前節で述べたように近年の国際情勢には幾つかの主要な特徴が見られるが,1975年を中心とする期間に見られた世界の主要な動きは次のように要約できるであろう。
(1) インドシナ半島情勢の急変
73年以来政府側と共産側の間に一応の軍事的膠着状態の続いていたインドシナ半島においては,75年初めより高まつた共産側の軍事攻勢の結果,4月にはカンボディア,ついで南越において旧政権が崩壊した。南ヴィエトナム情勢急変の背景には,北越がパリ協定(73年)成立後も既定方針に基づくヴィエトナム統一の目標実現をあくまで追求する姿勢を堅持したこと,他方インドシナに対する米国国民及び議会の関心が急速に失われて対南ヴィエトナム援助が制約され,南ヴィエトナム府側と共産側の間の軍事的均衡が失われたこと等がある。
その後,8月にはラオスにおいても共産側の支配が確立し,インドシナ諸国は,急速に社会主義化の道をたどつているが,各国の歩み方は一様ではなく,複雑な国際環境の下で,これら諸国の対外政策の多様性が目立つた。
(2) 新事態への東南アジア諸国の対応
東南アジア諸国は,インドシナ情勢の急変を頂点とする数年来のアジア情勢の変化に対応して,75年においても様々な動きを示した。すなわち,(i)ビルマ,マレイシア,インドネシアによる南ヴィエトナム臨時革命政府承認やタイとカンボディアの国交正常化等のインドシナ諸国との関係正常化の努力,あるいは,(ii)タイ,フィリピンの対中国国交樹立,ビルマ首脳の訪中等中国との関係改善,(iii)タイやフィリピンにおける対米関係再検討の動き,さらには,(iv)ASEAN諸国の中でつ連と国交を有していなかつた唯一の国であるフィリピンによる対ソ国交樹立への努力の継続等がこれである。また各国は,統一後のヴィエトナムが東南アジアにおける強国として登場するという事態の変化に対応し,国家としての強靭性を増すため,従来以上に自国の社会的,経済的基盤を強化する施策を重視するようになつた。特に,ASEAN諸国はその連帯の一層の強化を志向し,76年2月には,初めての首脳会議をインドネシアで開催した。
(3) 朝鮮半島情勢の推移
インドシナ情勢急変の最中に,金日成北朝鮮主席が訪中したこともあり,インドシナ半島での新事態が朝鮮半島情勢にも影響を及ぼすことが懸念されたが,75年を通じて情勢に基本的変化は見られず,南北対話も実質的に中断されたまま進展がなかつた。北朝鮮は強気の姿勢をもつて非同盟諸国に対する働きかけを中心に積極的な外交活動を行い,他方韓国もこれに対抗して活発な活動を行つた。国連における朝鮮問題の討議においては,韓国及び北朝鮮支持の勢力が拮抗し,双方の決議案がともに採択されるという変則的な結果となつた。
国内的には,韓国は,インドシナ情勢の急変と金日成主席の訪中という状況に対応し,国防体制の強化に努めた。また,韓国経済は,75年後半以後,回復の兆しがうかがわれた。
他方北朝鮮は,75年を通じ経済発展の鈍化,国際収支の悪化等経済的困難に逢着した。
(4) 米中ソの対アジア政策
インドシナ情勢の急変後,アジア諸国に対する中ソ両国の働きかけは活発化し,アジアにおける中ソの対立は一層の拡がりを見せた。
米国は,インドシナ情勢の急変後もアジアに対する積極的な関心を維持し,既存のコミットメントはあくまでも遵守するとの基本政策に変更はないことをくり返し強調した。また,米国は,わが国とのパートナーシップを重視する傾向を一層強めた。このような米国のアジア政策は,12月フォード大統領が発表した「新太平洋ドクトリン」においても再確認された。
(5) 大洋州地域の情勢
豪州,ニュー・ジーランドにおいては,75年末,ともに労働党から保守党への政権交替が行われた。これらの国は,いずれもアジア地域の諸国との関係を一層緊密化するため努力を続けた。また,9月にはパプア・ニューギニアが独立したほか,南太平洋非自治地域で自治獲得,独立を目指す動きが見られた。
(1) 米 ソ 関 係
75年の米ソ関係においては,協調面よりはむしろ基本的対立点の表面化あるいは特定の問題をめぐる双方の利害の対立が目立ち,米ソ関係全般としては,停滞気味であつた。
すなわち,米ソ協調の根幹にかかわる戦略兵器制限交渉(SALT-II)は,74年末のウラジオストックにおけるフォード・ブレジネフ会談での合意に基づき,75年中に妥結するものと期待されていたが,双方の対立点について最終的調整を見るには至らず,予定されていたブレジネフ書記長の年内訪米も実現しなかつた。
