-北米地域-

 

第3節 北 米 地 域

 

1.概説(日米関係)

 1969年11月の佐藤・ニクソン共同声明によって,1972年中の沖縄の「核抜き,本土並み」返還が合意され,戦後の日米間の最大の懸案であった沖縄問題が解決されることとなり,この問題の解決を機会に,戦後二十余年間両国民が培ってきたパートナーシップはさらに強固なものとなり,同時に,70年代における国際関係において,日米両国が永続的な相互協力を行なう基礎を固め得たのであって,この意味において,日米関係は新たな時代に入ったといえよう。

 

2.沖 縄 問 題

 

(1)施政権返還問題

(あ)総理訪米までの経緯

1967年11月の佐藤総理大臣とジョンソン米国大統領との会談の結果,沖縄の施政権をわが国に返還するとの方針の下に,日米両国政府が沖縄の地位について,共同かつ継続的な検討を行なうことが合意された。(「わが外交の近況」第12号177~178頁参照。)その後日米両国政府間において,この合意に基づく話し合いが進められた。

まず1969年6月愛知外務大臣は米国を訪問し,この問題に対する日本政府の基本的立場を米国政府首脳に説明した。すなわち,(イ)遅くとも1972年中には沖縄の施政権がわが国に返還されるべきこと,(ロ)施政権返還後の沖縄に残される米軍基地については,日米安保条約およびその関連取決めが本土の場合と同様にそのまま適用されるべきことを主張し,同時に,(ハ)特に核兵器の問題について,わが国には唯一の原爆被爆国として核兵器に対する特殊な強い感情があることを説明し,その点に対する米国政府の慎重な配慮を求めた。

その後,同年7月日米貿易経済合同委員会の際のロジャーズ国務長官の来日,9月愛知外務大臣の国連総会出席の途次のワシントン立寄り等の機会をはじめ,東京およびワシントンにおけるあらゆるレベルの話し合いを通じて,11月に予定された佐藤総理大臣訪米の際に,前記日本政府の基本的立場に立って,施政権返還についての基本的合意に到達しうる よう対米交渉が進められた。

(い)佐藤総理大臣の米国訪問

1969年11月,佐藤総理大臣は就任後3度目の米国訪問を行ない,19日から21日までの3日間,ホワイト・ハウスにおいてニクソン大統領と会談した。その結果,沖縄県民を含むわが国全国民待望の沖縄の祖国復帰が1972年中に実現することとなった。すなわち,11月21日の最終会談終了後発表された共同声明は,沖縄返還に関し次のとおり述べている。

(イ)核 抜 き

佐藤総理大臣はニクソン大統領に対し,核兵器に対する日本国民の特殊な感情およびこれを背景とする日本政府の政策,すなわち,非核三原則を詳しく説明した。これに対し大統領は深い理解を示し,沖縄の返還をこの日本政府の政策に反しないよう実施する旨確約した。

(ロ)本 土 並 み

総理大臣と大統領は,施政権返還に当たっては日米安保条約およびこれに関連する諸取決めが変更なしに沖縄に適用されることに意見の一致をみた。

(ハ)1972年中の返還

日米両首脳は,両国政府が沖縄の返還を1972年中に実現するため,返還協定締結交渉を直ちに開始することに合意した。

(2)復 帰 準 備

かくて沖縄の返還が決定したが,復帰実現の日までは,米国が依然として沖縄の施政の責任を負っている。一方沖縄は,戦後4半世紀にわたって法律,政治,経済,社会などあらゆる分野で日本本土と異った法制度のもとに置かれてきており,復帰にあたって県民の生活に摩擦と混乱を起さな いことが最も大切である。このため政府は,既に格差是正を含む一体化政策によって多くの措置をとってきたが,いよいよ復帰が実現するこの段階においては,いっそう周到にその準備を進め,万全を期するとともに,沖縄県民の民生福祉のいっそうの増進につとめるべきことは当然である。よって総理大臣と大統領は,今回の会談において,復帰準備にあたり日米両国が緊密に協議し,協力することに一致し,東京の既存の日米協議委員会がその全般的責任を負うとともに,現地において新たに準備委員会を設置することに意見が一致した。

上述の日米首脳間の合意に基づき,1970年3月3日愛知外務大臣とマイヤー駐日米国大使との間で,沖縄の復帰準備に関する書簡の交換を行ない,日米協議委員会の機能拡大ならびに準備委員会の組織および任務につき取り決めた。

なお,前記交換公文により設置された準備委員会は,従来の日米琉諮問委員会と異なり,それぞれ日米両政府を代表する大使級の代表および高等弁務官をもって構成され,施政権の移転の準備に関する諸措置について現地において協議および調整することとなっているが,沖縄県民の意思が十分に反映されるよう,琉球政府行政主席が顧問として同委員会に参加している。

