第1節 各国との関係の増進
1. アジア・大洋州地域
(1) アジア一般
1974年のアジア情勢は,従前からの紛争や緊張が依然解消せず,不安定な様相が続いたが,その中で米中接近とこれに続く日中国交正常化以来徐々に始つた体制の異なる諸国間の「対話」の動きが,ある程度進む現象をみた。すなわちインドシナ半島においては,武力紛争が続き,朝鮮半島の緊張も解消されるには至らなかつたが,日中間では実務関係の進展があり,またマレイシアの対中国交樹立も行われた。
75年に入り,インドシナ情勢は,急激な展開を見せ,4月にはヴィエトナム,カンボディアにおいて共産勢力下の政権が成立し,アジア情勢はあらたな様相を呈するに至つた。
アジア諸国の多くは人種,宗教,言語等複雑な社会的背景を有しており,経済的基盤もいまだ十分確立されておらず,アジア地域全体としての連帯感も乏しいため,この地域の政治的安定を達成するには様々の困難がある。さらに石油危機以来の国際経済の激変も,これら諸国の国民経済に深刻な影響を与えている。
わが国は,このようなアジアの情勢に十分留意しつつ,平和と安定がこの地域に定着することを念願し,そのためにできる限りの貢献を行うとの立場から幅広い外交活動を行なつた。すなわち,アジア諸国の自主的な国造りに側面から貢献するため,経済協力の質,量の改善につとめ,二国間,多数国間双方において積極的な協力を行つた。更に,多様かつ流動的なアジア情勢に対処するため,体制の異る国も含めて,アジアのあらゆる国々との間に安定的な関係をできる限り確保するとの方針のもとに,努力を積み重ねて来た(たとえば,対北越国交樹立後の大使館開設等に関する話し合いの進展,中国との各種実務協定の締結等)。
また,近年東南アジア地域において,この地域の安定と繁栄という共通の目標を目指してASEANを通じる連帯強化の動きが活発化していることは,わが国としても歓迎するところであり,このような東南アジア諸国の自主的努力を高く評価し,同機構の将来の発展を期待をもつて注目している。
また,近年民間企業の海外進出に伴い,アジア諸国の一部に見られるようになつた対日批判については,わが国としては,相手国政府とも十分な話し合いを行うとともに,わが国民間企業側の協力を得て,相手国側に真に歓迎される活動を長期的視野から進めていくとの方針で努力している。
また,74年には東南アジア青年の船の派遣(10月),東南アジア日本留学者の集いの開催(11月)等を実施し,国民各層における相互間の理解の増進に努めた。
(イ) 74年の日韓関係は,前年の金大中氏事件のわだかまりが取り去られぬまま幕を開け,4月大統領緊急措置違反容疑で日本人2名が逮捕され,更に8月在日韓国人による朴大統領狙撃事件を契機に韓国内で大々的な反日デモが発生し,9月初めには在韓日本大使館がデモ隊に襲撃され日章旗が引きちぎられるなど多事多難であつた。また,例年開催されてきた日韓閣僚会議もついに開催されないままに終つた。前記2事件の発生と両国内における反応振りは,両国の国情の違いを浮き彫りにしたとも言え,日韓関係の調整の難しさを印象づけた。
もつとも韓国の反日気運は,9月中旬椎名特派大使の訪韓により鎮静化するに至り,更に75年2月,緊急措置違反容疑で韓国大法院に上告中の日本人2名が,「日韓友好関係を考慮して」韓国政府の採つた措置の結果として帰国したが,これは日韓関係のわだかまりの一つを取り除くことになつた。また上記2事件発生以来,わが国政府は韓国への日本人渡航者に対し韓国事情について特に注意を喚起していたが(大使館襲撃事件以後は不要不急の韓国旅行の自粛を要請),75年2月に解除した。
このように74年を通じ極端に悪化していた日韓関係は徐々に改善の方向に向うこととなつた。
74年における日韓関係の波乱は,経済分野での日韓交流にも影響を及ぼした。石油危機により加速化された世界的な景気の後退の中で,日韓貿易が往復40億ドルを越し,前年比42%増の伸び率を示したのは注目に値するが,日本の対韓民間投資は8月以降急激に落込み,74年を通ずる実績は前年の1/3の水準にしか達しなかつた。政府レベルでは,日韓貿易委員会が10月に開かれたほか,研修生の受入れ,専門家の派遣等の技術協力も例年通り実施されたが,資金協力では313億円の円借款を始めいずれも前年約束された案件の成文化に止まり,新規案件は75年3月末に至るも約束されていない。
(ロ) わが国は,北朝鮮との間には国交がないが,文化・スポーツ・経済等の分野における交流は近年相当拡大しており,74年の貿易は,往復貿易額で約3.6億ドルと前年の倍以上の実績を示した。また10月東京で開かれたIPU(列国議会同盟)総会に参加するため,北朝鮮議員団が入国した。
(イ) 実務面での枠組作り
わが国は国交正常化以来,日中間の人的,物的交流と各種実務関係の基礎をなすものとして,貿易,航空,海運,漁業等の実務協定の締結促進に意を用いてきた。その結果,まず74年1月5日,北京で大平外務大臣と姫外交部長との間で貿易協定が署名され,日中間の貿易は長期的,安定的な基礎の上に運営されることになつた。
