1. 中東和平をめぐる諸情勢
74年の中東情勢は,専ら中東和平の動きを中心にめまぐるしく推移した。
(1) シナイ半島及びゴラン高原における第一次兵力引離しの実現
73年10月の第4次中東戦争後,同年12月にジュネーヴにおいて,米国,ソ連,エジプト,ジョルダン,イスラエルの各国代表出席のもとに和平会議が開催されたが,同会議では今後軍事作業部会を設置し紛争当事国間の兵力引離しを討議することが合意された。この合意に基づき同年12月26日より,エジプト・イスラエル軍事作業部会が開催され両国間兵力引離しについての交渉が開始されたが,74年1月11日より関係当事国を訪問したキッシンジャー米国務長官の積極的な仲介努力もあつて,1月18日にはエジプト・イスラエル両国間で協定が調印されるに至つた。同協定では,イスラエル軍は,スエズ運河の東方約20キロの地点に撤退し,エジプト軍との間に約10キロの兵力引離し地帯を設置し,ここに国連緊急軍が駐留すること,及びこの地帯の両側約10キロの地域においても両軍の兵力を制限することが規定されている。この協定に基づき,実際の兵力引離し作業が進められ,協定に定められた期日より2日早い3月3日に完了した。
エジプト・イスラエル間のシナイ半島における兵力引離し実現に伴い,次の局面はシリアとイスラエルとの間のゴラン高原における兵力引離し交渉に移つた。キッシンジャー米国務長官は,74年2月26日よりシリア・イスラエル両国を訪問し,まず相互の間の捕虜交換を実現した後,更に4月30日より約1カ月間にわたり両国間を頻繁に往復し精力的な仲介努力を行つた結果,双方の間に漸く合意が成立し,5月31日ジュネーヴにおいて兵力引離し協定が調印された。同協定により,イスラエル軍は,73年10月戦争で新たに占領した地域のほか,67年戦争の占領地についても,クネイトラ市等一部を返還し,シリア・イスラエル両軍の間には幅2キロないし6キロにわたる兵力引離し地帯が設置され,ここに国連兵力引離し監視軍が駐留し,更にその両側一定範囲にわたつて軍備及び兵力が制限されることとなつた。この協定に基づく実際の兵力引離しは6月25日に完了した。
以上のシナイ半島及びゴラン高原における第一次兵力引離しの実現は,それ自体中東和平にとつて画期的な進展であるが,更にこれが関係当事国に和平交渉に対する信頼感と期待感を抱かせたという点でもその意義は大きい。
(2) ジョルダン西岸地区における和平の行詰り
エジプト・イスラエル間及びシリア・イスラエル間における相次ぐ兵力引離し実現に伴い,和平の次の段階としてジョルダンとイスラエルとの間のジョルダン河西岸地区における和平の進展に関心が集まつた。しかしながらジョルダン河西岸地区については,かねてより同地区が法的にはあくまでも自国の領土であるとの見地から,その回復は自国の責任であると主張するジョルダンと,同地区は元来パレスチナ人の領土でありイスラエル撤退後はその正当な所有者であるパレスチナ人の手に返還されるべきであるとの立場をとるPLO(パレスチナ解放機構)とが対立していたが,この段階に至り両者の対立が表面化した。
74年6月1日より8日まで,カイロにおいて,第12回パレスチナ国民評議会が開催された。同評議会で採択された10項目の暫定政治プログラムは,解放されたパレスチナ領土におけるパレスチナ民族オーソリティの樹立及びジョルダン国内の民族主義勢力との共闘等を掲げジョルダン政府との対決の姿勢を打出した。しかしながら,同年7月19日アレクサンドリアにおいて,サダト・エジプト大統領とフセイン・ジョルダン国王との両国首脳会談が開催され,同会談共同声明ではPLOをジョルダン在住パレスチナ人を除くすべてのパレスチナ人の正当な代表と認め,かつそのジュネーヴ和平会議出席を支持する一方,ジョルダンとイスラエルとの間の兵力引離しの早期実施の必要性を確認した。
これに対し,PLO側は強い反発を示したが,同年9月20日から21日までカイロにおいて開催されたエジプト・シリア・PLO3者会談の共同声明ではPLOをすべてのパレスチナ人の唯一かつ正当な代表と認め,PLOがイスラエル撤退後のパレスチナ領土に独立の民族的オーソリティを樹立する権利を確認した。
この共同声明に対し,ジョルダン政府は強く反発し,9月22日同国でこれまで行つてきた占領地回復の努力を同年10月に開催が予定されていたアラブ首脳会議まで一切凍結するとともに,同首脳会議で上記3者会談と同様の決定が行われた場合には,同国は,パレスチナ問題解決の責任から解放されたものと判断してこれから手を引く旨の声明を発表した。
