―中近東地域―
第8節 中 近 東 地 域
1. 概 観
1970年9月のリビアの西欧独立系石油会社に対する原油公示価格及び課税率引上げ要求に端を発したOPEC諸国と国際石油会社の間の国際石油戦争は,71年2月15日に至り,国際石油会社がOPEC諸国の要求をほぼ全面的にのむという形でひとまず終了した。OPEC加盟国10のうち8カ国は中近東の国々であり,その原油生産量は世界の約40%,確認埋蔵量は70%を占めており,世界は改めて石油供給源としての中近東地域の重要性を認識した。
国内にほとんど油田をもたないわが国は,その石油需要の99%を海外に依存しているが,そのうちの90%を中近東諸国―主としてイラン,クウェイト,サウディ・アラビア―からの輸入によりまかなつている。このように中近東地域はわが国にとつても石油供給源として不可欠の重要性をもつている。
今回のOPEC諸国と国際石油会社の間の国際石油戦争はわが国の石油問題―原油供給源の多角化,原油の自主開発,さらには備蓄の問題―をあらためて大きくクローズアップするものであつた。
他方わが国の対中近東諸国貿易額は,1970年において輸出6億6,000万ドル(国別にみると対イラン1億7,900万ドル,対クウェイト9,400万ドル,対サウディ・アラビア8,400万ドルでこれら3つの石油産出国への輸出だけで対中近東輸出の半分以上を占めている),輸入23億7,900万ドルで毎年伸びてきており,また従来は他地域と比べて低かつた対中近東輸出に占める重化学工業化率も1969年には66%まで上昇し,輸出構造の高度化も進んできている。
わが国の対中近東輸出は上述のように質的に改善され又量的にも伸びではいるものの,その伸び率はわが国総輸出の伸び率と比べると必ずしも十分とはいえない。中近東各国は意欲的に経済開発を進めており,わが国の輸出市場として大きな可能性を有しているので今後ともいつそうの輸出増進努力の行なわれることが望まれる。
最近は中近東諸国からの経済技術協力要請が強くなつてきているが,これはわが国の政治的立場および経済力に対する高い評価に基づくものと考えられる。わが国としても,中近東諸国のわが国にとつての重要性にかんがみ,これら諸国からの要請にできるだけこたえることにより同地域との政治的安定と経済開発に寄与しつつ友好関係のよりいつそうの増進に努めてゆくべきであろう。
なおわが国は70年9月イエメン共和国と外交関係を設定(在サウディ・アラビア日本大使館兼轄)した。この結果わが国は18の中近東諸国に大使館実館14,兼館3,領事館1を有することとなつた。
イランは国内政情の安定と実質年率10%を越える高度の経済成長および現実的柔軟性に富んだ多角的国際関係の展開強化を背景に流動的で不安定要素の多い中近東において着実に安定勢力としての地歩を固めている。
わが国とイランとの関係は,イランが自由主義陣営に属し,国連中心主義をとつているなど基本的外交政策において,わが国の立場と共通点が多いのみならず,近年人的交流,貿易の拡大,企業の進出,経済技術協力の強化等を通じて一段と緊密化しているが,特に両国間の経済関係は飛躍的な伸びを示している。日イ貿易協定は,両国の貿易関係の順調な進展にかんがみ197,年6月からさらに1カ年延長されたが1970年のわが国対イ輸出額は1億70898万ドルに達した。
日イ経済関係について注目される諸点は次のとおりである。第一にイランは中近東アフリカ地域において南アを除くわが国最大の輸出市場であり,同国の第4次経済開発5カ年計画の遂行に伴い,今後ともひき続きわが国資本財等の輸出市場となりうるものとみられる。第二にイランはわが国に対する最大の原油供給国であり,1970年上半期におけるわが国精製用原油輸入量の43,5%を供給(1970年1月~11月の輸入額は8億7,316万ドル)しているがイランからみても日本は同国輸出原油の35%を輸入し最大の顧客となつている。第三に,原油の輸入を加えると両国の貿易関係はわが方の一方的入超となつているにもかかわらずイラン側は国際石油コンソーシアムの輸出する石油を両国の貿易バランスに加算せずわが方が出超であるとしている。わが方は大局的見地からイランの一次産品買付け増大を図るためコンペ制といわれる輸出入調整措置を実施している。
