―わが国と各国との諸問題―

 

第1章 わが国と各国との諸問題

 

第1節 ア ジ ア 地 域

 

1. 概   観

 

(1) わが国とアジア

 わが国はアジアの一員として,アジア地域の平和と繁栄に対し深い関心を有している。

 近年多くのアジア諸国は,経済開発に力を注ぎ着実に国内基盤を強化するとともにアジア諸国の間での地域協力を活発に推進し相互扶助の気運が高まつてきている。他面,アジア諸国特有の複雑な社会構造,経済的後進性等に基づく不安定性は短期間で解決することが困難な問題であるうえ,アジアの分裂国家をめぐる対立と紛争も引き続き存続している状態であるので,アジア情勢は依然として流動的に推移するものとみられる。

 アジアをとりまく諸大国の動きには最近微妙な変化がみられ,特に米国政府がアジアの安全保障に対する役割を今後も引き続き担うとの立場を明らかにしつつもアジア諸国における駐留兵力を段階的に縮小していることはアジア諸国の注目するところとなつている。わが国としては,アジア諸国に対する各種経済協力の拡充を図るとともに東南アジア開発閣僚会議,ASPAC,ECAFE,アジア開発銀行等アジアの各種地域協力を積極的に推し進め,アジア諸国の経済発展を支援しアジア全体の緊張を緩和して平和と安定を確保するよう努力している。

(2) アジア諸国との貿易経済関係

 アジア地域は,わが国にとつて総輸出の3割近くを占める大きな輸出市場であると同時に加工貿易立国としてのわが国にとって資源の輸入先としても重要な地域である。1970年(1月~9月)の対アジア貿易実績(共産圏を除く)は,通関べースで輸出35億2,420万ドル,輸入21億8,770万ドルであつた。

 70年1~9月の対アジア輸出は前年同期比9.7%増にとどまり,わが国総輸出の伸び20.7%を大幅に下回つた。他方,輸入面では,70年1~9月の対アジア輸入は27.4%増という高い伸びを示した。これを過去の伸び率なわち1968年の10.6%増,1969年の20.0%増と比較してみると,最近になつてこの地域からの輸入が加速度的に増加してきている傾向をうかがうことができる。特に韓国(対前年同期比69.3%増),中華民国(同32.9%増),香港(同33.0%増)からの輸入増加率はいずれも3割を上回つており,これを品目別にみると軽機械,機器および雑貨が中心である。このような傾向は,これら諸国における軽工業の発達振りを示すものとみられる。また,インドネシア(同62.2%増),インド(同22.3%増)からの原材料を中心とする輸入の増加は,わが国の活発な工業生産活動に基づく根強い需要の動きを示すものといえる。

 以上の対アジア貿易の動向を総合してみると,70年に入つてわが国の対アジア貿易バランスは輸出の停滞と輸入の堅調により著しい均衡化への傾向を示している。69年におけるわが国の対アジア貿易が輸入1に対し輸出1.9であつたものが70年1~9月では1対1.6に改善してきている。特に個々の国との関係では,韓国(1対5.7から1対3.7へ),中華民国(1対3.4から1対2.8へ),およびタイ(1対2.6から1対2.3へ)との関係の改善が著しい。

 

2. アジアの地域協力機構とわが国

 

(1) アジア・太平洋協議会(ASPAC)

 (あ) 第5回閣僚会議

 ASPAC第5回閣僚会議は,1970年6月17日から19日までの3日間ニュー・ジーランドの首都ウェリントンにおいて開催され,日本,韓国,中華民国・ヴィエトナム,タイ,マレイシア,フィリピン,豪州及びニュー・ジーランドの加盟9カ国の外相またはこれに代わる閣僚が出席したほか,ラオスがオブザーバーとして参加した。

 この会議では,アジア・太平洋をめぐる国際情勢及びASPAC地域に関係ある諸問題等について討議が行なわれ愛知外務大臣は,「各種の意見交換から生まれるアジアの声に対し,アジア諸国はもちろん,域外の諸大国,国連等の国際機関が十分耳を傾けるよう」呼びかけるとともに「わが国は,アジアにおける国際緊張の緩和,アジア諸国民の福祉の向上,アジア地域の永続的な平和と繁栄のためによりいつそう努力したい」旨述べた。

 さらに,各国代表は,過去1年間ニュー・ジーランドにおいて行なわれたASPAC常任委員会の報告書,ASPACプロジェクトに関する報告書,次回閣僚会議までの作業計画等について検討を行なつてこれをテーク・ノートした。

 このあと会議は「加盟国政府は緊張を緩和し,安定と平和的発展を促進する方途を探究するため進んで域内の他の政府及び組織と協力する用意がある」旨の共同コミュニケを発表し,会議を終了した。

 なお,次回第6回閣僚会議は1971年フィリピンで開催することに決定した。

 (い) ASPACプロジェクト

 1970年6月の第5回閣僚会議においてはタイの提案による経済協力センター(加盟各国間の経済協力,貿易,投資等を助長するための調査,研究を行なうことがその主な目的)の協定が署名され,また,フィリピンよりアジアの青年を村落開発等の奉仕活動に参画せしめることを目的とするASPAC青年奉仕員計画が提案された。このほか,わが国が提案した海洋協力計画に関しては1970年11月東京において専門家会議が開かれ海難救助,水路業務の協力関係等について検討が行なわれた。

 これにより,ASPACプロジェクトはすでに設置された文化社会センター(韓国),科学技術サービス登録機関(豪州),食糧肥料技術センター(中華民国)を合せ,6件を中心に推進されることになつた。

(2) 東南アジア開発閣僚会議

 (あ) 第5回東南アジア開発閣僚会議

 第5回東南アジア開発閣僚会議は,1970年5月22日から25日までインドネシアのジャカルタで開会式を行なつた後,ジョクジャカルタで3日間にわたり討議を行なつた。参加国は,従来どおり,わが国のほか,インドネシア,ラオス,マレイシア,フィリピン,シンガポール,タイ,ヴィエトナムで,カンボディアはオブザーバーを派遣した。また,アジア開発銀行,ECAFE,FAO,UNDP,WHO等の国際機関からもオブザーバーが出席した。

 今回の会議においては,70年代を迎え東南アジアの開発をいかに促進してゆくかについて参加閣僚間で率直な意見の交換が行なわれたが,わが国を代表して,愛知外務大臣はわが国が1975年までに国民総生産1%の援助量目標達成に努力する旨を明らかにするとともに,70年代を東南アジア開発の10年とすべく相互のパートナーシップを強化してゆくことを呼びかけた。これに対し,各国代表は,地域の開発と推進するための相互協力の重要性を強調するとともに,開発途上国が開発達成の第一義的責任を有し,外国からの援助を増加せしめるため国内資源を最大限に活用すべく決意している旨を確認した。また,農業,マンパワー開発に対する意欲が表明され,わが国援助のいつそうの条件緩和等についても希望が表明された。

 会議では,従来の閣僚会議を母体として生れ既に活動を関している既存のプロジェクト,すなわち「東南アジア漁業開発センター」,「アジア開発銀行特別基金」,「東南アジア運輸通信会議調整委員会」の活動状況につき報告が行なわれたほか,新しい地域プロジェクトとして次の諸項目が討議された。

 (イ) 経済開発促進センター

 (ロ) 1970年代における東南アジア経済分析

 (ハ) 公衆衛生及び殺虫剤統制に関する地域プロジェクト

 (ニ) 淡水魚,汽水魚養殖部局の設置

 (ホ) 経営教育の必要に関するフィージビリティ調査

 (ヘ) アジア医療機構(AMO)

 (ト) 東南アジア開発援助計画

 (チ) アジアの租税制度の研究及び調査

 (リ) 東南アジア工科大学設置

 (い) 閣僚会議の諸プロジェクトの進捗ぶりは,次のとおりである。

 (イ) 1970年代の東南アジア経済分析

 第4回閣僚会議でタイより提案され,アジア開発銀行が取りまとめにあたつていたこの調査は,1970年11月に報告書として完成した。

 本報告書は「緑の革命」「工業化」「貿易」「対民間投資」「人口問題」等をとりあげ分析を試みるとともに種々の示唆,提言をも行なつており東南アジアの開発の諸問題を検討するに際し有益な参考となろう。

 (ロ) 経済開発促進センター

 本センターは,第3回閣僚会議におけるタイの提案に基づき,地域協力により東南アジア諸国とわが国の間の貿易の拡大,わが国からの投資及び観光促進を図ることを目的とし,東京にセンター事務局を設置するとの方向で検討が進められてきているものである。

 1971年3月東京でセンター設立のための作業部会が開催され,その結果,本センターの早期実現につき第6回閣僚会議に勧告されることになつた。

 (ハ) アジア医療機構構想

 第5回閣僚会議において,わが方代表より,アジア地域の医学の進歩及び医療水準の向上が経済社会開発の基礎的条件の一つであり,かつ,このためには,共通の課題に悩むアジア諸国の相互協力がきわめて重要であるとの観点から地域協力の推進を提唱した。

 1971年3月東京に東南アジア諸国の保健衛生省当局者及び医学界の代表者の参加をえて医学,医療の向上のみならず,保健衛生の問題をも含む相互協力の問題につき意見交換が行なわれた。これら諸問題については第6回閣僚会議に報告の上,更に関係国間で検討を行なうこととなつた。

 (ニ) アジア租税制度の研究及び調査

 第5回閣僚会議において,比より地域協力を通じて域内各国の税制,税務行政の改善,強化を図ることが重要であるとして,各国情報交換のためのスタディグループ開催を提案したが,右会合は,1971年2月マニラで開催された。

本件会合においては,わが国はじめ東南アジア各国租税担当官の間で税制上の諸問題,特に経済開発との関連における投資奨励のための課税上の諸問題につき意見,経験の交換が行なわれた。

 (ホ) 東南アジア運輸通信調整委員会

 本件調整委員会はマレイシアに事務局があり東南アジアにおける運輸通信品プロジェクトの調査事業を推進している。わが国は,オブザーバーとしてこれに参加している。1971年2月第9回の委員会会合を外務省において開催した。

 (ヘ) 東南アジア人口問題閣僚会議

 第5回閣僚会議においてマレイシアは東南アジアの人口問題につき域内閣僚レヴェル意見交換を行なうための会合を提唱したが,1970年10月クアラランプールにおいて,会合が開催された。

 この会議においては,家族・人口計画に関する意見及び情報交換が行なわれ,今後も閣僚レヴェルで随時会合すること,また,そのため委員会をマレイシアに設置すること等が合意された。

 (ト) 東南アジア漁業開発センター

 東南アジア漁業開発センターは,東南アジアにおける漁業開発の促進に寄与することを目的として1967年12月に設立された機関で東南アジア開発閣僚会議が生み出した最初の地域協力プロジェクトである。

 現在センター加盟国は日本,マレイシア,フィリピン,シンガポール,タイ及びヴィエトナムの6ヵ国で,事務局はバンコックにある。センターには現在訓練部局(バンコック)及び調査部局(シンガポール)があり,また加盟各国より訓練生を受け入れ,あるいは域内の漁業資源の調査を本格的に行なう等の事業を行なつている。

 現在これら部局の他に養殖部局をフィリピンに設置することが検討されている。わが国は,センターに対し船舶,器材の調達資金を拠出したほか専門家の派遣,奨学金の拠出等により協力を行なつている。

(3) アジア開発銀行

 アジア開発銀行は1966年12月,アジアと極東地域の経済成長を助長し,地域の開発途上国の経済開発を促進することを目的として設立された。70年12月,業務開始後満4年を経過したが,70年3月にフィージー,7月にはフランスをメンバーに加え,加盟国は35カ国(域内21カ国,域外14カ国)となり,フランスの加盟をもつて欧米先進国はすべて同銀行のメンバーとなつた。

 アジア開銀の業務は順調に推移し,70年末現在,15カ国に対し58件385百万ドル(うち特別基金による有志16件55百万ドル)の融資案件,また14カ国及び地域調査等に対し約9百万ドルの技術援助案件を承認している。

 融資条件は通常財源(資本金,借入金)による融資について当初,金利6と7/8%,約定手数料3/4%であつたが70年5月,国際的高金利傾向と銀行の将来の主要財源が借入金となり,資金コストが高くなるとの判断から,金利7と1/2%に引下げた。