航空協定については,73年中に行つた予備交渉を受けて,74年初頭大平外務大臣訪中の際,日中両国首脳の間で意見交換が行われ,その後,3月21日わが国政府の実務担当者が訪中し,約1カ月に及ぶ交渉の末,4月20日に航空協定の署名が行われた。この結果日中国交正常化2周年に当る74年9月29日,両国間の定期航空路が開設され,従来まる2日かかつていた東京-北京間の交通路は約5時間に短縮されることとなり,両国間の往来は飛躍的に容易になつた。
海運協定は,73年に行われた案文の交換を受けて,74年7月8日から8月1日まで中国代表団が来日して東京で交渉を行い,更にその後は北京で条文の表現等技術的な詰めが行われた結果,11月13日,東郷外務事務次官と折から来日した韓念龍外文部副部長との間で本協定の署名が行われた。
日中共同声明で締結が予定されている実務協定の中,ただ一つ残された漁業協定については,74年5月24日から6月20日まで北京において,訪中した日本側代表団と中国側代表団との間で交渉が行われたが,妥結には至らず一旦休会,75年3月1日より東京において交渉が再開された。
以上のように,74年中に4つの実務協定のうち3つが締結され,日中両国間での実務面での枠組作りは大幅に進展した。
(ロ) 日中平和友好条約
実務関係の進展に伴い,日中共同声明第8項で予定されていた平和友好条約交渉を開始する気運が高まり,具体的には,74年11月の韓念龍中国外交部副部長来日の際に,東郷外務事務次官と同副部長の間で,条約の締結に関する予備的話し合いが行われた。
(ハ) 政府間の対話の増進
日中国交正常化後日中両国政府間の対話が着実に深まつているが,その一環として,74年は政府要人の相互訪問も増加している。わが国からは同年初頭大平外務大臣が訪中し,また中国側から11月韓念龍中国外交部副部長が来日したことは,その典型的な例である。これらの機会に,日中両国政府は,今後とも対話の幅を広げていくとの合意をみた。
(ニ) 各種交流の促進
政府は以上の如き努力のほかに,両国間の友好関係を促進するためには,相互理解を深めることが不可欠との認識に立ち,政府・民間を問わず,各種分野で交流の促進につとめてきた。その一環として,75年3月から吉川幸次郎京都大学名誉教授を団長とする政府派遣の学術文化使節団が訪中した。
74年度中のわが国のインドシナ地域に対する外交活動のなかで,特筆すべきものとして以下のものをあげることができよう。
(イ) インドシナ緊急援助
わが国は,インドシナ地域の戦後復興と開発のために応分の援助を行うとの立場より,73年度に引続き74年度予算に計120億円のインドシナ無償援助予算を計上し,これまで同予算よりラオスの外国為替安定基金(FEOF)に360万ドル(約11億円),カンボディアの外国為替支持基金に700万ドル(約21億円),等の援助を行つたほか国際赤十字のインドシナ救援グループ(IOG.現在Indochina Bureauと名称を変更)に対し,6億円の拠出を行つた。IOGはインドシナ地域における難民・戦争被災者等に対する救援活動を行つており,その援助対象地域には南越臨時革命政府,カンボディア民族連合王国政府それぞれの支配地域も含まれている。
(ロ) 北ヴィエトナムとの交渉
わが国はヴィエトナム民主共和国(北ヴィエトナム)との間に73年9月21日外交関係を設定した後、大使館開設及び無償援助供与に関し,ラオスのヴィエンチャンにおいて先方政府と話し合つてきたが,75年3月初め原則的合意が成立した。これに引続き,3月末北ヴィエトナム経済使節団が訪日し,当面の50億円を目途とするわが国よりの無償援助の具体化のための話し合いを行つた。
(ハ) 国連におけるカンボディア問題
わが国は,カンボディア問題はカンボディア人自身が外部よりの干渉なく平和裡に解決すべきであるとの基本的立場から,74年秋の国連総会において,アジア・太平洋諸国とも密接に協議しつつ,カンボディア問題の平和的解決を意図した決議案を推進した。その結果,この決議案は賛成56,反対54,棄権24により採択された。
わが国と東南アジア諸国との友好関係は,田中総理大臣の各国訪問,各国要人の来訪等を通じ,74年中に一段と密接になつたが,関係緊密化に伴つての摩擦も表面化し,これへの対応につき検討が重ねられ,いわばわが国とこれら諸国との関係に,新しい風が吹いた年であつたといえよう。
(イ) 田中総理大臣の訪問
わが国とこれら諸国との間に,平和と繁栄を分かち合う良き隣人関係を確立することを目的として,田中総理大臣は74年1月にASEAN5カ国を,また11月にはビルマを公式訪問し,これら各国首脳との意見交換を通じて,友好親善関係の促進が図られた。
(ロ) 対話の推進
わが国と東南アジア諸国の間の相互の理解を推進するためには,幅広い接触を行うことが大切であるとの観点から,日比経済合同委員会,日本インドネシアコロキアム,東南アジア青年の船等の事業を強力に推進・支援した。
(ハ) 経済関係の調和
これら諸国,特に非産油国は,石油危機及び世界的インフレの影響を強く受けており,わが国に対しても,経済協力,企業活動,民間投資及び中間原材料供給等,経済的関係の多くの面について,種々の要請がなされ,わが国としても,これら諸国との友好関係の維持発展の見地から,インドネシア,マレイシア,ビルマ,フィリピンに円借款の供与を決定する等,各種の協力を行つた。
