―その他のアジア,大洋州地域の情勢―
第8節 その他のアジア,大洋州地域の情勢
1. その他のアジア(インドシナ3国を除く東南および南西アジア)
(1) 概 況
1969年ニクソン大統領の就任に伴う米国のニクソン・ドクトリンに基づく新アジア政策の展開,英軍のスエズ以東の兵力削減,69年夏アジア集団安保構想を打ち出したソ連のアジア諸国との政治経済文化交流の活発化,文革を終わり外交機能を回復した北京の70年春以来のアジア共産諸国との反米統一戦線結成の動きなど,最近これら諸大国のアジアに対する政策には大きな変化がみられるが,このような中にあつて東南ア諸国は自主独立および自助への指向を強め,さらに近来東南ア諸国相互間の地域的連帯の気運が着実に盛り上りをみせてきている。これは東南アジア開発閣僚会議,ASPAC,ECAFE,ASEAN,アジア開発銀行などにおけるアジア諸国の活躍に如実に反映されており,また70年5月開かれたカンボディアに関するジャカルタ会議は,アジアの紛争解決にアジア諸国がとつたイニシアティヴとして画期的な意義を有するものである。
他方70年9月マレイシア首相の提唱した米ソ中3国の保証によるアジア中立化構想は,こうした四囲の国際情勢に対処し,特定の大国の影響下に入ることを欲しないアジア諸国の気構えを反映したものといえよう。
南西アジア諸国についてみると,まずインドでは総選挙の結果,現ガンジー政権が圧勝,インドの政治経済の安定に明るい見とおしを与えることになつた。他方,セイロンでは選挙の結果国民の経済的不満を背景に,左翼政権が誕生したが,政府の経済政策にあきたらない過激分子によるテロ活動のため非常事態宣言が布かれており,また,パキスタンは,軍政より民政移管のための制憲議会の召集及び憲法の実体的内容に関連した東西両パの対立に基づく分裂の危機に逢着し,ついに軍部の東パ弾圧によつて内乱状態に陥つている情勢にあり,事態の推移いかんによつては,国際化する可能性もある。
(2) 米ソ中3国のアジア政策
(あ) 米国のアジア政策
ニクソン大統領は69年7月グァム島において米国の新アジア政策を発表し,11月3日これを「ニクソン・ドクトリン」と呼ばれるものに発展せしめた。これはアジアの安全保障に関し,(イ)米国は既存の条約上のコミットメントを守る(ロ)核兵器保有国からの脅威の場合に米国は「核の楯」を提供する(ハ)その他の侵略に対しても要請されたときは軍事経済上の援助を提供するが,地上兵力については第一義的に脅威を受けている国がこれを拠出するとの趣旨のものである。この米国の政策はヴィエトナム戦争の教訓から将来のアジアにおける軍事的責任を従来よりも限定的に考えようとするものである。
(い) ソ連のアジア進出
(イ) ソ連は66年カシミールをめぐる印・パ紛争の調停を行なつて以来,特にインドとの関係を強化しつつあるが,最近はアジアの他の諸国とも接触を深め,たとえばマレイシア,シンガポールとの国交樹立,対印・パ軍事経済援助供与,フィリピン,タイとの経済文化交流,さらに70年後半にはインドネシア外相,シンガポール首相,フィリピン官房長官らが相次いで訪ソしている。
(ロ) 近年ソ連軍艦船のインド洋進出など,ソ連がアジアに従来以上に関心をもつに至つたのは,(a)対外関係でアジアに占める中ソの比重が著しく増加し,北京との対抗上アジアヘの関心が高まつたこと(b)米国のアジアに対する過剰介入の整理,スエズ以東からの英軍の削減などの機に乗じ,ソ連のアジア進出の余地が生じたためであろう。換言すれば,米英のアジアにおける政治的,軍事的プレゼンスもしくは影響力の縮小の傾向に際して,一方ではアジア諸国に対する北京の影響力の防止ないし封じ込めを企図し,他方ではアジアにおける米英の勢力を排除せんとするものと考えられよう。
69年6月ソ連の提唱したアジア集団安保構想は,ソ連自身もいまだなんら具体的な構想ではないと説明しているが,まさにこのような目的に合致したものと思われる。
(う) 中華人民共和国の対外活動
(イ) 中華人民共和国は70年3月のカンボディア事件を契機に,とくに同年5月20日の毛沢東声明によりアジア共産諸国の「反米帝続一戦線」を結成する動きを活発化し,これによりアジアから米国の勢力を駆逐するとともに,米英の軍事的プレゼンスの減少を一つの機会とみ,さらにソ連のアジア進出,特にアジア共産圏を通ずる侵透を一つの挑戦とみなしているのであろう。
