-アジア,大洋州地域のその他の諸問題-
第8節アジア,大洋州地域のその他の諸問題
(1)米国の新アジア政策
(あ)1969年7月26日から8月2日までニクソン米大統領は,フィリピン,インドネシア,タイ,南越,インド,パキスタンのアジア6カ国を訪問したが,歴訪に先立ち7月25日グァム島での非公式記者会見で,新アジア政策の基本構想を明らかにした。これがいわゆるグァム・ドクトリン,後にニクソン・ドクトリンと称せられるもので,アジア情勢に新しい頁を開いたものである。
(い)新政策を要約すれば(イ)米国は太平洋国家として今後もアジアにかかわりをもつ,(ロ)米国は従来の条約上の約束は今後も守る,(ハ)しかし米国は新しい約束はしない。アジアの安全保障はアジアの自主性を促がす範囲で米国は援助するに止める,(ニ)アジア地域が核の脅威をうけた場合を除き,米国は紛争に介入しないということであって,米国のアジアヘの過剰介入の整理とアジアの互助と自立を骨子としたものである。
(う)ニクソン大統領が新らしいアジア政策を打ち出すに至った背景としては米国内におけるヴィエトナム戦争への反省気分とアジアにおける情勢の変化があったものと考えられる。本政策が1971年末英軍スエズ以東撤退とともに,アジア諸国の安全保障に与える影響はもち論大きなものがある。しかしアジア諸国の多くはヴィエトナム戦争の推移から早晩米国のアジアにおける影響 力が相対的に後退をすることを予想してきており,地域協力の促進によってアジアの連繋を強化せんとする気運が高まってきつつある。
(2)ソ連のアジア進出
(あ)近年ソ連のアジア進出が目立ってきたが,1969年6月7日モスクワの世界共産党会議においてブレジネフ・ソ連共産党書記長はアジア集団安全保障体制の構想を提案して世界の注目をあつめた。本構想提案の背景としては,1971年末英軍スエズ以東撤退 および米国のアジアからの後退見通しにより,ソ連がアジア進出への好機到来と判断したこと等も考えられるが,それ以上にあり得る背景としてソ連が激化した中ソ対立にかんがみ,中共のアジアに対する影響力の増大をチェックするための機構を作る必要を感じたことを挙げることができよう。しかし本提案はその内容が明らかにされていないこともあり,多くのアジア諸国の反応は概ね消極的である。
(い)さらにソ連はアジア諸国と政治,経済,文化面等における二国間関係の促進を図っている。1967年ソ連はマレイシア,シンガポールと国交を開き,1968年にはソ連艦隊がインド,パキスタン等を訪問し,またフィリピン,タイとも文化,経済使節団を交換した。1969年においてはソ連は8月インドネシアに経済使節団を送り,インドネシアの対ソ債務繰り延べ問題等を討議し, また1970年2月マリク・インドネシア外相をソ連に招待する等1965年9・30クーデター以来遠ざかった両国間の接近を図った。またソ連 は9月マレイシアの首都でソ連見本市を開き,11月同国と航空協定を結び両国関係を増進した。なおソ連は12月ラオスとの航空協定交渉をも妥結し,漸次アジア進出の範囲を拡げた。
(3)中共の動向
(あ)中共のアジアにおける平和5原則外交が1966年文化革命の煽りをうけてアジアから退場して以来アジアにおける中共の外交不在の時代がつづいたが,1969年に入り中共は非共産国のうちパキスタンおよびカンボディアに6月,ネパールに7月それぞれ正式大使を派遣して外交機能回復のきざしを示した。また中共は同年7月パキスタンのヌル・カーン空軍総司令官を北京に招待し,1970年2月郭沫若全国人民代表大会常務委員会副委員長をネパール皇太子成婚式に出席せしめ,一部の友好国との人的交流を開始するに至った。
(い)中共のアジアに対する最大の関心事は,アジアから米国の勢力を駆逐するとともに,最近アジアに対する進出の度をいっそう強めつつあるソ連に対抗することにあると思われる。しかるに,現在のアジア情勢の下において反米勢力の結集は困難であり,またソ連がシンガポール,マレイシアはじめ,アジア諸国との平和共存の線を強く出しているだけに,今後,中共がこの地域に対しいかなる外交戦術をとるかが注目される。中共としては,自からが国際的に孤立している現状を認識しており,また当面は国内問題処理に忙殺され,対外的に事をかまえる余裕はないので,アジア各国に対し民族解放闘争支援の旗じるしは揚げつつも,実際の行動は慎重であり,かなり現実的な態度をとる可能性が強い。
