74年を通じ,アフリカの政情は,アフリカ諸国最大の共通関心事たる南部アフリカ問題に大きな進展がみられた点にその特徴がある。ポルトガル植民地は清算され,南アフリカは対アフリカ緊張緩和政策に転換を余儀なくされ,膠着化していた南ロ-デシア問題には僅かながら局面打開の糸口が見られた。
また,石油危機の悪影響と世界的インフレの波をかぶつたアフリカ諸国の中には,その他の要因も加わつて政情が流動化し政変に遭遇したものも見られた。
域内協力にも消長が見られた。西アフリカ経済共同体結成の動きに具体化の兆候があらわれた反面,東アフリカ共同体にはその運営にとつて好ましくない若干の出来事が見られるとともに東アフリカにおける新しい動向を予想させるが如き動きも見られた。
欧州旧宗主国との関係はアフリカニゼーションの進展とともに薄まる傾向が進んだ反面,拡大ECとの結びつき強化がEC-ACP(アフリカ・カリブ海・太平洋諸国)間のロメ協定として結実した。
アラブとの関係では,若干の屈折を経ながらも,総じて連帯強化が図られ,アラブ産油国からの資金供与等を通じ関係の密接化が指向された。
サヘル地帯諸国の経済生活を破壊し,空前の災害をもたらした旱魃も,国際救援活動と天候の好転もあり,74年末に至る時期に峠を越したかの如くであつた。
東部・中部・西部・南部における各国の政情とわが国との関係のうち特記すべき事項は次のとおりである。
エティオピアでは軍隊が国政の抜本的改革を求めて74年2月に決起し,ハイレ・セラシエ皇帝の支配体制は9月に倒壊し,少壮軍人中心の軍事政権が出現した。遠因はエティオピアの旧体制そのものにあるが,数年来の旱魃,石油危機後のインフレと失業増大による国民の不満が近因となつた。軍事政権は,11月に元首相2名を含む多数の旧要人を処刑,12月に社会主義路線を内外に宣明,75年1月には銀行,金融機関及び保険業を,更に同2月には製造加工業を中心とする72企業の国有化を断行した。
軍事政権は内部にリーダーシップの確立問題を抱えつつ,他方エリトリア州の分離独立を要求する解放勢力に対して強硬姿勢を打ち出した。75年1月以降双方の武力衝突が激化した。また,2月には王制廃止の決定を行つた。
このような状況下で,軍事政権は,引続き旱魃被害に対する国際的援助の獲得努力を行い,一応の成果をあげた。わが国も74年3月この被害に対して2億7千万円の緊急援助を供与した。
ソマリアでは,科学的社会主義を標傍するシアド・バレ軍事政権は,74年8月以降全学校を一年間閉鎖し,生徒を地方に派遣して新たに全国的な近代化運動を開始した。対外関係では,2月にアラブ連盟に加入しアラブ諸国に接近し,7月にはソ連のポドゴルヌイ最高会議議長がソマリアを訪問し緊密な両国関係は一段と強化された。74年後半には国内北部に旱魃が発生し,加えてエティオピア避難民の流入もあり,困難に直面した。
ケニアでは,石油危機の余波と世界的インフレに由来する経済困難,長期政権に伴う諸問題が政情に影響し,74年10月の総選挙においては現職大臣4名が落選するという結果となり,その後も一連の爆弾事件や国会議員の暗殺等の事件が発生した。また,タンザニアとの関係では,道路保守を目的としたケニアの重車輛のタンザニア領内通行禁止措置により一時緊張するに至つた。
わが国との経済協力関係では74年12月残額約10億円のわが国の対ケニア第一次円借款の有効期限が2年間延長された。
また,わが国は,75年2月ケニアのコレラ禍に対し日本・ケニア間の友好関係に鑑み,人道的見地から1,500万円相当のコレラ・ワクチンほか医薬品の緊急援助を供与した。
タンザニアは,石油等輸入物資の高騰,農産物の輸出不振等により経済的困難に直面しつつも,ニエレレ大統領の強力な指導下にウジャマー村建設,タンザニアナイゼーション等の社会主義的施策を推進した。
