第 2 部

 

各    説

 

第1章 各国の情勢及びわが国とこれら諸国との関係

 

第1節 アジア地域

 

1. アジア地域協力機構とわが国

 

(1) 東南アジア開発閣僚会議

(イ) 東南アジア開発閣僚会議は,わが国の提唱で66年に創設されたもので,東南アジア諸国における経済開発の共通の諸問題について,閣僚レベルで卒直な意見を交換することにより,参加諸国間で経済・社会開発のための地域協力を推進することを目的とするフォーラムである。74年11月には第9回会議がマニラで開催された。なお,第10回会議は75年シンガポールで開催される予定である。

 第9回会議参加国は日本,インドネシア,カンボディア,ラオス,マレイシア,フィリピン,シンガポール,タイ,南ヴィエトナム,ビルマ,豪州及びニュー・ジーランドの12ケ国であつた。

(ロ) 74年11月マニラで開催された第9回会議では,参加国の多くから石油危機以来の国際経済の変動とその開発努力に及ぼす影響の深刻さ,及び,その解決策を協調と協力を通じて探求していかなければならない点を強調する意見が述べられた。また,2回目の参加である豪州及びニュー・ジーランドからはそれぞれ,アジア・太平洋地域との関係強化,開発援助の増加・改善等の諸点が表明された。

 第9回会議に出席した木村外務大臣は,わが国は地域の諸国との良き隣人関係の促進強化のため,自主性の尊重と相互理解の増進を外交の基本方針としていると表明し,更に,わが国はエネルギー危機など諸般の困難に直面しているが,政府開発援助拡充を中心に開発途上国の開発努力に能う限りの努力を行つていくとの意図を表明した。

(ハ) 本会議を母体として種々の地域協力プロジェクトが生まれ,また,その設立の検討が続けられているが,これらのプロジェクトのうち主要なものは,次のとおりである。

(a) 東南アジア漁業開発センター(略称SEAFDEC)
 本センターは,東南アジアの漁業開発の促進を目的として67年12月に設立された政府間国際機関で,閣僚会議が生み出した最初の地域協力プロジェクトである。
 加盟国(75年3月現在)は日本,マレイシア,フィリピン,シンガポール,タイ及び南ヴィエトナムの6カ国で,事務局は訓練部局が兼務している。センターには訓練部局(バンコック),調査部局(シンガポール),及び養殖部局(フィリピン)があり,加盟各国の研修生に対する訓練,域内の漁業資源の調査あるいは漁業資源の養殖に関する調査研究等の活動を行つている。養殖部局は,73年7月正式に設置が決定されたもので,現在,本部各種施設を建設中である。
 わが国は,同センターに対し船舶,機材の調達資金等を拠出しており,74年度は,養殖部局機材供与費として約2億400万円の拠出を行つた。また,専門家の派遣は,74年12月末現在訓練部局及び調査部局へそれぞれ8名,養殖部局へは6名行つており,その他奨学金として,74年度訓練部局20名分,調査部局6名分,養殖部局10名分,専門家奨学金2名分を,また運営費一部補助金として,74年度3万ドルを拠出している。
(b) 東南アジア貿易・投資・観光促進センター(略称SEAPCENTRE)
 本センターは地域協力により,東南アジア諸国からの輸出を促進するとともに,これら諸国への投資及び観光客の増大を図り,もつてこれら諸国の国際収支の改善をはかることを目的とする政府間機関で,72年1月に発足,事務局は東京にある。
加盟国はインドネシア,カンボディア,ラオス,マレイシア,フィリピン,シンガポール,タイ,南ヴィエトナム及びわが国の9カ国(75年3月現在)である。
 センターは,東南アジアの加盟国の物産展,観光展の開催,これら諸国産品の日本国内市場調査,対日輸出有望商品の発掘調査,日本からこれら諸国への投資についての調査,東南アジア観光促進のためのセミナー開催等の事業を行つている。
 わが国は,センター経費として,74年度において約1億5,900万円を拠出した。同センターの事業実施のため,ジェトロ及び国際観光振興会が協力している。
(c) 東南アジア医療保健機構(略称SEAMHO)
 アジア地域の医療・保健分野における地域協力を推進するための機関としてのSEAMHOは,第4回閣僚会議においてわが国からその設立が提唱されて以来,第7回閣僚会議での原則的合意を経て,第8回閣僚会議で同条約案が署名の用意のある国に勧奨された。しかし,74年11月の第9回閣僚会議において,インドネシア,マレイシアはこれに不参加を表明し,タイ,ビルマは最終的態度を明らかにしなかつた。従来より,わが国は東南アジアにおける地域協力を推進する上で,少なくとも関係諸国の大多数の賛意が得られねば,地域協力の実効があがらないとの基本的立場をとつており,現段階では,域内関係諸国のイニシアティブにより,SEAMHO設立の気運が盛りあがるまでは同機構設立を見合わせている。
 なお,SEAMHO発足後その事業の一つとなる予定の医療情報センターについては,SEAMHO発足前にもその事業の一部をわが国の責任で開始することで既に合意をみており,わが国としてはSEAMHO設立推進のためのわが国における民間レベルの母体である日本国際医療団に,準備事業をさせており,74年度は,情報センター設立の方途を探るための医療保健情報会議及びワークショップならびに要員訓練のためのセミナーを開催した。
(d) 東南アジア農業開発専門家会合
 第8回会議における日本提案をうけた同会議共同コミュニケに基づいて,74年10月1日より3日まで東京において東南アジア農業開発専門家会合が開催された。この会合においては,関係諸国及び国際機関からの専門家の出席を得て,域内の農業開発,食糧増産の技術的側面について意見や経験の交換が行われた。この会合が地域の農業開発上の諸問題を明らかにし,解決方法探求の意見交換に有益であることから,今後必要に応じて参加国政府間の協議を通じて更に会合を開催していくことが申し合わされている。
(e) アジア租税行政及び調査研究グループ(略称SGATAR)
 第5回閣僚会議における提案に基き,域内各国の税制,税務行政の改善・強化を図るとともに,投資にインセンティブを与えるため,税制上の環境を整備することが重要であるとの観点から各国間の情報交換のためのスタディグループが設置され,会合を重ねてきている。73年5月には第3回会合が東京で開催されており,前回第4回会合は74年7月マレイシアで開催された。
 これまで,投資促進のための財政措置,売上税の役割,所得税の脱税防止,先進国・開発途上国間の租税条約,天然資源産業に対する課税,納税者と税務当局との関係,法人株主に対する課税,徴収制度と滞納整理の手段等の問題点について,各国の経験をもとにして種々の意見交換が行われている。
(f) 運輸通信地域協力プロジェクト
 第2回閣僚会議において,東南アジア諸国の運輸通信部門拡充のための地域協力を推進するため,東南アジア運輸通信高級官吏調整委員会(COORDCOM)の開催が提唱され,会議の支持を得た。
 このCOORDCOMは,67年9月クアラ・ルンプールで第1回会合を開催して以来,定期会合の開催を重ね,各種開発プロジェクトのフィージビリティ調査の実施とりまとめ,東南アジアの総合的運輸調査である「地域運輸調査」(RTS,アジア開銀により71年9月に完成)のフォローアップ等を行つてきている。COORDCOMは,RTSの諸プロジェクトの実施推進を中心として,今後更にその活動を継続強化していくため,常設事務局(SEATAC)を72年マレイシアに設置し,73年1月から活動を開始せしめた。
 わが国は,SEATACに対し,74年度において約13百万円の資金協力を行つている。COORDCOM・SEATACは毎回東南アジア開発閣僚会議で,活動状況を報告し,支持を受けている。
(g) 家族・人口計画政府間調整委員会(略称IGCC) 
 第5回閣僚会議における提案に基づき,人口問題に関し域内閣僚レヴェルで意見交換を行うため,70年10月クアラ・ルンプールで東南アジア家族・人口計画閣僚会議が開催された。第2回会議は73年5月タイのチェンマイで開催されている。2回にわたる会議では家族・人口計画に関する意見及び情報交換が行われてきており,家族・人口計画の分野での,地域協力の継続の必要性が確認され,常設事務局をクアラ・ルンプールに置くこと,憲章を作成すること等が合意されている。第1回会議で合意された政府間調整委員会(日本はオブザーヴァー)は毎年開催されており,また,専門家会合,セミナー,研修旅行等各種の活動も進められてきており,これらに関する報告は東南アジア開発閣僚会議で行われている。
(h) 東南アジア工科大学
 第5回閣僚会議において,大学レベルの技術専門家養成のための地域教育機関の設立が提案され,今後財政面を中心にこの構想の実施につき検討していくため,更に関係国間で協議していくことが申し合わされている。

(ニ) 本会議のもとで推進され,所期の目的を達し,既に終了した地域協力プロジェクトのおもなものは次のとおりである。

(a) 東南アジア経営教育の必要性に関する調査
(b) 公衆衛生及び殺虫剤規制に関する地域プロジェクト
(c) 70年代東南アジア経済分析

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(2) アジア・太平洋協議会(A S P A C)

(イ) 閣僚会議の開催無期延期

 ASPACの閣僚会議は,73年6月のASPAC常任委員会で,「現下の諸情況に鑑み第8回閣僚会議は将来の適当な時期まで延期する」旨の決定が行われて以来開催されていない。

(ロ) マレイシア及び豪州の態度について

 マレイシアは,上記常任委員会に先立つ73年3月ASPACから脱退したが,下部機構たる4共同プロジェクトについてもその後事実上徐々に手を引きつつあつたところ,特に文化社会センターに対しては73年11月脱退を通告,74年11月には正式に脱退した。豪州も,72年労働党政権成立以来ASPACに対して消極的態度をとつて来たが,74年3月には下部機構たる食糧肥料技術センターから,また同年11月には文化社会センターからも正式に脱退した。

(ハ) 4共同プロジェクトの活動

 ASPACの下部機構である4共同プロジェクト〔(a)文化社会センター(CSC),(b)科学技術サービス登録機関,(c)食糧肥料技術センター(FFTC),(d)経済協力センター(ECOCEN)〕については,前記常任委員会においてもその活動の継続を支持する旨が合意されており,これに沿つて74年も共同プロジェクトの諸活動が行われたが,わが国も資金拠出,専門家派遣等を通じ,かかる活動の維持発展に寄与してきた。

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(3) アジア開発銀行(A D B)

 アジア開発銀行は,66年12月アジアと極東地域の経済成長を助長し,地域の開発途上国の経済開発を促進することを目的として設立された。74年12月,業務開始後満8年を経過したが,加盟国は,74年4月加盟承認されたギルバート・エリス諸島を含め域内27カ国,域外14カ国の41カ国となつた。

 アジア開銀の業務は順調に推移し,74年末現在,21カ国に対し211件18億8,574万ドル(内特別基金による融資87件4億9,256万ドル)の融資案件,また20カ国及び地域調査等に対し約2,388万ドルの技術援助案件を承認している。

 アジア開銀の授権資本は現在27億9,000万ドルである。わが国は域内先進国として,当初より米国と並び最大の2億ドルの出資を行つていたが,72年11月発効した増資に際し,さらに3億ドルの応募を行い,開銀活動の拡充に協力している。

 74年末現在のアジア開銀の多目的特別基金の規模は,2億5,760万ドル(内わが国拠出分1億6,150万ドル)である。また,開銀の技術援助特別基金の規模は,74年末現在1,630万ドルであるが,わが国は同基金にも同年末現在970万ドル拠出しており,この分野でも大きな寄与をしている。

 特に緩和された条件による融資活動を拡大するために,先進加盟国による資金の計画的拠出の確保を目的として,73年4月のマニラ総会でその設置が決議された,既存の多目的特別基金とは別個の新基金「アジア開発基金」は,74年6月末発足し,74年9月末現在2件1,630万ドルの融資案件を承認している。同基金への各国拠出総額は5億2,500万ドル(内わが国拠出分1億7,700万ドル)である。

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(4) アジア生産性機構(A P O)

(イ) アジア生産性機構は,61年5月,アジア諸国における生産性の向上を目的として設立された国際機関で,わが国をはじめとする14のメンバーからなつており,事務局は東京にある。

 この機構は,訓練コース,シンポジウム等を開催するほか,専門家の派遣,視察団受入等により,中小企業の経営改善,生産技術の向上などにつき,助言,協力を行つている。

(ロ) アジア生産性機構は,設立10周年にあたる70年を「アジア生産性年」としてアジア地域における生産性運動を強力に展開し,生産性意識の高揚につとめた。更に71年からは,分担金を2.5%引上げ,財源の強化を図るとともに,引続き積極的に事業を推進している。わが国は,同機構に対して74年,376千ドルの分担金及び98,000千円の特別拠出金を拠出し,またわが国で実施される同機構の事業費の一部等として524千ドルを支出した。

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(5) 国際稲研究所(I R R I)

 国際稲研究所は,急激な人口増加をたどるアジア地域において米の生産増大を目的とし,60年にフィリピンに設立され,62年から正式に活動を開始した。同研究所では,稲の品種改良全般について広範な研究計画を実施しており,60年代後半の「緑の革命(グリーン・レボリューション)」をまき起こしたIR8を始め,現在までに,IR20,IR22,IR24,IR26など一連の高収量品種の育種に成功している。また,世界の稲に関する技術文献の収集,保存,研究成果の出版,関係各国及び諸機関等との共同研究の実施,アドヴァイザーの派遣,研究員の受け入れなどを行つている。

 現在,農業研究に関しては,先進諸国,開発途上国,国連諸機関その他から成る国際農業研究協議グループが結成されているが,国際稲研究所は,その協議グループ傘下にある研究所として農業研究分野における国際協力体制の重要な一環を担つている。

 わが国の国際稲研究所に対する援助は,70年度から開始され,同年度には,3,052千円,71年度には,20,452千円,72年度には17,520千円を拠出し,73年度には,従来の協力部門に加え,新たに同研究所の植物生理学部門の運営経費51,920千円を加え前年度の4倍に当る総額70,464千円,74年度には,81,160千円を拠出した。75年度には,食糧問題が顕在化している現在,本研究所の果たしている重要な役割に鑑みて,これに対しわが国としても積極的に支援する必要があるところ,IRRIの新研究プログラムに対し重点的に援助すべく前年度の約2.5倍に当る207,805千円の拠出が認められた。

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(6) 東南アジア諸国連合(A S E A N)

第7回ASEAN閣僚会議

(イ) 会議の概要

 ASEAN第7回閣僚会議は,74年5月7日から9日までインドネシアのジャカルタにおいて開催され,マレイシアより副首相,フィリピン,シンガポール,タイ,インドネシアより外務大臣がそれぞれ加盟5カ国の代表として参加した。そのほか,カンボディア及びラオスの代表がインドネシア政府の賓客として開会式に出席した。

(ロ) 会議の特色

(a) 中央事務局の設置
 最も注目されるのは,中央事務局のジャカルタ設置に関する合意の成立である。本件に関しては単に場所についてのみの合意であり,事務局の人選構成などの細目が固まつて,事務局が具体的に活動を開始するまでにはなお若干の日時がかかるものと予想されるが,本決定により,従来常設機構面で弱体であつたASEANが,この面においても具体的に確実な第一歩を踏み出すこととなつたことは今次会議の大きな成果である。
 なお,機構上の整備に関しては,フィリピン政府のASEAN憲章採択の提案を常任委員会で検討するとの決定が注目される。
(b) 経済面における地域協力の重視
 ASEANは,71年11月の東南アジア中立化宣言の採択以来,73年4月の第6回定例閣僚会議にかけては第1回及び第2回政治外相会議の開催など,米中接近,ヴィエトナム停戦などの情勢変化を背景として政治面での活動を強化しつつある観があつたが,今回の会議ではASEANが今や「第二段階に入つた」とされ,その方向として,今後の経済面における域内協力強化が下記のようにかなり具体的に打ち出された。
(i) 域内協力の方法として,貿易の自由化,補完協定及びパッケージ・ディールの3方法が有用であるとされ,かつ,工業面における協力に関し,経済関係閣僚の会合開催が合意され,この関連において専門家グループを作ることになつた。
(ii) ASEAN諸国民に直接利益をもたららすプロジェクトとして,消費者保護機関,麻薬密輸防止等に関する各常設委員会の6項目にのぼる具体的プロジェクトに留意した。
(c) わが国との合成ゴム問題を含む対外共同行動
 わが国との関係では,合成ゴム問題に関する対話の成果が「満足の意」をもつて迎えられ,わが国の「協力と理解」が歓迎された。これはASEAN諸国における対日批判の動向にもかんがみ,これら諸国(及びその集合体としてのASEAN)とわが国との間における協調関係保持という観点からも意義あることと言えよう。
 なお,わが国と並んで対EC,対豪州関係の進展が評価されるとともに,地域的,国際的場におけるASEANの共同ないし集団的アプロ一チはASEANの結合と団結に貢献する旨が表明されており,今後,ASEANは引続きその対外共同行動を活発化していくものと予想される。

