―中国大陸の情勢―
第5節 中国大陸の情勢
1. 一 般 情 勢
69年4月開かれた中国共産党第九回全国代表大会(九全大会)では毛主席,林副主席以下の新しい党指導部が決定された。その後は文化革命で解体した党組織,行政組織などの権力機構再建が始まつた。以下に述べるごとく,このいわば国内態勢正常化の動きは1970年においてようやく進捗をみて,70年9月の党2中全会では,適当な時期に全国人民代表大会を開くことを公表し,71年元旦の人民日報などの共同社説は,71年から経済建設の第4次5カ年計画に入ることを公表しうるようになつた。しかし69年に引き続き「闘争,批判,改革」や「備戦」の運動が行なわれ,また「一打三反(反革命分子に打撃を与え,汚職,窃盗,投機売買に反対する)運動なども展開されて,民心の引締を図る一方団結が強調されている。
対外関係の面では70年下半から特に招待,経済援助などの活発な外交活動が展開され,カナダなど8カ国と新たに国交を結び,国連では,はじめてアルバニア型決議案に対する賛成票が反対票を上回つた。
(1) 党再建の状況は,基層組織は1970年にほぼ終り,同時により上級の県レベル,専区レベル,省レベル組織に力が注がれるようになつたが,特に12月以降はいつそう顕著となり,省レベル党委員会も湖南省(12月4日)を皮切りに江西,広東,上海市などがつづき,71年3月末までに,全国29省市のうち16省市で成立した。建党については,70年7月1日の党創立記念日の人民日報社説が,71年の建党記念日(7月1日)までに「整党建党の成果」をあげるよう要請していたことからも,本年7月1日を目途に急がれていることがうかがわれる。
(2) 上述の16省・市党委員会の特徴をみると,そのトツプ指導部は当該地区革命委員会のそれとおおむね同一陣容であり,文革以来提唱されている「党指導の一元化」が体現されているといえよう。またこのトツプ指導部には軍人が多く,旧幹部がこれにつぎ,革命大衆出身は少い(上海市は例外)こと,従来いわれた,「軍代表,革命大衆代表,革命的幹部代表」による「三結合」の表現がなくなり,「老人,中年,青年」の「三結合」となつていることも注目される。
(3) 中共中央政治局委員で北京市革命委員会主任の謝富治や,毛・林・周に継ぐ党要人の陳伯達,康生が報道面から消え,種々の憶測をうんでいた。謝については,北京市党委員会の第一書記と発表され失脚説は消えたが,同委員会の選出を行なつた北京市第四回党大会の報告を第二書記の呉徳が行なつていることから病気である可能性もでている。陳伯達,康生については,失脚説,病気説,イデオロギー作業従事説など紛々としている。一方上海市革命委員会主任の張春橋や参謀総長の黄永勝の地位が著るしく上昇したとの観測もある。
地方では70年春頃,北京,山西,山東,貴州,内蒙古,湖南などの従来内紛の噂があつた6省市の革命委主任(多くは軍区の要職を兼任)の名前が報道面から消えて,他方では,上海,山西,内蒙古,黒竜江,福建,山東などの革命委員会や軍区の要職に多数の新人が出現した。このことは正常化に伴う大幅な人事異動のあつたことを示唆するとみられる。
(4) 整党建党とならんで,行政機構の建て直し,すなわち,国務院の,人事,機構簡素化による再編成と各クラス革命委員会の強化が進められている。国務院の改組はすでに69年秋頃から着手されていた趣で,まだ終了はみていないが,近く開催される予定の全国人民代表大会には新全貌を明らかにすることとなろう。国務院の再編成については,49部と委員会(わが国の省庁に当る)などが整理統合されて20余になると見られる。たとえば第1,2軽工業部は合併されて軽工業部になつたとみられるが,さらに紡織工業部もこれに整理統合されるとの説もある。このほか農業,農墾,林業,水産各部が農林部に,化学,石炭,石油などの各部が燃料化学部に統合されると推測されている。文革以来不明であつた国務院各部長(大臣に当る)も,軽工業部長に銭之光,対外貿易部長に白相国,第一機械工業部長に李水清,農林部長に沙風などが任命されていることなども明らかとなつた。また文革遂行の過程で,党中央や国務院に軍が進駐し軍事管制下においていたのが,70年夏頃から管制解除となり,進駐軍人のなかには軍籍を離れて高級官僚になつたとみられるものもある。
正常化の最も遅れている教育分野でも,1970年秋ようやく一部大学が正式に再開の運びとなつた。