 今後,アジア開銀は,緩和された条件で融資しうる特別基金の充実をはかり,通常財源と特別基金財源とをコンバインして融資を行う方針である。

 アジア開銀は地域の経済開発の基本となる諸問題の調査にも取り組んでおり,70年11月には,「70年代の東南アジア経済の研究」調査を完了した。本研究は,第4回東南アジア開発閣僚会議において調査委託をうけ,わが国からも,大来佐武郎博士,小島清教授,広野良吉教授が専門家として参画し,アジア開銀においてとりまとめたものであり,71年の第6回東南アジア開発閣僚会議に報告されることとなつているが,同報告書は,東南アジア諸国自身が,70年代においてとるべき具体的な経済政策について論じている点において注目すべき報告書である。

 また,68年末から開始された地域運輸調査は,71年3月末報告書案の完成が予定されており,長期的見通しにたつて東南アジア8カ国の経済成長との関連で運輸問題の分析を試みるとともに具体的プロジェクトについても示唆を行なおうとするものである。

 わが国は域内先進国として従来からアジア開銀に対し積極的な協力を行なつており,応募資本約10億ドルのうち2億ドルを応募し,米国とともに最大の出資国となつている。また,特別基金に対しても68年,農業特別基金に対し,20百万ドル,69年及び70年に多目的特別基金に対し,各々20百万ドル,30百万ドルの拠出を行なつている。1970年末のアジア開銀の特別基金の資金規模は農業特別基金23百万ドル(内日本拠出分20百万ドル)多目的特別基金115百万ドル(内日本拠出分50百万ドル)となつており,日本の拠出額のウエイトは極めて高い。

 わが国は,また,銀行が主として贈与ベースにより行なつている技術援助に対しても,協力を続けており,68年以降70年末までに131万ドルの拠出を行なつている。

 また,70年夏頃から話し合いの進められていた60億円にのぼるアジア開銀の円貨債の本邦発行が,70年12月に実現したことは,アジア開銀の将来の主要財源たる借入金のソースを銀行の最大出資国日本の金融市場に開いた点および,日本にとつてはじめての外債発行という二重の意味で,意義深い。

 アジア開銀は,アジアの地域の経済開発にとつて重要な機関であり,その実績を高く評価されているが,業務拡大にともない財源確保が重要な問題となり特別基金の充実とともに71年には増資問題の討議が予定されている。

(4) アジア生産性機構(APO)

1 アジア生産性機構は,1961年5月,アジア諸国における生産性の向上を目的として設立された国際機関で,わが国をはじめアジア地域13ヵ国および香港が加盟しており事務局は東京におかれている。この機構は,セミナー,訓練コース等を開催するほか,視察団,専門家を派遣し,中小企業の経営改善,生産技術の向上などにつき,加盟国への協力,助言にあたつている。

2 アジア生産性機構は設立10周年にあたる1970年を「アジア生産性年」とし,加盟諸国で生産性運動を強力に展開するとともにそのハイライトとし,同年8月,東京でアジア生産性大会を開催,アジア生産性宣言を行ない,生産性意識の高揚につとめた。

また同年7月には同機構設立以来3期9年事務局長を務めた押川一郎氏にかわり関守三郎氏が新事務局長に就任した。

 わが国は,同年14万5千ドルの分担金,19万5千ドルの特別拠出金を拠出し,また,わが国で実施される同機構の事業費の一部として約18万ドルを支出した。また訓練コースなどの実施については,わが国の企業が協力している。

 

3. 各国との関係

 (1) 朝鮮半島

 (あ) 概 説

 わが国は,朝鮮半島における緊張が緩和の途をたどることを強く念願し,韓国の発展と国民福祉の向上にできる限り協力することがこの地域における平和と安定に寄与するとの基本的立場に基づき,1965年韓国と国交を回復して以来両国間の友好協力関係の発展につとめてきた。

 過去1年の両国間の関係をふりかえつてみると,一方で,定期閣僚会議,貿易会議,漁業協同委員会において,両国の直面する国際情勢,貿易,経済協力,漁業等の問題に関し話合いが行なわれるとともに,他方,在日韓国人の法的地位問題について当局者間に協議が行なわれた。

 また,この1年には韓国の大阪万博参加もあり,両国間の人的交流がいつそう深まり,両国民間の相互理解も一段と高まつたといえよう。

 (い) 韓国との関係

 (イ) 第4回日韓定期閣僚会議

 第4回日韓定期閣僚会議は,1970年7月21日から23日までの3日間,ソウルで開催された。

 会議には,日本側から,愛知外務,福田大蔵,倉石農林,宮沢通産,橋本運輸,佐藤経企の6閣僚および大和田水産,佐々木特許の2長官,韓国側から,金鶴烈副総理兼経済企画院長官,崔圭夏外務部,南ドク財務部,趙始衡農林部,李洛善商工部,白善華交通部の6閣僚および具滋春水産庁長が出席した。会議は,全体会議および個別会議において,国際情勢および両国関係,経済協力,財務,貿易,農林水産ならびに交通運輸の各問題について,率直な意見の交換を行ない,共同コミュニケの採択を行なつた。

 この会議において,両国の閣僚は,両国の安全と繁栄がきわめて密接な関係にあることを認め,わが国が,韓国側の要請にこたえて,機械工場建設等重工業の育成計画に協力すること,農業近代化,輸出産業育成,中小企業振興のため1億ドルの新規借款供与について前向きに対処することを約束するなど,両国の協力関係緊密化のための顕著な成果を収めた。

 (ロ) 在日韓国人の法的地位問題

 日韓法的地位協定に基づく永住権取得の5年間の申請期間は,1971年1月16日に終了した。

 これに先立ち,1970年10月27日及び28日,日韓両国の法務次官会談が開かれ,協定の運用に関して意見の交換が行なわれた。

 協定永住権申請者最終数は,35万人をこえるとみられている。

 (ハ) 竹島問題

 前年に引き続き,1970年9月に行なった竹島周辺の海上巡視の結果に基づき,同年11月13日,韓国の竹島不法占拠に対し抗議し,即時撤退を求める口上書を発出したが,韓国側は,11月4日,同じく口上書をもつて同島が韓国領なる旨を主張し,従前からの態度を変えていない。

 (ニ) 経済関係

 1970年のわが国の対韓輸出額は8億1,900万ドルで,韓国はわが国にとりアメリカに次ぎ世界第2位の輸出市場となつており,他方,同国からの輸入は2億2,900万ドルとなつている。

 韓国側は従来から,日韓貿易の不均衡を是正するため,わが国に対し,一次産品を始めとする韓国産品の輸入自由化ないし輸入枠の拡大,関税の引き下げ,加工貿易の促進などを要求してきた。このような韓国側の要求に対しては,わが国としてもできる限りの努力をしており,1970年には韓国の対日輸出が前年の71%増と大幅に伸びたため,わが国の韓国に対する輸出入比率は1969年の5.7対1から70年には3.6対1となり,アンバランスはかなり是正されている。

(i) 第7次日韓貿易会議

 第7次貿易会議は,1970年6月24日から26日までソウルにおいて開催された。この会議においては,両国間貿易の不均衡是正問題,関税問題,加工貿易,工業所有権相互保護問題などが討議された。

(ii) のりの貿易に関する会談

 第7次貿易会議の一環として,のりの貿易に関する会談が,1970年3月9日から12日まで,および6月15日から18日まで東京において開催された。

(iii) 3次日韓農林水産技術協力委員会

 農林水産技術協力委員会の第3次会議は,1970年9月1日から4日まで東京において開催された。この会議においては,農林水産分野における日韓両国間の技術協力を促進するための諸方策が討議された。

(iv) 租税条約

 日韓租税条約の締結は長年の重要懸案であつたが,1970年3月3日東京において署名が行なわれ,9月29日の批准書交換を経て10月29日に発効した。

 (ホ) 経済協力関係

(i) 無償経済協力

 韓国に対するわが国の無償経済協力は,両国の間の請求権・経済協力協定(1965年6月22日署名)により,1965年12月18日より10年間にわたり総額1,080億円(3億ドル)にあたる日本の生産物または役務が供与されることになつている。1970年12月末現在,供与額は,契約認証額で469億2,800万円(約1億3,000万ドル),支払額では清算勘定残高相殺の82億3,100万円を含めて543億500方円(約1億5,100万ドル)である。なお,主な供与品目は,農水産開発機材,漁船および関係機材,肥料,繊維品,建設資材,機械類などである。

(ii) 有償経済協力

 韓国に対するわが国の有償経済協力(海外経済協力基金による長期低利貸付け)は,請求権・経済協力協定により,1965年12月18日から10年間にわたり総額720億円(2億ドル)が供与されることになつている。

 これまでに,29件の事業計画について合意が成立し,このうち25件に対し貸付契約が締結され,1970年12月17日に終了した第5年度現在で8,756万ドルを供与し,すでに10件が供与を完了している。

 援助の対象となつた主たる事業は,中小企業育成3,000万ドル,鉄道設備改良2,100万ドル,昭陽江ダム2,100万ドル,海運振興900万ドル,高遠道路800万ドルなどである。

(iii) 間信用供与

 民間信用の供与状況は,1970年12月末現在の承認実績で,一般プラント3億7,539万ドル,漁業協力2,902万ドル,船舶輸出2,547万ドルで,総額約4億3,000万ドルとなつている。

(iv) 総合製鉄所建設計画に対する協力

 1969年8月の第3回日韓定期閣僚会議において,韓国側は,総合製鉄所の建設計画に対する協力をわが国に要請してきた。

 この時の合意に基づき,同年9月にわが国から韓国に鉄鋼調査団が派遣され,その後両国政府の事業当局間で技術的,資金的問題について協議が行なわれた結果,同年12月,本計画に対する協力は,請求権・経済協力協定の無償,有償の資金7,370万ドル,および輸銀べースの輸出延払5,000万ドル,計1億21370万ドルの融資により行なわれることとなつた。

 総合製鉄所の規模は,粗鋼年産103万トンで,工期は1970年4月に着工,1973年7月末までに完成を予定している。

(v) 重工業の育成計画に対する協力

 1970年7月の第4回日韓定期閣僚会議において,韓国側は,機械工場の建設など重工業の育成計画について日本側の協力を要請した。これに対し日本側は,韓国の重工業の育成が総合製鉄所の有効な活用および経済発展のため緊要であることを認識し,重工業育成に必要な調査などの協力を行なう用意があること,また,この調査に基づき必要な協力をする用意がある旨を約束した。

 この合意に基づき,同年10月から11月にかけて,わが国から,韓国重工業調査団が派遣された。

(vi) 新規借款

 1970年の第4回日韓定期閣僚会議において,韓国側は,韓国の農業の近代化,輸出産業の育成および中小企業の振興のため日本からの機器資材の輸入確保に要する1億ドルの新規借款の供与をわが国に要請した。わが国はこれに対し,前向きで対処することを約束した。その後両国事務当局間で協議を行なつた結果,農水産業の近代化に役立てる72億円(2,000万ドル)までの借款供与に関する書簡が1971年2月18日,交換された。

(vii) 直接投資

 韓国の外資導入は,借款形態によるものが圧倒的比重を占めているが,近年韓国政府は,借款の元利償還問題を考慮して直接投資による外資の受入れを重視するようになり,外国企業の誘致に努めている。このような背景もあつて最近わが国の企業の間に対韓投資の気運がたかまり,1970年末現在,約80件,総額約1,900万ドルの案件に許可が与えられている。

(viii) 技術協力

 韓国に対するわが国の技術協力のうち研修員受入れ,専門家派遣人数は1970年12月末までの累計でそれぞれ1,077名および65名に達している。また,1970年度1年間についていえば工業技術訓練センターに対し2,300万円の機材供与を行なつたのを始め,医療協力として,寄生虫対策,成人病対策のための医療器材を供与した。更に,海水恒温水槽装置1,230万円の供与も行なつている。

なお,1970年の第4回日韓定期閣僚会議においての韓国側の要請に基づき,同年9月から10月にかけて,都市交通調査団を韓国に派遣した。

(う) 北朝鮮との関係

 わが国は北朝鮮と国交を有していないが,過去の歴史と地理的近接性に基づく事実上の接触は存在している。

 (イ) 貿     易

 わが国と北朝鮮との貿易は,1965年までは輸出入のバランスがほぼ保たれていたが,1966年以降は,わが国の入超が続いている。1970年の貿易額は,通関統計で,総額5,775万ドル,そのうちわが国の輸出が2,334万ドル,輸入が3,441万ドルとなつている。