(3)対沖縄財政援助

1970年2月13日の沖縄に関する日米協議委員会第18回会合において,日本政府の昭和45会計年度対沖縄援助計画が合意された。本計画による援助額は,一般会計において260億1,688万5千円,財政投融資において70億円,合計330億1,688万5千円となり,前年援助額を100億以上上回る。

なお,45年において本土産米穀を沖縄に売却し,この代金を沖縄の産業開発資金にあてる計画が予定されており,この売却代金の積立金運用額20億円(推定)を加えると,45会計年度の援助額は350億円以上となり,前年度比54%の大幅な伸びとなる。

(4)高等弁務官に対する諮間委員会

諮問委員会は,1969年4月より70年3月31日までに84回の会合を開催し,この間市町村の行財政水準の向上,国税相当税制の一体化等12件に上る勧告を高等弁務官に対し行なったが,(68年3月諮問委発足以来の勧告は計46件となった)これらは何れも高等弁務官の採用するところとなった。

(5)米軍基地労務者の解雇問題

1969年12月5日在琉米軍合同労働委員会は,経費削減を理由に,70年春までの間に3次に分け,合計1,631ないし2,436人の沖縄人基地労務者の解雇を行なう計画を発表して以来,政府は離職者の生活保障の見地から,数次にわたり米国政府と折衝してきた。政府の米側に対する申入れ内容は次のとおりである。

(イ)退職手当の増額を考慮すること

(ロ)解雇予告期間の延長を考慮すること

(ハ)解雇予定者の米軍基地内での再就職(配置転換)に努力すること

(ニ)米軍基地関係労務者に対し,将来の再就職のための職業訓練を米軍基地内の施設を利用して実施すること

 

3.日米経済関係

 

(1)米国の対外経済通商政策の動向

(あ)1969年に登場したニクソン政権の基本的な通商経済政策は,インフレを克服して国内的には安定した経済成長をはかり,対外的には主に貿易収支の改善を通じて国際収支の改善を図り,また,国内産業等が輸入により受ける影響に十分に配慮しつつも,原則としてより自由な貿易を推進することにあると見られる。

(い)米国経済のインフレ傾向は,1965年以来加速的に進展していたが,ニクソン政権の下においては,財政面では,1970年度(1969年7月から1年間)には付加税の1年間延長と財政支出の75億ドルにのぼる削減,1971年度には1970年2月2日の予算教書における13億ドルの黒字の編成,また,金融面では,1969年4月の公定歩合および預金準備率の引上げ,ならびに通貨供給量の増加の抑制等財政金融両面における引締め策を強化してきた。このようにして前政権から受けつがれた引締め策は,1969年に入り徐々に 効果をあらわし,経済拡大のテンポは年末にかけて著しく鈍化した。

国際収支面においては,インフレの抑制に伴なう輸入の歯止めおよび輸出の振興による貿易収支の改善という粉飾といった方法によらないオーソドックスな方法により,その改善を図るとの考え方に立ち,対外投融資規制については,漸次撤廃の方向で,1969年4月と12月に小幅の緩和をおこなった。また,利子平衡税についても,4月に税率の引下げを行なった。

(う)1969年の米国の貿易収支は,約12億6,000万ドルの黒字となり,昨年より若干の改善を示した。一方,中期債の売却等による粉飾を排したこともあって,資本収支とくに短期資本収支は前年比大幅に悪化し,国際収支全体としては前年の若干の黒字から再び大幅な赤字に転じた。

(え)このような米国経済のインフレに伴う輸入の増大と,米国産品の価格競争力の相対的低下,ならびに国際収支の不調を背景として,米国議会および業界における保護主義的動向には依然として極めて根強いものがあった。米国議会には,ランドラム法案,ミルズ法案などの繊維輸入制限法案をはじめとして,鉄鋼,電子機器,革製履物などについて,多数の輸入制限法案が提出されるに至っている。

(お)この間にあって,1969年11月18日,ニクソン大統領は,通商教書を議会に送付し,通商法案を提案することによって,その具体的政策を明らかにした。

通商教書および通商法案を通じてまず第1に注目されることは,ルーズベルト大統領以来米国政府が伝統的に採用してきた自由貿易政策が,原則として継承されていることである。このことは,具体的には,法案で関税引下権限の復活,ASPの廃止を要請していること,また,教書において非関税障壁(NTB)の相互的軽減を支持する旨,議会が明確な意図表明を行なうよう呼びかけていることにうかがわれる。このような立場は,1970年1月から2月に発表された外交教書,経済教書においても表明されている。また,通商教書は一般には輸入制限を否定しているが,繊維問題のみは 「特殊な対策を要する特殊問題」であるとして,自由貿易の原則の例外であるという説明の仕方を行なっていることも注目される。しかし,法案に盛込まれている対抗措置の強化ならびにエスケープ・クローズおよび産業調整援助の発動条件の緩和にうかがわれるように,ここで唱えられている自由貿易は,無条件の自由貿易ではなく,相手国の貿易制限の撤廃を前提とし,必要に応じ対抗措置を用いる姿勢を示したこと(いわゆる相互主義の要求)および米国内産業が輸入により受ける影響にも十分配慮を行なっていく姿勢を示したことが注目される。

