一 世界の動き
一九六七年四月から一九六八年三月までの一年間の世界の動きの特徴は、国際情勢の基本的決定要因である東西関係や、米、ソ、中の相互関係には、基本的変化はなかったが、種々の国際懸案、とくにヴィエトナム問題、中共の文化革命、共産圏とくに東欧における多極化現象、国際流動性問題などにおいては、注目すべき発展、とくに長期的にみれば重要な意味をもつと思われる新しい情勢の発展がみられたことであったといえよう。
東西関係については、一九六七年二月頃より、ドイツ(西)の新東方政策に対し、ソ連が、東欧における東独の地位の相対的低下、ワルシャワ条約体制の弛緩、ソ連の対東欧影響力の低下等を恐れてブレーキをかけたこと、ヴィエトナム和平工作の不調、核兵器不拡散条約に対するドイツ(西)国内の反発と、これに対する東側の対独警戒心の高まりなどの動きがみられた一方、ドイツ(西)の新東方政策が若干の成果をあげ、また中東問題、核兵器不拡散条約交渉等を通じて、米ソ間の共存関係が再確認される事態がみられた。
中共の文化大革命は、実権派打倒の運動が造反派同志の対立、「武闘」を生じ、七月の「武漢事件」に象徴されるような中央の意図せざる事態の到来と、交通、鉱工業生産の混乱を招くに及び、一応劉・トウ派追放の目的を達した毛・林派は、文化大革命の収拾を図り始めたものと考えられ、各地に次第に急ピッチで革命委員会が成立するに至り、当面最大の問題は党組織の再建と目されるに至った。
この問対外的には、ビルマのネ・ウィン政権非難の声明、英大使館焼打ち事件等、異常ともいえるほどの強硬態度がとられ、文化大革命が収拾に向かうとともに、かかるはね上り的態度も鎮静化はしたが、この期間を通じ、中共はますます国際的に孤立化した。
ヴィエトナム戦争は、この期間中、戦闘自体の規模、および戦争の影響するところは飛躍的に拡大した。
六七年初頭の和平への摸索が不調に終わったあと、北ヴィエトナム側の大量南下、連合軍側の反撃、北爆の強化と、戦闘は次第に拡大したが、これは、米国内におけるヴィエトナム戦争是非をめぐる論議の活発化をもたらし、折柄重大化してきた米国国際収支の悪化と相まち、やがて、テト攻勢を経て、ついにジョンソン大統領の和平提案が行なわれるに至った。
ソ連では、革命五〇周年が祝われ、五〇年の成果、なかんずく国民の生活水準向上が誇示されたが、東欧において、ルーマニアが、ブダペストで開かれた世界党会議準備のための共産党・労働者党協議会議を中途で離脱する等、ますます自主独立の態度を鮮明にし、また世界党大会開催の決定にこぎつけたとはいえ、二月のブダペスト協議会では、共産諸国の半数が出席したに過ぎず、ソ連の共産圏における影響力の低下が目立った。
さらに六七年末から始まったチェコ内の自由化の動きは、人事の一新、極めて大胆な自由化、民主化をうち出した「行動綱領」の採択にいたり、東欧諸国の自由化、イデオロギー上の弛緩、ソ連の影響力の低下は、今後のヨーロッパにおける東西関係に大きな影響を与え得るものと考えられる。
国際経済の分野では、六七年五月にケネディ・ラウンドが、当初の構想より後退したとはいえ妥結したことは、世界貿易の促進の見地から歓迎すべきことであったが、他方国際金融の面では、ポンドの切下げ、金の二重価格制採用に至った事情が、戦後の自由世界経済の繁栄の一つの大きな基盤であったIMF体制の再検討を余儀なくしており、今後、国際通貨体制が安定化するか否かは、結局は米国の国際収支改善およびそれを前提とした国際協力にかかっているといえよう。
一九六八年二月から三月にかけて、ニュー・デリーにおいて、参加国一二一カ国、代表団約二千名という南北問題の最大の国際的会議である第二回国連貿易開発会議(UNCTAD)が開かれた。これに先立ち、六七年一〇月、低開発国七七カ国グループは、アルジェに集まって、低開発国の貿易開発に関する要望を一まとめにしたアルジェ憲章を採択し、第二回UNCTADでは、低開発国側は同憲章を楯に厳しい要求を出した。国際通貨不安等の国際経済環境の悪化等も反映して、会議は終始難航したが、特恵実施、援助増大等について基本的合意が得られたことは大きな成果といえる。未解決の諸点については、今後の検討に委ねることとして会議の収拾が図られた。
