-その他の地域の情勢-

 

第11節 その他の地域の情勢

 

 

1.中近東の情勢

 

(1)和平工作の難航

1967年6月の中東戦争は6日間で停戦に漕ぎつけたが,その戦後処理は,同年11月の安保理決議の採択とそれに基づくヤリング特使の粘り強い調停工作にもかかわらず当事国間の根本的対立のため,一向に進展せず,同特使は1969年4月3月,一たん現地で活動を打ち切って本来の任地であるモスクワに帰任し,その後をうける形で,仏の提案に基づく四大国会談がニュー・ヨークで開始された。

また,これと並行して,四大国会談の主軸をなす米ソが二国間協議を進め,相互に解決案を出し合った後,米国は10月28日アラブ連合・イスラエル間紛争に関するぎりぎりの解決案として10項目案をソ連に提示したが,アラブ連合は,同提案が単独講和によるアラブ諸国間分断をはかるものであり,その内容もイスラエル寄りであるとして強く反対するとともに,9月から開始された米国の対イスラエル,ファントム機供給等に関連し,激しい反米キャンペーンを展開した。

これに対し,ロジャーズ米国務長官は12月9日,中東問題につき演説し,米国の中東政策が公平かつ建設的なものであることを力説したが,その後米国は同月18日四大国会談の場で,前記アラブ連合・イスラエル間解決案と組み合さるべきものとして,ジョルダン・イスラエル間紛争解決に関する11項目案を打ち出した。

しかし,アラブ側との直接交渉を主張し,大国による解決案の押しつけに反対してきたイスラエルは,かかる米国の動きと米国案の内容に強い不満を示し,12月22日前記両提案を全面的に拒否する旨声明した。

一方,ソ連も12月23日,米国の10項目提案に対し,正式に否定的回答を送り,ここに米ソ協議は暗礁に乗り上げた。その後も四大国会談で局面打開につき話し合いが続けられているが,実質的進展をみるに至らず,政治的解決の前途はなお多難とみられている。

(2)現地情勢の緊張とパレスティナ・コマンドスの台頭

その間,停戦ラインをはさんで対峙するアラブ連合・イスラエル両軍間に衝突が頻発するようになり,とくに1969年春よりアラブ連合軍が対イスラエル消粍戦に乗り出し,スエズ運河地帯では「公然たる戦争状態」が現出するに至った。イスラエルの対抗作戦も次第に拡大し,1969年暮以降イスラエル側は,軍事面のみならず心理面での効果を狙って,アラブ連合に対する軍事攻勢を著しく強化し,1970年に入ると,イスラエル機の空爆はカイロ周辺にも及ぶに至った。

一方,戦後処理が停滞し,占領が長期化するにつれ,パレスティナ難民を母体とするコマンドス(いわゆるアラブ・ゲリラ)の対イスラエル破壊工作が次第に活発化するとともに,一時は30以上もあったコマンドス団体が,1968年頃よりその中の最も有力な団体であるファタハを中心として大同団結の方向へ進み,1970年2月に至り,ほとんどすべての主要コマンドス団体を含む「統合司令部」が成立した。

コマンドスは.政治的解決を拒否して,主体的に対イスラエル武装闘争を進めようとしているため,一部アラブ諸国政府との関係は微妙で,1968年11月と1970年2月ジョルダンで,1969年4月と10月レバノンで,コマンドス勢力と彼らの規制を望む当局側との間に衝突が発生した。

しかしアラブ諸国政府としても,イスラエルの占領に抵抗し祖国を解放するという大義名分を掲げて戦うコマンドスに,直接間接の支持を与えざるをえず,戦後処理の難航と占領の長期化に伴い,かれらはアラブ世界において強大な政治勢力に成長するとともに,その代表団が1970年2月ソ連を,3月中共を訪問する等,国際的地位も高まりをみせ,その動向は中東紛争の帰趨に重大な関係をもつに至った。

