-欧州の情勢-

 

第9節 欧州の情勢

 

 

1.欧州における東西関係

 

 1969年度のヨーロッパにおいては,ソ連の欧州安全保障会議開催提案,ドイツの対ソ連,東欧働きかけなど東西緊張緩和促進への活発な動きが見られた。

 欧州安全保障会議開催提案は,1968年3月17日ワルシャワ条約機構会議の宣言(ブダペスト宣言といわれる)の形で行なわれたが,このような提案は従来何度か行なわれたものであって,格別目新らしいものではなかった。ただし,今回の提案には東独の承認などの前提条件がついていなかったこと,および米国や西独に対する非難攻撃が見られなかったことが注目された。チェコスロヴァキア事件のため対ソ不信感が高まっていたこともあり,米国をはじめ西欧側は程度の差こそあれソ連の提案に懐疑的で,4月10日,11日のNATO閣僚理事会コミュニケは,欧州安保会議開催問題には直接触れなかったが,その後5月に入ってフィンランドが欧州安保会議の開催地国として立候補し,またソ連はじめ東欧諸国は西側との接触を通じて精力的に会議開催のための働きかけを行なった。更に10月30日,31日にプラハで開かれたワルシャワ条約機構外相会議は,欧州安保会議の議題として武力の不行使と平等の原則にもとづく欧州諸国間の協力の二点を提案した。

 ソ連東欧側からのこのような働きかけに対し,西欧諸国の反応には積極的なものから否定的なものまで種々ニュアンスの差が見られたが,12月に開かれたNATO閣僚理事会は,通常のコミュニケとは別に東西関係に関する「宣言」を発表し,その中で,欧州安全保障会議は,米国カナダが参加すること,開催には何の前提条件も付さないことを条件に,十分な準備を行なって成功への見通しがつけば開催に応ずる旨明らかにした。欧州安全保障会議開催に関するソ連提案のうらには,ヨーロッパの現状の固定化の意図がかくされていると見られるのに対し,西側はそのようなことではヨーロッパの恒久平和の実現に貢献するゆえんでないとしているので,会議の議題や参加国の問題をめぐって東西間の接触は活発につづけられるではあろうが,近い将来に会議が開催される見込みは少ないと考えられる。

 ドイツとソ連・東欧諸国との間の武力不行使宣言交換,国交の樹立を目的とするキージンガー大連立政権の積極的な対ソ連東欧外交は,1968年のチェコスロヴァキア事件の前後にソ連側から断ち切られた形になっていたが,チェコスロヴァキアの「正常化」が進んだ69年の初め頃からソ連の態度に変化があらわれはじめ,1年に及ぶ予備折衝を経て,12月8日に武力不行使宣言に関する独ソ間の交渉が再開された。

 またポーランドは,5月17日,ドイツ(西)とポーランドとの間にオーデル・ナイセ国境線確認のための条約を締結するための会談を開くことを提案し(ポーランドと東独の間には既にオーデル・ナイセ国境を確認する条約が存在する),これに対してドイツは武力不行使宣言の交換についての交渉を行なうことを提案していたが,1970年2月5日から両国間で外務次官レベルの会談が開始された。

 10月に成立したドイツのブラント政権は東西両ドイツ間の関係改善に熱意を示し,「相互に外国でない二つのドイツ国家」のフォーミュラをもって共存関係改善のための両独間話合い開始を提案した。これに対して東独側は,あくまでも東独の国際法的承認を前提条件としながらも両独間の話合いには積極的姿勢を示し,両独は1970年3月2日より両独首相会談開催のための予備折衝に入った。予備折衝はブラント首相の西ベルリン立寄りをめぐって難行し,一時は会談実現が危ぶまれたが,3月12日に到り,会談場所を東独のエアフルトとすることで両独間に妥協が成立した。3月19日同市において初の両独首相会談が開催され,5月21日西独のカッセルで第2回会談を行なうことに合意を見た。本会談においては両独は相互に従来の立場を述べたに止まり特に新しい進展はなかった。しかし両独が立場の相違を承知の上でとも角一堂に会し,また会談続行に合意したことは両独間に初めて話合いの場が生まれたという意味において注目され更にエアフルト市民が予想以上にブラント首相を歓迎したことは,両独関係の微妙な一面を示すものとして注意をひいた。

 更にベルリン問題についても,西ベルリンとドイツ(西),および東西両ベルリン間の交通通信等の問題をめぐる米英仏ソ四大国会議開催の準備が進められていたが,本件会議は3月26日西ベルリンにおいて開催され次回会談を4月28日に開くことで合意が成立した。

