-中共の情勢-
第5節 中 共 の 情 勢
(1)1969年元旦の人民日報,紅旗,解放軍報の共同社説は,1969年を中国革命と世界革命の重要な1年となる年と述べるとともに,69年中に9全大会を開催し,文化革命の全面的勝利をもって,建国20周年を盛大に祝う旨述べ,69年中に一応文革を終結するという毛林指導部のプログラムを明らかにした。
(2)中国共産党は69年4月1日から24日まで北京で第9回全国代表大会(9全大会)を開催した。この大会では林彪の政治報告,新しい党規約が採択され,中央委員が選出された。ついで4月29日開かれた第9期中央委員会第1回総会では党の主席,副主席以下党首脳部の人事が決定された。
(3)この9全大会は,3年にわたる文革の「奪権闘争」すなわち劉少奇,トウ小平に代表される実権派の握っていた権力を毛沢東,林彪派が奪取するという面での一応のしめくくりをつけ,毛林体制の合法性を確立し,新しい国造り(党,国家機能の回復)に入るいとぐちを開いたものであった。
他方,経済,社会,文化等の面における改革措置も国づくりの一環としてひきつづき検討されることとなった。
林彪の政治報告はかなり抽象的であり,かつ政治,経済の分野でもほとんど新しい施策は示さなかった。一方新しい党規約は8全大会採択の旧党規約を全面的に改正し,「法三章」的な簡略なものとなったほか,党の指導理念として毛沢東思想を新たに位置づけし,林彪を後継者と規定するなど破格な規定を設けた。
9全大会が毛沢東思想を普遍的原理として絶対化したことは,今後の国際共産主義運動および世界政治に対しても重大な影響を及ぼすこととなろうし,中ソのイデオロギー論争はこれで調整不可能となったとみられる。いずれにしても9全大会で決定をみた組織,路線,人事などはすべて中核的部分に止まったので,具体的施策,措置についてはその後の展開を見る必要があった。
(4)9全大会後は,同大会で採択された政治報告,党規約などの学習が全国に展開されたが,3年有余にわたる文化革命に倦んだ国民の間には「革命はもう一休みしよう」といった消極的ムードや,規律の弛緩がみられはじめたようで,このため中共中央は「引き続き革命的規律の強化」を呼びかけた。一方大会後,各級権力機構の制度および人事の建直しが進められた。しかるに大衆革命組織間,革命委員会指導メンバー間,新旧幹部の間に内紛があり,これが一部地域で極端な形で露呈したものとは思われるが,7月頃から山西省で大規模な暴動が,山東省その他で武闘が,チベットでも混乱が生じた模様である。このため中共中央は,修正主義,資本主義批判とあわせて「派閥主義」「無政府主義」「セクト主義」などに強い批判を行って事態の収拾に努めた。
(5)69年10月1日の20周年国慶節は,国内にはなお混乱が残り,対ソ関係は緊張(別項参照)という情勢のもとに迎えられた。この国慶節には一時,死亡説,重病説の流れた毛沢東主席も姿を現わした。これに先立ち,核実験による景気づけも行なわれたが(発表は10月4日)行事は恒例に従って行なわれ,外国から参加の代表団の陣容は,建国20周年としては低調の感をまぬがれないものであった。
国慶節前夜の周総理演説,人民日報,紅旗,解放軍報の共同社説,国慶節当日の林彪演説なども9全大会以来の路線の枠を出ず,国内建設の促進,党機構の再建など当面の問題を繰り返し主張したのみで新しい政策の展開を示唆するものは見受けられなかった。このことは党大会以降の国内情勢が中共中央の期待するほどの改善を示さず,依然「団結」(この国慶節の中心スローガン)の強調が必要であったことを物語るものと思われる。
(6)69年秋頃から全国的な都市人口の疎開,防空壕建設が行なわれ,かねてよりすゝめられていた食糧備蓄強化など臨戦態勢色彩が濃くなったが,一方国民の精神力を増産運動に向ける努力もなされ生産競争が展開された。
(1)1970年元旦の人民日報,紅旗,解放軍報の共同社説は,1960年代の回顧と70年代への展望を行ない,中共が全世界的な反帝闘争に果すべき「歴史的使命」を力説した。一方国内政治の面では,ほぼ従来の政策を確認するに止まったが,党再建の問題については,「百年の大計」であるとしてその重要性を強調するとともに,「新党規約を学習し」「指導者,政党,国家権力,階級,大衆の相互関係についての学説」を教育することが必要であると述べ,党建設に対する慎重かつ本格的な取り組みの姿勢を示した。
対外姿勢については「備戦備荒」のスローガンが示すとおり,臨戦体勢を継続する構えを示したが,一方では「平和共存5原則」を再確認している。全国人民代表大会の開催については触れるところがなかった。これは国内の党,政府機構が一応再建されたのち開催の運びとなるということであろうか。
(2)本年の国内政治の最大の懸案事項は,権力機構(党組織およびこの指導下の政治組織)の正常化である。
