-ヴィエトナム問題-

 

第6節 ヴィエトナム問題

 

 

1.拡大パリ会談

 

 ヴィエトナム戦争は1968年3月31日の北爆部分停止に次ぐ同年10月31日の北爆全面停止を転機として新しい局面を迎え,米,北越に新たに南越,NLF(民族解放戦線)を加えた拡大パリ会議が1969年1月25日から開催された。

 本会談は4月6日のチュウ南越大統領の6項目提案,5月8日のNLFの10項目提案,5月14日のニクソン米大統領の8項目提案により,双方のブル ープリントが一応でそろい,その後,これら提案を基礎に話し合いが進められることになった。双方の主張と対立点を要約すれば次のとおりである。

 軍事問題について米,南越側は(イ)南越にある南越軍以外のすべての軍隊の相互撤退(ロ)国際機関による撤退の監視を主張したのに対し,北越,NLF側は(イ)米国および連合国軍隊の全面無条件撤退(ロ)国際機関によるその撤退(ハ)監視の南越にあるヴィエトナム軍隊の問題はヴィエトナム人当事者間で解決を主張した。

 南越の政治問題について米,南越側は(イ)国際機関の監視下で自由選挙を行なうこと(ロ)NLFも暴力を放棄すれば選挙に参加しうることを主張するのに対し,北越,NLF側は(イ)まづ南越のあらゆる政治勢力の協議により臨時連立政府を作り(ロ)同政府の下で選挙を行ない(ハ)次いで正式の連立政府を樹立する(ニ)現南越政府は解体さるべきである,と主張した。かくして会談は,撤兵問題と連立政府問題を主要対立点として進展を見なかつたところ,米国は12月8日パリ会談の米側首席代表辞任後もその後任を任命せず,これに対し北越側も首席代表を会談に出席せしめないこととしたため,会談は事実上格下げ状態となつた。

 このようにして会談は開始以来最も低調な状態を現出するに至つたが,パリ会談がヴィエトナム問題解決にもつ意義については,双方ともそれぞれ十分認識しているものと思われるので,今後本会談が決裂するがごとき事態には立ち至らないであろうと見られている。

 

2.軍事情勢

 

 1968年1月末のテト攻勢以来共産側は軍事攻勢を低下し,南越における戦闘の規模は徐々に縮小の方向に向いつつある。しかしホー・チ・ミン・ルー トを通ずる北からの浸透は依然つづけられており,また,共産側によるテロ,ロケット攻撃等のゲリラ活動も跡を絶つていない。共産側軍事活動の低下の原因が共産側の戦力の減退を意味するものか,はたまた他に目的を有するものかはにわかに判断しえないが,なお今後共産側の軍事攻勢活発化の可能性は排除されない。

 米国は米軍の南越軍への肩代わりによる米軍撤退を企図し,1969年初頭以降いわゆるヴィエトナム化計画を推進してきた。同年6月8日ニクソン,チュウ両大統領のミッドウエイ会談に際し,ニクソン大統領は約25,000人の米兵を8月末までに南越から引揚げ,今後南越軍の強化,パリ会議の進展,南越の戦況を考慮しつつ撤退計画を推進する旨を声明した。次いで同年9月に第2次撤兵約35,000人,12月第3次撤兵約50,000人(1970年4月15日までに撤兵完了)が発表された。

 南越戦況と関連のあるラオスにおいては,1969年9月政府側はジヤール平原を占領したが,北越,パテト・ラオ軍は乾期攻勢の準備を進め,1970年2月上旬ジヤール平原において攻勢を開始し,同月末には同平原周辺をほゞ手中に収めるに至つた。

 

3.南越政情

 

 南越政権にとつて当面最も重要な政治目標は政治基盤を拡大強化することにある。チュウ南越大統領は1969年5月25日既存の与党的政治勢力を糾合して「民主社会国民戦線」を結成した。

