―欧州の情勢―
第10節 米州の情勢
1. 北 米
ニクソン政権は政権担当2年目を迎え,長期的視野にたった積極的姿勢を打出したが,主として国内の議会審議の停滞とデフレ政策のもたらした経済不振に災され,また,70年秋に行なわれた中間選挙においても念願の上下両院における多数を制するにはいたらなかかつた。ニクソン大統領は,かかる結果にもとづき1971年初頭,国内政策において,完全雇用予算を含む新たな積極施策を,また外交政策においては,ニクソン・ドクリンの具体化と,対話の外交の一層の推進を提唱した。
(1)内 政
(あ)1970年を通じ国内的には失業の増加,およびインフレションが各方面に可成りの影響を及ぼし,犯罪もなお増勢が続いた。他方反戦運動はカンボディア作戦当時一時的な高まりをみせたが,その後ヴィエトナムからの撤兵続行,徴兵減少等に支えられて,秋口には下火となり,人種対立や都市暴動騒ぎもほとんどみられず世情はおおむね平静のうちに推移した。
(い)70年秋の中間選挙では,ニクソン大統領は外交面ではヴィエトナム政策の成果,中東和平のイニシアティヴ,欧州訪問等の実績を誇示し,内政面では社会問題の解決を強調したが,共和党は上院では2議席を増加し,下院では9議席の喪失に留め得たものの,知事及び州議会選挙では後退した。
(う)70年における議会審議は著しく停滞し,法定限度の最大限まで(1971年1月2日)会期を続けたにも拘らず,なお多数の重要法案が未成立に終つた。審議の遅滞は実質論争もさることながら,中間選挙を意識しての党派戦術および政府の議会対策の不手際等も少なからず原因となつたものとされているが,この間において,徴兵制改革,郵政公社設立および投票年令の18才への引下げ等の重要案件が成立し,他方最重要法案たる福祉制度改革およ地方財政強化計画は不成立に終つた。
(え)ニクソン大統領は,1971年初頭の一般教書において,完全雇用予算を含む財政積極策と,社会福祉,地方財政援助,環境保全,医療制度および連邦機構改革等6項目に及ぶ大幅な改革案を示し,連邦政府に過度に集中した権限を再び国民の手に戻すことを標傍して新たな積極策を提唱した。
(2)外 交
1970年においてニクソン政権の掲げた外交目標は,第一に友好諸国との間の新たな責任分担体制の樹立―いわゆるニクソン・ドクトリンの具体化であり第二には就任演説でも述べられた「対話の外交」の追求であった。ニクソン・ドクトリンの具体化については,インドシナをはじめ,アジアにおける情勢が,カンボディア情勢の変化を除いてはおおむね平静であったこともあり,ヴィエトナムからの撤兵続行の他アジア他地域における米兵の配置縮小を実施し,他方欧州においては,70年12月のNATO閣僚理事会で明らかにされたように,NAT0諸国より防衛支出増大約束をとりつけた。
米国はまた対話の外交を目標とする旨を謳い,戦略兵器制限交渉,中東,ベルリン等に関してソ連との交渉が行なわれたが,これらはいずれも複雑を極める問題であり,71年3月末には具体的成果を挙げるには至らなかつた。他方,ニクソン政権は「米国の力」による平和の維持という基本姿勢は崩さずヨルダン危機および地中海,カリブ海におけるソ連の活動の牽制に際しては「力」による対抗策を示した。
70年における米国の対外関係は,カンボディア,ヨルダンにおける緊張はあつたが,全体としては大きな波乱もなく推移したが,71年2月から3月にかけてのラオス進攻作戦によりインドシナ情勢は新たな局面を迎えることとなつた。
他方ニクソン大統領は,71年2月の外交教書において,70年代の米国外交の基本理念としての「ニクソン・ドクトリン」の推進を再び強調するとともに,とくにアジアの将来の構造は,アジア諸国の集団的利害と,同地域に関心をもつ日本,ソ連,中華人民共和国及び米国という4大国の政策調整のいかんにかかつていると述べるなど,新たな国際関係について展望を試みる姿勢を明らかにした。
