北 米 地 域

 

1 佐藤総理大臣の訪米とその成果

佐藤総理大臣は一九六七年の夏から秋にかけて韓国および中華民国を訪問し、さらに東南アジア諸国および豪州・ニュー・ジーランドを歴訪したが、これらの訪問を通じて得た印象を基礎にして、二月一四日および一五日のワシントンにおけるジョンソン米国大統領との会談にのぞみ、アジアの情勢および国際情勢全般を討議し、日米間の懸案を論議した。この訪問に先立ち、九月にワシントンで開催された第六回日米貿易経済合同委員会もいろいろな面で佐藤総理訪米の成果をおさめるのに役立った。ヴィエトナム戦争の難局を抱えている米国側は、総理の来訪を大いに歓迎し、また米国の世論もこの訪問をかつてない大きな関心をもって注目し、米国の報道機関もこぞってこの訪問に関する報道を行なった。佐藤・ジョンソン会談の結果、日米両国にとり有益な意見の交換が行なわれ、理解が深められたというだけでなく、近年日米間の最大の懸案となってきた沖繩・小笠原返還問題についても大幅な進展がみられた。日米共同コミュニケにも示されている通り、沖繩・小笠原問題につき、佐藤・ジョンソン会談の成果は次の四点に要約される。

すなわち

(1) 沖繩について、沖繩の施政権をわが国に返還するとの方針のもとに、日米両国政府間で今後沖繩の地位について共同かつ継続的な検討を行なうことになったこと。

(2) 日米両国政府は、沖繩返還の際の摩擦を最小限にするため、沖繩の住民とその制度の日本本土との一体化を進め、沖繩住民の経済的および社会的福祉を増進するために、那覇に琉球諸島高等弁務官に対する諮問委員会を設置することになったこと。

(3) 日本政府南方連絡事務所が、高等弁務官および米国民政府と共通の関心事項について協議しうるようにするために、その機能を拡大することになったこと。

(4) 小笠原諸島の日本への早期復帰をこの地域の安全をそこなうことなく達成するための具体的な取決めに関し、日米両国政府が直ちに協議に入ることとなったこと。

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2 沖繩問題についての具体的進展

(1) 日米琉諮問委員会の設置

(イ) 佐藤・ジョンソン会談の結果(前記1(2)参照)にもとづき、一九六八年一月一九日外務省において日本側三木外務大臣と米側ジョンソン駐日大使との間で、同委員会の組織および任務に関する書簡の交換が行なわれ、ここに同委員会は正式に設置された。

(ロ) 諮問委員会は、日米琉三政府がそれぞれ任命する三名の委員をもって構成される常設機関であり、沖繩の経済、社会体制の本土との一体化の促進、および沖繩の経済、社会、福祉等の向上のため、高等弁務官に対しその権限内の経済的、社会的および関連事項について、助言と勧告を行なうことを目的とするものである。

(ハ) その後日米琉三政府はそれぞれ左記の者を代表として任命し、三代表は三月一日那覇において第一回会合を開催し、毎週火曜日および金曜日に会合を継続的に行なうことを決定したが、同委員会は早くも同月一一日の第四回会合において、高等弁務官に対し、本土・沖繩の一体化促進上の諸問題につき現地調査を行なう日本政府一体化調査団の派遣に関する勧告を行なうなど、活発な活動を続けている。

諮問委員会代表

日本政府代表  高瀬 侍郎 (前駐ビルマ大使)

米国政府代表  ローレンス・C・ヴァース (前在京米国大使館公使)

琉球政府代表  瀬長  浩 (前中部精糖社長)

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(2) 在那覇日本政府南方連絡事務所の機能拡大

(イ) 従来、在那覇日本政府南方連絡事務所の機能は、米国政府機関との関係においては、沖繩に一時的に滞在している日本国民の保護、本土と沖繩の間の貿易、文化交流等に関する一三項目にわたる事務並びに渡航文書の発給および移住関係事務に関する現地米国行政機関との連絡に限られていた(「わが外交の近津第十一号一五六頁参照)。

(ロ) 佐藤・ジョンソン会談における合意(前記1(3)参照)に基づき、一九六八年二月二日同事務所の機能の拡大を確認する口上書を外務省が在京米国大使館との間で交換された。

