―欧州の情勢―
第9節 欧州の情勢
1. 欧州における東西関係
1970年の欧州における東西関係は,前年秋に成立したドイツ新内閣の積極的な東方政策をめぐつて,かなりの進展を示した。8月に独ソ条約,12月に独・ポーランド条約がそれぞれ調印されたことによって,現状の尊重と武力不行使を基盤とする新らしい共存関係が成立するかに見えたのである。
しかし,ドイツが両条約批准の条件としているベルリン問題の解決は,度重なる四カ国会談にもかかわらずいまだにその曙光を見ず,両独接触も,2度にわたる首相会談が大きな話題となったものの,その後の両独関係は膠着状態にあり,事態は秋口から71年にかけてむしろ停滞気味になっている。
NAT0,ワルシャワ条約両機構は,70年末の会合においてそれぞれ陣営内の見解統一につとめたが,東西間にはなお大きな懸隔があり,東側が次の目標として掲げている欧州安全保障会議の召集も,当面その見通しは立ち難い状態である。
(1) 独ソ条約の成立
1969年12月,アラルト駐ソ・ドイツ大使とグロムイコ外相の間で独ソ交渉予備会談が開始された当時は,交渉の前途を悲観的にみる見方が大勢を占めていたが,1970年春より夏にかけてバール・ドイツ総理府次官とグロムイコ外相との間で交渉は急速に進展をみせ,8月12日,モスクワにおいて,ブラント,コスイギン両首相間に前文および5条よりなる独ソ条約が調印された。
ドイツの立場からすれば,武力不行使を規定した条約第2条は,国家間の平和・協力関係の改善・拡大への決意を披歴した前文および欧州の正常化と諸国間の平和的関係の発展に努力する旨を表明した第1条とともに,ソ連および東欧諸国の対ドイツ不信感の除去という目的にそつたものであろう。また,ドイツ側は,ドイツ再統一という目標からは若干後退してはいるが,条約調印と同時にドイツ政府からソ連政府あてに発出された書簡はこの条約が「ドイツ国民が自由なる自決権の行使の下にその一体性を再び実現し得るような欧州平和状態の達成に努力する」というドイツの政治目標を妨げない旨確認しており,さらに,条約調印と同時に米,英,仏三国政府にあてたドイツ政府の口上書は,本条約が「ドイツおよびベルリンに対する四大国の権利義務に抵触しない」旨を明らかにしている。特にドイツにとつて重要なベルリン問題についてブラント政権は,その満足のいく解決が独ソ条約批准の前提条件であるとの立場をとつている。
一方ソ連側は,この条約の第3条においてオーデル・ナイセ線および両ドイツ国境を含む欧州の全国境を不可侵とみなす,との規定を設けて,いわば欧州の現状を「固定化」したことに大きな意義を見出しているようである。
(2) 独波条約の成立
独ソ交渉とならんで1970年2月から開始された独・ポーランド交渉は,12月7日に調印された。本条約の第1条第1項は,独波両国がポツダム宣言第9条によつて定められた「現存国境線は,ポーランド人民共和国の西部国境を形成することを一致して確認する」とし,続いて同第2項はこの国境線が「現在および将来にわたつて不可侵であることを保障」しており,もつてオーデル・ナイセ国境線を確定したいとのポーランド側の永年の希望が事実上容れられることとなつた。本条約調印の結果,ポーランド側はドイツとの経済交流の活発化に期待し,ドイツ側は対ドイツ不信感の除去と国交の正常化に期待しているということができよう。
(3) 両 独 交 渉
両独政権樹立以来初の両独首相会談が1970年3月エルフルトで,次いで5月にカッセルで開かれて以来,両独交渉はしばらく中断したままとなつていたが,11月にバール・ドイツ総理府次官とコール東独閣僚評議会次官との間の事務レベル接触が開始され,1971年3月末までに10回の会談が行なわれている。
(4) ベルリン4ヵ国会談
1970年12月初めのソ連・東欧首脳会議および,NAT0閣僚理事会は,東西両陣営の双方において,1970年を通じてみられたヨーロッパの東西関係の進展を回顧するとともに,今後の対策を練るため開催されたものと考えられる。NAT0閣僚理事会のコミュニケは,少なくともベルリン問題の解決を東側が主張する全欧安保会議開催の準備開始の前提条件とする旨を述べ,また米軍の欧州残留を確認してNAT0諸国の強い結束を誇示したということができよう。