政府ベースの経済技術協力でも同国との間に経済技術協力協定,職業訓練センター設置協定,電気通信研究センター設置協定,円借款協定等があるほか研修員の受け入れ,専門家の派遣等において中近東第一の実績をあげている。他方民間部門でも広い分野で技術協力,企業提携等が活発に行なわれている。また,わが国の資源確保の見地から,イランの石油,鉱石等地下資源は,最近きわめて注目されており,わが企業は石油鉱区の国際入札に参加する等積極的な関心を示している。
なお,イランより3月アンサリ経済相,9月ヴァヘデイ農相がそれぞれ来日し,また日本側より岸元総理一行が9月イラン政府の招へいにより訪イしている。
わが国はアラブ連合に対し,1965年3,000万ドルの民間延払信用を供与し,さらに1965年1,000万ドルの追加信用枠を供与したが,アラブ連合は1966年頃より国際収支上の困難をきたし,わが国に対して債権の支払繰延べを要請越した。
その後,このための交渉が両国政府間で行なわれてきたが,1969年6月に至り,同年4月末現在のこげつき債権約2,000万ドルについて債権繰延協定が成立した。アラブ連合は同協定にしたがつて,1970年1月から対日債務の支払を開始し,支払はほゞ順調に行なわれている。
本協定の実施に伴い,わが国はアラブ連合からの要請もあり,また貿易振興の見地から,同国の債務返済状況を6ヵ月毎にレビューし,返済額を限度として,中期延払信用を供与することとなり,1970年10月までに約1,300万ドルの新規延払信用枠ができている。また,1967年12月以来,外貨送金の遅延を理由に停止されていたアラブ連合向け輸出保険について,わが国は1970年9月より輸出代金保険を,1971年2月1日より普通輸出保険及び輸出手形保険をそれぞれ全面的に解除したので,この面においても対アラブ連合貿易は正常に復しつつある。
このような経済貿易関係の正常化に加えて,技術研修生の受入れ,専門家の派遣等を通ずるわが国の技術協力も年々活発になつている。また,北スマトラ石油会社は1970年5月,スエズ湾沖合に石油利権を獲得し,近く採掘工事にはいる予定であるが,これはわが国企業による最初のアラブ連合進出である。
アルジェリアは経済開発7カ年計画(1967年~1973年)により近代産業国家建設に努力しているが,この計画の進捗に伴い,わが国企業も各種プロジェクトに参加している。すでに,アルズー石油精製工場建設(7,000万ドル)タグボート14隻の輸出(600万ドル)スキクダLPG貯蔵センター建設(1,060万ドル)が契約されており,さらに目下エレクトロニック工場,繊維工場,アンモニア工場,精油所(スキクダ)等の建設計画ならびに鉄道車輛,石油タンカー,電話交換機,建設機械等の輸出の商談が進行し,あるいは計画されている。
従来,わが国とアルジェリアとの貿易関係は常にわが国の大幅な出超を記録している。特に1965年度においてはその対比は292対1に達した。これを不満としてアルジェリアは,1966年2月に合成繊維を輸入割当制へ移し,さらに1967年2月より日本品に対し,それまで適用されていた共通関税の3倍に当る一般税率を適用するに至つた。このため1967年度のわが国の対ア輸出は65年度の半分以下に激減するとともにわが方の買付努力によつて輸入は同年の5倍を上回る増加を記録し,極端なアンバランスがかなり是正された。しかし,その後上記の経済開発計画の進捗に伴いわが方の生産財輸出は増大し,アンバランス問題は依然として両国経済関係推進上の障害となつている。このような情勢にあつて,わが方としては3倍関税の撤廃方を折にふれアルジェリア側に申し入れているが,アルジェリアとしては,貿易アンバランスの改善にはわが国によるアルジェリア産品の買付増大が必要であるが同時に技術協力や信用供与等により日本がアルジェリアに対し積極的な協力を行うことを強く要望している。