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(3) 沖繩に関する協議委員会

沖繩に関する日米協議委員会第一三回会合は、一九六八年一月一一日外務省において開催され、日本側から三木外務大臣および田中総務長官、米側からジョンソン駐日大使が出席したが、合意が成立した事項は次項(4)の対沖繩援助である。

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(4) 対 沖 繩 援 助

(イ) 前記日米協議委員会第一三回会合で合意された日本政府の昭和四三年度対沖繩援助計画(この内容が日本政府予算に計上され、当該予算が成立した時点において正式に確定する)は、総額一五三億七、七一七万六千円で、前年度予算額に比し五〇億二、四四〇万八千円の増額になっており、これは琉球政府の一九六九会計年度(昭和四三年七月~四四年六月)中に支出されることとなるが、日琉間の会計年度の相違を考慮して、一一二億八、二六六万九千円は日本政府の昭和四三会計年度に計上され、残額四〇億九、四五〇万七千円は昭和四四会計年度中に支出されることになっている。

(ロ) 四三年度対沖繩援助計画は、一九六七年一一月の日米首脳会談による共同声明の趣旨に即し、日米両国の相互理解と協力のもとに、沖繩の住民とその制度の日本本土との一体化を進め沖繩住民の経済的および社会的福祉を増進するため緊要にして効果的な諸措置を実現することを基本として策定されたが、実際の計画予算額においては、特に社会福祉および医療関係、国土保全および開発関係並びに文教関係に重点が置かれているほか、新規主要事業として、次のものが計上されている。

(i) 琉球大学保健学部の設置

(ii) 義務教育諸学校の整備充実

(iii) 新那覇病院の建設

(iv) 生活保護、福祉年金に対する援助の充実、拡大

(v) 那覇新港の建設

(vi) 産業開発、住宅建設に対する長期低利の融資制度の創設

(vii) 畜産の振興、天然ガス開発調査、経済開発研究所の開設

(viii) 市町村交付税強化のための新規援助

(ix) 那覇市民センター、海員学校、警察学校等の建設

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3 小笠原問題についての具体的進展

(1) 従来政府は、小笠原施政権返還問題は、平和条約第三条地域として同一の地位にある沖繩の施政権返還問題の一環として、米側に対しその実現に努力してきたが、一九六七年一一月の佐藤・ジョンソン会談の結果(前記1(4)参照)に基づき、日米両政府間で交渉が行なわれた結果、一九六八年四月五日東京において、三木外務大臣とジョンソン米大使との間で小笠原返還協定の署名が行なわれた。

(2) この協定は正式には「南方諸島およびその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」と呼ばれ、前文と六カ条の条文から成る。その要旨次のとおり

(イ) 米国は、南方諸島及びその他の諸島に関し、平和条約第三条の規定に基づくすべての権利及び利益を協定発効の日から日本国のために放棄し、日本国は、これらの諸島の領域及び住民に対する行政、立法及び司法上のすべての権力を行使するための完全な機能及び責任を引き受ける。

(ロ) 米国が現に利用している南方諸島及びその他の諸島における設備及び用地は、硫黄島及び南鳥島にあるロラン局施設用地(長距離電波航法施設)を除き、日本国に引き渡される。

(ハ) 日本国は、米国の施政期間中にこれらの諸島において生じた対米請求権を放棄するが、この放棄には、これらの諸島の米国の施政期間中に適用された米国の法令又はこれらの諸島の現地法令により特に認められる日本国民の請求権の放棄は、含まれない。

(ニ) この協定は、日本国がこれを国内法上の手続に従い承認した旨の通報を米国政府が受領した日の後三十日目に効力を生ずる。

(ホ) 今回の協定によりわが国に復帰することになる「南方諸島及びその他の諸島」とは、孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む)並びに沖の鳥島及び南鳥島をいう。