(3)武器供与問題

大国はいずれも中東に破局的大衝突が再発することを好まず,和平工作に従事しているが,同時に中東への武器輸出国としての役割も演じている。

ソ連は中東戦争以前からアラブ連合,シリア,イラク等のアラブ革新諸国に対する武器供与を行ってきたが,中東戦争後もこれら諸国への武器供与を続け,特に大きな軍事的損失を被ったアラブ連合に対してぼう大な軍事援助を行ない,アラブ連合軍の再建を助けてきた。更に70年1月以降イスラエルによるアラブ連合内陸部攻撃の激化に伴い,ソ連は2月下旬よりアラブ連合に対しSAM3型低空用地対空ミサイルの供与を開始したといわれる。またソ連は中東戦争後その地中海艦隊を増強し,アラブ連合のアレキサンドリア,ポートサイド,シリアのラタキヤの諸港を事実上の補給基地として使用しているように中東戦後のソ連の地中海およびアラブ諸国への進出にはめざましいものがある。また中東戦争勃発以来アラブ寄りの立場をとってきた仏については,戦後イスラエルヘのミラージュ機輸出を禁止し,更に68年12月のイスラエルのベイルート空港襲撃に対する制裁として対イスラエル全面武器禁輸を断行した。1970年1月に至り仏は,紛争当事国ではないが,アラブ連合と密接な関係にあるリビアにミラージュ機約110機を輸出する契約を結んだが,これは中東に対する武器供与問題をあらためて大きくクローズアップすることとなった。

一方米国は従来からイスラエルに対する主要武器供与国であったが,69年9月イスラエルが以前から要求していたファントム戦闘機50機の引き渡しを開始した。その後イスラエルは米国に対しファントム25機,スカイホーク100機の追加供与を要請したが,米国は3月23日,ソ連のアラブ連合に対するSAM3型ミサイルの供与の事実を認めつつも,イスラエルの航空作戦能力の現状にかんがみ,当面本件要請に関し決定を下さずにおく旨の発表を行なった。米国は従来から中東への武器禁輸の必要を説き,ソ連が話し合いに応ずるようくりかえし呼びかけてきたが,今回のこの決定は,イスラエルの軍事的優越を背景に,イスラエルヘの武器供与を自制することにより大国による武器輸出規制を含む局面打開へのイニシアチブをとろうとしたものと解され,今後のソ連の出方が注目される。

 

2.アフリカの情勢

 

(1)概   況

アフリカの年といわれた1960年代にアフリカの植民地は一部を除きすべて独立を達成し,それぞれの国により多少の相違はあるが国造りに努力する過程で独立当初の急進的理想主義から漸次,経済開発を重視する現実的かつ穏健な傾向を示している。政治的には,民主主義政治を指向しながらも部族対立その他不安定要素をかかえている国もあり,政情はなお流動的である。例えば,1969年には,7月ケニアのムボヤ経済企画相の暗殺をめぐる政情の動揺,12月のオボテ大統領狙撃事件と野党の禁止および非常事態宣言,チャードの反乱,ソマリアのシェルマルケ大統領暗殺とその後の軍事クーデター,ダホメの軍事クーデターなど一部の国ではなお政情不安がみられる。しかしながら,アフリカ全体としては政情は安定に向っており,特にガーナが1966年2月以来の軍政から1969年8月の総選挙を経て,10月民政に移行したことは,1970年1月のナイジェリア内戦の終結とともに,アフリカ政情の安定に寄与するところ極めて大きいとみられる。経済的には,前述の通り地道な国造りにいっそう努力を傾注する過程において,各国とも先進国の経済的技術的援助をますます必要としている。このような各国の現実化の傾向を反映して,「アフリカ統一機構」の活動も現実的かつ,より身近な問題に関心を集中する傾向がみられる。