トルコは1968年より実施している第2次5ヵ年計画において総額約120億ドルを投資し,成長率7%を目標としているが,特に工業部門の投資とトルコ東部地方の農村開発に重点を置いて,種々の大型プロジェクトを盛り込んで意欲的に経済開発を進めている。
日土間の経済協力については,第1次5ヵ年計画が始まつた1963年頃よりトルコ側より積極的なアプローチがあつたが,1967年4月に至り,アクス製紙工場建設のため,据置5年を含む17年,年利5.5%の条件で1,570万ドルの延払輸出を行う契約が成立し,わが国の対土経済協力の最初の実績が作られた。さらにわが国は1969年欧亜両大陸を結ぶボスフォラス架橋プロジェクトに対してわが国企業が落札した場合3,000万ドルの借款を据置5年を含む20年,年利4.5%の条件で供与することを約したが,わが国企業が同橋建設の国際入札において,落札に失敗した。
また,1970年3月にはトルコ政府の招待により,経団連から対トルコ民間経済ミッションが派遣され,9月には経団連の招待によりオザール・トルコ国家計画庁次官を団長とするトルコ経済ミッションが訪日し,双方で日土民間協力の可能性について調査,検討が行なわれた。
この地域には9つの首長国があるが(人口合計約435,000人,面積約95,000km2)近年急速な石油産出量の増加を背景として,大規模な開発投資を実施しつつある首長国が多く将来の経済発展が期待されている。ことにアブ・ダビーが年産2,660万トンを産出するに至り,カタルは1,300万トン,バハレーン,ドバイでそれぞれ700万トン,500万トンを産出しており,他の4首長諸国においてはまだ石油の産出を見ないが,現在それぞれ探鉱が行なわれている。また1971年末までに同地域より英軍撤退が行なわれる可能性が大きくなり,首長諸国連邦構想等,今後の動向が注目される。
1970年におけるわが国の同地域への輸出額及び当地域よりの輸入額は,それぞれ52百万ドル(前年比2%増),143百万ドル(石油)で,中近東地域においては,イラン,クウェイト,サウディ・アラビアに次ぐ額に達しており,今後当地域の発展とともに貿易関係がさらに増進してゆくことが予想される。
さらに本邦企業による石油開発についても1968年アブ・ダビー沖合に石油利権を獲得したアブダビ石油,同国の陸上に利権を獲得した中東石油,1969年カタル海上利権を獲得したカタール石油があるほか,1970年にはアブ・ダビーとカタル間海上境界にあるアル・ブンドク油田を英国BPと提携して開発を行なうことを目的として合同石油開発が設立された。1970年9月,アブダビ石油は4本目の油井にて産油に成功,これまでの探鉱結果よりみて良質の低硫黄油の存在が確認されており,商業量の油田になることが期待されている。
1971年1月中旬より約2週間にわたり中山素平OTCA会長を団長とする大規模なアラビア湾経済使節団が彼我の理解と親善関係の増進及びこれら諸国の社会経済開発に資しうるわが国の役割についての認識をうることを目的としてこれら諸国を歴訪した。また同時期にLPG・LNG調査団も同地域を訪問した。このような動きを通じ,同地域と我国との関係が急速に緊密化している。
イラクは極端な片貿易(イラク側は国際石油資本による石油輸出は貿易収支から除外しているため,石油を除くと従来よりわが方の一方的出超となつている)及び日本側のデーツ買付状況に対する不満から1969年1月より消費財,次いで2月より生産財に対する対日輸入ライセンスの発給停止措置を実施している。その間70年1月に至りイラク側はINOC(イラク国営石油会社)の原油(72年に生産開始の見込)買付及びINOCの石油産業への参加を条件に日本側から1,000万イラク・ディナール(約2,800万ドル)の輸入を認める提案を行なつてきた。わが国政府及び関係業界は前年に引き続き種々対策を検討し,輸入制限措置の早期撤廃に努力するとともに,上記提案を慎重に検討してきたがいまだ問題の解決を見ず,1970年度のわが国の対イラク輸出は1,594万ドルに止まつた。(1969年度は2,515万ドル)