 ドイツのこのような積極的な対ソ連東欧外交は西側諸国の支持を得ているが,ヨーロッパの現状とくにドイツ分割の固定化を避けようとするドイツの立場と,現状固定化をねらうソ連の立場は大きく食いちがっているので,交渉の前途は楽観を許さない。

 

2.ソ連の情勢

 

(1)現政権の動向

1964年10月のフルシチョフ前党第一書記兼首相の失脚後成立した現政権は,ブレジネフ書記長,コスイギン首相およびポドゴルヌイ最高会議幹部会議長を中心とする集団指導制の下に5年余を経過したが,ブレジネフ書記長の地位が漸次向上しつゝあるとの見方もあるとはいえ,少なくとも表面上は,集団指導体制が続いている。現政権は,若干の手直しを行ないつつも,内外政策の基本方針はフルシチョフ政権時代のそれを受け継いでいるが,指導者の性格や集団指導ということもあって,一般的姿勢はフルシチョフ時代に比べれば,振幅が少なく慎重であるといえよう。現政権は,大きな変動はなく現在の集団指導体制を維持して,党規約によれば近く開催されるべきソ連共産党第24回党大会を迎えるであろうとの見方が強いところ,内には経済の不振,外には中共,東欧など,内外に多くの困難な問題をかかえており,これらに関連してあるいは首脳陣の異動が行なわれる可能性も排除しえないであろう。

(2)内政

チェッコスロヴァキア事件前後よりのソ連国内の引き締め傾向は,その後も続いており,特に自由派の作家などにたいする圧迫が強まっている。すなわち1969年7月のクズネッツォフ氏の英国亡命,同年11月のソルジェニツィン氏の作家同盟除名,12月の連邦創作者諸同盟合同会議の開催などがあり,さらに1970年2月,自由派の最後の牙城と見られていた文学誌ノーヴィ・ミール編集部より4名の自由派部員が解任され,トワルドフスキー同誌編集長も辞任した。

このような引き締め傾向の中で,徐々にではあるが,スターリン元書記長の再評価が進められており,このことは現政権の非フルシチョフ化政策からくる当然の方向とはいえ,引き締め政策と関連して,スターリン再評価の間題は,現政権の今後の方向を示す一つの鍵と見られている。

内政面で現政権が当面する最大の問題は,経済の不振であり,1968年頃より顕著となってきた経済成長の鈍化傾向はその後も改善されず,1969年の経済実績においても工業,農業ともに不振であった。1969年10月のシチョーキノ化学コンビナートの実例を全国に拡大することを勧告した増産と労働力節約に関する党の決定や,1970年度に17億ルーブルの管理費節約を目標とした管理機構の改善と経費節約に関する党・政府決定も,経済不振打開策の一環であった。

1969年11月,34年ぶりに開催された第3回コルホーズ員大会は,現政権が実施しつつあるコルホーズ政策を法制化した新模範定款を採択した。これはコルホーズの自主性拡大,農民の社会保障制度や保障賃銀制の導入など,旧定款になかった項目により,農民の地位を賃銀労働者に近づけ,現行コルホーズ体制を定着させたという意義をもつものであった。1969年12月の連邦最高会議におけるバイバコフ国家計画委員会議長の報告および1970年1月に発表された1969年度経済実績は,経済成長の伸びなやみをはっきりと浮き彫りにしている。すなわちち工業企業への新システム導入の進行(1969年末現在,移行企業数36,000,全工業企業の約75%,総生産額の83.6%),にもかゝわらず,工業生産の成長率は前年比7%(うち生産財6.9%,消費財7.2%),工業の労働生産性4.8%,投資4%,農業生産一3%であった。たゞ賃銀は7.4%と高く,ソヴィエト型インフレの進行を示している。また

1970年度の工業成長率の目標は6.3%と1947年以来の最低におさえられ1970年を最終年度とする現行第8次5ヵ年計画の主要目標達成は不可能と見られている。

このような経済の不振は,1970年が次期5ヵ年計画を準備しなければならないことと相まって,党・政府指導部門に深刻な論議をよび起しているものと見られる。プラウダ紙社説その他からうかがわれる1969年12月15日のソ連共産党中央委員総会におけるブレジネフ書記長の秘密報告は,経済の悪化の指摘と強い批判を内容とするものであったと見られており,その後,各級党組織を通じて,経済不振打開のためのキャンペンが行なわれた。現政権は経済困難打開策として,労働規律や責任の強化などの引き締め,党の直接指導の強化および科学技術の導入を主眼としているものと見られ,レーニン生誕百年祭もこのような精神動員に利用された。これと関係があると見られる中堅クラスの責任者の更迭がすでに行なわれており,これがさらに上層部へ波及する可能性もあるのではないかとも見られている。

