヘリコプターとその乗員を,同容疑が晴れたとして釈放,送還した。 |
(iii) 対アジア関係
(あ) インドシナ半島において75年は大きな情勢変化が見られたが,これに対し中国は,まず,4月のカンボディア情勢急変を「民族解放戦争の決定的勝利」と評価し,キュー・サムファン及びイーン・サリ両副首相の訪中(8月)に際しては覇権反対に言及した共同声明が発表された。 また,南越における情勢急変(4月)については,「ヴィエトナム人民の抗米救国戦争の偉大な勝利」と評価し,北越共和国30周年記念行事参加のため陳錫聯副総理がハノイを訪問した(8~9月)。しかし北越からレ・ジーアン労働党第一書記が訪中した(9月)際には,共同声明が発表されず注目された。また両国は75年秋より,西沙・南沙群島等の領有権に関する主張を種々の機会に直接・間接に繰り返した。 更に12月のラオスの共和制移行について,中国は「民族民主革命の偉大な勝利」と意義づけた。76年3月カイソン首相が訪中したが,レ・ジュアン北越第一書記の訪中の際と同様,共同声明は発表されなかつた。 (い) 対ASEAN諸国関係では,マルコス・フィリピン大統領(6月),ククリット・タイ首相(7月)が訪中し,前年のマレイシアに続いてこれら2国との間にも外交関係が樹立され,その際の共同声明ではマレイシアの場合と同様,覇権主義反対がうたわれた。 76年2月開催されたASEAN首脳会議に関し,中国は同会議で採択された東南アジア友好協力条約を「重要な意義を有する」ものと報道する等,好意的評価を行つた。 (う) 南西アジア関係では,中国はパキスタンと時を同じくしてバングラデシュ新政権と外交関係を樹立し関係改善をはかつた(10月)。また陳錫聯副総理のネパール訪問(2月),李先念副総理のパキスタン訪問(4月),ネ・ウイン・ビルマ大統領の訪中(11月)等の動きもみられた。 (え) 対北朝鮮関係では,金日成主席の訪中(4月),張春橋副総理の訪鮮(9月)などを通じて両国の友好関係強化がうたわれた。 |
(iv) 対欧州関係ではとう小平副総理の訪仏(5月),西独首相,ユーゴ首相の訪中(ともに10月)等の要人往来があり,中国はこれらの機会に「両超大国の争奪の焦点は欧州にある」ことを繰り返し強調した。
(d) 経 済
(i) 75年は第4次5カ年計画の最終年度に当る年であつたため,経済面においては前年に比し,活発な動きが伝えられた。 75年1月第4期全人大会の政治活動報告では,いわゆる「四つの近代化」という目標が明らかにされたが,これを受けて,75年後半には「農業は大楽に学ぶ全国会議」「石炭鉱山採掘隊長会議」等が相次いで開かれた。これらの会議では大楽県にならつた県の普及,農業の機械化並びに鉱山設備の近代化等が呼びかけられた。 (ii) 生産面では依然として生産数量及び金額について具体的数字の発表はなかつたが,鉱工業生産額(1~8月)については前年同期比17.3%増という発表があり,年間ではここ数年並みの伸びがあつたものとみられる。石油について各油田の大幅な増産が伝えられたほか,石油,電力,軽工業でもかなりの伸びがあつたことが推測される。鉄鋼については報道が少なかつたこともあり,不振であつたものとみられている。農業は全国各地で自然災害に見舞われたにもかかわらず「連続14年の豊作であつた」旨発表され,穀物生産は2億7,490万トン(FAO総会における中国代表の発言)を上回つたとみられる。その他綿花,油脂作物等の経済作物も豊富で,林業,牧畜業を含めて農業全般にわたつて新たな発展を遂げたと伝えられている。 (iii) 対外貿易面では,世界的な不況の影響を受けて,輸出が伸び悩んだこと,輸入面でも穀物輸入の削減等の事情もあり,相手国の貿易実績等より推計すると,75年の貿易総額は140億ないし150億米ドルに止まり,前年並みの水準であつたものとみられる。輸出入バランスは74年は10億ドル前後の入超であつたと推計されているが,75年にはやや好転し,入超は数億ドル程度に縮小された模様である。 |
(a) 総領事館の設置
75年8月15日,小川駐中国大使と喬冠華中国外交部長との間で,在上海日本国総領事館と在大阪中国総領事館の相互設置に関する書簡が交換され,9月2日,日本の上海総領事館が開館し,その後11月7日には,初代総領事として,西沢憲一郎総領事が着任した。他方中国の大阪総領事館は76年3月8日開館し,田平総領事が初代総領事として着任した。
(b) 各種実務協定の進捗
75年においては日中共同声明に明記された4つの実務協定のうち,海運協定及び漁業協定が発効し,また既に締結されている貿易,航空両協定についてもそれぞれ協定に基づき交流が発展し,日中間の実務関係は全般的に順調な発展がみられた。
(i) 海運協定の発効
74年11月13日韓念龍中国外交部副部長が来日,東郷外務次官と同副部長との間で日中海運協定の署名が行われ,双方国内手続を了したのち75年6月4日発効した。
これにより両国政府は両国の海運関係を円滑に維持していくため,随時連絡を行い密接に協力していくことが可能となつた。
(ii) 漁業協定の署名・発効
政府間の日中漁業協定に関する交渉は74年5月から6月にかけて北京で行われた後休会していたが,75年3月から4月にかけ東京で再開され,一旦休会の後,5月には交渉地を北京に移して引き続き行なわれた。その結果,6月21日双方は協定全体について原則的な合意に達した(その間民間の日中漁業協定は6月21日6カ月間延長された)。その後条文の表現等技術的な問題の詰めを経て,8月15日東京で宮澤外務大臣と陳楚駐日中国大使との間で本協定の署名が行われ,12月22日双方で本協定の発効のために必要な国内手続を了した旨を確認する公文を交換し,本協定は同日発効した。
その間9月22日には日中漁業協議会代表団と中国漁業協会代表団との間で政府間協定に基づき民間の「漁業の安全操業に関する議定書」が署名された。
本協定が締結されたことにより,過去20年間民間協定により維持されてきた東海,黄海における日中漁業関係は,政府間協定の基礎の上に安定的に行われることとなつた。
(iii) 貿 易 協 定
74年締結された貿易協定第9条に基づき,75年4月北京において第1回日中貿易混合委員会が開かれ,日中貿易の動向,貿易実務上の問題等両国間の貿易に関連する問題の検討が行われた。
(c) 日中経済関係
75年の日中貿易は総額37億8,965万3千米ドル(対前年比15.2%増)に達した。うち輸出は22億5,857万7千米ドル(同13.8%増),輸入は15億3,107万6千米ドル(同17.3%増)であり,わが国対中出超額は,前年比約5,000万米ドル増加し,約7億2,750万米ドルに達した。輸入品目のうち,石油が800万トンと大幅増加し金額でみるとこれが中国からの輸入総額の約半分を占めたことが注目される。また11月には北京でジェトロ主催の日本工業技術展覧会が開催されたが,その開幕式に出席するため河本通産大臣が訪中した。同大臣は李先念副総理等と会見し,日中経済関係につき意見交換を行ない相互理解を深めた。
(d) 平和友好条約交渉
日中共同声明第8項において,その締結のための交渉がうたわれている平和友好条約については,74年11月韓念龍中国外交部副部長が来日した際に話し合いが開始されたが,75年においても引き続き交渉が行われた。
この条約は,「両国間の平和友好関係を強固にし,発展させるため」(共同声明第8項)に締結されるものであり,将来にわたり,日中両国間の平和的友好的な関係を確立していくための原則を定めるものであるとの点については,日中両国間で,基本的な合意が成立している。
日中両国政府は,上記の韓念龍副部長の来日に引き続き,以後東京及び北京において本条約交渉を行つたが,75年9月末には,ニューヨークにおいて国連総会出席中の宮澤外務大臣と喬冠華外文部長との間で,本件に関する初の外相レベルでの会談が行われた。両外相とも上記の長時間にわたる会談において,率直な意見交換を行つたが,本条約交渉の過程で話し合われてきた種々の問題につき両国の立場を説明し合い,双方の理解が深められた。特に,両国とも本条約交渉の早期妥結に対し強い熱意を有していることが両外相間において,確認された。
その後,両国政府は上記会談の結果を踏まえ,日中間の永遠の友好関係の基礎となるべき本条約の早期締結のため,引き続き努力を重ねている。
(e) 人的往来及び文化等の交流
日中間の人的往来は国交正常化以来急速に増加してきており,75年1年間についてみると,訪中した日本人数は1万6,655名と前年に比べ28%の伸びを示し,また来日した中国人数も4,441名と前年比41%増となつた。
スポーツ,文化等の交流においては,日本から体操,カヌー,重量挙げ,サッカー,バレーボール等のスポーツ代表団が中国を訪問した他,吉川京都大学名誉教授を団長とする政府派遣学術文化使節団が国交正常化後初めて訪中(3月)している。この他国会議員関係者の訪中団としては,保利衆議院議員一行(1月),社会党第6次訪中団が挙げられる。
これに対し中国からは,卓球,バレーボール,サッカー,水泳,陸上,バトミントン等のスポーツ代表団が来日した他,文化関係では新華社等の報道代表団(5月,6月),北京芸術団(9月)等が来日した。この他76年3月には王炳南を団長とする文化使節団(中国人民対外友好協会代表団)が来日している。