 (ロ) 北朝鮮帰還問題

 1959年12月に始まつた在日朝鮮人の北朝鮮帰還事業は,約8万8千人の帰還をみて,1967年11月所期の目的を達成し終了した。

 その後コロンボにおいて帰還協定有効期間中の申請ずみ帰還未了者の取扱いなどについて日朝両赤十字会談が行なわれ,これらの人々については,一定の期間を限り従来の帰還方法に準じて行なうことで事実上合意に達したが,その後新たに北朝鮮向け出国を希望してくる人々の取扱いについて日赤側が一般外国人同様(ただし出国希望者が交通手段の不足のため相当数たまる場合北朝鮮側の配船を認める)との説明を行なつたのに対し,朝赤側が帰還協定の実質的無期限延長を主張したため,1968年1月に決裂した。

 その後1968年9月の日赤提案,これに対する1969年3月の朝赤側拒否回答等書信・電信により語し合いは継続され,1970年12月よりモスクワにおいて再び行なわれた日朝両赤十字会談において,1971年2月5日コロンボ会談の際の日本側提案にそつた形で合意に達した。

 日赤はこの合意にもとづき,帰還希望者の意思確認等必要な措置を開始している。

(2) 中  国

(あ) 概  説

 わが国は,中華民国政府との間に1952年に平和条約を締結し,これと外交関係を維持しつつ,他方中国大陸に約8億の人口を擁する中華人民共和国政府が存在する事実を認め,日中間の,貿易・文化・人の交流をはじめとする民間レベルの各種の接触を促進してきた。このようなわが国の対中国政策は,中華民国政府および中華人民共和国政府の双方が,いずれも中国全体の主権者であるとの立場を主張している現実を前提として打ち出されたものである。

(い) 中華民国との関係

 (イ) 1970年の万博に際し,中華民国の厳家淦総統夫妻は,政府賓客として7月6日から12日の間,わが国を来訪し,その間天皇皇后両陛下との謁見,佐藤総理との会談等を行つた。

 (ロ) 1970年のわが国の対華貿易の総額は,9億5,308万ドル,うち輸出7億230万ドル,輸入2億5,078万ドルで,それぞれ前年比15.8パーセント,38.9パーセント増と大幅に増大した。

 (ハ) 第4回日華貿易経済会議は,1970年5月26日から4日間東京において開催され,両国間の貿易不均衡問題,りんご輸出の拡大,ポンカン輸入の拡大,バナナ問題等について率直かつ実質的な語し合いが行なわれた。バナナ問題については,その後も8月末及び11月末に引き続き話し合いを行なつた。

 (ニ) 政府ベースの資金協力については,1965年4月日本政府は1億5,000万ドル相当の円借款借与を約し,1970年11月末現在9,300万ドルが支払われている。また本円借款の使用期限は,1970年4月25日までとなつていたところ,4月24日付の交換公文において,使用期限を1974年6月30日まで延長すると同時に,基金による借款の未使用残額の一部を南北高速道路計画に使用すること等に両国政府は合意した。第5次実施取決めは,遅れていたが,上記交換公文の結ばれた直後,4月28日締結された。

 なお,新規円借款の供与については,総枠を決定する方式をとらず,中華民国側の提示するプロジェクトを個々に検討し,台湾の国民経済及び民生の安定に直接寄与すると認められるプロジェクトを積み上げる方式で検討されることとなつている。

民間ベースの資金協力については,民間投資(証券投資)が1970年3月末現在312件,5,198万ドル,延払い輸出が,1966年度から1969年度末まで,3億605万ドルとなつている。

 (ホ) 中華民国に対する技術協力の面については,研修員の受入れ,専門家の派遣,開発調査(台中港建設計画調査),職業訓練センター(45年10月開所)への要員派遣等を行なつた。

 (ヘ) 二重課税防止のための日華租税協定の締結については,わが方よりすでに協定草案を中華民国側に手交していたところ,中華民国側の対案の提出があつたので,現在事務当局で検討中である。

 (ト) 1970年夏頃より,日華間の懸案として,尖閣諸島領有権問題及び東シナ海大陸棚問題が表面化したが,日本政府としては,前者については,尖閣諸島がわが国の領土であることは議論の余地のない事実であるので,いかなる国の政府とも交渉する考えはないとの基本的立場を堅持しており,また後者については,日華間の円満なる話し合いにより解決したいとの方針をとつている。

(う) 中国大陸との関係

 (イ) 北京政府は,1969年11月の日米共同声明を「日米反動派の軍事的結託を新たな段階にまで引き上げた」ものとして強い反発を示し,その後1970年4月に発表された中朝両国政府共同声明および同月発表された日中覚書貿易の会談コミュニケにおいて「日本軍国主義はすでに復活した」とのはげしい対日非難を行なつた。

 1971年3月に調印された日中覚書貿易の会談コミュニケは,昨年のコミュニケを基礎とするのみならず,新たに日華平和条約の破棄などをとり上げ,その論調は昨年よりさらに一段と硬化している。

 (ロ) 一方,日中間の人事交流は,なお文化革命以前の状態には回復していないが,1970年3月より4月にかけ,自由民主党の松村謙三議員が4年ぶりに訪中し,藤山愛一郎議員も初めて訪中するなどしだいに増加の傾向を示している(藤山議員は,1971年2月にも訪中した)。邦人の中国本土への渡航数は,1970年1月より11月の間において2,963名に達した(1969年は,年間を通じ2,572名)。

 また,1971年3月には,同月より名古屋で開かれる世界卓球選手権大会およびその後各地で開かれる予定の日中親善試合に参加するため,中華人民共和国の卓球選手団(60名,団長趙正洪)が5年ぶりに来日した。

 (ハ) 1970年の日中貿易は,総額8億2,548万ドル(前年比32.0%増)に達し,いわゆる周4条件問題はあつたものの史上最高値を記録した。

 とくに,輸出は5億7,711万ドルで,前年比46.3%増と大幅に増加する一方,輸入は文革による国内生産活動の不振がまだ尾を引いたためか,2億5,377万ドルで,前年比8.2%増と伸び悩み,その結果,わが国の対中華人民共和国出超額は,約3.2億ドルに拡大した。

 なお,日中貿易には,覚書貿易と「友好」商社を通ずる貿易の2つの方式があるが,最近は「友好」貿易の比重が一段と大きくなつてきており,1970年には約90%にも達している。

 (ニ) 「日中覚書貿易」協定については,1970年次の取決めは,70年4月19日に,また1971年次の取決めは,71年3月1日に,各1年間の期限で調印された。

 (ホ) 1970年夏頃より,日華間に前述のとおり,尖閣諸島領有権問題及び東シナ海大陸棚問題が懸案として表面化し,中華人民共和国側の態度が注目されていたところ,1970年12月になり,新華社報道,北京放送等は,尖閣諸島の一部を構成する魚釣島,黄尾嶼,南小島,北小島等は中国領であると主張するとともに,日,華,韓三国の民間レベルによる東シナ海大陸棚資源の共同開発の動きを強く非難するに至つている。かかる共同開発に対する中華人民共和国側非難は,71年3月1日に調印された「日中覚書貿易」コミュニケにおいてもみられる。

(3) モンゴル

 1969年7月,わが国政府は,大阪で開かれる万国博覧会にモンゴルを招請したところ,1970年2月,モンゴル政府は出品をもつて参加することはできないが,万博視察のための代表団を派遣する旨回答越した。かくて,同年8月14日から22日までの間,デー・ゴムボジャブ副首相を団長とする7名のモンゴル万博視察団が来日し,万国博覧会をはじめ,各地の工場等を視察した。同代表団は,訪日中,愛知外務大臣とも会談し,今後も両国間の人的,経済的,文化的交流を促進することで意見の一致をみた。

(4) ヴィエトナム

(あ) 南ヴィエトナムとの関係

 (イ) 概説

 南ヴィエトナムにおいては戦闘は鎮静化の方向をたどつており,一方,国内政治にも特別な波瀾なく情勢は治安の改善と相まつて全般的に平静に推移している。

 1969年9月成立したチャン・ティエン・キィエム内閣は引き続き政局を担当している。

 1970年においては,容共下院議員の裁判問題,学生運動,傷痍軍人の生活改善運動,労働争議,仏教徒の内紛問題など諸問題があつたものの,政府は国内世論の動向に対応した硬軟両様の方策をもつてこれら諸問題の収拾を図つた。

 6月28日には地方議会選挙,8月30日には上院議員の半数改選が行われ,上院議員の半数改選においては仏教徒急進派の支持する立候補者の連記リスト(10名)が最上位で当選した。

 このように仏教徒急進派のグループが国会活動に進出したことは,これまで反政府的立場にあつた同派が合法的政治活動の枠の中に入つてきたことを意味するものとして注目された。

 仏教徒急進派によるこうした動きのほかは,政府与党ないし反政府側においても,新政治勢力の結集など特に大きな動きはなく,政局の基調には変化はみられなかつた。

 1971年秋に予定される大統領選挙をめぐつてチュウ大統領の再立候補が強く見込まれているが,チュウ大統領自身はまだその意思表示を行なつていない。他方,チュウ大統領に対する最有力の対立候補と目される1963年11月革命の指導者であるズオン・ヴァン・ミン将軍に対しては仏教徒急進派等いわゆる和平勢力が支持の態度をみせており,71年の大統領選挙はチュウ大統領とミン将軍との間で争われることになるとの見方も出ている。

 拡大パリ会談を通ずる和平交渉では,南ヴィエトナムからの外国軍の撤兵問題,南ヴィエトナムの政治解決方式をめぐつて双方の主張が対立し,会談は進展をみていない。一方,こうした情勢において南ヴィエトナム軍は着々と強化され,撤退する米軍に代わつてより多くの国土防衛の任務につくといういわゆるヴィエトナミゼーションが着々と進められている。70年5月~6月にかけて実施された南ヴィエトナム国境沿いのカンボディア領内共産軍基地破壊作戦は,南ヴィエトナムの治安の改善とともにヴィエトナミゼーションを促進する上に大きく貢献したが,さらに,71年2月~3月にかけてはラオス領内の北ヴィエトナム浸透補給路,いわゆるホーチーミン・ルートの攪乱作戦が行われ在越米軍撤兵計画の続行が図られている。

 1969年1月ニクソン米大続領就任当時54万9,500の在越米軍は,同年6月から開始された撤兵の結果,70年末には33万5,800となり,71年5月には在越米軍の上限は28万4,000とされることが計画されている。また,これに伴いヴィエトナミゼーションの第一段階として71年中には,すべての地上戦闘任務を南ヴィエトナム軍に委ねられることも計画されている。

 南ヴィエトナムは,こうした軍事面におけるヴィエトナミゼーションと並んで経済,社会面におけるヴィエトナミゼーション,すなわち軍事を始め経済,社会等各分野における自立自助を目指して努力を進めている。

 ヴィエトナム紛争の早期解決,平和の回復を希求するわが国としては,これまで和平交渉の進展等情勢を見守りつつ戦禍をこうむつたヴィエトナム民衆に対し,難民救済,医療等の面で援助協力を行つてきた。わが国は今後ともかかる援助を行なうとともに,情勢の安定した地域に対しては民生の安定のために経済開発に資する援助を行なうこととしている。

 (ロ) 経済関係

 南ヴィエトナムの国内では経済の自立および安定のための施策が次々と実施されつつある。1969年が前年2月のいわゆるテト攻勢による経済的混乱からの収拾時期とすれば,1970年は平時経済への移行を予定した,経済の立て直しの時期ということができよう。

 それまでの奢侈税の引上げ措置,あるいは輸入ライセンスの操作などに加え,9月の公定歩合の大幅引上げ,10月のピアストルレートの改訂(部分的に1米ドル=275ピアストルの相場を適用),それに続く輸入の一部自由化といつた一連の措置によつて経済の立て直しを図つてきた。

 また,今後のために外資導入にも積極的であり,そのための新しい投資法案が下院を通過し,現在上院で審議中である。治安の回復に伴い南ヴィエトナム経済は徐々に活発となつてゆくものと期待されている。

 わが国と南ヴィエトナムとの通商関係は,1966年後半から南ヴィエトナム政府がインフレ収拾を理由に平価切下げと一連の輸入自由化政策を実施したため,同年を境にわが国の輸出が急激に伸び,それ以後年々わが国の大幅な出超という状態が続いている。このようなわが国の対南ヴィエトナム輸出の伸長は,テト攻勢とこれに続く戦闘の激化によつて,一時的に減少した。しかし戦闘が鎮静化の方向に進むにしたがつて,再び南ヴィエトナムの消費需要が高まつた結果わが国との間の貿易も大幅な輸入超過となつている。

