1. ソ 連
(1) ソ連の内外情勢
(イ) 内 政
74年はブレジネフ政権の10周年に当つたが,内政面では党首脳部の大きな人事異動もなく比較的平穏に推移した反面,外交面では2回にわたる米ソ首脳会談をはじめとする一連の首脳外交が積極的に展開された年であつた。
すなわち,74年のブレジネフ政権の最大の課題は,前年に引続き経済の停滞を打開するため西側先進資本主義諸国との長期的な経済協力関係を確保して資本と先進技術を導入すること,及び欧州の現状固定を主眼とする東西間の゛緊張緩和″の実現,SALT交渉に象徴される米ソ関係の推進等いわゆるブレジネフ外交を展開することにあつた。
このための体制固めは,既に73年4月の党中央委総会における人事異動により一段落したものとみられており,74年の党首脳人事としては,デミチェフ政治局員候補兼書記の文化相就任に伴う書記解任のほか特にみるべきものはなかつた。また,6月の最高会議の選挙後新たに構成された連邦大臣会議もコスイギン首相以下殆んどの閣僚が留任した。
ブレジネフ政権10周年に因んだソ連主要紙誌の社説,論文では64年10月の党中央委総会の歴史的意義,集団指導制の意義が強調されたが,他方,ソ連要人の演説や新聞その他においてブレジネフ書記長個人に対する称讃が目立つ傾向がみられた。なお,74年末から75年2月半ばにかけてブレジネフ書記長が公式の場から姿を消したため,西側諸国では同書記長の病気説などの推測が行なわれた。
また,モルダヴィア,ウズベク,キルギス,トルクメン各共和国の50周年記念に際しては,それぞれブレジネフ書記長その他の党首脳が現地に赴き,直接国民に対し社会主義生産競争の展開による労働生産性の向上を訴え,資本主義諸国の経済危機を指摘し社会主義体制の優位を讃える一方,第24回党大会以降の緊張緩和外交の継続を確認した。
他面,緊張緩和外交の推進と裏腹にすすめられてきたイデオロギー引締め政策は,本年も継続され,党中央委は大学教育におけるイデオロギー教育の水準向上の必要を訴え(6月),白ロシアの一部党委員会を批判してイデオロギー活動の強化決議を行なつた(8月)。この間,ソルジェニツィンの国外追放(2月),メドヴェジェフの国籍剥奪(8月)など反体制派への締めつけ,或は前衛画家の屋外展示会が弾圧される等のニュースが西側の注目を浴びた。
74年のソ連経済は比較的好調に推移し,鉱工業生産は年度計画の目標であつた6.8%の増産に対し実績は8%増であつた。穀物収穫は当初の計画を下廻つたとはいえ,困難な天候状況にも拘らず,ともかくも195.6百万トンという73年に次ぐ史上第2位の収穫をあげた。
しかし,ソ連経済の最大の課題である「経済の質的改善」や「外延的発展から内包的発展への移行」については依然多くの問題があるとみられる。このため企業連合の推進,企業管理制度及び経済刺激制度の改革,コンピュータリゼーション等がすすめられているが,これらの措置によつて所期の成果が収められるかどうかが注目される。農業についても機械化,化学化,土地改良,ロシア共和国非黒土地帯の農業振興等の積極的政策がつづけられ,5カ年計画の目標達成に懸命の努力が払われている。
そのほか74年にはシベリア開発のため第2シベリア鉄道(バイカル-アムール幹線)建設が決定され,同建設への積極的参加がコムソモール等を通じて呼びかけられている。
74年12月の最高会議が採択した75年度予算では,国防費を前年度に引続き削減し174.3億ルーブル(2.2億ルーブル減)としている。ソ連の公表国防費は西側の概念による国防費と一致するものではなく,公表国防費の削減は,ソ連の推進する外交政策を反映した対外ゼスチャーとみられる。軍内部では全軍コムソモール書記会議(74年3月),全軍イデオロギー活動家会議(75年1月)が開かれイデオロギー教育の重要性が強調されている。
ブレジネフ政権としては,現行5カ年計画の目標達成に努力し,いわゆる平和共存外交の成果をふまえて,76年2月開催予定の第25回党大会に臨むものとみられる。
(ロ) 外 交