わが国との関係では,74年7月にタンザニアはガット35条の対日援用を撤回し,また同年11月には木村外務大臣が公式訪問し,ニエレレ大統領,マルチエラ外相等の政府首脳と親しく意見交換を行い,友好関係が一段と深められた。
経済・技術協力関係では,同国の南岸道路建設計画のうちルフィジ河架橋実施設計に対して1億6,500万円の無償協力が実現をみた。
ウガンダでは,アミン大統領がその指導体制の強化を図つたが,経済的にはアジア人追放後の専門家・技術者不足による国造りの困難のなかで,経済の整備に努力している。このため,ウガンダは友好国に対する協力要請の一環として74年10月にアショ商工大臣を団長とする大型親善貿易ミッションをわが国に派遣した。
ザンビアでは,74年10月独立10周年を迎え同国唯一の政党であるUNIP(統一国民独立党)の基盤強化が図られ,カウンダ大統領の指導力が強化された。わが国との経済協力関係では,ザンビアの国有鉄道拡張計画に対する経済協力の実施が順調にすすんだ。また,75年2月ムワンガ外相一行が公賓として来日し,わが国要人と南部アフリカ問題等について意見交換の機会をえ,相互理解を深めた。
マダガスカルでは,ラマナンツォア首席(大統領代行)が73年に引続き対仏依存脱却後の国民の統一,部族融和,経済のマダガスカル化等の努力を払つた。また,外交ではラチラカ外相が全方位外交に精力的努力を行つた。しかし,期待されたほどの成果があがらないうちに74年末政変が発生し,内閣の交替,次いで後継首席ラチマンドラバ大佐の殺害を経て75年2月アンドリアマハゾ将軍(前国土整備相)を長とする軍事執政官府が成立した。軍事執政官府は従来の内外基本路線を踏襲する旨声明し,国内経済再建に乗り出した。
わが国との関係では,74年9月末に前記のアンドリアマハゾ国土整備大臣が外務省賓客として来日し,両国間の協力問題等について話し合つた。
モーリシアスでは,政情は安定的に推移したが,75年2月にはサイクロンが直撃し,大きな被害を及ぼした。わが国との関係では74年10月に海上自衛隊の練習艦隊がモーリシアスに寄港し暖かい歓迎をうけた。
ザイールでは74年8月憲法が改正され,MPR(国民革命運動)党が国の機関として制度化された一方,大統領が同党の総裁,政治局,党大会,並びに行政,司法,立法各機関の長をも兼ねることとなり,更にモブツ主義が同党の指導理念として憲法上明記されて大統領の指導体制が一層強化された。
12月モブツ大統領は,中国及び北朝鮮を訪問し,帰国後,基幹産業に対する国の支配強化,協同組合方式の農業振興,宗教教育の廃止等を内容とする新政策を発表した。
わが国とザイールとの関係では,74年1月から2度,わが国からトランス・アフリカン・ハイウエイ建設の基礎調査チームがザイールに派遣された。また,わが国の資金協力によるバナナ・マタディ間の鉄道建設工事が開始される運びとなつた。
74年11月には,木村外務大臣が公式訪問し,モブツ大統領,ウンバ・ディ・ルテテ外務大臣(政治局員兼任)等の首脳と会談した。
ガボンでは,ボンゴ大統領が74年を通じた石油,ウランをはじめとする同国の鉱物資源の輸出価格の上昇に基づく国内経済の好況を背景に着々とその指導体制を強化した。一方,わが国はガボンの国家的事業であるトランス・ガボン鉄道建設計画に対し資金協力を行う旨74年2月に意図表明した。
コンゴー人民共和国とわが国は,74年9月貿易取極に署名した。
中央アフリカ共和国のボカサ大統領は,内陸国としての同国の経済的困難を克服するため,海と直結する鉄道建設計画を同国の最重要課題とする国造りの方針を明確にした。わが国との関係では,74年1月わが国の大使館が中央アフリカに開設された一方,74年4月には中央アフリカによりガット35条の対日援用が撤回された。