(4)アジアの地域協力
(あ)アジアにおける地域協力促進の動きは,インドネシアのマレイシア対決政策の撤回および日韓国交正常化を契機として1966年以降急速に活発化し,東南アジア開発閣僚会議,アジア太平洋協議会(ASPAC),アジア開発銀行,東南アジア諸国連合(ASEAN)等の機構が生れた。
これらの地域協力機構を通じての活動は,1969年においても活発に行なわれたが,かかる動きは,最近のアジア諸国にみられる建設的なナショナリズムの高揚と相まって,アジア地域内の自主性と連帯意識を強化する上に大きな役割を果している。
特に,6月川奈において開かれたASPAC閣僚会議において,ASPACが平和的,建設的な地域協力機構であるという性格をいっそう明確にしたこと,および12月マレイシアにおいて開かれたASEANの第3回閣僚会議において,懸案のマレイシア・フィリピン間のサバ問題が解決を見,外交関係の正常化が実現したことは注目に値しよう。
この間,69年7月,ニクソン米国大統領によりグァム・ドクトリンが発表され,同年6月,ソ連のブレジネフ書記長によりアジア集団安保構想が示される等アジア地域の安全保障問題が一般の関心を集めた。しかし,このような事態の推移はアジアの集団的な安全保障についての具体的な動きを産むには至らず,個々の国によって受けた影響は異るが,全体として見れば,既存のアジア諸国による地域協力を促進し,域内諸国の相互理解と対立感情の解消を図るとともに,各種の経済的協力活動を推進することによって,この地域全体の基盤を強化しようという空気が支配的であるとみられる。
(い)1968年1月英軍スエズ以東撤退に関する英国政府発表,さらに1969年7月ニクソン米大統領のグァム島声明等の諸要因は,アジアの将来の安全保障問題を浮き彫りすることとなった。英軍撤退により直接影響をうけるマレイシア,シンガポール両国は英国,豪州,ニュー・ジーランドを交えた英連邦5カ国防衛会議を通じ対策を協議することとなり,1968年第1回会合を開催したが,1969年6月第2回会合を開き,マレイシア,シンガポール両国の防衛目的不可分の再確認と英軍撤退後も豪州,ニュー・ジーランド軍のマレイシア,シンガポール駐留を歓迎する旨の共同コミュニケが採択された。
(う)ASEANはその加盟国であるマレイシア,フィリピン両国の関係が,サバ領有権問題をめぐって1968年夏頃以降悪化し,9月外交関係が停止されるに至ったため,その活動が事実上停止されていた。しかし1969年12月マレイシアの首都郊外カメロン高原において開催された第3回ASEAN閣僚会議を契機に地域協力促進の気運を背景としてマレイシア,フィリピン両国間にサバ問題とは関係なく外交正常化の合意が成立し,ASEANは再び本来の機能を回復するに至った。
豪州においては1969年10月下院総選挙が,ニュー・ジーランドにおいては同年11月に国会(一院制)総選挙が行なわれたが,両国ともに現与党が政権を再び獲得しており,外交・内政両面において特に重大な変化は起っていない。
外交・防衛政策面では,1971年の英軍撤退後も豪州,ニュー・ジーランド両国軍が,マレイシア,シンガポールに駐留を継続すべきか否かが,ここ数年来,豪州,ニュー・ジーランド国内で論議されてきたが,これについては1969年2月両国政府が駐留を継続する旨の声明を行ない,一応の結論が与えられた。
豪州,ニュー・ジーランド両国政府は,従来より自国の安全保障のより所として,ANZUS条約に基く米国のコミットメントを重視しており,グァム・ドクトリンに見られるごどき米国の対アジア政策の新たな展開に大きな関心を示した。両国政府は,米国よりANZUS条約に基づくコミットメントにつき再確認を得るとともに,両国のヴィエトナム派遣軍の撤兵は,米国との協調の下においてのみこれを実施する旨を明らかにする等,対米協調の姿勢を示している。
なお,1969年8月,豪州のフリース外務大臣が,1968年1月にゴートン政権が成立して以来始めての包括的な外交演説を行なったが,同演説は従来になく柔軟な対ソ政策を打ち出した点で注目された。1970年に入ってからは,2月末に豪州政府がNPT(核兵器不拡散条約)に署名したことおよび70年3月,豪州のマクマーン外務大臣がその外交方針演説において日本について相当の時間をさき,1970年代に日本が果すべき役割の重要性を強調した点が注目された。