(2)主 要 問 題

(あ)ナイジェリア内戦の終結

ナイジェリア連邦の旧東部州が「ビアフラ共和国」として分離,独立を宣言して以来,30か月にわたった内戦は1月15日,ビアフラ側が降服文書に調印することによって終結をみ,ビアフラ共和国は解消しナイジェリアは12州制の下に再統一されることとなった。ナイジェリア連邦軍事政府は,部族間の融和,経済復興,難民救済等幾多の難問をかかえてはいるが,ナイジェリアはアフリカ第一の人口を有し,石油を始め資源も豊富で今後の発展が期待される。また,内戦の終結によって分裂への動きを阻止しえたことは,同じような部族問題をかかえる諸国に及ぼす影響の面で無視できないものであろう。

(い)南部アフリカ問題

一般に南部アフリカ問題といわれるものは,南アの人種差別政策とナミビア(南西アフリカ)に対する施政権の維持,南ローデシアの白人少数政権およびポルガトル領植民地問題である。南アのアパルトヘイト政策およびナミビアに対する南アの施政権を終らせる問題については,南ア政府は数次にわたる国連決議にもかかわらずこれを拒否しつづけている。1965年11月一方的独立宣言を行なった南ローデシアの白人少数政権の問題については,英・南ローデシア間の交渉,国連決議による経済制裁にもかかわらず,南ローデシア政権は白人少数支配の方針を変えないのみならず,1969年6月には,共和国宣言および新憲法草案についての国民投票を実施して,有権者多数の支持を得た。この結果,同政権は1970年3月2日議会の解散と総選挙を公示する宣告を布告して,同日南ローデシアは共和国に移行した。また南ローデシテの経済事情は,経済制裁のため葉タバコの減産等一部の分野では後退もみられるが,全体としてはむしろ改善されつつある。ポルトガルの植民地モザンビクおよびアンゴラに対する政策も68年9月サラザール首相がカエターノ首相に交代するのにともなって変化することが期待されたが,現在までのところ実際にはこのような変化を示す徴候はみられない。以上のような南部アフリカ問題の現状にかんがみ,ブラック・アフリカ諸国がますます焦燥感にかられ,南部アフリカ問題の早急な解決を求めてくることが予想されよう。

 

3.中南米の情勢

 

(1)概    説

1969年度の中南米は反米ナショナリズムの顕著化に特色づけられ,ロックフェラー米大統領特使の中南米諸国歴訪により引き起された学生・労働者による反米デモ,チリ政府による米系産銅会社の国有化,ボリヴィア政府による米系石油会社の国有化,更に1968年度から引きつづく米系石油会社IPCをめぐる米国とペルーの対峙等にその具体的例が見い出される。

他方ブラジル(8月)ボリヴィア(9月)に政権の交替があったとはいうものの,中南米軍事政権の大部分は近年,政治経済の分野において新たに台頭してきたテクノクラットを登用し,経済安定および開発政策を推進する政権に変ぼうしつつあること,ならびに一般には,軍事政権は独裁と表裏のものと考えられがちであるが,最近の中南米の軍隊は,その中堅層に中産階級出身者が多くなってきたところから,貧困の根絶,被抑圧者の救済を旗印として,社会改革のにない手となるとの認識を持ちはじめていることは注目すべきである。

(2)主 要 問 題

(あ)米国と中南米

ロックフェラー・ニュー・ヨーク州知事はニクソン米大統領特使として1969年5月から7月にかけ中南米諸国を歴訪し,各国の指導者の意見を聞き帰国後「ラ米訪問報告書」を大統領に提出した。他方これよりさき6月貿易および援助問題に関し,中南米21カ国の米国および他の先進諸国に対する共同要望事項を盛った「ヴィニャ・デル・マル決議」が,チリ外相よりニクソン大統領に手交された。

右報告書および決議を参考に10月末日ニクソン大統領は,就任後はじめての対ラ米新政策を発表し,1970年代を「米州の進歩のための行動の10年」と名づけ,米国は中南米のパトロンではなく,パートナーたるべきことを宣言した。これに対する中南米諸国の反応はおおむね好感を示している。

