(2) ニクソン大統領の外交教書(日本関係部分仮訳)

                                 (5月3日発表)

 今日,新しい日本が出現している。かかる日本の出現は,1970年代における国際舞台において最も注目すべき新しい特徴の一つであるばかりでなく,第2次世界大戦以来の最も劇的な変化の一つでもある。日本の驚異的な経済躍進はかねてからいいふるされているのに対し,より最近の現象で,今までさほど注目を集めてはいないが,基本的に重要なのは,かかる日本の力が国際政治秩序に与える影響である。これは,日本の政策ばかりでなく,米国の政策,そして日米両国を結びつける盟邦関係にとつての挑戦となつている。

 経済面では日本は超大国(Super Power)である。1968年には,日本は世界第3位の工業国となつており,これから10年以内に第2位の工業国となるかも知れない。1960 年代における日本の年間実質成長率は11.3%と世界の工業国中最大のものであつた。日本は巨大な力を持つた貿易国として,世界に影響を与えている。1968年から1971年にかけて日本の輸出は年間20%以上の成長を示した。1971年には日本の対米貿易黒字は41億ドルという巨額にのぼり,ECに対する貿易黒字は10億ドル,全世界に対する貿易黒字は90億ドルにのぼつた。このような大規模な長期的不均衡が続けば,かならずや国際経済体系の安定と衡平に影響を及ぼすであろう。

 日本は外交および安全保障政策では独自の動きを示さなかつたが,対外経済政策においては,すでに1950年代の半ばから独自の動きを示し始めた。日本の対開発途上国経済援助は米国に次いで第2位であり,その3分の1以上は日本の輸出に、ヒモ付きの借款となつている。日本は,主要な共産主義国とかねてから貿易関係を持つてきており,早くも 1952年から中華人民共和国と民間の(unofficial)貿易関係を持ち,1964年には北京に民間の貿易事務所をもうけるに至り,1971年には,米国の対中貿易がまだとるにたらないものであつたのに対し,日中貿易は9億ドルに達した。1957年にはソ連と通商航海条約を結び,その後これに基づき一連の貿易取極を結んできた。最近数年間にはシベリア資源開発の協力をはじめているが,この経済関係は大きな潜在的力をもつものである。米国が東西貿易を手控えていた間に,日本は経済的つながりを通じて東西の溝を埋めるという自らの役割を見出したのである。

 このような経済関係が政治的つながりに発展して行くことは,特に緊張緩和の新しい雰囲気の中ではさけられないことであつた。日本はここ2年の間に積極的にこの方向に向つてきている。1972年9月の田中総理の歴史的な北京訪問により,全面的外交関係が 樹立され,日中の公式な関係を再び米中関係よりも進んだ段階におくこととなつた一方,日本は依然として台湾との広範な経済関係を維持している。1972年に日ソ両国は,両国間の政治関係の正常化のために,最終的な平和条約および領土問題解決のための話 し合いを再開した。田中総理は訪中にひき続き近くモスクワを訪問することとなつている。日本は今や多方面において主要国との複雑な地政的(geopo1itical)関係の舞台に登場してきている。

 日本は特にアジアにおいてその政治的かかわり合い(political involvement)を急速に,かつ,広範に進めている。他の多くの国と同様に日本は米国に先立つてモンゴルおよびバングラデッシュを承認した。日本は特別な関心を朝鮮半島の安全および外交な らびにインドシナの戦後復興にむけてきており,その間に北ヴィエトナムとの対話を開始するに至つた。日本は今日地域的機構において以前より大きな役割を果している。

 アジアは日本の対開発途上国援助の焦点である。一世代を経て日本の外交は積極的にアジアに関わり合う外交(an active diplomacy of Asian involvement)となつて いる。

 日本はアジア太平洋地域を超えた世界の他地域との交流において,参加者そして競争者としての役割を増大している。私の佐藤・田中両総理との会談のコミュニケは軍備制限および東西外交を含む世界的な問題の討議を反映している。日本の経済力の拡大は日本を欧州およびラ米市場にますます進出せしめてきた。日本の欧州との政治的交流は着実に拡大しており,例えば9月にはヒース首相が日本を訪問する最初の英国の首相として訪日し,田中総理は今秋返礼訪問を予定している。日本は中東の石油に依存するが故にエネルギー問題に特別の関心を持つに至つている。日本は国連外交に一層積極的に参加するに至つており,主要国として安保理常任理事国となることに関心を示している。