なお日中間の人的交流が活発化するのと並行して,政府の援護による中国からの邦人の引揚,里帰りが軌道に乗り,75年度の1年間で,引揚者390名(前年度比65%増),里帰者は1,562名(前年度比増55%増)を数えるに至つた。
(イ) 内 外 情 勢
(a) 内 政
75年も引続きツェデンバル体制に揺ぎはなく,これは,6月に実施された統一地方選挙で,反対票が全国でわずか8票(総投票数65万5,338票中)であつたことにも示されている。国家的行事としては,5月に対独戦勝,8月に対日戦勝とそれぞれ30周年記念行事を盛大に挙行し,人民空軍及びピオネール機関が成立50周年をそれぞれ祝つた。
(b) 外 交
76年3月末現在,モンゴルと外交関係を有する国は77カ国となつた。各国との関係では,75年も引続いて,ソ連のアジア集団安保構想支持,中国非難等,ソ連の外交路線を積極的に支持する政策がとられた。また76年からはじまる第6次5カ年計画に備えて,10月初めソドノム副首相が訪ソし,経済協力につき協議したほか,コメコン諸国との間にも経済協力につき話し合いが行われた。
(c) 経 済
75年において,工業は建設資材,皮革,靴,ガラス,陶器等の成績不振のため計画目標をやや下まわつた模様である。他方,農牧業は穀物生産が史上最高の収穫を記録したが,牧畜部門については大雪害にあつた旨報道された点からみて,不振であつたものと推測される。しかし,商業,運輸,建設等の各部門は計画を超過して達成したので,国民所得は計画目標を上まわり達成された。
また75年は第5次5カ年計画の最終年に当つたが,5カ年計画全体で社会総生産44%(計画31%),国民所得38%(計画30%)それぞれ伸びた旨発表された。
(ロ) わが国との関係
わが国とモンゴルとの関係は,72年の外交関係樹立以来順調に発展しているが,75年においては文化・経済関係の面で進展が見られた。まず文化面においては,文化取極締結後最初の年にあたり,間取極に基づく交流が開始された。わが国からはレスリング・チーム,劇団,学術調査団がモンゴルを訪問し,語学専攻の留学生2名も派遣された。また,語学教師が相互に派遣され,映画会の相互開催,わか国がら図書の寄贈なども実現した。
また経済面においては,6~7月にかけて,わが国の経済協力調査団がモンゴルを訪問し,その後経済協力に関する話し合いが行われ,この面でも進展を示している。しかし,両国間の貿易高は前年比30.7%減の124.5万米ドル(わが国の輸出79.4万米ドル,輸入45.1万米ドル)にとどまつた。なおモンゴルからは,ツェレンツォードル外務省第3局長が10月に来日し,外務省はじめ関係各省と二国間問題および国際関係に関し,広く意見交換を行つた。
4. ASEAN諸国及びビルマ
(イ) 内 外 情 勢
(a) 内 政
1975年はタイにとつて内外ともに多難な年で,政局は外交政策の転換と歴史の浅い議会民主制の中で揺れ動いた。
1975年1月の総選挙の結果,民主党が269議席中72議席を獲得して第一党となり,同年2月セニー党首を首相とする連立内閣が成立した。しかし,同内閣は議会での信任が得られず,3月,社会行動党,社会正義党を中心とする保守派8政党からなるククリット政権が生れた。
ククリット政権は,首相個人に対する国民の支持を背景として,内政外交の懸案事項を大過なく処理し,当初予想された以上の安定度を見せた。同政権は国内政策の重要目標として社会的公正の確保を掲げ,農村開発および貧富の格差是正等のためタンボン(郷村)開発計画を実施したほか,低所得者に対する無料診療,無料バス制度を発足させた。
75年後半に至り南タイ回教徒住民の騒動,物価上昇をめぐる国民の不満等により,ククリット政権に対する国民の支持は低下しはじめ,76年1月国会において野党からの内閣不信任案提出が予測される事態を迎え,国会の混乱を恐れたククリット首相は,12日に下院を解散した(総選挙は76年4月4日に実施)。
(b) 外 交
ククリット内閣は大国との等距離外交,近隣諸国との友好関係維持,ASEANの強化をその基本外交政策とした。
75年3月,ククリット内閣は駐タイ米軍の1年以内の撤退を公約し,75年4月約2万5,000名であつた米軍の数は同年末には1万1,000名となつた。
75年7月,ククリット首相は自ら訪中し,タイ中国国交正常化を実現した。
北越との間では5月に北越代表団が来タイし,両国関係改善につき話合いが行われたが,サイゴン陥落前後にタイに飛来した旧南越軍の航空機の返還をめぐつて交渉は中断された。
カンボディア新政権との間では,11月イエン・サリ副首相の訪タイにより外交関係が樹立され,国境近くにそれぞれの連絡事務所が設置された。
タイ・ラオス関係は75年後半に入りタイ武官補佐官の逮捕事件,11月のメコン河でのタイ警備艇被弾事件等を契機として緊張し,11月タイ政府はラオスとの国境を全面封鎖したが,76年1月国境封鎖を一部解除した。
(c) 経 済 情 勢
75年の農業生産は好天候に恵まれ,74年に比べかなりの増産となり,また工業生産も74年よりは若干大きな成長を遂げた。
74年に25%も上昇した消費者物価は75年に入りようやく鎮静化し始め,75年中では約5%の上昇にとどまつた。その結果,タイ経済社会開発庁の推計によれば,75年のタイの国内総生産は対前年比6.4%増と,75年の同3.2%をかなり上回るものとなつた。
国際収支については,貿易収支の赤字幅が一段と大きくなつたため,総合収支もかなりの赤字となつた。このため,74年末15.6億ドルであつた外貨準備高は75年末には13.7億ドルまで減少した。
一方,75年の外国投資は世界的不況とタイ国内外の情勢不安により投資環境が悪化したため,投資奨励企業を中心にかなりの落ち込みを見た。
(ロ)わが国との関係
(a) 経 済 関 係
日・タイ貿易は,従来よりわが国の大幅な出超が続いていたが,75年には対日輸出額が7.23億ドルと対前年比5.5%の伸びを示した一方,輸入は9.58億ドルと同0.8%増にとどまつたため,タイの入超額は2.35億ドルとかなりの改善を見た。
68年に設立された日・タイ貿易合同委員会の第7回会議は,75年4月24日より28日までバンコックにおいて開催され,日・タイ貿易不均衡是正策について話合いが行われた。
わが国の対タイ投資について見れば,その累計は投資委員会認可ベースで約7,800万ドルに達した(75年6月末現在)。これは外資中40.5%を占め,2位(米国,14.1%)以下を大きくひきはなし首位にある。しかし,75年におけるわが国の投資は,1~9月でみれば前年同期比25分の1と激減した。
(b) 経済協力関係
タイの第3次経済社会開発5カ年計画の達成を援助するための第2次円借款(総額640億円,72年4月書簡交換)に追加し,75年10月わが国は168.4億円の第3次円借款を供与する旨の書簡交換を行つた。
無償援助関係では,モンクット王工科大学校舎建設のため73/74年にわたつて総額9.5億円が供与され,75年11月にその建物が完成した。また同月,パクチョンロ蹄疫ワクチン・センター建設のため10億円を供与する旨の書簡交換が行われた。
75年中の技術協力の実績は,調査団の派遣22件93名,研修員受入れ161名,機材供与60件,金額にして約3億円にのぼつた。
(イ) 内 外 情 勢
(a) 政 治 情 勢
(1) スハルト政権は,その発足以来,国内経済の建て直しに全力を傾けるとともに,国軍の再編成等の措置により政治的基盤を確立してきた。
73年以降,学生・インテリを中心とする政府批判の気運が高まり,74年1月の田中総理(当時)のジャカルタ訪問の際,対日批判的な気運と結びついて,いわゆる1・15暴動事件に発展した。
スハルト政権は,直ちに内政面の強化,民族主義的な色彩の濃い経済政策の導入等を打出し,この試錬を乗り切つた。75年は,国内政治的に見れば,1・15事件で表面化した不安定要因の除去,かげりの見え始めた経済の建直し等を図りつつ,77年に控えた総選挙,78年の大統領選挙に向けての諸準備を開始した年であつた。即ちスハルト政権は,1・15事件関係者の裁判を推し進めるとともに国内諸勢力の統合強化と不満解消に努めた。更に政党法案,選挙法改正法案等の選挙関連法案を成立させる等,総選挙の準備を着々とすすめた。
(ii) 75年8月10日ポルトガル領チモールにおいて現地政党間の武力抗争が発生した。以来,平和会談の試みが数回にわたり行われたが,結局その実現をみぬまま11月28日,急進派のFRETILINが一方的独立宣言を行い,これに対抗して親インドネシア政党(UDT,APODETI他)も,インドネシアとの合併を宣言するに至つた。親インドネシア政党は,12月7日,首都ディリを陥落させ,同18日に,暫定政府の設置を発表した。国連においてもこの問題が総会及び安保理で取上げられるに至つた。
(iii) 1975年におけるインドネシアの外交はサイゴン陥落の直後より,一貫して,国としての強靭性(resiIience)を高める必要性を謳うとともに,その外交を展開する基盤としてASEANの域内協力の推進に力を入れてきた。