(い)エル・サルヴァドル・ホンデュラス紛争

人口過密国であるエル・サルヴァドルは,隣国ホンデュラスがホ国在留のサ国国民に対し迫害を加えているとして,6月26日ホ国との国交を断絶し,7月14日には地上部隊をホ国に進めたことから両国は戦争状態に入ったが,7月29日米州機構(OAS)の調停によりサ国軍隊はホ国より撤退した。しかし本件はいまだ最終的解決をみておらず,中米共同市場の発展にかなりの阻害要因となるもの考えられる。

(う)ボリヴィアの政変

9月26日軍部による無血クーデターが勃発しシーレス大統領はチリヘ亡命,同日オバンド陸軍総司令官が後任大統領として新内閣を組織した。新大統領は直ちに左派国家主義,政治経済の大改革を標榜し,その後米系ガルフ・オイル会社の国有化,ソ連との国交再開を行なった。現在のところ国内は一応平穏な状態にあるが,その将来は対米関係と,山積している経済的困難にいかに対処していくかにかかっていると考えられる。

(え)ブラジルの政変

8月31日コスタ・イ・シルバ大統領が急病で倒れた後,陸海空三軍大臣が大統領の職務を代行した。その後大統領の早期職務復帰が不可能と判断されたため,三軍大臣はメジシ第三軍団長を次期大統領に指名し,1968年12月13日以来閉鎖されていた国会を再開して上下院合同本会議でメジシ新大統領が選出され10月30日就任した。新大統領は軍の穏健派を代表する人物といわれている。

(お)革命10周年を迎えたキューバ

中南米唯ーの共産国であるキューバは,1969年革命10周年を迎えた。カストロ政権は共産党と革命軍を2つの軸として政治権力を掌握しており,その指導体制はなお確固たるものと考えられる。他方経済面においては,1963年以来重点を農業開発におき更に1968年より主として砂糖生産の増大を指向して1970年の砂糖生産目標を1,000万トンとかかげ,国民の勤労強化と耐乏生活を求めているが,これに対する国民の不満はかなり根強いといわれる。キューバと米国の関係については,米国の対キューバ政策にはニクソン政権成立後も今までのところ,なんらの変更も見られず,近い将来変化が起る兆候もない。また中共との関係は,1966年初頭の両国論争のしこりがまだ除去されず,加うるに,1968年8月のチェコ事件を契機にキューバがソ連に接近しつつあるので,両国関係は好転のきざしをみせていない。対ソ関係については,カストロ首相は1967年以来ソ連の対外政策を痛烈に批判してきたが,上記チェコ事件ではソ連の立場を支持し,1969年1月1日の革命記念日にはソ連の対キューバ軍事,経済援助の重要性を再評価する旨の演説を行なっている。他方ソ連側では同年7月グロムイコ外相のキューバ援助演説,同7月のソ連艦隊のハバナ親善訪問,同11月のグレチコ国防大臣のキューバ訪問を行ないこれにこたえており,3年前にくらべ両者の関係は大幅に改善されている。

(か)中南米地域統合

関税障壁の撤廃と域内分業を目的として,中南米には既にラテンアメリカ自由貿易連合(LAFTA),中米共同市場(CACM),カリブ海自由貿易連合(CARIFTA)が存在しているが,LAFTA加盟国のうちアンデス諸国・すなわち・ペルー,チリ,ボリヴィア,エクアドル,コロンビア,およびヴェネズエラの6ヵ国からなるアンデス地域統合協定が,1966年8月以来検討され1969年5月右協定が成立した。(ただし,ヴェネズエラは未加入である。)また,右アンデス地域統合の金融機関たるアンデス開発公社設立協定も1970年1月発効の運びとなった。

他方LAFTAの進捗情況はかなり遅れており,その結果,当初1973年に予定されていた自由貿易地域の完成時期を,1980年まで延長することとするモンテヴィデオ条約修正議定書が1969年10月から12月にかけて,カラカスで開かれた第9回LAFTA締約国会議で採択された。

 

 

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