(ロ) 中華人民共和国は文革時代「外交不在」で孤立化し,アジア諸国に対する影響力も激減したが,69年4月九全大会において林彪は,インド,ビルマ,タイ,マレイシア,インドネシアなどの諸国において民族解放闘争支援を,パキスタン,カンボディア,ネパール,アフガニスタンなどに対しては平和五原則外交を行なうとの外交方針を打ち出し,爾来,中華人民共和国の外交機能は漸次回復したが,その対外活動はカンボディア民族連合政権の支持をはじめ多様な形で活発化しつつある。近時中華人民共和国は国内の相対的安定を背景として隣接諸国に対し意欲的な外交の再開と取り組み,10月ビルマの北京駐在大使任命に伴う中緬復交,同月カイロその他在外公館を通じインドとの関係改善に乗り出したとも伝えられたが,11月にはパキスタン大統領を迎えて2億ドル借款供与のほか経済技術援助協定を締結し,両国の友好関係をさらに深めるなどとみに活発な動きをみせている。ただし,中華人民共和国がカナダ,イタリア,ユーゴースラヴィアなどアジア以外の諸国と平和五原則の柔軟外交路線をすすめているのに比べ,アジアにおいては,インドシナ戦争が続き,台湾問題をかかえている限り,柔軟外交路線の採用が遅れる傾向にあることは否定できないであろう。
(え) アジアの地域協力
アジアにおける地域協力促進の動きは,インドネシアのマレイシア対決政策の撤回および日韓国交正常化を契機として1966年以降急速に活発化し,東南アジア開発閣僚会議,アジア太平洋協議会(ASPAC),東南アジア諸国連合(ASEAN)等の機構が生れた。またアジア開発銀行の設立にもみられるごとく国連アジア極東経済委員会(ECAFE)を通ずる地域協力も意慾的に進められてきている。
これらの地域協力の動きは,1970年も活発に行なわれたが,かゝる動きはアジアの開発途上諸国にみられるナショナリズムの高揚と相まつて,アジア地域内の自主性と連帯意識,さらに自助の精神を強化する上に大きな役割を果してきている。
ASPACは,閣僚会議を重ねるたびにその平和的,建設的な性格を明確にしてきており,1970年のウエリントンにおける第6回閣僚会議までの間に,この平和的,建設的な性格は定着化したといえよう,
また,これまでにASPACを母体として設立された,文化社会センター,科学技術サービス登録機関,食糧肥料技術センター,また近く発足をみる経済協力センター等の諸プロジェクトは,ASPACの閣僚協議会と相まつて,地域協力の精神の醸成に大いに貢献している。
ASEANはその加盟国であるマレイシア,フィリピン両国の関係がサバ領有問題をめぐつて1968年以降悪化し,9月外交関係が停止されるに至つたため,その活動が事実上停止されていた。しかし,第3回閣僚会議がマレイシアで開催され,それを契機としてマレイシア,フィリピン両国間にサバ問題と関係なく外交を正常化する合意が成立し,ASEANは再び本来の機能を回復した。第4回閣僚会議は1971年春,マニラで開催される予定である。
1. 1970年を通じ,豪州およびニュー・ジーランドの内政および外交には,特に大きな変化はみられなかつたが,71年初頭,豪州の政情には二つの大きな出来事が生じた。すなわち,その一は,3月に入つて,1968年1月以来3年余りにわたつて自由・地方両党連立政権を率いて来たゴートン首相(自由党)が,政府および自由党に対する統率力の減退により首相および党首の座をマクマーン外相(自由党)に譲ることを余儀なくされたことであり,その二は,1971年1月末に,長年豪州政界の長老として大きな影響力を行使してきたマッキュアン副首相兼貿易産業相(連立与党地方堂々首)が老令を理由に引退し,アンソニーが同氏の跡を襲つて地方党新党首となり,副首相兼貿易産業相に就任したことである。この二つの出来事により新しい政界地図がどのようなものとなるかは今後注目される次第であるが,与党内部の勢力交替であり,さしあたり,内外の政策に大きな変化はないものと見られている。
他方,ニュー・ジーランドにおいては,ホリオーク首相(国民党)が1960年以来の長期安定政権の座にあり,大きな変化はない。
2. 外交面においては,豪州,ニュー・ジーランドとも,従来からANZUS条約を軸とする対米協調,日本を含むアジア諸国との地域協力の促進,英連邦連帯の維持等を基本ラインとしている。加えて,近年,両国とも,対日関係を重視するとともに自由の安全保障及び経済利益の上から東南アジアをその外交活動の重点地域とすることを強調しており,かかる観点から,両国は,たとえばマレーシア・シンガポール防衛に対する両国の協力などに示されるように,アジア地域の諸問題に積極的にアソーシエイトし,その解決のために二国間または地域協力などの多数国間の場を通じて応分の役割を果して影響力を増大していくべく着実な努力を行なつている。いわゆる中国問題については,カナダ,イタリアの中華人民共和国承認,国連での動向など最近の国際情勢の動きには当然のことながら大きな注目を払つているが,基本姿勢には変化は見られなかった。なお,特に英国市場に対する依存度の大きいニュー・ジーランドにおいては,英国のEEC加盟問題が新たな局面に入るに従い,加盟交渉の動向に重大な関心を寄せている。
3. なお,1970年6月及び10月には,南太平洋において,トンガ,フィージーが,それぞれ,英国より独立し,国際社会に正式に迎え入れられた。なお,フィージーは独立後直ちに国連に加盟した。