―その他の重要外交文書等―

 

(7)ロジャーズ米国務長官の議会に対する外交報告

 

(日本関係部分仮訳)

(昭和46年3月27日)

 

 米国の将来の日本との関係は,東アジアにおける米国の政策の成否がかかるきわめて重要な単独の要因となるであろう。この事実を認識して,政府は過去2年間にわたり日本との関係を推進するためいくつかの基本的な決定を行なつた。なかでも最大の決定は,第2次大戦終結以来米国の施政下にある沖繩及びその他の琉球諸島の施政権を1972年中に日本に返還するという,1969年11月の佐藤総理とニクソン大統領の間で達した合意であつた。大統領は返還についての決定を同大統領の行なった最も重要な決定の一つであつたと述べた。この佐藤・ニクソン合意によつて,第2次大戦以来懸案となつていた最後の重大な日米間の問題が終結することになる。

 米国は琉球に対する行政権を放棄して日本へ返還することになるが,同諸島にある米国が必要とする軍事基地は維持することになろう。これらの基地は,日米相互協力及び安全保障条約の諸規定が現在日本本土において適用されていると同様に,同条約のもとで機能を果すことになろう。安保条約の適用下になることにより,われわれが軍隊及び装備の配置に重大な変更を加えようとする場合や基地を戦闘作戦に使用する場合には,日本政府と事前に協議することが取決められているので,われわれの沖繩基地の使用にある種の制約が課されることになろう。

 日本の役割りとしては,日本は沖繩の米軍に必要な施設と区域を提供し,また琉球の直接的防衛の責任を負うことになる。しかしながら,より基本的には琉球諸島を日本の施政下へ返還するための合意を明らかにした共同声明において,佐藤総理は極東地域において米国が有する条約上の防衛義務を「米国が十分に果たしうる態勢にあることが極東の平和と安全にとつて重要であることを強調した。」同総理は,「韓国の安全は日本自身の安全にとつて緊要である。」と述べ,また,「台湾地域における平和と安全の維持は日本の安全にとつてきわめて重要な要素である。」と述べた。日本が極東の集団的安全保障に果たすべき役割りを明確に認識したことは,沖繩を含む日本の米軍基地にとつての基盤となるものである。

 1972年に琉球を日本の施政下に返還することは,同島に対する日本の完全な主権の回復ということに含まれる政治,経済及び軍事の諸問題にわたり現在進行中の交渉の終結如何にかかっている。米国は,両国政府が,必要とされる立法府の支持を得,かつ,1972年中に返還を達成するための他の諸準備を終了することができるように,1971年の春にはこの複雑な交渉を終えることを希望している。

 琉球に関して米国が決定したことが,両国の安全保障関係に対する日本の態度の上に,すでに有益な効果をもたらしている。1960年の安全保障条約は,1970年には,自動的に,いずれか一方が1年前に通告することにより終了しうるという局面を迎えることとなつていた。日本における反対分子は,1960年の同条約批准の際の政治的混乱を再現する機会としてこれを利用しようと長い間望んでいた。しかし,日本政府は防衛問題を積極的に打出した選挙キャンペーンを行ない,1969年暮れの選挙において勝利をかちとり,米国との安全保障条約を事実上無期限に維持するという政府の意図に対する広い支持を容易に得たのであつた。分裂を意図した努力は殆んど大衆の反応を得ることはできなかつた。

 ニクソン・ドクトリンと東アジアにおける政治および軍事上の状況の変化の反映として,日米両政府は,1970年12月,日本における米軍基地を以後数カ月にわたり実質的に再編成するとの計画を共同で発表した。この計画によつて,米軍の(在日)兵員は約12,000削減されて約29,000となる。再配備の主たるものとしては,横田基地及び三沢基地からの戦術空軍2コ連隊の撤収,大規模施設とその支援活動の若干部分の縮小ならびにその他の基地例えば板付空軍施設等を日本の管轄下に返還することなどが含まれている。この計画は,政治的に最も微妙な地域における米軍基地の費用および規模の双方を縮小しながらも,同地域における米国の本質的な軍事能力は保持することを意図している。