わが国と南西アジア各国との関係は,これまで経済及び経済・技術協力関係の進展を基礎に良好に推移している。わが国は,南西アジア地域のいずれの国とも友好関係を維持増進することを希望するとともに,この地域の安定と発展のために,できる限りの協力を行いたいとの考えである。74年度において,わが国はかかる考え方に基づき,主として次のような外交努力を行つた。
(イ) インドとの関係では,11月ニューデリーにおいて第9回日印事務レベル定期協議が開催された。また,わが国は74年度においてインドに対し,70億円の商品援助及び110億円のプロジェクト援助を約束するとともに約121億円の円借款債務繰延べを行つた。
(ロ) パキスタンとの関係では,74年12月わが国はアージズ・アーメド・パキスタン外務兼国防担当国務大臣を政府賓客として招待し,同大臣との間で日パ両国関係増進のための方策を話し合つた。また,74年6月わが国は,62億円の第11次円借款の供与を約束したほか,75年3月に旧東パキスタン向プロジェクトに係る債務約245億円につきパキスタンの債務を免除することを約束した。
(ハ) バングラデシュとの関係では,74年1月永野重雄日本商工会議所会頭を団長とする政府派遣経済使節団を同国に派遣した。また,74年3月に,第1次円借款として90億円の商品援助及び75年3月には第2次円借款として115億円の商品援助の供与を約束したほか,無償援助として,75年3月までに約19億円相当の機材等の贈与を約束した。更に,KR食糧援助として75年3月までに約32億円相当の米の供与を約束した。
(ニ) スリ・ランカとの関係では,第9次円借款として42億円の供与を約束するとともに,訓練用漁船購入費として6千万円を贈与した。
(ホ) モルディヴに対しては,漁船動力化計画のために1億5千万円の贈与を約束した。
(ヘ) ネパールとの関係では,74年10月1億780万円のKR食糧援助を約束した。
わが国と豪州,ニュー・ジーランド関係では,74年10月末から11月にかけて田中総理大臣が両国を公式訪問し,わが国とこれら両国との幅広い関係を促進する上で大きな成果をもたらした。また,日豪両国の基本関係を律することとなるいわゆる「奈良条約」の締結交渉が行われた。
南太平洋地域においては,73年12月に自治を達成し,独立を間近に控えているパプア・ニューギニアの動向が注目された。わが国は75年1月,パプア・ニューギニアの首都ポート・モレスビーに総領事館を開設した。
その他の南太平洋島嶼国家(フィジー,ナウル,トンガ,西サモア)とは,政治,経済,人的往来などを通じ幅広い友好関係の促進がはかられた。
(1) 米 国
(イ) 田中総理大臣の訪米
田中総理大臣は74年9月の中南米・カナダ訪問の途次,21日ワシントンに立寄り,フォード大統領と会談した。この会談は,8月9日のフォード新政権誕生という新しい事態を迎えて,日米両国の首脳がなるべく早く顔をあわせることが望ましいとの双方の希望により実現したものであり,両国首脳は,広く日米関係全般の展望につき意見交換を行い,日米関係が両国の外交の主要な礎であること及び日米両国がエネルギー,通貨など重要な世界の経済問題につき協力していくことの必要性があること等を確認した。フォード大統領就任後約1カ月半で日米の首脳が膝を交えて非公式な雰囲気の中で意見交換を行つたことは,ここ数年来の日米間の「間断なき対話」の一環として極めて有意義なことであり,かかる話し合いを通じて「世界の中の日米関係」との見地に立つ日米友好協力関係が一層その幅と厚みを増していると言えよう。
(ロ) フォード大統領の訪日
フォード大統領は,74年8月9日の就任後いち早く日本政府よりの訪日招待を受諾し,11月18日から22日までわが国を訪問した。同大統領は,わが国滞在中,皇居における天皇皇后両陛下との御会見,宮中晩餐,田中総理大臣との2度にわたる首脳会談等のほか,京都観光等各種行事を精力的にこなし,この歴史的な訪日を極めて成果あるものとした。
アメリカの現職大統領の訪日は,百年をこえる日米修好史上初めての出来事であり,そのこと自体,極めて有意義かつ画期的なことであつた。また,このたびの訪日は,フォード大統領にとつて初めての海外訪問となつたが,このことは,フォード新政権の日本重視の姿勢を反映したものと言えよう。
フォード大統領訪日の成果として,まず,儀礼面において,日本国及び日本国民統合の象徴であられる天皇陛下が,フォード大統領と迎賓館における歓迎式に始まり,御会見,宮中晩餐,フォード大統領主催晩餐会,歓送式ど5回にわたり親しくお話される機会が持たれたことがあげられよう。これらの模様は詳しく報道され,日米双方の国民の間で強い関心を呼んだが,このことは両国民間の親善増進にとつて極めて喜ばしいことと言えよう。また,御会見の際にフォード大統領より天皇陛下に対し改めて御訪米招請が行われ,従来より懸案となつていた天皇陛下の御訪米が最終的にきまつたことは大きな成果であつた(両陛下は75年秋米国を公式訪問される御予定である)。更に,フォード大統領は,各種行事におけるわが国各界の人々との接触を通じて日本及び日本国民に対する理解を深める一方,その飾り気のない実直な人柄で直接接した人々に大きな感銘を与えたのみならず,新聞及びテレビを通じ日本国民を魅了したが,このことは,日米国民間の友好親善関係にとつて長く貴重な財産となるであろう。