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2.朝 鮮 半 島

 

(1) 朝鮮半島の情勢

(イ) 南北朝鮮関係

(a) 南北対話
 離散家族捜しのための南北赤十字会談は,73年の第7回本会議(6月10~13日於平壌)以来,中断状態にあつたが,同年11月末から双方代表者の間で板門店において本会議再開問題について7回にわたり話合いが行われ,74年7月からは実務者会議が行われている(75年1月24日第7回会議)。同会議において北朝鮮側は,反共法及び国家保安法等の廃止,次回本会議開催地たるソウルは雰囲気が不安であるので平壌で開催すること(第8回本会議はソウルで開催されることになつている)等を主張しているのに対し,韓国側は老父母の再会,書信の交換などを早急に実現するよう主張しており,本会議再開については合意に至つていない。
また,南北調節委員会も,73年夏の金大中氏事件とも関連して第3回会合(同年6月12~14日於ソウル)以来中断状態にあつたが,同年12月初めに至り同委員会の正常化問題を討議するための副委員長会議が板門店で開催された。同会議は,これまで9回にわたり行われているが(75年1月8日第9回会議),合意に至つていない。副委員長会議では,調節委員会での討議事項,参加者の範囲,分科委員会の設置問題等について双方の意見が対立し,また韓国漁船撃沈拿捕事件(74年2月),韓国警備艇撃沈事件(同3月),朴大統領狙撃事件(同8月),非武装地帯の地下トンネル構築事件(同11月)をめぐり,南北双方間で非難の応酬が行われた。
(b) 南北軍事衝突
71年の南北対話開始とともに南北の軍事衝突はほとんどみられなくなつたが,74年には再び増加の傾向を示し,西海における韓国漁船撃沈章捕事件(2.15),米軍ヘリコプター射撃事件(5.3),韓国警備艇撃沈事件(6.28),非武装地帯トンネル事件(11.15)等が続発した。
これらの事件は結局は局地的なものとして処理されてはいるが,韓国警備艇撃沈事件では双方の戦闘機が至近距離において行動し,また非武装地帯において発見されたトンネルは比較的大規模で,その軍事的意義も高いとみられている。
(c) 南北の対外政策
 北朝鮮は国際的地位の向上並びに国連総会対策のために,活発な外交活動を行つているが,74年においても,韓国と外交関係を有する11カ国(オーストラリア,ラオス,ネパール,オーストリア,スイス等)と外交関係を樹立した(75年3月31日現在の韓国承認国94,北朝鮮承認国74,うち双方承認国40)。また韓国がすでに加盟している国際原子力機関(IAEA),万国郵便連合(UPU),ユネスコにもそれぞれ加盟した。さらに74年3月25日には,現行の休戦協定に代わる平和協定締結を直接米国議会に対し提起した(これに対し米国務省スポークスマンは,南北双方自らが解決すべき問題であると論評した)。
 他方,朴大統領は74年の年頭記者会見において,南北相互不可侵協定の締結を呼びかけ(北朝鮮は拒否),さらに8月15日の光復節にあたり,「平和統一のための基本原則」を提唱した。これは,第1に朝鮮半島に平和を定着させるため南北相互不可侵協定を締結し,第2に南北対話の促進や多角的な交流を通じ相互に門戸を開放し信頼を回復した後,最後に公正な監視のもとに人口比例による南北自由選挙を実施し,統一を実現するというものである。

(ロ) 韓国の政情

(a) 民青学連事件
 韓国政府は,74年1月8日憲法改正運動とこれに関する報道の一切を禁じる大統領緊急措置第1号を宣布したが(昭和49年版わが外交の近況参照),同3月頃から学生の動きが活発化し,4月3日ソウル市内の大学で「全国民主青年学生総連盟」の名の下に反政府集会が開かれた。これに対し,韓国政府は,上記「民青学連」の背後には北朝鮮の地下組織が介在しているとして,4月3日「民青学連」に関連する一切の活動を非合法化する大統領緊急措置第4号を宣布した。上記措置により二人の日本人学生を含む学生,一般人,政治家,宗教家ら多数が逮捕され,軍事裁判にかけられた。
(b) 緊急措置第1,4号の解除と政府批判の再開
 在日韓国人青年による朴大統領狙撃事件(8月15日)を契機として,8月20日頃から全国的規模で反日デモが繰りげ広られたが,椎名特使の訪韓(9月19日)により,デモは鎮静した。この間,韓国政府は朴大統領夫人の逝去に対する多数の国民の哀悼の意を多とし,「国民総和」が達成されたとして,8月23日上記大統領緊急措置第1号及び第4号を解除した。しかし,9月下旬には,民青学連関係者の釈放・憲法改正・民主秩序回復・言論の自由等を要求する野党,学生,宗教家,言論人による政府批判が再開された。この間行われたフォード米国大統領の訪韓(11月22~23日)は,対外的には米韓同盟関係の再確認としての意味を持つたが,国内的にも対立の緩和に役立つた。
(c) 国民投票の実施
 75年1月22日,朴大統領は維新憲法の存続に対する賛否を問う国民投票の実施を発表した。これに対し,野党,一部キリスト教指導者をはじめとする反政府勢力は,現行国民投票法の下では真の民意が反映されないとして国民投票そのものに反対し,投票ボイコットを呼びかけた。2月12日に行われた国民投票は,投票率が79.8%で,賛成票は73.1%との結果を得,維新体制の継続が確認された。
(d) 拘束者の釈放
 朴大統領は,75年2月15日,国民総和を達成するため一部共産主義者を除いた緊急措置違反者全員を釈放すると発表した。これに基づき日本人2名を含む168名が2月17日釈放された。
(e) 韓国経済の状況
74年の韓国経済は,実質経済成長率8.2%(暫定)を記録したものの,実態は在庫投資に主導されたものであり,石油危機による影響を強く受けている。すなわち工業生産活動は,上半期には73年の高成長の下の投資効果により続伸したが,海外需要の停滞により5月頃より在庫が急増し,その結果下半期に入り減産に追込まれ,雇用も減少してきた。国際収支面では輸出の伸び悩みに比し,輸入は石油・原資材の価格高騰により大きく増加し,貿易収支の赤字は約17億ドルにもなり,結局短資の取入れによりこの赤字を埋めた形となつた。物価(卸売)については,年間で42.6%の上昇を示したが,2~4月にかけ集中的に値上げを認めたことと緊急措置第3号等により,総需要抑制基調を維持したことが効果を発揮し,下半期は比較的安定的に推移した。以上のような下半期の経済状況に鑑み,政府は12月7日に一転してある程度のインフレを覚悟の上,ウォンの約20%の切下げを含む輸出振興・景気浮揚策を打出した。

(ハ) 北朝鮮の政情

(a) 北朝鮮の内政
 74年も引き続き思想・技術・文化の三大革命路線((あ)社会主義の達成,南北朝鮮の平和的統一促進のため全国民の革命化・労働者階級化をめざす思想革命,(い)労働条件・環境の改善・生産性の向上,新技術の導入等をめざす技術革命,(う)国民の教育水準の向上をめざす文化革命)が維持された。就中,金日成主席に対する「無条件性,絶対性,忠実性」,朝鮮労働党の主体思想で全社会を「一色化」しなければならないとする思想闘争に大きな努力が払われた。このキャンペーンは,金日成主席の神格化,同体制の強化を計る一方,当面の最大の課題である経済6カ年計画を成功裡に遂行するために国民の協力と奮起を促すことをめざしたものと見られている。具体的には3月1日には工業商品(織物,メリヤス,はき物,日用品等)価格を平均30%引下げ,4月1日には税金制度の完全廃止(従来歳入の1.9%を占めていた税金を廃止),更に12月26日には労働者,技術者,事務員に1カ月分の年末特別償金を支給するなどの措置がとられたことが注目された。
(b) 北朝鮮の経済
 74年は経済6カ年計画の4年目であつた。このうち農業部門については,1月に全国農業大会を開催し同年中に6カ年計画を完遂するよう呼びかけを行つたが,11月に開催された最高人民会議で74年の穀物生産は700万トンで6カ年計画の目標(700~750万トン,うち籾350万トン)を2年繰上げて達成したと発表された。
 工業部門については,3月末に全国工業大会が開催され,74年を「建設の年」と称し,同年を製鉄・電力・化学・セメント等の「基本」建設に最重点をおくとされたが,同年の具体的な実績については,特定の工場の建設あるいは拡張工事の一部進捗状況を除き発表されておらず詳細は不明である。
 いずれにしても,北朝鮮経済の隘路と見られている労働力不足,設備の老朽化,技術の立ち遅れ,各産業間の不整合性等が,経済の発展に大きな影響を与えているものと見られ,この隘路打開のため先進諸外国との交流は依然として必要であると思われる。

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(2) 日 韓 関 係

(イ) 朴大統領狙撃事件

 74年8月15日,朴大統領は韓国独立記念日の式典場で演説中,在日韓国人文世光により狙撃され,壇上にいた陸英修大統領夫人が殺害された。大統領夫人の葬儀には田中総理大臣が自ら参列し,日本政府としての弔意を表明した。

 韓国側は,本事件は在日朝鮮総連ないしはその背後にいる北朝鮮が示唆したものであり,日本は韓国政府に害をなすものの基地になつているとして,本事件の背後関係の究明と在日朝鮮総連の活動規制の強化を日本側に強く要求してきた。これに加え,「(事件に関し)日本側には道義的責任なし」とか「北の脅威なし」等日本政府当局者の発言として韓国で報道された内容に韓国側は強い反発を示し,全国的な反日デモが発生,日本の大使館,総領事館が連日デモに包囲される状態となつた。9月6日には,デモ隊がソウルの日本大使館に乱入,国旗を破損するという事件に発展した。

 大使館乱入事件に対しては,政府は直ちに韓国政府の警備が不充分であつたことに遺憾の意を表明し,事件の再発防止を強く求めたところ,韓国政府より陳謝の意の表明があり,事件そのものはそれ以上に重大化しなかつたが,韓国における反日気運は悪化の一途を辿つていた。かかる事態に鑑み,政府としては,朴大統領狙撃事件に関する日本側の立場につき,韓国側が誤解せぬよう誠意を尽した説明を行うことが事態の鎮静化に有効であろうとの見通しに立ち,田中総理大臣の親書を椎名特派大使が携行して訪韓し,朴大統領に直接親書の内容を敷衍して説明することとした。その内容は,事件の準備が日本で行われたことについては遺憾であり,その捜査は厳重に行うとともに,他国政府に害を及ぼす不法行為は厳正に取締る方針であるとの趣旨であつたが,韓国側は日本側の誠意ある態度を多とし,椎名特派大使訪韓の翌日からは反日気運が急速に鎮静化した。

 なお,犯人の文世光は,内乱目的の殺人,国家保安法違反等の罪で12月17日大法院において死刑の判決を受け,12月20日死刑を執行された。

(ロ) 日本人の緊急措置違反事件

 74年4月に起つた「民青学連」事件の捜査の過程で,ソウル大学大学院学生早川及び自由寄稿家太刀川の2名の日本人が,4月3日の「民青学連」デモに関与した疑いで取調べを受けている旨が4月初旬韓国側捜査当局より在韓日本大使館に通報された。当初捜査当局は両名の取調べはあくまでも,参考人としての取扱いである旨を言明していたにもかかわらず,日本大使館よりの再三の照会に対する充分な説明のないまま4月下旬に至り両名が逮捕されたことにより,事件は日韓間の外交問題に発展した。両名は5月下旬緊急措置第1号及び第4号違反,刑法の内乱煽動,反共法違反並びに入管法違反(資格外活動)の容疑で起訴され,7月の第一審と9月の第2審の軍法会議ではいずれも懲役20年,資格停止15年の判決を受けたため,両名は更に大法院に上告した。

 本事件は,韓国内における韓国法適用の問題として,第一義的には韓国の国内問題ではあつたが,政府としては外国における邦人保護の立場から,事件当初より,人権の尊重及び公正かつ迅速な解決を申し入れるとともに,具体的には弁護士の斡旋や差入れの仲介等の便宜を供与したり,家族,館員との面会実現等につき韓国側に各種の働きかけを行つた。他方,大統領緊急措置という,わが国にはなじみのない法令が適用されていただけに,本事件はわが国と韓国との国情の違いをわが国国民に印象づけることとなり,かかる事件の長期化は,日韓友好関係の阻害要因となることが懸念されるまでに至つた。政府は事件の早期解決を目指し,韓国側が日韓友好の見地から適切な配慮を示し,両名が早期に帰国できることが望ましい旨を外交ルートで再三にわたり韓国側に申し入れていたところ,75年2月の国民投票で維新体制が信任された機会に,韓国政府は「日本との友好関係を考慮して」大法院に係属中であつた両名を釈放した。

(ハ) 金大中氏事件

 73年8月に発生した金大中氏拉致事件について,韓国側は74年8月14日に至り,在日韓国大使館の一等書記官の事件関与容疑について,その後の捜査結果を発表し,結局犯行に加担したとの証拠が得られなかつたとして捜査を中止する旨日本側に通報してきた。日本側はこの捜査結果には納得できないとして,10月25日韓国側へ更に詳細な説明を求める申入れを行つた。

(ニ) 通 商 関 係

 74年のわが国の韓国向け輸出は約26.6億ドル(前年比48.5%増),輸入は約15.7億ドル(同比29.9%増)であつた。わが国にとつては6年振りに輸出の伸びが輸入の伸びを上回つたため,輸出入比率は73年の1.5対1より1.7対1に拡大し,貿易収支黒字幅も約11億ドル(73年は約6億ドル)に増加した。韓国はわが国にとつて輸出相手国として2番目であるが,一方韓国からの輸入はわが国の消費需要の冷え込みにより伸び悩んだ。わが国の不況が日韓貿易に与えた影響は深刻で,一部商品については,国内業者の間から韓国側の秩序ある輸出を求める動きまで生じた。

 政府間では,韓国産のりの輸入割当枠を決める「日韓のり会議」(4月於東京)と第11回日韓貿易会議(10月於ソウル)が例年通り開かれたが,韓国産生糸の輸入問題については,特に貿易会議の一部再開との形で「日韓生糸貿易実務者会議」(12月於東京)が開かれ,話し合いによる調整が計られた。

(ホ) 経済協力関係

 74年では,10月に前年意図表明された農業基盤整備,農村電化,農業機械化,ダムおよび発電所の建設のための313億円の円借款供与の書簡交換が行われ,一般の無償資金協力としては,金烏(クモ)工業高校およびソウル大学校工科大学に対する機材供与のための書簡交換が行われた。

 更に上記協力以外にも,技術協力として研修生の受け入れ,専門家の派遣,各種開発調査の実施,医療協力,技術訓練センターの実施等幅広い協力を実施した。

 他方,民間輸出信用については,わが国は一般プラント,漁業協力及び船舶輸出に74年末現在輸出承認ベースで約8億ドル(74年だけでは約1.8億ドル)の延払輸出を行つている。