米国との関係は,75年7月スハルト大統領が,米国を訪問する一方,同12月には,フォード大統領が,インドネシアを訪問し,外相間・閣僚レベル定期協議の設置を合意するなど,紐帯の強化の方向が目立つた。
(b) 経 済 情 勢
(i) 1975年も世界経済の不況の影響は依然として大きく,国内の経済活動は停滞し,輸出は低迷を続けた。特に石油の輸出不振と国営石油会社プルタミナの財政危機の影響は大きく,国際収支面のみならず,国家財政の面からも,インドネシア経済に深刻な影響を与えた。しかしながら,物価動向は,安定的に推移し,1975年中の物価上昇率は,19.66%にとどまり,年間20%以内という政府の目標は達成された。
(ii) 1975年の貿易収支は,石油その他一次産品等の輸出不振,開発プロジェクトの推進による輸入の増大の結果,かなりの不調を示した。資本収支面も,銀行を通ずるローンの取入れ等,相当量の資金の流入がはかられたが,結局総合収支ではかなりの赤字となり,外貨準備も,74年末に比べ9億ドル程度減少し,75年末には6億ドル程度になつたとみられる。
(iii) 経済のインドネシア化の措置は,引き続き強化され,外国人労働者の就業を規制していく規則が発表され,また石油・ガス関係の建設部門への外資が原則として禁止されることとなつた。
対イ民間直接投資は,世界経済の不況及びインドネシア政府の外国投資規制の強化等による投資環境の悪化を反映して減少した。
(iv) プルタミナは,急激な業務分野の拡大とそれに伴う短期資金の借入増大の結果,75年2月その債務返済遅滞が表面化するに至つた。インドネシア政府は,インドネシア中央銀行をプルタミナの債務の管理救済に当らせるとともに,プルタミナ関係プロジェクトの整理及び人事機構の建直しをはかり,また75年中2回にわたり,欧米及び本邦の各銀行団より,総額10億ドル(本邦銀行団は総額約2億ドル)を超える中期のシンジケート・ロ-ンの取入れを行つた。
76年3月には,プルタミナ創設以来のストオ総裁が解任され,前大蔵省予算総局長のハルヨノが,同年4月総裁に就任した。
(ロ) わが国との関係
(a) 海洋法に関連する問題
本邦まぐろ漁船は,68年に締結された暫定民間取極に基づき,インドネシア諸島間の水域(バンダ海)において操業を続けてきたが,75年7月,同取極が終了することとなつたため,両国関係者の間で交渉が行なわれ,10月17日「利益分与方式によるまぐろ漁業協力に関する契約」が両国水産業界関係者間で締結され,本邦漁船は,爾後3年間,バンダ海での安全操業が確保されることとなつた。
また,75年9月下旬より,インドネシア海域において,本邦漁船が相次いで臨検ないし銃撃される事件が発生した。わが国は海洋法上の立場を留保しつつ,漁船通航に関する諸問題の暫定的かつ実際的な解決を見出すことを目的として,76年2月,インドネシアと公式協議を行つたが問題の根本的解決は依然将来に残されている。
(b) 経 済 関 係
(i) 75年の日本の対インドネシア貿易は,輸出1,850百万米ドル,輸入3,430百万米ドル,対前年比は輸出28%増,輸入25%減となつており,輸入がかなり落ち込みを見せている。これは主として石油及び木材の輸入が減少したことによる。
(ii) わが国の対インドネシア民間投資は,1975年中に20件,938百万米ドル(アサハン計画分870百万米ドルを含む)が許可され,1967年以来の許可ベース累計は,201件,2,003百万米ドルとなつた(第2位の米国は,130件,1,000百万米ドル)。
(c) 経済・技術協力関係
(i) 75年7月のスハルト大統領の訪日を機に,アサハン・アルミ計画プロジェクトの基本契約が調印された。
(ii) バンダ海における本邦まぐろ漁船の操業を確保するための漁業協力契約交渉と並行して,日本政府は,ジャカルタの水産アカデミー等に対し6億円を限度とする無償資金協力を行う用意ある旨の意図表明を行つた。
(iii) 75年5月のIGGI会議でわが国は,積極的な方針を示し,75年度分新規援助として410億円の供与を約束した。更に,同年10月この新規援助と,前年からのキャリー・オーバー分206.2億円の合計616.2億円を具体化する交換公文が署名された。
(iv) 技術協力については,わが国は,75年度末までに,累計で2,865名の研修員を受入れ,1,416名の専門家の派遣を行つたほか,開発計画,並びに道路橋梁建設,海運,観光,電気通信,農林業,鉱業等開発のための調査団が派遣された。このほか,機材供与として約3億円の機材(家族計画用機材7,500万円)が供与された。更に,74年2月,協定が締結されたウジーンパンダン職業訓練センターは,75年11月一部開所し,訓練を開始した。また75年中に,開発投融資計画により,主として林業関係10件,約11億円が貸し付けられた。
(d) 要 人 往 来
両国間の要人の往来としては,75年7月にスハルト大統領が非公式にわが国を訪問している。
(イ) 政治・経済情勢
(a) シンガポールは,昨年で独立後10年目を迎え,この間経済的に急速な発展を達成し,また,内政面でも安定した情況を呈し,国家としての基盤を強化してきた。しかし,対外依存度の高い経済体質を有しているため,石油危機を契機とした世界的な景気後退の影響により,特に74年下半期より75年上半期にかけて対外貿易額の減少,生産活動の落ち込みなどの経済困難に遭遇した。75年6月,人民行動党政権は内閣の一部改造を実施し,若手議員を国務相に起用するなど,政府の刷新を図つた。同政府が当面している課題は,順調な経済発展を如何にして維持するかということであり,これが77年に予定されている総選挙の帰趨に大きな係わりを有するものとみられる。
(b) 5カ国防衛取極の下にシンガポールに駐留していたANZUK軍(英連邦諸国の混成部隊)は,豪州及び英国政府が相次いで自国軍の撤退を発表したため,75年初頭に解体され,豪州軍に続き英国軍も76年3月までに撤退を完了した。一方,シンガポールと他のASEAN諸国との関係は緊密化の方向にあり,76年2月のASEAN首脳会議においては,域内の各国と多くの点につき合意をみた。中国との外交関係樹立については,シンガポール政府首脳は,かねてより,同国がASEAN諸国の中で一番最後の国となる旨述べている。しかし,シンガポールと中国とは,実際的には,既に経済面を中心とした活発な交流が行われており,政府レベルでも,75年3月にラジャラトナム外相が中国を公式訪問した。
(c) 75年の国内総生産は,対前年比で実質4.1%の伸びに止つた。従来のシンガポールの高度成長は,政府の積極的な外資誘致政策による製造業の発展と,世界的な好況に負うところが大であつたが,74年以降,製造業部門の実質成長率は急激な下落を示している。他方,国際収支は黒字基調を維持しており,公的外貨準備高は75年末現在約3,000百万米ドルに達した。また,アジア・ドル市場の規模は,75年末現在12,597百万米ドルとなつた。
(ロ) わが国との関係
(a) 貿 易 関 係
75年のわが国の対シンガポール貿易は,輸出1,524百万米ドル,輸入399百万米ドルとわが国の大幅な出超となつた。わが国の主要輸出品目は船舶,鉄鋼,合成繊維織物,金属製品などで,輸入は石油製品が74%と圧倒的な比率を占め,その他医薬品,繊維製品などであつた。
(b) 経済・技術協力関係
(i) 国際協力事業団ベースの技術協力については,75年12月末まで,累計で研修員529名の受け入れ,専門家109名の派遣を行つた。
(ii) シンガポール政府の外国企業誘致政策もあり,わが国からも多くの民間企業が同国に進出している。75年3月末現在の投資許可件数は333件,直接投資許可累計額は197百万米ドルとなつている。投資分野は,製造業,建設業,サービス業など各種の産業にわたつている。
(c) 要 人 往 来
両国間の要人の往来としては,ラジャラトナム外相が75年3月に,また,リー首相が5月にそれぞれ非公式にわが国を訪問した。
(イ) 政治・経済情勢
(a) ラザク政権は,74年8月に行われた総選挙における与党の圧倒的な勝利を基礎として,順風満帆のスタートを切り,中央集権的性格を強めたが,75年に入ると年央より種々の翳りが見えはじめ,内政面の不安が表われはじめた。すなわち,7月には,サバ州に与党サバ・アライアンスに対抗する野党BERJAYAが中央政権の後押しで結成され,大きな政治問題となつた。その結果10月末,サバ州首席大臣ムスタファはその職を辞任することとなつた。また半島マレイシアのスランゴール州では,与党内におけるラザク政権への対抗者であつたハルン首席大臣の汚職問題が法廷に持込まれ,同首席大臣の休職という事態に至つた。また治安面では,タイ国境周辺の共産ゲリラ活動に加え,8月末頃から首都クアラルンプールにおける爆破事件等都市部におけるテロ活動が多く見られるようになつた。このような事態に対しマレイシア政府は,大学法の改訂,隣組制度の導入,自警団の強化といつた対応策を講じ,新たな治安政策を打出した。
(b) 76年1月14日,ラザク首相は,突如休養先のロンドンで死去した。フセイン・オン副首相は,直ちに故ラザク首相の後を引継ぎ,新たな政治的転換期を迎えたマレイシアの国政に取組んでいる。