74年夏ごろまでに生じた独,仏,米各国指導者の相次ぐ交代は,ブレジネフ書記長がその政治生命をかけているともみられるいわゆる平和共存外交にとつて一つの試練であつた。ソ連は,一時これら諸国の新政権の動向を慎重に見極める姿勢をみせたが,同年秋から年末にかけて独,米,仏の新指導者と一連の首脳会談を行なつてこれらの新しい指導者との意思疎通をはかると同時に,ソ連外交の基調にも変化がないことを示した。
(a) 対 米 関 係
74年7月に行なわれたニクソン大統領の第二次訪ソでは,地下核兵器実験制限,ABMシステムの制限強化についての合意が成立したほか,一連の実務協定が調印され米ソ間の対話維持を確認した。
8月のニクソン米大統領退陣は,同大統領をパートナーとして平和共存外交を推進してきたブレジネフ外交にとり少なからぬ痛手とみられたが,ソ連はフォード政権発足当初同政権の出方を慎重に見守るとの姿勢をまず示した。その後グロムイコ外相の訪米,キッシンジャー長官の訪ソを経て,同年11月下旬両国首脳会談がウラジオストックにおいて開催され,SALT II(第II次戦略核兵器制限交渉)のガイドラインについての合意が成立するとともに,ニクソン政権下に築かれた米ソ間の緊張緩和の基調に変化がないことが米ソ双方により確認された。
他方,米国による対ソ信用供与及び対ソ最恵国待遇(MFN)付与問題は,米輸銀延長法案及び通商法案の米国議会における審議を通じて,ソ連邦に居住するユダヤ人の出国問題と密接に結びつけられるに至つたため,12月18日,ソ連は米国議会の通商法案可決直前にタス声明をもつてソ連市民の出国問題と対ソ信用供与及びMFN供与問題を絡ませることは重大な内政干渉であると強調し,この問題に関するソ連の立場を表明した10月26日付のキッシンジャー長官あてグロムイコ外相書簡を公表した。さらに75年1月,新通商法が発効するや,72年に調印されていた米ソ貿易協定の実施見合せを通告するに至つた。
これらの動向は,米ソ経済関係の発展にとつて阻害要因となるものであつたが,米ソ関係全般の基調に特に影響するものではなかつたことは,その後の推移が示しているとおりである。
(b) 対 西 欧 関 係
前述のごとくソ連は前年に引続き西欧諸国に対し,欧州の現状維持の確保を根底に据えながら緊張緩和外交を推進し,西欧諸国との経済協力関係の強化に努めた。すなわち,指導者の交替した独,仏との間でも10月シュミット独首相の訪ソ,12月ブレジネフ書記長の訪仏などを通じて両国の対ソ関係の基調に変化がないことが確認され,それぞれ2国間の経済協力協定が締結された。また,英,伊両国との間でも,それぞれ5月及び7月に期限10年の経済・科学技術・工業協力協定が締結された。
年来のソ連外交の主要目標の一つである欧州安保協力会議については,ソ連は同会議の第3段階を最高レベルで早期に開催することを意図していると見られるが,前記の独,仏両国首脳との会談においては,両国とも結局,第3段階の早期開催に明確なコミットを与えることを回避したとみられ,ソ連としては今後も早期妥結を強く主張し積極的な外交努力を続けるものと思われる。
また,欧州安保協力会議とほぼ並行して続けられてきた,中欧相互兵力・軍備削減交渉についてもソ連の主張に大幅な変化はなく,みるべき進展はなかつた。
なお,国際共産主義運動の分野において,ソ連は欧州安保協力会議終了後の新しい情勢に対処するため,欧州共産党会議の開催をめざす具体的動きを示しており,ワルシャワ(10月)及びブダペスト(12月)でその準備会議が開かれた。
(c) 対 東 欧 関 係
74年夏は恒例の東欧諸国共産党第1書記のクリミア会談は行われず,チェコ,ハンガリー,ポーランド各党首脳とブレジネフ書記長との個別会談が行われたにとどまつたが,ソ連は西欧諸国に対し経済・技術交流の推進を図り,欧州安保協力会議の促進に努める一方,東欧圏諸国に対しては,コメコンの経済統合,ワルシャワ条約諸国の団結強化の必要を強調した。ポーランド,ルーマニア,ブルガリアの解放30周年,東独建国25周年に際してはそれぞれソ連3首脳の1人が出席した。