(ヘ) 民 間 投 資

 韓国側資料によれば,わが国の民間資本の韓国への進出状況は認可基準で74年は約8千万ドル(外国人投資全体の約6~7割)で,累計すると784件475百万ドル(同全体額の65%)にのぼる。しかし73年に比べると約1/3にとどまり,これまで順調な伸びを示してきた趨勢が大きく後退した。その最大の原因はわが国経済の不振と資金調達難であるが,74年における日韓間の政治的あつれきによる投資家の心理的不安も作用したものとみられている。

(ト) 漁 業 問 題

 対馬近辺の日本側専管水域では,韓国漁船による侵犯が74年に入り急増し,かつ常習的な違反例が目立つたため,日本側は75年2月以降悪質なケースに対しては検挙も辞さないとの方針を取るに至つた。同方針については韓国側の協力も必要であり,韓国側の指導・取締りを要請している(同方針に基づく検挙例としては,75年2月14日に一件が発生)。

(チ) 竹島問題

 わが国政府は,韓国の竹島不法占拠に対し従来からくり返し抗議しているが,74年7月にも竹島周辺12マイル以内での日木漁船の操業を韓国側専管水域侵犯であるとの韓国側通告に対し,これは同島がわが国の領土であることと相容れないものである旨韓国側に抗議した。

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(3) 北朝鮮との関係

(イ) 通商関係

 74年の貿易は急増し,わが国の輸出が2億5千万ドル(前年比152%増),輸入が1億ドル(前年比51%増)に達し,わが国が北朝鮮にとつて自由主義圏最大の貿易相手国となつている。

(ロ) 人的交流

(a) 邦人の北朝鮮への渡航は,年間旅券発給数によれば859名であつたが,渡航目的では商用が圧倒的に多くなつているのが注目される。
(b) 北朝鮮からの入国許可者数は161名で,73年の万寿台芸術団220名を含む315名に比し減少しているが,教育文化職業同盟代表団,アジア卓球選手団,科学文化代表団,列国議会同盟会議代表団,映画技術代表団など,各種代表団の入国が認められた。
(c) 在日朝鮮人の再入国については,従来の北朝鮮への里帰りから,更にスポーツ,学術,文化,商用を目的とするものなど徐々に幅が広げられている。(例えば在日朝鮮芸術人祖国訪問団,在日朝鮮高級学校学生の夏期芸術・体育行事参加,在日朝鮮人教育者の教育討論会参加,北朝鮮創建26周年記念祝賀団など。)

 

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3. 中国及びモンゴル

 

(1) 中     国

(イ) 中国の内外情勢

(a) 国内の動向

(i) 批林批孔運動
 74年初めから林彪批判と孔子批判は一本化されて「批林批孔運動」と称されるようになり,林彪が讃えたとされる「克己復礼」の批判,山西劇「三たび桃峯にのぼる」や林彪讃美論文の批判,更には「三字経」など民間に膾炙した儒教道徳書の批判等が行われ,各地で批判集会や学習会が開かれるなど,運動は全国的に展開された。また工場・学校・農村などに大量の壁新聞が張り出され,春から夏にかけて,一部地方では,幹部に対する名指しの批判も現われた。他方かかる動きと平行して,党の一元化指導の強化が繰り返し強調され,特に8月以降は,林彪の軍事路線批判に力点が置かれ,軍に対する党の絶対的指導権の確立が叫ばれ,更に75年1月の全国人民代表大会でも党の指導性の強化という傾向が顕著であつた。なお,全人大会が終了した75年1月下旬以降は,「プロレタリア独裁理論」の学習運動が展開されている。
(ii) 要人の動き
周恩来首相は5月以来公式の場への出席が激減し,その後入院していることが明らかにされた。他方周首相を代理ないし補佐するトウ小平・李先念両副首相の活躍が目立つたが,特に,トウ副首相が,75年1月に開催された10期2中全会で党副主席兼政治局常務委員に任命されたことが注目された。また,建軍記念日レセプション(7月末日)と国慶節レセプション(9月末日)には多数の旧幹部が復活した。その他目立つた人事としては,外交部で,74年夏,在外大使の大幅異動があつたこと,11月には姫鵬飛外相が更迭され,喬冠華次官が昇格したこと等があつた。軍では,6月に空軍司令員が,また12月には4名の副総参謀長が明らかになつた。
 地方でも省党委員会の第1書記が次第に明らかにされ,なお不明な省は3省のみとなつた。
(iii) 全国人民代表大会
 75年1月13日から17日こかけて第4期全国人民代表大会第1回会議(「全人民大会」と略称)が10年ぶりに開催され,新憲法と「憲法改正報告」(報告者張春橋)の採択,「政府活動報告」(報告者周恩来)の承認,国務院及び全人大会常務委員会の人事の決定が行われた。
 国務院の新陣容は,再任された周恩来首相を補佐する12人の副首相の筆頭にトウ小平,第2位に張春橋両名が顔をそろえ,閣僚(29人)では喬冠華外相(再任),葉剣英国防相,華国鋒公安相(いずれも新任)などのほか,経済関係閣僚に21人の実務経験者が任命された。全人大会常務委員会では,朱徳委員長が再選され,副委員長(22人)と委員(144人)が選出されたが,特に全人大会人事においていわゆる「老年・壮年・青年の三結合」の傾向が顕著であること,また文革や批林批孔運動で活躍した人々が多数名を連ねていることが注目された。
 新憲法は,全体として,毛沢東思想を基本としつつ文革以後の経緯を念頭に置いて作成されたものであると言えようが,その特色としては旧憲法と比較すると,条文が106条から30条に簡略化されたこと,国家機関に対する党の指導性が強化されたこと,軍の統帥権が党主席に移されたこと,国家主席が廃止されたこと,国家の性格規定が「人民民主国家」から「プロレタリア独裁下の社会主義国家」と改められ,所有制についても個人勤労者所有制,資本家所有制が削除されて全人民所有制と集団所有制の2種にしぼられたこと,旧憲法にはなかつた農村人民公社と各級革命委員会が新たに認められたこと,ストライキ権や幹部の不正告発権など「反潮流」的精神が成文化されたこと,などが挙げられよう。
 周恩来首相の「政府活動報告」は,過去10年間の内外政策を総括しつつ,文革と批林批孔運動の成果及び国内経済建設の発展に言及し,また対外関係の進展ぶりを述べたものであるが,今後の政策として,経済発展重視の姿勢を打ち出し,国内の「団結と統一」を強調しつつ,批林批孔運動の継続の必要性を述べ,また対外関係でも従来の現実主義的路線の維持を示唆している。

(b) 外  交

(i) 概  況
 74年に入つて間もなく,中国はソ連の外交官の追放(1月),西沙群島の領有をめぐつての武力行使(1月),ソ連ヘリコプターの抑留(3月),さらには伊・仏等の中国を題材とした映画の非難を行うなど,近年における基本的には現実的で柔軟な外交路線とはかなり異つた姿勢を示したが,かかる対外姿勢は,内政面での批林批孔運動の展開によつて影響された結果であるとの見方もあつた。
 しかし,74年の後半にはかかる強硬な姿勢も後退し,むしろ穏健な外交路線に戻つたかに見えた。
 したがつて,74年の中国外交は,75年1月の全国人民代表大会における周首相の政治活動報告に見られるように,その基本においては73年に比し大きく変化することはなく,ソ連を第一の敵としつつも,米ソ両国をともに超大国として対抗する構えをとり(ただし現実の関係においては,米ソ両国との間でも或る程度の協調関係を維持している),また,いわゆる「第3世界」に対しては積極的な外交を展開し,特に国連資源特別総会でのトウ小平演説(4月)や,いわゆる「第3世界」に属する諸国から多数の首脳を中国に招いたこと等が目立つた。
(ii) 対米関係
 米中間では貿易量の増大が目立つた。また73年の連絡事務所相互設置以降の基本的な関係は,この1年も大きく変化するに至らなかつた。しかしながら,11月のキッシンジャー国務長官による7度目の訪中の際の共同声明においては,75年中にフォード大統領が訪中する予定が発表されているので,今後の動向が注目される。台湾問題をめぐつては,74年中にも在台米軍の一部撤退が行われたこと(75年3月現在約4千名),台湾防衛につき米大統領に特別の権限を認めていた55年のいわゆる「台湾決議」が廃棄されたこと等が注目された。
 人事・文化交流については,ジャクソン,フルブライト,マンスフィールドなど米国議会要人の訪中があつたほか,中国から米国への交流としては,米国において12月に中国出土文物展が開催された。
(iii) 対 ソ 関 係
 74年初頭には,中国は,ソ連外交官をスパイ容疑で追放し(1月),また中国領内に着陸したソ連ヘリコプターを抑留する(3月)など強い姿勢を見せ,これらの事件は中ソ関係を一時的に一層冷たいものにしたが,いずれもその基本的な関係を変化させるまでには至らなかつた。他方,ソ連の10月革命57周年に際しては,中国は,ソ連に宛てた「祝電」を公表し,その意図・背景等が奈辺にあるかが注目されたが,その後,両国関係にはさしたる進展はみられなかつた。
 実務面においては,中・ソ航空議定書にもとづく中国民航による初のモスクワ乗入れ(1月30日),74年度貿易協定の締結(5月15日),国境会談ソ連側代表イリチョフ外務次官の帰任(6月25日,ただし8月18日に再び帰国)などがあつた。
(iv) 対アジア関係
 1月19日,中国は西沙群島の領有問題をめぐつて南越と交戦し,これを支配下に収めたほか,その後間もなく,南沙群島についても南越の占有行為を不法占拠として強く非難し,また南西方面では,インドの「シッキム連合化」に対しても激しい非難を加えた。
 他方,74年中には中国のASEAN諸国との関係には,かなりの進展が見られ,まずマレイシアとの国交樹立が実現した(5月)が,これは,65年のインドネシアでの9.30事件以来はじめての東南アジア諸国との関係正常化であつた。さらにフィリピンからもイメルダ比大統領夫人が訪中し(9月),タイからもタウィー国防相(オリンピック委員長)(2月)及びチャチャイ外務次官(75年1月)が訪中した。
(v) その他の外交動向
 74年にはいわゆる「第3世界」との関係では,中国成立以来最も多い10数カ国から元首・政府首脳が訪中し,また,この1年に世界各地の100余の国・地域から約2,500の各種代表団(個人を含む)が訪中したが,その大半はいわゆる「第3世界」からのものであつた。一方中国も,70余の国・地域に約240の代表団を送る等,人事交流は極めて活発であつた。
 中国はまた,この1年にギニア・ビサオ(3月15日),ガボン(4月20日),マレイシア(5月31日),トリニダッド・トバゴ(6月20日),ヴェネズエラ(6月28日),ニジェール(7月20日),ブラジル(8月15日),ガンビア(12月14日)の8カ国と外交関係を結び,75年になつて更にボツワナ(1月6日)と外交関係を結んだ。これで中国は,75年3月末現在計99カ国(北朝鮮,南越臨時革命政府,サン・マリノを含む)と外交関係を持つに至つた。
 また,74年においては,中国は資源,海洋,人口,食糧等に関する国際会議に参加し,いわゆる「第3世界」諸国の主張を支持する姿勢を見せた。
 その他,中国は国際航空路線の拡充を積極的に推進し,74年になつて北京-モスクワ(1月30日),北京-東京(9月29日),北京-カラチ-パリ,北京-テヘラン-ブカレスト-チラナの4路線に乗入れを開始し,従来の平壌,ハノイ,ラングーン各路線に加え合計7本の国際航空路線に乗入れるに至つたことが注目された。

(c) 経   済

(i) 経済政策については,基本的には文革後の政策が維持され,社会主義建設を目指しつつ,「農業を基礎とし工業を導き手とする」方針,並びに独立自主を貫き,自力更生でやり抜くとの方針が引き続き実行された。
 なお74年も継続的に展開された批林批孔運動は,経済活動全般に深刻な影響を与えるには至らなかつたと見られる。
(ii) 経済建設の長期展望について,国民経済を2段階に分けて発展させるという構想が,75年1月の第4期全国人民代表大会における周恩来首相の政府活動報告において明らかにされた。その第1段階では「1980年までに,独立した,比較的整つた工業体系と国民経済体系をうちたて」,第2段階では「今世紀内に農業,工業,国防,科学,技術の近代化を全面的に実現して中国の国民経済を世界の前列に立たせる」との目標が明らかにされたほか,今後の10年はこのように目標を実現する上で鍵となる10年であり,国務院は,この目標に基づいて長期10カ年計画,5カ年計画及び年度計画を作成するとの説明がなされた。
(iii) 1974年の工農業生産の具体的数字は発表されなかつたが,主要生産物については食糧は2億6,000万~2億7000万トン,石油は6,000万~6,500万トン,鉄鋼は2,700万トン程度と推計されている。
(iv) 対外貿易面では輸出入品目の価格上昇という要因はあるものの,74年は対前年比30~40%増加し,130億~140億米ドルに達したと推計されている。また73年及び74年中に西側諸国から推計20億ドルを超えるプラント設備(化学肥料,石油化学,鉄鋼圧延等)の輸入契約を行つたことが注目された。

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(ロ) わが国との関係

(a) 各種実務協定の進捗

(i) 航空協定
 72年11月,日本側草案が提示されたのに対し,中国側草案は73年2月に提示された。双方の草案に関する予備交渉のため,同年3月8日から17日まで,中江アジア局参事官を団長とする政府代表団が,また,4月29日から5月2日まで,東郷外務審議官を団長とする政府代表団が相次いで訪中し,中国側との間で話し合いを行つた。
 これ等の話し合いを基礎に,74年初頭大平外務大臣訪中の際にも,日中航空協定について日中両国首脳の間で意見交換が行われ,更に3月21日から,政府の実務担当者が訪中し,北京において両国政府間の正式交渉を行なつた。その後4月20日に至り本協定につき日中間で合意を見たので,同日北京で小川駐中国大使と姫外相との間で本協定の署名が行われ,5月24日,双方で本協定の発効のために必要な国内法上の手続を了した旨を確認する公文を交換し,本協定は同日発効した。
 その後日中定期航空路線の開設に必要な技術的細目を定める議定書及び航空運輸業の所得に対する課税の相互免除に関する取極が結ばれ,9月29日には,日中間に定期航空路が開設された。
(ii) 貿易協定
 73年6月日中双方が草案を交換し,これを基礎に,同年8月17日から30日まで東京において,高島アジア局長を団長とする日本政府代表団と奚業勝中国対外貿易部第四局長を団長とする中国政府代表団との間で交渉が行われた。
 東京における交渉で,双方は協定の大筋につき合意し,その後在中国日本大使館と中国対外貿易部との間で,条文の表現等技術的問題のつめが行われた結果,73年12月12日北京で仮署名が行われ,74年1月5日,大平外務大臣と姫外相との間で署名された。また,その際交換公文により,本協定は1月10日から暫定的に実施されることが決められ,その後5月24日,双方で本協定の発効のために必要な国内法上の手続を了した旨を確認する公文を交換した。協定の規定に従い,同日より30日目の6月22日本協定は正式に発効した。
(iii) 海 運 協 定
 協定草案は,73年4月から5月にかけて双方の間で交換され,その後相手側の草案に対する照会等が外交ルートを通じ行われた。これをうけて74年7月8日から8月1日まで東京で,中江アジア局次長を団長とする日本政府代表団と董華民中国交通部副局長を団長とする中国政府代表団との間で交渉が行われた。その後,在中国日本大使館と中国交通部との間で,条文の表現等技術的問題のつめが行われた結果,同年11月2日北京で仮署名が行われ,同月13日,韓念龍中国外交部次官来日の際,東郷外務事務次官と韓次官との間で本協定の署名が行われた。
(iv) 漁 業 協 定
 協定交渉の地ならしのため,73年6月17日から7月2日まで,安福水産庁次長を団長とする政府漁業専門家代表団が訪中し,中国側と話し合いを行つた。その後74年4月16日から24日まで,上記代表団は再度中国を訪問し,意見交換を行つた。
 これ等の話し合いをうけて,5月24日から6月20日まで北京で,安福水産庁次長を団長とする日本政府代表団と鮑光宗中国農林部水産局副局長を団長とする中国政府代表団との間で,本協定の正式交渉が行われたが交渉妥結に至らず一旦休会し(その間民間漁業協定は一年間単純延長された),その後75年3月にいたり本交渉は東京において再開された。
(v) 記者交換取極
 日中両国政府間の記者交換に関する交換公文は,74年1月5日橋本在中国日本大使館参事官と王珍中国外文部新聞局副局長との間で交された。
(b) 平和友好条約
 74年11月中旬,韓念龍中国外交部次官来日の際,東郷外務事務次官と韓次官との間で,平和友好条約に関する予備交渉が行われ,その後外交チャネルを通じ,本件条約の予備交渉は継続されている。
(c) 大平外務大臣の訪中
 大平外務大臣(松永条約局長他随員11名)は,74年1月3日から6日まで,姫外相の招待により中国を訪問した。中国では,周首相と2回,姫外相と3回にわたり,会談した。その間,1月5日には,北京中南海の毛沢東中国共産党主席私邸で,同主席の接見を受けた。
(d) 韓念龍外文部次官の来日
 韓念龍中国外交部次官(王暁雲アジア局次長他随員6名)は,74年11月12日から19日まで,外務省賓客として来日し,東郷外務事務次官と3回にわたり会談した。その間,田中総理大臣,木村外務大臣,大平大蔵大臣,江藤運輸大臣及び二階堂自由民主党幹事長をそれぞれ表敬訪問した。
(e) 人事交流及び各種の関係
(i) 両国間の人的交流
(あ) 日中定期航空路の開設を記念し,74年9月29日から10月6日まで,日本側から小坂善太郎衆議院議員,中国側からは王震全国人民代表大会代表をそれぞれ団長とする友好代表団が,日本航空及び中国民航の一番機により相互訪問した。
(い) 74年7月から10月にかけて,大阪及び東京において中国展覧会が開催され,中国国際貿易促進委員会の李永亨副主任(6.25~8.22)及び蕭方洲副主任(9.9~10.22)を団長とする中国展代表団が訪日した。
(う) また75年3月24日から4月7日まで,吉川幸次郎京大名誉教授を団長とする政府派遣の学術文化訪中使節団が中国を訪問した。
(ii) 経済関係
 74年の日中貿易は総額32億8,924万3千米ドル(対前年比63.4%増)に達した。そのうち,輸出は,19億8,447万5千米ドル(同90.9%増),輸入は13億476万8千米ドル(同34.0%増)であり,わが国の対中出超額は前年より大幅に増加し,約6億7,971万米ドルに達した。