 安全保障面では,日本は何年にもわたり米国との条約および米国の核抑止力に依存し,この依存関係がなければ防衛のために必要となるべき資源とエネルギーを他の目的に使うことができて来た。他方,日本は,通常防衛力の改善にあたつて規模よりもむしろ近代化を強調し,火力,機動力,対潜水艦作戦(ASW)および防空力を高めることにより着実に改善してきたのである。1972年~76年の4次防の支出額は3次防の2倍であるが,それでも年間GNPの1%に満たず,一方GNPは年間10%以上の成長をしてきいる。沖縄返還にともない日本の兵力は南下して沖縄の防衛の責に当ることになつた。これらは日本の自立を進め,日本の全領士の通常防衛力を高めるための重要な措置である。

 かかる動きは必然的な発展(enevitable evo1ution)であつた。

 過去25年間に起つた国際秩序の根底からの大きな変化が日本および日本の世界における役割に影響を与えないということはありえなかつた。かかる変化は米国のすべての盟邦関係に影響を与え,盟邦関係を回復し活力を与えることにより硬直化した二極構造を浸触し,この結果米国の盟邦諸国は自立的行動をとる余地を見出すに至つた。冷戦下の軍事対決は緩和され,軍事力以外の力,特に経済力が国際政治の舞台の正面に押し出されるに至つた。(米国との)緊密なパートナーシップおよび協力関係を正当化する主要な理由として,米国こよる軍事的保護をあげるだけではもはや不十分となつている。どの盟邦国においても,その指導層は国の内外において新しい国家的主体性(national identity) を主張する世代に移りはじめている。

 日本の出現は非常な重要性をもつ政治的事実である。今や日本は国際体系における主要な要素であり,日本の行動は国際の安定の主要な決定要因である。過去の外交教書において述べたように,私は第1次ニクソン政権発足以来米国の日本との盟邦関係を上記のような新しい条件に適応させるべく関心を払つてきた。日米両国は互いに対して,また世界に対して果すべき新らしい責任に直面している。日米両国はこのような変化しつつある状況に対し,創造性を待つて,ともに反応し,新時代において両国の盟邦関係を確固たる基盤に置くことを求められている。

 というのは,日米の盟邦関係は依然として両国の外交政策の中心をなすからである。自由陣営の2大国としての日米が双方の繁栄および安全のため相互に依存する(interdependent)度合は非常に高い。であるからこそ米国は過去20年間と同様,この日本とのパートナーシップに最高の価値を置いている。

 西欧とのつながりを強化して行く新しいコミットメントの年である本年,私は日本との盟邦関係を西欧との関係におとらず強化して行く決意である。

<日米の盟邦関係およびその発展>

 1969年に私が大統領に就任した際新しい条件からくる挑戦は沖縄問題に具体化された。戦後25年間にわたり米国は沖縄の軍事施設を守るため,沖縄の施政権を保持してきたが,右軍事施設は過去においても,また現在もなお東アジアおよび東南アジア防衛のために枢要(Vitally important)である。しかし,1960年代の半ばに至り,日本人 は,米国が沖縄の施政を続けることは,日本の国家的尊厳および主権に背馳すると感じ始めた。米国がもしこの声に応えなければ日米関係の危機をまねく危険があつた。

 そこで私は米国の基本的利益は日本との長期的関係にあるとの基本的決断(basic choice)をおこなつた。そして1969年11月の佐藤総理との会談において,われわれは沖縄を1972年までに日本に返還するという合意を発表した。米国は両国が相互の安全のために必要と認める施設を引続き使用出来るが,日本の他の地域における施設使用と同じ条件に服することとなつた。同時に右会談コミュニケにおいて日米両国は,極東の外交および安全ならびに,2国間および世界の経済関係において積極的に協力して行くとの共同のコミットメントを過去のどの時よりも明らかに宣言した。

 かくて1969年に米国は新しい日本の出現を認めた。日米両国政府は大きな問題に直面し,これを共通の問題として扱い,解決をもたらした。両国は両者の目的の基本的同一性を再確認した。1970年に安保条約検討の時期が技術的に来た時に,どちらの政府も右条約が引続き有効,かつ,重要であることになんらの疑問も差しはさまなかつた。