(c) 75年のマレイシア経済は,74年から引続いた主要先進工業国の不況の影響を受け,下半期にこそ景気回復の兆しを見せたものの,通年の国内総生産の伸び率は3.5%にとどまり,マレイシアとしては低調な1年であつた。景気後退の影響は,雇用面に顕著に表われ,失業率は74年の5%から7%へと悪化した。国際収支は,輸入量の急落と政府の長期資本流入に支えられて,若干の黒字を示した。
(d) 74年5月に外交関係を樹立した中国との間で,75年1月に大使交換が行われたが,75年4月のマラヤ共産党45周年記念に際し,中国共産党から祝電が発せられたことは,マレイシア政府の強い反発を招いた。インドシナとの関係では75年4月力ンボディア新政権(GRUNK)を承認し,また同年7月には南ヴィエトナム新政権(PRG)との間に大使級外交関係樹立につき合意した。また英連邦内の友好関係にも意を用い,75年10月ラザク首相が,ニュー・ジーランド,豪州を公式訪問した。
(ロ) わが国との関係
(a) 貿 易 関 係
75年の対マレイシア輸出は,566百万米ドル,輸入は691百万米ドルで,前年度に比べ輸出20%,輸入29.4%の減少を示した(マレイシア側統計によれば,対日輸出478百万米ドル,輸入681百万米ドル)。輸出の減少は,機械,自動車,化学製品等の輸出不振によるものであり,輸入減少は,主にマレイシアの主要輸出産品であるゴム,すす,製材の輸入減退に原因している。このような貿易量の減少のためマレイシアの総輸出・輸入に占める対日輸出入の割合も,各々14%及び21%と減少しているが,輸入国別順位は74年に引続いて第1位である。
(b) 経済・技術協力
(i) 74年8月に署名された第3次円借款供与に関する交換公文に基づき,今までに東西マレイシア通商用船舶プロジェクト,コンテナ・クレーン・プロジェクト等に関するローン・アグリーメントが締結されている。
(ii) 対マレイシア技術協力として,75年末までに累計(国際協力事業団,政府ベース)で研修員882名の受入れ,専門家299名の派遣及び青年海外協力隊287名の派遣が行われている。またセンター方式による協力として,「船舶機関士養成計画」(73年~77年)に対する協力を続行中である。
(iii) わが国の対マレイシア民間投資は,75年3月末現在,許可残高ベースで合計343件,223.3百万米ドルに上つており,マレイシアの外資導入政策に見合つて製造業,鉱業,漁業など多岐にわたつて行われている。
(c) 要人往来
76年1月の故ラザク首相の国葬には,わが国からは宮澤外務大臣が参列した。また76年3月には,わが国とマレイシアの国会議員相互の親睦と両国間の友好親善促進のため日本・マレイシア友好議員連盟が設立された。
(イ) 政治・経済情勢
(a) マルコス大統領は,75年2月27,28の両日レファレンダムを実施し,戒厳令体制の継続につき国民の支持を得ることに成功した。更に同大統領は75年9月,戒厳令3周年を機に,今後も推進すべき改革が数多くあるとして,当時巷間でささやかれていた戒厳令撤廃の可能性を明確に否定した。同時に,再び顕著になつてきた政府部内の腐敗を一掃するため,現職の閣僚を含む2,000人の政府高官,官吏の公職追放措置をとつた。
75年11月,マルコス大統領は,マルコス政権の最有力閣僚と目されていたメルチョール官房長官の辞任を承誌し,官房長官の職務の廃止を,突然決定した。同大統領は更に11月,マニラ市を含む首都圏4市13町を統合し,その首長にイメルダ・マルコス大統領夫人を任命した。イメルダ夫人は,従来より外交面で華々しい活躍をしていたが,メルチョール官房長官の辞任後,フィリピンの中枢たる首都圏知事という重要な地位を占めたことにより,名実ともにマルコス大統領に次ぐ実力者となつている。
マルコス大統領は76年1月,大統領の諮問機関として,サングニアン・パンバンサ(SangguniangPambansa)と言われる立法諮問委員会設置の方針を明らかにした。戒厳令体制4年目を迎えたマルコス大統領としては,同体制のイメージを和らげ内外の批判をかわすために,民意を汲取る機関として同委員会設置の方針を決定したとみられている。
こうした一連の動きに対し,マカパガル前大統領(制憲会議議長)は76年1月,立法諮問委員会の設置や大統領後継者をマルコス大統領が指名することは,新憲法に違反するものであると批判し,新憲法(1973年1月施行)で謳われている暫定国民議会を召集することを要求した。
(b) 南部回教徒反乱軍と政府軍の衝突は,依然,ミンダナオ地域において続いており,75年には反徒による日本婦人誘拐事件,末広丸事件,スルー4号事件と,邦人を巻込んだ事件が続発した。
(c) 外交関係は,74年に引き続き多角化の方向に進んだ。特に中国との関係では,75年6月にマルコス大統領自身が訪中し,両国の国交が樹立された。他方,対ソ関係については,マルコス大統領が近く訪ソし,国交樹立に至る見通しである。
対米関係では,75年12月,フォード米大統領がフィリピンを訪問した際,軍事基地及び通商に関する交渉を開始することが合意された。通商交渉については,ラウレル・ラングレー協定が74年7月に失効したため,新協定の締結が懸案となつているものである。また,軍事基地については,フィリピンは従来より在比米軍基地における同国の主権のより一層の明確化を主張している。
(d) 75年の経済は,世界的不況の影響を受け,4カ年計画の目標7%に対し6%以下の成長率にとどまつた。総合収支は500百万ドルの赤字,貿易収支は1,020百万ドルの赤字を示した。外貨準備は10億ドルの水準を維持した。
(ロ) わが国との関係
(a) 経 済 関 係
(i) 75年,わが国は,フィリピン貿易全体の30%以上のシェアを占め,貿易相手国として米国を抜いて第1位となつた。わが国の対比輸出は1,026百万ドル,同輸入は1,121百万ドルである。わが国の主要輸出品目は,機器,金属・化学製品,繊維品等,主要輸入品目は砂糖,木材,銅,バナナなどである。
(ii) わが国の対比民間直接投資許可累計額は,75年3月末現在190百万ドルで,ASEAN諸国中最も低い水準となつている。投資分野は,商業,鉱業,農林業などである。
(b) 経済・技術協力関係
(i) わが国は,56年に締結された賠償協定(総額550百万ドル,20年支払い)に基づき,引続き機械類,輸送用機器等の供与を行い,75年末までに,531百万ドルを履行した(履行率96.5%)。なお本件賠償は76年7月で完了の予定。
(ii) 75年3月,わが国は,比国の食糧不足解決に協力するため1.5百万ドル相当のタイ米をいわゆるKR援助として贈与した。
(iii) 75年2月商品援助として7,500百万円の借款を,また7月および9月には,プロジェクト援助としてそれぞれ10,988百万円および3,800百万円の借款を供与することに合意した。
(iv) 技術協力では,75年末累計実績で,1,710名の研修員を受入れ,594名の専門家を派遣,および青年海外協力隊員328名を派遣した。
(イ) 政治・経済情勢
(a) 74年3月の民政移管により発足した新しい政治機構は,75年を通じ,一応順調な進展を見せた。国権の最高機関たる人民議会も,会期を重ねるに従い,定着しはじめている。
6月には,学生騒動が発生したが,大学閉鎖,学生に対する帰郷命令,街頭での集会デモの禁止等の手段により鎮圧された。
ビルマ政府は,このような状況を考慮し,国民生活の不安を解消することに重点を置いた種々の経済安定化措置をとつた。その結果,75年後半の政情は比較的平穏に推移した。しかし,同年末以来,ネ・ウィン大統領個人の生活に,やや不協和音がきかれるようになり,また,76年に入つてからは,サン・ウイン貿易大臣やティン・ウー国防大臣兼軍参謀総長が相次いで辞任するなどの事態が生じた。また,タキン・コードー・フマイン生誕百年祭に便乗した学生の抗議集会も発生したが,過激派学生の逮捕や一旦再開した大学の再閉鎖措置に踏切るなどして事態の鎮静化が図られた。
なお,反政府分子の活動は,辺境地域を中心として活発であり,特に,ビルマ共産党反乱軍の活動は,75年3月,党首及び書記長が死亡したにもかかわらず,依然かなり活発であることが注目される。また,少数民族反乱軍やウ・ヌ派亡命反乱軍も国内治安の攪乱要因となつている。
(b) 国際情勢の推移につれて,ビルマは独立自主外交の原則に準拠しつつ,外交,経済,文化等の諸分野において,徐々に開放化政策を打出してきている。
75年においては,インドシナ情勢の激変後,南北ヴィエトナム及び韓国・北朝鮮との外交関係樹立にそれぞれ踏み切り,また,カンボディアとも関係改善の動きを見せた。11月中旬のネ・ウィン大統領の訪中は,自主,独立の外交路線に立脚しつつ,とくに隣接する大国との関係には十分な配慮を払うという,ビルマの現実的かつ弾力的な態度を示すものであつた。
(c) 国民の経済生活は,物資不足,価格急騰等により,75年前半著しく窮迫したが,公務員の給与改善策や特配,価格統制等の経済安定化政策の結果,後半,改善の兆が見え始めた。また,貯蓄奨励政策の実施に加え,流通制度の抜本的改革,政府機関の合理化及び国営企業の体質改善など,経済機構面でも種々の施策を打出し,経済体質の強化に取組んでいる。
