-アフリカ地域-
第9節 アフリカ地域
サハラ以南アフリカにおいてはソマリア,ダホメ,ケニア等におけるクー・デターないし政情不安,セネガル,象牙海岸,コンゴー(キンシャサ),エティオピア等における反政府的学生運動,南ローデシアの国民投票と共和国宣言等各種の不安定要素をかかえつつも,概して政治的安定をみせてきている。すなわち,1969年10月のガーナの民政移管,1970年1月のナイジェリア内戦の終結は,アフリカ地域の政治的安定に寄与するところ大きい。また一アフリカ諸国の指導者には,その施策の重点を経済開発に置く傾向がみられる。これら指導者が地道な経済開発に努力を傾注するにつれて,わが国との関係を強化しようとの期待も大きく,それは具体的には,アフリカ諸国による在京公館の新設,相次ぐ政府要人の訪日,各種の経済技術協力の要請の増大等となって現われている。かかる期待は最近のわが国政府民間によるアフリカ諸国の重要性についての認識の高まりと相まって,わが国とアフリカ諸国との関係はいっそう緊密化しつつあるといえる。
すなわち,1969年5月にはガボン,9月には象牙海岸,1970年2月にはタンガニアが在京大使館を開設し,わが国に大使館を有するアフリカ諸国は10カ国,総領事館を有する国は1カ国となった。一方わが国は1970年1月ザンビアに大使館を開設し,サハラ以南アフリカにわが国が設置している公館は大使館10,総領事館1となった。
また,1969年を通じ,ニジェールのディオリ・ハマニ大統領,シェラ,レオーネのスティーブンス首相をはじめ,多くのアフリカ諸国政府要人が来訪し,他方,わが国からは田中外務政務次官がアフリカ11カ国を非公式訪問したほか後述の如く河野経団連副会長を団長とする政府派遣の経済使節団がブラックアフリカ9カ国を訪問した。
貿易については,ナイジェリアにおける内戦,一部アフリカ諸国における政情不安等にもかかわらず,1969年(1~12月)におけるわが国とアフリカ諸国との貿易は順調に伸びた。輸出は10億5,000万ドル(わが国総輸出に占 める割合6.58%)で前年比23.1%増,輸入は8億9,000万ドル(わが国総輸入に占める割合5.94%)で前年比16.4%増を示した。わが国は輸出構造の高度化による対アフリカ輸出の増加および開発輸入等を通じる一次産品買付による対アフリカ輸入の増加に努めると同時に,アフリカ諸国によるGATT 35条の対日援用ないし対日差別政策等の通常貿易の障害の除去に努力している。この結果1969年末以来ニジェール,上ヴォルタを始め,仏語圏西アフリカ諸国の間でも対日差別撤廃の動きがみられるようになった。
アフリカ諸国とわが国との経済関係拡大につき特記しなければならないのは,1970年2月約3週間にわたり,政府がエティオピア,ケニア,タンザニア,ザンビア,コンゴー(キンシャサ),ナイジェリア,ガーナ,象牙海岸 およびセネガルの9カ国に派遣したアフリカ経済使節団(団長,河野文彦経団連副会長)であろう。この使節団はこれまでわが国がアフリカに派遣した最大かつ最も重要な経済使節団といってよくアフリカ諸国もこの使節団には極めて大きな期待をよせ,訪間先各国から農業および資源の開発や工業化に対するわが国の協力要請をはじめ,わが国との貿易経済関係強化についての強い希望が表明された。この使節団は,わが国とアフリカ諸国との友好親善関係の促進に大きく寄与したのみならず,これによりわが国産業界全体のアフリカに対する関心が強められたことは,今後のアフリカ諸国との経済貿易関係の強化に大きな意義を有するものと考えられる。
エティオピアとの貿易は従来大幅な片貿易にあり,近年縮小均衡に向かいつつあったが,1969年には両国間の貿易はわが国の輸出1,793万ドル,輸入 836万ドルと前年に比し,ともに増大した(片貿易比率はほゞ前年通り)。わが国の企業進出については,従来の繊維,亜鉛鉄板関係等4件に加えて1969年7月,牛肉エキスの開発輸入に関する合弁事業が設立されたが,その稼動に伴い,わが国の対エティオピア輸入のいっそうの増大が期待され,この種の企業進出はエティオピア側によっても高く評価されている。
ケニア,ウガンダおよびタンザニアの東アフリカ3国とわが国の1969年の貿易は,輸出5,726万ドル,輸入4,543万ドルであった。これは,前年比輸 出14.4%増,輸入5%減であり,わが国の出超傾向は一段と強まっている。特にケニアとの貿易不均衡は5対1以上に拡大した。タンザニアはわが国からの輸入を制限しているため,わが国の出超幅は大きくないが,漸次拡大するきざしが見られる。ウガンダの場合は,わが国が銅の長期買付を行なっているため,逆にわが国の大幅入超となっている。
