共産圏諸国と日本
わが国の対共産圏貿易は近年急速に増加してきたが、一九六七年はこの増勢がやや鈍化した。すなわち輸出入合計では一三億九、三五〇万ドル(通関統計。キューバおよびユーゴースラヴィアを除く)で、一九六六年の一二億八、七一三万ドルに比し、八%増加したが、わが国の貿易総額にしめる比率は、六・七%から六・三%に下った。これは共産圏向輸出が一九六七年五億二、五二一万ドルと前年比一二%の減少を示したことが大きく響いており、輸入は八億六、八二八万ドルと二六%増加している。
わが国の対共産圏貿易の国別内訳では、ソ連および中共との貿易が大きな割合をしめているが、一九六七年の対中共貿易が中共国内情勢等により一〇%の減少となったのに比し、対ソ貿易はわが国の原材料輸入の増加を反映して、一九%の増加となり、対中共貿易を凌駕してわが国対共産圏貿易中、第一位となった。
一九六七年度における目立ったでき事としては、まず対ソ関係では、同年六月民間レヴェルの日ソ経済委員会合同会議が開かれて、極東・シベリア地域の開発協力について討議が行なわれ、極東森林資源の開発、ウドカン銅鉱山開発、石油パイプライン建設及び極東港湾の拡大・強化等の問題につき専門家委員会の設立を決定したこと(森林資源の開発については同年一〇月日ソ両国の専門委員会の第一回合同会議が開かれた)、および、一九六八年一月、バイバコフ副首相兼連邦国家計画委員会議長が訪日したことがあげられる。対東欧関係では、一九六七年一二月第一回日本・ポーランド経済混合委員会が開かれ、両国間の貿易拡大および産業協力の推進について意見交換が行なわれた。また一九六八年三月には、政府は、東欧経済調査団をチェッコスロヴァキア、ハンガリーおよびユーゴースラヴィアに派遣し、これら諸国との経済関係拡大の方途につき調査せしめた。政経分離のもとに拡大してきた対中共貿易については、一九六七年は中共国内情勢の変動等不安定な要素が多かったが、六八年三月「覚書貿易」取決めが成立したことにより、LT貿易は、「覚書貿易」と改称されて更に一年間継続されることとなった。
一九六七年の日ソ貿易実績は、通関統計で輸出約一億五、八〇〇万ドル、輸入約四億五、四〇〇万ドル、入超額約二億九、六〇〇万ドル、FOB現金受払いべースでは、輸出約一億九、六〇〇万ドル、輸入約三億四、四〇〇万ドル、入超額は一億四、八〇〇万ドルであった。
一九六七年三月六日に署名された日ソ貿易議定書附属の品目表より予想された規模に比較し、輸出は五、三〇〇万ドル下まわり、達成率は七九%、これに反し輸入の方は、一億六〇〇万ドルも上まわり、達成率は一四五%に達した。
一九六七年の日ソ貿易の商品構成については、基本的変化として、一九六五年三、四〇〇万ドル、一九六六年五、〇八五万ドルにのぼった船舶輸出(それぞれの年間総輸出の二〇%および二三%を占めた)が、一九六七年は実質的にゼロになり、また一般的に機械の輸出が減ったことである。これに反し、繊維二次製品は前年に比較して一、五〇〇万ドル増加して三、四九〇万ドル(輸出総額の二二%)となった。繊維二次製品の輸入は、金額は僅かであるが革靴(一九〇万ドル)とともにソ連の革命五〇周年慶祝のための特別の輸入であるといわれた。
一方輸入の面では、顕著な変化は、商品構成そのものには変化が少なかったが、木材が五〇〇万立方メートルを超え、CIFで一億二、〇〇〇万ドル、総輸入額の四分の一を超えたことである。黒海積の原油は輸出余力の減少とスエズ運河閉鎖の関係もあって、前年の三二八万キロリットルから二四一万キロリットルに激減した(重油は一一四万キロリットルから一四四万キロリットルに若干増加している)。銑鉄は一九六六年の一〇三万トンから一四二万トンに増加、単一品目としては木材に次いで第二位を占め総額の一四%を占めた。白金、パラジウム、アルミニューム、ニッケルの非鉄金属材料が一四%に達した。また原綿が約六万トン、約三、七〇〇万ドル、と総額の約八%を占める重要な品目になってきたことは注目される。これに石炭(七%)を加えると、以上の品目で対ソ輸入総額の四分の三に達する。