一方,9月17日ラビン・イスラエル首相は,記者会見で,パレスチナ問題についてはジョルダンとは交渉の用意はあるが,PLOと交渉する考えはない旨述べ,9月22日上記3者会談共同声明発表後もイスラエル放送を通じて同様の見解を述べた。この間,同年6月12日より18日までニクソン米大統領の中東諸国訪問に続いて,7月3日に米ソ首脳会談,更に7月下旬から9月上旬にかけて中東諸国首脳の訪米が相次いで行われるなど,中東和平をめぐり外交活動の活発化が見られたが,同年10月アラブ首脳会議開催に先立つて9日から13日までキッシンジャー長官も中東諸国訪問を行い,和平仲介への努力を行つた。
このような背景のもとに,同年10月26日よりモロッコの首都ラバトンこおいて第7回アラブ首脳会議が開催され,以上のジョルダン・PLO間の対立を中心に討議が行われたが,結局ジョルダン側が譲歩することとなり,10月29日発表された決議要旨によれば,PLOはパレスチナ人の唯一の正当な代表としての地位及び解放されたすべてのパレスチナ領土に独立の民族的オーソリティを樹立する権利を認められ,アラブ諸国はPLOがアラブ諸国に対するコミットメントの枠内でその民族的及び国際的責任を遂行するに当りこれを支援することとなつた。この結果,ジョルダンは,ジョルダン河西岸地区についての和平交渉から大きく後退することとなつたが,これに伴い,同地区についての和平は当面進展は期待できない状況となつた。
(3) パレスチナ問題に対する関心の増大とPLOの国際的地位の向上
73年11月26日よりアルジエで開催された第6回アラブ首脳会議で,PLOは,パレスチナ人の唯一かつ正当な代表として認められたが,74年に入り,パレスチナ問題に対する国際的関心の増大に伴いPLOの国際的地位は更に顕著な向上を示した。
すなわち74年2月パキスタンのラホールで開催された第2回回教国首脳会議においても,PLOは,パレスチナ人を代表する唯一かつ正当な組織として認められ,また同年10月のラバトにおける第7回アラブ首脳会議でも再び同様の地位が確認された。
更に,同年11月の第29回国連総会においては,51年以来始めてパレスチナ問題が単独の議題として審議されたが,この審議に際してはPLOもパレスチナ人の代表機関として招請された。同総会ではパレスチナ人民の自決権,民族独立権,郷土復帰権等を含む固有権を再確認する決議と,PLOに対して国連総会及び総会の主催するすべての国際会議にオブザーバーとして参加を招請するとともに,国連のその他の機関の主催するすべての国際会議についても,オブザーバーとして参加する資格を有することを考慮する決議が,それぞれ採択された。
この他PLOは,すでに73年UPU,WHO,ITU,FAO等の国連専門機関にオブザーバーとして参加を認められており,74年においてはICAO,UNESCO,ILO等についてもオブザーバー資格を認められた。
(4) 国連駐留軍の駐留期限延長をめぐる緊張増大
エジプト・イスラエル間には73年10月の中東戦争後,10月25日に国連緊急軍が6ケ月の駐留期限をもつて設置され,その後74年1月の第1次兵力引離し協定成立に伴い,同年4月24日に駐留期限が延長され,更に同年10月24日再延長された。一方シリア・イスラエル間については74年5月の第1次兵力引離し協定成立に伴い,5月31日国連兵力引離し監視軍が同じく6ヶ月の駐留期限をもつて設置されたが,同年11月30日の期限到来直前に至るまでシリア側が期限延長について態度を明らかにしなかつたため,11月14日イスラエル側により予備役の一部動員を含む警戒措置が決定され,一方シリア側においても軍隊の移動が伝えられるなど双方の間に緊張が高まつた。
その後11月25日より行われたワルトハイム国連事務総長のシリア・イスラエル訪問により,双方の国連軍駐留期限延長に対する同意が確認され,危機は回避されたが,今後和平の進展如何によつては,これら国連駐留軍の駐留期限をめぐつて再び同様の事態の発生する可能性のあることが認識された。
(5) シナイ半島における第2次兵力引離し交渉の進展と挫折
74年10月のラバトにおけるアラブ首脳会議後,中東和平の動きは一時停頓した。同年11月5日から8日までキッシンジャー長官による中東諸国訪問が行われたが,特に新たな進展は見られなかつた。
しかしながら,同年12月及び75年1月のイスラエル外相の訪米を契機として,エジプト・イスラエル間のシナイ半島における第2次兵力引離しをめぐつて再び活発な和平交渉が開始されることとなつた。
すなわち,75年2月26日よりキッシンジャー長官による中東関係諸国訪問が行われ,更にこれに続いて3月8日より同長官による関係当事国間の往復訪問による本格的な仲介努力が行われた。交渉の目標は,シナイ半島において更に東方に約30キロ,イスラエル軍の撤退を実現せんとするもので,イスラエル側がこの撤退地域の中にシナイ半島の軍事的要衝であるミトラ・ギジ両峠を含めるか,及びエジプト側がこれに対する見返りとして何らかの形での不戦宣言あるいはこれに相当する効果をもつものを行うかが焦点とされていた。
