1. 米 国
(1) 内 政
(イ) ウォーターゲート事件とニクソン大統領の辞任
ウォーターゲート事件は,74年に入つて一層深刻化し,その結果遂にニクソン大統領は辞任し,憲法の規定に従つて,フォード副大統領が大統領に昇格(8月9日)した。
ウォーターゲート事件は,すでに73年には大統領側近高官の相次ぐ辞任,大統領による本事件担当特別検察官の解任,一部閣僚の辞任等を招来し,更に大統領弾劾問題に発展して(73年10月,下院司法委は弾劾問題に関し予備調査を開始)74年を迎えた。ニクソン大統領は,議会よりの本事件に関連する資料提出要求に対し,大統領特権及び安全保障上の理由等をあげて拒否し続けた。本事件に大統領が関与したか否かの決め手と目されていた側近と会話の録音テープを提出するよう強く求める議会の動きに対して,同年4月二クソン大統領は,そのトランスクリプトを提出・公表することに応じた。しかしながら,提出されたものが不備であるとされ,大統領批判が強まる結果となつた。
下院司法委員会は5月はじめより大統領弾劾問題について審議した結果,7月末に至り司法妨害,権力乱用,議会侮辱の3点につき大統領弾劾発議案を採択,下院本会議に上程することとなつた。
(注) 合衆国憲法で,大統領弾劾には下院が2分の1の多数決により発議し,上院が弾劾裁判所として審理にあたり3分の2の多数決で決定を行う旨定められている。
このような事態の進展を背景にニクソン大統領は,8月5日,特別声明で本事件のもみ消し工作に関与したことを是認した。これを境いに従来大統領を支持してきた与党保守派議員等より退陣要求が表明されることとなり,8月9日同大統領は辞任することとなつた。なお大統領の辞任については米国憲法に規定があるが実際に大統領が辞任した例は米国史上前例がない。
これに伴つてフォード新大統領の登場をみるわけであるが,同大統領は,先に脱税問題をめぐり73年10月任期半ばにしてアグニュー副大統領が辞任した際,大統領による指名(当時共和党下院院内総務),議会による承認という手順により副大統領に任命されており,このように選挙を経ずして副大統領,更には大統領に就任した例は米国史上未だかつてない出来事であつた。
(ロ) フォード新政権の施政方針
フォード新大統領は,就任直後の8月12日,議会で施政方針演説を行ない議会との協調を呼びかけるとともに,米国が当面する最大の問題としてのインフレに対する取組み姿勢を明らかにした。すなわち,(i)米国のインフレ鎮静のためには連邦政府の支出削減が鍵であると述べ,(ii)賃金及び物価をモニターする目的のため「生計費委員会」の再発足を要請し,(iii)米国経済の安定と成長を目的とする行政府・議会・労働・企業の代表からなる「国内頂上会議」に関する上院民主党院内総務の提案を受諾し,早急にこれを開催する旨提案した。
前記頂上会議は9月27日,28日ワシントンで開催され,(i)政府として全般的な統制政策はとるべきでない,(ii)政府支出を切りつめ均衡予算をとるべきである,などの点について多くの出席者の意見一致をみた。会議の終りに大統領は,インフレ対策のため「経済政策会議」,「大統領府労使委員会」を新設すると発表,更に国民及び議会に対し包括的な経済再建及びエネルギーに関する行動計画を提出することを明らかにした。10月8日フォード大統領は議会で演説し,食糧,エネルギー,統制の回避,資本市場の秩序回復,失業者救済,住宅建設の促進,貯蓄性金融機関の救済,国際協力,連邦税引上げ及び財政引締め,並びにインフレ克服及びエネルギー節約のための国民運動の10項目にわたる新経済政策を発表した。
75年1月15日議会に提出した就任後初の教書たる一般教書において,フォード大統領は「米国の状態はよくない」と説き起し,目前の最大の政策課題たる経済問題,特に不況及びエネルギー対策に関する具体策を打出し,新しい政策目標達成のために議会,ホワイトハウス,国民の3者が総力を結集して協力していくことを呼びかけた。年頭教書の中での経済政策は74年10月8日に発表されたインフレ対策を中心とした経済政策から,不況,失業対策中心へと大きい転換をとげたことが注目されるが,これら政策の実施には民主党の大幅に優勢な議会がこれをいかに受止め,いかに協力するかにその成否がかかつているといえよう。