一九六八年の貿易交渉は二月八日から開始されたが、前年の入超が大幅であったことも関連し、妥結までにいくたの困難が予想されている。
バイバコフ・ソ連邦副首相兼連邦国家計画委員会議長は、日本政府の招待で六八年一月一六日来日し、二月一日まで滞在、佐藤総理はじめ関係閣僚および財界首脳と会談を行ない、関東、関西の一二の工場および研究所を視察した。
同副首相は、ソ連における経済計画の立案、管理の最高責任者であり、同首相が来日して、わが国の経済の実情に触れ、政府、財界と直接の接触をもったことは、今後の日ソ経済、外交関係に極めて有益であったと考えられる。
一九六七年の日本と東欧八カ国との貿易は、総額で輸出九、九九六万ドル、輸入一億一、九三九万ドルで前年に比べ約四七%の増加であり(一九六六年の実績は前年比三四%増)、日本の貿易総額に占める比率は、一九六六年の〇・八%から一%と僅かに上昇した。しかしながら東欧八カ国を合計しても、日ソ貿易の輸出総額の六二%、輸入総額の二四%に過ぎない。
これを国別に見ると、ルーマニアが第一位で五、九三五万ドルで日本の対東欧貿易の二七%、第二位はユーゴースラヴィア四、〇五九万ドルで一九%、第三位ブルガリア三、九五八万ドルで一八%、以上の三カ国で六四%を占め、以下ポーランド三、二一八万ドル、チェッコスロヴァキア二、四二七万ドル、東独一、八三二万ドル、ハンガリー四九二万ドルおよびアルバニア一三万ドルとなっている。
東欧諸国のうちでは、近年、ルーマニア、ユーゴースラヴィアおよびブルガリアとの貿易が大幅に増大したのに対し、他の諸国との貿易は停滞していたが、一九六六年以来ポーランドよりコークス用炭の輸入が開始されたため、六七年の同国との貿易額は急増した。さらに、同国との間には、コークス用炭の長期輸入契約(一九六八~七〇年)が成立したので、両国間の貿易は今後も着実に発展するものと思われる。
なお、わが国の東欧貿易を品目別にみると、輸出は船舶を含む各種のプラント、機械、鋼材、化学品、繊維品等で、輸入は、一九六四年ころまでは農産物(とうもろこし、麦芽、採油用種子、ジャム等)が多かったが、近年は、銑鉄、非鉄金属等の比率が高くなり、一九六七年はその傾向が一層強まった。
一九六六年二月来日したトロンプチンスキー・ポーランド外国貿易大臣と三木外務大臣との間で署名された共同コミュニケ第六項に基づき、六七年一二月七日および八日ワルシャワにおいて日本・ポーランド経済混合委員会第一回会議が開催された。日本側より、鶴見外務省経済局長を団長とし、政府関係者五名および顧問として民間代表五名が、また、ポーランド側よりヴィシネフスキー外国貿易省第二局長を団長とする関係者八名が出席した。
会議では、日波貿易・経済関係を拡大するため、貿易品目の拡大、産業協力の可能性、ポーランドにおけるわが国商社の活動等の諸問題につき、活発な意見交換が行なわれた。
ボーレ連邦経済会議所会頭を団長とするユーゴ貿易使節団は、外務省の招待により、六八年一月六日より一六日までの間わが国に滞在した。
同使節団は、滞日中、三木外務大臣、椎名通産大臣、各省幹部および財界首脳者と日・ユ両国間の貿易経済関係発展の方途について意見を交換したほか、東京および関西の各地で産業施設等の視察を行なった。
政府は、東欧諸国との貿易拡大を図るため、新田義実・ソ連東欧貿易会副会長を団長とする東欧経済調査団をチェッコ、ハンガリー及びユーゴーに派遣した。調査団は、六八年三月二五日より四月一五日までの間、前記各国を約一週間ずつ訪問し、これら諸国における産業協力の実情その他わが国との貿易・経済関係発展の可能性と具体的方策につき調査した。