 1970年は,輸出1億4,607万ドルに対し,輸入455万ドルと一方的なわが国の輸出超過ではあるが,その比率をみると32対1(前年は67対1)とここ数年で最もバランスを回復している。

 南ヴィエトナムに対するわが国の輸出のうちで最も大きいものは重化学工業品(中でも機械機器)で全体の72%(1969年)を占め,次いで繊維等の軽工業品(20%―同)などで比較的品目も多い。他方輸入品としては,原料品(大部分が天然ゴム)が89%(1969年)であり,その他食料品なども輸入しているがその割合は少ない。南ヴィエトナムにはこれといつた輸出産業がないため,第一次産品にたよらざるを得ない。またこれに戦争の影響が加わつてこの国の輸出力の伸びが抑えられていることも貿易上の大きなアンバランスを生ぜしめる原因となつている。

 南ヴィエトナムの1971会計年度(暦年に同じ)予算では,国防費の減少や財政赤字幅の縮小が顕著であり財政健全化への努力がうかがえる。

 (ハ) 経済協力

 わが国の南ヴィエトナムに対する経済技術協力は,従来より無償援助を中心に行なわれている。

 なお,8月に来日したキィエム首相と佐藤総理大臣との会談にもとづき10月初旬,初めて,政府による調査団が南ヴィエトナムに派遣された。

 1970年度の援助の実績は次のとおりである。

(a) 無 償 協 力

 1970年度予算でダニム発電所修復のために3億円,またチョーライ病院全面改築計画のための資金として3億円がそれぞれ計上された。

 さらにカンボディアの戦火に追われてヴィエトナムに戻つたヴィエトナム人難民に対し,緊急援助として30万ドルを予備費から支出することが決定された。

(b) 有 償 協 力

 南ヴィエトナムにおける戦闘の鎮静化,治安の改善にかんがみ,サイゴンのディーゼル発電プラントに対し450万ドルの円借款の供与が認められ,本年1月輸銀との契約も成立し(据置期間3年を含む10年返済,年利6%),実施のはこびとなつた。

(C) 技 術 協 力

 1970年には,コロンボ・プランによるヴィエトナム人研修員45名を受け入れ,また現在9名の専門家が派遣されており,農業,医療および日本語教育の分野の技術指導に活躍している。

 さらに南ヴィエトナム国内の社会資本に関する調査団の派遣も行なわれた。

(い) 北ヴィエトナムとの関係

 わが国と北ヴィエトナムとの間には国交関係はないが,民間ベ一スによる人的,文化的,経済的な交流は引き続き行なわれている。

 (イ) 民間ベースによる交流。

 本邦人の北ヴィエトナム渡航(旅券発行数)は,68年37件,69年50件,70年76件と漸増を示している。

 一方,北ヴィエトナムからの来日は,69年に法律家代表団3名,映画「ヴィエトナム」製作関係者4名,70年には貿易代表団4名,ヴィエトナム日本友好協会員3名,であつた。

 (ロ) 経 済 関 係

 わが国と北ヴィエトナムとの貿易は,これまで概して輸入超過となつている(たゞし,1969年においては輸入は601.5万ドル,輸出は725.9万ドルで僅かながら輸出超過であつた)。1970年(1月~11月)では,わが国の対北ヴィエトナム輸出は451万2,000ドル,輸入は513万2,000ドルで,ここ10年で(1969年を除く)最もバランスに近くなつている。

 輸出品中では重化学工業品が大きな比重を占めている。次いで軽工業品が多く食料品等の比重は少ない。近年は化学肥料および機械類の輸出に大きな伸びがみられる。わが国が北ヴィエトナムから輸入するものの中では無煙炭が大部分を占めており(1970年は約70パーセント),その他に原料品およびコーヒー豆等の食料品などがある。

(5) カンボディア

(あ) 概   説

 カンボディアは,1970年3月18日の政変までは比較的安定した政情を維持してきたが,政変後カンボディア政府が従来南ヴィエトナム攻撃の作戦補給根拠地としてカンボディア領を利用していた共産軍に対し,カンボディア領から退却することを要求したため,共産側が政府軍に対し武力攻勢を加えることとなり,ロン・ノル政府は一時窮地に立たされることになつた。

 しかし,5月1日,カンボディア東部の南ヴィエトナム国境で米・南ヴィエトナム軍による北ヴィエトナム,ヴィェトコン軍の基地いわゆる「聖域」掃討作戦が行なわれ,カンボディア政府軍は一応危機を脱したが,共産側はカンボディア領内各地に展開し,ゲリラ攻撃やテロ行為により政府に圧力をかけることとなった。しかし,この地方の雨期が5月中頃から本格的になり,さらに当初劣勢であった政府軍も徐々に整備されてきたので,戦線は全般にわたって膠着状態になつた。

 他方北京のシハヌーク殿下は,5月5日カンボディア王国民族連合政府を樹立し,ペンヌートを首相とする閣僚名簿及びカンプチア民族統一戦線の政治綱領を発表した。中華人民共和国は同日これを承認するとともにロン・ノル政府との外交関係を断絶し,その後北ヴィエトナム,南ヴィエトナム民族解放戦線,北朝鮮,ユーゴ,ルーマニア,アラブ連合及びキューバがこれに続き,現在21か国がシハヌーク政府を承認している。

 インドシナ情勢に深い関心をもつわが国をはじめとするアジア諸国は,このカンボディアの緊急な事態を討議するため5月16,17の両日ジャカルタで外相会議を開き「紛争解決のため平和的手段によりあらゆる努力を行なう」旨を骨子とする共同声明を採択した。この会議では,日本,インドネシア,マレイシアの3国代表が関係諸国を歴訪し,紛争解決の働らきかけを行なうことが決定され,わが国も積極的にこれに協力するため法眼外務審議官が特使として,サニ(インドネシア),ガザリ(マレイシア)代表と共に国連,ソ連,インド,フランス,ポーランド,英国,米国,カナダを廻り,この報告書がアジア会議参加国に提出された。

 1970年10月8日カンボディアの国会は,従来の立憲君主国から共和国に移行することを決議し,翌9日カンボディア共和国の宣言が行なわれたが,ロン・ノル政府は,シハヌーク元首解任後ならびに共和国に移行後もカンボディアがその中立政策を維持し,各国及び国際機関と締結した諸条約等を遵守し,その対外政策に変更のないことを明らかにしている。同政府はソ連,東独,チェコ,ポーランド,ブルガリアなどの東欧諸国と従来通り外交関係を維持するとともに南ヴィエトナム,タイ及び韓国と国交を回復し,プノンペンに中国(台湾)の常駐代表部設置を認めた。

 11月の雨期明け頃から共産軍は主要拠点,幹線道路に対するゲリラ攻撃及びプノンペン等大都市でのテロ活動を激化させ,本年1月22日にはプノンペン空港に奇襲を行なうなどロン・ノル政府に対して軍事的圧力をかけている。

 わが国は,カンボディアの戦禍拡大とともに難民が激増している不幸な現状を憂慮し,日本赤十字社からこれら難民に対して2回にわたつて総額370万ドルの援助物資を贈ることになりカンボディア赤十字社に物資が引き渡された。

(い) 経 済 関 係

 1971年1月23日,日本・カンボティア貿易取決めの有効期間は,さらに一年間(1972年2月14日まで)延長された。例年両国間貿易取決め交渉にあたつては,同国との大幅な貿易アンバランスが交渉を難航させる一因であつたが,本年は1970年3月の政変後同国の情勢が悪化したため邦船の配船が行なわれず,また輸出保険も停止されているので両国間の貿易量は著しく低下し(1970年10月現在わが国輸出937万ドル,輸入562万5千ドルで,これは1969年同期に比較して,輸出46%,輸入10%の減少),格差も大幅に縮小した。

(う) 経済・技術協力関係

 (イ) プレク・トノット計画

 1969年10月頃から本格的工事が開始され,わが国からも100名前後の技術者が工事に従事していた。しかし1970年4月頃からカンボディア国内での戦争が激化し,治安が悪化したため本格的工事の続行が困難となつた。このため大部分の邦人技術者は7月には帰国し,現在10名ほどの技術者がプノンペンでカンボディア人技術者を指導し小規模ではあるが工事は継続されている。1970年12月プノンペンで開催されたプレク・トノット計画拠出国会議においては,同国の治安が回復され次第本格的工事を再開することについて関係者間で確認された。

 (ロ) 農・畜・医3センター等に対する協力

 従来わが国はカンボディアに対して,農・畜・医3センターを始めとして,メーズ,電気通信など広い分野にわたり,コロンボ・プラン専門家の派遣,機材の供与などの協力を行なつてきた。1970年4月頃より同国の治安情勢が悪化したため,専門家は水道関係など一部の者を除き同年7月頃から本邦に引き揚げており,治安が回復されるまで当面は研修員の受入れを中心とした技術協力を行ない,専門家の派遣については必要最少限度に絞つている。

(6) ラ  オ  ス

(あ) 概     説

 1962年に成立した三派連合政府は,1964年以降,プーマ現政権とパテト・ラオ(左派)に分裂したまま現在に至つている。

 70年に入り,パテト・ラオ側はこの分裂以後はじめて和平接触のイニシアティヴを取り,和平への気運が生じたことは注目される。すなわち,70年3月から4月にかけてプーマ首相・スバヌウォン殿下間の書簡交換に引き続き,7月末,スバヌウォン殿下の特使がヴィエンチャンに到着した。

 その後数回にわたり,プーマ首相と特使との間に和平交渉予備会談が開かれたが,プーマ側は北ヴィエトナム軍がラオスから撤退することを要求する一方,パテト・ラオ側はラオス問題解決のためには,まず米軍がラオス解放区に対する爆撃を停止すべきであるとの態度をとつて対立しているほか,全権代表の肩書問題,会談地周辺の安全保障問題等についても双方の意見が対立したままで,特使は本年1月,サムヌアにもどつた。

 いずれにせよ,ラオス問題は,本来はラオス国内勢力二派の内戦であるが,北ヴィエトナムが直接軍事介入しているところに問題の根源があり,根本的解決は,インドシナ全体の問題解決にまたねばならぬであろう。なお,ラオス領内の北ヴィエトナム軍は昨年10月の雨期明けとともに増加し,現在約6~7万人がラオス領内に駐留しているといわれ,パテト・ラオに対する支援ならびに,いわゆるホーチミン・ルートの確保に当つているとみられる。

 本年2月8日,南ヴィエトナム軍は米空軍の支援のもとにラオス進攻作戦を開始した。この作戦は地域・期間ともに限定されたものであり,ラオス領内にある北ヴィエトナム軍の基地,物資集積所を破壊することにより北ヴィエトナム軍の補給活動を攪乱することを目的としていると発表された。これに対し,中立を標榜するプーマ政府は,同日,全ての軍隊のラオス領よりの即時撤退の要求等を内容とする声明を発表した。またわが国は2月19日,インドネシア及びマレイシアと協議の上,ラオス問題に関し,ジュネーヴ会議共同議長国及びICC構成国に対し申入れを行ない,ラオス政府声明の立場を支持することを明らかにするとともに,ラオス問題解決のためにこれら諸国が適切措置をとるよう要請した。南ヴィエトナム軍は約1ヵ月半の作戦の後,3月24日頃ラオス領より撤退した。

 わが国とラオスとの友好関係はきわめて良好で,政治・経済面におけるラオスの日本に対する期待には大なるものがある。わが国もこれにこたえるため今後とも特に経済協力面での協力を続けるものと考えられ両国関係はますます緊密の度を増すであろう。

(い) 経 済 関 係

 わが国とラオスとの貿易関係はわが国の一方的出超である。1957年以降,わが国の対ラオス輸出は漸減し,1964年以後は毎年漸増の傾向を示している。わが国の対ラオス輸出は,1969年,820万ドル,1970年,667万7千ドルで,輸入は,1969年7千ドル,1970年,4万9千ドルとなつている(通関統計による)。

(う) 経済・技術協力関係

 (イ) ラオス外国為替安定基金(FEOF)への拠出

 ラオスの為替安定,国内インフレ防止等を目的として,1964年米,英,仏,豪4ヵ国の拠出により設立されたラオス外国為替安定基金に対し,わが国は1965年に50万ドル,66年,67年,68年,69年にそれぞれ170万ドル,70年に200万ドルを拠出した。