わが国は,東アフリカ3国との経済貿易関係を強化拡大するため,3国からの開発輸入を促進し,また,3国における輸入代替的産業の育成に協力する方針で,各種調査団の派遣を続けている。ケニアから緑茶およびカシューナットを,ウガンダ,タンザニアから皮革を開発輸入する計画がとり上げられ現在,計画を実施に移すための準備が進められている。
経済技術協力の分野では,1966年にわが国が3国に約束した円借款の実施は,軌道に乗りつゝあり,また,ウガンダとの円借款協定は,1969年7月期限切れとなったので,1年間延長した。
東アフリカ3国政府が,アフリカナイゼーション政策を柱としてその経済開発を推進するに従って,わが国に対する技術協力要請,特に専門家と日本青年海外協力隊員の派遣要請は増加している。1969年,3国へ39名の専門家を派遣し,3国に対する延べ派遣数は90名となリ,また,同年のケニアおよびタンザニアヘの日本青年海外隊員派遣数は,それぞれ11名,34名であり,両国への延べ派遣数は137名に達した。
わが国は1970年1月ザンビアに大使館を開設し,2月には租税条約の調印をみ,更に近く日本青年海外協力隊員の派遣が予定されており,今後両国関係のいっそうの緊密化が期待される。1969年におけるザンビアとの貿易は,わが国の輸出2,217万ドル(前年比24%減)輸入は銅の買付増大のため2億8,864万ドル(前年比71%増)でわが国の大幅入超を記録した。
わが国とマダガスカルとの間の貿易は,1969年輸出619万ドル(前年比38%増),輸入319万ドル(前年比64%増)と順調に拡大している。わが国は1969年9月1日から,家畜伝染病予防法施行規則を改正して,マダガスカル産偶蹄類動物肉のわが国への輸入禁止を解除したが,これによりわが国の輸入がいっそう増大することが予想される。
わが国は,国連等の場において,従来から一貫して南アフリカのアパルトヘイトに反対の立場をとっており,また,1963年国連安全保障理事会で採択され武器・弾薬等の禁輸決議を誠実に履行している。かかるに1969年秋の国連総会等において,わが国の対南アフリカ通常貿易についても,わが国を 名指しで非難したアジア,アフリカ諸国が増加したことは注目される。
わが国の対南アフリカ貿易は年々増大し,1969年には往復5億5,000万ドルと前年の5億ドルを更に上回った。1969年の特徴は,輸出が前年の1億7,000万ドルから2億7,700万ドルに著増したのに対し輸入が前年の3億3,500万ドルから2億7,400万ドルに減少し,ほとんど毎年わが国の入超であった貿易収支が逆転したことである。これは,機械類および輸送機器の輸出が倍増し,他方,南アにおける食料品,特にとうもろこしの不作のため輸入が半減したことによる。なお,南アフリカは,依然わが国に対しガット第35条を 援用しているので,わが国は機会をとらえその撤回に努力している。
1968年5月に国連安全保障理事会において採択された対南ローデシア全面的経済制裁決議に従い,わが国は同決議を誠実に履行してきており,従って,1969年の対南ローデシア貿易は,医療機器等例外品目の輸出4,000ドルを除き,輸出入とも完全に停止された。しかしながら,国連事務総長より経済制裁決議違反の容疑のもたれる輸出入があるとして,違反の有無につきわが国政府に よる調査を要請された事例があった。政府としては,かかる制裁違反の容疑を受ける事例のないよう完全な経済制裁の履行に努めるとともに,機会をとらえて関係業界に注意を喚起している。
1969年におけるわが国の中部アフリカ6カ国(チャード,中央アフリカ,カメルーン,ガボン,コンゴー・ブラザヴィル,コンゴ・キンシャサ)に対する輸出は4,952万ドルで前年比69.2%増,輸入は4,303万ドルで76.8%増を示している。特にコンゴー(キンシャサ)およびカメルーンとの貿易が大幅に伸長した。
コンゴー(キンシャサ)のカタンガにおいて,日本の鉱業界とコンゴー政府との合弁事業として始められている銅鉱山開発については,政府としてもこれが不足勝ちな銅の供給の安定化に寄与するという国策的見地から,建設費および探鉱費の70%を,それぞれ日本輸出入銀行および海外経済協力基金から融資することとした。
また西アフリカー次産品買付調査団(団長安本和夫東棉副社長)が11月にガボンおよびナイジェリアを,西アフリカ中小企業設立調査団(団長長谷川重三郎第一銀行相談役)が12月に中央アフリカとカメルーンをそれぞれ訪問しているが今後の経済関係増大が期待される。