ルワンダでは,ハビヤリマナ少将を長とする国家平和統一委員会の国内指導体制が強化された。わが国との関係では,ルワンダの国内輸送力増強計画に対してわが国より11億700万円の円借款を供与することとなり,このための書簡の交換が74年12月キガリで行われた。
象牙海岸は74年も引続き高度経済成長を遂げ,政治的安定も維持した。かかる実績をもとに75年の大統領選挙にはウフェ・ボワニ現大統領の四選出馬が確実視されている。
対外的には共産圏諸国との関係正常化がかなり進展し,また,南部アフリカ問題についても対話の必要性を積極的に主張し注目された。わが国との関係では同国の鉄鉱石開発プロジェクトに対するわが国業界の参加との関連から,同プロジェクトの実現に必要な電力供給を目的とする水力発電所建設計画へのわが国の協力が要請された。
ガーナでは,アチャンポン議長の率いる国家救済評議会(NRC)政権が経済自立政策を遂行し石油危機に由来する経済困難をかかえつつも一応の成果をあげた。
長年の懸案であつた対外債務問題についても,ガーナは,74年3月のロ一マにおける債権国会議の結論に基づき,各債権国との間の二国間交渉を順次積極的にすすめ,75年早々には最終的解決を見ることとなつている。
わが国との関係では,10月末から11月に木村外務大臣が訪問し,アチャンポン議長ほか要人と会談し,相互理解が増進した。わが国の対ガーナ債権処理問題は75年3月13日のこれに関する交換公文の署名により終結をみた。
ナイジェリアでは,74年は76年実施が約束されていた民政移管を見込んだ前哨戦で特色づけられたが,ゴウォン主席は同年10月1日の独立記念日に,性急な民政移管は国家を混乱に陥れるとして,右の公約の無期延期を声明した。また同主席は75年4月に始まる総額480億ドルにのぼる意欲的な第3次開発5カ年計画を発表し,政治及び経済社会面における安定的発展を計らんとする積極的な姿勢を示した。
わが国との関係では,11月木村外務大臣が訪問しゴウォン主席等と会談し,友好関係を深めた。貿易面においては石油の対日輸出の増加によりわが国の入超傾向が定着化の方向を示した。
リベリアでは,トルバート政権の支配体制は一段と強化された。しかし,対外関係では,米国との伝統的な友好関係を維持しつつ共産圏諸国との交流拡大にも努め,総じて中道穏健路線を歩んでおり,南部アフリカ問題では75年2月トルバート大統領がモンロヴィアを来訪した南アのフォルスター首相と会談したのが,注目される。
ギニアでは,国民の間における根強い人気とギニア民主党の強固な組織に支えられ,セク・トーレ大統領の支配体制が続いた。対外的には資源保有国としての自覚が進み,開放的対外協力関係を指向し,また従来外交関係を断絶していた仏・独両国との関係改善の兆しが見られるに至つた。
モーリタニアでは,脱フランス,対アラブ接近路線が進展した。アラブ諸国の支持をえて,モーリタニアは経済に多大の影響力を有する仏中心の西欧資本によるモーリタニア鉄鉱山会社を国有化した。わが国との関係では,数年来トロール業界が同国政府との民間漁業契約により操業を続けて来たが,74年度の契約は同年6月に署名をみた。
マリでは,74年6月民政移管の新憲法草案が採択されたが,トゥラオレ議長の指導する国家解放軍事委員会が今後5年間引き続き政権を担当することとなつた(憲法の発効時期は定められていない)。74年12月勃発したマリ・上ヴォルタ国境紛争は近隣諸国の斡旋により話し合いによる解決努力が払われた。
上ヴォルタでは,2月にラミザナ大統領による緊急事態宣言の下に政府が交替したが,同大統領の内外基本路線に変化はなかつた。経済面では同国の最優先課題であるマンガン鉱床の開発に関連する鉄道建設計画に対しわが国政府も同計画に参加する意図表明を行なつた。
ニジェールでは74年4月クンチェ中佐による軍事クーデターが成功し,以前よりも自主的傾向の強い路線に踏み出した。経済的には同国のウラン資源開発を中心とする国内経済の再建が軌道に乗り出した。74年2月には日本・仏・ニジェール政府によるウラン探鉱開発のための合弁会社が設立された。