 (ロ) ナムグム・ダム建設

 ナムグム・ダム建設計画はメコン委員会によるメコン河流域総合開発のための基幹的事業で,1966年5月,世銀を資金管理者とする「ナムグム・ダム開発基金」が設立された。わが国はこれに400万ドルを無償拠出している。

 本ダム工事はわが国の建設業者が請負つており,1968年11月から工事が開始され71年末までには第一期工事(3万kwの発電をめざすもの)が完成される予定である。

 (ハ) ワッタイ空港拡張計画

 わが国はヴィエンチャンのワッタイ空港の滑走路を2,000mから3,000mに延長する本計画第一期工事のため120万ドルの贈与を行ない,70年7月に工事が完了した。

 (ニ) ケネディ・ラウンド食糧援助

 ラオスの食糧不足の緩和と農業開発のため,わが国は1967年の国際穀物協定の食糧援助規約に基づき,ラオス政府に対し1968年12月,食糧(米,30万ドル)および農業物資(20万ドル),1969年12月には農業物資(70万ドル),70年1月には食糧(米,50万ドル)の援助を行ない,これまで総計150万ドルを供与ずみである。さらに近くこの援助計画の下に20万ドルを供与することになつている。

 (ホ) 専門家および日本青年海外協力隊員の派遣,研修員の受入れ

 わが国は,コロンボ・プランにより,1960年から1970年9月末までに専門家を33名派遣し,研修生を143名受け入れている。またラオスヘの日本青年海外協力隊員派遣は167名となつている。

 (ヘ) 開発調査等

 わが国は1970年において,ヴィエンチャン空港拡張計画関係,タゴン農業開発関係で開発調査等の技術協力を行なつている。

 (ト) タゴン農業開発協力

 ヴィエンチャン平原のタゴン地区800ヘクタールに灌漑農業モデルを完成する目的で1968年以来わが国の技術協力により調査,設計を進めてきたが,1970年3月,97万ドルのアジア開発銀行の融資が決定した。わが国は本開発計画の一環としてタゴン地区内パイロット・ファームを設置,運営するための専門家派遣,機材供与を行なつている。

(7) フ ィ リ ピ ン

(あ) 概    説

 (イ) 1969年11月の選挙でフィリピン憲政史上初めての再選をなしとげたマルコス大統領は,第二次政権発足早々学生を主体とする政治的なデモ,外貨事情悪化に起因する経済の諸問題等に直面することとなつた。

 学生デモは1970年初頭より何回か繰り返され,政治の浄化,土地改革の推進,アメリカ帝国主義排除等きわめて広範にわたるスローガンを掲げ運動を展開した。これに対しマルコス大統領は若手有能テクノクラートを内閣に入れ政府の体制を強化するとともに,各種のフィリピン政治の体質改善策に取り組む姿勢を見せている。

 外貨事情については最近の積極的な経済成長政策に伴う機械等資本財輸入の増加,輸出の伸び悩み等が原因となつて1967年頃より国際収支の悪化が目立ち始め,外貨準備の急減を招いたほか,1970年には対外債務の返済も集中することとなり経済的困難に逢着することとなつた。

 これに対し,フィリピン政府は,IMF,わが国,米国等から金融援助を受けるとともに変動為替相場制の採用(2月20日),財政金融の引締めを内容とする経済安定化計画を施行した。その結果,1970年の総合収支1億1,000万ドルの黒字(1969年末は6億7,000万ドルの赤字)と改善されるに至つた。

 また,フィリピンは長期的経済開発の観点から新開発四カ年計画を策定するとともに各国からの長期援助を確保するため世銀に対して援助グループ設置を要請し,1970年10月の予備会議を経て,1971年4月対比援助協議グループが開催されることとなつた。

 (ロ) フィリピンは外交の基調を対米親善関係を維持しつつ東南アジア諸国との連携を強めることにおいているが,他方従来のかたくなな反共政策を修正し,ソ連及び東欧共産圏諸国との交流を推進する姿勢をみせている。

特に1970年には,下院における「ソ連および東欧諸国との外交貿易関係設立勧告決議案」の上提(但し審議未了),「外国借款法改正法」の成立(ソ連,東欧諸国からも借款の受入れが可能なように修正された),メルチヨール官房長官の訪ソ等を契機にソ連及び東欧諸国との国交正常化への動きが活発化した。

 またフィリピンは既存のASEAN,ASPAC等の地域協力機構で積極的に活躍するほか,アジア科学閣僚会議,農業信用組合会議等を主催し,東南アジア諸国との連携の緊密化に努めた。

 対米関係については,1969年末,既存の条約関係(基地協定,ラウレル-ラングレー協定等)を再検討するために政府間で交渉を開始することに合意をみているが,まだ具体的な交渉は開始されていない。

 (ハ) フィリピンにおける第二次大戦による対日悪感情は日比両国官民の努力により少なくとも表面的には払拭されるに至ったと言える。また,1969年末の大統領就任式には岸元総理大臣が出席したほか,1970年の万博にはマルコス大統領夫人が大統領の代理として来日し,両軍の親善関係が深められた。

 更に,本年3月には住友化学土井会長を団長とする財界人からなる経済使節団をフィリピンに派遣した。フィリピンのみを対象としたこの種の経済使節団の派遣はわが国にとつて初めてのことであったが日比両国間の一層の友好親善の促進の一助となつたものと認められる。

 なお,1960年署名された日比友好通商航海条約(わが国においては1961年国会の承認ずみ)は署名後10年振りに北国上院に批准の同意を求めるため上提されたが,審議未了に終つた。

(い) 経 済 関 係

 日比間の経済関係は,貿易の伸長を軸におおむね順調な発展を示している。1970年の両国貿易は往復で10億ドル近くに到達し,日本は対比輸出国として米国を抜き首位の座を占め,対比輸入国としてもほぼ米国と並ぶに至つたとみられている。

 なお,フィリピンの変動為替相場制度の採用(実質上のペソ価切り下げ),各種財政・金融上の引締め政策の施行の影響により,1970年の日比貿易は1969年と比し,わが国の対比輸出は5%程度減少した反面,対比輸入は10%以上増加したものとみられる。

(う) 経済協力関係

 わが国のフィリピンに対する経済,技術協力は,日比賠償を中心に次に述べるような種々の形で実施されている。

 日比賠償は,1956年締結された賠償協定(総額5億5,000万ドル,20年支払)に基づいて実施されており,1970年末現在既に3億6,402万ドル(実施率66.2%)が支払われた。

 1959年,賠償を担保にテレコミ計画(1,230万ドル)及びマリキナ多目的ダム計画(3,550万ドル)の借款供与取決めが締結され前者は既に実施ずみであるが後者はまだ実施されていない。

 また,1969年2月締結された「日比友好道路借款(3,000万ドル相当の円債款)」は現在実施中である。さらに,わが国市銀15行により1970年5月,フィリピン経済危機救援のため5,000万ドルのスタンド・バイ・クレジット(期間1年)がフィリピン中央銀行に供与された。

 対比民間投資は,比例が1967年本邦商社の在比事業活動解禁以来本格化し1967年3月楽器製造の会社が合弁の形でフィリピンに進出以来増加の傾向にある。

 政府ベースの技術協力としては,コロンボ・ブランによる協力のほか,家内小規模工業技術開発センター(1966年援助取決め締結,1970年延長取決め締結)パイロット農場設置(2カ所,1969年援助取決め締結)に対し機材の供与,専門家の派遣等により協力している。

 このほか1966年2月,日本青年海外協力隊派遣のための取決めが結ばれ,現在までに延べ100余名の隊員が派遣され,殆んどフィリピン全土に配置され活躍している。

(8) タ   イ

(あ) 概     説

 1969年の総選挙後成立したタノム内閣は,タノム,プラパート両実力者の連繋を中心として,国家の安全保障の確保と経済開発の推進という従来からの二大政策路線を踏襲している。

 国内治安の面においては,東北タイにおける共産ゲリラ活動は全般的に後退し,また,1968年末頃より活発化した北部タイにおけるメオ族のゲリラ活動も,政府の本格的な討伐により,最近では平静を保つている。

 対外的には,前年同様ASPAC,ASEAN等の地域協力に積極的な姿勢を示した。対米関係においては,従来から緊密な関係を維持しているが,最近在タイ米軍のうち6,000人が1970年6月末までに撤退を完了し,さらに1971年6月末までに9,800人が撤退することが決定されている(この結果,在タイ米軍は約32,000人となる)。また,南ヴィェトナムに派遣中のタイ部隊(約12,000人)については,南ヴィエトナム政府と協議の結果,1971年7月から1972年1月にかけて引き揚げることに合意をみた旨発表された。一方,中華人民共和国に対しては,前年と同様,話し合いおよび貿易の開始を示唆する弾力的な動きを示した。ソ連および東欧諸国とは,前年に引き続き貿易促進の動きがみられ,1970年12月25日かねて懸案となっていたソ連との通商協定が正式に調印された。また,北ヴィエトナムとの間で,在タイ・ヴィエトナム難民の送還につき1970年10月から交渉が開始された。

 カンボディアの政変後,1970年5月タイは同国と9年振りに外交関係を再開した。タイは,その後のカンボディア情勢に深い関心を示し,国境警備を厳しくするとともに,カンボディアに対しパトロールボート,軍服等軍用資材の供与およびカンボディア将兵の訓練等の援助を与えた。

 経済面において,タイの国際収支は貿易の赤字増大とヴィエトナム特需の減少から悪化傾向にあるが,1970年7月1日タイ政府は輸入の抑制と財政収入の確保のため,営業税と約200品目の輸入関税の引き上げを行なつた。

 わが国との関係においては,両国要人の往来,貿易および経済協力等の増大を通じ,友好と協力の基盤がいっそう強化された。

 なお,1937年に締結された日タイ友好通商航海条約は,タイ側の廃棄通告により1971年2月26日失効したが,それに先立ち同月24日両国政府の間で,新条約締結までの暫定措置として旧条約で取り扱われている事項につき,相互に国内法の範囲内で,できる限り好意的な待遇を与える旨の公文を交換した。

(い) 経 済 関 係

 日タイ貿易は,かねてよりわが方の大幅な出超を続けているが(1970年実績では,2億6,000万ドルの出超),最近タイは,国際収支の悪化もあり,わが国に対する片貿易の是正をいつそう強く要請している。貿易不均衡是正対策の一環として,1968年日・タイ両国政府の間で設立された貿易合同委員会の第3回会議が1970年9月28日から10月2日までバンコックで開かれた。また,民間部門においては,1970年5月バンコックで経団連日タイ協力委員会とタイ貿易院(BOT)との間で第1回会議が開かれた。

(う) 経済協力関係

 1968年1月に成立したタイに対する6,000万ドルの円借款は,1971年1月の期限満了を前に2,200万ドルについて貸付契約が締結されていない状況にあつた。このため,タイ側の要請にもとづき1971年1月8日貸付契約の締結期限を1年延長する旨の書簡が両国政府の間で交換された。また,1962年の特別円新協定にもとづく96億円の支払は,1969年5月完了したが,タイ政府勘定には現在,未調達分の36億円と利子約2億円が残つている。

 技術協力の分野では,1970年4月より同年12月末までに,175名の研修員を受け入れ,主として農業,医療等の技術訓練を行なつたほか,54名の日本人専門家を派遣し,医療,通信,農業等の技術指導を行なつた。

(9) マレイシア

(あ) 概   説

 (イ) マラヤ連邦独立以来十数年間国民大多数の信頼を得て困難な複合民族国家の統一を成し遂げ,経済的にも今日の発展に尽してきたラーマン首相は1970年9月に引退し,ラザク副首相が新首相に就任した。ラザク首相は独立以来ラーマン前首相の下で副首相を務め,また,1969年5月以降の緊急事態下で国政の全権を有しているNOC(国家作戦評議会)の議長として事実上国政を担当していたので,ラザク新政権も,ラーマン時代の内政,外交の基本的政策を踏襲している。しかし,ラザク首相とラーマン首相の世代の差,発想基盤の相違に基づく政策の差異も否定できない。

 かゝる政策の差異として特に注目されるのは,憲法に規定されているマレイ人保護政策強化の動きである。すなわち唯一の国語,公用語としてのマレイ語を実質的に正当な位置に高めること,他種族との経済的アンバランスを是正するためマレイ人の商工業への参加を政府が助成し,就業の機会をマレイ人に優先的に与えること,及び,これらのマレイ人の優先的地位を憲法上明文化しようとする憲法改正案の策定等マレイ人保護政策が実施されつゝあり今後の動きを注視する必要があろう。