また上述の通りブラント政権が,ベルリン問題の解決を独ソ条約,独波条約の批准の条件とする立場をとつていることとも関連して,ベルリン問題が今後のヨーロッパの東西交渉の中心となるであろう。
しかし,ベルリンに関する4カ国会談は1970年3月ベルリンで開始され,71年3月末までに17回の会合を重ねたにもかかわらず,何ら実質的な合意をみないまま,1971年に持越されている。東独に対して強い発言力を持つソ連が,独ソ条約の批准にどれだけの利益を見出しているかによつても今後の進捗状況が決定されるであろう。
(5) 独チェコ交渉
独ソ,独波両条的調印に引き続き,西独はチェコとの間で1971年3月30日,両国関係調整のための第1回予備的会談を行なつた。
(1) 現政権の動向
ブレジネフ政権は成立以来7年目を迎え,本年3月30日から4月9日まで同政権2度目の党大会を開催した。
1969年12月の党中央委員会を契機として,経済成長の停滞傾向の打開策についての論議が高まり,70年春頃にはクレムリン異変説が流れ,また中級幹部の人事異動がしきりに行なわれたが,同年4月末のレーニン百年祭前後から,ブレジネフ書記長の地位が漸次向上している兆候が見られた。しかし70年7月には2回も党中央委総会が開かれて,党大会が70年中に開かれるとのブレジネフ書記長の言明がくつがえされて,本年3月党大会開催が決定されたことは,複雑な党内事情を物語るものであり,特に新5ヵ年計画について党指導部内の意見調整が難航していることを示唆するものであつた。
本年3―4月の第24回ソ連共産党大会では,集団指導部を構成する政治局,書記局メンバー25名が全員留任し,政治局の増員(4名)のみの内部異動に終つて,現指導部による集団指導体制が維持されていることを示したが,大会において従来のブレジネフ路線が再確認され,代議員の発言その他でも全体としてブレジネフ色が強く見られ,集団指導の中心としてのブレジネフ書記長の地位が一段と高まつている傾向が見られた。
しかし,ソ連社会は世代の更新を必要としており,かつこれがある程度進行しているにもかかわらず,かなり老化している現指導部の新陳代謝が全く行なわれなかつたこと,大会において経済政策の今後の基本的方向は一応打ち出されたものの,具体的施策が明らかにされなかつたことなどから見て,現政権の表面的な安定も,依然として集団指導部内の均衡の上に立つたものと見られよう。
(2) 内 政
現政権がブルジョア・イデオロギー排撃,社会秩序の強化の方針を強く打ち出しているにもかゝわらず,1970年においても,ソルジェニツィンのノーベル文学賞授賞問題その他一部知識人の体制批判の動きは依然として後を絶たず,また再度にわたるハイジャック亡命事件は,ソ連の厳しい体制をもつてしても,世界的風潮の浸透を防止しえない一例を示したものであつた。
党大会においては,社会秩序の維持強化,党の指導力の強化を主眼とする保守的な政策を進めることが確認され,特に党員の質の向上を目的として,17年ぶりに党員証の書換えを行ない,候補を含め1,450万(成人の9%)にふくれ上つた党員の総点検を行なうことが明らかにされた。
スターリン問題については,スターリンの胸像建立などの動きが見られたが,党大会においてブレジネフ書記長は,個人崇拝(スターリン),主観主義(フルシチョフ)の双方を排斥し,スターリンの限定的再評価という現政権の立場を再確認した。
党大会におけるブレジネフ報告その他の発言は,ソ連において民族問題が複雑化していることを示唆しているが,ユダヤ人のハイジャック未遂事件や出国許可要求などの動きも,その一端を示すものであろう。
経済面では1970年は第8次5ヵ年計画の最終年度であり,また69年の経済不振もあつて,70年には全国的に増産キャンペンが展開された。本年2月発表された1970年度経済実績では,工業生産の対前年比のび率8.3%,農業生産は8.7%と69年に比して好調を示し,その結果第8次5ヵ年計画は,工業生産については対前期比50%増の目標を一応達成した。しかし鉄鋼,電力,石炭などの基幹産業部門についての生産目標遂行度が悪く,その成長率停滞傾向は依然として改善されず,また農業生産は,70年の穀物,棉花の生産が史上最高であつたのにもかかわらず,5ヵ年全体としては対前期比25%増の目標を下回る21%にとどまつた。