(ハ) 中 間 選 挙
11月5日中間選挙が行われ,連邦上院議員100名のうち34名,下院議員435名の全員,全米50州のうち35州の知事及び州議会,市議会議員等が改選された。
選挙の結果上院の勢力関係は民主党61議席(3議席増),共和党39議席と民主党優位の態勢を更に強めた。ハワイ州では日系議員のダニエル・井上氏(民主党)が3選された。
下院では民主党が更に予想を大幅に上回る増勢(43議席増)を記録し,3分の2を超える291議席を獲得するに至つた。ハワイ州でスパーク・松永及びパッツィー・ミンク両日系議員(両者民主党)が夫々7選及び6選されたほか,カリフォルニア州ではノーマン・峰田氏(民主党)が米本土から初めての日系人下院議員となつた。
知事選挙においても同様に民主党は優勢で,特にカリフォルニア,ニュー・ヨーク等有力な州において,知事職が民主党の手に移つた。ハワイ州では,ジョージ・有吉氏(民主党)が初の日系人知事に選ばれた。
この中間選挙は,上述のとおり前大統領の辞任という異常事態のもとで,大統領選挙な経ずに政権についたフォード大統領にとつて就任後最初の選挙として信住を問う意味もあり同大統領も与党共和党の後退阻止のため積極的に運動した。しかし上述のように議会においては民主党の増勢という結果に終り,大統領は外交政策,経済政策等の推進に当つて,更に困難な立場に立たされることとなつた。
(ニ) 経 済 情 勢
73年第1四半期以降,米国経済は成長率鈍化及び物価上昇の傾向を強めてきたが,同年10月末の石油危機はこの傾向に拍車をかけることになつた。すなわち74年第1四半期の実質成長率はマイナスに転じ,以後各四半期ともマイナス成長率となつた。第2四半期には3月の石油禁輸解除により,生産が回復しマイナス幅がやや縮小したが,第3四半期に入つて再び悪化し第4四半期には年率マイナス9.1%という実質成長率の大幅な後退が生じ,高い失業率(12月,7.2%)とあいまつて深刻な不況の様相を呈するに至つた。74年全体の実質GNPは,前年比181億ドルの減少でマイナス2.2%の成長率となつた。また上記の減少額中,実質個人消費の減少は122億ドルに及んでおり個人消費の減退が不況の深刻化の大きな要因となつている。
他方,74年の物価の動きを見ると,GNPデフレーターは第2四半期を除いて各期とも年率10%を上回る上昇率となつている。しかしながら卸売物価指数,消費者物価指数によつて月別の動きを見ると,74年末に至つて上昇鈍化の兆しが表われている。すなわち卸売物価は12月に入つて14カ月振りに前月比低下し,消費者物価指数の伸びも12月に入つてかなりの鈍化を見せた。経済活動の停滞の長期化に伴い,需要圧力が減少するとともに物不足,とりわけ原材料不足の解消が進み,価格引下げ圧力が働いてきたものと思われ,石油価格の上昇が一段落したこともありインフレに関しては好材料が多くなつている。
国際収支については,73年末以来の輸入石油価格高騰による貿易収支の悪化を主因として,公的準備取引収支で80億ドルの赤字(前年の赤字は53億ドル)を示した。米商務省発表文によれば74年における石油及び同製品の輸出入による赤字額は251億ドルに達し(前年の赤字は75億ドル),これを除けば74年の貿易収支は193億ドルの黒字になつたと推定されている。
他方,エネルギー事情についてみれば,国内の原油及び天然ガス生産量は,漸減傾向を示しており,政府としては,輸入石油に係る脆弱性を克服するため,11月発表の「プロジェクト・インディペンデンス」報告を経て,消費節約と生産増大の政策を打ち出した。
米国経済は現在インフレ,リセッション,エネルギーの3つの困難な問題に直面しているが,74年末に至り,不況が従来の予想以上に急速に進展したこととインフレに鎮静化の兆しが見られることから,フォード政権の政策も次第に不況対策に重点が移行しつつある。
(イ) 外交政策一般
