―中近東,アフリカの情勢―
第11節 中近東,アフリカの情勢
1. 中 近 東
(1) 1970年前半の軍事情勢
69年暮から始つたイスラエルの軍事攻勢の激化に対抗するため1970年11月下旬ナセル大統領は秘密裡に訪ソし,軍事援助につき話し合つた模様で,2月下旬頃よりソ連はアラブ連合にSAM-3ミサイルを導入するとともに,その設置および操作に当るソ連軍事要員を多数派遣した。
これに対してイスラエル政府はソ連人パイロットがアラブ連合内において作戦飛行に従事していると声明,またイスラエル機はソ連人パイロットとの対決を回避するため4月中旬以来アラブ連合内陸空襲を中止したことを明らかにした。
このようなソ連の軍事的テコ入れの結果,従来アラブ連合に著しく不利であつた軍事バランスはかなりの程度回復されることとなつた。
(2) 米国の和平提案と停戦協定の成立
アラブ連合に対する軍事援助強化の結果生じたこのような中東の新情勢によりイスラエルに対する戦斗機追加供与問題について態度決定を迫られることになつた米国は,対イスラエル戦斗機の追加供与が中東における緊張の激化と対アラブ関係の一層の悪化をもたらすことを懸念して,この問題に関する態度を留保する一方,6月25日イスラエル,アラブ連合,ヨルダンに対し,(あ)最低3ヵ月の停戦,(い)1967年11月の安保理決議の当事国による再確認,(う)ヤリング特使の仲介による話合い,の3点を骨子とする和平提案(ロジャーズ提案)を提示した。
関係諸国は,アラブ連合(7月22日),ヨルダン(7月26日),イスラエル(8月4日)の順で上記米提案を受諾すると回答し,その結果,8月7日から90日間の停戦がアラブ連合,イスラエル間に成立した。
その後米提案にもとづくヤリング特使を仲介とする当事国間の話し合いが,ニュー・ヨークを舞台に国連大使レベルで,8月25日から開始されるに至つた。しかし停戦協定発効直後からアラブ連合はスエズ運河両岸50キロ以内における現状凍結の取決めに違反して停戦地帯にミサイルを持込んだといわれ,これに対してイスラエルは,9月6日,アラブ連合の停戦協定違反を理由にヤリング特使との会談停止を公式に発表した。
このようにイスラエル・アラブ連合間に非難のやりとりがあり,話合はほとんど行なわれなかつたが停戦そのものはその後も遵守され運河地帯の軍事情勢は平穏に推移した。
(3) ハイジャッキングとヨルダン内戦
9月上句以降コマンドゥ勢力過激派のPFLP(パレスチナ解放人民戦線)が和平工作の妨害及び一部の西欧諸国やイスラエルに抑留されているコマンドゥ分子の釈放等を目的として,一連の民間航空機ハイジャッキングを行なうという事件が生じ,続いてヨルダンで米国の和平提案を受諾した政府とこれを不満とするコマンドゥ勢力との間に大規模な武力衝突が発生した。
後者のヨルダン内戦に関しては,コマンドゥ支援のためシリアから機甲部隊がヨルダン北部に侵攻し,他方米第6艦隊の集結などが伝えられ,緊迫した空気が深まり,またイスラエルに対して共同歩調をとるために努力してきたアラブ諸国にとっては新たな悩みの種となつた。かくて9月下旬アラブ諸国首脳会議がカイロに招集され,9月27日フセイン・ヨルダン国王,アラファート・パレスチナ解放機構議長の間に停戦についての協定(カイロ協定)が成立し,アラブ連合など8ヵ国のアラブ首脳もこれに署名した結果,ヨルダン情勢は一応落着きを回復したが,この内戦でコマンドゥ側は大きな打撃をうけ,その勢力は著しく弱体化した。
(4) ナセル大統領の死とアラブ連合新政権の成立
ヨルダン内戦収しゆうのため心血を注いだナセル大統領は,9月28日心臓発作のため急死した。10月後半に成立したサダト大統領,ファウジ首相以下のアラブ連合新指導部は国連総会に中東問題を提起し,総会は停戦期間の3ヵ月延長ヤリング特使を介する話合いの再開等を内容とするアラブ側の意をくんだ決議案を採択(11月4日)し,イスラエル側はこの決議に反対したが,停戦の継続には異存なく,結局11月6日以降も3ヵ月間の停戦延長が実現した。
(5) ヤリング特使を仲介とする話合いの再開
