-米ソ関係-
第2節 米ソ関係
米国が1967年以来戦略ミサイル力を増加させていないのに対し,ソ連はICBMおよびポラリス型ミサイルの増強を急ピッチで行ない,1969年9月1日現在で,ICBMの数で米国を抜き,ポラリス型ミサイルは1年前の2倍半にふえた。これに関して米国のレアード国防長官は1970年2月20日の声明で,ソ連の戦略核による脅威は顕著であり,しかもますます増大しつつあると述べている。
他方米ソ両国は69年中に戦略兵器制限に関する予備交渉を行なうとともに,海底の核兵器設置を禁止する条約の草案を共同で提出し,また核拡散条約を同時批准し,この分野での協調関係の強さをも示した。
このようにソ連は一方では明らかな対米核劣位には甘んじないという態度を示しつつも,核戦争の危険の拡大を回避し,過大な財政負担を軽減するため,米国との間に核抑止力の何らかの均衡を達成しようと模索しているものとみられる。
その他の分野における米ソ関係は,お互いに大国として自国の勢力および影響力を伸長し,相手の勢力を排除せんとする一方,それが両国の全面対決にいたることは避けるという配慮を示している。69年はアポロ11号の成功により米ソ関係における米国の威信は高まったが,現在のところ米国は黒人,都市,インフレ問題を抱え,ソ連は経済不振に悩むといった具合に各々国内問題に多くの精力を注入せざるを得ず,互いに勢力争いに大きな精力をついやす状態にはないといえよう。
ヴィエトナム戦争をめぐる米ソ関係については,米国がヴィエトナム化を促進させるにつれ,ヴィエトナムはかってのように米ソ関係の冷却化の要因ではなくなっている。1969年6月の世界党会議でブレジネフが提案したアジア安保構想は種々の目的を兼ねたものであろうが,その一つの目的はグァム・ドクトリンによる米国のアジアからの引き揚げ後の真空を埋めようとすることと解されている。
中東では,1969年4月以降米ソは四大国会談等を通じ,政治的解決への姿勢を示したが,ソ連としてはアラブの反対を押し切ってまで妥協はできなかったもののようであり,他方米国としても,イスラエル生存のための基本的諸主張を譲れず,米ソは当分高度の危険状態を扱わざるを得ないであろう。
1969年7月にニクソンがルーマニアを訪問したことは,米国の大統領がソ連の勢力圏に乗り込んだという意味で画期的であったが,訪問によってソ連を極度に刺激することはないとの計算の上で行なわれたものといえよう。