 しかしながら1969年に行なわれた調整は日米関係の複雑な変化の過程の発端に過ぎなかつた。

 過去20年にわたり日米両国は東西外交,経済,および相互安全保障の分野において比較的容易に共通の政策を遂行してきた。今日ふりかえつてみれば,これは一面ではもはや存在しない戦後の特異な状況の産物であつたことは明らかである。米国の盟邦関係全般につき調整は不可避であつた。今日盟邦諸国との政策の調和は自動的に達成されるものではない。米国とすべての盟邦諸国は,双方がそれぞれ独自の行動をとる場合の積極的可能性と消極的可能性の両方を理解してすすんで行くという重大な責務を担つている。

 このような新しい政治環境への移行が,特に日本にとつての挑戦を意味することは不可避であつた。

 日米の盟邦関係は日本の(米国に対する)依存の時期に性格付けられた。戦争における敗北は日本の経済,政治制度および国民の自信を打ち砕いた。占領,冷戦および攻撃 的軍事力の放棄により,日本は米国の軍事的保護にほとんど全面的に依存することとなつた。アメリカのリーダーシップに従つていた日本が国際外交へ参加して行く過程は緩慢にしか進められなかつた。

 これは当時においては米国にとつても日本にとつても不愉快な事態ではなかつた。米国は戦後期において自らの圧倒的力のもたらす役割と責任を担い,共産圏との硬直した対決の状況のもとで,同盟網の保護者およびチャンピオン―指導者,シニア・パートナー,そして主役―としての役割を果した。日本は,戦後弱体であつた時期のみならず,政治的および経済的活力を回復するようになつてからも,しばらくの間右の如き事態は自分の目的に沿うものと考えていた。地理的にも歴史的にも,日本は米国の欧州における多くの盟邦諸国と異なり,世界的な多国間の外交への参加は遅れていた。20世紀においてさえも日本の関心の焦点は太平洋にあつた。第2次大戦後日本の直面した状況は不可避的に日本の政策および政策決定機構を,経済の回復と拡大という必要性に向けさせたのである。

 私が大統領に就任した頃には,戦後の状況に適応し,日米両国に役立つて来た右のような盟邦関係は調整を必要とするに至つていた。日本の米国援助の受け入れ国の地位から立ち直り,経済大国かつ競争者として登場した事実は,このような立直り自体を可能とした対外的政治の枠組自体を変えることとなつた。特に米国との関係において,日本は前のようにほとんど全力を経済の向上にのみ向けるとか,あるいはジュニア・パートナーとして行動する習慣とかを必要としないばかりか,そのような態度はもはやとれなくなつた。日本は依然として安全保障につき米国に依存するが故に,自らの経済拡大に資源を向けるという特別な利益を享受していた。日本は政治的関係により引続き保護されているが故に,経済的関係においてより大きな相互性(reciprocity)を示すことが必要となつた。

 さらに,日本は,広い外交の分野において,米国に依存する太平洋地域の単なる一国ではなくなつていた。欧州・アジア,北東,南米およびアフリカが,日本が主要な地位を占める多角的外交の巨大な舞台の一部となつてきた。日本はすでに自立的行動をとる領域を広げつつあつた。日本の力は新しい責任を意味するに至つていた。世界の経済活動において占める日本の比重―その自由陣営の経済システムにおける利害,広範な援助計画および共産圏諸国との経済関係の拡大―のため,日本はたんなる経済的打算ではなく,より広い政策的考慮に基づく政策決定を必要とするに至つていた。米国と日本は盟邦としておのおの独自の政策を共通の目標に向けて行くという課題に直面していた。

 以上が,私が過去4年間対処しようと努力してきた基本的動きである。以上のような 新しい条件は,平等性の徹底と多極的外交を必要としているが,私は,日米のパートナーシップをかかる条件に適応させるべく努力してきた。私の3回にわたる日本の総理との会談,沖縄についての私の決断,極東地域ならびに2国間・多国間経済問題における日米の新しい協力に関する日米間の討議,そして中国に対する両国の政策,これらはみな私のかかる努力の一部であつた。

