―ソ連―
第6章 ソ 連
1. 概 観
わが国は,国益にそう限り,隣国ソ連との間に善隣友好関係を維持・促進することが,日ソ関係のみならず,極東の平和と安全に資するとの基本的立場に立つて,ソ連との友好関係の増進に努めているが,1970年を通じ,日ソ関係は,特に貿易,経済開発,文化交流等の分野でひきつづきかなりの進展を示した。
1970年は,1966年に日ソ間に締結された長期貿易協定の最終年に当るが,この協定が五カ年間に予想した日ソ間の貿易量は,既に1969年末にその目標に達したばかりでなく,1970年の貿易量は,輸出入合計で約8億2,100万ドル(通関統計)に達した。また,シベリア開発の定めの日ソ間の協力については,先に合意された極東森林資源開発に関する基本契約に引き続き,1970年末には,ウランゲル港建設に関する基本契約が日ソ関係者の間に取り決められた。他方,1970年は,万博の年であつたこともあり,ソ連からノヴィコフ副首相をはじめ要人の訪日が相次ぐなど人事交流の面でも活発な動きがみられたほか,70年末には,第二総領事館の相互設置について,日ソ間に合意が成立し,この結果,日本側は,レニングラード市に,またソ連側は,大阪市に,それぞれ総領事館を開設する運びとなつた。
このように,日ソ関係は,実務的な面で,密接の度合を深めつつあるが,それにもかかわらず,日ソ間の最大の懸案であるわが国北方領土の返還問題については,依然として解決のめどすらつかず,かえつて,ソ連側は,わが国の北方領土返還要求の運動を一部人土の策動によるものであると激しく非難する態度に出,また,1970年11月には,日ソ政府間に領土問題に関する声明の応酬が行われた。この間,多少とも,明るい材料と呼び得るものとしては,多年にわたり日ソ間の懸案であつたわが国北方水域におけるいわゆる安全操業問題について話合いが開始されたことである。本問題をめぐる第一回の日ソ政府間交渉は,1971年1月,モスクワで開始されたが,政府は,今後ともソ連側との話合いを通じ,本件の解決を計つてゆく考えである。
1970年8月の独ソ条約の調印,9月2日のソ連の対日戦勝25周年記念等を通じて,ソ連の新聞,放送など報道機関のわが国に対するいわゆる「軍国主義批判」あるいは「復讐主義批判」が増加していつたが,11月11日になつてオコニシニコフ在京ソ連臨時代理大使より森外務事務次官に対して,わが国における北方領土復帰促進運動を非難するソ連政府の口頭声明が行なわれるに至つた。
この口頭声明は,(イ)沖繩・北方対策庁の設置,北方領土問題対策協会の設立,北方領土返還月間の実施,国会議員による北方水域の視察,北方領土復帰促進国民大会の開催と同大会に対する総理府総務長官及び外務政務次官の参加等に見られるように,日本における北方領土復帰促進運動は明らかに日本の公的人士によつて奨励され,かつ指導されているものである。(ロ)かかる運動は日ソ善隣関係の発展と両立し得ないものであり,この運動が活発化することは,日ソ間の実際的諸問題の解決を困難にするのみである。(ハ)既に解決済みの領土問題を日本がとりあげることは,独ソ条約の調印等に見られる現下の国際情勢発展の全般的傾向に逆行するものである。(ニ)日ソ善隣関係の発展,国際緊張の緩和促進を一再ならず言明した日本政府が,上述のソ連政府の見解に十分な注意を払い,かつ,ソ連に対する非友好的な運動を中止することを期待するとの趣旨を述べたものである。
これに対して,政府は,11月17日,森外務次官よりオコニシニコフ在京ソ連臨時代理大使に対し,(イ)ソ連が北方領土の返還を求めるわが国民全体の熾烈な願望をわが国内一部人士の作為的な運動であるとみなし,しかも政府,国会等によって執られた一連の国内的諸措置に対してまで非難を行なつたことは,他国の国内事項に対する干渉の試みと考えざるを得ない。(ロ)北方領土復帰促進運動が日ソ両国関係の実際的諸問題の解決を困難にするとソ連が述べていることは,本末を全くてん倒した議論であり,むしろこのような態度こそ日ソ関係の安定的発展に対する否定的要因となることを惧れる。(ハ)北方領土問題は,歴史上いまだかつていかなる他国の領土ともなつたことのない日本固有の領土をソ連が不法に占拠したままわが国への返還を拒んでいる不自然な状態のみに由来する問題であつて,世界のいかなる他の領土問題とも比較し,ないし同一視され得べき問題ではない。(ニ)わが国はソ連との善隣関係の発展を求めており,日ソ関係を真に安定的な基礎の上に発展させるために,できるだけ速やかに北方領土問題を解決し,平和条約を締結することを希望している。ソ連が北方領土をわが国に返還することによつて日ソ間に平和条約を締結することこそ,ひとり両国関係のみならず,アジアにおける平和と安全の増進に資するゆえんであるとの趣旨を述べた政府の対ソ回答を口頭で行なつた。
(本件に関する日ソ両国政府間の応酬詳細については第3部資料編を参照)。
(1) 安全操業交渉