 1969年の暴動によつて一時延期されていたサバ州及びサラワク州の国会議員と州議会議員の選挙はようやく1970年6月~7月にわたつて実施された。この結果アライアンスは連邦下院議員総数144名(うち1名欠員)のうち93名の議席を占めることになり,引き続き政権を担当することとなつた。また,国家的重要問題についてはサラワク州選出の5名のSUPP(サラワク統一人民党)議員がアライアンスに協力することを約しているので,実質的に与党の勢力は98名となり,憲法改正に必要な3分2のをかろうじて獲得したことになる。

 1969年5月の人種暴動以後停止されていた国会は,1971年2月再開されこの再開国会で政府提出の憲法改正案が圧倒的多数で可決された。今回の改正憲法の趣旨は,言論の自由に関する憲法第10条を改正し,市民権,マレイ語,マレイ人の特権,国王の地位等を問題にすることを禁止する法律を立法する権限を国会に与えるというものである。

 (ロ) 対外関係では,新政権は米,ソ,中の三大国の保障による東南アジア中立化構想を打ち出し,また,国連での中国代表権問題について,重要事項指定決議案に反対,アルバニア案に棄権する等,対中接近政策の姿勢を示している。英連邦諸国との防衛協力に関しては,1971年末で終了する英・マ防衛相互援助協定に代るものとして,1968年より関係国間で話し合いが行なわれ,1971年1月シンガポールで開催された英,濠,ニュー・ジーランド,マレイシア,シンガポール5ヵ国防衛予備会議で当地域の共同防衛の態様について実質的合意をみたといわれる。

 (ハ) わが国とマレイシアとの関係は従来とも友好関係にあり,1970年2月には皇太子・同妃両殿下がマレイシアを公式訪問され,また,1970年7月当時のラーマン首相は万博の賓客として来日するなど両国間の友好関係はさらに増大した。

 1970年1月署名された新租税条約は,同年12月に批准書が東京で交換され発効した。

 (ニ) マレイシア経済は豊かな天然資源と堅実な経済政策を背景として順調な発展をとげた。1966年より始められた第一次5ヵ年計画も殆んど初期の計画を達成して1970年に終了し,新たに1971年より始まる第二次5ヵ年計画が策定されている。1970年の経済成長率は,前年の9.2%に続き,約7%と見込まれている。

 マレイシア経済の最大の問題は,ゴム,すゞ,木材等の一次産品の輸出に大きく依存してきている結果,これら一次産品の世界的需要の動向による価格の変動がマレイシア経済に大きな影響を及ぼしている点にある。政府はこの対策として自国の工業化を計るとともに農業の多角化を計り,パームオイル,米等の増産を熱心に進め,かなりの成果を納めている。

(い) 経 済 関 係

 わが国とマレイシアの経済関係は従来よりきわめて密接な関係にあり貿易も年々上昇している。1970年の対マレイシア貿易は輸出1億6,668万5,000米ドル輸入4億1,890万3,000米ドルとなつており,前年度に比し輸出24.9%輸入3%それぞれ上昇している。両国の貿易は毎年わが国の大幅な入超となつているが,これはわが国がマレイシアよりゴム,錫,木材,鉄鉱石等の一次産品を多く輸入しているためである。

 マレイシアの対外貿易におけるわが国の地位は輸出においてシンガポールに次いで第2位,輸入においては第1位と重要な地位を占めている。

 わが国の対マレイシア貿易の主要輸出品目としては機械類が最も多く,次いで鉄鋼製品,繊維品となつており,主要輸入品目は木材,錫,鉄鉱石,天然ゴム等の一次産品である。

(う) 経済協力関係

 (イ) マレイシアは1966年より第1次5ヶ年計画を実施しており,これが達成のため先進各国に対し経済援助を要請している。

 わが国は政府援助として1966年11月5,000万米ドルの円借款供与を,また1967年9月2,500万マレイシアドル(約833万米ドル)の無償供与を約束した。

 これらの援助は円借款分については放送設備,電話施設,マイクロウエーブ等の通信関係プロジェクト,繊維工場,地方道路の新設及び改良計画等に使用されることとなつており,無償分については貨物船2隻を供与することとなつている。

 (ロ) わが国民間においてもマレイシアにおいて現地企業等と提携して,合弁会社を設立し,マレイシア経済の発展に大きく寄与している。

 1970年8月現在のわが国民間のマレイシアにおける合弁企業数は58件,その資本投資額は約2,286万米ドルとなっており,業種分野は鉱,農,漁業を始め製鉄,電気製品,化学製品,パルプ製造,繊維関係,機械,車輸産業等あらゆる分野に及んでいる。

 (ハ) わが国のマレイシアに対する技術協力については,コロンボ・プランによる研修生の受入れ,専門家の派遣等があるが1970年末までに研修生526名の受入れを行ない,78名の専門家を派遣している。

 また,1970年12月署名された稲作機械化訓練計画に関する協定により,わが国は向う3年間マレイシアに対し2名の専門家を派遣し,必要機材を供与することにより同国の稲の二期作計画に協力することとなつている。

(10) シンガポール

(あ) 概    説

 (イ) 1970年のシンガポールにおける政治社会情勢は前年に引き続ききわめて安定したものであつた。70年4月に実施された国会議員5名の補欠選挙は,人民行動党からの立候補者が全員当選し,依然として国会の議席は58全議席を同党が独占している。同8月には内閣改造が行なわれ,ゴー蔵相は国防相に就任し,新たに2名の閣僚が誕生した。ゴー蔵相が国防相に就任したのは,現在シンガポールでは英軍の削減に関連し,国防の充実が重要視されていながら,必ずしも国防計画が順調に推進されていないため,実力者であるゴー蔵相の出場となつたものと考えられる。他方,最大の野党たるバリサン・ソシアリス(社会主義戦線)も目立つた動きはなかつた。

 (ロ) 対外関係については,70年3月にリー首相がシンガポールのドック,港湾施設等をソ連艦船の修理給油などの利用に供する用意ある旨発言し,ソ連のインド洋進出に関連して各国の注目を集めた。

 71年1月には,シンガポールにおいて五カ国防衛予備会議ならびに英連邦首脳会議が開催されたが,特に後者の会議はアジアにおいては初めて開催されたという点で意義深いものがある。今回の会議は南アに対する英国の武器輸出問題等の難問を抱えていたが,議長としてのリー首相の巧妙な会議運営振りが高く評価された。

 (ハ) シンガポールの経済は近年きわめて順調に推移している。

 1970年においても国民総生産は18億5,500万米ドルと前年比15%の高い成長率を示し,外貨保有高も年末には11億8,380万米ドルに達した。また,1人当りの国民所得も800米ドルとアジアにおいてはわが国に次いで高い水準に達している。

 (ニ) わが国との関係については万博にシンガポールは独自の館を出品し,また,リー首相は世界一周旅行の途次わが国を訪問し(70年11月),佐藤総理と会談するなど,緊密の度を深めている。

(い) 経 済 関 係

 わが国とシンガポールとの経済関係は従来よりきわめて密接な関係にあり,貿易額も年々上昇の一途をたどつている。

 1970年のわが国からの輸出は4億2,370万米ドル(前年比35.6%増)輸入は8,654万米ドル(前年比31.2%増)となつている。

 日・シ貿易は毎年わが国の出超となつており1970年において約5:1の大幅出超を記録した。

 シンガポールの貿易に占めるわが国の地位は1970年11月現在,輸出においてマレイシア,米国についで第3位,輸入においてはマレイシアを抜いて第1位となつている。

 わが国よりの輸出品目の主なるものは化学繊維及び織物,鉄鋼一次産品,モーターサイクル,人造プラスチック,ラジオ受信機等であり,輸入の主なるものは石油製品,非鉄金属クズ等である。

(う) 経済協力関係

 (イ) わが国はシンガポールに対し政府援助として1967年9月,2,500万シンガポールドル(約29億4,000万円)の無償供与及び1966年10月,2,500万シンガポールドルの円借款計5,000万シンガポールドル(約58億8,000万円)の援助を約束した。無償分については1970年12月末までに25億2,100万円が契約認証済で,そのうち,18億5,700万円が支払済となつている(義務履行率63.2%)。有償分については1971年1月28日ローン・アグリーメントの署名が行なわれた。

 なお,使用対象品目は無償については造船所の建設資材,人工衛星地上通信基地の建設資材,ジュロン港のクレーン2基,公共事業局の購入資材等となつており,有償分については造船資材,人工衛星地上通信基地用資材となつている。

 (ロ) わが国民間企業の進出もめざましく1970年8月現在合弁会社数55,資本投資額1,398万4,000米ドルとなつている。その事業分野は造船を含む運輸,鉄鋼,機械,化学製品,繊維,家庭電器製品等を始めあらゆる分野に及んでいる。

 (ハ) 技術協力関係についてみればシンガポールの技術者を訓練養成するためのわが国とシンガポールとの原型生産訓練センター協定の期間が70年10月で終了することになつていたが,シンガポール政府からの要請に基づき,さらに2年間協定を延長することが合意された。これによつて,従来わが国が同センターへ派遣していた10名の専門家の派遣期間もさらに2年間延長されることとなつた。

 また,わが国はシンガポールに対し,1970年末までに計61名のコロンボ・プラン専門家を派遣し,197名の研修員を受け入れた。

(11) インドネシア

(あ) 概    説

 (イ) 1965年のいわゆる「9月30日事件」後スハルト大統領を中心として樹立された現政権はスカルノ政権時代の容共政策に大幅の修正を加え,近隣諸国との国交関係を調整するとともに,国連その他の国際機関に復帰し,欧米諸国との関係も緊密化して,壊滅に類した国家財政の建て直しや経済の復興に努力を集中した結果,同国の経済の安定と復興は見るべき成果をおさめつつある。

 (ロ) このようなスハルト政権の努力に対し,わが国は他の欧米諸国とも協力して対インドネシア援助国会議の一員として積極的な経済援助をおこない,同国の政治及び経済の安定に協力している。米国と並んで最大の援助国となっているわが国のインドネシアに対する経済援助は1969年より発足した同国の経済開発5カ年計画の実施に大きな役割を果しており,わが国とインドネシアとの関係は,ますます緊密化しつつある。他方,スハルト政権の積極的な外資導入政策にこたえ,わが国民間企業のインドネシアに対する進出も目覚しく,これらわが国民間資本の進出が上記政府援助と相まつて,同国経済の繁栄と安定に貢献することが期待される。

 (ハ) なお,1970年5月にはインドネシアの主催によりわが国を合むアジア・太平洋地域諸国11カ国が参加し,カンボディア紛争の平和的解決を目的とするアジア会議が開催されたが,これはスカルノ失脚後同国が久しぶりに示した外交的イニシアティヴとして注目された。

(い) 経 済 関 係

 (イ) 1966年以降わが国とインドネシアとの貿易は,輸出入とも増加傾向にある。特にわが国のインドネシアからの輸入は,開発輸入などの促進により輸出の伸びを上まわる増加を示しており,この結果,両国の貿易収支は,わが国の入超となつている。1970年のわが国のインドネシア向け輸出額は3億1,578万ドルで,対前年比33%増加しており,また輸入は6億3,655万ドルで,対前年比60%の大幅な増加であつた。

 (ロ) 日本商社に対する課税問題

 インドネシア政府は1968年7月同国にあるわが国主要商社の駐在員事務所に対し,これらの事務所が事実上商業活動をおこなっていることを理由に,とりあえず同年7月以降総取引高の0.5%を納付するよう申し渡した。日本商社代表はインドネシア側税務当局と話し合つた結果,取引高の0.1%を予納するとともに,年度末に本邦商社の対イ輸出額に,全世界を対象とした税引前公表総利益率を乗じたものをインドネシアにおける利益と見なし,これにイ国における規定の法人税率を乗じたものを法人税確定申告額として,前記の予納額との調整をおこなうとの合意をみた。その後1970年に両当事者間で協議が行なわれ,前記の0.1%は0.15%に改められた。

(う) 経済協力関係

 (イ) 日本政府は,1966年以来インドネシア経済の安定と復興のため,他のインドネシア援助諸国と協調しつつ,同国に対する経済援助をおこなつてきた。1970年6月,1970年度援助として,商品援助5,500万ドル,プロジェクト援助1,500万ドル,KR食糧援助1,000万ドルおよび日本米購入のための延払信用供与1,400万ドルの援助を約し,また,輸出振興プロジェクトのため1,100万ドル,世銀リストに掲載されているプロジェクトのため2,000万ドル,インドネシアの銀行を通ずる資金援助1,500万ドルを将来供与する旨の意図を表明した。このほか1968年度及び1969年度の取決めにおいて協力意図を表明したプロジェクト援助3,000万ドル及び4,500万ドルのうちから1,500万ドルづつ計3,000万ドルを供与することとした。