他方,実質面での最大の成果は,首脳レベル及び外相レベルで堀り下げた意見交換が行われたことであろう。首脳会談は2回にわたつて計約3時間行われ,また,木村外務大臣とキッシンジャー国務長官の会談は,フォード大統領滞日中1回,フォード大統領離日後キッシンジャー国務長官がウラジオストックから中国訪問への途次及び中国からの帰途東京に立寄つた際と計3回延べ6時間以上にわたつて行われた。
両会談では,まず,日米双方にとり日米友好関係の維持が重要であることを確認しあつた後,国際問題と2国間の懸案につき意見交換が行われた。国際問題ではなかんずく,日米双方が目下大きな関心を持つているエネルギー問題と中東情勢についてかなりの時間を割いて話し合われ,特にエネルギー問題は繰り返し取り上げられ,74年2月のワシントン会談以降大きな進展をみせている消費国間協力を今後いかなる形で推進していくべきか,また,生産国との協力をいかに進めていくべきか等について話し合いが行われた。
2国間の問題としては,核問題,漁業問題,農産物の対日輸出問題,日本の牛肉輸入停止問題等がとりあげられたが,核問題については,田中総理大臣より日本の特殊事情(国民感情,非核3原則等)につき説明し米国側の理解を求めたところ,フォード大統領は日本国民の核兵器に対する特殊な感情を深く理解しており,安保条約上の諸約束を忠実に履行する旨述べた。また,国民生活に密接な関係を有する米国の農産物の対日輸出問題につき,フォード大統領はこれからも十分な供給を続ける旨改めて述べた。
このように,フォード大統領訪日の際の日米首脳,外相会談では,単に日米2国間の諸懸案のみならず,広く「世界の中の日米関係」との見地に立つて,日米両国が関心を有する国際政治,経済問題の解決のために両国が果していくべき役割につき真剣な意見交換が行われ,首脳会談後の共同声明において,かかる広い視野に立つた日米間の将来の関係を律する諸原則が明確に宣明されたことは極めて有意義なことであつた。
-田中総理大臣の訪加-
田中総理大臣は,メキシコ,ブラジル両国歴訪及びワシントン立寄りの後,9月23日から26日まで,トルドー首相の招待によりカナダを公式訪問し,オタワ,トロント,ヴァンクーヴァーを訪問した。わが国の総理大臣の訪加は,61年に池田総理大臣がディーフェンベー力ー首相の招待により訪加して以来13年振りのことであつた。
カナダのトルドー政権は,従来からの米国との極めて緊密な関係を中心とする外交政策を見直した結果として,日本等アジア・太平洋諸国及び欧州諸国との関係緊密化を促進し,外交の多角化をはかる政策をとつており,かかる見地から田中総理大臣訪加に大きな期待を寄せていた。
田中総理大臣とトルドー首相との2度にわたる会談では,従来主として経済・貿易面での交流に限られていた日加間の交流を,政治,文化,科学技術などの分野においても拡充し,もつて「日加関係の基盤を一層幅広く,かつ深みのあるものとする」との共通の基本的考え方に立つて諸々意見交換が行われ,特に,このために日加間に設けられている日加閣僚委員会をはじめとする種々の協議の場を一層活用することが合意された。また,この会談において田中総理大臣よりトルドー首相に対して訪日招請がなされ,同首相は,これを受諾した。
政治面では,両首脳は,先進工業国間の協力,両国が深い関心を持つているアジア・太平洋地域の情勢,核軍縮を含む軍縮問題,国連の場における協議の問題などについて意見交換を行い,広範な分野にわたつて共通の認識を新たにした。
また,経済関係では,多数国間及び日加両国間の諸問題などについて意見交換が行われた。まず世界経済問題については,特にインフレ,経済成長の大幅な落ち込み,国際収支上の困難にどう対処すべきかなどの点につき話し合いが行われたが,両首脳とも両国がこれらの問題の解決のため積極的な貢献を行うべきである旨意見の一致を見た。また,2国間の問題では,両国間の相互依存関係を,いかなる方向で発展させることが望ましく,かつ,利益となるかを中心に,カナダの対日輸出の構成(加工度)問題,一次産品(鉱物,エネルギー資源,農林産品等)の対日輸出をめぐる問題,外資政策などのほか,民間航空,科学技術,原子力,日加通商協定,海洋法会議等の諸問題について討議された。
両国間の協力関係をより拡大し,かつ,充実したものとする観点から,文化面での交流強化の問題についても首脳会談で討議された。両首脳は,相互理解を増進させるため,あらゆるレベルにおける両国間の意思疎通を促進する努力が必要であることに合意し,日加双方で約百万ドルからなる基金を創設し,主としてカナダにおける日本研究及び日本におけるカナダ研究の発展のために使用することとなつた。また,両国間の文化交流を一層拡大するため文化協定締結の交渉が行われることになつた。
以上のとおり,田中総理大臣のカナダ訪問は,日加関係にとり画期的なことで,これにより両国間の緊密化と協力関係の基盤を築くことに成功したのは今次訪加の大きな成果と言えよう。
わが国と中南米地域の間には,深刻な政治問題が存在せず,伝統的に友好関係が保たれているが,互恵的かつ安定的な相互協力関係をより一層強化拡充することが中南米地域に対するわが外交の基本的課題であり,わが国の外交努力は常にこのような認識に基づき行われてきている。