74年の米国外交を端的に言えば(i)欧州,日本をはじめとする友邦諸国との関係強化を計つたこと,(ii)ここ数年著しい進展をみた対共産圏諸国との関係改善は継続して維持したこと,及び(iii)73年秋の第4次中東戦争に端を発した産油国の「石油禁輸」という新戦略によつて自由主義経済が大きな危機に直面したことにも鑑みて,中東和平工作を含めてエネルギー・資源等経済問題をめぐる外交に力を注いだことが特色として上げられる。
まず,友邦諸国との関係においては,ニクソン,フォード両大統領ともその関係強化に意を用いた。この表われは73年4月のキッシンジャー国務長官(当時大統領補佐官)の「原則宣言」発言によつて顕著になつたが,その後いろいろな推移を経て,総括的な「原則宣言」は棚上げにして「NATO宣言」(NATO諸国の大西洋関係に関する宣言)採択(6月)という形で実現した。(NATO宣言は,NATOの結成25周年にあたつて加盟各国が「運命共同体」としての同機構の存在意義を再確認したもので,14項目からなる。)
8月9日にニクソン大統領辞任のあとをうけて登場したフォード政権は,いち早くキッシンジャー国務長官を留任させるとともに,従来の外交政策を継続し友邦諸国との関係強化を最優先すると言明し,一般に好感をもつて迎えられた。その後シュミット西独首相の訪米(12月),米仏首脳会談(12月,仏領マルティニック島)等を経ておおむね協調関係が維持された。
また,11月にはフォード大統領が現職大統領として初めて日本を訪問しその友好関係に新たな一頁を加えるとともに,引続いて韓国をも訪問しアジア地域に対する米国の関心の高さを示した。
他方,ここ1,2年大きな改善のみられた共産圏諸国との関係では74年には劇的な変化はみられなかつたが,着実な歩みをつづけているといえる。まず,米ソ関係においてはニクソン大統領が6~7月にかけてソ連を訪問し,続いて11月にフォード新大統領が日本及び韓国訪問後,ウラジオストックで米ソ首脳会談を行つた。ウラジオストックでの首脳会談では「米ソ緊張緩和」政策の継続に対する双方の意思確認及び第2次戦略兵器制限交渉(SALT II)のガイド・ラインを設定し,同交渉の75年内妥結に明るい見通しがあるとの認識をもつという成果があつた。75年1月に至つてソ連は74年末に米議会を通過した「74年通商法」の最恵国待遇供与に関する条項(ソ連内のユダヤ人出国制限問題)に反対して,72年10月に結ばれた「米ソ通商協定」の発効棚上げを通告し,米ソ関係の一時的な停滞を思わせたが,75年にはブレジネフ・ソ連書記長の訪米も予定されており,また,75年2月16~17日のキッシンジャー国務長官とグロムイコ・ソ連外相の会談でSALT IIの年内妥結に合意する等現在までに達成された成果をふまえて更に緊張緩和政策を推進していく方向に進んでいる。
次に米中関係は,キッシンジャー長官の訪中(11月)があつたのみで大きな進展はなかつたが,米中両国とも72年の上海共同声明の精神にそつて両国関係をおし進めることを確認しており,さらに75年後半にはフォード大統領の訪中も予定されている。また相互の首都に開設されている連絡事務所を通じて両国関係の改善,拡大も行われており,特に駐北京連絡事務所の2代目所長に共和党の大物政治家ブッシュを起用したことからも米国の対中姿勢がよみとれる。
中東地域については,域内関係国の緊張が続く限り,軍事的危機のおそれがあり,世界の主要な不安定要因となつているとの観点に立つて中東和平工作には格段の力を入れた。ニクソン大統領は6月に中東諸国を訪問したが,この頃までに67年の第3次中東戦争時に米国と国交断絶したほとんどの中東諸国と相次いで復交した。また,キッシンジャー長官は74年中に6度も同地域を訪れ和平実現に努力した。特に5月には紛争当時国間を往復するといういわゆる「シャトル外交」を行い,シリア・イスラエル間の兵力引離し合意を実現し段階的解決方式を押し進めた。
しかし中東和平問題を討議する第1回ジュネーブ和平会議は73年12月に2日間開催されただけでその後再開もされず,更にはモロッコでのアラブ首脳会議(10月)及びその後の国連におけるパレスチナ問題の審議は米国の中東和平工作の前途に対して楽観を許さないものであつた。