第24回党大会で採択された第9次5ヵ年計画に関する党大会指令は,農業重視,消費財の優先的成長,科学,技術の導入促進,計画方法および経営の改善等,従来の重点施策を継続,推進する方針が打出されているが,成長目標は概して控え目で地味なものとなつている。しかし基本的政策方向を示す重要指標の一つである投資について,総額と農業投資額などが明らかにされているのみで,産業別配分,共和国別配分が明白にされていないことは,資金配分問題の調整が党大会後に持ち越されたことを示すものであり,この問題が政策論争の焦点の一つとなつていることを窺わせるものであろう。
党大会のブレジネフ報告その他において,民生向上がしきりに強調され,また5ヵ年計画においても,消費財の成長率目標を生産財のそれよりも高く定められたが,ブレジネフ報告などでは経済力の基盤としての重工業の重要性,国防力の充実の必要性も強調されており,重工業の発展を確保し,国防力の強化を継続しつつ,可能な範囲内で民生の向上をはかるという基本的方向は不変であることを示した。
(3) 外 交
第24回党大会における報告演説でブレジネフ書記長は,ソ連の外交政策の目的として,(イ)社会主義諸国の団結強化,(ロ)民族解放斗争支援と発展途上国との協力,(ハ)社会体制の異なる諸国との平和共存をあげて,従来の基本路線を再確認した。
ソ連の対外政策における最大関心事は,世界社会主義体制の強化,特に東欧の把握にあり,ワルシャワ条約機構およびコメコンを通ずる東欧の政治的,経済的統合への努力が続けられたが,1970年12月のポーランド事件により,ソ連の東欧の統合強化への関心はいつそう強まつたものと思われる。党大会におけるブレジネフ報告も,1968年のチェッコスロヴァキア事件に言及して,東欧諸国に警告するとともに,団結強化を強調した。
1970年のソ連外交における顕著な出来事は,独ソ条約の調印と北京会談を通ずる中華人民共和国との国家関係の若干の正常化であつたが(欧州における東西関係および中ソ関係の項参照),独ソ条約の調印も,全欧会議の提唱と同様に,これにより西欧の結束を弱め,米国の欧州よりの後退をはかるとともに,東欧の現状固定化による把握強化を目的としたものと見られ,また中ソ対立におけるソ連の基本的立場も,中華人民共和国を世界社会主義体制の強化と国際共産主義運動の統一のための最大の障害と見なしていることにあるものと見られる。インドシナ問題にたいするソ連の長期的立場も同様であろう。
地域的に見れば,ソ連の対外政策の重点地域は欧州,次いで中東と云えようが,その他の地域にたいしても,可能な時期と場所に応じて進出をはかつており,この一年のソ連外交は,各地域,各国にたいして最も効果的な現実的アプローチを強めていることが特徴的であつた。
最近ソ連の世界の海洋への進出が顕著であり,特にインド洋へのソ連の艦船の進出が目立つているが,これは英米のインド洋地域よりの後退傾向とも関連して,アジア,中近東,アフリカにまたがる広大なインド洋沿岸地域への政治的影響力の増大を意図しているのであろう。
なお党大会におけるブレジネフ報告にわが国についての言及が多かつたが,これはソ連の対外政策におけるわが国の地位が高まつていることを示すものであろう。
東欧においては1970年は,ワルシャワ条約機構,コメコン等を通じて「東欧諸国の政治的,経済的結束の強化」のためのソ連の努力が続けられるとともに,独の「東方政策」が対ソ交渉と並行して,東欧諸国にたいしても活発化した年であつたが,東欧における最大の出来事は,1970年12月7日の「独・ポーランド間の相互関係正常化の基礎に関する条約」調印とその直後に起つたポーランド北部諸都市における暴動およびこれを契機とするポーランドの政変であつた。
(1) ポーランド
1970年2月に開始された独・ポーランド間の国交正常化に関する交渉は,11月中旬妥結し,12月7日「独・ポーランド間の相互関係正常化の基礎に関する条約」が調印された。本交渉における中心問題は,オーデル・ナイセ国境の取扱いと在ポーランド・ドイツ人の帰国問題であつたが,8月には独ソ条約が調印され,またポーランドとしても経済的要請もあつて,双方が早期妥結に努力したものと見られている。