74年の中南米諸国においては大きな政治的混乱も見られず,国際経済環境の悪化にもかかわらず国内経済社会開発が引き続き大いに促進された。国内経済社会開発の促進を通じて国民の福祉向上と国力の充実を計り,もつて国際的地位も強化することが,中南米諸国の現下の最優先的政策目標であるが,世界政治経済の多極化に伴い中南米諸国は開発途上諸国内における指導的役割を強く意識しており,また従来の対米依存からの脱却を計るため,日本・西欧等の先進諸国との幅広い諸関係の緊密化に努力している。
このような情勢下にあつて近年日本と中南米諸国の関係には大きな盛り上りを見せており,人物交流,経済関係,文化交流等各般にわたつて幅広い交流が活発化している。
かゝる諸関係緊密化を背景に,74年9月,田中総理大臣がメキシコ・ブラジル両国を訪問した。わが国総理大臣の中南米訪問としては1959年の岸総理大臣以来のこともあり,総理大臣は両国官民の大歓迎を受けた。田中総理大臣は両国大統領と数次にわたり会談し,わが国と両国との協力関係のみならず広く国際的協力を要する問題全般にわたり卒直にかつ実のある意見交換を行つた。
一方中南米地域からの対日外交積極化の動きも顕著であり,バハマ連邦のピンドリング首相,トリニダッド・トバゴのウィリアムズ首相,バルバドスのタルマ副首相,コロンビアのパストラーナ前大統領ほか閣僚及び使節団の訪日が相次いで行われた。
経済関係では,74年のわが国の対中南米貿易は輸出入でそれぞれ前年を84%及び39%上回る伸びを示し,またわが直接民間投資は近年急激に増加をみせ,73年以来発展途上地域中最大の投資先となつており,その累計額は74年末で投資総額の約20%に相当する24億ドルに達している。
このような活発な経済交流は,他の開発途上地域と対照的にわが民間企業の活動に負うところが大きいが,これは,中南米経済力の着実な伸長,80万人に及ぶ日系人社会の存在と各地での日系人に対する高い評価,更には豊富な未開発資源を有する本地域と高度の技術を持つわが国が経済的相互補完関係にあること等の理由に基づくものであるが,同時にわが外交による伝統的友好関係の維持,相互理解の増進,政府ベースでの経済技術協力,文化交流の促進の諸努力の成果でもある。
-日欧関係の現状と問題点-
近年わが国と西欧地域との関係は双方の国際的重要性の向上に伴い,政治・経済面にわたり緊密化の傾向を示している。わが国と西欧諸国は,米国と並び先進工業民主々義国の主要な柱であり,国際政治経済上の重要な諸問題に対処するため,両者間の協力強化の必要性はますます高まつている。
74年は,流動的な国際政治情勢と石油危機がもたらした国際経済の混迷の中で,新たな調和のとれた国際関係の形成を目指し,国際的努力が行われた年であるが,わが国と西欧諸国との間には,政治・経済分野にわたる対話と協調が,二国間或いは多数国間協議の場を通じて,極めて緊密に行われた。
二国間の首脳交流については,田中総理大臣がポンピドゥ仏大統領国葬出席のため訪仏した際に,英,独,仏首脳と会談したほか(4月),三木副総理大臣の仏,英両国訪問(4,5月),木村外務大臣の欧州大使会議出席を兼ねての訪英(10月),更には中曾根通産大臣の訪英(1月)が行なわれた。他方,西欧諸国よりは,定期協議等のため独,仏,スウェーデン,ノールウエー,ベルギー各国外相が訪日し,わが国との二国間関係のみならず広く主要国際問題全般につき意見交換が行われた。更に,英産業開発大臣も73年秋の田中総理大臣訪英のフォロ-アップのため訪日した。
しかしながら,日・西欧関係の現状は,双方の世界政治,経済における地位に比し,未だ十分満足すべきものではなく,一層の緊密化への努力が必要である。
経済の分野においては,わが国の一部特定産品の輸出急増に対する西欧諸国の警戒心,相当数の対日輸入制限品目の維持等日欧経済交流拡大にとつて種々の困難がいまだ存在しているが,わが国としては,これら障害の克服に努め,日欧経済関係を拡大均衡の形で発展させるため引き続き地道な努力を行つてゆく考えである。また,科学技術・エネルギー面,第三国における開発協力等幅広い分野で具体的な協力関係を促進していくべきであろう。
政治面についても,西欧諸国は,自由世界の重要なメンバーであること,また欧州共同体において,対中東政策,欧州安全保障協力会議,サイプラス問題をはじめとして重要な国際政治上の諸問題に関し意見調整を図る等紆余曲折を経つつも,究極的には政治統合を目指し,域内政治協力の強化を推進しており,今後更に国際的発言力の向上に努めていくものと思われること等に鑑み,わが国としては,あらゆるレベルでの交流を増大し,緊密な協議を行つてゆく必要があろう。
また,日・西欧間の緊密な関係が確固たる基礎の上に築かれるためには,日欧双方の文化,国民性,伝統に対する深い理解の増進が不可欠であり,文化交流の一層の活発化が期待される。その意味で74年9月の在ハーグ仏大使館襲撃事件等一連の日本人過激派グループの活動により,わが国が戦後地道に行つてきた欧州における対日理解増進の努力を少なくとも一時的にせよ逆戻りさせる恐れなしとしない事態に立ち至つたことは残念であつた。
(1) ソ 連
(イ) 日ソ関係全般