 他方,戦後の日米の盟邦関係が親密(intimate)であつたが故に,日本が米国の外交政策の変化につき特に敏感となつたのは避けられないことであつた。すなわち,日本は,自分自身は政策の諸面において新しい方向を積極的に追求しておりながら,日本が米国に依存しているが故に,米国が政策を変えたり,新しい政策をおこしたりする動きは,制限されるべきであると感じているようにみられるという逆説的な事態が生じた。しかし,米国は,盟邦の指導者として保護者的な(Paternalistric)態度をとることをやめたからといつて,日本とか他の盟邦国をなんら見捨てたわけではなく,むしろ米国はこれら盟邦国をより真剣に1人前のパートナーとして扱うに至つたのである。米国が世界の新しい多極性を認めたことは,盟邦諸国に対する関心を失つたことを意味するのではなく,その逆に盟邦諸国が新たな重要性をもつに至つたことを認めたものである。 対中政策とか,経済政策における米国のイニシアティヴは,日本を狙うちしてとられたものではなく,日米両国共通の利益のため,あるいはより広範な考慮から,時には日本の政策に応えてとられたものである。

 日米の一体性の基盤は存続した。日本の政策において(米国との)盟邦関係が中心を占めているということ自体が問題の中核をなしていた。しかしながら,日本の新たな自主性と力のもたらす影響に米国が対応しようとしていると同時に,日本自身も自身のもたらすかかる影響に対処して行かなければならなくなつた。そしてかかる心理的な調整が双方により十分になされるまでの間,両国の関係において不正常な事態(anomalies) がどうしてもおこることになつたのである。

 以上が過去2年間の出来事および現在日米盟邦関係間に表面化している問題の背景である。

<日米共通の課題>

 「経済問題」

 今日の日米関係における最大の急務は経済問題―2国間貿易収支の巨大な不均衡 ―である。われわれは,この不均衡をできるだけ早く妥当な規模に縮小しなければならない。

 田中総理が認めたように,これは米国のみの問題でなく,日本の問題でもある。というのは,このような経済問題についての紛糾(disputes)が続くと両国の盟邦関係を維待する政治的関係がおびやかされるばかりでなく,(貿易収支の)不均衡は日本自身大きな利害関係を有する安定した国際システムをもおびやかすものであるからだ。1972年には日本の貿易は世界の主要工業国すべてに対して黒字であつた。米国が国際貿易において唯一最大の地位を占め,ドルが通貨制度における最重要の要素である限り,特に米国の地位が不均衡にあることは世界の(経済)システム全体にとつても慢性の問題となる。したがつて,米国は,世界の通貨および貿易関係において安定し,かつ,開放された新システムを作るために,2国間および多国間の協力を通じて解決を求めて行く。

 自由陣営における最強の貿易国たる日本の負う責務は必然的に重大なものである。

 すべての関係層の指導者に課された課題は,問題となつている広い(政策)目標にかんがみて,われわれの経済関係にしつかりとした政治的方向づけ(firm politica1 direction)を行なうことである。関係各層の機構面をみると,たんに経済的な国益に基づき,あるいは国内の特定の経済的利害の圧力の下に措置が採られたり,政策が決められたりする傾向がある。これはわれわれの経済関係および政治関係の両方を不安定化する結果しか招いておらず,もはやわれわれは,このようなことを放置しておくわけには行かない。

 日米2国間の経済関係は問題の中核をなすものである。両国の経済関係は,その規模,重要性およびその相互依存度とも驚くべき程度に達している。日米のGNPをあわせると世界全体のGNPの40%にのぼる。1972年の両国間の貿易量は125億ドルにのぼつた。日本はカナダを除いて米国の世界で最も重要な貿易相手国である。両国の国内および世界的経済政策は,必然的に相互に対して深甚な影響を及ぼさずにはおかない。

 1971年8月15日米国が採つた一連の一方的経済措置が特に日本に影響を与えることは避けられなかつた。これらの措置は通貨危機のため余儀なくとられた緊急措置であり,そのねらいは米国内の事態を収拾するとともに,国際的改革への状況をととのえることにあつた。対外的関係についてとられた措置は無差別に米国のすべての貿易相手国に影響するものであつた。この危機の収拾は多角的に主要経済大国すべての協力をえてのみ可能なものであり,1971年12月スミソニアンにおいてかかる協力をえて達成された。しかしながら,中国に関する発表の1カ月後にとられたこれらの措置は,太平洋の両側において米国の日本との関係が危険にさらされているとの危惧を深めた。日米の利害の乖離云々といわれていたことはほとんど幻想にすぎなかつたのに対して,日米経済関係の緊張は明らかに現実の問題であつた。これは米国がかねてから関心を払つてきた根の深い,かつ拡大しつつある困難な問題であつた。1971年8月の経済問題上の出来事は,この問題にようやく注意を喚起し,その解決を政治的な急務とした意味で有益であつた。