条約調印直後,12月14日ポーランド北部のグダンスク,シチェチンなどにおいて暴動が発生し,これを契機に1956年10月以来党第一書記の地位にあつたゴムルカが辞任し,ゲーレクを党第一書記とする新政権が登場した。
暴動の直接原因は,12月13日に実施された食料品など生活必需品の大幅値上げであつたが,その底流には長年の経済不振による生活水準の停滞にたいする国民の不満がうつ積しており,これが一挙に爆発したものと見られている。
政府は当初武力による弾圧を強行し,死者45名,負傷者1165名を出したが,党指導部内の派閥抗争がからんで,ゴムルカ派に対する責任追求の声が強まり,12月20日の政変にまで発展した。
ゲーレク新政権は,国民との対話を強調し,低所得層への財政的扶助を約束するなど融和的姿勢を打ち出したにもかかわらず,1971年1月後半には,グダンスク,シチェチンで労働者が種々の要求を行なうに至ったが,新政権首脳の直接説得によって事態は一応収拾された。
2月上旬党中央委総会が開催されて,ゴムルカの中央委員としての職務停止のほか,ゴムルカ派および責任者の処分が行なわれ,ゲーレク党第一書記はその演説で民生重視の政策を公約した。しかし総会直後にウッジの工場でストが発生したため,党,政府は,12月暴動の発端となった食料品の値上げを撤回し,事態はようやく平静化した。
しかしポーランドの経済には余力がなく,全般的な賃金引上げ等国民の要求にこたえられる状況にはなく,むしろ事態の打開は労働者自身による献身的勤労にかかっているとみられるので,新政権の前途は多難であることが予想される。
(2) チェッコスロヴァキア
1970年前半には党員証書き換えが進められ,6月にはドプチェクが党より追放されるにいたる等自由派分子の排除が進められ,また同時に,5月にはソ連との新友好・協力・相互援助条約が締結され,更に12月の党中央委総会では,68年のワルシャワ軍の軍事介入をチェッコスロヴァキア側から要請したことが確認される等ソ連との゛関係正常化"も一段落を遂げた。
他方,フサーク指導部は,上記のようにソ連との関係゛正常化"を進め,もつてソ連の信任を得ることに努める一方,自由派分子の排除を要求する過激派の突上げを最少限度に喰い止め,もつて技術官僚及び知識階級を安堵せしめ,また消費物資の出廻りを図る等国民の意に沿うべく努めた結果,1970年後半頃より国内政情は徐々に安定化の方向をたどるにいたつており,また国民も,いたずらに゛プラハの春"の挫折を嘆いても仕方なく,自国の経済を建て直すには,自ら労働に励むほかはないことを認識するにいたつており,そのため国内経済も1970年後半に入り徐々に回復の軌道に乗るにいたつた。1971年2月の党中央委総会では,次期党大会の開催期日も5月に決定されたが,このことは,国内の政治経済も一応将来の見通しがつきうるまでに落着いてきたことを示すものとみられる。
(3) その他の東欧諸国
ルーマニアは,1970年春の大水害で深刻な経済的打撃を蒙ったが,チャウシェスク体制の下に,被害の克復に努めており,対外面では1970年7月長年の懸案であつたソ連との友好・協力・相互援助条約を締結するなど対ソ関係の調整に努める一方,中共および西側との友好協力関係を推進して,自主独立路線を堅持している。
ユーゴースラヴィアでは,インフレが悪化して1971年1月通貨切下げが行なわれ,経済の安定化が焦眉の問題となつている。また現在同国においては,連邦幹部会創設に関する憲法改正が準備されているが,これはポスト・チトに予想される国内の混乱を集団指導によって回避し,各共和国間の利害対立を調整することを目的としたものと見られている。対外面では中ソとの国家関係の正常化を進める一方,ニクソン米大統領の同国訪問,チト大統領の西欧諸国歴訪など西側諸国との関係強化を推進し,またチト大統領多年の宿願であった非同盟諸国首脳会議の開催を果し,同国外交にとり実り多き年であったといえよう。
ハンガリーでは,1970年11月開催された第10回党大会において,対ソ協調と経済自由化を中心とするカダール路線の継続が確認された。
親中共路線をとつているアルバニアは,文化大革命を終結した中華人民共和国が再び外交活動を展開するに伴い,これと並行して,西欧諸国及び近隣諸国との国家関係を調整する等対外関係改善に積極的な姿勢をみせてきている。