 概して日本においては,米国の政策の合理性について一般的に理解がある。

日本経済の劇的な成長とこれに伴う両国経済の結びつきの進展は両国の相互依の関係をきわめて端的に例示している。1970年の日本との貿易は往復105億ドルのレベルに達し,対カナダ貿易に次いで2位を占めた。日本は,また,米国農産物にとつて最初の10億ドル台の顧客となつた。貿易は近年双方ともに急速に増加したが,日本の対米輸出が急激に増加した結果,2国間貿易収支では米側の大きな赤字を招いている。1969年における赤字は14億ドルであつたが,しかし,昨年米国の対日輸出が大幅に伸長したことにより,1970年における赤字は12億ドル以下に押えられた。日本政府は,輸入数量制限の撤廃を加速度的に進めており―1969年の118品目から1971年9月までに40品目以下にする―われわれは,これによつて米国の輸出業者が引続き対日輸出を改善できるようになると望んでいる。

 日本は,また,外国の投資に対する制限緩和の面でも進歩をみせている。例えば,自動車産業は,4月には外国資本の参加に途を開くことが期待されている。第4次資本自由化も9月に予定されている。

 日本が貿易及び資本の自由化のためにとつた措置は最近にいたるまで遅々たるものであつたが,われわれとしては,それが改善された方向へ動いていることを喜んでいる。

 化合織及び毛織物の輸入が急速に増大したことは,米国にとつては困難な問題であつた。日本はこれら製品の主要な供給者の一つである。われわれは,日本が化合繊の対米輸出の増大を抑制することについて,日本と何らかの合意に達するべく努めてきた。交渉は,東京において1969年5月に開始され,同年中引続き行なわれて1970年夏一時的に中断されるまで継続した。

 ニクソン大統領と佐藤総理は,10月のワシントンにおける会談において,問題解決の努力を再開することに合意した。日米両国の交渉当時者は,同年の残された期を通じ,数回にわたり会合したが,1970年末現在,同問題はなお未解決のまま残されている。

 われわれは,1961年以来,閣僚レベルの日米貿易経済合同委員会を開催し,経済協力,相互貿易および経済援助を増進するとともに,両国の国際経済政策上の摩擦を除去することとしており,同委員会の第七回会合は,1969年7月,東京において開催された。

 ロジャーズ国務長官を団長とする米側代表団は,愛知外務大臣を団長とする日本側代表団と二日半にわたり会談した。両国代表団は,宇宙における協力,両国経済情勢,貿易収支不均衡の問題および貿易と資本の制限およびこれらの分野における日本側の自由化への進展ならびに漁業,航空,旅行の分野における推移,開発途上国に対する援助の問題を討議した。代表団は世界における自由貿易の原則の増進および開発途上国に対する一般特恵問題についての緊密な協議の重要性につき合意した。米側代表団は,日本政府が経済援助とくにアジアに対する援助を実質的に拡大するつもりであると表明したことを歓迎した。同委員会は,運輸問題の調査に関する合同研究部会を設置することに合意し,両国の専門家会議は東京において1971年5月に開催されることになつている。

 われわれはこのほかにも日本との間に2国間取決めを結んでいる。われわれは1970年に住宅,大量輸送システムおよび実験的安全乗用車の開発に関し情報を交換することについて合意した。ニクソン大統領と佐藤総理は環境汚染規制問題に関する協力と知識の交換を強化することに合意した。環境問題諮問委員会委員長は1970年10月日本を訪問した。また,日本政府は同年7月環境保護庁の設置を決定した。われわれは,1969年,ハードウエアと技術の若干の品目を日本に売渡すことを含めて同国の宇宙開発計画に協力する取決めを締結した。

 今後ともおそらく若干の相違点は残るであろうが,われわれとしては日本との間に共通の経済的利害という広範な分野を共有しており,相互の経済関係は基本的には健全である。さらに日本がアジアの政治的安定と経済発展に一層の貢献をなし,かくして間接ながらより安定した安全保障の状況を作りだすことを期待しうるあらゆる理由がある。米国は,日本ならびにその他アジア開発銀行,メコン委員会および国連開発計画の諸国とともに緊密な協力を行ないつつある。米国は日本に対し,これまで以上に東南アジアへの大規模な経済援助を行なうよう要請し,また米国は,対外援助計画に対する日本の一層の寄与を期待するものである。

 

 

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