 対インドネシア債務救済問題については,1970年4月パリにおいて開催された債権国会議において債務救済策について合意をみ,わが国は上記債務救済策を実施するための所要の法律措置を講じた。

 (ロ) インドネシアに対する賠償はわが国とインドネシア共和国との賠償協定に基づき,1958年4月15日から実施されてきたが1970年4月14日に12年間の供与期間を終了し,総額2億2,308万ドルの供与が完了した。

 (ハ) わが国は,1970年度の技術協力として,同年12月末までに141名の研修員の受入れおよび35名の専門家の派遣を行なったほか,医療器具,漁具などの機材を供与し,漁業調査,河川調査,資源開発,家族計画,医療協力のための調査団を派遣した。

 (ニ) 民間経済協力については従来PS方式(生産分与方式)により,1960年4月以来10件(うち1件廃業)の企業が進出し協力を行なつてきたが,1967年1月の外資導入法の制定により,外国人の投資が認められることになり,同法に基づくわが国からの企業進出(日本の証券取得許可ペース)は,1970年10月末現在45件に達している。

(え) 日本・インドネシア民間漁業取決めの延長

 1968年7月,日本側民間漁業団体とインドネシア政府漁業当局との間で締結された有効期間を1年とする暫定漁業取決めは,1969年の交渉により,若干の修正を加えた上でさらに1年間延長された。(「わが外交の近況」第14号参照)

 1970年同暫定取決め延長問題をめぐって両者間で交渉が行なわれた結果,これをさらに2年間延長し,その後日本民間漁業団体側の要請があれば引き続き1年間,すなわち,実質3年間延長することが合意された。これにより1973年7月まで,インドネシア水域におけるわが国漁船の安全操業が確保されることとなつた。

(12) ビ  ル  マ

(あ) 概     説

 (イ)       現政権成立以来終始一貫してネ・ウィン革命委員会議長の片腕として活躍してきたティン・ペ准将は,1970年11月健康上の理由で革命委員会委員および閣僚(救済・再定住・国民団結・社会福祉相)の職より辞任した。これより先1970年10月には同准将の義弟であるタン・ユ・サイン大佐が革命委員会委員の職より罷免された。しかし,これらの人事異動にもかかわらず同国の国是であるビルマ式社会主義政策の変更を示唆するがごとき動きはみられなかつた。1970年11月現政権はビルマ社会主義計画党の国民政党移行第一回党大会を1971年6月に開催するための準備委員会を結成したが,これは現政権がかねてから公約していたいわゆる「民政移管」の構想具体化の第一歩として注目される。

 現政権打倒を唱えて1969年末にタイに政治亡命したウ・ヌ元首相は秘密放送等の手段によりネ・ウィン政権打倒煽動工作をすすめていたところ,1970年4月に政府はウ・ヌがいかなる外国政府からの援助も入手できないため資金的に行き詰っている旨発表した。さらにウ・ヌは武力直接行動実施のため1970年10月バンコクよりビルマ領内に赴き一部少数民族との間に国民解放戦線なる連合戦線を結成したとのニュースが流布され,かなりの波紋をまきおこしたが,政府はウ・ヌはビルマ領内に入つておらずタイ領内におり,また,国民解放戦線は確とした政治軍事機構を有しない有名無実のものである旨発表し,同派が呼号しているビルマ侵攻も全く空虚な呼びかけに過ぎないことを強調した。共産党や少数民族の反政府反乱軍は依然として散発的な攪乱工作を繰り返しているが, 1970年10月には白旗共産党が中緬国境地区において1,500名の多数にのぼる兵員を動員して政府軍と衝突したことが注目された。政府軍によるこれら反乱軍に対する討伐作戦はかなりの戦果を収め,1970年11月には赤旗共産党首タキン・ソーが政府軍により逮捕された。

 (ロ) 外交面においては従来の基本路線である非同盟・中立政策に何ら変つた動きはなかったが,特筆すべきものとして中関係の改善を挙げることができる。中緬関係は1967年夏毛沢東バッヂに端を発したラングーンにおける反中国人暴動事件以降円滑化を欠いていたが,ビルマ政府は1969年末頃から積極的に中緬友好関係の改善に努力し,1970年10月駐北京ビルマ大使を任命したが,翌1971年2月には駐ビルマ中華人民共和国大使の任命をみるに至つた。両大使の任命により中緬関係はかなり改善の方向に向うものと観測される。

 (ハ) 米の輸出に大きく依存しているビルマ経済は米の輸出不振に加え輸出価格も下落したこと,国営流通機構がいまだに円滑に機能していないことなどのため依然として停滞状況から脱却することはできなかつた。ビルマ政府はこのような経済の停滞特に流通の混乱を改善するため1972年4月に設立完了を目途とした共同組合設立構想を打ち出し,1970年10月から地区単位の末端機関から設立を開始するとともに,担当官に対するゼミナール等を通じ着々その実現を図りつつあり,今後の発展が期待されている。

 (ニ) 日本・ビルマ関係は政治経済文化の各面において密接な関係を維持しているが,殊に1970年には万博出席のためネ・ウィン議長が来日し両国間の親善友好関係はさらに増進された。同議長は日本政府の招待期間を含め4月14日から5月7日まで滞在し,佐藤総理と会談したほか,外務・貿易相等40余名の随員とともにわが国の産業施設を広汎に視察した。

 また1970年3月には,マオン・ルイン国家計画副相がジエトロの招待を機に来日し,約3週間滞日したが,その間同副相は愛知外相をはじめとする日本政府要人と,主として日本ビルマ経済協力問題について会談するとともに,国内各地を視察した。

(い) 経 済 関 係

 わが国とビルマとの貿易関係はビルマの貿易の全般的縮小に伴つて縮小しているが,ビルマの対外貿易に占める日本のシェアは輸入において約20パーセントで第一位,輸出においては約5パーセントで6~7位を占めている。わが国の対ビルマ輸出は重化学工業品が中心となっており,特に最近はプラント輸出が増加の傾向にある。ビルマからの輸入はかつては米が主体であつたが,現在は豆類,木材が大部分である。両国間の貿易は日本の大幅出超となつている。

(う) 経済協力関係

(イ) 1965年4月1日から実施されたビルマとの経済技術協力協定に基づきわが国はビルマに対し総額504億円にのぼる生産物または役務を供与することとなつているが,1970年末現在の契約認証願は229億3,404万円,支払済額は210億2,484万円でその履行率は41.7パーセントである。

(ロ) 1969年2月に書簡交換された3,000万ドルの円借款協定はその後実施細目に関し両国間で協議中であつたが,1970年5月に海外経済協力基金とビルマ産業開発公社との間に貸付契約が結ばれ,この結果本協定に基づく援助は1971年1月から実施に入つた。

(ハ) 技術協力の分野では1954年から1970年末までの間に石油,医療,科学関係の機材供与のほか,わが国より合計60名の専門家を派遣するとともに,ビルマ側から鉱工業,農水産等関係の研修員271名を受入れている。

(13) イ  ン  ド

(あ) 概     説

 1969年末の与党コングレス党の分裂によつて少数党内閣に転落したガンジー内閣は,右派共産党,ドラヴイダ進歩連盟等左派系諸野党の支持と中道左派をとなえ旧藩王の内帑金および特権の廃止,大企業の抑制等の措置を断行したガンジー首相の進歩的指導者としてのイメージに助けられて,とにかく年末まで安定を維持して来た。しかし,ガンジー首相は,少数党内閣の現状を早く脱したいこと,同首相および与党の人気が盛り上つてきていること,インド経済が過去5年間順調な降雨による好調な農業生産にささえられて順調に伸びてきているが1971年度にも順調な降雨が続く保証はなく,不作となれば来年の総選挙に不利な材料となること等の事情から,早期解散によつて総選挙を1年早めた方が有利と判断し,中央議会下院は,任期満了を待たず12月27日解散された。

 その結果第5次総選挙は1971年3月1日から10日間インド全国で行なわれ(州議会議員選挙はタミル・ナド,西ベンガル,オリツサの3州のみ行なわれた。),2億7,300万人の有権者のうち,1億5,000万人が投票に参加した。

 開票の結果与党コングレス党は中央議会下院総議席521の3分の2を上まわる350を獲得して大勝した。これに対し与党コングレス党打倒をとなえて選挙協定を結んだ野党コングレス党(右派)スワタントラ党(親米右派),ジャンサン党(国粋右派),合同社会党(中道左派)は解散前の議席を大きく下まわる敗北を喫した。主な野党で議席を増加したのは左派共産党のみであつた。

 第4次ガンジー内閣は3月18日発足した。ガンジー首相は新内閣の発足に当り,内政については貧富の差の是正など社会主義的政策の推進,外交については非同盟主義の堅持という従来の基本方針を守ることを明らかにした。

 対外関係においては・印パ関係は1970年もカシミール問題等をめぐり対立が続き,さらに71年1月には両国外交官の相互追放,それに続くカシミール解放運動のメンバーによるインド航空機乗取り,爆破事件および東パキスタンの内紛をめぐつて,両国間の緊張は高まつている。中印関係は両国出先外交官の相互接触等多少緩和のきざしが見られたが,具体的進展はなかつた。印ソ関係はこれまでの緊密な関係が引き続き持続されている。日印関係においては,インドより5月にはバーガット外国貿易相が万国博政府賓客として来日,さらに9月にはアーメッド食糧農業相が来日し,他方わが国よりは,愛知外相が8月17日から20日までインドを公式訪問(また1970年12月東京において事務レベルによる第6回日印定期協議が開催された),両国友好関係が一層強化された。

(い) 経 済 関 係

 わが国の対印貿易は,1966年においてインドの外貨事情の悪化による輸入の抑制およびわが方信用供与の抑制並びにわが国のインドからの鉄鉱石,銑鉄等の輸入の急増等を反映して入超に転じて以来1970年(暦年)においても引続き輸出1億3,000万ドル(対前年比7.3%増)輸入3億9,000万ドル(対前年比21.4%増)と,輸出入比は1対38と更に拡大している。日本の対印主要輸出品目としては化学品,金属品機械機器などがありまた主要輸入品目は鉄鉱石,マンガン鉱など原料品,銑鉄,冷凍エビなどがある。

 なお,1970年9月3日から5日まで京都において第4回日印経済合同委員会が開催され,日印両国経済界の代表団の間で実務者レベルにより日印経済関係の諸問題が話合われた。また,大阪商工会議所は,1970年11月7日から約1カ月にわたりインド化学工業企業進出調査団を,また,日本原子力産業会議は1971年1月18日より2月3日まで訪印原子力使節団をそれぞれ派遣した。他方,インドからは,1971年1月18日から同28日まで前述の日印経済合同委の決定に基づき自動車部品調査団が本邦に派遣された。

(う) 経済技術協力関係

 わが国の対印経済協力として1958年世銀主催のもとに結成された対印債権国会議に参加して以来,1969年までに9次にわたり約5億1,700万ドルの円借款を供与してきたが,1970年には新たにビサカパトナム外港建設計画のため700万ドルを供与した他,2,541万ドルの円借款債務繰延べを認めた。さらにわが国はインドとは日本の間に就航する鉄鉱石運搬船1隻(価格1,900万ドル)の延払い輸出を認め,1971年1月30日造船契約が締結された。

 また,政府は技術協力面においては農業面に重点をおき,1968年模範農場を改組して設置した農業普及センター(4カ所)を通じ,日本式稲作技術の普及につとめるとともに,農業技術の改善指導に協力しているほか,1970年8月19日インド・ダンダカラニヤ,パラルコート地区(インド中南部の約8万ヘクタールの地域)農業開発計画に関する協定に署名し,専門家の派遣,機材供与,研修生の受け入れを通し農業協力をいつそう進めることとなつている。

 そのほか,わが国は1970年度専門家1名(日本語)日本青年海外協力隊20名の派遣および研修員70名の受入れを行なつている。

(14) ネ パ ー ル

(あ) 概     説

 マヘンドラ現国王が1960年立法,行政,司法の三権を掌握,国王親政体制を確立しパンチャーヤット民主々義制度を導入して以来10年目をむかえたネパールは近年政府高官,国家パンチャーヤット議員を山間僻地に巡回せしめるなどいわゆる「村落復帰国民運動」を強力に推し,パンチャーヤット制度の全国的な普及と国家統一意識の培養に努めている。