まず、米・ソ関係については、ヴィエトナム紛争の激化につれてソ連の対米非難が強まる一方、グラスボロ会談、核兵器不拡散条約交渉等、両国の相互理解関係が再確認されるような動きも見られた。ヨーロッパにおいては、東側陣営内部の引き締めの努力にもかかわらず、ドイツ(西)の新東方政策が少しずつ成果を挙げ、かえって東欧内部には自由化の新しい傾向が起こっている。
1 米・ソ関係
グラスボロにおける米・ソ首脳会談(六月二三日および二五日)は、とくに具体的問題の解決をもたらさなかったとはいえ、両国首脳が直接会して意見を交換したという点で有意義であったと考えられる。ジョンソン大統領は六八年一月一七日の一般教書の中で、とくに米・ソ関係に触れ、「私はコスイギン首相と長時間会談し、両国の立場について、合意ではないにせよ、少なくともより明確な理解を得た」と述べている。
米・ソ両国は、核兵器不拡散条約の成立に変わらぬ熱意を示し、年間通じて行なわれた一八カ国軍縮委員会(ENDC)では、両国間にかなりの意思疏通が行なわれた模様であり、条約交渉の大勢は中東紛争、ヴィエトナム紛争によっても何ら影響を受けなかった。かくして、八月二四日、ENDCに対して米ソ案(但し、保障措置に関する条項を空白にしたまま)が提出されるに至った。右草案および保障措置問題に関しては、非核兵器国側から不満ないし意見が多々表明され、米・ソはそれら諸国の要求を多分に容れざるを得なかった模様であるが、六八年一月一八日の米・ソ改訂案(保障措置に関する条項を含む)を経て、三月一一日に再修正案が提出された。
(ENDCは三月一四日右再改訂案を付属とする報告書を採択し、その後これを国連総会に提出した。この結果、国連総会は四月二四日再開され、本件審議が行なわれることとなった。)
米・ソ間の実務面の接触は、前年に引続き維持され、米・ソ民間航空の相互乗り入れに関する交渉も、最後の技術的問題の検討を終了し(六七年一一月二九日、国務省発表)、また一〇月七日には宇宙天体条約の批准書寄託が行なわれたほか、秋の国連総会では、宇宙飛行士保護に関する条約ができ上った。
中東紛争をめぐり、ソ連はアラブ側が不利であると見ると、即時停戦決議案(六月六日、国連安保理)で妥協的態度を示し、また、撤兵ラインの問題(一一月、国連安保理)でも柔軟な態度を示したが、他方、事件勃発直後に東欧諸国を招集してアラブ支持を取りつけ、また対アラブ武器援助を強化する等、硬軟両面の態度に出ている。
ヴィエトナム戦争は、この一年間、拡大の連続であり、とくに八月以降は北爆が激化され、米上院は、ハイフォン港封鎖を含む北爆強化を勧告するに至った(八月三一日)。一方、ソ連は、社会主義陣営を代表して北ヴィエトナムの和平条件を終始支持し、対北ヴィエトナム軍事・経済無償援助協定を締結した(九月二三日)。
軍事面では、六七年秋になって、ソ連がヘリコプター用航空母艦の建造に着手したとの情報が伝わり、また一一月三日にはマクナマラ国防長官が、ソ連の部分軌道爆弾体系(FOBS)実験に関する演説を行ない、さらに一二月のNATO閣僚理事会のころにはソ連の地中海艦隊強化の動きが目立つ等、東西の軍事バランスに触れるような動きが注目された。懸案のミサイル迎撃ミサイル(ABM)凍結問題についても、現在までのところ、米・ソ間に何らかの合意が成立したとは考えられていない。
2 東西両欧関係
次に、ヨーロッパでは、ドイツ(西)の「新東方政策」が維持され、チェッコスロヴァキアとの通商代表部設置(八月三日)、ルーマニアとの技術・経済協力協定(八月四日)、ユーゴースラヴィアとの外交関係回復(六八年一月三一日)などの成果を挙げた。他方フランスについては、ド・ゴール大統領がポーランドを訪問し、東西緊張緩和に関し同国首脳と会談した。フランスは、対東欧政策に関して従来から独自の構想を持っており、一二月のNATO閣僚理事会において、東西緊張緩和の促進等NATOの政治的使命を謳ったいわゆるアルメル計画についての討議が行なわれた際にも、米国その他の諸国が各国の対東欧緊張緩和政策をNATOの場で調整することを主張したのに対して、フランスは、東西緊張緩和を二国間方式で推し進めるという立場をとり、NATO諸国も結局これを承認することとなったと伝えられる。