(か)この関係では,関税委員会の調査に基づき,1962年に通商拡大法が成立して以来はじめて,1970年2月にピアノについてエスケープ・クロ_ズが発動され,また,窓板ガラス(1970年2月),ウィルトン・カーペットの一部(1969年12月)についてはエスケープ・クローズ措置が延長されたことが注目される。産業調整援助についても,通商拡大法成立以来,はじめて,1969年12月に溶接鋼管および送電用鉄塔について発動され,上記のピアノ,ガラスについてもエスケープ・クローズと同時に発動が行なわれた。さらに,金属洋食器については,関税法332条に基づく事実調査の結果,1970年1月,輸入による被害効果は何らかの形による救済を真剣に検討せしめる必要性を裏付けるのに十分のものであるとの報告書を大統領に提出した。

このような動きは,国内産業に対する輸入の影響に配慮していくとの姿勢を示すものであるが,エスケープ・クローズが乱用される時は貿易縮小につながるものであるので,わが国としても今後その運用には注意を要しよう。

(き)また,1969年においても,州レベルにおけるバイ・アメリカン立法運動には依然として根強いものがあり,マサチューセッツ,メリーランド,オレゴン,テキサス,コネティカットの諸州において新たなバイ・アメリカン法案が提案された。しかし,現在までのところ,いずれの法案も成立するには至っていない。

この関連では,1966年以来,本邦商社と米国のベスレヘム社との間で争そわれてきたカリフォルニア州バイ・アメリカン法をめぐる提訴事件が,日本側の勝訴に終ったことの意議は大きい。本提訴事件については,1969年9月,カリフォルニア州控訴裁判所は,カリフォルニア州バイ・アメリカン法は米国憲法に違反するとの判決理由をもって,ベスレヘム社の申立てを棄却した。これに対しベスレヘム社は上告したが,カリフォルニア州最高裁判所が1969年11月これを却下したことにより,結着を見た。この判決により,カリフォルニア州政府の関係部局においては,バイ・アメリカンを放棄するなど,すでに具体的な効果が見られる。

(2)日米貿易経済関係

(あ)わが国の対米貿易は,1969年には輸出入合計で約91億ドル(通関統計)に達した。輸出は鉄鋼が伸び悩んだものの,自動車および電子機器等の伸びが著しかった結果,9億ドル以上増えて約50億ドルに上った。伸び率としては前年の36%には及ばなかったが,なお22%という高率を保った。輸入はわが国経済の活況を反映して対前年比16%と,前年実績を大きく上回る伸び率を示し,約41億ドルに達した。貿易収支では,わが国の約9億ドルの黒字となり,前年黒字額を60%近く上回った。

(い)米国政府は国際収支対策あるいは国内の保護主義抑制の観点から,相互主義の主張を打出し,先進諸国の貿易障害の撤廃ないし軽減を求めるとの方針で臨んできている。特にわが国については,日本はGNPにおいて自由世界第2位を占め,あるいは上に見た通り,対米貿易において大幅黒字を計上するなど,今や経済的に大国に成長したとして,残存輸入制限の撤廃,非関税障壁の撤廃,資本の自由化等を強く求める態度を示し,具体的には,1969年5月のスタンズ商務長官の来日の際,また,第7回日米貿易経済合同委員会,日米残存協議あるいは日米NTB協議等の場において,かかる考え方に基づく強い主張を行なった。一方,米国政府は,自由貿易堅持の立場をとりつつも,繊維は特別な問題であるとして対米輸出自主規制を行なうよう強い要請を行なった。

また,米国の議会および業界においても日本の自由化が急速な進展を見せざることに対する批判は強く,また,繊維については日本が最大の対米輸出国であることもあって,米国内における対日不満は強い。

(う)これに対し,わが方は,自由貿易の原則を堅持するとの建前,あるいは国内経済の体質改善,物価対策等の観点から,自由化に関する問題については極力これを促進するとの方向で対処するとともに,繊維問題については,合理的な形で解決を図るとの態度で臨んできた。なお,利子平衡税について,わが国の強い要請に基づき,1965年2月以来,年間1億ドルの免税枠が認められてきたが,1969年9月17日米国に対して外貨事情の好転に鑑みて,今後はこの特別枠を利用しないとの政府決定の通報を行なったこと は意義深い。