 1970年におけるネパール政情は前年4月ターパ内閣にかわつて成立したビスタ内閣がビスタ総理の国家パンチャーヤット議員としての任期満了にともない内閣改造が行なわれ,4月13日国王自身が閣僚会議議長となり,暫定内閣が発足した。右内閣のもと7月より第4次5ヵ年計画(1970~75)に着手し,年間国民所得5%増加を目標とし,運輸・通信土地改革・灌漑など農業,観光の各分野の開発に力を注いでいる。

 対外関係では従来の非同盟中立主義を堅持し,1970年9月ルサカの非同盟首脳会議にはマヘンドラ国王自らが出席した。中華人民共和国との関係では4月ネ・中平和友好条約(1960年4月調印)が期限満了となつたが,自動延長されたほか,マヘンドラ国王第50回誕生日記念スポーツ大会の卓球部門への参加,8月の両国外交関係樹立15周年各種記念行事等を通じ漸次緊密化の度を増しているかに見受けられる。他方,インド関係では10月末日をもつて期限満了となつた「インド,ネパール間の貿易および通過に関する協定」の改訂をめぐつて交渉が難航し,1971年1月以降両国間は貿易および通過に関し無協定状態にある。そのほか1968年以来両国間に懸案となっていた国境画定問題も何ら解決の目途がついていない上,1951年以降カトマンズに駐在していたインド軍事連絡団および北部国境チェックポストのインド人無電技師もネパール側の強い要請により撤退させられた(1970年8月撤退完了)。日・ネ関係では1970年3月マヘンドラ国王同妃両陛下が万国博ナショナルデー出席のため来日されたのに引き続き,ヒマラヤ殿下夫妻,ショーバ第三王女など皇室関係者が相次いで来日され他方わが国からも2月ビレンドラ皇太子殿下成婚式に常陸宮・同妃両殿下が参列された。また多くの登山隊・学術調査隊のほか一般観光客も急増しつつあり,日・ネ両国間の友好関係は引き続き増進をみた。

(い) 経 済 関 係

 ネパール経済はその対外貿易の9割以上がインドとの取引きによつて占められているため,わが国とネパールとの貿易規模は絶対額としてはきわめて低い水準にある。しかしながら,近年における対策3国貿易の漸増傾向にともない,わが国との貿易も漸次増大しつつあり,1970年(1~11月)の対ネパール貿易総額は583万ドル(輸出475.5万ドル輸入107.5万ドル)で,輸出入比は約4.4対1とわが国の大幅の出超となつている。わが国の対ネパール主要輸出品は鉄鋼,化学肥料,織物用合成繊維糸,同織物,電気機器,機械類等であり,主要輸入品は黄麻をはじめジャ香,雲母,合金くず等である。

(う) 経済技術協力関係

 経済協力の分野においては1970年3月両国政府間に合意をみた100万ドル円借款に関し,12月に輸銀とNIDCの間に借款協定が調印されたほか,同月KR食糧援助計画による20万ドルの農業物質の贈与に関し両国政府間で書簡の交換が行なわれた。技術協力の面では,現在わが国から,和紙,竹藤細工の専門家2名,協力隊員11名を派遣しているほか,1970年度22名の研修員を受入れた。また,1970年3月の第1次農業協力調査団に引き続き12月第2次調査団を派遣,東部ネパール,ジャナクプール地区の開発調査を行なつた。

(15) パ キ ス タ ン

(あ) 概   観

 ヤヒヤ大統領は戒厳令に基づく軍政によつて国内政情の安定に努めてきたが,1970年に入り,就任直後からの公約である民政移管を実現すべく,その第一段階となる国民議会総選挙実施に必要な事務的準備に全力を傾注した。年頭から政党活動も認められ,大小20有余の政党各派が選挙に備えて活発な活動を展開した。総選挙は12月7日(東パキスタンの台風高潮被災地域では1971年1月17日)に実施され,ムジーブル,ラーマンが率いるアワミ連盟が過半数の議席(すべて東パキスタン)を得て第1党の地位を確保し,次いでブットー元外相の人民党が西パキスタンで圧勝して第2党となつた。しかし,その後,民政移管のための新憲法制定をめぐり東パキスタンの大幅な自治権拡大を規定する憲法制定を主張するラーマンとこれに反対するブットーの間の妥協がつかず,1971年3月3日に予定された国民議会の召集も延期され,東西政治勢力の間に立つて平穏な民政移管を目指したヤヒヤ大統領の努力も結実しないまま,東パキスタンでは連日の如くラーマンを支持する州民によるデモやストが続発し,政情は極度に悪化した。ヤヒヤ大統領は,3月26日に至り,戒厳令の全面的強化執行を宣言し,一切の政治活動を禁止した上,東パキスタンにおける事態を収拾するため軍隊の全面出動を命令したので,その後,政府軍と独立を呼号する東パキスタン側抵抗勢力が激しく争うところとなつた。

 対外関係においては,米国,中共,ソ連の3大国のそれぞれと個別に等距離をおいて友好関係を維持せんとする,いわゆる「バイラテラリズム」外交が着実に推進されてきて,1970年にはヤヒヤ大統領の3大国訪問も実現した。しかし,東パキスタンにおける内紛の発生により,この地域に微妙な利害関係を有する3大国の動きが注目されるところとなつている。対インド関係は1971年1月のカシミール人によるインド航空機乗取り事件,東パキスタンの抵抗勢力に対するインド政府の同情的態度により,一段と緊張が高まりつつある。わが国との関係については,1970年7月のハーフィズッディン工業相の万国博政府賓客としての来日,8月の愛知外相のパキスタン公式訪問などを通じ,友好の基盤がいつそう強化された。わが国は,東パキスタンで1970年7月より8月にかけて発生した大洪水に際し見舞金5,000ドルおよび米5万トンを,また,11月の東パキスタン台風高潮災害に際しても米5千トンを含む各種救援物資165万ドル相当をパキスタンに贈与した。

(い) 経 済 関 係

 わが国の対パキスタン貿易は1970年においても依然出超傾向が続いたが,輸出1億3,842万ドル(対前年比29.9%増),輸入4,235万ドル(対前年比12.8%増)で,輸出入とも前年より増大した。主要な輸出品としては,機械機器(特に電気機械,一般機械,自動車),金属品(特に鉄鋼),米,化学品などがあり,輸入品としては,原綿,ジュート,革および同製品,冷凍えびなどがあげられる。輸出面においては特に延払いによる米の輸出増が注目され,他方,輸入面では,原綿,原ジュート,綿糸布の買付が増大した。なお,1971年上半期にパキスタンは,国際収支上の理由により自動車,家電機器,ミシン,陶磁器などを輸入禁止品目としたが,これによりわが国の輸出にもある程度影響があるものと予想される。

(う) 経済技術協力関係

 わが国は世銀による対パキスタン債権国会議参加国として,パキスタンに対し1961年から1970年まで9次にわたり総額2億5,500万ドルの円借款を供与したが,1970年においては同借款により建設されていたゴラサール肥料工場およびチタゴン漁港が完成した。

 東パキスタンは恒常的な食糧不足に悩んでおり,1970年においてはパキスタン政府の要請に応じ,日本産米20万トンを延払いでパキスタンに供与することとし,11月13日本件米穀延払い輸出契約に関する書簡が両国の間で交換された。また,11月の東パキスタン台風高潮災害による被災地住民を救済するための緊急援助の一環として,KR食糧援助計画により70万ドル相当の日本産米(5,109トン)をパキスタンに贈与することとし,12月19日そのための書簡が両国間で交換された。

 また,1970年12月,パキスタンに対する繊維機械の延払い供与に関する第4次の協定が両国関係機関の間で締結された。

 技術協力では,今後の東パキスタンにおける農業開発技術協力の方策を検討するための農業開発基礎調査団や東パキスタンのチタゴンに漁業訓練センターを設立する可能性につき検討するための予備調査団が派遣されたほか,開発調査としてはイスラマバード上水道計画調査,フィッティ・クリーク港湾建設計画調査,東パ天然ガス第二次調査などが実施された。また,1970年度(1970.4~1971.3)海外技術協力事業団によるコロンボ・プラン技術専門家の派遣(19名)および研修員の受入れ(78名)電気通信研究センターおよび農業機械化訓練センターに対する協力なども着実に行なわれた。

(16) セ イ ロ ン

(あ) 概     説

 1970年5月27日実施された下院議員総選挙において,バンダラナイケ自由党総裁の率いる当時野党の自由党,平等社会党およびモスコー派共産党の3党野党連合は,(イ)未承認共産圏諸国の承認,(ロ)貿易の国家管理範囲の拡大,(ハ)基幹産業,銀行の国有化,(ニ)憲法改正,(ホ)米穀配給量倍増などを骨子とする共同選挙綱領を掲げ,当時セナナヤケ首相の率いる統一国民党,タミル人政党たる連邦党などと戦つた結果,野党連合は総議席157議席(総督任命議員6議席を含む)中3分の2を上回る116議席を占める圧倒的勝利を収めた。同月29日首相に就任したバンダラナイケ総裁は,平等社会党,モスコー派共産党の左翼政党から閣僚4名を入閣せしめ民主々義的社会主義社会達成への第一歩を踏みだした。

 新政権は6月中旬共同選挙綱領に基づく施政方針を発表したほか,10月下旬には,(イ)脱税防止,(ロ)強制貯蓄,(ハ)資産税の設置,(ニ)売上げ高税の増税,(ホ)消費税の増額,外貨取得権証明書制度の改訂などを含む新経済・財政々策を公にした。これら諸方針に基づき,(イ)国営貿易公団の設立,(ロ)新紙幣切替え,(ハ)原材料輸入割当制,(ニ)物価統制,(ホ)米穀配給量倍増,(ヘ)強制貯蓄制などの実施に踏みきつた。また,70年7月下院議員より成る憲法制定会議が成立し,共和制への移行,国会の一院制,大統領を元首とすることを内容とする新憲法を起草中である。なお,71年3月に入り,チェ・ゲバリスト反政府活動が活発化したため,16日,全土に非常事態宣言が発せられた。

 経済面では,1970年のGNPは前年比4.1%増であつた。同国経済が大きく依存する紅茶,ゴム,ココナツの国際市場価格の変動は依然続くものと思われるほか,新政権による民間部門から公共生産部門への変更,国営公団による貿易業務取扱いなど新体制への移行が完全に実施されるまでには日時を要するものと思われ,経済活動は全般的に停滞することが予想される。

 外交面では,非同盟中立を外交の基本としつつも,選挙公約にしたがい東独,北越,北鮮,南越臨時革命政権を相次いで承認し,イスラエルとの外交関係を停止した。これに対し,中華人民共和国は1965年以来引き揚げていた駐セ大使を着任せしめ,セイロンの米穀購入のため借款を供与した。

 北鮮はセイロンとの外交関係が設定されるや初代駐セ大使を赴任させたほか,借款供与協定に合意した。また,東独は大使を派遣し,貿易,文化協定を結び,北越も大使を派遣した。一方,西側諸国は70年2月の援助国会議でのプレッジに基づき夫々セイロンとの間に援助協定合意の方向で進めている。

 わが国との関係については,新政権成立後も従来どおりの友好親善関係が維持された。

(い) 経 済 関 係

 1970年1~12月のわが国からの輸出は24,931千ドル,輸入は17,372千ドルで約1.5倍の出超である。主要輸出品は機械機器,金属製品,化学製品,繊維品,鉄鋼品で,輸入品は紅茶,天然ゴム,貴石・半貴石が大宗を占めている。新政権は工業用原材料輸入の割当制を実施し,企業国有化の方針を決めているところから,わが国進出合弁企業11社の生産活動への影響は少なくない。

(う) 経済技術協力関係

 経済協力の面においては世銀主催の援助国会議の要請に基づき,71年2月9日第6次円借款500万ドル供与に関する取決めが成立した。技術協力関係では,1968年以来3回にわたり派遣された調査団の報告に基づき,70年10月19日デワフワ地区の農業開発に対する協力協定に合意したほか,わが国は70年4月から71年3月末までの期間に55名の研修員を受入れ,5名の専門家を新規に派遣した。71年3月末現在9名の専門家が滞在している。

 

アジア地域要人来往訪一覧表

 

(1)        来 訪 者

 

(2)        往 訪 者

 

目次へ