その他,ラ米地域に対しても米国は「新しい対話」をめざし,対キューバ外交についても柔軟な姿勢をみせはじめたが復交には至らなかつた。また,74年末に成立した「74年通商法」の「特恵関税」条項をめぐつて一部中南米諸国の批判的な動きもみられ,米国の期待する程の進展をみせていない。
74年の米国外交を特徴づけるものとして,ニクソン大統領時代の議会を軽視したと非難されるような外交政策遂行に対して,73年頃より米議会の行政府に対する制約が強まる傾向があつたが(特に軍事援助に対して厳しい態度をとるようになつた),74年11月の中間選挙で野党の民主党が大幅に進出した結果,これが一層強まることとなり,対外政策の実施には従来以上に議会の意向を反映することが必要となつた。
(ロ) 対外経済政策
米国は,現下の世界経済はますます相互依存的になつてきているとの基本的認識のもとに,73年秋の石油価格引上げ及び石油禁輸に端を発するエネルギー問題が世界経済,更には世界政治の基本的枠組自体に大きなインパクトを与える可能性が大きいことについて強い危機感を持つに至つた。これらの問題の解決のためには関係国間の国際協力が必要不可決であり,そのために米国が指導力を発揮せねばならないとの基本的考え方に立つて,主として先進国を中心とする多国間協議の場において,極めて強力な経済外交を展開した。
すなわち,2月のワシントン・エネルギー会議を主宰し,それに続くエネルギー調整グループでの協議,OECDの枠内における国際エネルギー機関の設立とそこでの協議において,米国は主導的役割を果した。また,オイル・ダラー問題を含む国際通貨・金融の問題についてもIMFの場等において,積極的なイニシャティブをとつた。
もう一つの米国対外政策の基本的な考えは,米国経済自身の成長及び世界経済のために,開放された無差別かつ衡平な貿易を維持発展させることである。このような目的の下に,米行政府は,多角的交渉権限及び輸入急増に対処するための措置(貿易規制等)をとる権限を付与する通商改革法の議会における早期承認のために努力を行つた。
73年12月下院を通過した通商改革法案は74年に入つて上院で審議されたが,下院と同様に対ソ最恵国待遇供与が最大の問題となつた。しかし秋に至り,行政府と議会の間の話し合いで「大統領が,出国の権利,機会を拒み,あるいは名目以上の出国税などを課していると判断した国に対しては,最恵国待遇及び輸出投資信用を供与してはならない」とのいわゆるヴァニック・ジャクソン修正案の適用を18カ月間免除するとの妥協が成立した。これによつて同法案の議会での審議は一気に進み,「1974年通商法」と名称を変更された同法案は12月20日議会の承認を得,その後75年1月3日,大統領の署名を得て正式に発効した。
通商法の成立によつて,新国際ラウンドは本格的に動き出すことになつた。しかし,一方,ソ連は上述の如く最恵国待遇問題の処理ぶりを不満として米ソ通商協定の発効棚上げを通告したほか,一般特恵関税制度に関連して,その適用から除外された開発途上国から大きな不満が表明される等の問題が生じた。
食糧問題についても世界食糧会議の提唱等,世界の食糧供給大国として,問題解決のための積極的な姿勢を示した。しかしながら,ソ連への大量売却による在庫量の減少及び天候不順による大幅な減産等のため国内食糧市場が逼迫した結果,食糧輸出振興政策について若干の変更を余儀なくされ,大口の穀物輸出契約の事前承認制度など,広義の意味での輸出規制措置を講じた。
(イ) 日米関係全般
74年は9月には田中総理大臣が中南米及びカナダ訪問の途次ワシントンに立ち寄つてフォード大統領と会談し,また5月には大平外務大臣,9月には木村外務大臣が訪米したほか,11月には日米関係史上初の米国現職大統領の訪日が実現する等,日米間の対話が一段と深められる等極めて実り多い年であつた。
殊にフォード大統領の訪日が成功裡に終つたことは,緊密化している日米関係の中で現職の大統領が一度も訪日していないという或る意味では不自然な状態に終止符を打ち,日米関係史上に一つの輝かしい新たな一ページを加えるものとして記憶に新しい。