なお,ユーゴにおいては,9月,公開の演説において,チトー大統領がコミンフオルミストの影響を受けた反チトー集団逮捕の事実を明らかにし,これに関連してポスト・チトーのユーゴ国内情勢並びにソ・ユ関係の今後の見通しなどにつき種々の憶測がなされた。以上総じて74年のソ連・東欧関係は全般的にみて比較的平穏に推移した。アルバニアについても,11月,アルバニア解放30周年に際し,ソ連側より関係正常化の意向が表明されたがアルバニア側の黙殺するところとなつた。
(d) 対 中 国 関 係
74年1月,中ソ双方がそれぞれ相手側のスパイを逮捕した事件,3月,ソ連ヘリコプターによる中国領侵犯事件,5月,領土問題に絡む国境河川航行問題の再燃など一連の事件が発生し,中ソ関係改善の兆しはみられなかつた。中国の国慶節,ソ連の革命記念日に際して,中ソ双方から国家関係改善の提案がなされたが,その後の両国指導者の言動からみて,関係改善のための具体的動きはなかつたものとみられる。その後,75年1月に開催された中国全国人民代表大会で中国新憲法が採択されたが,新憲法は当面対ソ協調の余地のないことを明示しており,これに対するソ連の毛指導部批判も極めて厳しいものであつた。
中ソ両国関係の焦点である国境交渉についても,ソ連代表はしばしば長期に亘つて帰国し,何ら進展はみられなかつた。
(e) 対アジア・大洋州関係
ソ連がアジア情勢に関し有している基本的な関心の一つは,中国の影響力の伸長如何である。そのためインド亜大陸においてはインド,バングラデシュとの友好関係維持を図りつつ,パキスタンとの関係改善にも意を用い,同地域における自国の影響力保持のための努力が目立つている。そのほかインドネシアとの関係調整,外交関係のないフィリピンとの接触にも努めた。
なお,ソ連は,欧州安保協力会議の進捗状況を考慮しつつ,アジア集団安保構想に対するアジア諸国の支持の取付けに努力しているが,アジア諸国の反応は低調で同構想の早期具体化の見込みは依然乏しい状況にある。しかし,ソ連としては今後も実務的な2国間関係の維持発展と併行して,引続き同構想の実現に向つての努力を重ねてゆくものと思われる。
また,75年1月にはウイットラム豪首相を招いて関係緊密化を図るなど大洋州地域に対する関心も高めている。
(f) 対 中 東 関 係
ソ連のアラブ諸国に対する影響力は,第4次中東戦争以後の米国外交の積極的展開,エジプトとの関係が後退したこと等から,むしろ低下する傾向をみせていた。かかる状況下において,ソ連は74年10月,ブレジネフ書記長が75年1月エジプトを訪問し,次いでシリア,イラクをも訪問する旨を発表し対中東外交の巻き返しを図る姿勢を示した。しかしながら,同年末に至り同書記長の中東訪問延期の発表を余儀なくされたが,これは中東和平をめぐりエジプトとソ連の間に意見の相違があつたためとみられる。ソ連としては,中東問題の包括的解決のため,ジュネーヴ会議の開催を中心として外交的努力を続ける姿勢であり,シリア,イラクへの梃入れ,エジプトとの関係改善の動きをみせている。
(イ) 北方領土問題(平和条約交渉)と宮澤外務大臣のソ連訪問については,第一部総説第3章第1節で記述したとおりである。
(ロ) シベリア開発協力問題
(a) 日ソ間で既に実施に移されたシベリア開発案件は,ウランゲル港の建設,パルプ・チップ用材の開発輸入および第一次極東森林資源開発の3件であり,このうち第一次極東森林資源開発は73年で完了した。
(b) 従来から日ソ当事者間で話合いが行われていた案件のうち,南ヤクート原料炭開発については74年6月に基本契約および借款契約が締結され,7月には政府間取極が署名された。また第2次極東森林資源開発については,74年7月に基本契約が,10月に借款契約がそれぞれ締結され,サハリン大陸棚石油・天然ガス探鉱については,75年1月基本契約の締結をみた。日米ソ三国間の共同プロジェクトであるヤクート天然ガス開発については,探鉱段階について交渉が続けられた結果,74年12月三国の当事者間で基本契約が締結された。
