-国際共産運動-
第12節 国際共産主義運動
(1)ソ連がフルシチョフ以来その威信をかけてきた世界党会議が,再三にわたる延期の後,5月の最終の準備委員会を経て,69年6月5日から17日までモスクワに75党を集めて開催された。中共,北鮮,北越,ユーゴースラヴィア,アルバニアなどの社会主義諸国の党,ならびに日本,ビルマ,ネパール,タイ,インドネシアなどのアジア諸国の党が参加しなかった。
(2)会議においては,ソ連をはじめ全体では3分の2の党が中共非難を行なった。チェコスロヴァキア問題については,イタリアのほかオーストラリア,スイス,スウェーデン,スペイン等の諸党がチェコスロヴァキア介入に批判的な発言を行なった。これに対してチェコスロヴァキア党は,歯切れは悪いが一応チェコスロヴァキア介入を弁護する演説を行なった。
(3)会議で採択された基本文書については,多くの党の中共非難演説にもかかわらず,イタリア,ルーマニア党などの強い反対のために,中共非難を基本文書に盛り込むことはできなかった。また現下の国際共産主義運動における最大の問題である統一と多様性の問題については,いわゆる「ブレジネフ・ドクトリン」にみられるソ連の姿勢に上記両党をはじめ諸党が,強い反対を示し,結局,基本文書においては,問題の核心を避け妥協をはかり両方を併記するかたちをとっており,またチェコスロヴァキア介入の正当化もあいまいな表現となっている。基本文書は妥協の産物として反帝闘争の統一を漠然と強調するにとどまっている。
(3)このようなソ連の妥協にもかかわらず,国際共産主義運動の行動綱領たる基本文書の採択には多数決制をとらざるを得ないという,この種会議としては異例の事態となり,しかも無条件で基本文書に署名したのは66党にすぎず,ドミニカ党が署名せず,オーストラリア,イタリア,サンマリノ,レユニオン党は反帝闘争の共同綱領にふれた章にのみ署名し,イギリス,ノルウェー党は中央委から授権されていないとの理由で署名を留保し,キューバ,スウェーデン党はオブザーバーということで署名しなかった。
(4)かくして世界党会議はソ連の指導力の低下をまざまざと示したものと言え,国際共産主義運動の多中心化傾向は,もはや抗し切れないものであることを確認したかたちとなった。
世界党会議を前にして,中共は,1969年4月1日から24日まで9全大会を開催し,文化革命に一応の終止符を打つとともに,対外面では反米帝国主義,反ソ修正主義,民族解放闘争支援を強く打ち出した。文化革命中のソ連の激 しい中共非難にもかかわらず,現在その勢力,質は別として親中共系の党,分派党,組織は少なくなく,しかもこれらは,イデオロギー的には中共の指導下にあると見られている。このことはソ連が世界党会議においてイタリア,ルーマニア党などの反対で,イデオロギーの最大公約数すら見い出せなかったことと著しい対比をなしている。国際共産主義運動における中ソの両極化と,広い意味での親ソ系諸党間内部の不統一は,もはや動かし得ない状況となっている。このような状況の中で中共は,反帝闘争,民族解放闘争支援を前面に押し出し,イデオロギー面からソ連を攻撃しつつ,アジア・アフリカ諸国などの民族解放闘争を支援している。一方,ソ連は平和共存路線という前提のもとで,70年1月には,欧州共産党会議,国際理論会議を開催するなど自己の陣営の意思統一に努めている。
チェコスロヴァキア問題を契機として,イタリア,フランス党をはじめとする西欧先進諸国の諸党は,対ソ自主性の傾向を強めたが,この傾向は世界党会議において明確にあらわれた。さらにその後,ヨーロッパの政情不安を背景として,これら諸党の政権接近への可能性が増大するや,イタリアを筆頭とし,イギリス,北欧などの諸党は,国内に対する配慮から自主性をますます強め,地道な日常活動を強化し,西欧型社会主義とも言うべき社会主義への独自の道を志向してきている。
前線組織は,ヴィエトナム反戦闘争と,ソ連の提唱する欧州安保の推進を中心として,大会,集会などを開催したが,全般的には盛り上りが少なかった。