停戦延長後アラブ側においてはアラブ連合,リビア,スーダンによる三国連邦結成の合意成立,政変後のシリアの同連邦加入決定,アリ・サブリ副大統領の訪ソ,フセイン・ヨルダン国王の関係国訪問,一方イスラエル側においてはダヤン国防相の訪米,5億ドルにのぼる米国の対イスラエル経済,軍事援助決定などの一連の動きがあった。このように双方ともヤリング特使を仲介とする政治的話合い再開に備えて自己の立場を固めておくことに努力を重ねたが,イスラエルが12月28日に至り,話合いに復帰する政治的・軍事的条件が整ったと発表したことにより,1月5日から話合いが再開される運びとなった。
ヤリング特使とアラブ連合,ヨルダン,イスラエル三国代表との話合いにおいては,イスラエルが同国を訪問した特使に対し,和平条件をまとめた覚書を手交したのを皮切りに,関係当事国より一連のポジション・ぺーパーが提出され,特使を介する文書交換の形で,アラブ,イスラエル双方よりそれぞれの立場の明確化が行なわれた。
イスラエル側の書面は,アラブ側による平和へのコミットメントを強く求めているのに対し,アラブ側はイスラエル軍の撤退と難民問題の解決に重点をおいており,双方の基本的立場は依然としてかみあつていない。
11月からの3ヵ月の停戦期限切れの迫つた2月2日ウ・タン国連事務総長は,ヤリング特使を介する話合いにおいて「ある程度の進捗があった事実」にかんがみ,話合いの将来に「慎重な楽観論を認める根拠があると思う」と述べ,当事国に軍事行動を自制するよう訴えたが,停戦期限切れの前夜の2月4日にサダト・アラブ連合大統領は,このウ・タン・アッピールを受諾し3月7日までの1ヵ月間発砲を差し控えると述べるとともにスエズ運河の東岸からイスラエル軍が部分的に撤退すればスエズ運河の清掃を開始し航行に供するとの提案を行なつた。
その後ヤリング特使は積極的な調停工作を開始し,2月8日ア連合,イスラエルに対しヤリング調停案(イスラエルに対しては占領下のア連合領土から6月戦争前の線まで撤退することにつき,また,ア連合に対しては,交戦状態の終結,イスラエルの主権と独立の尊重及びイスラエルと平和協定に入ること等につき,それぞれ事前にコミットメントを与えるよう求めた)を提示し,それに対してア連合は2月15日前向きの回答を行なつたが,イスラエルは2月26日中東戦争前の境界線には戻らないとの立場を表明したため,ヤ特使の工作は行き詰りに陥つた。
(6) 停戦打切り及びその後の情勢
1ヵ月の停戦切れの3月7日サダート大統領は演説を行い「ア連合は30日間の戦闘抑制の後に発砲停止を更に行なうことは出来ない。しかし,これは外交的活動の停止や銃のみが活動することを意味するものではない」と述べたが,これは停戦の延長は否定するが,それは必ずしもア連合による発砲の開始を意味するものではないとの態度を示したものであつた。他方イスラエル側は,「サダート演説は停戦について最も否定的な態度である」とア連合を強く非難するとともに,占領地からのイスラエル軍撤退を交渉の前提条件とするア連合の立場には同調できない旨の従来の主張を繰り返した。
その後もヤリング特使を介する和平工作は続けられたが何の進展もみせずヤリング特使は任務を中断し3月25日モスクワヘ帰任した。
この間米国は領土問題に関しイスラエル説得工作を続けるとともに,サダート大統領が2月5日の演説ではじめて示したスエズ運河再開提案をふまえて,問題の全般的解決に先立ち,スエズ運河の再開を主眼とする部分的解決を実現すべく,ア連合,イスラエルに対し活発な外交工作を打つている模様であり,今後の成行きが注目される。
なお運河地帯においてはア連合による停戦延長拒否にもかかわらず,事実上の停戦が維持され,70年8月以来の平穏な状態が継続している。
(1) 概 況
70年1月ナイジェリアの内戦が終了したことによつて,チャート北部の反乱を除きアフリカ(サハラ以南)の政情はおおむね安定した状態が続いたが,11月末外人部隊によるギニア侵攻事件が起り,これに独(西)が関係ありとして,ギニア政府は同国駐在独(西)大使および存留独(西)人を追放した後,71年1月末独(西)との外交関係を断絶した。また同月末ウガンダで軍部によるクーデターが発生し,東アフリカおよび東ア協力機構をめぐる諸情勢は流動的となつた。このように一部の国ではなお政情不安が見られるが,各国とも国造りに努力を傾注し,経済開発のため先進国との経済技術協力をますます必要としている。他方アフリカ諸国は非同盟会議,国連,英連邦首脳会議等における活動を通じて国際政治上の比重を高めている。