(c) 日ソ当事者間で新たに話合いが行われている案件は,パルプ・プラント建設であるが,本件については74年10月の第6回日ソ・ソ日経済委合同会議(於モスクワ)でソ側が正式に提案を行い,日本側がこれを受けて,交渉が開始された。
なお,チュメニ石油開発計画については,第6回日ソ・ソ日経済委合同会議において,日本側当事者より経済的・技術的に困難である旨態度を表明した。
(d) これらの日ソ間の諸プロジェクトに対し,政府は,互恵平等の原則の下に,日ソ両国の当事者間の話合いが,双方に満足のゆく形でまとまるのであれば,信用供与を含め協力措置をとるとの基本的立場をとつている。
(ハ) 日 ソ 貿 易
(a) 74年の日ソ貿易高は,通関統計で輸出10億9,700万ドル(FOB),輸入14億1,800万ドル(CIF),合計25億1,500万ドルに達し,73年の実績(輸出4億8,400万ドル,輸入10億7,800万ドル,合計15億6,200万ドル)に比較し,大幅に増加した。特に輸出の伸びが目ざましく,貿易バランスは,73年に比し,著しく改善されたが,依然としてわが国の入超となつている。わが国の輸出の著しい伸びは,前年の輸出実績が極めて低調であつたことのほかに鉄鋼製品の輸出が大幅に増大したこと,輸出価格が全般的に上昇したことなどによるものである。
(b) わが国の対ソ主要輸出品目は機械設備,繊維および同製品,鉄鋼および同製品,化学製品等であり,主要輸入品目は木材,白金等非鉄金属,石炭等鉱物性燃料などである。
わが国の工業製品の輸出,原材料の輸入という輸出入構造の基本的傾向は従来と変つていない。
(ニ) 日 ソ 漁 業 交 渉
(a) 日ソ漁業委員会第18回会議
北西太平洋日ソ漁業委員会第18回会議(さけ・ます・にしん等)は,74年3月4日からモスクワで開催され,4月27日,日ソ双方の委員が合意議事録に署名して終了した。
その結果,74年はさけ・ますの不漁年に当つていることから,わが国の74年の漁獲量は73年(91,000トン)を8,000トン下廻る83,000トンと決定された(ソ連側の74年漁獲量は3,000トン)。
なお,北緯45°以南のいわゆるB区域における取締り問題については,ソ連側は漁業条約第7条に基づきソ連監視船の単独乗入れを強硬に主張したが,最終的には,73年度と同様,日本側監視船に日・ソ双方の監督官が乗船して共同で取締ることに合意し,その旨の書簡が交換された。
(b) 日ソ政府間かに・つぶ交渉
第6回かに交渉及び第3回つぶ交渉は上記(a)のさけ・ます交渉と併行してモスクワで行われた。
かに交渉については,かに資源に対する日ソ双方のそれぞれの法的立場を留保した上で,4月26日に最終的な合意を見,各取極の仮調印が行われた。その結果,わが国の74年のかに漁獲量は73年に比べ約15%の減少となつた。
他方,つぶに関する取極はつぶ資源に対する日ソ双方の法的立場を棚上げした上で,4月26日に仮調印が行われ,74年の北西太平洋におけるわが国のつぶ漁獲量は樺太東方水域で殻付1,500トン(73年は1,700トン),オホーツク海北部水域でむき身1,125トン(73年と変らず)となつた。
(ホ) 日ソ近海におけるソ連船の操業問題
(a) 74年11月26日から12月5日まで,東京において,日本近海における両国漁船の操業に伴う紛争を未然に防止するとともに,紛争が発生した際には円滑かつ迅速な処理を図ることを目的とした第2回日ソ専門家会議が開催された(第1回会合は,72年11月東京で開催)。その結果,双方は(i)操業協定を締結すること,(ii)そのため出来るだけ早い時期に次回会合を開くこと及び(iii)協定締結までの間,紛争の防止等につき努力する旨合意した。
(b) その後,特に74年末より75年初頭にかけてわが国の太平洋沿岸の海域におけるソ連漁船の操業が急速に活発化し,わが国漁民の漁具等に対する被害が続発したため,わが国はソ連側に対して再三にわたりソ連漁船の操業の自粛方を要請した。
(ヘ) ソ連官憲による本邦漁船の「拿捕」