第2次4カ年計画の第2年度に当る75年は,実質経済成長目標を6.4%と設定したが,学生騒動による経済攪乱,サイクロン被害などのため,結局6.1%の成長にとどまつた。しかし,林業を除き全般的に生産活動は好転した。74/75年度の籾の政府買上げが順調であつたため,闇米価格の騰勢が鈍化したことに加え,75/76年度産籾も豊作が見込まれる等明るい材料があるが,工業用原材料及び豆類の生産は目標を下廻つている。また,政府による籾の買上げ価格の前年度据置き及び供出分に対する特別割増金の廃止等のため,農民に対するインセンティブの減退等不安定要因もある。このように,国民経済は依然として種々の困難を抱えている。
(ロ) わが国との関係
(a) 貿 易 関 係
75年はわが国の出超で,わが国からの輸出は,61.3百万ドル,輸入は25.4百万ドルであつた。輸出は機械,金属,繊維が中心で,輸入は木材,豆類,鉱物が大部分である。
(b) 経済・技術協力関係
(i) わが国は,63年に締結したビルマとの経済・技術協力協定に基づき,65年から12年間にわたつて総額140百万ドルにのぼる生産物または役務をビルマに供与することになつており,トラック,バス乗用車,農業機械,電気器具などの製造プラントに対する協力を行つている。75年末現在の支払済額は125.05百万ドルで,履行率は89.32%である。
(ii) 有償資金協力としては,わが国は,69年以来8件の円借款を供与した。
(iii) 技術協力の分野では,54年から75年までの間に,石油,医療・科学関係の機材を供与したほか,わが国から合計279名の専門家を派遣するとともに,ビルマ側から,鉱工業,農水産関係の研修員427名を受入れた。
(c) 投資実績
62年の現政権成立以降の対ビルマ投資実績は皆無である。したがつて,投資残高は62年以前の4件,計289千ドルのみである。
5. インドシナ半島
(イ) 概 論
(a) 内 政
75年に入り,共産側は1月フォク・ロン省(サイゴン北方約100km)を完全に掌握し,3月4日には南ヴィエトナム全土で大攻勢を開始し,南ヴィエトナム軍はほとんど抵抗らしい抵抗もしないまま敗走し,共産側は3月中に南ヴィエトナム中北部のほぼ20省(全土で44省)を占領した。こうした事態に抗しきれず,グエン・ヴアン・チュウ大統領は4月21日辞任し,後任のチャン・ヴアン・フォン大統領も4月28日には従来和平勢力のリーダーと目されていたズオン・ヴアン・ミン将軍に政権を譲つた。ミン大統領は,即時停戦,交渉再開を訴えたが,4月30日,共産側に無条件降伏を行つた。このため南ヴィエトナムの政権は南ヴィエトナム共和国臨時革命政府の把握するところとなつた。
臨時革命政府の政権獲得後,南ヴィエトナム全土は5地区に編成され,各地区に設立された軍管理委員会による軍政が施行されるとともに,南ヴィエトナム人に対する再教育が強力に推進された。前政権下の軍人,官吏,政治家に対する思想教育が実施され,他方,徹底的な学校教育の改革が断行された。
ヴィエトナムにおける戦火の終息に伴う南北ヴィエトナムの統一時期については,政権獲得後臨時革命政府が諸外国と外交関係を樹立し,また南北ヴィエトナムが個別に国連への加盟申請を行つたこと等から,ある程度先のことかとの観測も行われた。しかし,ヴィエトナム統一のための総選挙実施を目的とし,南北ヴィエトナム両代表団で構成する政治協議会の開催が11月初旬発表され,11月15日から21日までサイゴンで,ファム・フン労働党中央委政治局員兼党南ヴィエトナム委書記長,チュオン・チン北ヴィエトナム国会常任委委員長をそれぞれ団長とする南北ヴィエトナム代表団による政治協議会が開催された。同協議会において,76年前半に統一ヴィエトナム国会を選出するための選挙を実施し,選出された国会が国の政治制度を定め,指導機関を選出し,新憲法を制定することを通じて統一を完了することが決定された。
次いで76年1月19日に,北ヴィエトナム国会常任委員会及び南越諮問評議会の共同コミュニケにより総選挙が4月25日に実施される旨発表された。
(b) 外 交
臨時革命政府は,政権獲得後,諸外国と外交関係を樹立する一方,5月15日にWHO,5月16日にWMOに加盟し,また北ヴィエトナム(7月16日申請)とは別個に国連に加盟申請(7月15日)を行い(米国は8月11日,国連安保理事会で,南北ヴィエトナム加盟決議案に拒否権を行使した),またリマにおける非同盟諸国外相会議(8月)にグエン・チ・ビン外相を送る等の外交活動を示した。なお,サイゴン陥落までに南ヴィエトナム臨時革命政府を承認(外交関係樹立を含む)した国は49カ国であつたが,その後47カ国が承認し,76年3月末現在の承認国(外交関係樹立を含む)は96カ国である。
他方,同時点において革命政府は20数カ国に大使館を設置(兼館を除く)しているが,諸外国に対しては南ヴィエトナムにおける大使館設置を公式には認めておらず,また外国人の入国滞在についても制限し,閉鎖的政策をとつている。
(c) 経 済
臨時革命政府は,政権獲得後,物価上昇,失業者の増大等困難な経済情勢に直面したが,銀行管理,企業管理,通貨改革その他の緊急措置を別として,抜本的経済革命政策は打ち出されなかつた。
(ロ) わが国との関係
わが国は5月7日に臨時革命政府を承認した。わが国の在サイゴン大使館は,臨時革命政府の政権獲得後もそのまま存置され,人見大使が6月27日サイゴンを出発,帰国した後,渡辺臨時代理大使以下の館員が主として在留邦人の保護その他の領事事務に当つた。
(イ) 概 論
(a) 内 政
4月6日,第5期国会選挙が実施され,424人の新国会議員が選出され,これに伴つて第5期国会の第1回会議(6月3日~6日)において国家指導部の選出が行われた。その結果トン・ドック・タン,グエン・ルオン・バン正副大統領,ファム・ヴアン・ドン首相,チュオン・チン国会常任委委員長がそれぞれ再選され,北ヴィエトナム指導体制には特別の変更がないことが示された。
(b) 外 交
75年の北ヴィエトナム外交の中で特に注目されたのは,レ・ジュアン労働党中央委第一書記(団長),レ・タン・ギ副首相(副団長)らの北ヴィエトナム党・政府代表団の中国,ソ連,東欧諸国訪問(9月22日から約2カ月)であつた。その目的は,ヴィエトナム戦争遂行に際し,これら諸国から与えられた援助に対する謝意表明及び76~80年の5カ年計画への援助要請にあると見られた。他方,中国訪問では共同声明が発せられなかつたのに対し,ソ連訪問では共同声明(事実関係の発表),共同宣言が発表されたこと等から判断する限り,北ヴィエトナムと中国との関係は後退し、ソ連との関係が強化されていることが窺われるとの観測も行われた。
なお,北ヴィエトナム承認国(外交関係樹立を含む)は76年3月末現在で89カ国である。
(c) 経 済 情 勢
73年パリ和平協定後の3カ年間における計画の目標は,73年において戦争の傷跡回復に努力し,74~75年において各部門における生産水準を65年時期の水準まで回復あるいはそれ以上に高めることにあつたとみられる。レ・タン・ギ副首相は第5期国会第2回会議(12月22日~27日)における北ヴィエトナム経済の現状と76年国家計画に関する報告中で「75年末までに戦争で破壊された殆んど全ての工場施設が回復された」こと,また「75年末までに北における経済の生産能力は著しく増え,ある分野では,それは第1次破壊戦争前の時期を超過さえした」旨述べた。
(ロ) わが国との関係
75年10月11日,ハノイにわが方大使館が開設され,かつ同日,わが国の北ヴィエトナムに対する無償経済協力取極の署名が行われた。
次いで76年1月13日,在本邦北ヴィエトナム大使館が開設され,2月には,日本政府事務当局訪越団,3月には石油関係訪越団がそれぞれ北ヴィエトナムを訪問した。
わが国の対北ヴィエトナム貿易は,74年の輸出2,039万ドル,輸入3,019万ドルから75年には輸出4,297万ドル,輸入は2,669万ドルと発展をみせた。
わが国の主要輸出品は,鋼材,機械類,繊維,雑貨等であり,主要輸入品は,鉱産物で,その大部分はホンゲイ炭である。
(イ) 概 論
(a) 内 政
74年4月に成立した暫定国民連合政府は,ヴイエンチャン右派側とラオス愛国戦側との対立を内包しつつも一応順調に運営されてきたが,75年3月以降のカンボディア,ヴィエトナムにおける情勢の急変は,ラオス政情の動向を大きく左右することとなつた。愛国戦線は軍事的攻勢を背景に王国政府側の自壊作用を促し,この結果5月には右派4閣僚,王国軍首脳,右派要人が相次いで国外に脱出し,連合政府内における愛国戦線側の実質的指導権はさしたる混乱もなく確立された。
次いで反米運動がおこり,6月にはUSAID(米国国際開発局)が解体され,ラオスにおける米国のプレゼンスに終止符がうたれた。その後愛国戦線は未解放地域に対する奪権闘争を展開,8月にルアン・プラバーン,ヴイエンチャン両市に人民行政委員会を設置,全土掌握を完了した。
12月1日,2日の両出全国人民代表大会がヴイエンチャンで開催され,王制の廃止,共和制への移行,新政府の設立等が決定され,12月2日「ラオス人民民主共和国」として発足することとなつた。これに伴いラオス人民革命党書記長力イソーンを首班とする新内閣が発足,また暫定的立法機関として最高人民議会が設けられ,その議長及び共和国大統領にスパヌウォン殿下が任命された。