(2) 中華人民共和国,ソ連の進出
アフリカ諸国の英,仏寺旧宗主国に対する依存度は依然高いが中,ソ,特に中華人民共和国の進出にも著しいものがある。最も注目されるのはタンザニアとザンビアを結ぶ延長1860キロのタンザン鉄道建設計画であり,10月26日ダレサラムで起工式が行なわれた。本件は既に完成したソ連のアスワン・ダム建設に比較し得るプロジェクトであり,アフリカに対する中華人民共和国の進出を象徴するものとしてその政治的意義は大きい。外交面でも中共は10月赤道ギニア,12月エチオピア,71年2月ナイジェリア,3月カメルーンとそれぞれ外交関係を樹立するなど,大きな成果を挙げた。この他,中共は6月ソマリア,12月マリと経済技術協力協定を締結し,また5月ダレサラムにおいて中共の援助を得て海軍基地の建設が着手された。
ソ連は7月中央アフリカとの間に経済技術協力協定を締結した他,ナイジェリアに対し内戦中築いた有利な地歩を固めるべく,同国が重要視する鉄鋼業育成のための調査,留学生の受入れ,医療団,文化使節の派遣等地道な活動を続けている。また近年ソ連艦船のアフリカ近海および印度洋への進出を強化せしめ,その寄港地としてモーリシャスとの間に7月漁業協力協定を締結して関係国の注目をひいた。
(3) 南部アフリカ問題
南部アフリカをめぐる基本的対立は依然として解消されていないが,南アおよび象牙海岸によるイニシアティヴに基づき,武力解決を排除し「対話」の継続による平和的解決を促進しようとする動きも見られた。南ア政府はその伝統的アパルトハイト政策とナミビア支配のため,国連,OAU,非盟会議等において激しく非難されており,国連では南アに対する武器禁輸その他各種の決議が成立している。南ローデシアは1965年英国から一方的に独立を宣言し,70年3月には共和制に移行したが,その人種差別政策のために68年5月以降国連の全面的経済制裁を受けている。またポルトガル領アンゴラ,モザンビーク,ギニアではアフリカ人ゲリラ部隊による解放闘争が続いているため,全地域の解放,ポルトガルに対する武器援助の停止を要求する声がアフリカ諸国で強くなつている。また南部アフリカ地域と密切な経済貿易関係にある欧米諸国およびわが国に対するアフリカ諸国の非難もますます強くなつている。9月(1~3日)アディスアベバで開催された第7回OAU元首会議では対南ア武器供与問題について英,仏,独(西)等時に英国が強く非難され,次いで同月(8~10日)ルサカで開催された第3回非同盟主脳会議においても,南アに対する経済制裁に関連して米,仏,英,独(西),伊に次いでわが国も非難の対象となつた。71年1月シンガポールで開催された英連邦首脳会議では,英国の対南ア武器再輸出問題について激論が闘わされ,結局8カ国によるスタディ・グループが本問題を検討報告することとなつて英連邦解体の危機は一応避けられた。しかしヒース首相はソ連艦船のアフリカ近海及びインド洋進出にも照し,英国自らの判断に基づき武器供与を行なう権利を留保するとの強い態度を示し,2月22日,英国政府はスタディ・グループを無視して南アに対して,ワスプ型ヘリコプターを供与することに決定した旨を公表した。これに対し,ザンビア,ナイジェリア等のアフリカ諸国のみならず,インド,マレイシア等のアジア諸国も厳しく批判したが,英連邦からの脱退等過激な措置に訴える国はなかつた。シンガポールの英連邦首脳会議の直後対南ア武器輸出強硬反対論者であつたウガンダのオボテ大統領が1月末の政変によつて失脚し,比較的穏健と見られるアミン新政権が誕生した。この軍事クーデターの発生はタンザニアのニエレレ,ザンビアのカウンダ両大統領にも大きな影響を与え,これら東アフリカ諸国の対南ア武器輸出問題,更に南部アフリカ問題一般に関する強硬論が少なくとも一時的には後退した観がある。