 フオン内閣は文民内閣として幾多の業績を挙げたが,国会および与党との折り合いが悪くなり,1969年8月22日総辞職し,9月1日キエム将軍を首班とする内閣が発足した。 南越にはかねてから仏教徒,文化人,学生等を中心とする和平運動があるが,組織的運動にまで発展していない。他方ミン将軍およびドン上院議員等による第3勢力結集の動きも行き悩みの状態にある。

 

4.米国の動き

 

 ニクソン政権は発足以来ヴィエトナム問題に関してはジョンソン政権の方針を踏襲してきたが,1969年5月14日ニクソン大統領は,米国民に対する報告の形で新政権のヴィエトナム政策を始めて明らかにし,戦争終結への決意を表明するとともに,8項目の和平提案を行なった。この和平提案にそって米国はパリ会談において相互撤兵と国際監視下の自由選挙の線を強く打ち出すとともに,和平交渉と並行してヴィエトナム化計画を推進した。

 米国のヴィエトナム政策に大きな影響を与える要因の一つとして,米国内の世論の動向があげられるが,共産側もこれを重視しているとみられる。1969年10月15日のヴィエトナム反戦デーを頂点として,米国内に反戦気運が相当な高まりをみせたが,ニクソン大統領は11月3日の演説において,ヴィエトナム戦争の経緯,意義および政府の平和探求の努力を説明した後,ヴィエトナム問題解決の鍵は和平交渉をつづけるか,ヴィエトナム化計画を推進する以外にないとして,国民の協力を要望した。その結果反戦気運は一応鎮静化し,以後ニクソン政権のヴィエトナム政策支持率が上昇をみせた。

 米国はパリ会談の停滞状態にかんがみ,1969年末頃からパリ会談の進展に関係なく,ヴィエトナム化計画を推進する意向を明らかにし,ニクソン大統領は1970年1月22日の年頭一般教書および同年2月18日の特別外交教書において,前記のヴィエトナム政策の既定方針を重ねて再確認した。

 

5.北越,NLFと中共,ソ連

 

 (1)NLFは南越における関係諸勢力と1969年6月6日から3日間国民代表大会を開催し,同月10日「南越臨時共和国革命政府」を樹立した旨を発表し,北越,ソ連,中共はじめ社会主義国等25カ国がこれを承認した。革命 政府樹立のねらいはNLFが今後の南越の政治闘争に備え,南越政府と対等の地位に格上げすることを図つたものと思われる。

 (2)1969年9月3日北越のホー・チ・ミン大統領が死亡し,同月23日トン・ドク・タン副大統領が大統領に,グエン・ルオン・バン労働党中央委員が副大統領にそれぞれ選出された。北越指導部はホー・チ・ミン存命時代からすでに集団指導体制をとつていたともいわれており,ホー・チ・ミンの死後も,この集団指導体制を堅持し,ホーの遺志を体し,国内体制を固めて戦争を継続せんとしているものとみられる。なお北越のソ中間にあつて均衡をとりつつ自主性を維持すべく努力する姿勢は従来と変りがないものと思われる。

 (3)中共は北越,NLFがヴィエトナム戦争で徹底抗戦を堅持することを期待し,パリ会談はこれを無視するがごとき態度を示してきた。しかし1969年10月15日周恩来,グエン・フー・ト革命政府評議会議長会談コミュニケにおいては,NLF10項目提案を間接的に是認し,また11月8日の北京放送および9日の新華社報道は,11月3日のニクソン演説に対する北越,NLFの反駁声明の引用でパリ会談の字句を削除することなく報道するなど,パリ会談に関する報道がみられるようになつた。

 (4)ソ連はパリ会談開始以来北越の立場を全面的に支持し,拡大パリ会談についても,NLF10項目提案についても,これを歓迎支持する態度を表明すると同時に,米国の侵略行為を非難し,北越の和戦両様の立場を支持している。

 

 

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