共和国の誕生によつて表面に出てきた人民革命党は,マルクス・レーニン主義をその基本路線とする政党(1955年結成)で,これまで愛国戦線の中核として,その政策と路線を決定し,運動を指導してきた。同党が表面にでてくることにより,愛国戦線は事実上その役割を終えた。
(b) 外 交
全国人民代表大会で採択された新政府の行動計画によると,新政権の対外政策は,「ヴィエトナム,カンボディア,その他の社会主義国との協力関係を強化する」とともに,「平和5原則に基づき全ての国と外交貿易関係を結ぶ」ことであると述べられている。
隣国タイとの関係は,愛国戦線の実権掌握に伴い次第に円滑を欠くものとなり,11月にはメコン河でのタイ警備艇被弾事件等を契機として,タイ側が両国国境を閉鎖するに至つたが,76年1月1日,タイ側は国境を一部再開した。
(c) 経 済 情 勢
75年のラオス経済は,政治面における大きな変動の影響を直接こうむり,キープ貨の大幅下落にみられるように,混乱を更に深めた。即ち,5月の政情不安以来国外へ逃亡するものが相次ぎ,国外持出しのためにドル需要が激増,その結果キープ貨への信用は低下の一途をたどり,大幅なインフレを惹起,国民生活を圧迫した。さらに,11月のタイによる国境閉鎖は,物資の輸出入をタイ経由ルートに頼る内陸国ラオスに深刻な影響を与え,石油,生鮮食料品,生活必需品の極度の不足という現象をきたし,売り惜みなど経済的無秩序を経験することとなつた。
共和国樹立後,新政権は従来のタイ依存を改め,ヴィエトナム経由ルートを開発する努力を開始している。
なお,ラオスの政体変更に伴い,ヴィエトナム,ソ連,中国等社会主義諸国からの援助が増大したのも75年の著しい特徴であつた。
(ロ) わが国との関係
従来よりわが国とラオスの関係は良好で,政体変更後もラオスのわが国に対する信頼は大きい。
(a) 貿 易 関 係
両国間貿易は日本の大幅な出超が続いているが,今後ラオスの経済開発が進めば,木材,錫,コーヒーなどの対日輸出が増加しよう。
(b) 経済・技術協力関係
わが国は,ラオスに対する経済技術協力として,ナム・ダム開発計画,外国為替安定基金(FEOF),タゴン農業開発,医療協力等に対する資金ないし技術協力,専門家や日本青年海外協力隊の派遣,研修員等の受入れを行つてきている。特に,わが国が9月,事業費の予算超過と米国の拠出取止めにより資金難に陥つたナム・ダム第2期開発に対し20億1,000万円の追加借款の供与を決定したことは,ラオス側からも高く評価されている。
(イ) 概 論
(a) 内 政
74年を通じて比較的動きの少なかつた民族連合王国政府(GRUNK)側は,75年1月1日プノンペン総攻撃を開始,共和国政府側はメコン河の補給路を遮断され,プノンペンに対する米国の大規模な空輸作戦,ロンボレ首相の和平交渉への努力にもかかわらず戦況は日々政府側に不利となつた。4月1日ロンノル大統領がインドネシアに向け出国,12日には米大使館員がプノンペンから引揚げ,14日には空港がGRUNK側に制圧され,17日朝プノンペンは陥落,5年1カ月続いたロンノル政権(クメール共和国)の終焉をみた。
新政権は対外的には一種の鎖国政策をとりつつ,農業増産,戦災復旧作業を主眼とした国内建設を進め,人口300万といわれたプノンペン市をはじめ地方都市の住民に対し,食糧供給と農作及び精神革命のため,農村への強制退去を命じた。
8月新政権の実力者イエン・サリおよびソン・センがそれぞれ外務担当副首相及び国防担当副首相に任命され,新政権の指導体制が確立されたものとみられた。
当面の国内再建事業及び国内指導体制の確立が一段落した9月には,これまで治安上の理由等から帰国が遅れていたといわれるシハヌーク元首が5年半ぶりに祖国に復帰した。他方,北京にあつたシハヌーク元首の随員の殆んど全員が本国の現状に不満を感じ帰国を拒否,10月大挙フランスに亡命した。
76年1月5日,王制の廃止と主要生産手段の国有化,労働の集団化等社会主義政体の確立を内容とした「民主カンボディア」新憲法が公布された。
更に3月20日新憲法に基づく総選挙が行われ,農民,労働者及び革命軍の代表250名から成る新議会が発足,この新議会により新国家指導者が選任されることになつた。
(b) 外 交
新政権は外国との交通・通信を遮断し,対外的に閉鎖的な態度をとつた。
5月12日,カンボディア沖で米貨物船マヤゲス号がカンボディア砲艦により拿捕され,15日米国がこれを奪回する事件が発生した。
8月下旬には,キュー・サンパン,イエン・サリ両副首相が訪中,初めて外界との接触を持つとともに覇権反対をうたつた共同声明が発せられた。キュー・サンパン副首相は,北京からシハヌーク元首出迎えのため北朝鮮に赴き,北越独立30周年記念式典出席の後,9月9日シハヌーク殿下と共に帰国した。一方,イエン・サリ外務担当副首相は北京からリマの非同盟外相会議,国連特別総会に出席の後帰国した。同副首相は10月末にはタイを訪問し,その結果両国間に外交関係が樹立され,大使館設置までの措置として11月国境に双方の連絡事務所が設置された。12月にはラオスの党・政府代表団がプノンペンを訪問,両国の戦闘的連帯,兄弟的友好,在タイ米軍の撤退,在タイ両国反動分子の追放を要求する共同コミュニケが発せられた。
また,9月から12月までの間に,中国,北ヴィエトナム,北朝鮮,南ヴィエトナム,アルバニア,キューバの6カ国の大使がプノンペンに着任した。
(c) 経 済 情勢
新政権は数百万の都市住民を強制移住させ,全国的に組織された生産連帯グループを通じ農業増産に努力してきたが,75年末の収穫期には豊作が伝えられており,食糧の自給自足を達成したものと思われる。また戦争により国土の諸設備の80%が破壊されたといわれたが,国道,鉄道,港湾,空港,河川航路,工場等の復旧作業は11月までに一応完了したといわれている。しかしカンボディア国内では通貨が全く使用されていないといわれており,今のところ国内の経済活動については殆ど明らかにされていない。
(ロ)わが国との関係
わが国は4月19日,新政権を承認し,これに対しカンボディア側より9月,わが国の承認に謝意を表明する返書が寄せられた。
6. 南西アジア諸国
(イ) 内 外情 勢
(a) 政治・経済の状況
(i) 75年のインド内政は,前半は,野党勢力の反政府運動が異常な高まりをみせたのに対し,後半は,非常事態宣言の下でガンジー政権の激しい巻返しに終止した。すなわち,J.P.ナラヤンを中心とする野党勢力はコングレス党(与党)の腐敗,インフレ,食糧難等を理由にガンジー政権批判の動きを強めてきたが,6月12日のUP(ウッタル・プラデッシュ)州のアラハバード高裁によるガンジー首相の当選無効判決,更に翌13日のグジャラート州議会選挙でコングレス党の敗北等により野党の反政府運動はかつてない盛り上りをみせ,ガンジー首相は最大の政治危機に直面した。これに対しインド政府は,6月26日に至り突如として非常事態を宣言し,それに伴い,J.P.ナラヤン等野党指導者の大量逮捕,過激政治結社の非合法化,報道規制,緊急経済政策等一連の強硬策を講ずるとともに,首相の政治的地位確保を狙いとした憲法,公職選挙法の改正を強行した。その後もガンジー首相は反対勢力に対峙するための強硬姿勢を崩さず,11月7日には選挙違反につき最高裁の無罪判決をかちとり,12月末に開催のコングレス党年次大会では,76年3月に予定された下院総選挙の1年延期に関する決議を成立させる等して,ガンジー首相は反対勢力を封じ込み,政権の長期安定化に必要な態勢固めを着々と進めた。
(ii) 経済面では,順調なモンスーンに恵まれて食糧生産が記録的な豊作をみせ,また前年末にインド政府が実施した金融引締,緊縮財政,物価凍結等一連の引締政策が漸くその効果を現わして物価騰貴が鈍化する等若干情勢の好転がみられた。特に非常事態が発布されて以来,労働争議も姿を消し,公共部門の生産が上昇するとともに,物価が全般的に下落したことが注目されたが,その反面,自動車,電気製品等耐久消費財を中心に需要が後退し企業経営を圧迫する傾向も出ている。なお,74年4月から実施を予定された第5次5カ年計画は75年中も計画委員会により再検討の作業を続けられ,計画実施の目途も立たない状態で推移した。
(b) 対外関係
(i) 75年のインド外交は,国内政治上の困難な事情が反映して全般的に消極化の傾向をみせ,特に8月バングラデシュでクーデターが発生したのを機にバングラデシュとの関係が疎遠化し,同時に74年以来みられたパキスタンとの関係正常化の動きも頓挫する等インドはスリランカを除くインド亜大陸諸国との関係を後退させた。しかし76年に入るやインドはネパールを手始めに近隣諸国との関係改善を図る動きを積極的にみせはじめている。
(ii) 一方,71年以来冷却化した印米関係は,10月に印米合同委員会が開催されたことにより,漸く改善のきつかけをつかんだものの援助問題をめぐつて米側の対印姿勢は硬化し,他方,近年インド外交の主軸となつてきたソ連との関係において,ルビー・ルーブル換算率改訂問題,ガンジー首相の訪ソ問題等をめぐつて若干の停滞傾向がみられた。中国との関係については,中国がバングラデシュの8月クーデター後,インドのバングラデシュに対する態度を非難したこともあつて,依然進展をみぬまま膠着状態を続けた。