(1)概 説
70年には中南米の一部で政情がかなり大きく揺れ動いた。アルゼンティン,ボリヴィアにおいて政変があつたほか,ブラジル,グァテマラ,ウルグァイをはじめとし,多くの国で都市ゲリラによるテロ行為が続発した。またペルーの軍事政権は国内政策面で構造改革の施策を積極的に推進した。しかし最も注目を浴びたのは11月,チリで自由選挙により社会主義政権が誕生したことである。これは単にチリー国のみならず,今後の中南米情勢一般に微妙な影響を及ぼすものとして注目された。一方,こうした流動的な政情にもかかわらず中南米諸国の経済は若干の例外を除き各国政府の意欲的な政策や国際機関,先進諸国の協力が功を奏し1969年同様好調に推移した。また1969年末に発足したアンデス統合協定に基づくアンデス共同市場が着々と進展したことは注目に値する。しかし中米共同市場については内部の意見対立が収まらず前途の多難を思わせる。
(2)主 要 な 動 き
(あ)チリにおける社会主義政権の誕生
70年9月4日行なわれたチリの大統領選挙で左翼4政党,2団体を結集した左翼連合を基盤として出馬した社会党のサルヴァドル・アリェンデ候補は有力候補のアレサンドリ元大統領及び当時の与党たるキリスト教民主党のトミッチ候補を抑えて第一位となつた。しかし絶対多数を獲得するに至らなかつたため憲法規定にしたがい10月24日あらためて上下両院合同国会の決戦投票に付された。その結果憲法改正による民主的制度維持を条件としてキリスト教民主党の支持をとりつけたアリェンデ候補が勝利をおさめ,同候補は11月3日正式に大統領に就任した。アリェンデ大統領は大統領選挙運動中,チリの経済社会改革を目指す40項目にわたる対内対外政策を掲げたが,新政権の発足とともに対外的には,キューバと11月12日に国交を回復したのをはじめ,12月15日中華人民共和国と,3月16日には東独と外交関係を樹立し,南米ではキューバについで二番目の中共,東独承認国となったほか11月16日には北鮮と,3月25日には北越との通商関係の樹立を決定した。他方内政面においては農地改革推進のほか,経済社会改革の遂行上最重要事項と考えられる銅大鉱山の国有化のための憲法改正案を国会で審議中であり,また銀行及び基幹産業の国有化についても目下検討中である。
(い)ペルーの動き
68年10月発足したヴェラスコ政権は抜本的な構造改革を目標とする新らしい型の軍事政権として内外から注目されているが,69年に公布された農地改革法に続き70年には鉱業基本法,工業基本法ならびに一連の漁業関係法等を制定し,ナショナリスティックな政策を打ち出した。経済面ではデフレ,失業者の増大,内外資本動員の停滞といつた諸問題を抱え,また5月末の地震による災害復旧に莫大な資金を要するといつたハンディキャップはあつたが,財政均衡化,国際収支,生計費の面での改善等の成果を挙げ,革新政策の遂行に邁進した。
(3)ボリヴィアの動き
69年9月成立以来民族主義的革新政策を掲げてきたオヴァンド政権は,70年10月4日軍部右派ミランダ将軍一派の圧力により退陣し,その後をめぐつて軍部の左右両派が対峙したが結局左派のリーダーと目されていたトーレス将軍が,労組や学生の支持の下に政権を獲得し,その後軍部内右派の勢力を抑えつつ政権を維持した。
なお,同政権は,軍部,農民,労組,学生等の諸勢力の均衡の上に立つていると考えられ今後の推移が注目される。
(4)キューバの動き
カストロ政権は70年の最大目標を一千万トンの砂糖生産におき,その実現のため国を挙げての努力を行なつた。しかし,実際の生産量は853万トンにとどまつた一方,他の生産部門が犠牲となり,生活必需品が従来以上に不足するに至つた。
