-ソ 連-
第6節 ソ 連
わが国は政治理念や社会体制を異にする国との間にも,能う限り友好的な関係を維持推進するとの方針をもって,隣国ソ連との間に,互恵平等の原則にもとづく善隣友好の関係を発展せしめている。
1969年においても,日ソ関係は人的交流,経済交流等の分野で順調に発展した。人的交流の面では,1969年9月に,愛知外務大臣が招きを受けて訪ソしたが,ソ連側よりもパレッキス民族会議議長が来日し,また,シベリア開発のための日ソ協力問題につき話し合いを行うため,1970年2月モスクワにおいて,日ソ・ソ日経済委員会第4回合同会議が開かれるなど,両国経済関係者の接触も次第に密接なものとなっている。貿易の面においては,1969年の日ソ貿易額は対前年比約13%増加し,7億3千万ドルに達した。更に,1969年には,日ソ両国の首都を結ぶシベリア上空の航空路線を,日本航空が翌1970年3月28日より自主的に運航し,かつ,その運航便数も大幅に増加することが日ソ間で合意された。この結果,日ソ間の交通が,より便利となったばかりでなく,わか国と欧州との間の飛行時間も著しく短縮されることとなった。
しかしながら,日ソ間の最大の懸案たる北方領土問題については,ソ連側が依然として「解決済み」との態度に終始しているため,解決の糸口が見出されていない。また,北方水域における本邦漁船のいわゆる安全操業問題題についても,わが方の提示した解決案につき何らの進展もみられなかった。わが国としてはこれらの懸案については忍耐強くその解決に努力して行きたいと考えている。
(1)北方領土問題と安全操業問題
1969年9月訪ソした愛知外務大臣は,コスイギン首相,グロムイコ外務大臣などと会談した際,わが国民は挙げて北方領士の返還を切望している旨縷々説明したのに対し,ソ連側は現在領土問題を云々することは現実的でないとして,この問題を解決するためわが国との話し合いに応ずるとの態度を示さなかった。わが方としては,従来からわが国政府が一貫してとってきた立場,すなわち,国後島および択捉島は,歯舞群島および色丹島とともに,わが国固有の領土であり,当然わが国に返還さるべきであるとの 立場を堅持しつつ,国内世論の支持を得て,今後とも機会あるごとに粘り強くソ連側に北方領土の返還を求めて行く方針である。 また,北方水域における安全操業問題についても,愛知外務大臣訪ソの際,領土問題が解決するまでの暫定措置として,人道的見地からこの問題を至急解決することが緊要であることを強調し,わが方の解決案を説明したところ,ソ連側は安全操業問題解決のための日本側案の検討方を約した。
(2)日ソ航空交渉
1969年3月7日,受知外務大臣とトロヤノフスキー駐日大使との間で交換された公文において,ソ連側は,日本側によるシベリア上空を経由する自主運航が,1970年3月末日より遅くない時期に開始されることに同意したが,1969年10月28日から11月5日までモスクワで行なわれた日ソ航空交渉の結果,上記自主運航は,1970年3月28日から開始されることが具体的に合意された。
上記の交渉の結果,自主運航の開始に伴い,日本航空とアエロフロートにより当面運営される路線は,東京~モスクワ~パリ(両方向)および東京~モスクワ~ロンドン(両方向)と合意され,したがって,日ソ航空協定の附属書Iの路線を修正する公文が,1969年12月27日,中川駐ソ大使とロギノフ民間航空大臣との間に交換された。
(1)概 況
1969年の日ソ貿易実績は,通関統計で輸出約2億6,900万ドル,輸入約4億6,100万ドル,入超額約1億9,200万ドルであった。1968年に比べて, 輸出が約9,000万ドル増加したのに対し,輸入はほとんど横ばいであった。したがって,入超額は1968年の2億8,500万ドルから大幅に減少し,上記のとおり1億9,200万ドルと縮小した。1967年,1968年と連続した大幅入超(2億9,600万ドルおよび2億8,500万ドル)の傾向は,1969年においてかなり改善されたものの,なお2億ドル近い入超である。
輸出が伸びた原困は,機械類,鉄鋼,繊維および繊維製品が伸びたためであるが,過去において輸出の大宗であった船舶輸出は皆無であった。プラント類の輸出が増加する傾向を見せている。
一方輸入の方は,ここ数年間輸入額もその構成も目立った変化はない。すなわち,木材が圧倒的に大きな比重を占め(輸入総額の約40%)ており,かつて金額的にも大きな比重を占めた原油は,黒海積のものが入らなくなり,北サハリン原油(約60万KL)のみとなった。ただし,黒海積の重油(約70万KL)の輸入は続いている。石炭銑鉄,白金属,原綿,アルミニューム,ニッケル等がその他の重要輸入品目である。