(iii) なお,インドは石油資源,資金協力の確保の必要もあつて中東諸国との関係強化に腐心し,75年にもイラク,イラン,アラブ首長国連邦等の中東諸国との間に頻繁な人的交流を行つた。また,75年後半には,インドは従来とかく疎遠になりがちであつたタイ,ビルマ,インドネシア,シンガポール等の東南アジア諸国に首相特使を派遣する等して,これら諸国との関係立直しに努めた。
(ロ) わが国との関係
(a) 貿 易 関係
75年における目印貿易総額は,11億1,200万ドル,その内,わが方の輸出4億7,100万ドル,輸入6億5,800万ドルで,前年に比しわが国の入超幅が再び増大する結果となつた。わが国の対印主要輸出品目は機械機器,化学品,金属(その大部分が鉄鋼)等であり,主要輸入品は鉄鉱石,えび,綿花,落花生しぼりかす等である。
(b) 経済・技術協力関係
わが国は,75年において,インドに対し,第14次円借款として商品援助70億円(1月),プロジェクト援助110億円(3月)を,第15次円借款としてプロジェクト援助109億円(9月)の供与を約束したほか,約121.4億円(1月)及び約122.5億円(8月)の債務繰延を行つた。また,76年3月には,第15次円借款の内の商品援助分70億円の供与を約束した。
また技術協力面においては,わが国は従来農業部門に重点をおき,農業技術の普及に努めたが,ダンダカラニア農業開発計画に対する協力は75年8月をもつて,4カ所の農業普及センターでの協力は3月と12月をもつてそれぞれ終了した。
これら農業部門における協力を含め,わが国は75年中に,専門家24名を派遣し,71名の研修員を受入れた。
(c) そ の 他
75年10月日本政府は北部インド諸州の洪水被害に対し,見舞金(1万ドル)を寄贈した。11月には東京で第10回日印事務レベル定期協議が開催された。なお,11月にシャルマ中小企業大臣,ラージ・バハ一ドゥル観光大臣,イシャク家族計画大臣等がそれぞれ来日した。
(イ) 内 外 情 勢
(a) 政治・経済の状況
(i) 75年においてブットー政権は,反政府分子による爆弾事件及び与党人民党内の内紛に対する対策に忙殺された。かねてより北西辺境州を中心に各地で爆弾事件が頻発していたが,2月シェルパーオ北西辺境州内務相が爆死するという事件が発生するや否や,ブットー首相は,この事件の背後にNAP(民族人民党)ありとして,直ちに同党を非合法化,同党指導者を一網打尽に逮捕するとともに,右措置の合憲性を問うため最高裁に付託し,10月に合憲判決をかちとつた。バンジャブ州においては,9月カル,ラメイ両人民党幹部等が同党を脱党し,同州自治権の拡大要求を掲げ反政府運動を展開したが,ブットー政権の基盤を揺がすまでには至らなかつた。また1年前組織的反乱の終息が発表されたバルチスタン州を12月末突如連邦政府直轄下におく措置をとつた。
(ii) 経済面では,国際収支の赤字,農業生産の停滞に伴う低成長,物価騰貴のトリレンマに悩まされた。世界的な不況により綿糸布等の輸出が伸び悩んだ反面,石油,化学肥料,小麦等の輸入価格の高騰により輸入は異常に伸長し,この結果,貿易収支の赤字は約10億ドル(1974/75会計年度)という史上最高を記録した。農業生産は,異常渇水,電力不足等により,前年度の水準を維持しえず,綿紡績,製糖等農業関連工業も前年度をやや下回り,全体としての経済成長率(74/75会計年度)は前年度比2.6%増にとどまつた。また,
物価の騰勢も,前年度よりやや低下したものの,依然として25%以上を持続した。
(b) 対 外 関 係
75年中,パキスタンは,2月のブットー首相の訪米をはじめとし,政府首脳の各国訪問,外国首脳のパキスタン訪問等積極的な訪問・招待外交を行い,国際的地位の向上に努めた。特に10月国連安保理事国に当選したことは大きな外交上の成果であつた。
(i) インドとの関係では,貿易等実務関係の正常化は一歩前進したが,最大の懸案たる船空路及び外交関係再開は実現をみるに至らず,また2月の米国の武器禁輸解除,4月のインドによるシッキム併合のほか,特に8月のパキスタンによるバングラデシュ新政権承認を契機に,両国関係は疎遠化を強めた。バングラデシュとの関係では,パキスタンは8月のバングラデシュ・クーデターに際して直ちに新政権を承認,10月には外交関係樹立に合意し,76年1月までに両国大使の交換が実現する等両国関係は急速に進展した。アフガニスタンとの関係では,2月のシェルパーオ爆死事件を契機に,両国間で相手国非難の応酬が行われ,一時緊張がみられた。
(ii) 中国との関係では,4月に李先念副首相がパキスタンを訪問したのをはじめとして,各種レベルの使節団の活発な往来等により,両国関係は,引き続き緊密裡に推移した。米国との関係では,2月武器禁輸が解除され,米国の対パキスタン支持の姿勢が打ち出された。ソ連との関係では,8月のブットー夫人のソ連訪問,ゾーリン特使のパキスタン訪問等要人の交流が行われた。
(ロ) わが国との関係
(a) 貿 易 関 係
75年におけるわが国との貿易は,わが国の輸出約2億9,045万ドル(対前年比28.5%増)に対し,輸入約8,868万ドル(対前年比18.6%増)となり,前年と同様わが国の大幅出超となつた。
(b) 経済・技術協力関係
わが国は,75年3月,パキスタンに供与した9次にわたる円借款から生じた債務のうち旧東パキスタン向プロジェクトに係る債務約245億円をパキスタンの債務から免除したほか,5月には第12次円借款(商品援助)として70億円の供与を約束するとともに,約64億円の円借款債務繰延を行つた。また,同年1月にはパキスタン北西辺境州で発生した地震災害に対し,5,000万円相当の救援物資を贈与した。
76年に入つてからは,3月に約88億円の円借款債務繰延を行つた。
技術協力面では,75年中にハリプール電気通信研究センターに対する協力,カシム港建設計画調査,カラチ郊外鉄道計画調査等を含めた31名の専門家を派遣し,また,38名の研修員を受け入れた。
(c) 要 人 往 来
両国間の要人の往来としては,75年10月カーン上院議長を団長とするパキスタン国会議員団が訪日したほか,76年3月にはわが国政府派遣の経済使節団(団長,今里日本精工会長)がパキスタンを訪問した。
(イ) 内 外 情 勢
(a) 政治経済の状況
(i) 独立後4年目を迎えても依然独立前の経済水準すら回復せず,政治の腐敗,行政の非能率とあいまつて国民各層の不満が増大し,反政府気運が高まる気配をみせるに至つた。ラーマン首相は74年以来,非常事態宣言を布告し,憲法を改正して大統領直接統治制を布き,自ら大統領に就任,更に75年に入り,2月には全政党を解散し,一党独裁制を敷く等の一連の非常措置をとり態勢立直しをはかつた。
しかし,8月15日に一部中堅将校によるクーデターが発生,ラーマン大統領は殺害され,代つてアーメド政権が成立した。その後,同政権の下で国内情勢は落ち着きをとり戻すかにみえたが,11月2日に至り再び政変が発生,これにより親印派と目されていたムシャラフ准将がいつたん実権を掌握したのも束の間,同月7日に至り,事態は再転し,ムシャラフ准将により陸軍参謀総長の地位を追われたゼアウル・ラーマン少将を中心とする勢力による巻返しが成功した。11月8日にはサイヤム大統領を戒厳司令官とする戒厳体制が敷かれ,国内情政は漸く安定化に向い,11月26日には実質的に内閣としての役割を果たす政策評議会が発足した。
(ii) 75年のバングラデシュ経済は,天候及び肥料供給が順調であつたため農業生産は空前の大豊作が見込まれる一方,独立後の3年間で4倍以上にのぼる物価上昇をもたらした悪性インフレも漸く下火となる兆しが見え,独立以来低迷を続けてきた同国経済にも若干の明るさがみられた。国際収支面では,依然輸出が輸入の4分の1程度に過ぎず,外国援助でそのギャップを埋め合わせざるを得ないという状態が続いた。11月政変後,サイヤム新政権は,これまでの社会主義的経済政策の行き過ぎをやや修正する一連の経済自由化政策を打ち出し,経済再建に積極的に取り組む姿勢を示している。
(b) 対 外 関 係
バングラデシュ外交は8月のクーデターを機に大きな転換がみられた。すなわち,パキスタンはクーデター発生後直ちに新アーメド政権を承認,その後,10月には外交関係の樹立につき合意をみ,75年12月から76年1月にかけ大使の交換が行われるなど着々と関係正常化が進展した。
これと平行して,中国との関係においても,8月クーデター後,中国によるバングラデシュ承認が行われ,76年1月から3月にかけて,両国大使の交換が行われた。
上記の動きとは裏腹に,独立以降緊密であつたインドとの関係は冷却化し,特に11月政変を契機に両国間の緊張が増大し,11月26日在ダッカ・インド高等弁務官が過激分子に襲撃される事件が発生するに及んで,一部ではインドによる介入の可能性が取沙汰されるまでの緊張の高まりがみられた。
(ロ) わが国との関係
(a) 貿 易 関 係
75年(暦年)におけるわが国の対バングラデシュ貿易は,輸出約1億2,590万ドル(対前年比68.5%増),輸入約710万ドル(同53%減)と,わが国の一方的出超を記録,出超幅は昨年の2倍となつた。
(b) 経済・技術協力関係