ソ連はわが国と政治理念,社会体制を異にする国であるが,わが国にとつて重要な隣国の一つである。わが国はソ連との間に互恵平等を基礎とした永続的な善隣友好関係を築き上げることを対ソ政策の基本としているが,このような日ソ関係の確立は,日ソ両国民の共通の利益に応えるのみならず,極東の平和と安定にとり不可欠の要請であると考える。
このような基本的立場に立つてわが国は日ソ関係の発展に努めてきたが,56年の国交回復以来,両国関係は経済・貿易,文化,人的交流等幅広い分野にわたつて順調に進展している。とくに近年,経済・貿易の分野における関係の進展は目ざましく,56年当時約400万ドルに過ぎなかつた貿易高は74年には往復で25億ドルを越えるに至り,またシベリア開発協力については69年以降いくつかの開発プロジェクトが実現した。特に最近におけるプロジェクトはいずれも大規模なことが特徴的である。他面,日ソ間の人的交流の面では,国交回復以来両国の要人を始め各分野の人々の往来が増大して両国間の相互理解の増進に寄与している。
以上のように,日ソ関係は諸般の分野において進展しているが,他方において日ソ間には未だ解決を見ていない重要な問題がある。その最大のものは,周知のとおり北方4島たる歯舞群島,色丹島,国後島,択捉島の返還を実現して日ソ平和条約を締結する問題である。この北方領土問題については,73年10月の日ソ首脳会談において第2次大戦の時からの未解決の問題である旨が確認されている。
上記首脳会談の成果を踏まえ,75年1月,宮澤外務大臣はソ連を訪問し,グロムイコ外務大臣との間で平和条約締結のための継続交渉を行つたが,その概要は下記(ハ)のとおりである。
加えて,日ソ間には領土問題が未解決で平和条約が結ばれていないことに起因するいくつかの問題がある。これらは,北方水域における本邦漁船の相次ぐ拿捕事件や北方領土等にある日本人の先祖の墓地に対する参拝の問題等である。
更に,両国間では,さけ,ます,かに,つぶ等の漁獲量を定める交渉が毎年行われているほか,日本近海におけるソ連船の操業問題,未帰還邦人の帰国問題等が存在する。これらの諸問題については,外交チャネルを通じ常時その解決に努力しており,また外務大臣等両国の要人間の話合いが行われる際には,問題の根本的解決が図られるよう努力している。
(ロ) 日ソ首脳間の書簡の交換
(a) 74年3月,田中総理大臣は,2月14日に在日トロヤノフスキー大使を通じて総理大臣に伝達されたブレジネフソ連共産党書記長のメッセージに対する回答として,ブレジネフ書記長に宛て書簡を発出し,同書簡は,3月21日在ソ重光大使より直接ブレジネフ書記長に手交された。田中総理大臣は,この書簡において,日ソ関係全般に対する日本政府の基本姿勢を再確認するとともに,平和条約交渉を含む今後の両国間の外交日程の進め方などついて日本側の考えを明らかにした。またブレジネフ書記長との間の対話を今後とも継続することについて総理大臣の意向を表明するとともに,ブレジネフ書記長に対する訪日招待を再確認した。 | |
(b) 4月11日,田中総理大臣は在日トロヤノフスキー大使を通じてブレジネフ書記長の総理大臣あて書簡を受領した。この書簡は,上記(a)の平和条約締結を含む日ソ関係の進め方に関する日本側の考えに対し,ソ連側の態度を表明することをその内容としたものであつた。 | |
(c) 10月16日,田中総理大臣は,トロヤノフスキー大使を通じてブレジネフ書記長の書簡を受領した。書簡は,日本との友好関係促進に関するソ連側の方針を再確認したものであり,また日ソ首脳間の接触を重視している旨述べたものである。更に,同書簡において,ブレジネフ書記長は,木村外務大臣が日ソ平和条約交渉の継続のためソ連を訪問されることを期待する旨述べた。 | |
(d) 75年1月17日,ソ連を公式訪問中の宮澤外務大臣は,ポドゴルヌイ最高会議幹部会議長と会談した際,三木総理大臣のブレジネフ書記長あて書簡をポドゴルヌイ議長に手交し,同書記長への伝達を要請した。この書簡は三木総理大臣がソ連邦首脳に対して発出した最初の書簡であるが,同書簡において三木総理大臣は,わが国の外交政策が不変不動であり,従つてソ連との善隣関係の発展を願うわが国の対ソ政策の基本もまた変らない旨述べるとともに,日ソ間における未解決の問題を解決し平和条約を締結することの重要性を強調した。 |
(ハ) 宮澤外務大臣の訪ソ
宮澤外務大臣は,75年1月15日から17日まで,ソ連政府の招待によりソ連を公式訪問した。今回の外務大臣訪ソは,73年10月モスクワで日ソ首脳会談が行われた際に,日ソ両国間で平和条約締結のための交渉を継続する旨合意したことに基づいて行われたものであり,従つて,その主たる目的は北方領土問題を解決して平和条約を締結するための交渉を継続することであつた。またこの機会に,両外務大臣の間で,日ソ間のその他の諸懸案についても意見交換が行われた。
(a) 北方領土問題(平和条約交渉)