NATOは、五月および一二月に閣僚理事会を開き、在独・米英軍の一部引揚げを承認し、またフランスも六八年三月までに在独軍の一部引揚げを行なうなどの措置をとった。これらの措置は、第一義的には、米・英の財政的考慮から出たものであるとはいえ、欧州における緊張緩和を背景とするものであったといえよう。しかし、他方同閣僚理事会においては、東欧におけるソ連軍事力の現状には何らの変更もないとの認識の下に、軍事同盟としてのNATOの必要性は変わりないという点も再確認されている。(「西欧の情勢」の項参照)
一方、東側は、三月の「鉄の三角形」形成に引き続き、機会あるごとに「ドイツ軍国主義・ネオナチズムの復活」警告を発している。顕著な例としては、欧州共産党会議(四月二四日~二六日)、友好協力相互援助条約網の整備(四月~九月)、ソ連の対独非難覚書送付(一二月八日)等である。このような東側の動きの主な理由は、東欧の結束の弛緩を憂慮するソ連と、孤立化を恐れる東独の抵抗であり、事実、東独は、一二月一六日、ヴィンツァー外相をユーゴースラヴィアに派遣して、独・ユ外交関係回復を阻止せんとしたと伝えられる。
しかし、他方ソ連・ルーマニア友好協力相互援助条約について、ルーマニア側が、同条約の反独的条項に不満をいだいているという報道もあり、また、六七年一二月から六八年三月にかけてのチェコにおける自主化の動きの中で、「ドイツの現実的な政権との関係」に言及されるような事態が存在することは注目されている。
一月のソ連首脳のポーランドおよび東独訪問(一二日~一六日)、三月のワルシャワ条約機構政治諮問委員会(六日~七日)およびドレスデン会議(二三日)等は、いずれも六八年初めから三月までの東欧諸国における流動的な事態と関係があるのではないかとも考えられている。
なお東側は、ヨーロッパにおける両軍事ブロックの対立を解消する方策として、欧州安全保障会議の開催を機会あるごとに提案しているが、今までのところ西側で真剣にとり上げられるに至っていない。
3 米国と中共の関係
次にアジアにおいては、米国と中共とが、ヴィエトナムをめぐって対立しているが、中共は元来「米帝国主義は張り子の虎」との考えを捨てておらず、また、ヴィエトナムにおいて人民戦争理論を適用するよう主張しており、その「抗米救国闘争支持」の立場は極めて強固である。さらに中共は過去一年間に、二回(六月と一二月)の核爆発実験を行なっている。
このような中共に米国は警戒をゆるめておらず、マクナマラ国防長官は九月一八日(UPI通信社の編集者・発行者会議における演説)、対中共ABMの決定を公表し、さらにこの決定の背後にある米国の中共観を、ラスク国務長官は、一〇月一二日の記者会見で、「今後一〇年か二〇年のうちに、中国大陸には核武装された一〇億の人間が現われることになる。アジアの自由諸国の人々は、中国人によって席巻されるのを好まない。今後長期的な平和を確保するためには、アジアの自由諸国が相互に助け合い、団結し、安全で進歩的かつ安定した制度をもった相互協力を進めねばならない」と述べた。
なお、アジアでは、六八年一月に入って、米国の情報収集船プエブロ号だ捕事件により緊迫した空気が現われたが、その後アメリカ側の慎重な態度により大事には至っていない。(詳細は「アジアの情勢」を参照)
1 中共の動向
一九六六年八月に開かれた中国共産党第八期中央委員会第一一回全体会議以後、中共全土にわたって展開されたいわゆる「プロレタリア文化大革命」(以下文革と略称)は、社会、政治、経済、治安にわたる従来の秩序を混乱に陥れた。とくに一九六七年一月上海に起こったいわゆる「一月革命」を契機として、「奪権」(権力奪取)闘争が進められることとなり、従来中共の権力中枢を構成していた中国共産党が、人事、組織、指導の各面でその権威を失墜したが、党中央は主に軍の治安維持力に頼ることによって、あくまで文革の徹底化をはかった。
各地における奪権闘争とならんで六七年三月末から大々的に展開された「党内最大の資本主義の道を歩む実権派」(劉少奇を指す)批判のキャンペーンは、劉少奇、トウ小平らの最高指導者をもあえて打倒するという党中央、とくに毛沢東の断固とした決意を示すとともに、奪権闘争および文革そのものを更に深く繰り拡げようとする政策の表明でもあった。