(3)第7回日米貿易経済合同委員会

(あ)第7回日米貿易経済合同委員会は,1969年7月29,30,31日の3日間,東京において愛知外務大臣司会のもとに開催された。この会議は,1961年に第1回会議が開催されて以来,7回目であるが,日米両国の関係閣僚が一堂に会し,卒直な意見を交換しあう場として,日米間の相互理解の増進に多大の成果をあげてきた。

(い)米国および日本のGNPは自由世界において,それぞれ第1位および第2位を占めるに至っており,また,日米間の貿易額も,米加貿易を除けば2国間貿易としては最大の規模の往復80億ドル以上(FOBベース)に達している。以上のごとく日米両国の貿易経済関係は,世界経済上重要な地位を占めており,その動向が世界経済に与える影響力も大きくなってきている。

この委員会においては,日米双方とも以上のような認識にたって,米国内の保護貿易主義的動向,日本の貿易および資本自由化,繊維問題,非関税障壁問題,経済協力など,日米両国の当面する種々の問題あるいは両国がともに関心を有する諸問題について相互に卒直な意見が交換され た。

(う)第7回委員会では,次の議題について討議が行なわれ,本書第3部資料に収録の共同コミュニケが採択された。

I.国際情勢

II.日米経済情勢

III.日米貿易経済関係

IV.発展途上国の経済開発における協力

V.多数国間の経済問題(国際金融問題を含む)

VI.その他

また,この委員会の期間中,7月30日,愛知外務大臣とロジャーズ国務長官との間で沖縄返還問題につき会談が行なわれ,また,7月31日,佐藤総理大臣とロジャーズ国務長官の間でもこの問題の話し合いが行なわれた。なお,この委員会では,本会議のほか各関係閣僚間で個別会談が行なわれた。

(え)第7回委員会には,日本側から,愛知外務大臣,福田大蔵大臣,長谷川農林大臣・大平通商産業大臣・原田運輸大臣・原労働大臣・菅野経済企画庁長官の各委員が出席し,米側からは,ロジャーズ国務長官,ハーディン農務長官,トレイン内務次官,ホジソン労働次官,ベッグス運輸次官,マクラッケン大統領経済諮問委員会委員長,ペティ財務次官補の各委員が出席したほか,ギルバート通商交渉特別代表が参加した。

(4)残存輸入制限間題に関する日米協議

(あ)わが国の残存輸入制限については,ガットの諸機関における検討とは別に,日米間で話合いが行なわれて来ている。1968年11月,米国政府は,わが国の残存輸入制限の撤廃が近年遅々として進展を見せないこと,米国内における保護主義の台頭を反映してガットに違反する日本の輸入制限に対し,批判の声が高まっていること等を指摘して,わが国の残存輸入制限につき日米間で協議を行ないたい旨,具体的な自由化要求品目を提示して要請越した。以後,1968年11月のジュネーブにおける予備的話合い,12月の東京における協議を経て,1969年7月まで米側より数度にわたり,わが方オファーに対する改善要求が行なわれ,引続き外交ルートを通じて協議が行なわれた。

さらに,その後第7回日米貿易経済合同委員会の際の討議を経て,1969年10月6日より9日までの4日間,東京において日米残存協議が開催された。

(い)米側はこの協議において,わが国の国際収支黒字および対米貿易収支黒字にも言及しつつ,わが国が早急に全面的自由化計画を樹立することを要求するとともに,米側関心品目に関する自由化要請に加え,大豆の関税撤廃や輸入担保金制度および標準決済制度等の非関税障壁(NTB)間題をとり上げた。

これに対し,わが方は,1971年末までに残存制限品目を半数以下に減少させる方針であることを説明するとともに,グレープフルーツ,レモン・ジュース等の自由化ないし枠の拡大,大豆関税を国会の承認を条件として1970年4月1日頃にKR譲許の最終税率まで引き下げることなどのオファーを行なった。また,輸入担保金等のNTBについては,関係法規の運用を改善する用意のあることを表明した。しかし米側は協議の結果に不満を示しており,今後に問題を残している。

(5)資本自由化問題(特に自動車)

(あ)米国政府および業界は,わが国の資本自由化が遅れているとして,機会ある毎にその不満を表明しており,1969年5月のスタンズ商務長官来日の際,また,7月の第7回日米貿易経済合同委員会においても,わが国が外資比率100%でも自由とすることを原則として,1969年中に大幅な自由化を行なうよう強く要請したが,特にその不満は自動車工業について強く表明されてきた。