(3)外   交

現政権の対外政策の基本的な柱は,世界社会主義体制の強化,民族解放斗争の支援,平和共存の推進にあると見られる。

中ソ対立の激化とチェッコスロヴァキア事件によって,国際共産主義運動の多極化がますます深まっていった中で,1969年6月長年の懸案であった世界党会議を曲りなりにも開催し,さらに同年10月チェッコスロヴァキア問題の処理に一区切りをつけたソ連は,ワルシャワ条約機構やコメコンを通ずる東欧のいわゆる「社会主義共同体」の強化を進める一方,中ソ会談,米ソSALT(戦略兵器制限交渉),独ソ会談などの開始,欧州安全保障会議の推進など多面的な対話外交を活発化している。

このようなソ連の当面の対外姿勢の基本には,経済問題の重大化に関連して,国内建設に努力を集中するため,国際情勢の現状維持をのぞむ考慮があるものと見られる。

 

3.東欧の情勢

 

 1968年においては,チェッコスロヴァキア事件の勃発により,東欧諸国においては大きな動揺が見られたが,1969年は,ソ連によるチェッコスロヴァキアの「正常化」および「東欧諸国の団結の強化」のための努力を通じて,かかる動揺の鎮静化が行なわれた年であったといえよう。他方,東欧諸国における新しい動きとして注目されたのは「第9節1.欧州における東西関係」の項で述べたごとく,ポーランドおよび東独が,それぞれ1970年2月および4月ドイツ(西)との折衝を開始したことである。

(1)チェッコスロヴァキアの情勢

1969年4月に開催された党中央委員会総会において,ドゥプチェク第一書記が退任し,その後任としてフサーク・スロヴァキア共産党第一書記が就任した。フサーク新指導部は,当面する問題点である対ソ関係正常化,国内正常化のために現実的な政策をとってきたが,台頭する党内の親ソ・保守勢力の圧力を受け,その政策は保守的な傾向を濃くしていった。

このような情勢下に8月21日のチェッコスロヴァキア事件1周年を迎え,国民の不満が爆発し,プラハをはじめ各地で反ソデモが発生したが,これに対し,党・政府当局は強い態度をもって規制した。しかし,親ソ・保守派勢力は,これらのデモを利用し,フサーク指導部に対する圧力をいっそう深めた。

かくして9月末に開催された党中央委員会総会においてフサークは,ソ連・東欧ワルシャワ条約軍の軍事介入を正当化するとともに,ドゥプチェクを党幹部会員より解任し,更に,スムルコフスキーを党中央委員会から除名するなど,進歩派を大量に党指導部より排除する措置をとらなければならなかった。

次いで10月下旬モスクワにおいてソ連・チェッコスロヴァキア党・政府首脳会談が行なわれ,発表された共同声明においては,ソ連・東欧ワルシャワ条約軍の軍事介入が正当化されるとともに,ソ連・チェッコスロヴァキア関係の「正常化」が内外に宣明された。この間にあって,自由化路線の完全なる挫折に失望したチェッコスロヴァキア国民の士気と労働意欲は著しく減退し,生産活動は停滞を続け,その結果国内の経済情勢は悪化の一途をたどった。

フサーク指導部としてはかかる国内経済の再建策を講ずるために党中央委員会総会をできるだけ早く開催するように努力したが,のびのびとなり,1970年1月末,やっと開催にこぎつけた。しかし,党中央委員会1月総会においては,更にいっそうの進出を画策する親ソ・保守派の要求により,経済問題とともに人事問題をもあわせて討議することとなった。その結果,人事面ではチェルニークが連邦政府首相の地位をシュトローガルに譲る等親ソ・保守派の勢力が著しく伸長した。

更に,本総会において決定された党員証の書換えにより,全党員の行動審査が行なわれ,スムルコフスキー,ツィーサシ等のかっての進歩派指導者が党から除名された他,ドゥプチェクも党員資格を停止されるに至り,多くの進歩派党員が党から追放されることとなった。

つぎに,経済問題については,悪化している国内の経済情勢の再建のための具体策は打ち出されるに至らず,もっぱら,国家計画の統制力の強化,連邦諸機関の地方機関に対する優越性,経済活動に対する党の影響力強化が強調されることとなり,自由化路線は経済面でも完全に否定されることとなった。

(2)他の東欧諸国の情勢

ポーランドにおいては,チェッコスロヴァキア事件を契機として,1968年3月の学生デモ事件のごとき国内の動揺の再発を防止するため,国内の引き締めを強化するとともに,対外的には,東独,ブルガリアとともに,ワルシャワ条約機構・コメコンの強化,欧州安全保障会議の開催等の懸案についてソ連に協力的な態度をとってきた。