しかし、(1)大衆運動の行きすぎ、とくに彼らの活動が幹部批判に向けられた際の暴走ぶりが目立ち始めたこと、(2)また文革の支柱となった、しかも治安維持を担当すべき軍隊が大衆組織の暴走を抑えるに足る能力を発揮しえず、また大衆組織間の派閥闘争にまきこまれる(一九六七年七月の武漢事件)など、その任務を有効に達成しえなかったこと、(3)これら政治的混乱が経済とくに工業、交通運輸の分野にも波及し、経済活動が停滞しはじめたこと等、文革が必ずしも党中央の当初の意図に沿って行なわれなかったことは確実である。
毛沢東もかかる現状を認識し、同年八月末に至って文革の基調を「破壊」から「建設」ないし「収拾」に転ずべく指示を出した。その結果、(1)「奪権」「造反有理」といった戦闘的スローガンに代わって「大連合」「闘私批修」といった穏健なスローガンが支配的となり、大連合、革命委員会の結成と、それに基づく支配、統治機構の再建が急がれることになった。(2)王力、関鋒(さらに六八年一月には戚本禹)ら、文革の中で急速に抬頭してきたイデオローグが次々と失脚し、反面、李富春、李先念、陳毅らいわゆる行政官僚グループの権威回復が行なわれるに至った。(3) 従来批判の対象であった党員幹部の多くが名誉を回復されるとともに、今や軍とならんで「革命委員会」等の指導機構に参加し、指導力を発揮することになった。(4)「紅衛兵」「造反派」といった大衆組織の活動が抑えられ、しかも、彼らの革命委員会に対する批判活動は、大衆組織間の派閥闘争とともに「無政府主義」的傾向としてきびしく糾弾され抑圧されるに至った。(5)文革以来活動を事実上停止した党組織の再建問題が取り上げられるに至った。
六八年元旦の紅旗、人民日報、解放軍報の三紙共同社説は、同年の活動指針として、(1)毛思想学習運動の展開、(2)革命委員会の成立促進、(3)党組織の再建、(4)軍民関係の緊密化、(5)経済活動の促進、の五項目を掲げたが、これは前記毛沢東指示以来の文革収拾政策を確認し、同年も更にこの政策を推進する構えを表明したものとみられ、一月から三月までの中共国内の動きは、右の五項目の政策を実施するための努力とみて差支えないしと思われる。
しかし、これら収拾工作にもかかわらず、中央、地方を問わず、混乱と動揺は今もなお続いており、今後党中央が全国に対するその支配力を強めていくためには、これらの混乱を収拾するとともに、党中央に忠実な支配機構を全国的に確立し、また国民生活と密接な関連を有する経済活動に力を入れることが必要であると思われる。この時期における中共外交は大きくいって、二つの段階に分けることが可能である。
(1) 文革開始以来、英国大使館に対する襲撃事件の起こった一九六七年八月まで。この時期には、正確に「外交」というには余りに異常ないわゆる「造反外交」が支配的であった。中共外交部は、陳毅外相を筆頭として、奪権闘争、幹部批判の渦中でその活動を殆んど停止した。反面、在外華僑および中共人は文革に刺戟されて、各地で現地人および政府との間に紛争を引起こしたが、文革下の中共はこれをむしろ積極的に支援する、という八方破れの外交を展開した。この間において、ビルマ、カンボディア、ネパール、ケニア等の中立諸国との関係が悪化ないし冷却化するとともに、各国は中共に対して強い不信感を抱くこととなり、中共外交はきわめて大きな痛手を被った。
(2) しかし、英国大使館に対する襲撃事件以来、中共首脳もようやく外交の正常化に乗り出した。このような外交政策の転換は、内政面における文革収拾への動きと軌を一にしており、陳毅外相をはじめとする外交担当官が名誉を回復され、外交部の機能も回復してきた。
しかしながら、中共は当面なお国内政治に忙殺されており、外交問題に中共が本格的に乗り出してくるまでにはなお時日を要すると思われる。
2 中 ソ 関 係
中共の文化革命の過程で悪化の度を深めた中ソ関係は、六七年二月に断交寸前の険悪な局面に達したが、その後も中ソ対立は膠着したまま改善の兆候は見られない。中共は攻撃の対象を「ソ連修正主義指導集団」に、ソ連は「毛沢東グループ」に限定してはいるものの、双方とも相手方をもはや共産主義者とは認めず、反革命とまで非難するに至っている。中共は、六七年一一月のソ連革命五〇周年に際する記念論文で、「一握りのソ連党内の資本主義復活の道を進む実権派が党・政府をかすめとり、ソ連は変質してしまった」と非難したほか、ソ連を「反革命、反共」、ブルジョア独裁」などと攻撃しており、他方、ソ連のブレジネフ書記長は、六七年九月、ブダペストにおける演説で、「毛一派が文化革命と名づけているものは反革命と呼ぶべきものであり」、「プロレタリア国際主義を無視し、偏狭な民族主義をとり、分裂工作によって敵を助けるものは共産主義者ではない」と中共を非難した。ヴィエトナム和平問題については、ソ連を「米国の第一の共犯者」とする中共は、米国は「ソ連修正主義裏切り者集団の密接な呼応と大々的援助の下に」「和平交渉のペテンをもてあそんでいる」との非難を行なった。