1968年7月29日,日本のケイエス株式会社とソ連の木材輸出公団との間に合意が成立した「極東森林資源開発に関する基本契約」が,1969年から実施段階に入ったことは,いわゆるシベリア開発プロジェクト第1号として注目される。このプロジェクト関係の輸出は,総額約1億6,000万ドルと見積もられており,その大部分は1969年と1970年に船積みされる計画である。これによって新たに開発される木材は,1969年70万立方米,1970年100万立方米と計画されており,従来の輸入量に加えて輸入されることになっている。
(2)港湾輸送調査団の訪ソ
1968年12月に東京において開催された日ソ・ソ日経済委員会合同会議および1969年2月日ソ経済委員会港湾委員会代表団(団長山県勝見氏)の訪ソにより,ソ連海洋船舶者が日本の港湾輸送調査団の極東視察を受け入れることが合意された。
わが方は,同調査団の任務の特殊性を考慮し,これを政府派遣の調査団とすることを決定した。
調査団(顧問山県勝見,団長天埜良吉,団員15名)は,7月14日ソ連船ハバロフスク号で訪ソし,16日より27日まで極東各地(ナホトカ,オリガ,デカストリ,ラザレフ,ハバロフスク)を視察し,特にソ連側で新港建設を希望しているウランゲル湾(ナホトカの東約14kmの地点にあり,ナホトカ港と同じくアメリカ湾北東隅に位置している)も視察した。
調査団はその後モスクワに赴き,海洋船舶省とも会談し,レニングラード港も視察した。
(1)漁船の被だ捕状況
北方水域におけるソ連側による本邦漁船のだ捕抑留事件は,依然として頻発しており,1946年より1969年末に至るまで,ソ連側に抑留された漁船の総数は1,313隻を数え,抑留漁船員の総数は11,119名に達した。その間ソ連側から返還された船舶は809隻,乗組員11,054名,だ捕の際または引き取りの途中で沈没した船舶は21隻,死亡した者32名である。1969年末現在,483隻,33名が未帰還である。
(2)1969年5月25日,操業を終えて北海道羅臼港に向け国後島沖を航行中の第8多与丸は,ソ連監視船に追跡,衝突され,乗組員全員はソ連側に救助されたが,船体は沈没した。更に8月9日には操業を終えて北海道花咲港に向けて航行中の第13福寿丸は,ソ連監視船の追跡,衝突を受け沈没し,乗組員名12中11名が死亡する惨事が起った。
これらの事件につき政府は,ソ連側に厳重に抗議するとともに,日本側が損害賠償の権利を留保することを申し入れた。
(3)抑留漁船員の特赦
1969年9月に愛知外務大臣が訪ソした際,同大臣よりソ連側に対し,人道的見地より抑留漁船員の釈放を要求し,ソ連側は検討を約したが,その結果1969年12月17日,ソ連政府はソ連邦最高会議幹部会令により,日ソ友好関係を考慮して,拘留中の日本人漁船員41名を特赦により釈放し,6名を減刑した旨をわが方に通報してきた。政府は海上保安庁巡視船を巡遣し,12月25日,ナホトカにおいてこれら漁船員を引き取った。
なお,今回の特赦は第5回目のものであり,1963年,1964年,1965年および1965年に特赦が行なわれた経緯がある。
(4)抑留漁船員との面会
1969年においても日ソ領事条約の規定に基づき,不法漁撈のかどでソ連邦に抑留されている本邦漁船員と在ソ連日本国大使館館員との面会が引きつづき行なわれた。すなわち,1969年6月に14名,9月に10名および70年3月に13名の抑留漁船員との面会が実施され,館員が抑留漁船員の健康状態,希望等について聴取した。
政府は今後とも抑留漁船員の早期釈放を求めるとともに,右が実現するまでの間は,抑留漁船員との面会を引き続き行なってゆく方針である。
1969年6月15日,木材積取船第1伸栄丸(今治船舶(愛媛)所属)はデカストリー港沖合いにおいてソ連製爆発物により被爆し,船体に甚大な損害を受け,また乗組員4名が重軽傷を負った。
政府はソ連側に直ちに抗議を行なうとともに,国際法上要求し得べき損害賠償請求の権利を留保したか,その後,今治船舶KK.よりソ連側に対して損害賠償の請求があったので,政府はこれをソ連側に取り次ぐとともに,本件の早期解決をソ連側に強く要請した。
1970年3月26日,ソ連は水路通報として能登半島沖,土佐沖,カムチャッカ半島西方水域および千島北方水域において70年4月に爆撃訓練を行なう旨公示した。これに対し,我が方は愛知大臣より在本邦トロヤノフスキーソ連大使に対し,口上書をもって本件演習計画のうち,特に能登半島沖および土佐沖は,日本に極めて近接しており,本水域における爆撃演習計画につき,日本国政府は大きな関心と懸念を有さざるを得ない旨およびかかる演習の漁業,航空機および船舶航行に対して与える影響が大なる旨を指摘して,その中止を求める一方,他の2水域に関しても,東京およびモスクワにおいてソ側に対し,演習中止方を申入れた。
その後,ソ側は3月末日,在ソ中川大使を通じてわが方に対し,本邦周辺4小域における爆撃演習計画を全面的に中止する旨正式に通報越した。