特に以上の会談を通じて,二国間の問題以外に国際政治問題及び国際経済問題の占める比重が増したことが目立ち,このことは,ここ数年来の「世界の中の日米関係」が着実に進展していることを如実に示していると言えよう。
(ロ) 経済関係
74年の対米輸出・入はそれぞれ124.5億ドル(対前年比28.6%増)及び106.9億ドル(同29.0%増)となり,往復で231.4億ドルと初めて200億ドルのレベルに達した(統計は米国センサス・ベース)。また,年間を通じての貿易収支は,17.7億ドルのわが国の出超となつた(73年は13.3億ドルのわが国出超)。
主要輸入品の中では,小麦・こうりやん等の食料品が前年比3割増となつたが,この増加は価格増によるものがほとんどであり,数量的にはむしろ減少しているものと推定される。
主要輸出品の中では,鉄鋼が116.5%増と大幅に増大したほか,とくに金額の大きい自動車も34.2%とかなりの伸びを示した。しかしながら,対米輸出全体の伸びについてみると,わが国の対世界総輸出の伸びをかなり下回つており,わが国の総輸出に占める対米輸出のシェアは73年の26%から,74年には23%に低下した。原因としては,(a)73年頃から通貨調整効果が現れ,更にわが国のインフレの進展により日本商品の米国における価格競争力が低下してきたこと,(b)市場分散化が進み,特に74年については中近東,共産圏等のシェア増大が顕著であつたこと,(c)米国内の不況によつて購買力が低下したこと等が考えられる。
貿易面と並んで,日米間の資本交流も増加している。わが国に進出している外資系企業のうち約60%(752社)が米国系企業で占められ,その投資累計額は,73年末において約27億ドルに達した。(米商務省統計)
他方,わが国の対米直接投資は,74年3月末における許可額累計で約21億ドルに達している。最近は,米連邦及び州政府の積極的な勧誘,人件費格差の縮少,米国内の輸入制限的動きを回避する配慮等の理由から,製造業を含めた対米投資が増大する傾向にあるが,全体の割合からみると,未だ商業,金融,保険業がかなり多い。
また,経済の面での今後の日米関係の展望につき日米両国は,フォード大統領訪日の際の共同声明において,日米両国が両国間の緊密な経済関係を今後とも発展させるとともに,世界貿易の継続した拡大と安定し均衡のとれた国際金融秩序を創設するための国際的努力に建設的に参加することを確認した。
(ハ) 科学技術協力
(a) 日米科学技術協力
日米両国の間では過去10数年間,科学,医学及び技術上の各分野にわたつて活発な各種協力計画が実施されてきた。これらの諸計画の中には日米科学協力事業,日米医学協力事業等が含まれている。
(i) 日米科学協力委員会
日米両国の平和目的のための科学協力推進を目的として,61年の池田総理大臣・ケネディ大統領共同声明に基づき設置された日米科学協力委員会は73年まで12回の会合実績を有しているが,74年には6月12日及び13日,東京において第2回共同議長会議が開催された。
本委員会は,自然科学の全分野を網羅した8つの部門を持つており,基礎科学レベルにおける両国科学者の交流,情報交換,セミナー等各種事業を実施している。実施機関は日本側が日本学術振興会,米側が米国国立科学財団である。
(ii) 日米医学協力委員会
アジアに蔓延している疾病について効果的な措置をとる上に必要な基礎医学研究を目的として,65年の佐藤総理大臣・ジョンソン大統領共同声明に基づき設置された日米医学協力委員会の第10回年次会合は74年8月8日及び9日,東京において開催された。
本委員会には,コレラ,結核,低栄養,ウイルス,らい,寄生虫,突然変異・癌原部会の7部会が設けられている。
上記二計画を含め多岐多様にわたる日米間の科学技術協力は,諸々の業績をあげ,73年の田中・ニクソン首脳会談で,両首脳がその業績に満足の意を表明したが,同時に,両首脳は,過去10年間のより広範囲の要請に鑑み,両国間の科学技術協力を全体的に再検討することに合意した。その後これに基づき,日米科学技術協力審査委員会が設置され,75年4月より両国間の既存の諸協力計画強化のための方途を検討するとともに,新しい分野での協力の可能性を探求し,その検討結果を両国政府に報告することになつている。