このような中ソ対立を背景に、ソ連は世界共産党会議早期開催への工作を進め、六七年一一月のソ連革命五〇周年記念式典に中共、アルバニア等一部中共派を除く各党首脳がモスクワに参集した機会に、世界党会議準備のための協議会開催について下工作を固め、一一月末、六八年二月にブダペストにおいて、一九六〇年一一月のモスクワにおける世界党会議に参加した八一党の代表による協議会を開くことを発表した。
六八年二月二六日に開かれたブダペスト協議会には、中共、アルバニアは勿論のこと、去就を注目された北ヴィエトナム、北鮮、キューバ、日共等いわゆる自主独立路線の諸党は参加せず、参加党数はルーマニアを含め六七党であった。二月二七日、スースロフ・ソ連代表は、六八年一一月または一二月に世界共産党会議を召集することを提案するとともに、毛沢東一派は、共産諸党との協力を欲せず、世界党会議開催について中傷しているとの中共非難を行なった。留保条件を付してブダペスト協議会に参加したルーマニアは、ソ連およびポーランド、東独の中共非難とシリアのルーマニア非難に対して、他党を非難しないとの事前の申合せを破るものとして抗議し、三月一日協議会を中途で離脱した。
三月五日に閉幕した六六党のブダペスト協議会は、(1)世界共産党会議を六八年一一月~一二月にモスクワで開くこと、(2)会議の議題は「反帝闘争の諸課題と反帝勢力の行動統一」とすること、(3)世界共産党会議準備のため、希望するすべての党の代表が参加する準備委員会をブダペストに設置し、四月二四日に第一回の委員会を開くことなどを決定した。
中共は、ブダペスト協議会開催発表後から開催に至る間、公式論評を行なわず沈黙していたが、三月中旬に至り、人民日報は、「ブダペスト協議会は、ブレジネフ、コスイギンの反徒集団を主役とする反革命の茶番劇であり、新たな反中国の黒い会議である」と非難した。
フルシチョフ時代からの懸案であった世界共産党会議を六八年末開催というところまで漕ぎつけたことは、ソ連としては一応の成果と見られているが、予想されたこととはいえ、共産圏一四党のうち、不参加が半数の七党(五党不参加、ルーマニア中途離脱、ユーゴー不招請)に達したこと、「反帝闘争」を統一の旗印としながら、北ヴィエトナムが参加しなかったこと、ルーマニアの中途離脱などによって、国際共産主義運動の分裂をますます露呈した結果となったのみならず、ソ連派と見られる諸党ですらその態度に微妙な差異があり、さらにチェコの政変により同国新政権の今後の動向が注目され、国際共産主義運動の多極化は深まっていく様相を示している。
3 ソ 連 情 勢
ソ連ではたまたま革命五〇周年に当り、発足以来三年目を迎えたブレジネフ・コスイギン政権は、一連の人事異動によって指導体制を固めつつ、六七年六月の党中央委総会で「大十月社会主義革命五〇周年のテーゼ」を採択し、一〇月にはソ連邦最高会議を開催した。つづいて一一月には社会主義諸国首脳をはじめ一〇〇以上の外国代表団の出席を得て、クレムリンで盛大な祝賀式典が催された。これに関連して各機関紙の論説や国内各地で実施された各種の記念行事では、十月革命の意義、ソヴィエト愛国主義が強調されたが、人民の福祉向上が謳われる一方、イデオロギー的規律の維持についても慎重な配慮がうかがわれた。五〇周年記念に先立ち、五九年五月以来満八年ぶりにようやく開催された第四回ソ連邦作家大会においても、いわゆる「自由派」に対して若干の考慮が払われたとはいえ、社会主義リアリズム、レーニン的党派性および人民性を強調する党の文芸政策に変化はみられず、同大会も何ら新しいものを打出すに至らなかった。
なお、六七年四月、スターリンの娘スヴェトラーナが米国に亡命したことは、センセーショナルな事件として国際的な注目を惹いた。