 日本の対米貿易黒字はある程度日本経済の競争力および生産性を反映しているとともに,アメリカの輸出業者が日本の潜在的市場を開発するのに遅れをとつていることをも示している。しかしながら,この貿易黒字は,時代遅れの通貨交換レートならびに日本国内の政府補助,複雑な価格政策,輸入および外資導入制限というこみいつた制度によるところが大である。これらは日本が西側諸国に対し競争力をえんとして苦労していた古い時代の遺物である。日本が自国内の脆弱な産業部門を保護することに見出す利害は,今や他の国の同様の利害となんら異なる性質のものではなくなつた。今日必要とされているのは往復貿易の均衡拡大をはかるために,お互いに公正なアクセスを与えることである。この問題に積極的に対処して行くべく協力を続けて行くことは,強まりつつ ある保護主義の圧力を抑え,また米国も国際貿易問題に積極的に対処して行けるようにするために枢要である。これは双方にとつて焦眉の政治的な義務(politica1 imperative)である。

 過去1年の間に,われわれはある程度の進歩をみたと信じる。

 1972年1月われわれは米国市場への日本の化合繊輸出を抑制する協定を結び,このきわめて刺激的問題(major irritant)を鎮静化した。鉄鋼については自主的数量規制の取極がつくられた。昨年7月私と田中総理の会談の準備の一環として箱根においてハイレベルの2国間協議が行なわれた結果,日本市場へのアクセス自由化の重要な措置がとられ,日本の米国よりの農産品,民間航空機,濃縮ウラン役務購入を増大するとの約束 (コミットメント)がなされた。ハワイ会談において田中総理は,日本政府が米国からの輸入を促進し,貿易収支の不均衡をより妥当な規模に縮小することを約束した。日本政府は日本の世界的貿易および経常収支の黒字を2~3年のうちにGNPの1%にまで縮小することを公約(public1y pledge)している。さらに1973年4月末日本における外国投資に対する規制を自由化する措置がとられた。

 2回にわたる主要な通貨調整により円はドルに対し35%以上に切上げられ,これにより米国の貿易に効果を示しはじめている兆候がでている。将来について特定の部門における貿易不均衡を予知し,保護主義の圧力や政治的危機が生じる前に不均衡を是正するための常設的なモニターおよび調整のメカニズムを作ることに両国とも関心を示しているが,これは建設的なものであり,推進するべきである。

 米国はかかる政策の実施を最重要視している。

 もちろん問題は国際的なものである。1971年12月および1973年2月の多角的通貨調整は問題解決に向つての重要な措置であり,この調整への日本の参加は建設的で非常に重要(crucial)であつた。しかし,問題の根本は構造的なものであり,解決のためには制度自体の徹底した多角的改革を要する。このため日本が積極的に貢献することが不可欠である。というのは,最も強力な経済大国(複数)が参加し,積極的に協力しなければ, いかなる制度でも現実に作用することはできないからである。

 この点日米安保条約が,両国は「その国際経済政策のくい違いを除くことに努め,また,両国の間の経済的協力を促進する」としているのは偶然ではない。政治的意志をもち,意識的に努力して行かない限り,われわれの経済的いさかい(disputes)はわれわれの盟邦関係の結びつき自体を断ち切る(tear the fabric of our a11iance)ことになりかねない。

<日本の新外交>

 今日日本が多極外交の場において多方面に進んで行くにあたり日米双方の政策が乖離しないように配慮して行くことは,双方の政治的指導力の試金石(test of statesmanship)となろう。日本の外交政策は引続き日本独自の見通し,目的およびやり方により形成されて行こう。日本は独自の利害を持つており,それについては日本が最終的判断を下すのである。米国の外交政策は,日本の外交政策と全く同一であるとか,必ずや一致するとかいうことはない。この新時代に両国の盟邦関係を持続せしむるのは,硬直した政策ではなく,安定に対する両国共通の基本的利害を常に念頭に置くことであり, われわれは両国の政策においてコンセンサスを維持して行くように努力しなければならない。