党再建については1968年の12中全会以来,国内政治の最重点事項に挙げられながら遅々として進捗していないその背景には次のようなことが考へられる。奪権後できた臨時的権力機関である革命委員会の指導メンバーの足並が揃わぬこと,大衆組織内部の派閥争い,党員の審査に大衆を参加させる問題,
旧党員の取扱いについての急進派と保守派の考へ方の対立,軍人の処遇問題などである。1970年に入ると,新党規約の学習運動の展開など思想面での学習が強化せられ,一方党中央は党建設のモデルケースを作ってこれを普及する方法を打ち出した。このパターンの骨子は,幹部を党組織に起用すること,
大衆は党に従うこと,
党と革命委の関係については革命委は党の指導に従うことなどであった。
党の建設状況を報道面からみると次のとおりである。工場,人民公社などという基礎単位の党組織建設は1970年1月頃から活発となり,2月上句現在では,全国29の省市,自治区のうち23の地区で末端党支部の誕生がはじまっている。県クラスについては湖南省において常徳県など11県に,黒竜江省で虎林県に,市では広東省の茂名市にそれぞれ党委員会ができた。専区,省クラスについては設立されたという報道はない。
(3)中共の工農業の方向を示す注目すべき2論文が発表された。「中国社会主義工業化の道」(紅旗10月)および「中国社会主義農業の発展の道」 (紅旗2月)である。前者は重工業優先政策を強調しているが,内容は農業,軽工業との関係を重視するという現実的なものであった。また国防的見地からの工業立地で内陸工業の建設が提唱され,外国の経験を学ぶ必要も強調されている。
農業についての論文は,合作化から人民公社化への道,農業の機械化,所有制,分配制度など広範な問題にふれている。いずれも従来の毛沢東路線を進めることを強調したもので,現在の三級所有制についても,これは現段階における生産発展のレベルに合致したものとして,急激な改革の意図はうかがえない。すなわち,当面いわゆる「大躍進」の企図はないものと解されよう。
なお1969年の工業生産は,ほぼ1966年の水準に回復し,食糧生産は1968年度の水準をこえたと推定されている。
(1)中共は1966年夏文化革命の激化を反映して,「造反外交」と評されるごとき強硬な対外姿勢をとったため,従来中共と友好関係にあった諸国との関係も冷却化した。ただしこの「造反外交」は文化革命の論理に一応のつとったものとはいえ,中共中央が明確な外交方針として打出した政策というよりは,文化革命の跳ね上り的な色彩が強かった。従って文化革命中の外交姿勢の特色は,むしろ「外交不在」というべきであったであろう。1967年末以降,文革の混乱の収拾が指向されると外国との間の紛糾は減少していった。
(2)1969年4月の9全大会で打ち出された対外政策としては,米帝国主義,ソ連修正主義,各国反動派の3つの打倒,この目標を達成するための手段として,世界人民とくにプロレタリア大衆を断乎支持するという強硬路線が打ち出された。しかし一方では「社会制度の異なる国々との平和共存」を唱へ,「平和共存5原則」を再確認している。このことは原則的事項については妥協しない(例えば台湾解放,領土保全)が,同時に現実的あるいは戦術的には平和5原則も使うというもので,文革以前の対外政策と比較して,対ソ姿勢では硬化も見られるが,基本的にはさしたる変化はみられなかった。
(3)9全大会で文革が一段落すると,69年5月から7月にかけて,文革中に召還した大使のうち(在アラブ連合大使のみは召還されなかった)17ヵ国に大使を復帰させた。5月にはカナダと国交樹立の交渉を開始し,10月から12月にかけては,中共が文革中に抑留した外国人抑留者の一部を釈放した(日本人6名を含む)。また9月には北京で周・コスイギン会談が開かれ,これにつづいて10月から中ソ北京会談が開始された。69年2月廖和叔亡命を口実に再開の中止となった米中ワルシャワ会談も12月再開した。さらに11月にはタンザニア,ザンビアに対する鉄道建設などの援助活動,李先念副総理のアルバニア訪問があり,ユーゴとの関係改善の動きも現れた。
こえて1970年に入ると,周総理のナセル大統領あてアラブ人民闘争支持のメッセージ発出,郭沫若全国人民代表大会常務委員会副委員長のネパール訪問(2月)があった。これは文革後はじめて中共要人が非共産国を訪問したものであった。また各国にある中共大使館員の増加がみられ,またその活動は柔軟化,活発化してきている。以上から,中共の外交機能が漸次回復し,対外活動が時を追って活発化してきていること,対外姿勢も,文革時の生硬さが消えて漸次柔軟化の傾向が出てきていることが指摘しうるのではあるまいか。
しかし,中共の当面の対外活動が前述のごとき国内情勢の制約を受けていることはもち論であり,中共が本格的な外交を展開するためには,国内体勢を固める(まだ専任の外務大臣が発表されていない)ことが先決問題であると思われる。(中共外交の主要課題である対ソ,米,北越関係についてはそれぞれ別項参照) なお,カナダ,イタリアの対中共国交樹立交渉は「台湾の帰属」問題をめぐって解決がつかず,ひきつづき接触が続けられている模様である。