宮澤外務大臣は,田中総理大臣訪ソの成果を踏まえ,合計4回にわたるグロムイコ外務大臣との会談を通じて,わが国固有の領土である北方4島の返還を強く求めた。これに対して,グロムイコ外務大臣は,領土問題は解決済であるとの態度は示さなかつたものの,日本側に対しこの問題を現実的態度で解決すべきである旨主張した。宮澤外務大臣は,揺ぎない日ソ善隣関係を確立するためには領土問題という両国間のわだかまりを除去し平和条約を締結することが不可欠であり,これこそが現実的態度であるとして重ねてソ連側の決断を求めたが,ソ連側の北方4島返還に対する態度は依然として固かつた。 | |
交渉の結果,日ソ双方は,第2次大戦の時からの未解決の諸問題を解決して平和条約を締結するという73年10月10日付日ソ共同声明の「当該部分」を再確認するとともに,平和条約を早期に締結することが望ましいとの共通の認識の上に立つてこの問題につき引続き交渉を行うことに合意した。また,グロムイコ外務大臣は,日本国政府の招待により75年中に訪日することとなり,上記の諸点と共にその旨「共同発表」に明記された。 |
(b) 日ソ間のその他の諸問題
(i) 安全操業問題
宮澤外務大臣より,北方水域における日本人漁夫による操業の安全を確保し拿捕という不幸な事件をなくすため,平和条約締結までの暫定措置として,人道的立場よりこの問題を解決するための交渉を促進するようソ連側の善処を促し,同時にソ連に抑留中の日本人漁夫全員の釈放を強く要請した。これに対し,グロムイコ外務大臣は安全操業問題に関する交渉を再開する用意がある旨述べ,他方,抑留漁夫の釈放については,1月17日,宮澤外務大臣とポドゴルヌイ最高会議幹部会議長との会談の席上,ポドゴルヌイ議長より抑留漁夫全員を釈放する旨のソ側決定につき通報があり,その結果,15名の抑留漁夫は1月末~2月初にかけて釈放され帰国した。 | |
(ii) 日本近海におけるソ連船の操業問題
近年,日本近海に多数のソ連漁船団が出漁し,そのためわが国の漁民が漁具等に大きな被害を蒙つているという事件が続出している。宮澤外務大臣は,グロムイコ外務大臣に対しこの事実を指摘するとともに,被害を事前に防止するためソ連側が操業を自粛するよう要請したところ,グロムイコ外務大臣はわが方の要望を関係方面に伝達する旨約束した。 |
(iii) 墓参及び未帰還邦人問題
宮澤外務大臣より,北方4島,樺太及びソ連本土への墓参が日本側の希望通り実現できるようソ連側の人道的配慮を要請するとともに,他面,戦後引き続きソ連本土及び樺太に居住しかつ帰国を希望する邦人の帰国問題についても,人道的見地からソ連側の善処な要望した。これに対し,グロムイコ外務大臣は,墓参については日本側より具体的な要請があれば検討する用意がある旨,また未帰還邦人についてはそのような邦人がいればその帰国を妨げず,帰国希望者からの具体的要望があれば前向きに検討する旨,それぞれ回答した。 |
わが国は,東欧諸国と政治,経済,社会体制を異にしているが,外交の基盤を拡大し,多角的な国際関係を促進させるとの基本的な立場に立つて,これら諸国との友好関係の維持促進に努めている。
一方,自国の民生向上,経済発展を図ろうとする東欧諸国は,西側の高度産業技術の導入を必要としており,かつ最近わが国の急速な経済発展に対する認識を深め,わが国との貿易・経済関係の緊密化に積極的な姿勢を示している。これを反映し,わが国と東欧諸国との貿易も年々増加の一途をたどり,74年には貿易額は前年に比し85%と,わが国のグローバルな貿易の伸び,あるいは東欧諸国の全体的貿易の伸びを遥かに上回る伸び率で増大し,10億3千万ドルに達した。もつとも,貿易総額の著しい増大傾向がある一方,わが国の出超幅も増大し,一部の東欧諸国との間にかなりの貿易不均衡を現出するに至つた。政府はこれら諸国からの輸入促進をはかるため,貿易促進ミッションをポーランド及びルーマニアに派遣するとともに,民間で各国別に組織されている経済委員会も,東欧諸国の同称組織との合同会議において,輸入促進あるいは,長期的観点から貿易の均衡に寄与する産業協力プロジェクトについて討議を行つた。
東欧諸国は,現在政治的に安定しており,経済的にも今までのところ世界経済の混乱から比較的に遮蔽されていることもあり,わが国にとつても注目すべき貿易パートナーとなりつつある。
わが国と東欧諸国との間には,貿易関係のみでなく,相互の関心の増大に伴つて各種の人的交流,文化交流も著しく進展しつつあることが注目される。
わが国は,近年中近東地域諸国との関係がますます重要になつているとの認識にたち,本年も引き続き中東地域の平和と安定のため呼びかけを行うとともに,これら諸国と人的交流,文化交流,経済技術協力等を通じ友好協力関係の推進に努めた。
まず,中東紛争については,この紛争が単に局地紛争でなく,世界の平和と繁栄に重大な影響を及ぼすことに鑑み,その公正,永続的かつ早急な解決を図り,中東における永続的平和を一日も早く達成する必要性を国連その他の場で主張し,また第75回通常国会の施政方針演説及び外交演説(75年1月,下巻資料1.(2)及び(3)参照)においても三木総理大臣,宮澤外務大臣よりこの旨訴えた。特に総理大臣演説の冒頭で中東問題に言及したことは,わが国のこの問題の解決に対する強い関心を内外に宣明するところとなつた。また,人的交流については,これまでに比し盛んになり,わが国より政府特使として小坂元外相が1月から2月にかけてモロッコ,アルジェリア,テュニジア,リビア,レバノン,ジョルダン,スーダン,イエメンの計8カ国を訪問したのをはじめ,1月に中曽根通産大臣がイラン,イラクを,また,前尾衆議院議長がエジプト,クウェートを訪問した。更に,10月には奥野文部大臣がモロッコを訪問し,また11月には木村外務大臣がアフリカ5ケ国訪問の一環として,エジプトを訪問した。また75年1月にはエジプト政府の招待で三笠宮殿下が同国を公式訪問された。