ソ連との関係は近年密接化してきているが,中共も再び本任大使を派遣し,玖一中関係緊密化を意図している点がみられた。チリとは国交回復後,通商文化関係を始めその他の交流が促進されたが,他の中南米諸国との関係では,多少の動きはみられたものの,目立つた変化は認められなかつた。
なお9月には,ソ連が,潜水艦基地としてシエンフエゴス港に海軍の設備を建設中である旨米国が発表したが,ソ連はこれを強く否定し,事件はその後発展しなかつた。
(5)メキシコ,ブラジル,アルゼンティンの動き
(イ) メキシコ
70年7月5日に行なわれた大統領選挙の結果,与党の立憲革命党のルイス,エチェベリア候補が一般の予想通り,圧倒的票数を得て当選し同年12月1日第68代の大統領に就任した。任期は6年である。
(ロ) ブラジル
69年10月誕生したメジシ政権は70年10月に第一次経済社会開発計画の大綱を発表した。他方,同年10月,11月に行なわれた連邦議員選挙において,与党は圧勝し中央政府の権威を確立した。
(イ) アルゼンティン
66年6月クーデターにより成立した軍事政権は,70年6月オンガニア大統領が辞任に追い込まれ,代つてレヴィングストン中将が大統領に就任した。レヴィングストン政権は立憲体制復帰計画,労組対策及び物価上昇等困難な問題と取り組んできたが,3月12日コルドバ騒じよう事件を契機としてレヴィングストン大統領とラヌセ三軍最高司令官委員会委員長との間の対立が激化した結果3月23日同大統領は辞任し,同26日ラヌセ委員長が大統領に就任した。
(6)経済統合の動き
70年6月で第10年目を迎えたLAFTA(ラテンアメリカ自由貿易連合)は10月末から12月初めにかけモンテヴィデオにおいて第10回締約国通常会議を開いたが,同会議で採択された決議は14件,国別リストによる関税譲許率は2.9%ときわめて低調であつた。これにひきかえ,アンデス共同市場は外資取扱い等に関する共通制度を採択するなど,活発な動きをみせた。
他方中米共同市場は69年のエル・サルヴァドルとホンデュラス間の武力紛争以来頓挫していたが,その建直しのため,70年7月から経済相会議等でその再建策が検討された。しかし最終的にはエル・サルヴァドルの反対により合意に達しなかつたためホンデュラスが,71年初め事実上共同市場を離脱する措置をとるに至り共同市場は発足以来,最大の危機に直面することとなつた。
(7)都市ゲリラの活動
ラ米におけるゲリラ活動は67年10月のチェ・ゲバラの死以後,活動の舞台を農村より都市に移行し,70年度も前年に引き続き,外交官誘拐,銀行襲撃等のテロ行為が,ブラジル,ウルグァイ,グァテマラ,ボリヴィア,アルゼンティン等の国々で続発した。外交官誘拐は,捕われている同志との身柄交換,政府の声価失墜を目的とするものであるが,多くの場合,政府と犯人側との間に妥協が成立し,誘拐された外交官は無事釈放された。しかし,70年だけについてみても政府側が取引を拒否したため,誘拐された外交官が殺害されたり(グァテマラの西独大使,ウルグァイの米国AID職員),数ヵ月も所在不明となる(ウルグァイのブラジル領事,英国大使)といった悲劇的ケースも生じた。
(8)米州機構(OAS)の動き
70年2月新憲章を発効させた米州機構(0AS)は71年1~2月の第3回特別総会に於て,チリの反対,ブラジル,アルゼンティン等数ヵ国の表決不参加,ペルー,ボリヴィアの棄権があつたが,一応外交官,国際公務員に対するテロ行為を予防し処罰することを内容とする協定を採択した。
また,エクアドル沖での米国漁船だ捕事件を原因とする米―エクアドル紛争についても,71年1月末の第14回外相協議会議で話し合いによる平和的解決を両国に勧告する決議を採択し,一応右紛争の悪化を防止した。