(い)上記事情ならびにわが国自動車工業の最近の状況にかんがみ,通産省は1969年10月14日に閣議了解を得て,自動車工業に係る対内直接投資の自由化は,1971年10月から実施することとし(これに伴い,エンジンの輸入自由化時期を同時期に繰上げる),さらに自動車部品工業および販売業も原則として同一時期に実施するとの方針を明らかにした(ただし,この自由化措置は第1類自由化業種として行なう)。

(6)非関税貿易障壁(NTB)に関する日米協議

(あ)スタンズ商務長官は,1969年4月訪欧の際,各国がNTBの自由な討議を通じて,これを相互に軽減,撤廃していくことを目的とする「オープン・テーブル方式」の国際会議の開催を提案したが,同長官は5月に訪日の際には,ガットの場における検討とは別個に,日米貿易経済合同委員会の開催前に,日米間で相互に相手国のNTBを列挙したリストを作成交換し,これをできるだけ撤廃軽減する方向で検討することを提案し,わが方も本提案に原則的に同意した。

この合意に基づき,7月,米側からは,輸入担保金制度,AIQ制度,標準決済制度をはじめとするリストが提出され,わが方よりは,関税法 402a条,バイ・アメリカン等の項目から成るリストを手交した。ガットエ業品貿易委員会におけるNTBの検討は,原則として工業品に関するNTBに限られ,また,主として法制的,包括的なものが対象となっているが,日米間で交換されたリストは,工業品に関するものにとどまらず,農産物関係のNTBを含み,また,行政の運用面にも及んでいる。

(い)第7回日米貿易経済合同委員会においては,スタンズ長官より相手国による自国のNTBの通報につき60日以内に文書によりコメントを交換の上,テクニカル・レベルでの討議を行なうことが提案され,わが方もこれに同意した。

これに基づき,10月にコメント文書の交換が行なわれ,ついで10月27,28日の両日,ジュネーブにおいて日米NTB協議が開催された。本協議はNTB撤廃の交渉ではなく,本問題に関する相互の理解を深めることを目的としたもので,貿易阻害効果を有する日米双方の制度ないし慣行について率直な意見の交換が行なわれた。

(7)毛および化合繊の貿易規制問題

(あ)1969年2月,ニクソン大統領は記者会見において,米国の利益は自由貿易に進むことによって守られると信ずるが,国内繊維産業の一部分野では,特別な問題があるので,繊維の輸出自主規制について主要国と協議することになろうと述べた。以来,米国政府は一般的には自由貿易の原則を維持することを表明しつつも,繊維品については「特別の問題」があるとして,日本をはじめとする関係輸出国に対し,輸出自主規制を強く要請してきている。

(い)スタンズ商務長官は,国際取決めによる対米輸出自主規制を成立させるべく,同年4月に欧州各国を訪問し,5月に日本を含む極東諸国を訪問し打診工作を行なったが,さらに7月末の日米貿易経済合同委員会においては,米側の出席閣僚の多くが輸入急増,米国議会の輸入制限的動向等に言及しつつ,強くわが方の協力を要請した。

さらに,合同委員会の際の大平通産大臣とスタンズ商務長官の個別会談において,スタンズ商務長官は多数国間自主規制協定に代り,日米2国間協定の自主規制協定を締結することの可能性につき検討方を依頼し,あわせて将来の行動についてなんらのコミットなしにテクニカル・レベルでの調査団を米国に派遣することを依頼した。これに基づき,わが方は高橋通産省繊維雑貨局長を団長とする事実究明のための調査団を9月にワシントンに派遣したが,次いで米側は10月2日,在米大使館を通じて,包括的2国間協定の交渉を早急に行ないたい旨申入れ越した。その後,1969年11月および12月にジュネーブにおいて日米予備会談が開催され意見の交換が行なわれた。また,11月の日米首脳会談においても、繊維問題は経済問題の一つとして取上げられた。

(う)米側は1969年12月19日(第1次提案)および1970年1月2日(第2次提案)の2回にわたり,2国間取決め案をわが方に提示越している。この米側第2次提案は,日米間で期間5年の2国間協定を締結し,毛および化合繊の対米輸出を規制する,具体的には28品目についてそれぞれ特定枠を設け,わが国が輸出自主規制を行なうこととし,他の品目については,輸出が一定の水準に達する場合は,輸出は自動的に停止され,日米間で協議するという内容になっている。

(え)これに対し,わが国は,2月10日および3月9日,わが方の考え方を詳細に記した覚書を米側に手交した。この中でわが国は,日米友好関係のいっそうの緊密化のため話し合いにより,早急な解決を見出すことの必要性をふまえつつ,米国の繊維産業の中で,輸入により重大な被害またはその惧れが生じている特定品目についてのみ暫定的な自主規制を検討すべきことや,本問題 の解決策の討議に際しては,日米両国以外の主要繊維輸出国をも参加せめるべきこと等を主張した。