北方水域におけるソ連官憲による本邦漁船の「拿捕」事件は,依然として頻発しており,74年における本邦漁船の「拿捕」件数は33隻,246名であり,同年中に16隻,248名(その内20名が73年から越年)が帰還した。なお,46年から75年3月31日まで,ソ連側に「拿捕」された漁船及び漁船員の総数は1,459隻,12,274名に達した。その内,ソ連側から返還された船舶は896隻,帰還した漁船員は12,242名で,「拿捕」の際または引取りの途中で沈没した漁船は23隻,抑留中に死亡した漁船員は32名である。
(ト) 墓 参
(a) 政府は61年以降ソ連本土(戦後ソ連本土に抑留され死亡した邦人の墓地),樺太(終戦時まで居住していた邦人の先祖の墓地)および北方諸島(終戦時まで居住していた邦人の先祖の墓地)の三地域について墓参を実施してきた。しかし,ソ連側は日本側の希望する墓参地域の多くが「外国人立入禁止区域」内であるとして日本側の希望を部分的にのみ許可し,特に71年以降は樺太墓参に限つて許可してきた。
(b) 74年度では,4月,ソ連側に対し,ソ連本土,北方諸島および樺太への墓参につき許可方申し入れたが,7月ソ連側から北方諸島(歯舞群島の多楽島および志発島並びに色丹島)および樺太(豊原,真岡および本斗)への墓参に同意する旨並びに北方諸島への墓参問題解決に際しては73年10月田中総理大臣訪ソの際の同総理大臣の要請が考慮された旨の回答があつた。
これに対し,政府はソ連本土および北方諸島のうち国後島,択捉島についても許可するよう再考を促したが,「外国人立入禁止区域」を理由に肯定的回答が得られなかつた。
(c) 北方諸島(歯舞群島の多楽島および志発島並びに色丹島)については4年ぶりに8月21日から23日まで,樺太(豊原,真岡および本斗)については9月7日から9日までそれぞれ墓参が実施された。
(チ) 未帰還邦人
(a) 戦後ソ連領に残留した邦人は59年までに大部分が「集団引揚」の形で帰還した。その後さらに若干の邦人が帰国したが,73年当時なおソ連領には,729名の邦人(家族を含めれば約3,500名)が残留し,そのうち105名(家族を含めれば408名)が帰国を希望していることが確認された。
(b) 上記邦人の名簿は,既に73年10月訪ソした田中総理大臣よりソ側に手交済であつたところ,74年にはソ連側から上記名簿中7名が既に死亡している旨の通報があつた。
(c) 74年中には2名の未帰還邦人(うち1名は上記リスト記載者以外)が帰国した。
(1) 概 観
近年,東欧諸国はほぼ一様に,いわゆるデタントと呼ばれる情勢の中で,政策重点を内政に向け,経済の発展,国民の生活水準の向上を積極的に図つており,既に相当の成果を挙げていることが注目される。中東戦争によつて誘発された世界経済の混乱も,石油等重要資源のソ連からの安定供給により,74年中は,東欧に大きな影響を与えずにすんだことが認められる。他面,経済発展に重要な西側の高度の技術に対する渇望も大きくなり,西側諸国との協力の必要度も高まつており,各種の態様の経済交流が進展する一方,西側の輸出価格の高騰及び景気の後退が,これら諸国との経済交流に影響を与えている。
東欧諸国の政権としては,西側諸国との交流に当つて,ソ連が許容する限度を常に考慮する必要からも,また社会主義体制を維持する必要からも,イデオロギーの引締め傾向を強めていることがうかがえる。
(イ) ドイツ民主共和国
世界各国による承認及び国連加盟により,完全な一員として国際社会に参加することとなつたドイツ民主共和国は,社会生活も相当程度に安定し,経済も順調に伸び,東欧随一の工業力及び生活水準を誇るに至つた。かかる情勢を背景に,建国25周年(10月7日)を期して憲法改正を行い,ドイツ連邦共和国とは全く体質の異る「発展した社会主義国家」及び「国民」の存在を強調し,憲法から「ドイツ国民」の文字を消去し,将来にわたつても東西両独統合の可能性を否定した。
わが国との関係は73年の国交樹立以来,文化交流が極めて盛んに行われ,74年の貿易額は前年比77%増の9,600万ドルであつた。
(ロ) ポ ー ラ ン ド
