第5節 国連における文化・社会・人権問題

 

1. 社 会 人 権 問 題

 

 人権問題について,国連は,48年第3回国連総会で採択した「世界人権宣言」を拠所とし,同宣言に示された人権の確立・擁護を目的に諸活動を展開してきたが,「世界人権宣言」に示された人権理念の底流をなすものは,いわゆる「個人」の基本的人権を重視する西欧の伝統的人権思想であつた。しかし,近年国連における人権問題の審議は,AA諸国及び社会主義諸国の強い支持を得て,人種差別撤廃闘争,植民地解放運動と結びついたいわゆる「集団」の人権により大きな比重が置かれている。こうした傾向に伴い,国連において人権問題は純粋に人道的立場から論じられることなく,アパルトヘイト政策の非難といつた政治的色彩が濃厚になつている。

 74年秋の第29回国連総会では,拷問ほか非人道的な処遇・刑罰・強制逮捕等の禁止を目的とした「拷問の禁止」,チリの政権交替に伴う人権侵害の是正,南部アフリカ等における民族自決権並びに民族解放闘争の合法性の再確認,73年12月10日の「世界人権宣言」採択25周年記念を期して開始された「人種差別撤廃闘争の十年」の目標を達成するための努力,宗教に基づく不寛容の撤廃,科学技術の進歩・発展による弊害からの人権の保護,「平等・発展・平和」の3大テーマを掲げて開始する75年の「国際婦人年」の目標達成への努力等が審議された。

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2. 国 連 大 学

 

 72年の第27回国連総会で設立が決定された国連大学については,翌年の第28回国連総会においてその基本法ともいうべき国連大学憲章が採択されるとともに,国連大学本部の東京首都圏内設置が決定された。これに基づいて大学の最高意思決定機関たる大学理事会が設立され,次いで74年11月にはヘスター・ニューヨーク大学学長が初代国連大学学長に決定した。大学本部仮事務所は同年12月東京の帝国ホテル内に開設され,75年4月渋谷の新築ビルに移転の予定である。恒久的大学本部(場所未定)への移転は両三年先のこととなろう。

 なお,75年1月下旬東京で開催された第4回国連大学理事会では,(1)世界における飢餓(人口問題を含む),(2)人間,社会開発(異なる社会間の平和共存を含む)及び(3)天然資源の管理及び利用(通商・環境問題を含む)を国連大学の優先領域とすることが決定された。機構面では,75年9月の段階で5人の副学長を含む55人前後の職員で発足し,1年以内に倍増することを決定した。また,わが国は75年1月20日国連大学に対し2,000万ドル拠出した。

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3. 世 界 人 口 会 議

 

 70年の第25回国連総会は,74年を世界人口年に指定し,その一環として国連主催の世界人口会議が74年8月ルーマニアの首都ブカレストで137カ国,4解放団体を集めて開催され(世界人口会議としては3回目であるが,政府レベルのものとしては今回が初めてである),最終的には世界人口行動計画が全会一致で採択された。世界人口行動計画原案の骨子は,(1)世界の人口は急増しつつあり,放置すれば人類の将来を脅かす,(2)各国は人口増加抑制のための量的目標を設定し,家族計画の普及に努めよ,というものであつたが,討議の過程で(1)人口政策は経済社会開発の一環としてのみ考え得る,(2)人口政策はあくまで各国の主権の問題である,(3)家族計画については個人と夫婦の人権と自由を尊重すべしという思想が強く盛込まれ,原案よりは後退したが,量的目標自体は,具体的数字は落されたものの基本的に是認された。

 人口問題自体の存在さえ否定していた国があることを考えれば,世界人口会議が開催され,世界人口行動計画が満場一致で採択されたことは,画期的なことと評価される。

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