(3) 今回わが国に復帰する島々のうち硫黄島は、太平洋戦争の過程において日米間で最も激しい戦いが行なわれ、日米双方とも多数の戦没者を出した地の一つである。特に米国は戦後この硫黄島の摺鉢山の頂上にこの戦いで戦った海兵隊のための記念碑を建立しており、この記念碑を硫黄島に対する日本の施政権復帰後も存置しておきたいとの強い国民感情がある。政府としては、この米国の国民感情も理解できるので、この米国の記念碑とともに、祖国のために米兵に劣らず勇敢に戦ったわが国の兵士のための記念碑が摺鉢山頂に建立され、これら二つの記念碑が両国永遠の平和を願い、かつ、両国勇士の勇敢と献身を記念するものとして、この地に長く残されることを念願している。

かかる日本政府の意図は、協定署名の際外務大臣からジョンソン大使に書簡により表明された。

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4 日米科学委員会

(1) 「科学協力に関する日米委員会」は、一九六一年の池田総理・ケネディ大統領共同コミュニケにもとづき、平和目的のための日米両国間の科学協力関係を円滑ならしめる方途を探求し、その結果を両国政府に報告ないし勧告することを目的として設置されたものであり、同委員会は、日米両国とも学識経験者および政府職員を委員として、毎年一回日本もしくは米国で年次会合を開催し、前記目的達成のため、検討を行ない、かつ必要に応じて勧告を行なってきている。なおこれまでに七回委員会の会合が開催された。

(2) 本委員会第七回会合は、一九六七年七月五日から八日まで東京(外務省講堂)において開催された。日本側よりは兼重寛九郎委員代表以下二九名が、また米側よりはケリー委員代表以下一一名がそれぞれ出席した。

  本会合においては、本委員会発足以来六年間に推進してきた協力事業を検討するとともに、この協力事業が科学の進歩および国際的な親善と理解に引続き顕著な貢献をすることを信じて、委員会の現在の活動とともに日米間の科学協力促進のため将来果すべき役割りについて討議を行なった。更に現在設置されている八つの協力分野における専門分科会の活動を検討し、また、前回会合において提案された新分野についての両国専門家による検討の状況について報告を受け、それをさらに継続して検討することに合意した。

(3) 第八回会合は、一九六八年七月に米国ワシントンで開催する予定になっている。

(4) なお、現在まで委員会の勧告にもとづき、(イ)人物交流、(ロ)科学情報および資料の交換、(ハ)太平洋地域の地球科学、(ニ)生物科学、(ホ)医学、(ヘ)科学教育、(ト)ハリケーンと台風に関する研究、(チ)農薬に関する研究、の八つの協力分野が設けられ、多くの協力研究、会合、等が行なわれている。また新協力分野として、物性物理学、数理経済学、都市工学、細胞生物学、日本とペルーとの間の古代における接触の研究、等についても専門家により検討されている。

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5 日米医学協力委員会

(1) 一九六五年一月佐藤総理訪米の際、ジョンソン大統領との間で、医学面における協力計画を大いに拡大すること、並びにその実施のため、日米両国の第一級の医学者からなる会議を招集することが合意された(共同声明)。

これを受けて、同年四月準備会議が開催され、主としてアジア地域にまん延している疾病について基礎的な医学面での研究を日米共同で行なうことを目的として、日米医学協力委員会が設置された。また、本委員会は、協力計画の対象として、(イ)コレラ、(ロ)結核、(ハ)らい、(ニ)ウィルス性疾患、(ホ)寄生虫疾患(日本住血吸虫症及びフィラリア症)、及び(ヘ)低栄養、の六疾病をとりあげ、専門部会を設けている。

委員会は、本協力計画の推進のため、及び研究活動の促進、検討のため、毎年一回(又はそれ以上)日本もしくは米国で会合することになっており、これまで三回会合した。

(2) 本委員会第三回会合は、一九六七年七月二九日米国カリフォルニア州パロアルト市において開催され、各専門部会長の研究活動の報告と将来の計画についての説明にもとづき討議し、かつ本協力計画全般の目的との関係を検討し、研究計画の優れた内容と、日米両国における学術研究の急速かつ有効な進歩に対し大きな満足の意を表明した。第四回会合は、一九六八年八月五日に始まる週に日本において開催することが合意された。