(b) 原爆放射線の人に及ぼす医学的影響に関する日米共同調査研究
米国の原爆傷害調査委員会(ABCC)と国立予防衛生研究所とが広島,長崎において1947年以来協力して調査研究活動を行つてきた原爆放射線の人に及ぼす医学的影響に関する調査研究体制を改善するための日米政府間協議は,74年6月及び11月の2回にわたり外務省において開催された。この結果,従来の共同調査研究活動を維持促進し,もつて被爆者の健康保持に貢献するため,日米両国の関係者の平等な参加の下に管理運営される「放射線影響研究所」を日本国の法律に基づく財団法人として75年4月1日を目途に設立することにつき原則的合意が得られ,これを確認するための書簡が74年12月27日宮澤外務大臣とホッドソン駐日大使との間で交換された。
なお,戦後米国政府により設置されたABCCは,前記研究所の設立に伴い,解消されることになつている。
(ニ) 日米漁業交渉
北太平洋(東部ベーリング海及び北東太平洋)における75年1月1日から2年間のわが国漁船の操業の態様に関する交渉は74年11月25日から同12月13日まで東京において行われ,同12月24日,日米漁業取極及び日米カニ取極に関する書簡が宮澤外務大臣とホッドソン駐日大使との間で取り交された。
わが国の年間漁獲割当量に関する主要な合意事項は次のとおり。なお括孤内は従来の規制。
(a) 東部ベーリング海
タラバガニ30万尾(70万尾)ズワイガニ1,350万尾(1,400万尾)スケトウダラ110万トン(130万トン)ニシン18,000トン(44,300トン)その他の底魚214,300トン(規制なし)
(b) 北東太平洋
メヌケ類6万トン(アラスカメヌケ6万トン)ギンダラ3万トン(3万トン)その他の底魚3万トン(規制なし)
(ホ) 安保問題
(密接な協議,協調)
日米安保条約は,わが国の安全保障のために不可欠なものであるのみならず,アジアにおける平和と安全の維持に寄与する国際政治の基本的枠組みの重要な柱の一つであり,また日米間の信頼,協力関係を具象する紐帯である。74年中も,日米安保条約の円滑,かつ,効果的な実施を図るための密接な協議及び協調が引続き進められた。
まず,74年11月の東京における田中総理大臣とフォード大統領との首脳会談において,両国は,相互協力及び安全保障条約の下での日米間の協力関係は,アジアにおける国際情勢の進展の中にあつて,重要な,かつ,永続する要素を構成しており,また,同地域での平和と安定を促進する上で効果的,かつ,有意義な役割を引続き果していくものと考える旨意見の一致をみた。
また,両国政府の外交及び防衛当局者で構成される安保運用協議会は,74年中計7回開催され,安保条約及びその関連取極の円滑,かつ,効果的な実施をはかるための協議,調整を行つた。
(在日米軍施設・区域の整理・統合)
政府は,従来から,日米安保条約の目的の達成と施設・区域所在地域の経済,社会的発展との調整を図るべく努力してきたが,74年中も,第14回及び第15回日米安全保障協議委員会において了承された整理・統合計画の実施に最大限の努力を傾注した。この結果,74年中に米軍施設・区域計19カ所の全面返還が実現した(その他数多くの一部返還が実現した)。(注)
(ラ・ロック発言)
74年9月10日開催された米国議会上下両院原子力合同委員会軍事利用小委員会の聴聞会において,ラ・ロック元提督は,「核兵器塔載能力のある艦船は核兵器を塔載している」旨発言した。本発言について,日本政府は,米国政府の見解を求めたところ,10月12日米国政府は次のとおりその見解を通報してきた。
「米国政府は,相互協力及び安全保障条約並びにこれに関連する諸取極に基づく日本に対するその約束を誠実に遵守してきている。
米国政府は,69年の佐藤・ニクソン共同声明第8項に述べられている通り,核兵器に対する日本国民の特殊な感情を深く理解している。これに関連して,60年の岸・アイゼンハウァー共同コミュニケ第2項に含まれている誓約及び前記の佐藤・ニクソン共同声明第8項で与えられている確約並びに72年5月15日付けの福田外務大臣宛ロジャース長官書簡中の声明は,誠実に遵守されてきたし,また,引き続き誠実に遵守されることを再確認する。