セネガル,マリ,モーリタニア3国で構成されているセネガル河流域開発機構は計画中の開発プロジェクトに対する先進各国の協力を要請し,74年7月ヌアクショットに融資国調整会議を開催し,わが国もオブザーバーを派遣した。
南アフリカ共和国のアパルトヘイト政策については,同国政府は,一方では例えば,非白人にも公共施設等の使用を認める等のいわゆるペティ・アパルトヘイトの緩和をはかるとともに,他方では反対派に対する弾圧を強化してホームランド(原住民が古来より居住している地域)の分離発展を推進しているが,非白人勢力は徐々に実力を向上させている。一方ポルトガル施政地域の解放・独立の進展につれて,アパルトヘイト政策に対する国際世論の圧力は更に強まり,南アは74年国連総会では審議に対する参加を拒否され,安保理では辛うじて除名を免れるという事態に立ち到つた。
南ア政府は,このような国際的孤立化を脱却するため,対アフリカ政策の転換を模索し,緊張緩和を図つた。74年秋頃より,象牙海岸,中央アフリカ等の穏健派アフリカ諸国に使節団を派遣,75年3月にはフォルスター首相自らリベリアを訪問し工作を進めた。しかし,アパルトヘイト政策の根幹をなすバンツスタン政策については,その転換の兆しはなく,寧ろそのテンポを進める方向にある。
わが国は,従来より一貫してあらゆる形態の人種差別政策に反対し,南アとは極めて限定的な関係を有するにとどまつており,74年6月15日以降南アとのスポーツ・文化・教育の交流停止を目的とする措置をとつた。
南ローデシアについては,74年4月のポルトガルの政変とその植民地政策の転換により局面打開の機会を迎えた。74年末,南アのフォルスター首相及びザンビアのカウンダ大統領のイニシアティブにより,ルサカでザンビア,タンザニア,ボツワナの3国大統領,南ローデシアの非合法解放勢力を含むアフリカ人解放団体指導者及びスミス政権代表との秘密会談が開催され,(イ)南ローデシア解放団体による武力闘争の停止,(ロ)同団体抑留者の釈放,及び(ハ)前提条件抜きの制憲会議開催について一応の合意がみられた。
その後合意事項の実施をめぐる意見の対立,急進派指導者シトレZANU議長の逮捕,ZANU幹部の爆殺等の事件が生じた。アフリカ人多数支配を目指す制憲会議の開催への過程は難航している。今後とも紆余曲折は続くものと予想される。
国連安保理の対南ローデシア制裁決議については,わが国は引続きこれを誠実に遵守している。たまたま,74年6月のOAUモガディシュ会議で日本商品が南ローデシアに「氾濫」していると非難されたが,同年9月わが国は日本商品の近隣諸国(地)経由の南ローデシア向け流入防止を目的とする行政措置をとつた。
ナミビア問題については,南ア政府は未だ明確な政策転換のラインを示していないが,ナミビア住民の総意という形で同地域の分離支配を意図しているやに見受けられる。一方わが国は南アのナミビア不法占拠を認めておらず,ナミビアに関する南アの統治の合法性を認めるような措置をとつていない。
ポルトガル施政地域では,73年9月に独立を宣言したギニア・ビサオ共和国が完全独立を達成し,74年9月には国連への加盟も認められた。わが国は,同国を西欧諸国に先んじて74年8月1日に承認した。その他の4地域,すなわちモザンビーク,サントメ・プリンシペ,カーボ・ヴェルデ,アンゴラについてもポルトガルと解放団体との間で話しあいが進められた結果,各々独立に関する取極が締結され,独立に至るまでの過渡期の暫定政府が成立した。これらの4地域は75年中にすべて独立を達成する予定である。
わが国は,植民地支配に強く反対するとの基本的立場を貫いてきており,これらの地域の暫定政府の門出に当つては,各々祝意を表明した。