(8)対米鉄鋼輸出自主規制問題

わが国の鉄鋼業界は,米国における強い輸入制限の動向にかんがみ,1969年の対米鉄鋼輸出総量を575万ショート・トン(約521万メトリック・トン)に制限する自主規制措置を欧州鉄鋼業界とともに開始した。しかし,前年の既契約分の処理等の関係もあり,船積みが上半期に若干片寄る傾向はあったが,その後の船積み調整努力により,輸出数量はほぼ規制枠のレベルにとどまったものと見られ,ほぼその目的を達しているように見られる。

 

4.日米科学委員会・日米医学協力委員会

 

 科学協力に関する日米委員会(略称「日米科学委員会」)は,1961年の池田総理大臣・ケネディ大統領共同声明に基づき,日米両国間の平和目的のための科学上の協力をよりいっそう円滑ならしめる方途を探究することを目的として,また日米医学協力委員会は, 1965年の佐藤総理大臣・ジョンソン大統領共同声明に基づき,アジアにまんえんしている疾病について効果的な措置に必要な基礎的医学研究を行なうことを目的として,それぞれ設置されたものである。両委員会はその目的達成のため毎年年次会議を開催し,成果の検討,将来の計画の企画立案等を行ない,その結果を日米両国政府に報告ないし勧告するとともに,それぞれの実施機関を通じ目的達成のための広範な活動を行なっている。

(1)日米科学委員会

日米科学委員会第9回会合は,1969年7月7日より4日間東京において開催され,実施機関の報告書をもとに過去1年間の協力事業の成果を検討し,将来の科学協力事業の改善および拡大のための方途を検討した。

(2)日米医学協力委員会

日米医学協力委員会第5回会合は,1969年8月7日より2日間ワシントンにおいて開催され,過去1年間の研究活動の進捗状況について検討したほか,過去5カ年の活動成果を5カ年報告書にとりまとめること,ならびに人口問題を日米医学協力計画の対象としてとりあげるべきかを中心とする対象疾病の再検討を行なうことを決定した。

この結果,5カ年報告書および将来の計画の再検討の具体的作業をとり進めるため,それぞれの小委員会が設置され,その第1回会合が1970年1月12日より2日間ハワイで開催された。

 

5.日米航空交渉

 

(1)米国の太平洋ケースの決定

米国政府は,1965年の日米航空協定交渉妥結(日本側路線にニューヨークおよび以遠の世界一周路線を追加するもの)の前後より,米国航空企業による太平洋航空路線パターンの変更に関するいわゆる太平洋ケースの検討を開始したが,約4年半にわたる審査の結果,1969年5月下旬,現状の変更を可とする最終決定を下した。これにより米側航空企業の航空パターンは,日米航空協定発効(1953年)以来続いてきた2社による地域競合パターン,すなわち,ノースウエスト航空(NWA)が北部太平洋路線を,パン・アメリカン航空(PAA)が中部太平洋路線を,それぞれ運航する形から次のとおりの形に変更された。

(あ)PAAに対しては,従来の中部太平洋路線上へのニューヨークの地点の追加,およびニューヨークからフェアバンクス経由日本への大圏コー スの運営が新たに認められた。

(い)NWAに対しては,従来の北部太平洋路線において,米本土北西部からのみならず東部,中西部諸都市(コーターミナル)からの運営およびこれら諸都市からホノルル/ヒロ経由日本および東洋への中部太平洋路線の運営が新たに認められた。さらに

(う)フライング・タイガー航空(貨物専業)に対しては,試験期間5カ年に限り,米本土内地点より大圏コース経由日本および東洋への運航が新たに認められた。

なお,このほかにトランス・ワールド航空(TWA)は,カリフォルニア州よりホノルル/ヒロを経てグァム,沖縄,台湾,香港に至る新路線が認められ,既設の路線と接続して米国の第2の世界一周企業となった。

以上のように,北部太平洋路線における2社以上の米航空企業の運航が認められる事態は,日米航空協定附表の附属書に規定する協議の対象となる事態であるのみならず,かかる米政府の決定により,1965年当時の予想を大幅に上廻って米航空企業の競争上の立場は強化されたのである。

(2)日米航空交渉

日本政府は,太平洋ケースの最終決定の約1年前から,審査の過程で公表された担当審査官の勧告の内容がそのまゝ実施される場合には,過当競争を招き日米航空関係の混乱が明らかであるとの見解にもとづき,かかる混乱等を招来しないよう善処方を強く要望してきた。