一方,経済関係においても,米国は,74年12月に,対ソ融資を制限する輸銀法延長法及び対ソ最恵国待遇と信用供与をソ連のユダヤ人出国問題と関連づける新通商法を成立させた。これを不満としたソ連は,75年1月,米ソ貿易協定の実施を見合わせる旨米国に通告した。
その後経済面では,10月に米ソ長期穀物協定が締結されたことが米ソ経済関係の停滞の中で注目されたが,アンゴラ問題をめぐる米ソの対立は,SALT-IIの成立にも微妙な影響を及ぼし,結局,米ソ関係は,76年2月ソ連の第25回党大会を経た時点でも,実質的な進展の兆しを示すに至つていない。
(2) 米 中 関 係
米中両国は,12月のフォード米大統領訪中の際,両国関係を72年の上海コミュニケに沿つて引き続き進めていくことを再確認した。台湾問題については,台湾駐留米軍の数的削減が続いた以外,両国間の話合いに実質的進展は見られなかつたが,インドシナ情勢の急変により両国間の対立要因は減少し,両国が共通の関心を有する広範な問題につき,率直な意見交換を行いうる状況が生れたと見られる。米国の対中国関係重視の姿勢は,フォード大統領の「新太平洋ドクトリン」演説(12月)においても強調された。
(3) 中 ソ 関 係
中ソ関係においては,75年を通じ,通商,航空等の分野での一定限度の実務関係は維持されたが,党政両面における基本的対立関係は何ら改善の徴候を示さないまま推移した。すなわち中国は,1月の第4期全国人民代表大会で採択された新憲法及び政治報告において反ソ姿勢を明確に打ち出し,他方,ソ連もこのような中国の姿勢に正面から対決する構えを見せ,76年2月の第25回ソ連共産党大会でのブレジネフ報告においても,中国の現指導部に対する厳しい批判が行われた。両国間の対立は,いまや二国間問題にとどまらず,それぞれの国の米国,欧州,わが国等との関係をめぐる相互牽制及び相互非難はますます激化している。また,情勢の流動的なアジア,アフリカにおいても,これら諸国が国際政治において占める重要性がますます増大しているとの認識の下で両国の働きかけが活発化し,その影響力競合が顕著となつている。
(4) 米中ソ各国の国内情勢
米国においては,ウォーターゲイト事件の後をうけてフォード政権は75年においても行政府に対する国民及び議会の信頼回復に努めたが,諸政策の実施にあたり議会の強い制肘を受ける傾向が続いた。また深刻な世界的不況の中で,景気回復の行方は米国民最大の関心事であつたが,米国経済は,他国に先んじて第2四半期以後順調な回復過程に入つた。国内政治は年央以来76年の大統領選挙に向けて動きはじめ,フォード大統領をはじめ各大統領候補は次第に選挙活動を活発化した。
中国では,75年1月に開催された第4期全国人民代表大会において,新憲法の採択と国務院新人事の決定が行われ,長期的な展望に立つた国家の近代化路線が打ち出された。その後水滸伝批判や教育論争等修正主義復活に反対する運動が盛んに行われていたが,76年1月周恩来総理の死去を経て,これらの運動は国政の基本路線全般にわたる走資派批判闘争に発展し,76年2月の華国鋒総理代行就任,同4月部小平副総理の失脚,華国鋒党第一副主席兼総理就任という一連の動きを見るに至つた。このような国内情勢の動きにもかかわらず,上記全国人民代表大会で設定された政策の基本路線に大きな変化は見られなかつた。
ソ連においては,ブレジネフ政権は,シェレーピン政治局員の解任(75年4月)等を通じその指導体制の一層の強化を図つた。しかしながら,75年を最終年度とする第9次5カ年計画は工業生産では辛うじて目標の下限を達成したものの農業不振の影響を受けて全体として停滞を余儀なくされた。このような経済不振とブレジネフ書記長の健康に関する憶測等もあつて第25回党大会(76年2月24日~3月5日開催)の帰趨が注目されたが,同大会は第24回党大会以来のブレジネフ対外路線を積極的に評価し,今後ともこれを継続することを決定するとともに,対内政策については農業問題を中心とするソ連経済の振興策を打ち出した。
(1) 石油危機以後の諸問題
73年秋に発生した石油危機を契機に,先進諸国においては,インフレ下の不況という状況が一般化した。75年におけるOECD諸国の年間平均成長率はマイナス2%を示し,また,各国の同時的景気後退により,世界貿易も75年中明らかな縮小傾向を示した。
