―インドシナ問題―

 

第6節 インドシナ問題

1. 軍 事 情 勢

 

 1970年3月18日のカンボディア政変後,ロン・ノル新政権の政策により同国領内の聖域保全が不可能とみた共産側は,北京滞在中のシハヌーク殿下を盛立て実力により聖域・補給路を確保する政策に切換えた。そのため共産軍との衝突は南越との国境地域から中・南部に拡がつた。これに対し,米・南越軍は4月29日南越に対する当面の脅威を除去するための聖域掃討及び間接的にはロン・ノル政権に対する共産軍の圧力を減ずる目的からカンボディア領に進攻した。この進攻は共産側の目立つた抵抗もないまま軍事的にはかなりの成功を納め,6月29日米軍の撤退をみた。一方この進攻で従来の作戦根拠地を破壊された共産側は南部ラオスよりの補給路の強化の必要に迫られ,4月30日アトプー,6月9日サラワンを占拠し,メコン川を通じカンボディア領に入る補給路の拡大・強化につとめた。

 米,南越軍による聖域掃討作戦の結果,共産側は根拠地と補給物資を喪失し態勢建てなおしを余儀なくされ,加えて雨期の到来もあり,その後7月から4カ月間全般的に戦斗は縮小沈静化した。この効果が最も表われたのは南越で,北方の非武装地帯付近の断続的なものを除き戦斗は激減し治安も相当改善された。

 乾期が近づくにつれ,兵員数では政変前の3万5千から18万に増大したものの政府軍の態勢の整わないカンボディアで軍事情勢が動き始め,また首都においても手榴弾投擲等のテロ事件が瀕発するようになつた。これに対し,共産側の活動を阻止するため,米国の限定的北爆再開(11月20日),米空軍支援下のカンボディア・南越両軍によるカンボディア国道4号線開通作戦(1971年1月13~22日)が行なわれた。この間に共産側のプノンペン空港攻撃(1月22日早暁)等もあつたが,2月8日には共産側の浸透・補給をより直接阻止するため米空軍支援の下に南越軍はラオス領に進攻した。南越軍は共産側物資の南下を阻止するとの所期の目的はある程度達したものの共産側の予想以上の反撃に当面し,雨期入りまで1カ月余を残し3月24日一先ず作戦を終了した。同作戦における戦斗は激烈を極め双方に甚大な損傷をもたらした。ラオス進攻作戦はインドシナ戦局の焦点が南越よりその隣接国たるラオス,カンボディアヘと移つてきたことを示すものであるが,作戦の評価は長期的観点よりなされるべきであるというのが一般的な見方である。

 

2. アジア会議

 

 カンボディア政変後,事態の一層の悪化を懸念したアジア諸国は自らイニシアティヴをとつて,緊張緩和の途を見出そうとの立場から,マリク・インドネシア外相の提唱で11カ国の参加を得て5月16~17日ジャカルタでアジア会議を開催した。同会議は(あ)全外国軍隊撤退,(い)カンボディアの独立・中立尊重,内政不干渉,(う)国際監視委員会活動の再開,(え)国際会議の早期開催を要請し,(う)(え)実現のため日本・インドネシア・マレイシア3代表が関係国・国連と話合うことを決定し,その後3特使の和平のための活動が関係国の深い関心の中で行われた。

 また71年2月の南越軍ラオス進攻に際しても,上記日・マ・イ3国は共同歩調をとり,ジュネーヴ共同議長国たる英ソ両国及びICC機構国たるインド,カナダ,ポーランド3国に対しラオスの事態収拾のため速やかに適切な措置をとるよう申入れを行なった(2月19日)。この結果,ラオス情勢への国際的な関心が一層高まり,ラオスのプーマ中立政府の立場があらためて国際的に支持されることとなつた。

 

3. 拡大パリ会談

 

 1969年12月,米国のロッジ首席代表の辞任以来格下げ状態となり進展をみせなかつた拡大パリ会談は,ニクソン大統領が1970年7月1日ブルース新首席代表を任命したことにより,9月17日第84回会議で9カ月ぶりに4首席代表が顔を揃えた。

 この日ビン南越臨時革命政府代表は,前年5月8日の10項目提案の若干の点を解明するためとして,米軍・連合外国軍が1971年6月末までの撤退を宣言すれば撤退期間中の安全保障及び捕虜釈放の問題につき直ちに討議に入ること,チュウ,キィ,キエム3首脳を除いた現南越政権と話合いの用意あること等を骨子とする8項目の提案を行なつた。これに対しニクソン大統領は1O月8日テレビ・ラジオ演説でインドシナ全域における現状停戦,インドシナ和平会議の開催,在南越米軍の全面撤退のタイムテーブルについての交渉,南越国民の意思を反映した政治的解決,捕虜の即時無条件釈放を骨子とする5項目提案を行なつた。

 このように双方の提案が出揃ったこともあり秘密会談の可能性も含め会談の進展が期待されたが,依然撤兵問題と連立政府問題で対立が続いている。その後11月の米側限定北爆再開,71年2月の南越軍ラオス進攻等もあり態度を硬化させた共産側は第105回会談(3月4日)より首席代表を出席させず,第108回会談(3月25日)は2週間の延期をみるに至った。

 

4. インドシナ3国の動き

 