(5) 正常化の点で注目されるものに新憲法があり,その草案なるものが巷間に流布されている。これによると,現行憲法に比して著しく簡略で,随所に文革イデオロギーをもりこみ,毛主席の絶対化,後任としての林副主席の指定,党の一元的指導などを規定しており,69年4月採択をみた新党規約と相似的であり,いわば「文革憲法」といえるものである。
(6) 70年8月1日の建軍記念日の3紙誌共同社説は,軍に対し本来の使命たる祖国防衛の役割を特に強調しているようにみえる。社説は,米,ソ「2超大国」が社会主義中国を転覆しようともくろみ,中国を併呑分割する日を夢みているとのべ,「社会帝国主義」は国境に大兵力を集中していると述べている。
中華人民共和国は70年4月24日はじめて人工衛星打上げに成功したが,71年3月3日には第2回目の人工衛星打上げを行つた。中華人民共和国は核ミサイルの開発に力を注いでおり,ICBMの実験も1,2年以内に行なうこともありえよう。
(1) 中華人民共和国経済は,69年に文革前の最高水準であつた1966年の水準に回復したとみられる。中華人民共和国は70年を「70年代最初の新たな躍進の年」と唱え,工農業生産の向上と経済管理体制の再確立に努力を注いできた。
10月には,第3次5ヵ年計画の超過達成と第4次5ヵ年計画の準備をかためることの呼びかけが出たが,71年元旦には,本年から第4次5カ年計画に入ることを明らかにした。
(2) 経済政策の基調は,依然農業基礎論であるが,単なる農業重点主義ではなく農業支援のための地方工業に対する資本,労働力の投下比率も増加傾向にある。
「一打三反」運動の目標は経済面にあるが,第4次5力年許画発足に当つての経済面での綱紀引き締めともみられている。
(3) 1970年の農工業生産は史上最高と発表され,食糧生産についても史上最高と発表されたが,生産量については2億2,OOO~3,OOO万トン程度と推計されている。
(1) 中華人民共和国外交の基本政策は,9全大会の林彪報告によると,(イ)社会主義諸国との連帯強化,(ロ)被抑圧人民,被抑圧民族の革命闘争支援,(ハ)社会体制の異なる国との間に平和五原則を基礎とする平和共存をかちとり帝国主義の侵略政策と戦争政策に反対するとなつている。
1969年4月の9全大会以降,国内体制再建に忙殺されながらも,外交活動を再開,その皮切りとして,2,3月頃,中華人民共和国の在外公館は一斉に映画会を開くなどの活動を始めた。とくに,ネパール皇太子成婚慶祝を機としての郭沫若特使のネパール,パキスタン訪問(2月27日~3月12日)は,文革後最初の北京要人の非共産国訪問であつたこと,郭特使が平和五原則を強調して物静かに終始したことが注目をひいた。
ついで,3月のカンボディア事件を契機とし,周恩来の北鮮訪問(4月)をてはじめに,その後対外活動はとみに活発化した。
69年5月以降,71年3月末までに,文革で引き揚げた大使のほとんどに当る40カ国に大使を再派遣した。また70年10月のカナダ,赤道ギニア,同11月のイタリアとの国交樹立にはじまり,71年3月のクエイト,カメルーンまで,計8カ国と国交を樹立した。この結果,各国の国府中共承認状況は63:60となつた。
その間,従来からの,「米帝国主義」および「ソ連修正主義」に対する闘争姿勢は堅持しつつも,上記3つの外交政策を,それぞれ時と所に応じて使いわけ,多角的かつ概して柔軟な外交活動を展開し,親北京勢力結集に乗出しているように見受けられた。
(2) 周総理が,4月北鮮を訪問して共同声明を出し,ついでインドシナ左派首脳会議のインドシナ統一戦線を支持する声明(5月4日)を出したことは,中華人民共和国を軸にしたアジアにおける反米統一戦線の動きを明確にしたものであつた。さらに毛主席の5月20日の反米帝声明は,全世界の人民に反米闘争を呼びかけだという点で注目された。朝鮮戦争勃発20周年(6月25日)に際しての,北京と平壌の相呼応しての記念大集会には,北京,北鮮,インドシナ各国代表も加わり,「アジア反米統一戦線」を示威する集会となつた。
一方北京の対ソ非難は,レーニン百年祭,建軍記念日(8月1日)パリ・コンミユーン100周年(3月18日)など特殊の場合を除き控え目であり,特に北鮮,インドシナ左派代表を前にしての演説などではきわめて婉曲的であつた。こうした北京の態度は,北鮮,北越などとの歩調をそろえるための考慮から出たものであることはもちろんであるが,北京がイデオロギー論争は別にして,中ソ間の国家関係改善を企図しておることも明らかである。事実中ソ貿易議定書が3年振りに調印され,両国の大使交換なども実現した。