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(2) モ ン ゴ ル

(イ) 内外情勢

(a) 内     政
 74年5月18日人民大会幹部会は,経済学者であるバトムソフ前モンゴル国立大学学長を閣僚会議副議長(副首相)に選出し,更に6月11日には議長(首相)に任命した。これにともない,それまで議長であつたツェデンバル氏は,空席であつた人民大会幹部会議長(元首)に就任した。また,11月26日には,ブレジネフ・ソ連共産党書記長を迎えて,モンゴル人民共和国宣言50周年を祝つた。
(b) 外     交
 ツェデンバル首相(当時)は,5月訪ソし,ソ連との間で有償・無償の経済援助を受けることに合意し,また,11月の人民共和国宣言50周年記念日には,ソ連からブレジネフ書記長をはじめとするソ連首脳がモンゴルを訪問した。
 また,東欧諸国との関係においては,ツェデンバル議長が6月にハンガリー,9月にユーゴスラヴィアを訪問したがその結果として,経済協力関係の面において発展が見られた。他方,アジア諸国に対しては,モンゴルは政府高官を東南アジア,南西アジア諸国に派遣し,12月には,リンチン外相が北朝鮮を訪問した。また,ディロン・インド国会議長,マリク・インドネシア外相を7月に,グエン・フー・ト南越解放戦線議長等アジア諸国の要人を招聘し,アジア地域に対して積極的な外交を展開した。
(c) 経   済
74年は第5次5カ年計画の4年目に当たつたが,同計画は調整期の段階に入つたものと見られる。同計画については,工業面では計画がほぼ10割方達成されたが,農牧業面においては,計画では,対前年比成長率を6.9%増と予定していたのに対し,実績は3.8%増に留まり,農牧業の不振が目立つた。

(ロ) わが国との関係

 わが国とモンゴルとの関係は,1972年の外交関係樹立以来順調に発展している。9月23日には書簡の交換により,文化取極が締結され,その後もひきつづきその実施計画についての話合いが続けられている。また,人的往来も徐々に増加しており,わが国からは8月に外務省代表団,9月には国会議員代表団が訪モし,モンゴルからも,10月ツェベグミド副首相が,わが国で開かれた国際会議を利用して来日した。

 また,71年から実施されている日本赤十字社を通じての救急車援助については,75年3月に15台が贈与された。

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4. インドシナ半島

(1) カンボディア

(イ) 内 外 情 勢

(a) 政治・軍事情勢
 70年の政変後プノンペンの新政府は従来の王制を廃し共和制の確立を急ぎ,70年10月共和制を宣言し,72年5月に新憲法を制定した後,6月に大統領選挙を行い,初代大統領にロンノル元帥が就任した。更に,9月には両院議員選挙を行い名実共に共和制を確立した。
 一方,上記政変により国家元首の地位を追われたシハヌーク殿下は,70年3月亡命先の北京でFUNK(カンボディア民族統一戦線)を結成,5月にはGRUNK(カンボディア民族連合王国政府)を樹立し,以来キューサンパン,イエン・サリ等の国内の反政府勢力とともにプノンペン新政府との軍事的な対決を強めてきた。
 反政府勢力側は73年12月末より首都プノンペン周辺の軍事的締めつけを強化し,74年2月中旬頃までにプノンペン市内及び同市周辺に対する砲撃を繰り返した。共和国側は一時窮地に立たされたが,その後反撃に転じ,危機を脱した。そこで反政府側は首都攻撃から地方都市攻勢に転じ,3月末には旧王都ウドン(都市北方約40キロ)を一時占拠したが,共和国側の反撃と本格的雨期の到来により戦況は一時膠着状態に戻つた。74年末の乾期入りとともに,反政府側は再び軍事的圧力を強め,プノンペン市周辺,ポチェントン空港及びメコン河の輸送コンヴォイに激しい攻撃を続け,軍事情勢は再び緊迫化した。
 73年12月に成立したロン・ボレ内閣は,当初公務員給与の引上げ,帰順工作などに相当の効果を上げ期待されたが,悪化の一途を辿る戦時下の悪性インフレの下にあつて,73年末からの教職員を中心とした反政府運動をはじめ,74年4月にはロン・ボレ首相の暗殺未遂事件,6月には学生騒動が発生し,同騒動で文相及び次官が殺害されるに及んで内政不安が深刻化し,6月内閣は総辞職するに到つた。しかし秋の国連総会でのカンボディア代表権問題を控え,外交手腕に優れた同首相が再内閣を組閣することになり,一先ず政治危機を脱した。
 このように,内政の小康を得た共和国政府は,7月反政府側に対し無条件和平交渉を呼びかけ,一方では国連での代表権問題に備え積極的な外交工作を開始し,ロン・ボレ首相,クッキーリム外相等がASEAN諸国を始め中近東アフリカ諸国を歴訪し,各国の支持要請を行つた。
 一方共和国側の外交攻勢に対し,反政府側は3月~5月にかけて,キューサンパンGRUNK副首相一行が中国,アルジェリア等アジア・東欧・アフリカ諸国を歴訪し,その後もサリンチャック同外相等が非同盟アフリカ諸国を歴訪するなどの積極的な外交工作を展開した。
 この様な動きを背景に,第29回国連総会でのカンボディア代表権の帰趨が注目されたが,11月末に行われた表決の結果ASEAN等の和平推進決議案が賛成56,反対54,棄権等27の僅差で採択された。両当事者間の話し合いによる解決を求めたこの決議が採択されたことにより,両当事者を始めとする関係者の和平努力が期待されたが,反政府勢力側が従来からの共和国側との妥協に一切応じないとの態度を崩さなかつたため,話し合いの気運が生ずるに到らなかつた。
 75年に入ると反政府側は首都周辺に軍事的圧力を強化し始め,特に共和国軍の補給路の遮断を目的としたメコン河の水上コンヴォイ及びポチェントン空港への攻撃が連日の様に続いた。2月以来の共産側によるメコン河水上輸送封鎖と米国からの追加援助の暗い見通しの下で,共和国軍の戦意の低下は否めず,各地で同政府軍の劣勢が目立ち始めた。3月に入り,共和国側は参謀総長の交替,第3次ロン・ボレ内閣の成立等,局面打開のため努力したが,最早共産側との話し合いによる解決は絶望的となつていた。他方キューサンパンGRUNK副首相は23日全軍宛書簡でカンボディア全土の解放を強調し,25日にはGRUNKの閣議で米国による和平交渉の策動を拒否し,プノンペンを制圧する旨の決定が行われ,軍事解決の意図が明らかとなつた。
 かかる情勢を背景に,これまで和平の障害と見られていたロン・ノル大統領が4月1日出国し,ソウカムコイ上院議長が大統領臨時代理に就任した。しかし,11日フォード大統領は外交演説で対ヵ援助がすでに手遅れだと述べ, 12日には米大使館の引揚げが行われ,ソウカムコイ大統領臨時代理も同行してカンボディアを出国した。この大統領臨時代理の出国に伴ない両院議会は直ちに軍に全権を付与し,同時にサックスットサカーン参謀総長を議長とし,ロン・ボレ首相を副議長とする7人構成の最高委員会が設立されたが,この時点ですでに政府側に残された道は全面降服しかなかつた。反政府側は,14日ポチェントン空港を,翌15日「プ」市南方10キロの州都タクマウを制圧したため,16日,最高委員会はついに国際赤十字を通じてシハヌーク殿下に対し停戦と権限移譲を含む5項目を提案したが,同殿下はこれを拒否,17日早朝反政府側は殆ど共和国軍の抵抗を受けずにプノンペン中心部に向つて進入,午前9時30分にプノンペンは陥落し,共和国政府に代りGRUNK(カンボディア民族連合王国政府)の支配が確立した。
(b) 経 済 情 勢
 70年3月の政変以降力ンボディア経済は戦時経済下に置かれ,国内生産の激減,輸出の先細り,国内の輸送事情の悪化で悪性のインフレに見舞われ続けた。共和国政府は,71年10月主に外貨事情の悪化により変動為替相場を採用し,経済全般の建直しを目的とした新経済政策を打出し,更に72年3月にはIMF及び友好国の協力の下に生活必需品の輸入の確保と民生の安定を目的とした為替支持基金(ESF)を設立した(わが国は72年500万ドル,73,74の両年に700万ドル拠出)。このような努力にも拘わらず,インフレの昂進はますます激しくなり,74年に入ると戦火の拡大で生産力は更に低下し,逆に軍事費は引続き増大したため国家財政は破産状態に陥つた。加えて全国で200万と言われた難民の存在も財政疲弊に拍車をかけた。
 75年に入ると反政府側のメコン封鎖により,生活必需物資の輸入も途絶え始め,経済的側面からも共和国の崩壊が早まつたと見られている。

(ロ) わが国との関係

(a) 貿 易 関 係
 わが国との貿易取極は60年2月10日に署名され,以後累次延長されてきたが,75年1月11日この取極の有効期間を更に1年間延長した。わが国の輸出は69年の2,350万ドルから70年には1,078万ドルに激減し,以後73年まで1,000万ドル前後の水準であつたが,74年には340万ドルに減少した。一方輸入も69年の733万ドルから74年には245万ドルに減少している。
(b) 技術協力関係
(i) プレクトノット計画
 71年9月以来事実上工事は中断している。
(ii) メイズ開発に対する協力
 68年11月の両国間の取極に基づき,カンボディアのメイズ開発に協力するため専門家の派遣,機材供与等を行つてきたが,74年11月この取極有効期間を更に3年間延長した。
(iii) その他の技術協力
 わが国はカンボディアの治安が回復するまでは研修員の受入れを中心とした技術協力を行つており,71年度31名,72年度40名,73年度(73年4月~74年3月)は51名の研修員を受け入れた。一方わが国からはわずかにメイズ専門家が,75年始めまでプノンペンに派遣されていた。

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(2) 南ヴィエトナム

(イ) 内 外 情 勢

73年1月27日のヴィエトナム戦争の終結に関するパリ協定の締結以後も,軍事的衝突は依然として続いた。

共産側は,74年中に11の郡都(郡都総数236)を占領し,74年12月に開催した南越解放戦線中央委員会幹部会全体会議でチュー大統領打倒,軍事闘争強化を打ち出してからは,ますます軍事攻勢を強化した。すなわち75年1月には,フオクロン省(サイゴン北方約100km)を完全に掌握し,3月4日には,南越全土で攻勢を開始,ついでチュー大統領の中部高原の放棄決定発表(3月20日)は,南越政府軍の士気を急激に低下させ,第一線の部隊もほとんど戦いらしい抵抗も示さず,共産側は3月中に南越の中北部のほぼ20省(南越全土で44省)を占領するとともに,ダナンなどで大量の武器弾薬を入手した。

こうした事態の重大な発展とともにグェン・ヴァン・チュウ大統領の退陣を求める声が強まつたが,チュウ大統領は,敗北は軍の責任であるとして,政府軍機による大統領官邸爆撃(75年4月8日)という事態発生にもかかわらず,国政指導の任務を全うするとの強気の態度を崩さなかつた。

チュウ大統領の下で5年有余続いたチャン・ティエン・キエム内閣が退陣(4月4日),グェン・バ・カン下院議長を首班とする新内閣の成立(4月14日)をみたものの,共産軍のサイゴンに対する圧力は高まる一方であり,チュウ大統領としても遂に事態に抗しきれず,「パリ協定は米国が南越を北越に売つたもの」として米国の対南越援助態度を非難しつつ大統領を辞任(4月21日),チャン・ヴァン・フォン副大統領に政権を譲つた。これとともにカン内閣もまた総辞職した。

その後共産軍はサイゴン包囲網を縮め,サイゴン市内へのロケット砲撃(4月27日)が行われるという緊迫した事態のなかで,フォン大統領も,従来和平勢力のリーダーと目されてきたズォン・ヴァン・ミン将軍に政権を譲ることとなつた(4月28日)。

話し合いを期待されたミン大統領は就任にあたつて,即時停戦,交渉再開を訴えたものの,フォード米大統領の「米国にとり,インドシナ戦争は終つた」(4月23日)との歴史的発言にもみられるように時既に遅く,4月30日14時30分ミン大統領は,ラジオを通じて解放軍に対し無条件降伏の意思を表示し,引き続き解放軍代表が無条件降伏を承認すると放送したことにより,南ヴィエトナム共和国臨時革命政府が,南ヴィエトナムの政権を掌握することとなつた。