わが国はアジア共産圏諸国との間には外交関係を有せず、貿易は民間べースで行なわれているが、その貿易額はわが国の対共産圏貿易総計の四三%を占め、しかもそのうち九二%を対中共貿易で占めている。
一九六七年のわが国と中共との貿易は、通関統計によれば、わが国の輸出二億八、八〇〇万ドル、輸入二億六、九〇〇万ドル、合計五億五、七〇〇万ドルで、これまで上昇を続けてきたわが国の対中共貿易は本年にいたってはじめて前年に比べて一〇%の減少となった。そしてわが国の対中共貿易の総貿易額に占める比率は一九六六年の三・二%から二・五%に下った。
わが国の主要輸出品は、一九六七年において鋼材(三五・六%)、化学肥料(二二・八%、機械類(一五・二%)、繊維および繊維製品(八・七%)であり、また輸入品では大豆(一七・七%)、米(一二・六%)、石炭(五・六%)、えび(三・八%)、銑鉄(三・六%)、雑豆(三・四%)、塩(三・三%)が主なもので、そのほかにとうもろこし、くり等が挙げられる。
輸出では鉄鋼は、六六年は前年に比べ倍増の伸びを示したのに、六七年はドイツ等西欧主要国の国内不況による売込競争激化のため前年比四・一%の減少となった。また、化学肥料は数量では前年に比べ増加したが金額ではかえって減少となり、機械類も前年に比べ減少した。
このような日中貿易の減少は、一九六六年八月以降急速に激化した中共の「文化革命」の影響によるところが大きいものと思われる。すなわち六七年には「文化革命」の影響で、中共国内における生産、運輸の面に混乱が生じた模様で、その結果中共諸港における滞船、中共の各種輸出商品オファーの減少、デリバリーの遅延などの現象が起こった。また秋になると広東における混乱がはげしく、例年の秋季広州交易会は一カ月遅れて開催されたが、例年わが国の輸入取引で大きな比重を占めていた農、鉱、水産物の輸入成約が激減した。現在、「文化革命」は収束時期に入っているとも伝えられるが、生産、運輸面の混乱がどの程度まで回復したかについては、なお今後の推移を見なければならない。
一九六七年の日中貿易は、従来どおり日中綜合貿易長期取決めによる取引(LT取引)と、いわゆる友好商社取引の二本建で行なわれた。両者が六七年の貿易額に占める割合については、統計上明確に分けることは難かしいが、おおむねLT取引二八%(一億五、五〇〇万ドル)、友好商社取引七二%(四億二〇〇万ドル)と推定され、LT取引の占める比率は年々次第に低下する傾向にある。
なお、LT貿易取決めは一九六七年末で期限が切れたが、六八年三月「日中覚書貿易」と名称を変え一年間延長されることとなった。政府としては、従来どおり政経分離の原則に基づき日中貿易を拡大するという見地から、同貿易の継続を歓迎する旨明らかにしている。
六七年六月には天津で日本科学機器展が二週間にわたり開催された。
北鮮、北ヴィエトナムおよびモンゴルとの貿易は、わが国貿易総額の一%にも満たず、特にモンゴルとの貿易は九二万ドル(輸出二六万ドル、輸入六六万ドル)に過ぎない。
六七年における北鮮との貿易は、総額三、五七九万ドル(輸出六三七万ドル、対前年比二七%増、輸入二、九六〇万ドル、対前年比三〇%増)で、前年に比べ三〇%の増加となっている。わが国としては主として化学品(二五・九%)繊維品(二四・八%)、機械類(一五・六%)、鋼材(二・八%)などを輸出し、北鮮からは各種鉱産物(八四・六%)および農水産物(八%)などを輸入している。
北ヴィエトナムとの貿易は、八五〇万ドル(輸出一八二万ドル、輸入六六八万ドル)で、前年に比べ五六%の減少となった。輸出では鋼材が前年に比べ八四・一%、化学品が前年に比べ四八・二%、繊維品が前年に比べ九六・三%、機械類が前年に比べ九六・三%とそれぞれ減少し、輸出合計で前年に比べ六八%の減少となり、輸入ではホンゲイ炭輸入が前年の三六万トンから二五万トンと三四%の減少となり、輸入合計で前年に比べ三一%の減少となった。