74年は,民心の安定を保ちつつ,民生の向上を図つて行くというギエレク政権の基本政策が順調に進められた年であつた。あたかも,戦後の社会主義政権の30年記念の年に当り,秋の米国訪問と相俟つて,ギエレク第一書記のプレステージは大いに上つた。
社会的にも人心を動揺させるような事件はなく,無理を避けつつ慎重に徐々に自由化の方向に持つていこうとする現政権の行き方が成功しているといえよう。ただ,意欲的な成長政策が国際収支及び国内財政の均衡に大きな負担をかけていることが推測される。
わが国との貿易は前年比67%の増加を見せ,3億ドルであつた。
(ハ) チェッコスロヴァキア
74年におけるチェッコスロヴァキアの情勢は,全体として平静のうちに推移し,フサーク政権は「正常化」という与えられた課題を比較的に短い期間にやり遂げ,今や社会,経済の発展と対外関係の拡大に力を注いでおり,ある程度の成果をあげつつあるが,国民を結集して一丸となつて社会主義建設に邁進せんとの活気は未だ見られない。
わが国との貿易は前年比12%増の7,500万ドルであつた。
(ニ) ハ ン ガ リ ー
74年3月の党・政府幹部の人事異動は,従来の基本路線の修正の端緒ではないかとの疑問な生ぜしめたが,9月のカーダール党第一書記以下の党・政府代表団の訪ソ,第11回党大会綱領草案(11月発表)等を通じ,従来の「中央統制」の枠内における「自由化」拡大の基本路線に変更はなく,先年来行われている微調整の一環に過ぎないことが確認された。
他方石油危機以来の国際経済情勢の悪化は,資源が少なく貿易依存度の高いハンガリーの国民経済に相当な影響を与えたとみられ,生産・消費両面において中央統制強化と解される措置が実施されている。
わが国との関係は各分野において進展しており,特に74年度の貿易は前年に比し倍増し,5,300万ドルに達した。
(ホ) ル ー マ ニ ア
74年3月の初代大統領就任に見られるごとく,チャウシェスク体制は一層強化され,国内的には高度経済成長政策,対外的には対ソ自主独立外交という従来の基本路線が一貫して堅持された。他方,高度経済成長政策は,国民に消費生活面での犠牲を強いる等,経済社会の均衡上問題を生じていることがうかがえる。
対日関係では,大統領が75年4月訪日することが決まり,各種分野での関係緊密化に強い関心を示している。また貿易額もポーランドに次いで大きく,74年度は前年比140%増の2億3,700万ドルであつた。
(ヘ) ユーゴースラヴィア
74年には,内政面においては新憲法の制定,第10回党大会の開催を通じて自主管理社会主義の基本線を明確にすると同時に,これを実現するに当つての党の役割が強調された。またポスト・チトーに備える連邦幹部会も一層整備されたものとなつた。
経済面では生産は順調な伸びを示したが,インフレはますます激しくなり,貿易収支も輸入の増大,輸出の不振により大幅赤字を記録した。外交面では東西のバランスを保ちつつ非同盟諸国との友好関係を促進するという基本路線を堅持した。
わが国との関係では,対ユーゴ輸入が大幅に伸びたので貿易不均衡がかなり是正された。74年のわが国との貿易額は前年比132%増で,1億7,400万ドルであつた。
(ト) ブ ル ガ リ ア
ブルガリアは,いわゆる先進社会主義建設の段階にあり,後進農業国から工業国への転換をなしとげつつ,国民の生活水準の向上をはかる努力を続けている。
ジフコフ政権は,外交面ではソ連と全く同調し,そのデタント政策にのつて近年,東西交流をも積極的に進めている。
ブルガリアのわが国に対する関心は極めて高く,74年も閣僚級の来訪者があいついだ。貿易は,前年比78%増で,95百万ドルであつた。
(チ) ア ル バ ニ ア
「ソ連修正主義」と「米国帝国主義」反対の路線を堅持し,また中国との友好を第一とする外交路線をとり続けている。
実力者の一人国防相ベキル・バルクの失脚に見られるごとく,政権上層部内の確執が推測されたが,ホッジャ指導部の国内把握は依然として強いものがあると認められる。
わが国との間には極く僅かな貿易(84万ドル)を除いて,交流はほとんどない。