(ロ) わが国との関係

(a) 貿 易 関 係
 74年のわが国の対南ヴィエトナム貿易は,通関統計によれば輸出が対前年21%増の104.5百万ドル,輸入が5%増の30.7百万ドルとなり,出超幅が拡大した。74年の主要輸出品目は機械機器,繊維品,化学製品等,また主要輸入品目は木材,冷凍エビ等である。
(b) 経 済 協 力
 わが国の南ヴィエトナムに対する経済協力は,75年4月30日のヴィエトナム共和国政府からPRG(南ヴィエトナム共和国臨時革命政府)への政府交替により一時中断されることとなつたが,74年に実施されたものは次の通りである。
(i) 緊急無償援助
 難民再定着等南ヴィエトナム国民の民生安定を目的とする緊急無償援助50億円(74年3月30日書簡交換)が実施された。
(ii) 無 償 援 助
(あ) チョーライ病院の全面改築
 71年以降実施されてきた南ヴィエトナム最大の国立総合病院であるチョーライ病院の改築工事が終了し,75年1月28日譲与を完了した(建設費約46億円)。
(い) ダニム・サイゴン間送電線修復
 ダニム発電所・サイゴン間の送電線修復のための資機材供与(2億8,800万円,73年8月22日書簡交換)を了し,4,200万円を限度とする贈与(74年3月30日書簡交換)による技術指導を実施中であつた。
(う) チョーライ病院用機材供与
 5億4千万円(74年7月4日書簡交換)。
(え) チョーライ病院用医薬品等の供与
 1億円(75年1月28日書簡交換)。
(お) 孤児職業訓練所に対する機材供与
 わが国の無償援助(約6億円)により,サイゴン東方30キロのビエン・ホワに建設され,73年9月開所した,戦争孤児を対象とする職業訓練所に対する機材供与9千万円(74年2月13日書簡交換)。
(iii) 有 償 援 助
 南ヴィエトナムの戦後の経済安定と復興開発のため82億5千万円を限度とする商品援助(円借款,74年3月30日書簡交換)がほぼ消化されたほか,ダラット・カムラン間送電線設置(10億7千万円,72年11月29日書簡交換)が74年12月完成し,またカントー火力発電所の建設(57億6千万円,71年9月18日書簡交換)は75年4月に完成した。なお75年3月28日には,円借款90億円の書簡交換が行なわれた。
(iv) 技 術 協 力
 コロンボ計画等に基づき,74年12月現在医療関係4名(うち医師2名),農業指導4名,教育指導1名の専門家が派遣されたほか,農業,教育,建設等の分野の専門家が短期間派遣され,また南ヴィエトナムより多数研修員を受け入れそれぞれ技術指導を行つた。

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(3) 北ヴィエトナム

(イ) 一 般 情 勢

(i) 74年2月初旬開催された第4期第4回国会の直前に,労働党中央委員会第22回総会が開催され,戦後の新段階における一般的任務と,74年,75年における経済の復興発展に関する任務が定められたことが明らかにされた。
 新段階における一般的任務としてあげられたものの要点は,北ヴィエトナムにおける社会主義建設,経済と国防の密接な結合と米国の動きに対する警戒,南ヴィエトナムにおける独立と民主主義の完遂,平和的統一,ラオスとカンボディアの革命に対する国際義務の完遂であり,また,74,75年の任務としてあげられたものの要点は戦争の傷跡の早急な回復,経済の復興発展,文化の発展,社会主義体制の定着化,経済情勢と民生の安定,国防の強化,南ヴィエトナムに対する義務遂行の努力であつた。
(ii) 74年12月下旬開催された第4期第5回国会において,レタン・ギ副首相は,74年度の経済復興と発展の状況,75年度国家計画の方向と任務についての報告を行つたが,そのなかで同副首相は,「74年は国家計画の遂行において多数の点でよい結果が達成され,北ヴィエトナム人民が75年に経済復興と発展の課題の遂行に向つて前進し,次の数年間の国民経済の発展を積極的に準備するのに有利な条件を提供した」旨述べつつも,同時に,「74年度国家計画が達した水準は国民経済の増大する要求と較べるならばまだ低く,多くの種類の物資,商品もまだ需要を満していない」旨指摘している。
(iii) 政府人事としては,6月,政府の一部改組が2度にわたつて発表され,レ・タン・ギ副首相による国家計画委員会委員長の兼任,その他財政,経済関係閣僚の異動がみられた。

(ロ) わが国との関係

(a) 人 的 交 流
 74年における邦人の北ヴィエトナム渡航の旅券発行数は100件,他方北ヴィエトナムからの来日者は37名であつた。
 なお,わが国超党派国会議員有志による「ヴィエトナム国会代表団招待歓迎実行委員会」の招待により5月に来日したチャン・ザン・トゥエン資材大臣(越日友好協会々長)を団長とする北ヴィエトナム国会議員団一行(5名)は,5月24日,大平外務大臣,原田郵政大臣,大村官房副長官と会見した。
(b) 貿     易
 わが国の対北ヴィエトナム貿易は,73年の輸出443万ドル,輸入763万ドルに比し,74年は輸出は2,039万ドル,輸入は3,020万ドルと輸出入ともに大幅に増加した。
 わが国の輸出品の主要なものは,鋼材,機械類,繊維,化成品,雑貨等であり,輸入品の主要なものは鉱産物で,その大部分はホンゲイ炭である。

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(4) ラ オ ス

(イ) 内 外 情 勢

(a) 政治・軍事情勢

(i) 73年2月和平協定が成立し停戦が実現したのにひき続き,74年4月にはプーマ殿下を首相とする暫定連合政府並びにスパヌウオン殿下を議長とする政治協議会が発足した。その後連合政府の運営は順調に進められ,また和平協定全般の実施も停戦の他,都市の中立化,外国軍の撤退,捕虜交換,難民帰還等が達成された。
(ii) プーマ首相は74年7月に国民議会解散問題等に対する心労が重なり,心臓発作に襲われ,フランス療養を余儀なくされた。この結果,主要事項の検討は棚上げされることとなつた。同首相は帰国(11月)後は療養中ながら政務に復帰した。
 12月には政治協議会の作成した18項目政治綱領がプーマ首相とスパヌウオン殿下の署名により正式に採択された。この綱領は和平協定とともに今後のラオス政治の基本方針となるものである。
(iii) 74年末より,75年2月にかけて,ラオス北西部のフェイサーイ,中部のタケーク,南部のパクセにおいて,学生等によるデモあるいは騒乱が発生するなどラオス国内情勢は流動化のきざしをみせた。
(iv) その後も75年4月半ば頃よりのカンボディア,南ヴィエトナムにおける情勢の急変の影響もあつて,パテト・ラオ側(左派)とヴィエンチャン側(右派)との軍事的衝突,学生デモ等が発生し,国防相,蔵相等の右派要人が国外に脱出した。この結果,連合政府内における実質的指導権はパテト・ラオ側に移つた。

(b) 外     交

ラオス和平協定によればラオスの基本外交政策は平和・独立・中立の外交を行うこととなつている。
 ラオス政府は和平協定実施の進展とともに外交活動を活発化し,韓国(74年6月),北朝鮮(74年6月),東独(74年6月),カナダ(74年6月),シンガポール(74年9月),キューバ(74年9月)と,外交関係を樹立した。

(c) 経済の状況 

 74年4月に発足した新暫定連合政府は,経済基本政策として農業生産及び輸出の増強を掲げている。しかしながら,長期の紛争がラオス経済に与えた影響は深く,国内生産は貧弱で,基礎物資すら輸入に頼つているのが実情である。74年の物価上昇は国際的インフレ傾向と相俟つて前年に比し50%増となつた。財政については依然大幅な赤字基調が続いている。この事情を反映して74年7月ラオスは深刻な外貨危機に見舞われ,このため政府は為替管理を中心とする新経済措置を発表した他共産圏諸国を含む各国に経済使節団を派遣するなど,外国援助確保にも努力した。しかし,この経済情勢は75年に入つても改善されず,75年3月為替レートの切下げが行われた。
 なお,従来よりラオス経済の安定のためわが国を含む5カ国の援助によりラオス外国為替操作基金(FEOF)が設けられており高く評価されている。

(ロ) わが国との関係

 わが国とラオスとの関係は極めて良好である。特に,わが国の対ラオス経済協力はラオスの民生安定に貢献しており,ラオスのわが国に対する信頼と期待は大きい。

(a) 貿 易 関 係
 従来より,ラオスとの貿易関係はわが国の大幅出超であるところ,74年においても,わが国の対ラオス輸出は機械類等を中心に988万米ドルとなつている。これに対し74年のラオスからの輸入総額は264万米ドルとなつている。
(b) 経済・技術協力関係
(i) ラオス外国為替操作基金(FEOF)への拠出
 ラオスの為替安定,国内インフレ防止等を目的として,64年,米,英,仏,豪の4カ国の拠出によりFEOFが設立され,わが国はこれに対し,65年以来毎年拠出しており,74歴年は360万米ドルを拠出した。
(ii) ナム・グム開発計画に対する協力
 ナム・グム開発計画はESCAP・メコン委員会によるメコン流域総合開発のための基幹事業で,3万kw/Hの発電をめざす第1工事期(所要経費約3,100万ドル)のためのナム・グム開発基金に対し,わが国は約500万ドルの無償協力を行い71年末に完成した。さらに8万kw/Hの発電施設の増設を目標とするナムグム第II期開発基金に対しても74年6月,わが国は31億8,000万円までの借款を供与する協定に署名した。
(iii) タゴン農業開発協力
 アジア開発銀行が資金協力を行つているヴィエンチャン平野のタゴン地区800ヘクタール農業開発計画の一環として,わが国はこの地区内100ヘクタールのパイロット農場プロジェクトにつき70年より専門家の派遣及び機材供与を行つている。
(iv) 医 療 協 力
わが国は,タゴン農場近くのタゴン診療所に対して68年より専門家の派遣,機材供与,研修員の受け入れの各部門での協力を実施している。
(v) ヴィエンチャン・ノンカイ架橋計画に対する技術協力
 1965年のメコン委員会においてラオスが提示した計画で,タイ側のノンカイとラオス側ヴィエンチャンを結ぶ架橋計画である。メコン委員会の要請に応えて,わが国は1967年及び1973年に調査を行つた。
(vi) 専門家,日本青年海外協力隊の派遣及び研修員等の受け入れ
わが国は,コロンボ・プラン等により74年12月現在で21名の専門家,43名の海外協力隊員を派遣中で,また研修員の受け入れは74年度には12月までで42名となつている。74年末で受け入れ中の国費留学生の数は4名である。

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5. ASEAN諸国及びビルマ

(1) タ     イ

(イ) 内 外 情 勢

(a) 政 治 事 情
タイにおいては,73年から経済困難が顕著になつたが,74年に入つてもインフレの昂進等経済状況は好転せず,デモ,ストライキが続発,他方警察力の弱体化もあつて犯罪,暴力事件も多発し,国民生活に密着する経済,社会問題は改善の兆しの見られないままに推移した。
 73年10月政変により崩壊した軍事政権に代り誕生した文民政権たるサンヤー内閣は,憲法制定,総選挙実施までの暫定内閣として発足したが,このような状況下にあつて,74年5月に至り,憲法草案は既に議会の審議に委ねてあるので公約は果したこと,経済,政治及び行政の各面の建直しに努力して来たが数名の閣僚が国民よりその行政能力につき非難を受けて辞意を表明したことを理由に総辞職した。しかしながら,後任首相の人選難から第2次サンヤー内閣が成立することとなつた。
 8月には中国人街におけるタクシーの違法駐車を警官が尋問したことより暴動が発生した。これに対し,政府は4日間非常事態を宣言するとともに,政変後始めて警察が断固たる姿勢をとつて治安を回復した。
 政府に対する圧力団体として登場した学生等の進歩派グループは,引続き各種ストライキの支援,民主々義の啓蒙活動を通じて活発な行動を続けているが,確たる行動方針を有しないのに加え,組織内部に分派行動も見られ,さらに運動方法の強引さ等が国民の不評を買つたこともあり,その勢力は一頃よりは衰えてきたと見られるが,昨年末におけるタノム元首相の突然の帰国に際しては一致して反対運動を展開する中心勢力となつた。他方,軍は政治への不干渉を言明し,終始事態を静観する態度をとつている。
 公約であつた新憲法草案は3月の議会に提出され10月末日公布され,また,政党法及び選挙法が制定され議会制民主々義への道が開かれた。新憲法は11章238条より成り,その内容は,従来の憲法に比し相当民主的なものとなつており,特に(i)国民の権利の改善,(ii)国会は従来通り上院(官選)及び下院(民選)の2院制とするが,上院の権限を縮小して下院優位とすること,(iii)閣僚の財産申告制度その他政治の明朗化の保障,(iv)憲法体制転覆行為者に対しては恩赦を与えない,兵力を個人又は集団に従属させてはならない,30日以上の戒厳令施行には国会の承認を要するなど,武力による政権掌握を阻止しようとする規定を設けたこと等が注目される。
(b) 外     交
 サンヤー内閣は,政変直後外交基本政策として,(i)国連尊重,(ii)対米一辺倒からの脱却と諸大国との等距離,均衡外交,(iii)ASEAN及び近隣諸国との関係向上,及び(iv)政治体制の異なる諸国との関係改善を掲げ,74年においてもこれらの面で若干の進展が見られた。
近隣外交の面では,74年中ASEANを通ずる加盟諸国との協調を続けるとともに,対ビルマ関係ではタイ政府が亡命者ウー・ヌー (元ビルマ首相)の出国を計つたことにより,両国間関係発展のための大きな障害がとり除かれ,両国首脳の交流が行われた。ラオスに対しては連合政府成立後,経済援助,通過貨物運賃の引下げ等を実施し,友好関係促進が図られた。
 共産圏外交では,北越との間には関係改善の努力が続けられ,北朝鮮とは経済使節団の受入れと派遣が行われた。中国との関係では,対中貿易禁止の革命団布告第53号を廃止して対中国貿易再開の為の準備がなされ,また文化,スポーツ交流及び経済使節団の派遣が行われる等両国関係の円滑化が進められた。74年中にモンゴル,チェッコスロヴァキァ,ブルガリヤ,東ドイツとの間に国交を樹立し,関係改善が見られた。
 対米関係では74年も米軍撤退交渉が進められ,同年末における駐タイ米軍は27,000名,空軍機250機となつた。
(c) 経 済 情 勢
 74年のタイの経済は,73年の石油危機に端を発した世界的なインフレの影響による大幅な物価上昇に悩まされ,後半に入ると世界経済に深く浸透した不況のため生産活動は著しく停滞せざるを得なかつた。
 工業生産をみると,需要の減退,輸入原材料価格の高騰,人件費の上昇,金融逼迫などの要因により製造業全体としては4.3%の伸びを示したにすぎなかつた。
 一方,従来比較的安定していたといわれる物価も,73年に引続き上昇し,74年11月の卸売物価指数は前年同期比19%,消費者物価指数で同25%の上昇幅となつている。このような物価の高騰は国民生活を圧迫し,労働者の賃上げ要求が強まり,労働争議が各地で続発した。
 74年のタイの国内総生産は74億ドル(1962年価格)に達し,実質で3.8%増となつている。73年の8.7%には及ばないが,世界的な不況の中での成長率としてはかなり高く評価されてよいと思われる。
 また国際収支も72年,73年と好調に推移,74年も弱含みながら黒字基調で推移している。これはタイの主要輸出品の米,メイズ,砂糖等の一次産品の国際価格が高騰したことにより,輸入品価格の大幅上昇をカバーしえたことによるところが大きい。
 しかし,74年末頃から一次産品の価格が増産によつて軟調となつてきたこと,輸入品価格はむしろ堅調であるので,75年の国際収支は予断を許さないであろう。