開発途上国についても一部産油国を除き,先進諸国の経済不振の影響を受けて交易条件が悪化し,加えて先進諸国からの開発援助と民間資金の流れが伸び悩んだため,多くの開発途上国は,深刻な経済困難及び国際収支上の困難に直面することとなつた。開発途上国は,このような状況の下で,アラブ産油国による石油戦略の発動によつて産油国の国際的発言力が著しく増大したことに刺激され,次第に相互間の結束を一層強め,一次産品・資源等の諸問題につき先進国に対する交渉力強化に努めるに至つた。これに伴い開発途上国に有利な新しい国際経済秩序を求める主張が,75年においても,2月のダカール開発途上諸国資源会議,8月のリマ非同盟諸国外相会議等,種々の国際場裡において再確認された。
(2) 困難克服のための国際協力
国際経済における深刻な構造的問題に直面した各国は,75年を通じ国際経済における相互依存関係をあらためて認識し,問題解決のための先進諸国間あるいは先進国・開発途上国間の国際協力の必要性を再確認するに至つた。主要先進諸国間のランブイエ首脳会議の開催(11月),第7回国連特別総会における南北対話の雰囲気(9月),国際経済協力会議の開催(12月),石油価格引上げに際しOPEC諸国がやや慎重になりつつあること等は,基本的にはこうした認識の具体的あらわれといえよう。
(3) 先進諸国における景気回復の努力
日米欧の諸国はその国内経済の景気回復が世界経済の回復に対して大きな影響を及ぼすとの認識もあつて景気刺激に努めた。その結果まず米国において春頃より景気が徐々に回復に向い,ついで年末までには,その他若干の先進諸国の景気も回復に転ずる兆しを見せはじめた。
各種の国際協力の努力が行われるとともに先進国経済に景気回復の徴候があらわれたことにより,石油危機以後深まりつつあつた国際経済の不安定化傾向に歯止めがかかり,最悪の事態に至ることは,ともかく回避されたといえよう。
(1) |
近年,沿岸諸国の管轄権拡大の要求,海洋資源の利用開発のための技術の急速な進歩,海洋汚染の深刻化などを背景として,新しい海洋法秩序を形成するための努力が続けられている。75年においては,新しい単一の海洋法条約の作成を目指して,73年末以来開催されている第3次国連海洋法会議の第3会期がジュネーヴにおいて開催された(3~5月)。 |
(2) |
同会期においては,非公式審議が行われ,会期最終日に議長よりそれまでの討議を踏まえ非公式な単一草案が提示された。この単一草案は,領海を12カイリまでとすること,国際航行に使用される海峡においては一般領海に比し,より自由な通航制度を設けること,距岸200カイリまでの経済水域を設定し同水域内で魚類などの天然資源に対し沿岸国が主権的権利を有することを規定するとともに,その他,太陸棚,深海海底資源の開発,海洋汚染の防止など海洋に関する広範な問題につき規定している。本草案は非公式のものであるが,その後76年春の第3次海洋法会議第4会期(ニューヨーク春会期)の審議の基礎とされ,交渉促進上大きな役割を果たすこととなつた。 |
(1) 西 欧
西欧諸国は,前年に引き続き75年中も厳しい経済情勢に見舞われ,それぞれ経済困難克服に努力を傾注するとともに各国間の経済諸政策の調整に努めた。英,西独,仏その他多くの欧州各国は経済困難にもかかわらず,政局の安定を維持したが,他方,イタリアでは地方選挙で共産党が大幅な躍進を示し,ポルトガルでは政局の混迷が続き,スペインではフランコ総統の死去により新たな政治的局面が生まれる等,南欧諸国の政情は流動的な様相を示した。米欧関係については,これを重視する米国及び西欧諸政府の姿勢もあり,国際経済問題等につき双方の意見調整が進んだが,前述の南欧情勢の流動化に伴うNATO南翼への取組み方等については,米欧間に考え方の違いが若干見られた。
(2) 欧州の東西関係
