-朝鮮半島の情勢-
第7節 朝鮮半島の情勢
1969年4月北朝鮮による米軍偵察機EC-121機撃墜事件が発生し,また同年11月には大韓航空所属の旅客機乗取り事件が発生したが,韓国の対間諜対策本部の発表によれば,同年の北朝鮮側の韓国に対する挑発事件は,前年に比べ,著しく減少したといわれる。これによってみるに,1969年の朝鮮情勢は,依然として多くの緊張要因をかかえながらも,全体としては膠着化し,緊張激化の傾向は薄らいだとみられる。
しかし,このことは,北朝鮮がとくに1966年いらい堅持してきた南朝鮮革命方式,つまり,民族解放戦による統一基本戦略を変更したものではない。周知のとおり,北朝鮮が1967年以降とってきた武装ゲリラを主体とする対南方策は,かえって韓国の防衛体制を強化し,韓国民の結束を固める逆効果をもたらすことになった。北朝鮮としては,このような失敗を反省し,新情勢に適応する戦術転換を必要とするに至ったのではないかとみられる。
ソ連軍のチェコ介入事件(1968年8月)につづき,上述の1969年4月の米軍偵察機撃墜事件が,北朝鮮の対ソ態度に微妙なる影響を及ぼし,さらに1969年11月の日米共同声明を,北朝鮮は中共への接近を試みる口実に利用しているようにみえる。1969年9月の崔庸健最高人民会議常任委員会委員長の北京訪問いらい,陽性化し始めた北朝鮮の中共接近傾向は,1970年に入りさらに濃厚化のきざしを示している。他方,ニクソン大統領のグァム・ドクトリン(1969年7月)の発表いらい,韓国は自主防衛体制の確立と地域安全保障機構の構築をめざすと同時に,朝鮮をめぐる国際情勢の変化に即応し,最近その対共姿勢には現実的な傾向が現われ始めている。
このような北朝鮮と韓国の新しい対外姿勢は,1969年来つたえられてきた米ソ交渉,米中会談,中ソ交渉およびわが国の対中共話し合い等にみられる新しい国際情勢の動向を背景として,今後の朝鮮情勢をさらに複雑化させるものとみられるが,同時に東西両陣営間に胎動する話し合いの機運が朝鮮の緊張緩和に寄与することが期待されている。
(1)北朝鮮の動向
(あ)北朝鮮の金日成首相は,1968年9月建国20周年記念演説において,人民軍の近代化,全人民の武装化,全国土の要塞化を内容とする朝鮮労働党の軍事路線が基本的に達成されたことを示唆すると同時に,南朝鮮革命方式による南北統一路線を重ねて強調した。
(い)この基本路線にもとづいて,北朝鮮は1969年に入っても韓国に対する高姿勢を堅持した。同年4月には北朝鮮による米軍偵察機EC-121の撃墜事件が,8月には米軍ヘリコプター撃墜事件が発生し,さらに11月には大韓航空所属の旅客機乗取り事件が起きた。しかし,韓国当局の発表によれば,1969年北朝鮮の韓国に対する挑発活動は,前年に比べ低調となり,発生件数,参加人員ともに激減した趣である。このように北朝鮮の対韓工作が低調となった背景としては,北朝鮮が1967年いらいの失敗を反省,戦 術の転換を試みているのではないかということが指摘される。ただ,この間にあって,海上からの浸透件数が目立って増加し,しかもそれが,大統領三選改憲問題をめぐって韓国の政局が動揺した6月から9月までの間に集中的に行なわれたことが注目された。
(う)北朝鮮は1966年以降自主独立路線を標榜してきたが,現実の関係においては,ソ連寄りとみられた。1969年5月にはポドゴルヌイ・ソ連最高会議幹部会議長が北朝鮮を訪間し,北朝鮮の党,政府首脳部と会談した。しかし,同年10月1日の中共第20回国慶節に際し,北朝鮮は崔庸健最高人民会議常任委員長を派遣した。1965年いらい中朝間には実務関係を除き両国首脳部の往来がなかっただけに,この崔庸健委員長の北京訪間は,中朝接近を示唆するきざしとして注目をひいた。ついで,1969年11月に発表された日米共同声明は北朝鮮と中共の接近傾向に拍車をかけることになったようである。この事実を裏書するかの如く, 1970年2月初め,北朝鮮大使が2年ぶりに北京に,またこれに対し中共側からは3月下旬に李雲川大使が平壌に帰任し,両国外交関係は正常状態に復した。
(え)1966年,北朝鮮の経済は1962年9月に採択された経済,国防併進策と党の軍事路線の実施を反映し,停滞状態に陥った。しかし,朝・ソ関係の改善に伴いソ連からの援助が再開されたことにより1967年いらい北朝鮮経済はようやく恢復軌道にのるに至ったものとみられる。1969年9月金一第一副首相の報告によれば,自立的民族経済は補強され,工業ははやい速度で発展をつづけており,1968年の工業生産は前年に比し,15%の伸ぴ率を示したといわれている。1969年の経済実績については何ら公表されていないが,1969年12月に開かれた朝鮮労働党中央委員会総会において1970年10月に朝鮮労働党第5回大会を開催し,5カ年計画(1971-75年)を発表することが決められた事実から推測し,北朝鮮は1970年をもって7カ年計画(1966年に3カ年延長されたので実質的には10カ年計画)を基本的に終了できる見通しを得るに至ったものと思われる。
(2)韓国の情勢
(あ)前記のごとき北朝鮮からの脅威に対応して,韓国では防衛態勢の強化,国民の結束をはかるための措置が進められたが, 1969年初めから政治の焦点は憲法改正問題にしぼられた。現朴正煕大統領に三たび出馬を許容する三選改憲問題をめぐり,一時与党民主共和党内に混乱がみられ,また同年9月以降三選改憲に反対しこれを阻止しようとする学生,野党の活動が活発に行なわれた。しかし,自主経済の確立,防衛態勢の強化のために強力なリーダーシップが必要であるとした朴政権は,強硬態度で国会を乗り切り,10月17日に行なわれた国民投票で,圧倒的国民の信任を得て憲法改正を確定させた。かくして韓国は,1975年まで朴政権が政局を担当する可能性が濃厚となり,政局は一応安定方向をたどるものとみられている。
(い)1969年の韓国経済は,15.5%という記録的成長率を示し,1971年を目標年度とする第2次5カ年計画は,1969年でその主な指標をほぼ達成し, 近代工業国家への基礎固めに成功した。しかし,国際収支,借款元利償還,農工格差の問題等高度成長に伴うゆがみが漸次顕在化しはじめている。
(う)1969年7月ニクソン米大統領がグァム島で明らかにしたグァム・ドクトリンは,北朝鮮の脅威に直面する韓国に衝撃を与え,韓国において安全保障の問題が大きく浮彫りされはじめた。韓国は安全保障の観点から沖縄返還問題の推移にも関心を払っていたが,1969年11月の日米共同声明に対し,基本的には歓迎している。