(ロ) わが国との関係

(a) 日・タイ貿易関係
 日・タイ貿易は,従来からわが国の大幅な出超が続いてきたが,74年は生ゴム,ノイズ,タピオカ,冷凍えびの対日輸出が前年に引続き好調であつたことに加えて,砂糖の輸出が飛躍的に増加したことと相俟つて対前年比75%の伸びを示した。
 他方,日本からの輸入は32%増に留まつたため不均衡幅はかなりの改善をみた。
 このように日・タイ貿易の不均衡は両国の努力により両国間の貿易の拡大の過程の中で徐々に是正される方向に向つている。
(b) わが国の対タイ投資関係
 わが国の対タイ投資についてみれば,その累計は投資委員会認可ベースで約7千6百万米ドルに達した(74年9月末現在)。これは外資中43.5%を占め,2位(米,14.4%)以下を大きくひきはなし首位にある。わが国企業は,外国企業規制法に定められた猶予期間(74年11月25日)前に出資比率をタイ・マジョリティに移行すべく努力を続けた結果,大部分のわが国企業の出資率はすでに50%以下になつたものと考えられる。また,外国人職業規制法による制約もあり日系企業内でのタイ人登用も進んでいる。
(c) 経済・技術協力関係
 タイの第3次5ケ年計画の達成を援助するための第2次円借款(総額640億円)供与のための書簡交換は1972年4月に行われていたが,その後タイ側の要請により,73年12月にプロジェクト借款分(460億円)の全面アンタイ化が行われ,更に74年8月にはプロジェクト借款の半額分について金利が引下げられることになつた(輸銀分60億円について5%から4%へ,基金分170億円について3.5%から2.72%へ)。この間交渉は可成り難航したが,前記8月の書簡交換以降12月までにプロジェクト毎のロ-ン・アグリーメントが全部締結されたので,74年内に漸く第2次円借款消化の目途をつけることができたといえる。
 なお,74年10月にソンマイ蔵相が訪日した際,約400億円の追加円借款供与方の要請があつたが,この件についての話し合いはタイの総選挙後に成立すべき新政権へ持ち越されることとなつた。
 74年中の技術協力の実績は,調査団の派遣が23件123名,専門家派遣件数では43件206名(74年末における長期滞在専門家は約58名),研修員受け入れが集団コース72件82名,個別コース27件39名計121名(73年は99名),機材供与が携行機材分も含めて88件,金額にして3億円余りにのぼつた。このうち74年にはじめられた特色あるものとしては,田中総理大臣訪タイ時の約束にもとづく公害調査団の派遣,株式市場開設整備のための専門家派遣,家族計画のための機材供与等が挙げられる。

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(2) インドネシア

(イ) 政治経済の情勢

(a) スハルト政権は,発足以来,国内経済の建て直しに全力を傾けるとともに,国軍の再編成,職能グループの育成強化等の措置により政治的基盤を確立し,71年の総選挙で圧倒的勝利を博した。このような成果を背景として,スハルト大統領は,73年3月,国民協議会総会でインドネシア共和国史上3代目の大統領に再選され,同大統領の指導のもとにインドネシアの政治経済は安定的発展を遂げつつあつた。
(b) 73年後半より学生インテリを中心として,スハルト政権の開発至上政策に対する批判がデモ等の形で断続的に発生していた。このような背景のもとに,74年1月15日,田中総理大臣の訪問の際,対日批判を唱える学生デモが一般民衆の群集心理と結びついて大がかりなデモを惹起し,スハルト政権の安定性を脅かす暴動事件に発展した。
(c) インドネシア政府は,事態収拾のため,暴動事件関係者の逮捕,裁判,海外渡航禁止,学生組織の解散,報道機関の規制強化等厳しい引締め措置をとる一方,治安責任者の更迭,大統領補佐官制度の廃止,政治安定会議の発足,開発プロジェクト監察官制度の導入等一連の人事,制度上の措置を次々と打出し,スハルト政権の基盤たる国軍の統一を中心とする体制の立直しをはかつた。
 この結果,74年年央にはスハルト政権は1.15事件を契機とする政治危機を克服したとみられる。
(d) 経済面では,国民の要望する民族企業の育成保護,外資の規制強化をねらいとした内外資政策に関する基本綱領を発表して,従来の開発至上政策批判に応える姿勢を示した。また,74年は第二次5カ年計画の開始の年に当りインドネシア政府はその実施に全力をあげた。
(e) 74年のインドネシア経済は,主要産品である石油価格の上昇に伴う収入増を得たものの,輸入価格の上昇を主な軸とするインフレ現象に悩まされ,物価上昇率は30%以上に達した。このようなインフレ対策として,4月より金融引締措置等が実施された結果,国内の経済活動は年央をピークに以後下降傾向をたどつている。木材輸出は,伝統的大口輸入国であるわが国,韓国等の不景気の影響を受け,生産削減措置がとられている。石油についても,74年後半に至つて国際的需要減退,特にわが国及びアメリカの引取減少により前年の同時期に比し輸出量が若干減少した。

(ロ) わが国との関係

(a) 政 治 関 係
わが国とインドネシアの関係は順調に推移して来ており,74年1月の田中総理大臣訪問の際,両国首脳間で今後更に両国関係を緊密化するため,相互に協力することが合意された。しかし1月の暴動事件で表面化した如く,インドネシア国民の間にわが国の経済的プレゼンスの増大その他の要因による対日批判の心情が存することも明らかとなつた。わが国としては誇大広告の自粛等自主的対応に努めるとともに,両国関係者の経済団体を設ける等して意思の疎通を図るなど対日批判問題についての配慮を行つている。また,11月には東京において第2回の日本・インドネシア・コロキアムが開催され,両国の各界の指導層,学識経験者の間で両国関係を中心に幅広い意見交換が行われ,成果を挙げた。
(b) 経 済 関 係
(i) 74年の日イ間の貿易総額は6,022百万ドル(対イ輸出1,450百万ドル,対イ輸入4,572百万ドル)で,対前年比は輸出60%増,輸入106%増と大幅な増加を記録した。輸入の大幅増は主に原油価格の高騰に起因している。輸入品目は,石油の他木材等の資源が主体となつており,輸出は,機械機器,鉄鋼等が中心となつている。
(ii) 67年に外資導入法が制定されて以来,わが国の対インドネシア民間投資はきわめて活発であり,74年11月現在で,投資総額1,000百万ドル,件数179件(インドネシア政府認可ベース)に達し,国別では額,件数ともアメリカを抜いて第1位となつた。投資分野としては繊維をはじめとする製造業,農林業,鉱業等が大宗を占めている。
(iii) インドネシアには,わが国から約170の合弁企業及び51の商社が進出している。インドネシアでは,57年の工業省・商業省共同省令並びに70年の商業省令及び71年の同規則に基づき,外国企業には商業活動が原則として認められず,販売促進等の活動のみが許される建前となつているが,これら一連の省令,規則等の解釈,運営が必ずしも明確でないため,わが国商社の、駐在員事務所の法的ステータスは不安定な問題として残されている。

(c) 経済・技術協力関係

(i) わが国は,66年以来インドネシア援助国会議(IGGI;Inter GovernmentalGroup on Indonesia)を通じ積極的な経済援助・技術援助を行つてきている。わが国のインドネシアに対する援助は,米国のそれとほぼ同じ規模であり,69年に発足したインドネシアの経済開発5カ年計画及び74年に開始された第二次5カ年計画の実施に大きな貢献を果している。
(ii) 74年度援助として同年9月,各種プロジェクトを対象とする41,000百万円の借款供与が約束され,このうち20,380百万円を具体化した。このほか,71年度以降3年間にわたり意図表明を行つていたプロジェクト借款合計39,620百万円を具体化した。
 なお,わが国は,IGGI枠外の援助としてインドネシアの石油開発のため,73年3月第1次借款23,000百万円及び74年3月第2次借款39,000百万円を,また,液化天然ガス開発のため,74年3月,56,000百万円をそれぞれ借款として供与することに合意した。
(iii) わが国は,74年末迄に技術協力として,累計で2,366名の研修員を受け入れるとともに,累計1,251名の専門家を派遣したほか,医療機材,地質調査器具などの機材を供与(74年3月末現在累計額99.4百万円)し,資源開発,農業開発,家族計画,医療協力等のための調査団を派遣した。なお,現在わが国がインドネシア政府との取極等にもとづいて行つているプロジェクト型の技術協力としては,(あ)食用作物の共同研究計画,(い)中部ジャワのタジュム・パイロット計画,(う)南スマトラ・ランポン州における農業開発計画,(え)スラウェシ職業訓練センター,(お)ジャカルタ中央病院臨床検査室整備などがある。

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(3) シンガポール

(イ) 政治・経済情勢

(a) シンガポールは,リー首相の率いる人民行動党政府の強力な指導力のもとに,過去5年間年平均14%という高い経済成長を達成してきたが,石油危機によつて一層深刻化した世界経済の停滞により,物価高騰,製造業の生産活動の低下,労働者の大量解雇等の事態を招来し,一つの大きな転換期に直面している。しかし,国内的には,与党人民行動党が議会の全議席を占めており(次回の総選挙は77年に行われる予定),また,治安関係も総体的に安定している。また,シアース現大統領が次期大統領に再選され,75年より78年まで,引き続きその職に就任することとなつた。
(b) 74年5月に,隣国マレイシアが中国との外交関係を樹立したことは,シンガポールにとつても大きな出来事であり,シンガポールとしても,その対中姿勢を再検討する気運にあるものと見られる。75年3月にラジャラトナム外相が初めて公式に中国を訪問したのもその一つの表われといえよう。安全保障面では,5カ国防衛取極のもとにシンガポールに駐留していた豪州・ニュージーランド・英国軍(ANZUK軍)のうち,豪州地上軍が74年初めに撤退し,また,英国政府も同国駐留軍の引きあげを発表している。
 主要人物の往来としては,2月に豪州ウィットラム首相,6月にビルマのネ・ウィン大統領,8月にインドネシアのスハルト大統領,9月にイラン国王が,それぞれシンガポールを公式訪問した。他方,リー首相が74年1月フィリピンを公式訪問し,またラジャラトナム外相が上記の中国訪問の他,従来比較的交流の乏しかつた中近東諸国を74年1月から2月にかけて,また,東欧諸国を10月に訪問したことが注目される。
(c) 74年の国内総生産は,対前年比で実質6.8%の伸びに止まつたと発表されている。経済成長率の低下は主として製造業における生産活動の低下によるものであつたが,他方,国際収支は黒字基調を維持しており,74年9月末の公的外貨準備高は約2,500百万米ドルに達した。また,アジア・ダラー市場の規模も,74年10月末で,9,400百万米ドルと,前年同月比181%という大きな伸びを示している。

(ロ) わが国との関係

 74年のわが国とシンガポールとの関係は,1月の田中総理大臣の同国公式訪問に始まり,概ね順調に推移した。1月31日に発生した日本人2名を含む外国人4名によるシンガポール精油所内の石油タンク爆破とシンガポール国民を人質とするいわゆる「ラジュ号事件」も,関係者の努力により無事解決をみた。また,ラジャラトナム外相は75年3月,中国公式訪問の帰途日本を非公式に訪問した。

(a) 貿 易 関 係 

 74年の日本の対シンガポール貿易は,輸出1,388百万米ドル,輸入619百万米ドルと,わが国の出超となつたが,前年にくらべると,輸出の49%増に対し,輸入は178%増となり,両国間の貿易不均衡は縮小傾向にある。わが国の主要輸出品目は,機械機器,鉄鋼,繊維製品等で,輸入は,石油製品,機械機器,化学製品等であつた。
(b) 経済・技術協力関係
(i) 技術協力については,74年12月末まで,累計で研修員458名の受け入れ,専門家107名等の派遣(シンガポールを含み数カ国にわたる派遣は除く)を行つた。
(ii) シンガポール政府の外国企業誘致施策にもより,わが国からも多数の民間企業が同国に進出している。74年3月末での投資許可件数は306件,直接投資許可累計額は174百万米ドルとなつている。投資分野は,製造業,建設業,サービス業等,各種の産業にわたつている。

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(4) マ レ イ シ ア

(イ) 政治・経済情勢

(a) 74年の内政は8月に実施された独立後4回目の総選挙を中心として動いた。従来の野党をも加えたナショナル・フロント(国民戦線)の形成に成功したラザク政権は,この選挙で大勝をおさめ,9月には第二次ラザク内閣の組閣を終え,その政治的地歩を固めた。
 国内治安の面では,共産テロリストの活動と,学生運動の顕著化が注目される。特に,インフレに起因する貧富の格差の深刻化等経済問題に端を発した12月の学生デモは,従来の学生デモが大学構内に限られていたのに対し,市街地の路上デモへと発展し,しかも地方の学生をも動員して大規模になつた点注目される。
 74年のマレイシア経済は,主要工業諸国の経済停滞の中にあつて,上半期は高水準の発展を保ち,下半期に停滞したものの通年ではGNP6.3%(実質)と恵まれた成長を遂げた。71年から開始された第二次マレイシア計画では,GNPの年成長率(実質)6.5%を目標としており,74年は過去3カ年の平均成長率6.9%にこそ及ばなかつたものの同計画は一応順調に進捗しているといえる。
同計画は,90年達成を目標にした「新経済政策」の実施計画であり,既に76年からの第三次マレイシア計画も策定されている。
74年の石油生産は,31,397千バレル(日産8万~9万バレル)で,国内の需給はほぼ均衡している。なお73年から74年にかけて,サバ,サラワク沖及び半島マレイシア沿岸で新油田,新ガス田の発見が相次ぎ,将来の石油関連産業の発展が期待されている。かかる現状から石油開発の基本政策を規定し,今後の石油開発を効率的に推進してゆくため,74年8月,「石油開発法」を制定するとともに,PETRONAS(国策石油会社)を設立し,開発を一元的に遂行する体制を確立した。
ゴムは,73年から74年初頭の好況を享受した後,74年1月以降の下降市況の影響を強くうけている。マレイシア経済におけるゴムの占めるウェイトは大きく(国内総生産寄与率15~17%),ゴム不況の影響は極めて厳しいものといわざるをえない。
(b) 外交面では,71年以来,接触が続けられていた中国との関係について,ラザク首相が5月28日から6月2日まで中国を公式訪問し,5月31日に,両国間の外交関係を樹立した。これは,ASEAN諸国中,最初に中国との公式な関係を樹立したケースとして,今後のアジアにおける各国の動きを占う上で極めて注目されるものである。また,同時にマレイシアとしては,非同盟,中立主義を基調としつつ,引続きASEANによる協力関係を重視し,自国をめぐる周辺地域の平和と安定の確保を目標としている。
更に,6月に第5回回教国外相会議をクアラ・ルンプールで開催し一応の成果を収め,また,11月にはバハーレン及びオマーンとそれぞれ外交関係を樹立する等,回教諸国との連帯を深めた。また,75年1月下旬オイル・ダラーの導入その他を目的としてラザク首相がアラブ産油7カ国を歴訪した。

(ロ) わが国との関係

 わが国とマレイシアは,従来から友好関係にあり,74年1月田中総理大臣はマレイシアを公式訪問した。また,第1回総理府「東南アジア青年の船」は,マレイシアを親善訪問し(10月),日・マ両国の青少年間の友好親善関係の増進に寄与した。

 (a) 貿 易 関 係

 マレイシア側統計によると,74年の対日輸出は718百万米ドル,輸入958百万米ドルで,前年度に比べ輸出29%,輸入72%の増加を示した。
 わが国からマレイシアへの輸出品は,機械機器,電気機器,輸送用機器,鉄鋼,化学製品等であり,輸入品は,木材,すず,鉄鋼石,天然ゴム等の一次産品である。なおマレイシア側の統計によれば,74年の対外貿易において,対日輸出はマレイシア全体の18%,輸入は24.5%を占めており,これはシンガポールに次いで第二位である。なお注目すべきことは日・マ間の貿易バランスは,従来よりマレイシア側の出超となつていたのが,72年,73年とほぼ均衡を保ち,74年には日本側の出超に転じたことである。
(b) 経済・技術協力関係
(i) 74年1月,田中総理大臣のマレイシア訪問の際,第二次マレイシア計画の開発プロジェクトに資するため,第三次円借款(360億円)の供与が合意され,74年8月そのための交換公文が署名された。
(ii) わが国は,マレイシアに対する技術援助として,74年末までに,累計で研修員800名の受入れ,専門家282名の派遣および青年海外協力隊員267名の派遣(いずれも国際協力事業団による政府ベース実績)を行つている。
プロジェクト協力としては「稲作機械化計画」(70年~75年),「船舶機関士養成計画」(73年~77年),「MARA職業訓練計画」(73年~75年)等についての協力を続行中である。
(iii) わが国の民間企業は,マレイシア政府機関,現地企業等と提携し,資本,技術等を提供しており,74年3月末現在の累計投資高は201百万米ドルに達している。その分野は,鉱業,農業,漁業等の開発関係のほか,製造業,サービス業等多岐にわたつている。