 日米両国は,盟邦として,対立陣営との緊張の緩和に共通の努力を払うにあたり,種々の機会にめぐまれると同時に,複雑な問題にも遭遇するが,1972年の日米おのおの対中政策はかかる事態を反映するものであつた。

 日本は,長きにわたり中華人民共和国との経済的,文化的交流を発展してきたのに対し,米国はほとんどかかる交流を持つていなかつた。中国は日本にとつて地理文化,歴史的理由から,また,潜在的貿易市場として常に大きな魅力をそなえていた。日本人の中には米中がおたがいを遠ざけていたことを批判し,日本が米中の自然な橋わたし役となることを主張するむきもあつた。今日,日本は中国と外交関係を持つているに対し米国は持つておらず,日本の対中貿易は米中貿易をはるかにしのいでいる。

 しかし私は中国政策についての日米の利害が対立すると思つたことは一度もない。

 1971年7月15日私が北京訪問の予定を発表した時,日本は米国に対し特別の親近感を有していたが故に,米国が独自の行動をとることは,日米の利害が乖離するか対立関係に立つこと,もしくは米国が日米盟邦関係に関心を失いつつあることの前兆ではないかと憂慮した。今になつてみれば,米国の対中政策が米国の対日政策となんら背馳するものでないことは明らかである。昨年の教書において私はキッシンジャー補佐官を事前に派遣したことに関し,その結果が明らかとなるまで秘密を保持する決定を下した経緯を説明したが,一旦その結果が明らかになつてからは直ちに発表したし,その後日本との間で重要な協議を集中的に続けて,その盛り上りが私の北京訪問の前,1972年1月サンクレメンテにおける佐藤総理との会談となつた。佐藤総理と私は,極東の平和に関する主要問題について実質的に意見を同じくし,アジアにおける緊張の緩和が両国の追求する目標であり,両国とも,それぞれ相手との盟邦関係に対するコミットメントを最重要視し,これはなんら弱められるものではない,との認識を分ちあつた。

 1ヵ月後北京において中国が日米安保条約について懸念を示し,いわゆる日本の「軍国主義」についての憂慮を表明した際,米国は上海コミュニケにおいて「日本との友好関係に最高の価値に置いている」「(日本との)現実の緊密な紐帯を引続き発展させるものである」と断固宣明した。

 田中総理とのハワイ会談において,われわれは,外交の共通の課題ならびに経済問題をとり上げ世界的な問題,アジアの問題,ならびに2国間の問題を話し合い,両国の政治的盟邦関係に対するコミットメントを強く再確認した。両国の対中政策は同一のものではないが基本的に調和していることは直ちに明らかとなり,これは田中総理の歴史的北京訪問により証明された。米中間におけるよりもはるかに,とげとげしかつた不信の歴史を克服して,アジアの2大国たる日中は,上海コミュニケと同様の目標を誓い,さらにそれを超える外交関係樹立に至つた。

 このように日米の盟邦関係と多角的な緊張緩和の希望的な見通しとの間には原則的に 何ら不一致は見られない。いかなる第3国も日米の盟邦関係をおそれる必要はない。日本も米国も日米の結合(unity)が,おのおのが広範に諸国との関係を正常化して行くこととか,独自の行動をとつて行くことを不可能にするというおそれを抱く必要はない。

 将来にわたり1972年の米中,日中の会談後行なわれたような日米間の密接な協議は日米の外交努力すべてにとつて枢要となろう。日米の盟邦関係をこえるものがこれにかかつているのである。日本はかねてから自分自身の目標を追求するにあたり,その場となる世界的枠組を意識しては来たが,1970年代になつての新しい事態は日本が果すべき責任が増大したことである。この責任は日本のもつ経済力および日本が世界外交の場にお いて多方面にかかわりあい(engagement)を持つことから不可避的に生じるものである。

 今日の如く複雑な地政学的(geopolitica1)環境の中で,日本の如きエネルギーと国家意識をもつた国がより積極的な政治的役割を果して行くことは,アジアだけに限定して考えても一つの挑戦を意味する。日本は今や大国としての責務(ob1igations)を担つている。すなわちその責務とは,自制(restraint),相互性(reciprocity),信頼に足る態度(re1iability)そして,世界的な国際関係の安定を維持することが自国の最大の利益であるとの感覚を持つことを意味するのである。