1969年9月に愛知外相が訪ソした際,同相より,北方水域におけるいわゆる安全操業の問題を解決するため,(イ)日ソ間の領土問題が解決されるまでの暫定的措置として,ソ連側は歯舞群島,色丹島,国後島及び択捉島の周辺のおよそ3~12カイリの水域における本邦漁民の安全操業を認めること。(ロ)右の安全操業が認められる場合には,わが方としてもソ連側に対し,なんらかしかるべき対応措置をとることを考慮する用意があること,の二点を骨子とするわが方の提案をソ連側に示した。その後1970年4月に至つて,ソ連側は日本側と具体的な交渉を行なう用意がある旨,およびソ連側の交渉責任者はイシコフ漁業相となる旨を明らかにした。よつて政府は関係各省間で協議の上,関係漁業者の要望をも勘案した一案を取りまとめて,7月にイシコフ漁業相にこれを提示した。
70年10月末イシコフ漁業相は本件交渉を実際に開始する用意がある旨を明らかにしたので,政府は駐ソ中川大使を代表としてモスクワにおいて11月23日より同相との間に本件交渉を行なわしめることとし,同代表を補佐するため,外務省,水産庁および北海道庁より数名の係官を派遣することとした。しかるに,11月19日,ソ連政府は,在ソ日本国大使館を通じて,イシコフ漁業相が,70年12月8日から開催されるソ連邦最高会議の準備に忙殺されているため,11月23日に交渉を開始することが不可能となつた旨申し越したので,交渉は延期の止むなきに至つた。
その後12月末に至りソ側は翌年1月11日より本件交渉を開始したい旨通報越したので,政府は,1971年1月上旬関係省庁の係官をモスクワに派遣し,1月11日より同15日までソ側と交渉を行なつた。開会式におけるイシコフ漁業相の冒頭挨拶にも見られるように,ソ側は「小千島諸島」なる名の下に,対象水域としては,歯舞群島および色丹島の周辺水域のみを考えているようであるが,北方水域におけるだ捕事件の約47%が国後,択捉両島付近で発生しているので,これらの区域を含まない安全操業の取決めは,問題の解決とはなり得ない。政府としては,かかる基本的な立場に立つて,今後とも,ねばり強くソ側と折衝を続けてゆく方針である。
(2) 漁船の被だ捕状況
北方水域におけるソ連官憲による本邦漁船のだ捕抑留事件は,依然として頻発しており,1946年より1970年末に至るまで,ソ連側に抑留された漁船の総数は1,336隻を数え,抑留漁船員の総数は11,316名に達した。その間ソ連側から返還された船舶は823隻,乗組員は11,265名,だ捕の際または引取りの途中で沈没した船舶は22隻,死亡した者32名である。1970年末現在,491隻,19名が未帰還である。
1970年11月22日,帰港のため歯舞群島秋曾留島沖を航行中の明翔丸はソ連監視船に衝突され,乗組員全員はソ連側に救助されたが,船体は沈没した。この事件につき政府は,ソ連側に抗議するとともに損害賠償の権利を留保する旨,申入れた。
(3) 抑留漁船員との面会
1970年においても,日ソ領事条約の規定に基づき,不法漁労のかどでソ連邦に抑留されている本邦漁船員と在ソ連日本国大使館館員との面会が引き続き行なわれた。すなわち1970年4月に13名,1971年1月に6名の抑留漁船員との面会が実施され,大使館員が抑留漁船員の健康状態,希望等を問うた。
政府は今後とも抑留漁船員の早期釈放を求めるとともに,右が実現するまでの間は,抑留漁船員との面会を引き続き行なつてゆく方針である。
(1) 貿 易 概 況
1970年の日ソ貿易実績は,通関統計で輸出約3億4,200万ドル,輸入約4億7,900万ドルであつた。1969年に比べて,輸出が27%増加したのに対し,輸入の伸びは僅かに4%に過ぎなかつた。これによつて1968年以来の大幅入超(入超幅1968年2億8,500万ドル,1969年1億9,400万ドル)はかなり改善されて,1億3,700万ドルとなつた。
輸出が伸びた原因は機械類が伸びたためで,繊維,化学品,鉄鋼製品は横ばいであつた。船舶はしゆんせつ船以外は輸出皆無であつた。
一方輸入の方は,ここ数年間の傾向である横ばいが続いており,微増である。品目の内容も大きな変化なく,僅かに木材,鉄鉱石,白金属が増えている。原油はサハリン産のものが約60万キロ・リットル輸入されたが,黒海積のものは輸入されていない。
(2) 日ソ経済委員会の活動
1965年に日ソ民間ベースで合意された日ソ経済委員会,ソ日経済委員会の合同会議,両国の専門委員の会合が重ねられた結果,1968年7月29日に日本のケイエス株式会社とソ連の木材輸出公団との間に「極東森林資源開発に関する基本契約」が締結されたが,これに続いて1970年12月18日に「ウランゲル港建設に関する基本契約」が日本のワイブイ株式会社とソ連のマシノインポルト貿易公団との間に締結された。いわゆる「シベリア開発プロジェクト」第2号である。
上記の2つのプロジェクトに続いて,「北サハリン天然ガス開発輸入」,「広葉樹パルプ材とチップの開発輸入」,さらに「ヤクート原料炭開発輸入」についても,日ソ経済委員会とソ日経済委員会との間で話し合いが行なわれている。
「極東森林資源開発基本契約」による輸出総額は約1億6,000万ドル,「ウランゲル港建設に関する基本契約」による輸出総額は約8,000万ドルと見積もられている。
日ソ両国は日ソ領事条約に基づき,1967年にそれぞれ相互にナホトカ市および札幌市に総領事館を設置したが,1970年12月,日ソ間において第二総領事館設置に関する書簡が交換され,その結果,日本側はレニングラード市に,ソ側は大阪市に,相互に総領事館を設置すること,および在レニングラード日本総領事館の管轄区城はレニングラード市,在大阪ソ連総領事館の管轄区域は大阪市とすることが合意された。