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(5) フ ィ リ ピ ン

(イ) 政治・経済情勢

(a) 74年上半期のフィリピンは,前年に引続き経済運営等全般的に順調な進展を示した。
 しかし年央より世界的なインフレ,不況の影響があらわれはじめ国民生活への圧迫が強まり,また「新社会」建設の鍵とされる農地改革,貧富の格差是正等の諸改革が期待程に進捗せず,軍・政府関係者の不正もあらわれるようになり,国民各層の不満が増大した。
 8月末の修道院に対する強制捜索に端を発した教会の政府非難は戒厳令体制の撤廃を求める動きを誘うこととなつた。比政府は,このような動きに対する宥和策をとり,政治犯の大量釈放,軍事法廷の権限縮小,言論統制の緩和,元反乱分子への恩赦,海外在住の政治犯への恩赦と帰国の自由,海外旅行の自由化,不正軍人の処罰等の措置を行つた。
 更にマルコス大統領は,国民の信認を問い,かつ地方行政改革について国民の意見を問うべく,75年2月27日から28日にかけてレフェレンダムを行つたところ投票数の約87~88%がマルコス政権を支持した。
(b) 南部回教徒反乱軍と政府軍との衝突は,74年2月のホロ,同6月のミサヤップ(北コタバト州)における比較的大規模な戦闘のほかに,局地的なゲリラ戦が各地で繰返された。75年1月にはミンダナオの三都市が回教徒軍によつて占拠され,政府は同地域の状況の深刻化につきかなりの懸念を有している模様である。
 南部回教徒問題にはリビア等の回教諸国が関心を抱いており,フィリピンとしても単なる内政問題として処理しきれない面がある。75年1月にはトハミ回教徒連盟事務局長の仲介を得てジェッダにおいて,比政府と反徒との間に交渉が行われたが物別れに終り,次回交渉が4月に行われることになつた。
(c) 外交関係は,73年に引き続き多角化の方向に進んだ。特に中国との関係では,74年9月のマルコス大統領夫人の訪中により国交樹立の方向に大きな一歩が踏み出された。他方,対ソ関係については民間レベルの交流に進展がみられたが,外交関係では実質的な進展は見られなかつた。
 石油供給問題,南部回教徒問題,オイル・ダラー還流問題との関連で,74年は対アラブ外交にも大きな努力が払われ,サウディ・アラビア外相,同外務次官,レバノン外相,トハミ回教徒連盟事務局長等が訪比した。
 比外交最大の柱である対米関係では,ラウレル・ラングレー協定の失効(7月)に伴う新協定交渉が懸案となつているが,主として米側の新通商法成立の遅れにより進展を見なかつた。しかし全般的な両国の伝統的友好関係には大きな変化はなかつた。
(d) 74年の経済は,下半期にカゲリが見え始めたが,上半期迄続いた一次産品ブームによる輸出の好調や観光収入の急増及び機動的な経済政策の運営に支えられて,通年の実質成長率は5.9%,総合収支は96百万ドルの黒字,外貨準備は12月末現在で1,150百万ドル(前年比2.70百万ドル増)という成績を示した。

(ロ) わが国との関係

 74年は,1月の田中総理大臣の訪問及び日比通商航海条約の発効等日比友好関係の上で特記すべき事柄で年があけた。このような両国関係の改善振りは,3月にルバング島から救出された小野田元少尉に対するフィリピン側の厚遇からも看取しえた。

 (a) 経 済 関 係

(i) 日比両国は,地理的に近接していることに加え,両国経済が補完関係にあることから,貿易量は毎年拡大を続けてきている。74年の日本の対比輸出は912百万ドル(対前年比147%),輸入は1,103百万ドル(同135%)と前年に比べ著しく伸びたが,74年における比国第1位の貿易取引国は米国で,日本は第2位となつている。
 なお,わが国からの主要輸出品目は,プラント類等の機器,金属・化学製品,繊維品などで,他方,主要輸入品目は木材,銅,鉄鉱石,バナナなどである。
(ii) わが国の対比民間直接投資許可累計額は,74年末現在186百万ドルで,ASEAN諸国中最も低い水準となつている。投資分野は,商業,鉱業,金属業等である。

 (b) 経済・技術協力関係

(i) わが国は,56年に締結された賠償協定(総額550百万ドル,20年支払い)に基づき,引続き機械類,輸送用機器等の贈与を行い,74年末までに527百万ドルを履行した(履行率91.4%)。
(ii) 74年3月及び75年3月,わが国は,比国の食糧不足解決に協力するため,それぞれ百万ドル及び1.5百万ドル相当のタイ米を贈与することに合意した。
(iii) 74年6月,7,300百万円のプロジェクト借款を供与し,また,同年12月,7,500百万円の商品借款と15,000百万円のプロジェクト借款を供与することに合意した。
(iv) 技術協力面では,74年2月までに,延べ2,031名の研修員を受け入れ,74年3月末までに専門家延べ479名の派遣を行い,また75年4月現在,青年海外協力隊員311名を派遣した。このほかパイロット農場に対する技術協力を行つている。

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(6) ビ ル マ

(イ) 政治・経済情勢

(a) 74年のビルマは,念願の民政移管が実現して軍事独裁制から脱皮し,政治的には大きな進展を見せた。しかし,経済困難が一層深刻の度を加え,国民の不満が顕在化している。すなわち,74年5月から6月にかけて中部ビルマ及びラングーンで労働者ストライキが発生し,軍の発砲により多数の死傷者を出した。また,12月には,ウ・タント前国連事務総長の葬儀を契機として,学生,僧侶が反政府暴動をひき起したことから流血の惨事が再発し,ラングーン市内に戒厳令が施行された。両事件の主因はいずれも,米など消費物資の不足と価格の高騰に基づく生活苦にあり,政府の今後の経済改善策の動向が注目されている。
(b) 73年に打出された対外政策積極化路線は,74年においてかなり具体化された。第一に,ウ・ネ・ウィン大統領がインド亜大陸,東南アジア大洋州諸国,ユーゴースラビアなどを3回にわけて歴訪したほか,政府及び党要人が各国を頻繁に訪問するなど,対外接触が活発化している。また,従来堅持していた外国民間資本の活動禁止政策を変更して,わが国をはじめ,アメリカ,ヨーロッパ各国民間企業に対し,「請負契約」による海底油田の探鉱・開発許可を与えた。
(c) 74年は,第2次4カ年計画がスタートした年であるが,農業生産が好調であつたため,国内総生産は前年度比4.1%増(実質)と過去2年の停滞(73年1.1%,74年2.4%)から一応回復した。しかし,日常消費物資の不足に諸物価の高騰(73年20%,74年30%)が進行した結果,民衆の生活はむしろ窮迫化するにいたつた。すなわち,低米価政策による農民の売り惜しみなどを理由として,米を主体とする農産物の政府による集荷量が減少したことから,輸出が低下したのみならず,国内配給量すら確保できなくなつた。更に,国際収支難に基づく厳しい輸入抑制措置のため,消費物資が極端に不足するとともに,輸入原材料,部品の補給難の事態が生じ,各産業の操業率が低下して国産品の供給も減少した。政府としては,米価の大幅引上げによる買付けの促進,緊急輸入計画の実施,民営部門の活用,為替平価の切下げなどの措置を実施に移し,困難の解決に懸命の努力を続けているが,経済停滞の原因には極めて根深いものがあり,その打開には,今後なおかなりの時日を必要としよう。

(ロ) わが国との関係

 74年11月には田中総理大臣がビルマを公式訪問して,ウ・ネ・ウィン大統領などの政府要人と会談し,両国友好関係の促進に大きく貢献した。他方ビルマ側からは,ウ・ルイン副首相,ウ・フラ・ポン外相,ウ・サン・ウィン貿易相をはじめ,工業副大臣,人民議会代表団など要人の訪日が相次ぎ(いずれも10月),両国交流は極めて活発であつた。  

(a) 貿 易 関 係
  74年にはわが国の対ビルマー次産品輸入が減少したため,73年にほぼ均衡した両国貿易バランスは,再びわが国の出超に転じた。同年のわが国の輸出は62.5百万ドル,輸入は30.7百万ドルである。わが国の輸出は,機械,金属が中心で,輸入は豆類,木材,鉱物が大部分である。
(b) 経済・技術協力関係
(i) わが国は,63年に締結したビルマとの経済技術協力協定に基づき,65年から12年間にわたつて総額140百万ドルにのぼる生産物又は役務をビルマに供与することとなつており,これまで,トラック,乗用車,農業機械などの製造プラントに対する協力を行つている。74年末現在の支払済額は111.5百万ドルで,履行率は79.6%である。
(ii) 有償資金協力としてわが国は,69年以来7件の円借款を供与した。
(iii) 技術協力の分野では,54年から74年までの間に,石油・医療・科学関係の機材供与のほか,わが国から合計206名の専門家を派遣するとともに,ビルマ側から鉱工業,農水産関係の研修員393名を受入れた。

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6. 南西アジア諸国

 

(1) 域内事情概観

(イ) 74年の南西アジア地域情勢は,2月のパキスタンによるバングラデシュ承認,更に4月のインド,パキスタン,バングラデシュ3国外相会談による195名のパキスタン「戦犯容疑者」の送還決定等を通じ,インド・パキスタン・バングラデシュ3国関係は正常化に向け大きく進展し,かかる和解のムードを背景に6月にはブット・パキスタン首相がバングラデシュを訪問した。しかしながら,在バングラデシュ・パキスタン人の追加送還及び資産分割問題をめぐり合意に達せず,その後の両国関係には何の進展もみられなかつた。他方,印パ関係では紆余曲折はあつたが,実務関係の再開を中心として両国関係にはかなりの正常化がみられた。しかし,依然として外交関係の再開には至らなかつた。74年に入つてからの一般的な緊張緩和の動きの中で,5月のインドによる核実験はこの地域の情勢に大きな波紋を投げかけ,特にパキスタン,ネパール等の近隣諸国に衝撃を与えた。他方インドは,核実験の成功にかなりの自信を得た模様であり,それ以後近隣諸国に対するインドの積極的な外交努力が注目された。また,石油資源を求めて南西アジア諸国の対中東産油国に対する外交が活発化した。

(ロ) 他方,74年における南西アジア諸国経済は,石油等の世界的価格高騰により深刻な影響を受けており,また農業生産の若干の増加をみたネパールを除いては天候不順,肥料不足等のため農業生産がひき続き不振であり,一般的に停滞を続けている。

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(2) イ  ン  ド

(イ) 内 外 情 勢

  (a) 政治・経済の状況

(i) 74年のインド内政は,前年同様に政治的混迷状態から脱し切れず,ガンジー首相が率いるコングレス党の不振が目立つている。すなわち,コングレス党は連邦議会では絶対多数を占めている上,5月の核実験によりガンジー首相の人気が一時持直したこともあつて中央では安定した地位を維持したものの,各州においては党内の派閥抗争が跡を絶たず,インフレ,食糧不足,失業増大に伴つて,5月にはインド全土にわたり鉄道ストが行われる等,社会不安が高まり,コングレス党政治に対する国民一般の不満がつのつた。特に,グジャラート州では食糧暴動を契機にコングレス党州政権が崩壊し大統領直轄令が施行され,また,ビハール州では民主政治の確立と汚職撲滅を叫ぶ平和運動家のJ.P.ナラヤンが大規模な反政府運動を開始し,これに触発されて北部インドにおいても野党による政府批判の動きが活発化した。かかる情勢を反映して,連邦議会議員及び州議会議員の補欠選挙でコングレス党候補が相次いで落選し,特に都市部でのガンジー政権に対する支持率の低下が目立つた。
(ii) 74年のインド経済は,73年秋の石油危機に基づく国際的インフレの影響を受けたことや,74年前半に起つた旱魃が雨期作に甚大な被害を与えたことにより,引続き停滞を示した。インド政府は石油,食糧,資材等を確保する目的で,東欧,EEC,中近東諸国との協力関係増進に努めたが,輸入品価格の国際的高騰が災いして,国際収支が大幅な逆調をみせたため,生産資材の輸入が思うにまかせず,深刻な電力不足,労働争議と相俟つて,鉱工業生産は殆んど零成長に留まつた。他方,インフレに悩むインド政府は公定歩合の引上げ等の金融引締政策を行う一方で,強制貯蓄令を発布する等インフレの抑制に努めたが所期の成果は得られず,74年4月から実施を予定されていた第5次5カ年計画も再検討を余儀なくされ,計画実施の目途が立たない状態にある。

  (b) 対 外 関 係

 74年中,インドはパキスタンとの戦後処理問題を着々と解決し,近隣諸国との関係緊密化をはかるとともに,対米関係の改善と対ソ友好関係の維持に努めた。
 パキスタンとの関係は,5月にインドが核実験を行つたため一時悪化の兆をみせたが,その後印パ両国の実務者会談を通じ,10月には71年の印パ戦争の結果停止されていた郵便,通信,査証発給の業務が再開され,12月には65年の印パ戦争以来の貿易禁止措置が解除され,印パ関係は正常化の方向に進んだが,75年2月にはインド側カシミールの帰属に関し,インド政府とカシミール人民投票戦線側との間で合意が達せられたことをめぐり印パ関係は一時緊張した。
 またインドは,核実験の成功による自信を背景にスリ・ランカ,モルディヴ,ビルマ,タイ,インドネシア等の近隣諸国に対して積極的な外交を展開し,関係強化に努めた。他方インドは,石油資源確保の必要もあつて,中近東諸国,特にイランとの関係強化に意を用い,4月にガンジー首相が,10月にパーレヴィ皇帝が夫々相手国を公式訪問し,政治,経済両面での両国の協調関係が強化された。
 73年に関係改善の兆がみられた米国との関係は,10月のキッシンジャー国務長官の訪印を機に漸く改善の方向に進み始めたが,75年2月の米国による対印パ武器禁輸解除はインドの反発を招いた。一方,ソ連との関係は,75年2月のグレチコ・ソ連国防相のインド訪問等を通じ,印ソ両国の協力関係は更に強化されたとみられる。
 なお,75年2月カルカタで開催された世界卓球選手権大会に中国が参加したことが注目されたが,中印関係には特に目新しい動きはみられなかつた。

(ロ) わが国との関係

 インドから74年9月にスーブラマニアム産業開発・農業灌漑大臣(現蔵相)がFAO地域総会出席のため,またディロン下院議長がIPU総会出席のためそれぞれ来日し,わが国から9月に河野参議院議長が訪印した。また11月にはニュー・デリーで第9回日印事務レベル定期協議が開催された。

(a) 貿 易 関 係

 74年における日印貿易総額は,12億5,295万ドル,その内,わが方の輸出5億9,474万ドル(対前年比75%増),輸入6億5,821万ドル(対前年比14%増)で,これまでにみられた入超傾向は大幅に改善された。わが国の対印主要輸出品目は機械機器,化学品,金属(その大部分が鉄鋼)等であり,主要輸入品は鉄鉱石,えび,綿花,落花生しぼりかす等である。

(b) 経済・技術協力関係

 わが国は,74年度にはインドに対し,第14次円借款として商品援助70億円,プロジェクト援助110億円の供与を約束するとともに,約121億円の円借款債務繰延べを行つた。この結果,58年第1次円借款以来現在までのインドに対する円借款供与累計総額(コミットメント・ベース)は約3,280億円(うち債務繰延べ額716億円)となつた。

 また,技術協力面においては農業部門に重点をおき,4カ所の農業普及センター及びダンダカラニア・バラコート地区農業開発計画に対する協力を通じ,引続き農業技術の普及に努めた。なお上記4センターのうち2カ所での協力は75年3月をもつて終了した。