わが国は,75年3月,第2次円借款(商品借款)115億円の供与を約束するとともに,パキスタンに供与した9次にわたる円借款から生じた債務の内のバングラデシュによる引受分約245億円(旧東パキスタン向けプロジェクトに係わる分)につき債務繰延を行なつた。更に無償援助として15億円相当の繊維製品(3月),KR食糧援助として800万ドル相当(3月)及び130万ドル相当(12月)の米の供与をそれぞれ約束した。
技術協力の面では,75年中に,専門家52名が派遣されたほか,海外青年協力隊員18名が派遣され,研修員58名の受け入れが行われた。
(c) 要 人 往 来
両国間の要人の往来については,バングラデシュより,75年10月ダール法務・議会担当大臣が来日し,わが国からは,76年3月には早川崇衆議院議員が同国を訪問した。
(イ) 内外情勢
(a) 政治・経済の状況
(i) 75年においては,74年以来目立つていたパンダラナイケ連立政権内部における自由党右派と平等党の対立が8月に入りエステート(紅茶,ゴム,ココナツ等の農園)の国有化問題をめぐりにわかに険悪化した。パンダラナイケ首相が平等党3閣僚を罷免(9月)した結果,平等党の連立政権離脱を引起し,70年の連立政権成立以来5年余にして分裂したことが注目された。この結果パンダラナイケ首相に率いられる自由党は,国民議会(一院制)において過半数の議席を占めてはいるものの,憲法改正を可能とする議会内での3分の2の多数は失つた。
他方,連立政権を離脱した平等党は,パンダラナイケ首相およびパンダラナイケ蔵相に対する不信任案を同党が中心となつて議会に上程(結局両不信任案とも否定された)する一方,労働組合内部に強い影響力を有する同党は,傘下の労働組合を動員して労働争議を起すなど,その反政府姿勢を強めている。
(ii) 75年のスリ・ランカ経済は,工業生産が比較的順調な伸びを示したものの,天候不順による大幅な米の減産により,全体としての75年の経済成長率は前年比3.6%増にとどまり,また,貿易収支の赤字幅は,食糧輸入の増加(総輸入額の半分弱を占めた)及び輸入原材料の価格上昇により,前年に引続き拡大し約2億ドルと史上最大を記録した。
基幹産業たる農業部内においては,稲作は74年後期の大干魁の影響を受け大幅な減産となつた。他方,三大輸出産品たる紅茶,ゴム,ココナツは天候に恵まれ,前年に比べ大幅な増産となつた。しかしながら,これら産品の輸出は,紅茶を除き,国際価格の下落により輸出量では増加をみたものの輸出額は逆に減少した。
(b) 対 外 関 係
(i) 75年において,パンダラナイケ首相が,6月ILO総会(ジュネーヴ)および国際婦人年世界会議に招待されたほか,ジャマイカで開催された英連邦首相会議に出席し,その途次イラクおよびガイアナを公式訪問した。76年に入つても1月には,インドネシア,タイ,ビルマの各国を公式訪問する一方,75年中カウンダ・ザンビア大統領(1月),エチェベリア・メキシコ大統領(7月),ビエディッチ・ユーゴースラヴイア首相(9月),ブットー・パキスタン首相(12月)などの各国首脳のあい次ぐ訪問を受けるなど76年8月の非同盟諸国首脳会議開催をひかえ積極的な外交活動を行つた。
(ii) 隣国インドとの関係では,76年3月,両国間の領海線を確定する協定が調印された。
(ロ) わが国との関係
(a) 貿 易 関 係
75年におけるわが国の対スリ・ランカ貿易は,輸出約49.9百万ドル(対前年比26.4%減),輸入30.7百万ドル(対前年比0.2%増)となり,前年に引続き,わが国の出超となつた。わが国の対スリ・ランカ主要輸出品目は,機械類,金属品,化学肥料,繊維品などであり,主要輸入品は,貴石,揮発油,紅茶などである。
(b) 経済・技術協力関係
75年には,わが国は,スリ・ランカに対し,第10次円借款として45億円の供与を約束(6月)したほか,KR食糧援助として100万ドル相当の米の供与を約束(12月)した。
技術協力関係では,スリ・ランカ高等水産講習所設立協定(74年4月締結)に基づき派遣している8名を含め,専門家19名を派遣し,また研修員105名を受け入れた。
(c) 要 人 往 来
両国間の要人の往来としては,75年6月,パンダラナイケ首相が,ILO総会および国際婦人年世界会議出席の帰途,非公式に初めてわが国に立寄つたほか,10月にラージャパクセ漁業兼保健大臣,11月にアヌーラ・パンダラナイケ・スリ・ランカ自由党青年部長(パンダラナイケ首相令息)がそれぞれわが国を訪問した。
(イ) 内 外 情 勢
(i) 74年9月より12月にかけて行われた国会議員の総選挙に基づき召集された国会(一院制)において,ザキ首相は再び首相に任命された(2月)。しかしながら,翌3月ザキ首相は再任後まもなく,突如としてナーシル大統領により罷免された。その後4月に憲法改正が行われ,首相職を廃止するとともに法律の改正を行い,外務,大蔵,漁業,教育,情報・放送の各省を大統領府直轄の部に降格するなど,重要な国家権力,機能が大統領に集中する措置がとられた。
(ii) モルディヴは非同盟及びすべての友好国と外交関係を有することをその外交方針としており,75年中には新たに,シンガポール,ユーゴースラヴィア,チェッコスロヴァキア,北ヴィエトナム,南ヴィエトナムと外交関係を樹立した。
(ロ)わが国との関係
(a) 貿 易 関 係
75年のわが国の対モルディヴ貿易は,輸出2,333千ドル(74年実績の約50倍),輸入2,268千ドル(74年実績の約3倍)と輸出入とも大幅に増加した。わが国の主要輸出品は,機械・機器であり,主要輸入品は,魚介類である。
(b) 経済・技術協力関係
わが国は,モルディヴの漁船動力化計画のために75年1月,1.5億円の無償資金供与を約束した(モルディヴはこれにより漁船用エンジンを購入)ほか,研修員1名を受け入れた。
(c) 要人往来
76年3月,ナーシル大統領が,サッタル,マニク両副大統領を帯同し,非公式にわが国を訪問した。
(イ) 内 外 情 勢
(a) 政治・経済の状況
(i) ビレンドラ国王は2月の戴冠式を成功裡に挙行しパンチャーヤット体制(ネパール独特の議会制の上に立つ国王親政体制)の基盤を一層強固なものとした。また8月には新聞出版条例を施行しマスコミに対する報道規制を強めた。12月に入り,2年4カ月政権の座にあつたリザール首相が退陣し,ギリ国王政治顧問を首班とする新内閣が成立した。また,ビレンドラ国王は,12月,職能別選挙制の廃止,全国議会審議の国民とプレスへの公開等を骨子とする第2次改正憲法を発表した。
(ii) 経済面では,主要産業である農業生産はわずかな伸びを示したのみで振わず,74/75年度における経済成長率は前年度比3%増にとどまつた。国際収支は,封印農産物輸出の不振,輸入品の価格騰貴等のため観光収入等の増加にもかかわらず,約4,000万ドルの赤字(74/75年度)を示し,何年かにわたつて蓄積した外貨を大きく失うに至つた。かかる厳しい経済環境の下に,7月より年平均経済成長率目標を4.5%に置いた意欲的な第5次経済開発5カ年計画が開始されたが,木計画については,その開発財源を大幅に外国援助,公債等に依存するなど不確定要素が少くなく,計画実施の前途は楽観を許さないものとみられる。
(b) 対 外 関 係
(i) インドとの関係は74年のインドによるシッキム併合化以来冷却しており,ネパール側は7月のギリ特使訪印,8月アリャル外相訪印,9月のビレンドラ国王の立寄りの機会を捉えて両国関係を改善しようとする動きを示したが,抜本的改善には至らなかつた。
(ii) 中国との関係は,1月の中国経済使節団のネパール訪問をはじめ,スポーツ交流,王族の訪問等を通じ緊密な発展をみた。また1月にはリザール首相がイランを公式訪問しており,中近東産油国への接近を図つている。
(ロ) わが国との関係
(a) 貿 易 関 係
わが国との貿易は漸減傾向にあり,75年におけるわが国の対ネパール貿易は輸出約1,391万ドル(前年比0.8%増),輸入約178.8万ドル(同30.4%減)で,依然わが国の大幅出超となつている。
(b) 経済・技術協力関係
75年中にジャナカブール県農業開発のための協力等のために専門家23名を派遣したほか,青年海外協力隊員33名を派遣し,研修員43名を受け入れた。また,76年3月にクリカニ水力発電所建設計画に対し30億円の円借款供与を約束した。
(c) 要 人 往 来
2月のビレンドラ国王戴冠式にはわが国より皇太子・同妃両殿下が出席された。10月にはギヤネンドラ,ディレンドラ殿下夫妻が中国訪問の途次立寄られた。
(イ) 内 外 情 勢
ブータンはジグメ・シンゲ・ワンチュク国王の下に,インドからの経済技術援助を得てインフラストラクチャー整備に重点を置く第3次5カ年計画を推進している。対外関係では,インドとの間において1949年の両国間の条約の下で,特殊関係を維持しており,7月にはチャバン・インド外相がブータンを訪問したのに対し,9月にはワンチュク国王がインドを訪問した。
また,74年9月より,ブータン政府は団体旅行に限り外国人の入国を認める政策を採つたが,かかる観光客の数は75年には年間500人のレベルに達するに至つた。
(ロ) わが国との関係
わが国は75年中,農業園芸専門家1名を派遣し農業開発に協力したほか7名の研修員を受入れた。