ルーマニアにおいては,1969年8月の第10回党大会の結果,チヤウシェスク党書記長を中心とする指導体制はますます強化され,内政面では従来の中央集権的統制を堅持する一方,対外的には1969年8月のニクソン米国大統領の訪間にみられるごとく,自主独立の路線を歩んできた。しかしながら,同時にかかる路線がソ連を刺激することのないように慎重な配慮を行なってきた。

ユーゴースラヴィアは,他の東欧諸国と異なり独自の社会主義建設の道を歩んでいるが,ソ連との関係については,1969年9月のグロムイコ・ソ連外相の訪問を契機として,チェッコスロヴァキア事件以後の冷たい関係は改善され,一応正常な関係が維持されて来た。

ハンガリーは,対外的には欧州安全保障会議の開催等につきソ連と協調する一方,その国内においては,経済改革を中心とする経済面の自由化がかなり進行している。

 

4.西欧の情勢

 

 西欧諸国の国内政治情勢は,フランス,ドイツの政権交代,イタリアの政情不安はあったが,一般に平穏であった。

 フランスにおいては,4月27日に行なわれた地方制度改革と上院改組のための憲法改正に関する国民投票で政府案が敗れたため,ドゴール大統領が辞職し,11年にわたるドゴール時代に終止符が打たれた。後任大統領には決選投票の末ドゴール派のポンピドゥー元首相が当選した。ポンピドゥー大統領はシャバンデルマス前国民議会議長を首相に起用し,議会における強大な与党勢力を背景に,フラン切下げの断行をはじめ国内経済建直しを中心とした諸施策を精力的に推進している。

 イタリアにおいては,中道左派連立の一翼を構成していた統一社会党が分裂した結果7月1日にルモール連立内閣が総辞職したことにより政情不安が発生した。

 中道左派連立再建迄の暫定的措置としてキリスト教民主党単独のルモール内閣が8月9日から政権の座にあったが,70年2月に再開された中道左派連立再建工作は,各党間の調整がつかず難航している。中道左派連立の再建は,イタリアの政局の安定のカギとなると見られるので,今後の動きが注目される。

 9月28日に行なわれたドイツ総選挙において,キージンガー前首相の率いるキリスト教民主同盟は第一党の地位は維持したが過半数は獲得しえず,社民党,自民党の二,三位連合によるブラント内閣が成立した。ブラント新政権は,懸案となっていたマルク切上げを行ない,68年11月以来の欧州における国際通貨問題に一応の結着をつけた。またブラント政権はキージンガー前政権の政策をうけつぎ,更に発展させて積極的な対ソ連東欧外交を展開している(ヨーロッパにおける東西関係の項参照)。

 オーストリアでは1970年3月1日に総選挙が行われ,第二次大戦以来初めて社会党が第一党の地位を獲得した。

 スペインでは,7月22日にフランコ統領の後継者としてファン・カルロス王子(1931年にスペインが共和国となった際,亡命したアルフォンス13世の孫)が指名され,ポスト・フランコの問題に結論が出された。

 西欧諸国間の関係については,フランスのWEUボイコット問題は各国の努力にもかかわらず解決を見なかったが,この問題に派生して起ったソームズ事件による英仏関係の冷却化は,ドゴール退陣とともに目立って改善されている。また,12月には,欧州理事会において,軍事政権は個人の自由および人権の尊重という理念に違反しているとしてギリシヤの資格を一時停止するという動きが見られたので,同理事会からギリシヤが脱退した。

 12月1日,2日の両日ハーグで開かれたEEC首脳会議において,英国等とのEEC加盟交渉を本年7月までに開始することが決定されたことが注目された。また2月12日,北欧理事会は北欧経済協力計画(NORDEK)の大綱について合意し,右機構は関係各国の議会の承認を得た上で発足することとなった。英国等のEEC加盟実現,EECとEFTAとの協力関係樹立など欧州統合問題について具体的な成果があらわれるまでにはまだ多くの時間を要するであろうが,上記のような動きが出て来たことは注目すべきであろう。

 経済面では,フラン切下げ・マルク切上げ問題をめぐる国際通貨体制の動揺が8月6日のフラン切下げ,10月24日のマルク切上げにより一応落着した。英国の経済には国際収支の改善を中心として改善の傾向が見られ,フランス経済もフラン切下げとマルク切上げの後均衡を回復しつゝある。イタリアにおいては1969年秋に発生した大規模な労働争議の結果,生産活動にかなりの支障が生じたものと見られ,上述の政情不安と相まって本年の動きが注目される。

 

 

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