 今日の多角化傾向(multilateralism)は,日米盟邦関係の重要性を何ら減ずるものではない。むしろ過去20年にわたりアジアの安定を裏打ちしてきた両国の盟邦関係は依然として安定を裏打ちし,新しい状況の下で両国に共通の基本的な利益をもたらすものである。日本は米国との盟邦関係の基盤に立ち,自身の安全を憂いたり,他国におそれられることなく,経済的,外交的に多方面にわたり独自の行動をとれるのである。かくて日米の盟邦関係は日本の政策の発展(evo1ution)のための安定した枠組みを提供するものであり,これは(日本にとり)全般的な利益となるものである。

 この新時代における日米盟邦関係の直面する挑戦は,大西洋同盟の直面する挑戦と同じものである。われわれは,自己の利益のみに基づいて,われわれの盟邦関係を当然享受し得るものとして甘え,身勝手に政策をとることはできない。われわれは自らの短期的政策考慮からわれわれの長期的結合を危うくしたり,あるいは競争の目標のために,われわれの政治的結合という共通の目的をおびやかすようなことがないようにする責務を負つている。

<将来の挑戦>

 成熟した国々は,論争とか,利害の対立を避けようとは思わない。成熟した盟邦関係とは相互主義の基盤に立つて論争とか利害対立に対処して行くことを意味し,表面にあらわれた出来事のみではなく根底の原因と真剣に取り組むことを意味する。われわれは今やかかる方向に動きつつあり,これを進めなければならない。

 これは双方がいくつかの責務(obligation)を負うことを意味する。

 経済問題は,焦眉の急を要し,かつ対立の深い領域であるが,双方とも貿易収支不均衡という共通の問題に対処し,これを解決する責務がある。われわれは国際経済の中でかくも大きな存在となつている2国間の経済関係を正常化する責任を国際社会に対し負つている。われわれは,それぞれ相手に対する個々の約束(コミットメント)を守る責務を負つている。われわれは将来においての衝突を避けるために積極的方途を探る機会に遭遇しており,多角的な改革のための緊急な努力において積極的指導力を発揮する責任を負つている。

 政治および経済の分野において,日米両国は盟邦として各々の個々の目標を共通の一般的目的に合致せしめるよう追求して行く責務を負つている。問題が世界的なエネルギー問題であれ,共産主義国との政治・経済関係であれ,あるいは,開発途上国に対する資源の供与であれ,利害の競争は必然的に生じるが,他方安定した世界的環境を生み出すことに最も重要な全体の利益がある。主要な政策決定を短期的な経済的または政治的 利害からのみ行なわないようにすることは,政治的意志をもつて意識的に努力することを必要とする。これはたんなる官僚的処理の問題以上の政治的指導力の試金石を意味する。米国は世界に対する日本独自の見通し,および日本の米国との特別な関係にこまかく配慮して行く。このため,われわれは日本との協議を行なう努力を倍増してきた。かかる協議は幾つかのレベルおよびチャネルにおいて制度化されている。すなわち,両国の有能な大使を通じて,1972年のキッシンジャー補佐官の如きハイレベルの政治的協議を通じて,昨年10月ワシントンにおける大平大臣とロジャーズ長官との話し合いの如き外務大臣レベルの会談を通じて,日米貿易経済合同委員会の定期的閣僚レベルの会議を通じて,そして私の就任以来3回にわたる日本の総理大臣との会談および今年に予定している4回目の会談を通じて。

 このような交流は両者の政治的コミットメントを再確認する象徴的価値を持ち,また かかるコミットメントに実質的意義をもたせる現実の価値をもつ。

 日本側においても同様に相互信頼および密接な協議を重視して行くことが日本独自の路をたどつて行くにあたり肝要である。

 新しい外交の複雑さの故に,われわれの関係のすべてにおいて,特にお互いとの関係において,両者が堅実に信頼しあえることが特に重要なのである。

 日本の外交政策は,日本が決めるものである。しかしながら日本の安全保障と経済的利益は日本の運命を自由陣営の運命に密接に結びつけている。太平洋の両側の政治的指導者は,日米の盟邦関係がもたらしてきた共通の利益を強く意識しており,これを保持して行くことに深く決意を固めている(deeply commited)と私は信ずる。

 

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