国内経済の分野では、一九六六年に続いて、新経済運営方式を導入する「経済改革」がさらに推進された。一九六七年七月には重工業生産品に新しい卸価格が実施され、新方式に移った工業企業の数は一九六八年三月には約一万に達し、その生産額は全ソ工業総生産額の五〇%となったと報道された。一九六八年末までに工業部門企業の新方式への移行はほぼ終了すると予定されている。農業、商業、建設、運輸等の部門においても、諸企業の利潤ないし利潤率を主要指標として重視する新方式の導入ないし実験的導入が進められている。
この間、一九六七年九月にソ連共産党中央委員会総会がひらかれ、国民生活水準の引上げを目的とする一連の施策が決定され、同一〇月に召集された最高会議では一九六八、六九、七〇年の経済計画および一九六八年度予算が採択された。一九六八年度計画は従来の通例に反して、消費財増産率を生産財のそれより高く定めた。一九七〇年までの計画は、既に一九六六年の第二三回党大会で決定されていたものと大差はないが、農業への国家投資額が削減されたことが注目される。
一九六七年の経済計画遂行実績は、公表によると、大体順調な成績を示しているが、農業生産は一九六六年の豊作(対前年一〇%増産)の後を受けて、増産率一%と下った。また、国家投資および建設は全体として成績はよくなかった。そのほか、商業部門における靴・衣類・家具等の供給不足、住宅建設、文化・生活関係建設の計画未遂行等が指摘された。
このほか、一九六七年には週五日労働制への移行が開始され、一九六八年には一九六七年九月に決定された一連の国民福祉増進措置(賃金、年金引上げ等)の実施がはじめられている。
4 東 欧 の 情 勢
東欧諸国における経済改革は一段と活発化した。ハンガリーでは一九六八年一月から新経済制度を実施に移し、ルーマニアでも一九六七年一一月に経済改革の方針を打出した。
他方、すでに経済改革を実施しているチェッコスロヴァキアでは、さらに一層徹底した改革を主張する進歩派と行過ぎを警戒する保守派の間の抗争が高まり、保守派の指導者であったノヴォトニーが、一九六八年一月党第一書記の地位から、続いて三月に大統領の地位からも脱落し、新しく党第一書記となったドゥプチェクら進歩派による経済改革の推進および国内自由化の政策が具体化しつつある。
ポーランドでは、一九六八年二月、三月に演劇の自由化要求を契機とした一連の学生騒動が発生した。また、同国では一九六七年の中東紛争の際に打出された反イスラエル政策をめぐって国内対立が生じ、前記騒動の余燼とともに政情の安定に大きな影響を及ぼしつつあるように見られる。
ユーゴースラヴィアでは、一九六七年四月の憲法の一部改正、七月の外資導入法の制定など、自由化が一般的にさらに促進されている。
1 韓国、北朝鮮情勢
一九六七年五月三日、第六代大統領選挙が行なわれ、民主共和党の朴正煕候補は、尹ボ善新民党候補を百万票以上の大差で破り当選した。これは、韓国の国力充実と国際的地位の向上、日韓国交回復およびその推進による経済建設の進展等の実績を国民多数が高く評価したものと考えられた。しかし、ついで六月八日に行なわれた国会議員選挙の結果、一七五議席中、民主共和党は一三〇を占める大勝利をえたが、この選挙について、新民党は、「再選挙の実施、不正選挙関連者の処罰、不正選挙防止の制度的保障」を要求し、七月からの第六一臨時国会、九月からの定例国会にも登院を拒否して審議を不能にした。民主共和党はこれに対して、無所属議員一三名(民主共和党からの除名者)で交渉団体一〇・五クラブを構成させて、これとともに国会での審議を始めた。一一月に入って、与野党代表者会談が行なわれ、選挙不正地区の是正のための特別調査委員会の構成、不正選挙責任者の引責、不正防止のための立法措置などの合意をみ、新民党議員は、一一月末に初めて登院した。しかしその後の審議は順調でなく、一九六八年度予算案は、国会最終日の前日、一二月二八日に与党のみで強行通過をみた。
北朝鮮からの武装工作員の浸透は、一九六六年末から活発になり、六七年夏以後、軍事境界線侵犯が目立ち、六七年一年間の陸海を通じた侵犯件数は、前年の約一〇倍に激増した。六八年一月二一日、北朝鮮から重武装の将校三一名のゲリラ部隊がソウル市内の大統領官邸から五〇〇メートルの地点に現われ、二八名が射殺、一名が逮捕されたが、米韓側の犠牲も死者三六、負傷六八を数えた。