交渉はキッシンジャー長官の精力的な仲介努力にもかかわらず難航し,3月22日同長官は仲介工作を中断するに至つた。
最近の世界的なエネルギー危機意識のたかまりに伴い,莫大な石油収入(74年725億ドル余)を有するイラン,イラク,サウディ・アラビア,クウェイト等湾岸中東諸国の動向は世界の強い注目を集めている。近隣アラブ諸国はもとより,世界の国々と,これら湾岸諸国との最近の経済分野を中心とする交流はとみに活発化した。従来よりこれら湾岸諸国は,勢力争いや,体制の異なる諸国の角逐や,歴史的な国境紛争等と言つた政治的不安定要因をかかえているが,その幾つかが,一応の解決を見るに到つた。まず,ブライミ・オアシスの帰属を中心としたサウディ・アラビアとアラブ首長国連邦間の国境問題が,74年8月のザーイド・アラブ首長国連邦大統領のサウディ・アラビア訪問を契機に解決をみるとともに,両国関係推進につき合意がなされた。更に,近年,必ずしも良い関係にあるとは言えなかつたサウディ・アラビアとクウェイトとの間にも,74年9月のクウェイト外相の訪サ,それに続く,75年3月のクウェート首相の訪サにより,経済・文化・情報の3分野にわたる協定調印等が行われるなど両国関係には,改善の兆が見られた。
また,永年にわたりイラン・イラク間の紛争問題であつたシャット・エル・アラブ河の国境問題及びイラク内クルド族問題についても,75年3月,アルジエにおけるOPEC首脳会議の際,ブメディエン・アルジェリア大統領の調停により,イラン皇帝とイラク革命委副議長との間で,和解協定が署名され,一応の解決を見るに到つた。
一方,オマーンでは,ドファール地方における左翼系叛徒による反王室ゲリラ活動の鎮圧のために,イランより軍隊が派遣される等イラン・オマーン両国の軍事協力の強化が見られたほか,ジョルダンによるオマーンへの軍隊派遣,戦闘機寄贈や,マシーラ島空軍基地の対米使用許可があつた。75年はじめの南イエメン外相が湾岸保守諸国を訪問して接近の努力を行つた。
75年3月中東地域特に湾岸諸国に大きな影響力を有しているサウディ・アラビアのファイサル国王が死去したが,中東の保守勢力をイランともに代表するサウディ・アラビアの今後の動向が注目される。
73年12月から74年2月にかけて行われた三木,小坂両特使及び中曽根通産大臣の中東諸国訪問によつて示されたわが国のこれら諸国との関係強化に対する積極的な姿勢,及びこれに呼応して行われたこれら各国よりの多数要人の来日により,74年のわが国と中東諸国との関係には諸般の分野において顕著な進展が見られた。
先ずこれら諸国との経済協力関係について見ると,エジプトとの間では前記三木特使往訪の際,スエズ運河拡張計画援助として380億円,商品及びプロジェクト援助として300億円の円借款供与の約束が行われたが,74年7月にこのうち商品援助75億円について交換公文が締結された。また同年12月アルジェリアとの間に同国電気通信プロジェクトに対する120億円の円借款供与及びジヨルダンとの間に同国電話プロジェクトに対する円借款供与に関する交換公文がそれぞれ締結された。
一方イラクとの間では三木特使及び中曽根通産大臣往訪の際の話合いに基づき経済・技術協力協定締結について交渉が行われてきたが,74年8月にこれが纒まりアザウイ・イラク経済相来日の機会に同協定並びに円借款745億円及び民間信用2,235億円の供与に関する交換公文が署名された。またサウディ・アラビアとの間では,71年5月のファイサル国王来日に先立ちサウディ・アラビア側より経済・技術協力協定締結の提案があり,その後両国間で交渉が行われてきたが,三木特使の往訪及び74年1月のヤマニ・サウディ・アラビア石油相来日の際に,その早期締結について意見一致がみられ,更に双方の間で交渉が行われた結果,75年3月ナーゼル・サウディ・アラビア中央企画庁長官来日の機会に宮澤大臣との間に署名された。
この他の諸国との間でも各種経済・技術協力案件について現在話し合いが進められている。
また経済・技術協力以外の人的文化的交流の面でもわが国と中東諸国との関係は官民両レベルで緊密の度を加えつつある。
近年の石油価格の上昇に伴う財政収入増大を背景にこれら中東諸国とわが国との貿易関係は増大しつつあり,74年の対前年比総貿易量伸び率は300%弱に及び,74年のわが国の総貿易量に占める割合も17%強に達するに至つており,これら中東諸国への日本の輸出も74年には40億米ドル余(73年,19億米ドル余)に及び,今後,これら中東諸国とわが国との貿易関係の一層の進展が期待される。