-中 ソ 関 係-
第3節 中 ソ 関 係
1969年3月の中国東北部国境における珍宝島(ソ連名ダマンスキー島)事件以後8月まで,中ソ両国には,東北部の河川地帯および西部の新彊地方において,武力衝突事件が頻発し,両国の関係はきわめて緊張した。
国境衝突事件は中ソ両国の現行国境条約に関する解釈の違いに求められるが,より直接的な理由としては,中共の文化大革命を通じて両国の関係がますます険悪化していたことがあげられる。いずれにしてもイデオロギーの面では,文化大革命以前に最悪の状態に達していた中ソ関係が,国家関係の面でも武力衝突という深刻な事態にまで発展したものである。
中ソ両国は,国境地帯において再三にわたり紛争をひきおこしていたにもかかわらず,6月18日には東北部国境河川の航行に関する委員会を開催し,8月8日にこれを終了した。河川航行委員会は,国境河川における船舶の航行などを議題とする純技術的性格のものであるが,中ソ関係が悪化している最中に,このような両国間の話し合いの場が保たれていたことは注目された。
8月末から9月始めにかけてのソ連報道機関の対中共論調は,ソ連の対中共全面攻撃を推測せしめるほど強いものであったが,9月11日コスイギン首相は,ホー・チ・ミン大統領の葬儀に出席するためハノイに赴いた帰途,突然北京において周恩来首相と会談し,その後ソ連の対中共非難は弱まった。
コスイギン・周恩来会談においては,中共側の発表によれば,中ソ両国の境界問題,貿易問題および両国関係のその他の問題が話し合われたとのことである。
8月にいたるまでほとんど毎月のように発生した国境衝突が,9月以降中ソ両国の公式発表によるかぎり全く発生していないことは,それぞれ国内問題などをかかえる両国として,これ以上の紛争の拡大を回避することに共通の利益を見出した結果であるとみることもできよう。
中ソ両国間には1964年国境問題を討議するための会談が開かれたことがあるが,1969年の春から秋にかけても,中ソ双方よりこの会談を再開しようという提案が再度にわたり行なわれた。10月20日より開かれた北京会談は,これからの提案および9月のコスイギン・周恩来会談の結果実現することとなったものである。北京会談は開催以来4ヵ月以上にわたって継続中であるが,国境問題をめぐる中ソ両国の主張には大きな開きがあるため,かなり難行しているとみられている。