他方,中東諸国からも74年1月にはアブデッサラム・アルジェリア工業エネルギー相,ヤマニ・サウデイ・アラビア石油鉱物資源相,2月にはハテム・エジプト副首相,5月にはハッサン・ジョルダン皇太子,シャハラム・イラン皇甥,7月にはシャッテイ・テュニジア外相,8月にはアザウイ・イラク経済相,ララキ・モロッコ外相,10月にはアスルトルク・トルコ内相,12月にはバハルナ・バハレーン国務相,ナイーム・アフガニスタン大統領特使,スウエイニー・オマーン国王最高顧問がそれぞれ来日し,わが国首脳と意見交換を行つた。
このような相互の人的交流の活発化とともに中東諸国との間の各種分野における経済技術協力関係も顕著な進展を見つつある。すなわち74年8月にイラクとの間に,また75年3月にサウディ・アラビアとの間にそれぞれ経済技術協力協定が締結されたほか,74年7月エジプト,12月ジョルダン,アルジェリアに対しそれぞれ円借款供与のための交換公文が締結され,更に現在この他の諸国との間にも各種経済技術協力についての話合が進められている。また,イランとは74年10月査証免除取極が発効した。
74年には従来の中近東15公館に加えて新たにアラブ首長国連邦,ジョルダン王国,カタール国にわが国の大使館(カタールは兼勤駐在)を開設した。また外務本省においても74年度より中近東アフリカ局に書記官を設置し,さらに,従来中近東地域22カ国を中近東課が所掌していたが,75年4月より中近東第2課を設置し(従来の中近東課を中近東第1課とした),22国を分掌することとして体制強化をはかつた。また東京にジョルダン王国及びイエメン民主人民共和国の大使館が設置された。
(1) 74年のアフリカ情勢は,その積年の課題であつた南部アフリカ問題を中心に大きく変動したが,その間わが国の対アフリカ外交も大きく進展し,わが国とアフリカとの関係は新時代に入つたといえる。
その意味で,10月末から11月にかけて行われた木村外務大臣のガーナ,ナイジェリア,ザイール,タンザニア,エジプトのアフリカ5カ国訪問は画期的なものであつた。時あたかもポルトガル植民地問題が終局を迎えつつあつた時期であり,かつ南アフリカが緊張緩和政策に転換したことを示すルサカ会談(196ページ参照)に先行する時期に当り,わが国の現職外務大臣による史上初めてのアフリカ公式訪問にふさわしいタイミングであつた。訪問各国首脳とのハイレベルの意見交換は,主として南部アフリカ問題を中心に日本・アフリカ間の相互理解を著しく増進させるとともに,わが国とアフリカとの間の多角的な協調・協力関係確立への端緒を開いた。
(2) このような成果を挙げ得た背景には,それまでにわが国が逐次とつてきた一連の措置が好ましい影響を及ぼしたことがあることはいうまでもない。すなわち,わが国は従来より,アフリカ人の政治的自由と独立達成にとつて中心課題である南部アフリカ問題の平和的かつ速やかな解決の為にできうる限りの支援を惜しまないとの立場を堅持して来たが,74年を通じこの立場を次に述べるような一連の具体的措置によつて裏付けた。
(イ) 南アとのスポーツ,文化,教育交流を行わないこととし,このような目的でわが国に入国しようとする南アフリカ人に入国査証を発給しないこととした。この措置は関連国連決議に基づいて策定したものであり,6月15日より実施に移した。
(ロ) わが国商品の第3国経由南ローデシアへの流入防止を狙いとした措置を取ることとし,9月11日このための国内措置を実施に移し,関連国連制裁決議遵守をさらに強化した。
(ハ) さらに,8月1日,西欧諸国に先駆けてギニア・ビサオ共和国を承認し,またモザンビーク,サントメ・プリンシペ,カーボ・ヴェルデ,アンゴラ等ポルトガル施政地域において,独立までの架橋として暫定政府が設立された際,祝意を伝達し,植民地解放支持の立場を明らかにした。
(3) アフリカ諸国の経済社会開発に対しては,わが国は引き続き協力を強化した。74年から75年はじめにかけて合計約91億円に上る円借款供与のための交換公文の署名がアフリカ諸国との間で行われた。
サヘル地帯諸国(西アフリカ6カ国-セネガル,マリ,モーリタニア,上ヴォルタ,チャード,ニジェールーを指す)の国民生活を破壊し,空前の被害をもたらした干ばつのための国際救済活動に対しては,国連食糧農業機関へ5億円を拠出した。これは,74年3月のエティオピアに対する干ばつ援助に次ぐものであり,その後ケニアのコレラ流行に対しても人道的見地から緊急援助を行つている。いずれもアフリカ諸国より高く評価され,アフリカにおけるわが国のイメージは向上した。
(4) アフリカとの人的交流による相互理解も強化され,南ローデシア問題解決のために大きな役割をはたしているザンビアのムワンガ外相を75年2月公賓として招待し,南部アフリカ情勢を中心に意見を交換したほか,ガンビアのンジァイ外相等多数の閣僚級要人が訪日し,わが国に対する認識を深めた。