ヘルシンキで首脳レベル欧州安全保障協力会議(CSCE)が開催され,最終文書が採択されたことは,欧州における緊張緩和の過程に一つの区切りをつけることとなつた。右文書を通じ,ソ連が国境不可侵等の諸原則に対する関係各国の承認を取りつけることができたことは,ソ連の対欧州外交にとつては一つの成果であつた。これに対し西側においては,国境の平和的変更の可能性を明記し,信頼醸成措置,人と情報の交流等につき東側からある程度の譲歩を引き出し得たこと等につき一応の評価は与えつつも,同会議の意義は合意事項の今後の実施如何にかかつているとの態度をとつている。現にその後,東側は,イデオロギーにデタントはないとの基本姿勢を鮮明に打ち出すとともに,ソ連・東独新友好協力相互援助条約の締結,東欧首脳間の協議等を通じ,団結強化の動きを示した。中欧相互兵力削減交渉は,引き続き継続されたものの具体的進展は見られなかつた。
(3) 中 東 地 域
75年3月サウディ・アラビアのファイサル国王が暗殺されたことにより中東情勢に新たな緊張が見られた。しかしその後中東和平への米国の外交努力が再開される一方,エジプトの米国をはじめとする西側への接近傾向が見られた中で,9月にエジプト・イスラエル間にシナイ半島第2次兵力引離し協定(第2次シナイ協定)が成立した。これによりエジプト・イスラエル間の戦争再発の可能性は,スエズ運河の再開とあいまつて大幅に減少した。しかし,シリア・イスラエル間のゴラン高原第2次兵力引離しについては交渉は開始されるに至らなかつた。他方,中東和平達成のための一つの鍵としてのパレスチナ問題が一層脚光をあびるに至つた。同問題については,75年中,実質的な進展はなかつたものの,国連総会における関連決議の採択,中東問題に関する安保理審議へのパレスチナ解放機構(PLO)招請等を経て,同機構の国際的地位の向上がみられた。なお,レバノンにおけるキリスト教徒と回教徒との対立抗争は,最終的解決策が見出せないまま悪化し続け,国内における慢性的な武力衝突は止まず,中東情勢に不安定要因を加えた。
(4) アフリカ地域
アフリカにおいては,74年に引き続き75年も非自治地域の独立の動きが続いた。モザンビーク,カーボ・ヴエルデ及びサントメ・プリンシペがそれぞれポルトガルから独立し,このほか,仏領コモロ諸島が一方的に独立宣言を行つた。西サハラにおいては,モロッコ,モーリタニアが同地の領有権を主張し,スペインを含め3国間に協定が締結されたが,西サハラの民族解放団体(ポリサリオ)は76年2月独立を宣言しており,同地の帰属をめぐつて関係諸国の対立が続いている。
アンゴラにおいても,ポルトガルの施政が終了した(11月)が,解放運動団体はアンゴラ解放人民運動(MPLA)及びアンゴラ解放民族戦線(FNLA)・アンゴラ完全独立民族同盟(UNITA)連合を各々政府とする独立宣言を行い,両者の間に内戦が展開された。結局,76年2月,MPLAがほぼ全土を制圧し,これを承認する国が相次ぎ,一応の決着をみたが,同組織がソ連及びキューバの強力な支援を受けてきたことは,大国の干渉を恐れるアフリカ諸国及びソ連の動向を注目する欧米諸国に対して少なからぬ衝撃を与えた。南ア政府は75年を通じアフリカ諸国との間の緊張緩和の努力を継続した。また南ローデシア白人政権の黒人解放組織との話合いの動きは予期された成果を挙げ得なかつた。
(5) 中南米地域
中南米諸国は近年,経済的自立の達成と,過度な対米依存からの脱却に努めてきたが,75年においてもこの傾向が見られた。米国を除外し,かつ,キーュバを含めた域内協力機構であるラテン・アメリカ経済機構(SELA)が10月に創設されたのも,こうした動きの現われである。他方,米国の中南米諸国との新しい対話政策は,75年初頭,米国新通商法に対する中南米諸国の反発から中断された形となつていたが,76年2月には,キッシンジャー米国務長官が中南米6カ国を訪問し,米国と中南米諸国との新しい関係の模索が行われた。なお,中南米諸国の政情については,ペルー及びエクアドルでの政変,アルゼンティンの政情不安(76年3月にはクーデターにより軍政が復活)は見られたものの,おおむね平穏に推移した。
全国連加盟国の圧倒的多数を占める開発途上諸国は,75年においても,非同盟グループあるいはいわゆる77カ国グループとして行動し,国連総会等において数の力を発揮する傾向が強まつた。シオニズム非難決議が欧米諸国の強い反対にもかかわらず採択されたことは,途上国の政治的発言力の強まりを示す象徴的出来事であつたといえよう。このように開発途上国の勢力の増大を見た中で,非同盟グループも問題によつては一枚岩でないことを示した場面もあり,また第7回特別総会に見られたように先進国グループとの対話も徐々に進みつつある。