1970年度は,西欧諸国においては英国及びイタリアで政権交替があったほか,英国の北アイルランド,スペインのバスク地方,イタリアのカラブリア地方等で地域的あるいは民族的要因に起因する騒擾が見られたが,各国とも概して国内情勢は平穏に推移したと言えよう。この1年間,西欧においてむしろ注目すべきは,本節1,にのべたような東西関係の動きと,第13節4で見るような欧州統合をめぐる動きであつたということができよう。
英国においては,70年6月18日の総選挙の結果,同20日,1964年以来続いた労働党政権に替つてエドワード・ヒースを首相とする保守党内閣が誕生した。新政権は,国内的には前政権に比してより自由主義的経済政策を基調として英国経済の基盤強化をはかることを目指し,対外的には前政権の政策を基本的には承継しつつも,EEC加盟にいつそう積極的姿勢を示し,またスエズ以東撤退,対南ア武器売却等については国益に関する現実的評価に基づいて再検討するとの態度を明らかにしている。
イタリアにおいては,1969年の「暑い秋」の労働攻勢は70年に入つてもさほど衰えず,このため経済成長の鈍化が見られ,一時はリラの切下げすら噂にのぼるに至つた。こうした情勢を背景に,6月の統一地方選挙により新設された州議会における社会党共産党間の協調問題をめぐつてキリスト教民主党,社会党,統一社会党,共和党の連立4与党間で見解が対立し,これを契機として7月6日第2次ルモール内閣は瓦解するに至つた。困難な組閣工作の結果8月6日成立した現コロンボ内閣は,経済再建を政策の第一にかかげ経済・社会問題に取り組んでおり,70年後半以降イタリアの経済は徐々に回復しつつあるが,なお住宅・社会保障問題等懸案が山積している。
ドイツにおいては,69年秋に成立した杜民党,自民党の二・三位連立のブラント政権は70年を通じてドイツ内外において注目の的となつた積極的な東方外交を展開した。国内的には連立の一翼をになう自民党一部議員の脱党問題があり,また第一党たる野党キリスト教民主(社会)同盟より東方政策,経済政策を中心とした激しい攻勢があつたが,同年行なわれた6つの州議会選挙でほぼ現状を維持することが出来た。なお,これら州議会選挙を通じて,ネオ・ナチといわれる国家民主党の勢力の衰退傾向が注目された。
ドイツの経済は,1969年10月のマルク切上げにもかかわらず,物価の騰勢は予期されたほどに抑制されず,また,一時減少した外貨も再び増加し,景気は依然過熱状態にあつたが,70年末頃から若干鎮静の兆候も見られ始めた。
フランスにおいては,ポンピドウー政権は議会における強力な与党に支えられつつ,比較的平穏な学生,労働者の動向を背景に,引き続き経済の再建に取り組み,70年々央までに一連の経済再建計画の達成に成功し,さらに失業,物価,教育,地方制度改革等の諸問題に意欲的に取組む姿勢を示している。71年1月7日シャバン・デルマス内閣が一部改造されたが小規模なものにとどまつた。
西欧諸国間の関係については,欧州共同体,西欧連合,NATO等の場において,70年から71年にかけ各国間の連帯の強化拡大の動きがかなり顕著に見られた。
まず,欧州共同体6ケ国は,69年12月のハーグ首脳会談の意を受けて欧州政治統合に関する検討を行なつた結果,当面少なくても6ケ月に一度ずつ外相会議を開催するとともに,各国外務省政務局長によつて構成される政治委員会をその下部組織として設置することとした。かくして,70年11月20日,ミュンヘンにおいて第1回の6ケ国外相会議が開催され,6ケ国間政治協力の具体的第一歩が踏み出されることとなつた。
英国にEEC6ケ国を加えた西欧連合においては,ドゴール時代の1969年2月,英国が同連合閣僚理事会をEEC加盟の裏口に利用しているとしてボイコットしたフランスが,70年6月5日のボンでの閣僚理事会以来復帰し,その後数回に及ぶ閣僚理事会において,西欧の連帯強化と欧州における東西関係のあり方を中心に友好的な意見交換が行なわれている。
またNATOは,本来の軍事機構としての役割にかわり,政治,経済の分野での加盟国間協力のための役割を強めており,70年5月のローマ閣僚理事会,12月のブラッセル閣僚理事会において欧州における東西関係等につき意見の交換を行ない,西欧陣営の団結強化を図るとともに,69年11月に新設された「近代社会挑戦委員会」を通じて環境問題に関する国際協力の増進に取り組んでいる。