2年半以上の長期間にわたったナイジェリアの内戦は,1970年1月15日反乱軍が降伏して終了し,その後各国により難民救援活動が活発に展開されているが,わが政府も日本米5,000トンおよびトラック10台をナイジェリアに供与することとした。なお,日本赤十字,教会団体等も別途現金の送金,医療団の派遣等種々の援助を行なっている。
1966年に調印された総額108億円の円借款は,約80億円の使用方法が決定しないまま,1969年11月その使用期限が到来したが,ナイジェリアでは内戦のために円借款の使用が順調に進まなかった事情などを考慮し,使用期限を1973年11月まで延長した。
わが国とナイジェリアとの貿易は,1968年はわが国の入超であったが,1969年は輸出2,863万ドル,輸入1,295万ドルで,再びわが国の出超ベースにもどった。ナイジェリア内戦の終結とともに,同国に多大の外貨収入をもたらす石油の生産も軌道に乗り,今後わが国との貿易の拡大が期待されている。
従来わが国の大幅出超であったガーナとの貿易は,1967年を境にわが方の入超に転じ,1969年にはわが国の輸出2,277万ドル,輸入4,173万ドルと1,896万ドルの入超が記録された。
ガーナはヌクルマ時代の遺産たる数億ドルの対外債務をかかえ,従来から各債権国にその支払い繰り延べを要請しているが,わが国もこれに応じて1968年6月約512万ドルの債権繰り延べについて合意をみた。そして1969年3月よりは第二回ロンドン債権国会議(1968年10月)の合意議事録に従って,新たに約426万ドルの債権繰延べ交渉を継続中である。しかし,1970年1月9日には,わが方焦げ付き債権に対する輸出保険が支払われ,その結果,対ガーナ延払輸出は完全に停止されるに至り,債権繰延の交渉の早期妥結が望まれる。
1969年10月には,わが国業界よりボーキサイト調査団が派遣され,ガーナのボーキサイト資源について,その輸入および開発の可能性等の調査を行なった。
1969年のリベリア向け輸出は4億8,156万ドルで,サハラ以南アフリカ向け輸出総額の過半を占めているが,このうち4億6,732万ドルは便宜置籍船といわれる船舶の輸出である。他方輸入は3,923万ドルで前年に比べ2.3倍に急増している。これは長期買付契約による鉄鉱石の輸入(2,332万ドル)が本格化したことによる。
シエラ・レオーネについては,1969年3月にブレワ外相が,また,5月にはスティーヴンス首相一行が相次いで来日した。貿易関係では同国向け輸出は1,155万ドルでほぼ横ばいであったが,輸入は795万ドルで対前年比6.4倍に伸びている。輸入の大部分は鉄鋼石で,長期買付契約の成立した1968年より急増しており,今後とも増大が見込まれる。経済協力面では,ダイヤモンド開発のための合弁企業が成立し,同国に対する初の進出企業となった。この 他漁業および繊維関係の合弁企業設立についても合意が成立し,近く実現の見込みである。
仏語圏西アフリカ諸国は,一部の国を除いて,政治的にも経済的にも伝統的にフランスとの関係が強く,特に貿易面でわが国は関税数量両面からきびしい差別待遇を受けてきた。しかるに近年わが国経済力の伸長に伴い,経済貿易の分野を中心としてこれら諸国との関係は増大しつつある。
象牙海岸は1969年9月在京大使館を開設した。1969年の貿易は,わが国の輸出614万ドル(前年比38.9%増),輸入1,118万ドルで,対日差別関税の撤廃(1968年)と相まってわが国の輸出が伸びていることが注目される。
ニジェールは1970年1月15日よりわが国産品に対して最低税率を適用する旨決定したが,他の西アフリカ関税同盟諸国もセネガルを除き同様の措置をとることにしたと伝えられる。ニジェールに対してはわが国より1969年11月ウラン資源調査団が派遣された。
ギニアに対しては1969年10月上記のボーキサイト調査団がガーナと共にギニアを訪間した。またわが国関係業界は同国の鉄鉱石開発,オート・ボルタのマンガン開発に興味を示している。
セネガルおよびモーリタニアはわが国産品に対して依然きびしい差別待遇を与えているが,セネガルにおいては貿易取決め交渉等を通じ対日関係の増進を図ろうとする動きがみられる。
モーリタニアにおいては,1969年11月8日大洋漁業所属の第65大洋丸が,1970年3月19日中央漁業公社所属の海幸丸が,それぞれモーリタニア沖合でトロール操業中,同国の警備艇により領海侵犯のかどでだ捕される事件がおこったが,示談金を支払った後釈放された。
なお,モーリタニア政府による日本漁船だ捕事件はこれで6回目である。
この他同3月31日沖縄の翔南水産所属の鹿島丸がモーリタニア警備艇によりだ捕されたが,示談金を支払った後,4月4日に釈放された。