さらにその直後の一月二三日には、米情報収集艦プエブロ号が元山沖で北朝鮮側に拿捕される事件が起こった。一月二六日以後、国連安保理事会でこの問題が討議され、二月一日以後、軍事休戦委員会場のある板門店での米国と北朝鮮の非公式会談で、プエブロ号についての交渉が進められているが、このような米・北朝鮮間の会談に韓国が関与していないことへの韓国民の不満は大きかった。
これらの動きに対し、ジョンソン大統領は、二月八日、米議会に一億ドルの対韓軍事援助の承認を要請し、また大統領特使としてヴァンス前国防次官を派遣し、一二日から韓国側と会談せしめたが、一五日には北からの侵略行為に対してとるべき措置や、米韓国防長官級の年次会議の開催などについて、共同コミュニケの発表をみた。
韓国は、第二次五カ年計画を遂行中であるが、軍備にも一段と力を入れることになり、二月に入って兵士の服務年限を六カ月延長するとともに在郷軍人二五〇万の組織化と武装に着手し、武器生産工場の建設を決定した。
北朝鮮では、一九六六年一〇月の朝鮮労働党代表者会議で国防力強化を理由に経済七カ年計画実施の三カ年延長が決定され、六七年四月の最高人民会議第三期第七回会議では国防費三○・二%の六七年度予算の決定をみた。また三~六月間に朝鮮労働党内第四、第五の地位にいた書記の朴金チョル、李孝淳をはじめ、党内の有力者や職業同盟、農業勤労者同盟、社会主義労働青年同盟の各委員長らの粛清が行なわれ、代わって党内の軍人勢力の台頭が目立ち、また国民に対し金日成個人崇拝意識の強化が一段と進められた。一一月二五日に第四期の最高人民会議代議員の選挙が行なわれ、四五七選挙区の各一名の候補者に対して、一〇〇%投票、一〇〇%賛成であったと報ぜられた。
一二月一六日、最高人民会議第四期第一次会議で、第四次金日成内閣が成立し、一〇大政綱が発表された。同政綱は「韓国の反米救国闘争を支援して、われらの世代に南北統一を実現する」とのべ、また、日韓条約は米韓日三国が新たな軍事同盟を企図するものとみなし、さらに在日朝鮮人の民族的権利を日本政府が弾圧しているとし、とくに北朝鮮帰還協定が延長されなかったことを強く非難している。
北朝鮮は、一九六六年八月以来、いわゆる自主路線を明確にしているが、六八年二月、ブダペストで開かれた世界共産党会議準備協議会の開催に際し、朝鮮労働党は、日本、ルーマニア、ヴィエトナム、キューバの諸党とともに出席しなかった。
2 ヴィエトナム
(1) 内 政
南ヴィエトナムの政治情勢についてみると、一九六七年四月より一〇月までの半年間は民政移管への仕上げ期間であったといえる。すなわち、同年三月制憲議会により採択されたヴィエトナム共和国の新憲法は四月一日に公布され、この新憲法に基づいて、九月三日には大統領、副大統領および上院議員選挙が、一〇月二二日には下院議員選挙が、それぞれ行なわれた。選挙戦当初、国家指導委員会議長グェン・ヴァン・チュウ中将およびグェン・カオ・キィ首相はいずれも大統領として立候補する意向を表明したため、軍部内の分裂が危惧されたが、立候補締切の直前に至り、キィ首相は大統領立候補を取り止め、チュウ議長と組んで、副大統領として立候補することを受入れ、軍部は統一候補をたてるのに成功した。結局選挙においては、このチュウ・キィ組がファン・カク・スー元国家元首、ハ・トク・キィ革命大越党書記長等の民間政治家候補者をおさえて当選した。選挙運動中は軍人候補と民間人候補の間にとかく対立もみられたが、選挙自体は若干のヴィエトコンの妨害活動が見られたにも拘わらず、有権者五八五万四千余の八三・七%が投票を行ない(ヴィエトナム政府発表)、前年九月の制憲議会議員選挙の投票率(八○・八%)を上回る好成績を示した。民間人候補はサイゴン、ユエ、ダナンの各都市と六省でトップを占めたが、結局乱立による票の分散、戦時下で組織的な選挙運動ができなかったこと等がこれ等候補者には不利にはたらいたといわれる。ただ、そのうちで一般の予想を裏切って、地方ではほとんど無名のチュオン・ディン・ズー候補が、その若さと活動的な言動並びに政府批判と即時和平交渉を説くことにより、全国的に着実に票を集めて二位となったことが注目された。
他方、同時に行なわれた上院選挙においては、一〇人一組の六リスト計六〇名が当選したが、当選者は、カトリック系が多く、仏教徒を代表する勢力が極めて少ない点が特徴であった。また、下院選挙は一〇月二二日行なわれ、全国の立候補者一、二四〇名中一二〇名が選出された(投票率七三%)。