以上のごとき「反帝」を強調し,「反ソ修」を相対的に弱めた外交路線も70年の一特色であつた。
(3) 中華人民共和国は70年夏から,米ソ二「超大国」による世界の支配反対を基調とし,招待外交,経済援助などをテコとして,多くの諸国との関係を改善し,これにより,米ソに対する相対的地位を高める努力を開始した。
71年元旦社説は,国際情勢を「全世界人民の米帝国主義と社会帝国主義に反対する闘争の新しい高まり」と規定し,ラ米諸国の領海200海里主張の動きや,ポーランド事件などを取りあげたうえ,中華人民共和国は抑圧された人民,民族の側に立つことを表明した。さらにその後,人民日報社説や論評などで石油輸出10カ国会議やエクアドルの米漁船だ捕事件などに関連して,中華人民共和国は超大国の圧迫に抗して立ち上つた中,小国の立場を支持すると述べた。こうした動きは,客年9月の非同盟会議に対して中華人民共和国は同会議が超大国の世界制覇に反対する闘争に貢献したと評価し,同会議を称讃したこととともに,今後もこの外交基調は続くことを示唆している。
(4) 共産諸国のうちで,中華人民共和国が文革中も以前の関係を維持した国はアルバニア1国であつたが,70年においては両国の関係はさらに強化された。北鮮との関係改善は特に著るしく,周総理の訪問(4月)もあり,日本軍国主義に反対する共同闘争結成を含め密着した関係となつた。
北越との関係は,本年3月の周総理の訪問により一段と緊密化した。これよりさき,北京は北越に対する無償の経済軍事追加援助協定などを調印(2月)したが,中越共同声明は,中華人民共和国の北越に対する支持を再確認し,両国の連帯性を誇示したものであつたが,ヴィエトナム戦争の推移如何によつては軍事介入の可能性をも示唆したものであつた。ルーマニアとの関係は,6月のボドウナラシユ副首相の訪中以降,党関係も含め急速に回復し,閣僚級要人の往来があいつぎ,6月末のルーマニアの水害に対しては中華人民共和国は,21百万ドルの無償援助を供与し,11月には2.5億ドルの長期無利子借款供与協定を締結した。中華人民共和国が修正主義として非難しつづけて来たユーゴとの関係も調整され大使の交換のほか経済交流の動きも活発化した。その他,ハンガリー,ポーランド,東独,ブルガリアとの間では大使交換が復活した。
(5) 第三世界に対しては,平和五原則外交により,要人の往来,経済援助を通じて,関係改善に努め,カナダ,イタリア,チリなどとの国交樹立に成功したほか,フランスからは,7月にペタンクール計画開発相が,10月にはクープドミユルビル元首相が訪中した。中華人民共和国はフランス,イタリア,カナダ等の対米自主路線を高く評価しているよう見受けられる。
中華人民共和国は,70年度(71年3月までに)アフリカ諸国に対し,積極的な招待外交(16件の政府代表団が訪中,13件の北京代表団が往訪),経済援助外交(7カ国に援助)を推進したが,なかでもタンザン鉄道(4億ドル)着工は,アフリカにおける中華人民共和国のイメージアップに大きな貢献をした。
中近東においては,文革中にアラブ連合を除く全大使を召還したが,70年夏以来シリア,アルジェリア,イエーメン,スーダン,南イエーメン,イラク,モロッコに大使を復帰させ,現在アラブ14カ国中8カ国に公館をおき,小規模ながら地道な経済援助などを行なつている。
なお,中華人民共和国はアラブの民族解放斗争に支援を表明し,被占領下アラビア湾解放人民戦線,アラ・フアタパレスチナ解放組織の代表が訪中したりしたが,これらに対する具体的な援助に付ては不明である。
中華人民共和国は,70年春,北鮮,北越との関係正常化についで,従来比較的関係のよかつたネパール,パキスタンとの関係を強化した。特にパキスタンからはヤヒヤ大統領の訪中があり,中華人民共和国は2億ドルともいわれる借款供与を約した。またビルマとの関係も若干の改善をみて,大使交換を復活した。しかしインド,タイ,マレイシヤなど周辺諸国との関係改善はあまり進展をみていない。これはインドシナ戦争,華僑問題,反政府ゲリラ問題など複雑な問題があるためと思われる。
(6) 上述(3)の招待外交の展開にあたり70年5月以降7カ月間に18回にわたり毛主席が外国代表団を接見したことは画期的な事柄といわれている。また周総理はパキスタン,南イエーメンなどを往訪する約束をしているので,全国人民代表大会後に1965年以来久々の外遊を試みることになろう。