西 欧 地 域
ブラウン外相は一九六八年一月七日から一〇日まで日本を訪問し、その間東京におい三木外務大臣との間に第六回日英定期協議が行なわれた。定期協議においては、アジアにおける両国の役割、英国軍の極東撤退、ヴィエトナム問題に平和的解決をもたらす方途の探究、その他、ヨーロッパ、中近東情勢、英国とヨーロッパ経済共同体との関係、ポンド切下げ後の英国の経済政策、南ローデシア非合法政権に対する経済制裁の問題等広い範囲に及ぶものであった。この定期協議によって、国際問題に対する両国の姿勢が類似していることに勇気づけられるとともに、世界の平和、安定および進歩を促進するため両国が引続き協力する決意が表明された。また、次回協議は両国政府によって合意される時期にロンドンで開催されることとなった。
またブラウン外相は同伴の夫人とともに、天皇、皇后両陛下に謁見、ブラウン外相は佐藤総理大臣とも会談を行なった。
第三回日独定期協議は、一九六七年五月一一、一二の両日東京で、三木外務大臣とブラント外相との間で行なわれた。
大臣レベルの会談においては、ヴィエトナム問題、中国問題等のアジア情勢、わが国の東南アジア開発協力問題、欧州情勢、核兵器不拡散条約問題、日独間の経済文化関係等の問題について意見の交換が行なわれた。両大臣は、日独間の定期協議が両国関係を相互理解と友好親善の基礎の上に発展させるのに資するところが大であり、今後もこれを積極的に進めることについて意見の一致を見た。
なお、今回の定期協議においては、大臣レベルの協議とならんで、事務レベルの協議も行なわれた。
クーヴ・ドゥ・ミュルヴィル仏外相は、一九六七年一一月二九日より一二月二日までわが国を訪問し、一二月一、二の両日、同外相と三木外務大臣との間で第五回日仏定期協議が行なわれた。
両外相間の会談における主な議題は、ヴィエトナム問題、中国問題、欧州情勢および日仏両国間経済、文化関係等であり、とくにヴィエトナム問題については、両大臣は、その平和的解決が世界の緊張緩和と平和の確立のために肝要であることを確認した。
なお、両大臣間の会談とならんで、今回も従来と同様、事務レベルの協議が行なわれた。
日仏航空協議は一九六七年八月一四日から二二日まで東京において行なわれ、次の諸点について合意を見た。
(1) 日本は、米国およびカナダを経由してパリおよびニースに至る大西洋路線の路線権を認められた。
(2) フランスは、カナダおよび米国を経由して東京に至る太平洋路線の路線権を認められた。
(3) 「カンボディア内の地点」が日仏両国の南廻り路線に、「アムステルダム」が日本の北極路線に、また、「大阪」がフランス側北極まわりおよび南廻り路線にそれぞれ加えられた。
スカンジナヴィア三国との航空協議は、一九六七年二月東京で行なわれた第一回交渉につづき、同年九月ストックホルムにおいて第二回交渉が行なわれたが、合意に達しなかった。しかし一九六八年一月三〇日から二月二日まで東京で行なわれた第三回交渉において、遂に実質的妥結を見、その結果双方の指定航空企業(日航とSAS)は北極まわり路線を週三回運航することが許可されることとなった。
オランダとの航空協議は、一九六七年一一月八日から一二月一日まで東京において行なわれた。
ドイツとの航空協議は一九六七年一二月七日から一二日まで東京において行なわれ、次の諸点について合意に達した。
(1) 北極まわり路線における便数を日独それぞれ週三便に増便する。
(2) 日本側北極まわり路線に「フランクフルト」を加える。
(3) ドイツ側南まわり路線に「名古屋」を加える。
(4) ドイツ側路線の以遠権(これまで二地点)を一地点にする。
日英航空協定にもとづく両国航空当局間の協議は、一九六七年一一月一〇日より一七日まで東京において行なわれ、日本側代表林運輸省航空局審議官と、英国側代表グディソン商務省航空局次長との間で合意書に調印が行なわれた。合意の主な内容は次の二点である。
(1) 日本航空の東京-香港-シドニー線を英国側が認める。
(2) 英国海外航空(BOAC)が北廻りで欧州から東京に乗入れることを日本側が認める。
この交渉によって、長年の懸案であった日本航空のシドニー乗入れが実現することとなった。
イタリアとの租税条約の第一回交渉は、既に一九六四年九月から一〇月にかけてローマで行なわれたが、これに続く第二回交渉は一九六七年一一月二〇日より二九日まで東京で行なわれ、同月二九日仮署名が行なわれた。
一九六六年五月ブラッセルで行なわれた第一回交渉に引き続き、一九六七年四月一七日より二四日まで第二回交渉が東京で行なわれ、同二四日に仮署名が行なわれた。署名は、一九六八年三月二八日東京で三木外務大臣とユッペール在京ベルギー大使との間で行なわれた。
一九五九年に発効したデンマークとの間の租税条約の改正交渉は、一九六七年七月一七日より二四日までコペンハーゲンにおいて行なわれ、その結果新たに全面改正条約が作られ、同二四日に仮署名が行なわれた。署名は、一九六八年二月三日東京で三木外務大臣とシュトフェン・アデラー在京デンマーク大使との間で行なわれた。
一九五九年に発効したノールウェーとの間の租税条約改正交渉は、一九六六年一一月に東京で行なわれ、全面改正条約に仮署名が行なわれていたが、同条約の署名は、一九六七年五月一一日オスローでリュング・ノールウェー外相とわが方福田臨時代理大使との間で行なわれた。
ブラウン英外相は夫人同伴、第六回日英定期協議に出席するため、一九六八年一月七日から一〇日まで来日した(本号一九二頁参照)。なお夫人は一三日まで滞在し、関西方面にも旅行した。
マクミラン元英首相は一九六八年二月二八日令孫を伴い非公式に来日し、三月一日まで東京に滞在した。