前記小委員会において行なわれた諸言明は,一私人によつてなされたものであり,米国政府の見解を何ら代表しうるものでないことは,既に述べられているとおりである。」
(1) 内 政 と 外 交
(イ) 政 情
74年7月の総選挙において,トルドー首相の率いる自由党が進歩保守党を押えて単独過半数を制し,72年10月以来続いた不安定な少数党政権に終止符が打たれ,自由党政府による多数党政権が出現した。
トルドー首相は,総選挙後の8月8日内閣改造を行い,第三次トルドー内閣が発足した。この改造ではマッカッケン下院院内総務が新たに外相として起用されたほか,若干の新人が登用されたが,大蔵・エネルギー・鉱山・資源・農林等の主要閣僚は留任した。
9月30日新政府は連邦議会で施政方針を表明し従来の路線を堅持しつつ,現下のカナダの最重点問題たるインフレに取り組むとの方向を打ち出した。
トルドー首相は政権の長期安定化の見通しがついたこともあり,施政全般にわたつて積極的姿勢を示しつつあり,今後長期的視野に立つて内政上の諸問題,すなわち憲法改正問題,移民問題,公用語問題等に取組むものと考えられる。なお,資源をめぐる連邦政府と州政府との関係は,カナダにおける根強い地域主義との関連もあり,今後引き続き種々の調整が必要とされるものと予想される。
(ロ) 経 済
(a) カナダ経済は3年続きの高度成長を経て,74年には多少の減速をみることとなつた。すなわち,カナダ経済は同年春に至り,漸くかげりの色が濃くなり,輸出増加の鈍化,消費需要の伸び悩み,住宅建設の急落等を背景に,同年第2四半期以後の実質成長は完全に停止し,74年を通じた実質成長率は4%程度となつた。 | |
(b) 他方,物価面では騰勢は依然として衰えを見せず,74年12月の消費者物価は前年同月比12.4%を記録し,特に食料品の上昇が顕著であつた(17.1%)。卸売物価についても,上昇率は消費者物価のそれを上回る勢いであつた(11月は前年同月比20.1%)。 | |
(c) エネルギー・資源問題については,74年11月に,国家エネルギー委員会が,80年代初頭には西部カナダの自給自足すら困難になるとの悲観的見通しを発表するとともに,今後原油の対米輸出を漸減し,80年代前半にはこれを停止することを明らかにした。また,オイルサンド開発については,開発コストの急騰,対米原油輸出規制等により,プロジェクト参加各社の脱退が相次ぎ,重大な危機に直面することとなつた。 | |
(d) 牛肉価格の低迷と飼料穀物価格の高騰から,国内肉牛農家を救済するため,8月から実施された牛肉輸入枠の設定は,米国の反発を招くこととなり,米国は本措置に対抗してカナダのみを対象にした輸入枠を設定し今度はカナダが米国の本措置を不服としてガット22条協議を要請するなど,米加牛肉戦争の様相を呈している。 |
(ハ) 外 交
トルドー政権の外交政策は対米友好関係を維持しつつも,近年カナダ国内に見られる対米ナショナリズムの高揚を背景とする対米自主外交,外交の多極化への指向をその基調としており,トルドー首相が68年首相就任以来行つた中国承認,対ソ外交の積極化はこのような多角化の第一歩といえる。74年においては第2のステップとして日本及び欧州との関係緊密化がはかられ,74年10月にはトルドー首相が首相就任後はじめて仏,ベルギーを公式訪問し,加・欧州関係強化に積極的姿勢を示した。
対米関係では,カナダがインフレ,石油問題等に対処するため採つた諸措置が米国との間に摩擦を生じることとなつたため,トルドー首相は米国との関係を調整すべく12月ワシントンにおいてフォード大統領と会談し,問題解決のための努力を行つた。
(イ) 日加関係全般