第三回会合には、日本側より黒川利雄委員長以下二〇名が、米側よりコリン・M・マクラウド委員長以下二八名が出席した。

なお、両国委員は、右会合直前に同じ場所で開催されたコレラおよび寄生虫疾患の両日米合同部会会合に出席し、研究発表および討議をつぶさに傍聴した。

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6 日米安全保障協議委員会の開催

日米安全保障条約に基づいて、日米間の安全保障上の連絡協議の一機関として設けられた安全保障協議委員会第七回会合が、一九六七年五月一五日外務省で開かれた。日本側からは三木外務大臣および増田防衛庁長官、米側からはジョンソン駐日大使およびシャープ太平洋軍司令官が出席し、また各委員を補佐するため両国の関係者が列席した。

会議においては、主として極東における日本と米国との共通の安全上の利害に関連する最近の国際情勢について意見を交換し、また日本の防衛に関連する諸問題について討議が行なわれた。

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7 地対空誘導弾の調達と国産に関する取決め

わが国が第三次防衛力整備計画において整備増強すべき地対空誘導弾(ナイキおよびホーク)の調達(有償軍事援助)および国産に関する日米間の取決め交渉は、一九六七年六月より行なわれてきたが、一〇月に至り両者間で最終的な了解をみるに至ったので、同月一三日三木外務大臣とオズボーン駐日アメリカ臨時代理大使との間でこの了解の基本的事項に関する書簡が交換され、また同日、右書簡に基づく覚書が防衛庁代表および米国防省代表の間で署名された。

本件取決めの概要は、第三次防衛力整備前面において増強、整備ないし準備される予定の地対空誘導弾部隊計画実施のため、所要装備、器材、技術資料などを米国から有償で調達し、また、それらを部分的に国産化するための合意であり、これによりわが国の防空警戒態勢は一層強化されることとなろう。

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8 米国原子力水上軍艦の本邦寄港

エンタープライズなど米国の原子力水上軍艦が、去る一九六五年一一月第七艦隊に配属された際に、米側より非公式に、将来これら艦艇の本邦への寄港が必要となるかも知れない旨連絡があったが、その後一九六七年九月七日、米側より原子力水上軍艦を乗組員の休養ならびに艦艇の補給および維持を目的として本邦に寄港させたい旨正式に申入れがあった。政府は安全性などにつき慎重に検討の上、同年一一月二日、米側に対し、原子力水上軍艦の寄港に異議ない旨通報し、またその旨公表した(同年一一月一日原子力委員会も本件寄港が寄港地周辺住民に危険をもたらすことはないとの趣旨の見解を発表した)。

なお、原子力空母エンタープライズは、原子力フリゲート艦トラックストンを随伴し、一九六八年一月一九日から同二三日までの間佐世保に最初の本邦寄港を行なった。

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9 要 人 の 往 来

(1) 三木外務大臣の訪米

三木外務大臣は第六回日米貿易経済合同委員会ならびに第二二回国連総会に出席のため、一九六七年九月一〇日より二五日までの間訪米した。

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(2) 米国のマンスフィールド上院議員の来日

マンスフィールド上院民主党院内総務は、九月一四日より一七日まで伊豆下田において開催された日米関係民間人会議出席のため来訪した。

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(3) 米国のウォーレン米最高裁判所長官夫妻の来日

ウォーレン最高裁長官夫妻はわが国最高裁判所発足二〇周年記念にあたり、九月二日より一一日まで最高裁の賓客として来訪した。

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(4) 佐藤総理大臣の訪米

佐藤総理大臣は一一月一二日より二〇日まで訪米し、その間ジョンソン大統領、ラスク国務長官、マクナマラ国防長官らと会談を行なった。

なお今回の総理訪米には三木外務大臣、木村官房長官が同行した。

訪問地は、シャトル、ワシントン、ニュー・ヨーク、スプリング・フィールド、シカゴおよびホノルルであった。

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(5) 三木外務大臣の訪加

三木外務大臣は一一月一六日より一八日までカナダを訪問、ピァソン首相ならびにマーティン外相と会談を行なった。

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(6) 米国のユージン・ロストウ特使の来日

ユージン・ロストウ米国務次官はジョンソン大統領の特使として、ドル防衛計画に関する米国の国際収支政策に対するわが国の理解を求めるため、一九六八年一月二日来日、翌三日佐藤総理と会談した。

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