しかしながら,新しい旅客用の航空企業の追加こそ行なわれなかったものの,日本側航空企業の競争上の立場に著しい影響を及ぼすおそれの大きい前述のごとき決定が下されたので,日本政府は,直ちに航空協定の規定に従い米国政府に対し協議を要請し,1969年6月23日よりワシントンにおいて交渉が開始された。

この交渉においては,米国側航空企業の有する路線価値に対応した日本側路線の強化,すなわち,既存の日本側路線にシカゴを含む大圏コース,ニューヨーク線を追加する等の附表の修正に関する問題と,米側より要求のあった,主として米国補助航空企業による対日貸切飛行に対する制限緩和問題について検討が行なわれたが,両者の主張にはかなりのへだたりがあり,ついに1969年7月9日,交渉は一時中断のやむなきに至った。

その後,1969年9月16日より東京において交渉が再開され,両国代表団は引き続き前述の問題の解決に努力した結果,10月2日,要旨次のとおりの合意に達した。

(イ)附表修正問題

日本側路線に次の2路線を追加する。

(i) 日本からアンカレッジを経てニューヨークヘ

(ii)日本からサイパン島を経てグァム島へ

そしてこの修正は,外交上の文書たる公文により確認される必要があったので,1969年11月12日に至り愛知外務大臣とマイヤー駐日米国大使との間で附表の修正に関する交換公文の署名が行なわれ,同日発効した。

(ロ)米国補助航空企業による貸切飛行制限問題

米国の対日乗入れ免許を受けた補助航空企業(2社)が運営するチャーター便数は,1969年に55便(従来は46便),1970年には大阪万国博覧会開催という特殊事情もあり,万博チャーター基準とは別枠として,年間75便とする。ただし,この75便は翌71年の便数決定の基礎とならず,かつ,ジャンボ・ジェット機使用の場合は右1機分を通常機2機分として計算するなどの条件が付されている。

なお,前記太平洋ケースの決定が将来日本側に及ぼすべき影響を検討するため,当分の間日米間で毎年協議を行なうこととなっている。また、1970年秋には前記交渉の際解決をみるに至らなかった日本側路線修正問題(シカゴの追加を含む)につき交渉が行なわれる予定である。

 

6.漁船だ捕問題

 

 1969年にはアラスカ州沖合で米国沿岸警備隊監視船による日本漁船のだ捕事件が2件発生した。

 6月7日第8善宝丸(大洋漁業),および第11光栄丸(国際漁業)は,アラスカ州ノートン・サウンドの距岸12海浬内の地点において,日米漁業取極違反操業の容疑でだ捕され,ノームに連行された。裁判の結果,第8善宝丸,第11光栄丸は,それぞれ5,500ドル,3,500ドルの罰金刑を言い渡され,右金額支払の後両船とも6月13日釈放された。また8月23日第72松栄丸(松沢漁業)は,アラスカ州シトカ沖合9,6海浬の地点で,米漁業専管水域侵犯容疑でだ捕され,裁判の結果1万ドルの罰金刑が確定し,右金額支払の後同日釈放された。

 両事件を通じ,日本側は米側に対し米国距岸3海浬以遠の水域におけるわが国船舶に対する裁判管轄権はわが方にあり,米側が行なった上記裁判の結果については,日本政府の立場および権利を留保するとの主張を行なった。

 

7.日米安全保障協議委員会

 

 日米安全保障条約に基づき,日米間の安全保障上の連絡協議の一機関として設けられた安全保障協議委員会の第10回会合は,1969年7月9日外務省において開催された。日本側からは,愛知外務大臣と有田防衛庁長官,米国側からは,マイヤー駐日大使とマッケイン太平洋軍司令官が出席し,また,各委員を補佐するため両国の関係者が列席した。

 会議においては,ヴィエトナム,朝鮮半島を中心として,極東における日本と米国との共通の安全上の利害に関連する最近の国際情勢について意見交換が行なわれたほか,水戸射爆撃場を含む在日米軍施設・区域に関する諸問題も討議の対象となった。とくに,1968年12月23日の安全保障協議委員会第9回会合において討議された米軍施設・区域の調整計画について合同委員会が 執った具体的措置につき検討が行なわれた結果,施設・区域の返還,共同使用または移転に関する右計画の残りの部分についての合同委員会の作業をできるだけ促進することとなった。

 

8.安全保障問題に関する日米事務レベル非公式会談の開催

 

 日米両国相互に関心のある安全保障上の諸問題について,非公式な討議を行なうための日米両国政府事務当局間の会談が10月15日外務省で開催された。

 この会談は,両国外交防衛当局の事務レベル要人の往来の機会等をとらえ,これまで数度非公式な意見交換を行なっており,今回の会談には,日本側からは外務省より牛場事務次官,法眼外務審議官,東郷アメリカ局長,鈴木国際資料部長など,防衛庁より小幡事務次官,板谷統幕議長,宍戸防衛局長などが出席し,米国側からはマイヤー駐日大使,ナッター国防次官補(国際安全保障担当),マギー在日米軍司令官,フィン国務省日本部長などが出席した。