政府は太平洋の隣国たるカナダとあらゆる分野における紐帯を強めていくことが単に経済的観点からのみならず,わが国の外交基盤の強化拡充の上からも極めて重要であるとの認識のもとに対加政策を推進しており,政府はかかる観点より,74年9月の田中総理大臣の訪加をはじめとする各種レベルにおける協議,対加広報シンポジューム(3回)の開催等を通じ日加間の相互理解の増進と交流強化に努めている。
他方カナダにおいても外交の自主性を追求しつつその多角化を図つており,74年にはわが国及び欧州(EC)との関係緊密化を推進しようとする空気がとみに高まつた。
特に,田中総理大臣の訪加は,トルドー首相との二度にわたる会談を通じ日加関係の緊密化と基盤強化に大きな成果を挙げたが,この会談により,日加関係をより幅広いものとするため政治,文化,科学技術等の分野においても交流の拡大を図ることとなつた。なお,田中総理大臣は,この訪加に先立つ4月ポンピドー仏大統領の葬儀に出席した際パリにおいてトルドー首相と会談しており,また,同月ヘッド・トルドー首相特別補佐官が来日し田中総理大臣及び大平外務大臣と会談している。
また,9月に訪米した木村外務大臣は,国連においてマッカッケン外相と日加間の諸問題につき会談した。このほか日加間の交流についてみれば,7月日加食糧農業会議(オタワ),9月日加政策企画協議(東京),11月日米加による北太平洋漁業国際委員会会議(シアトル),12月日加協議(オタワ)などが開催された。
なお,4月にカナダの沖縄海洋博への参加表明があつた。
(ロ) 経 済 関 係
(a) 日加貿易の推移
74年の日加貿易は,対加輸出約16億ドル(前年比59%増)同輸入約27億ドル(同33%増)と往復約43億ドル(同33%増)に達した。
商品別に見ると,主要対加輸出商品は機械機器,金属及び同製品,鉄鋼,自動車,繊維及び同製品,テレビ,ラジオの順で,機械機器,鉄鋼,自動車が各々対前年比43%,188%,69%の増加を示したほか,食料品,ラジオを除き軒並みに大幅増加を示した。そのほか輸出に占める割合は小さいが化学製品,人造プラスティックがそれぞれ,241%,461%の伸びを示したことが注目される。
主要輸入品は金属原料,原料品,食料品,小麦,鉱物性燃料,木材の順でそれぞれ24%,37%,38%,92%,38%,11%の増加を示した。
(b) カナダ外資審査法
カナダの外資審査法は73年1月に裁可され,同法の外資によるカナダ企業の取得関係部分は74年4月10日より施行されたが,外資企業の新規設立,既存外資企業の非関連事業への拡張に関する部分は74年を通じ施行されなかつた。本法においては,外資審査庁は,各案件につき,それがカナダにとつて重要な利益をもたらすか否かという基準により審査することが規定されており,わが国関係企業もその運用に大きな関心を有している。因みに,75年2月までにわが国企業より39件の申請がなされ,内31件が認可を受けている。
(c) ヴァンクーバー港の穀物船積全面停止
カナダはわが国の小麦,大麦等の主要供給国の一つであるところ,ヴァンクーバー港のグレイン・エレベーター労使は労働協約更改をめぐつて対立し,8月23日,レイオフ,ピケを行うに至り,穀物船積は全面停止に入つた。加政府は10月7日に船積再開を実施させるための法案を議会に提出し,同月中旬可決,事態は解決された。
(d) 日加食糧農業会議
日加食糧農業会議は73年10月の桜内農林大臣訪加の際に提案されたものであるが,74年7月,第1回目の会合がオタワで開催され,カナダの生産,需給見通し及びわが国の輸入見通しを中心に,長期契約の可能性,農業技術交流に関し,意見・情報交換を行つた。
1.知念第二サイト 1月 9日
2.名古屋調達事務所 2月28日
3.久志訓練場 3月31日
4.屋嘉訓練場 〃
5.牧港調達事務所 〃
6.新里通信所 〃
7.平川通信所 4月30日
8.西原陸軍補助施設 〃
9.百石通信所 5月15日
10.神戸港湾ビル 5月31日
11.石川陸軍補助施設 8月 3日
12.与座岳陸軍補助施設 9月30日
13.知念補給地区 10月15日
14.読谷陸軍補助施設 10月31日
15.波平陸軍補助施設 〃
16.キャンプ淵野辺 11月30日
17.関東村住宅地区及び補助飛行場 12月10日
18.キャンプブーン 〃
19.牧港倉庫 〃