(1) 南越聖域掃討作戦の結果共産側の戦斗規模縮小が顕著にみられ,平定計画も順調に進捗し,70年11月末現在南越政府の人口支配地域は約94.3%に達すると発表されている。8月30日の上院議員半数改選で反政府の仏教徒急進派の推すグループが第1位で当選し注目されたが,反政府グループの活動も憲法の枠内で行なわれることとなり,南越の政治体制の安定性は引続き維持されている。また傷病兵・学生等の反政府デモ等治安情勢や通貨安定化により経済状勢もまず平穏に推移している。

(2) カンボディア政変後の困難を一応切抜け,青年・インテリ層,軍部の支持の下に7月1日内閣改造を行ない,10月9日には共和制に移行し「カンボディア共和国」として新たに発足した。その後ロン・ノル首相の発病(71年2月8日)があり,右に伴いシリク・マタク副首相が首相の任を代行することとなった(同16日)が,「カ」政局は特に波乱もなく推移している。

(3) ラオス共産側(1970年3月5日),政府側(4月3日)双方の和平提案により63年内戦再発以来話合いの杜絶していた両者間に糸口が開け,8月3日よりプーマ首相とパテト・ラオ側ウォンサック特使との会談が実現した。その結果両派会談場所にカンカイが合意され,ペン・ポンサワン内相とブーン・シプラスート中央委員の代表任命をみた。しかし,会談開催の具体的話合いがつかないまま特使は1971年1月22日二度目のサムヌーア帰任を行ない,その後南越軍のラオス南部進攻等の状況により話し合いは中断されている。

 

5. 米国の動き

 

 1970年4月末の米軍による力ンボディア進攻は,ケント大学事件(5月4日),ワシントン集会(5月9日)等米国内に反戦運動の昂まりや上院外交委の批判的動きを惹起した。しかし6月末の米軍カンボディア撤退後は米国の世論も静まり,10月のニクソン5項目提案はインドシナ問題の包括的かつ現実的な解決案として国内外の世論の支持を受けた。

 米国はパリ会談の停滞状態にかんがみ,それと関係なく既定の撤兵計画を推進する方針をとり,右を支障なく進捗せしめるため共産側の補給活動に攻撃を加える目的で限定北爆再開(11月20日)や対カンボディア支援の強化(1971年1月)を行なつた。これに対し米政府に不利な国内世論の動きは特になく,議会においても追加援助支出権限法案,国防支出法案可決に際しカンボディア(追加援助支出権限法)・ラオス・タイ(国防支出法)への米地上軍派遣を制約する修正が行われた程度であつた(両法夫々1月5日,11日発効)。しかしその後南越軍のラオス進攻やカリー裁判を契機として反戦運動再燃の徴候がみられる。

 なお1970年4月に発表された第4次撤兵計画は予定通り進捗しており,71年3月25日現在の南越残留米軍は317,250となつている。

 

6. 共産側の動き

 

(1) 北越は,1970年12月10日の党・政府抗米アピールに窺える如く一応徹底抗戦の姿勢をとりつつも,(あ)戦争の長期化と南での兵力温存,(い)南への支援と北の国内建設を並行して進める方針で,長期戦により最終的には米軍の南越からの駆逐とチュウ南越政権の打倒を計ろうとしていると言われる。また北越の集団指導体制は堅持されており,中ソの間にあっては均衡をとりつつ自主性を維持するものとみられる。

(2) 中華人民共和国は,カンボディア政変後,3月23日北京放送によるシハヌーク殿下の政変無効宣言報道,4月7日北鮮訪問中の周総理による中華人民共和国のシハヌーク支持言明,4月24~25日にはインドシナ人民首脳会議開催と矢継ぎ早に共産側団結誇示の手を打つた。5月5日北京でシハヌーク殿下の下にカンボディア王国民族連合政府の結成をみるや中華人民共和国は直ちにこれを承認し(3月末現在承認21カ国,3団体),5月20日には毛沢東は異例の声明で長期自力抗戦の呼びかけを行ない,現在に至るも中華人民共和国のこの基本的立場に変化はない。

 71年2月の南越軍ラオス進攻に際し中華人民共和国はラオスの隣接国であることもあり,一層対米警戒心を深めたもののごとく,3月5~8日周恩来総理はハノイを訪問し,「最大の民族的犠牲を払うのを惜しまず全力をあげて支援する」(中越共同声明)北京側の意向を表明し,北京・北越の連帯を誇示しかつ米・南越側に対する牽制を行なつている。

(3) ソ連はシハヌーク派の政治組織であるカンプチア民族統一戦線への支持を表明し,5月末にはカンボディア駐在大使を帰国させたものの,引き続きロン・ノル政権と外交関係を維持しており,インドシナ問題での声明・論評も団結強化の姿勢はとりつつもその内容は穏健とみられている。このことは,8月10日プラハでのシハヌーク派のカンボティア大使館事務所占拠事件でのチェコ警察当局の冷い同派処遇振りや,12月10日北越が異例の党・政府共同の抗米アピールを発表した際,中華人民共和国が党・政府声明で応えた(12月13日)のに,ソ連は時期も遅れて政府声明のみしか発出しなかつた(12月17日)ことにもみられる。

 なお,5月4日異例のコスイギン記者会見等よりインドシナ問題で中ソ接近が取沙汰されたが,その後5月18日付プラウダ論文は中華人民共和国の人民戦線方式はAA諸国での革命運動に大きい損失と後退をもたらしたと非難する一幕もあつた。

 

 

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