 

9.相互防衛援助協定に基づく合衆国政府の職員団の名称変更

 

 1954年の日米相互防衛援助協定第7条に基づき,米国は,わが国において同協定関係業務を遂行するための軍事援助顧問団(MilitaryAssistanceAdvisoryGroup)と呼ばれる職員団を置いていたが,昭和44年7月4日愛知外務大臣とマイヤー大使との間の書簡の交換により,今後この職員団の職員が相互防衛援助事務所(MutualDefenseAssistanceOffice)という新名称の下に引き続きその任務を遂行することとなった。

 

10.日加経済関係

 

(1)日加貿易経済関係

1969年におけるわが国の対加貿易は,輸出著増,輸入の落着きという1968年に見られたパターンをよりはっきりした形で受けつぎ,輸出は前年比 38.9%増の4億8104万ドル,輸入は前年比1.4%増の6億6940万ドルを示した。この結果,対加貿易収支は,引続き1億8836万ドルの入超となったが,入超幅は前年比約1億2500万ドルの縮小を見た。

これを商品別に見ると,まず輸出面では自動車が対前年比137.6%増の 6,184万ドルと著るしい伸びを見せ(うち,乗用車は150%増の5,728万ドル)一躍対加輸出商品のトップにおどりでたのを始め,鉄鋼も対前比 77.7%増の5,566万ドルと大幅な増加を示した。その他,テープレコーダー,テレビ,ラジオ等の電気機械の伸びも高かった。一方,輸入では銅鉱石等の非鉄金属鉱,金属原料,非鉄金属,パルプ等がかなり高い伸び率を示した反面,小麦と木材の輸入が減少したため全体としては1.4%の伸びにとどまった。

以上のような大きな貿易関係に加えて,カナダに対しては,わが国から銅,パルプ等を中心として投資が行なわれており,日加貿易経済関係は全般的に見て極めて順調であったといい得るが,わが国から見た場合には,対加輸出自主規制の問題のほか,ダンピング調査,関税評価調査が,輸入制限手段として利用される動きがあったことには注意を要しよう。

他方,カナダ側はいっそうの対日輸出を図るとの観点から,わが国の残存輸入制限,特に,カナダが大きな農産物の輸出国であることから,農産品の分野における残存輸入制限に大きな関心を有しており,1969年4月の日加閣僚委員会の際には,わが国がカナダの関心品目の自由化を促進するよう要望した。

(2)第5回日加閣僚委員会

1961年6月,日加両国首相間(池田首相およびディフェンベーカー首相)で合意をみた日加両国閣僚の相互理解増進を目的とする日加閣僚委員会は,1963年に東京で初会合が行なわれたが,この第5回会合が1969年4 月17,18日の両日,東京において開催された。

第5回委員会は愛知外務大臣の司会の下に次の議題につき卒直な意見の交換が行なわれ本書第3部資料に収録の共同コミュニケが採択された。

(あ).国際情勢一般

(い).日加両国経済の現状と見通し

(う).国際貿易経済に関する諸問題

イ.国際金融問題(税制関連措置を含む)

ロ.最近の国際通商問題

ハ.発展途上国問題

ニ.東西通商問題

(え).日加貿易経済関係

イ.カナダの対日輸出上の問題

ロ.日本の対加輸出上の問題

ハ.資本交流

(お).その他

イ.農業問題

ロ.漁業問題

ハ.万国博覧会(1970年)

ニ.その他

この委員会には,日本側からは,愛知外務大臣,福田大蔵大臣,長谷川農林大臣,大平通商業産大臣,菅野経済企画庁長官および板垣駐加大使が出席し,カナダ側からは,シャープ外務大臣,ベンソン大蔵大臣,ペパン通商産業大臣,デイヴィス漁業・林業大臣,オルソン農業大臣およびモラン駐日大使が出席した。なお,本会議のほか,関係閣僚間で個別会談が行なわれ,また日加双方の事務レベル間でも日本の貿易自由化,対加輸出自主規制など両国が相互に関心を有する事項について討議が行なわれた。

(3)対加輸出自主規制

わが国は,カナダの輸入制限措置の発動の可能性を念頭において,秩序ある対加輸出を図るため,若干の品目の輸出について自主規制を行なってきている。1969年の貿易交渉は,同年12月に妥結し,現在わが国の対加自主規制品目は,繊維品,真空管の2品目となっている。

北米地域要人来往訪一覧表(1969.4~1970.3)

(1)来訪者

 

(2)往訪者

 

 

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