 さらに,わが国は74年中に国際協力事業団を通じ専門家15名を派遣し,65名の研修員を受け入れた。

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(3) パ キ ス タ ン

(イ) 内 外 情 勢

 (a) 政治・経済の状況

(i) 74年のブット政権は,北西辺境州及びバルーチスタン州における反乱活動及び回教の一宗派であるアーメディア派をめぐる宗教的内紛等の内部分裂の動きに対する対策に忙殺された。かねてから,部族民の活発な反政府運動が続いていたバルーチスタン州では,政府は軍隊による鎮圧を続け,ようやく10月に政府は,バルーチスタン州における反政府運動は終息したとの声明を発するに至り,以後同州情勢は著しく改善された。他方北西辺境州においては根強い反政府運動が続いており,75年2月にはシェールパーオ同州政府内相が爆死した。
(ii) 経済面では,世界的不況の影響を受け,綿産品の輸出が停滞する一方物価騰貴が続いた。加えて74年7月及び8月のタルベラ・ダム事故,旱魃等は当国経済の基礎である農業生産に大きな打撃を与え150万トンの小麦不足をもたらした。他方政府は,従来の国有化政策を手直しし,74年1月の銀行,海運,石油販売業等の国有化を最後に当分の間国有化は行わないとの方針をとつている。

 (b) 対 外 関 係

74年中,パキスタンは戦後処理問題の解決に重点を置くとともに,国際的地位の向上のため活発な外交活動を行つた。
(i) インドとの関係では,4月に戦犯容疑者釈放問題が解決をみたが,5月のインド核実験後一時緊張した。しかし,10月に郵便,通信,査証発給に関する3協定が,また,75年1月には貿易協定及び海運業務再開のための議定書が両国間で署名され,印パ間の実務関係は著しく進展した。しかし,75年2月の米国の対印・パ武器禁輸解除発表と同月のインド側カシミールに関するアブドウッラ一元カシミール州首相とインド政府との合意成立(インドの項参照)により再び緊張をもたらした。バングラデシュとの関係では,2月のラホールにおける回教国首脳会議の際,パキスタンは同国を承認し,6月にはブット首相が自ら同国を訪問する等関係正常化に積極的姿勢を示したが,外交関係の樹立にまでは至らなかつた。アフガニスタンとの関係は,いわゆる「パクトニスタン」問題をめぐり,冷却していたが,75年2月のシェールパーオ事件を契機として双方の非難の応酬が昂つた。
(ii) 中国との関係では,ブット首相が5月訪中し,また,幾多の使節団の往来により両国の友好関係は更に前進した。米国との関係は,10月のキッシンジャー国務長官のパキスタン訪問及び75年2月のブット首相の訪米並びにそれに伴う米国の対印・パ武器禁輸解除決定等により強化された。ソ連との関係も10月にブット首相がソ連を訪問し,両国関係はかなり改善された。

(ロ) わが国との関係

 74年12月には,アズィーズ・アーメド外務兼国防担当国務大臣がわが国を公式訪問したほか,10月にはIPU総会出席のためファールーク・アリー国民議会議長を団長とするパキスタン国会議員団が来日した。また,わが国からは9月に7名の国会議員がパキスタンを訪問した。

(a) 貿 易 関 係

 パキスタンの主要輸出産品である綿製品の輸入が激減したため,74年におけるわが国との貿易は,わが国の輸出2億2,603万ドル(対前年比251%)に対し輸入7,478万ドル(対前年比49.8%)となり,わが国の大幅出超となつた。

(b) 経済・技術協力関係

 わが国は,74年度には62億円の第11次円借款の供与を約束したほか(6月),旧東パキスタン向プロジェクトに係る債務約245億円につき,パキスタンの債務を免除することを約束した。また,12月にパキスタン北西辺境州で発生した地震災害に際し,5,000万円相当の救援物資を贈与した。技術協力面では,わが国は73年に引続き電気通信センターに4名の専門家を派遣しているほか,74年度中に通信施設の復旧,電気通信センターの拡張,カラチ郊外鉄道電化計画,カラチ新港建設等のため35名の専門家を派遣し,また36名の研修員を受け入れた。

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(4) バングラデシュ

(イ) 内 外 情 勢

 (a) 政治経済の状況

(i) 独立3年目を迎えたバングラデシュでは,国内体制の整備はある程度進んだものの,経済政策がかならずしもうまくゆかず,経済困難が増大し国民生活を圧迫した。また政治家や官吏の汚職,悪徳商人による買占めや密輸等が横行したため,ラーマン首相は74年4月に軍隊を動員しこれらの取締りを強化し,さらに7月には内閣改造を行い,政治の刷新を図つた。しかしながら,依然として社会的不安はおとろえず,国民の不満は高まる一方,テロ活動のために地方の治安も混乱した。これに対し野党勢力は政府批判を強めつつあつた。かかる状況を背景に,ラーマン首相は体制の立直しをはかるため,74年12月非常事態宣言を公布し,次いで75年1月に憲法を改正して強力な権限を有する大統領直接統治制に移行せしめるとともに,自ら大統領に就任した。更に2月には既存政党を解散させ,唯一の合法政党としてバングラデシュ労農人民連盟を発足せしめるなど,独裁的色彩を強めつつある。
(ii) 74年のバングラデシュ経済は,73年から始まつた第1次5カ年計画の下で,経済開発の基礎固めに重点が置かれたが,世界的なインフレや石油危機の影響を受けて目標達成に至らなかつた。特に8月の水害が農作物に大きな打撃を与え,深刻な食糧不足に襲われた。貿易面では,ジュート輸出の不振等もあり輸出が低調であつた上,輸入価格高騰により,国際収支は45.5億タカの赤字を示し,外貨準備は著しく悪化した。このため,バングラデシュ政府は各国に緊急援助を要請したが,各国の援助状況はあまりかんばしくなく,バングラデシュ経済はかなり深刻な状態にある。

 (b) 対 外 関 係

(i) パキスタンとの関係は,2月にパキスタンがバングラデシュを承認したため,4月のインド,パキスタン,バングラデシュ三国外相会談でパキスタン軍戦犯容疑者の釈放が合意され,次いで6月にはブット首相がバングラデシュを訪問し,ラーマン首相と会談するなど正常化の気運が醸成されたが,40万ビハ-ル人の追加送還問題,資産分割問題について解決をみず,両国は依然として大使館の設置に至つていない。またパキスタンがバングラデシュを承認したことに伴い,中国がバングラデシュの国連加盟反対をとり下げたため,9月の国連総会でバングラデシュは136番目の国連加盟国となつた。
(ii) 他方,ラーマン首相は5月にインドを訪問した後,9月には国連総会に出席したさい,フォード大統領と会談したほか,イラク(10月),エジプト,クウェイト(11月),アラブ首長国連邦(12月)を訪問するなど積極的な首脳外交を展開した。

(ロ) わが国との関係

 わが国は,74年1月に永野日本商工会議所会頭を団長とする政府経済使節団をバングラデシュに派遣したほか,10月に秋田衆議院副議長がバングラデシュを訪問した。他方,バングラデシュからは3月にバングラデシュ国会議員団,9月にはウキル国会議長,10月にはアーメド蔵相がそれぞれ来日した。

(a) 貿 易 関 係
 74年におけるわが国の対バングラデシュ貿易は,輸出7,474万ドル,輸入1,508万ドルで前年に比べ輸出で7.2%,輸入で23.9%増加した。
(b) 経済・技術協力関係
 わが国は74年3月90億円の円借款(商品援助)を,これまでわが国が外国に認めた中で最も緩和された条件で供与することを約束した。75年3月には第2次円借款(商品援助)115億円の供与を約束したほか,旧東パキスタン向プロジェクトに係る債務のバングラデシュによる引受分約245億円につき債務繰延を行つた。更に,無償援助として3億9000万円相当の深井戸掘さく機材(8月),15億円相当の繊維品(75年3月),KR食糧援助として,約5億200万円相当(9月)及び約26億5500万円相当(75年3月)の米の供与をそれぞれ約束した。また8月には洪水被災者の救済のため,2億円相当の救援物資を贈与した。
 技術協力面では,74年中に,ジャムナ河架橋フィージビリティー調査団,農業普及制度確立に関する農業協力調査団(10月),家族計画に関する医療協力予備調査団(11月)を派遣したほか,農業協力専門家3名を含む専門家86名及び海外青年協力隊員9名を派遣した。また同年中に79名の研修員を受け入れた。

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(5) ス リ・ラ ン カ

(イ) 内 外 情 勢

 (a) 政治・経済の状況

(i) 74年のスリ・ランカにおいては,バンダラナイケ連立政権内部における自由党左派及び平等党と自由党右派との間の対立が目立つた。
 他方,公共料金の値上げ,生活必需物資の騰貴ないし欠乏に対する国民の不満を背景に,野党統一国民党は,75年5月までに総選挙を実施するよう政府に要求し,国内各地で集会などによる反政府運動を展開した。これに対し政府は,4月,外出禁止令,野党の集会禁止令の施行及び反政府系新聞社の閉鎖などの強硬措置をとるとともに,全国各地で政府支持集会を開くなど党勢の拡大に努めた。しかしながら,74年初頭より75年2月までの間に国会議員補欠選挙が4回実施されたが,与党候補はいずれも落選し,与党勢力は引続き退潮傾向を示した。
(ii) 国際的な石油,食糧,消費材の高騰により,これらの輸入に大きく依存するスリ・ランカ経済は,74年においても引続き困難に見舞われ,72年に始まつた経済開発五カ年計画も所期の目的を達成し得ず,計画の手直しが必要となつている。
 基幹産業である農業部門は,天候不順,肥料不足により全般的に振るわず,食糧不足は依然として深刻である。主要輸出農産物中,ココナツは前年にくらべ若干の生産増加がみられたが,紅茶生産は著しく落込み,また,ゴムも前年に比べ減産となつた。

 (b) 対 外 関 係

(i) 74年には,バンダラナイケ首相が,1月インド,8月モルディブ,9月パキスタン,西独,ユーゴースラヴィア,ルーマニア,10月イラン,11月ソ連を歴訪したほか,その他の閣僚も中近東諸国を頻繁に訪問し,援助獲得,貿易拡大,友好関係の強化のための努力を行つた。
(ii) 隣国インドとの関係では,バンダラナイケ首相がインドを訪問した際,長年の懸案であつたタミル人送還問題及びカッチャティヴ島帰属問題がスリ・ランカに有利に解決され,インドとの関係の一層の増進がみられたことが注目された。

(ロ) わが国との関係

 (a) 貿 易 関 係 

73年にはじめてわが国の入超となつた対スリ・ランカ貿易は,74年には,輸出67.8百万ドル(前年比160.7%増),輸入30.6百万ドル(前年比16.7%減)となり,再びわが国の大幅出超となつた。わが国の対スリ・ランカ主要輸出品目は,機械,肥料,繊維品などであり,主要輸入品目は,貴石,紅茶,ゴムなどである。

(b) 経済・技術協力関係

 わが国は,スリ・ランカに対し,73年に贈与した訓練用漁船購入費の追加分として6千万円の贈与(74年3月)を行なつたほか,第9次円借款として42億円の供与を約束した(8月)。
 技術協力関係では,スリ・ランカ高等水産講習所設立協定に署名した(4月)。また,デワフワ村落開発計画協定に基づく専門家5名及び上記高等水産講習所設立協定に基づく専門家8名が派遣されている。さらに74年中74名の研修員を受け入れ,17名の専門家を派遣した。

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(6) モルディヴ

 (イ) 政    情

任期満了にともなう国会議員選挙(政党はなく個人本位の選挙)が9月より遂次全国において行われた結果,75年2月,新議会が招集され,ザキ前首相が再任されたが,3月同首相は突如解任された。

対外関係では,ザキ首相がインド(74年3月)及びスリ・ランカ(8月)をそれぞれ公式訪問したほか,スリ・ランカのバンダラナイケ首相が8月に,また,インドのガンジー首相が75年1月にそれぞれモルディヴを公式訪問するなど近隣諸国との友好親善関係の強化のための努力が行われた。

 (ロ) わが国との関係

74年度のわが国の対モルディヴ貿易は,輸出44千ドル(対前年比34.9%),輸入727千ドル(対前年比65.6%)とわが国の入超となつた。

また,わが国は,モルディヴの漁船動力化計画のために1.5億円の贈与を約束した(75年1月)。

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(7) ネ パ ー ル

(イ) 内 外 情 勢

 (a) 政治・経済の状況

(i) ビレンドラ国王は,74年中を通じ引続きパンチャーヤット体制(ネパール式議会)の基盤強化を図るとともに,国内経済開発計画の推進に努めている。政府は74年3月のリジャル内閣改造に際し,「内務・パンチャーヤット省」を内務省及びパンチャーヤット省に分け,パンチャーヤット大臣に実力者を任命する等現体制の強化を図つた。それと同時に,憲法改正委員会を設置する等現体制の改革に着手する姿勢も示した。他方,旧ネパール・コングレス党指導者を中心とする体制批判派は隠然たる勢力を有しており,反政府分子による破壊活動が東部のインドとの国境地帯で散発したが,政府の治安対策の強化により事なきを得,75年2月には,国家と国王の威信をかけたビレンドラ国王戴冠式が60カ国代表の参列を得て盛大に挙行された。
(ii) 74年のネパール経済は,国民総生産の6割を占める農業生産で豊作をみたため,国内総生産は前年に比し1割近い上昇を示した。しかし,インドからの輸入価格の高騰の影響を受け,国内消費物価は依然として上昇を続けており,また石油・セメント等基礎資材の入手困難が続いたため,インフラストラクチュア整備を主眼とする第4次経済開発5カ年計画は大幅な後退を余儀なくされた。
 国際収支は,貿易収支の入超にもかかわらず,観光収入の増加等で順調であり,外貨準備も増加した。

 (b) 対 外 関 係

ネパールは,伝統的な対外政策である非同盟中立政策に基づき,非同盟諸国との友好関係維持に努めており,74年にはチトー・ユーゴスラヴィア大統領とリジャル・ネパール首相の相互訪問があつた。

インドとの関係では,インドのシッキム連合化に反対する反印デモがカトマンズで発生(9月)したため,インドとの間に摩擦が生じた。その後両国首脳会談等を通じ両国関係の調整が図られたが,特に進展をみなかつた。

中国との関係では,74年5月にチベット貿易拡大を含む貿易支払協定が調印されたほか,スポーツ交流等を通じ両国関係は着実な発展をみた。

(ロ) わが国との関係

 75年2月に行われたビレンドラ国王戴冠式には,わが国より皇太子同妃両殿下が出席された。

 

(a) 貿 易 関 係
 わが国との貿易は漸増傾向にあり,74年のわが国の対ネパール貿易は輸出1,381万ドル,輸入257万ドルでわが国の大幅出超となつている。主要輸出品は織物,鉄鋼,化学工業製品,乗用自動車で,主要輸入品は,薬草,黄麻,牛黄である。
(b) 経済・技術協力関係
 わが国は,74年10月に1億780万円のKR食糧援助(灌漑用ポンプ等)を約束したほか,11月東部ネパールのジャナカプール県農業開発計画のための技術協力協定に署名した。またわが国は西部ネパールで行つている医療協力を増進させるため医療協力調査団(8月)を派遣した。
更に74年中に,水力電気・農業関係専門家等34名,協力隊員22名を派遣し34名の研修員を受入れた。

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(8) ブ ー タ ン

(イ) 政     情

 ブータンは,6月に戴冠式を行つたジグメ・シンゲ・ワンチュク国王の下に,引続きインドから経済・技術援助を得て,インフラストラクチュア整備に重点を置く第3次5カ年計画を推進している。対外関係では,インドとの間に特殊関係を維持しており,12月ワンチュク国王はインド及びバングラデシュ両国を公式に訪問した。また今まで外国人旅行者に対しては厳重な入国制限を行つていたが,9月より団体旅行に限り入国を認めることとした。

(ロ) わが国との関係

 ワンチュク国王戴冠式には,わが国より新関駐インド大使が特派大使として参列した。

 わが国は,国際協力事業団を通じ,農業園芸専門家1名を派遣し農業開発に協力したほか,5名の研修員を受入れた。

 

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