かくて一〇月三一日、正・副大統領の就任式典が行なわれ、グェン・ヴァン・チュウ国家指導委員会議長が大統領に、グェン・カオ・キィ首相が副大統領にそれぞれ就任した。新首相の任命については、チュウ大統領とキィ副大統領の間で種々意見があった模様であるが、結局チュウ新大統領は、一〇月三一日、首相にグェン・ヴァン・ロック前軍民評議会議長を任命した。
ロック内閣は、首相のほか一七大臣、七長官および二首相府長官から成るが、その顔ぶれは前内閣からの留任、横すべりあるいは政府機関からの選任が大半を占め(国防、内務、改革の三大臣に軍人が入閣)、結局民政移管後初の内閣として、軍民協力、一体の実をあげるべく期待されたいわゆる民間の大物政治家は入閣をみなかった。この内閣の成立により民政移管は一応終了し、以後、新体制下における民主体制の整備の推進が期待された。
しかるに一九六八年一月三〇日未明に開始された北ヴィエトナムおよびヴィエトコンの旧正月攻勢は、南ヴィエトナムの政府にも大きな打撃を与え、また、多大の経済的社会的混乱をまねき、とくにこれによりおびただしい難民の発生という困難な事態が生じた。政府は直ちに戒厳令を布き、キィ副大統領を委員長とする中央救済委員会を設置し、サイゴンその他の地域の治安秩序の回復、難民および犠牲者の救助、食料供給の確保に当ることとなり、また、議会も共産側の攻撃を非難し、政府の緊急措置を支持し、再建事業に対する一般の支持を訴えた決議を採択した。もっとも、これらの非常事態に対処するためチュウ大統領が議会に対し要求した向う一カ年間の経済財政上の特別権限の付与は、上、下両院において圧倒的大多数で否決された。
一方、この共産側攻勢により生じた危局に対処し、国内勢力を結集する動きとして、チャン・ヴァン・ドン上院議員、グェン・スァン・オァン元副首相等のサイゴンの民間政治家は二月一八日、救国国民大会を開き、国家救済委員会(救国戦線ともいう)なる民間組織を結成した。もっとも同組織には、当初はフアン・カク・スー元国家元首、チャン・ヴァン・フォン元首相等各界の名士の名がみられたが、その後結局反共勢力の大同団結というまでには至っていない。なお、これとは別に三月二八日に「自由民主勢力」なる組織が結成された。これら民間の動きはヴィエトナムの国政がより幅の広い国民の参加を得た形で運営されるようになることを要求する、内外の声に呼応したものと見られている。
(2) 軍 事 情 勢
ヴィエトナム軍事情勢についていえば、一九六七年の新、旧正月休戦が明けるや、一九六六年九月以降比較的平静であった一七度線の南側地域およびプレイク、ビンディン地方(南ヴィエトナム中部)において、ヴィエトコン・北ヴィエトナム側兵力の動きが活発化した。米・南ヴィエトナム側による、一七度線越しの北ヴィエトナムに対する長距離砲の砲撃を含む対抗措置にもかかわらず、北側の圧力は減少せず、四月上旬には、ヴィエトコンの一部隊がクアンチ省省都を一時占領するという事態さえ起きて、非武装地帯付近の戦闘は緊迫したものとなった。
さらに五月の八八一高地(南ヴィエトナム北部)周辺の激闘、九~一〇月のコンチェン(南ヴィエトナム北部)の激戦等、戦況はいよいよ激烈の度を加えてきた。これに対し、九月七日マクナマラ米国防長官は、非武装地帯南側に浸透防止網を設置する計画を発表した。
しかし、非武装地帯周辺の戦闘の激烈化のうちに乾期を迎えると、戦局の焦点は、再びサイゴン北方に移り、一〇月には、サイゴン北方カンボディア国境に近いロクニン、一一月には、中部高原ダクト丘陵地帯、一二月には、ロクニンの北のブドプと激戦が続き、双方の人的損害の増加は急激なカーブを示すことになった。
なお、メコンデルタ地域におけるヴィエトコン掃討作戦は、上記の非武装地帯周辺の戦闘の激烈化ならびに中部高原方面の北ヴィエトナム軍の浸透により、大幅に遅れることとなった。
一方、北爆は夏から秋にかけて、従前よりさらに拡大され、八月一三日には中共国境より一六キロのランソン爆撃が行なわれ、八月一九日には、一日二〇九波の新記録を生むに至った。その後もハイフォン港の陸上からの封鎖効果を狙ったハイフォン港に付属する橋、倉庫等の爆撃を始め、北ヴィエトナム最大のミグ基地であるフクイエン爆撃、ハノイ、ハイフォン地区連続七日間の猛爆撃等が行なわれた。
かくして南ヴィエトナム軍事情勢は、一九六七年秋以来非武装地帯の戦闘、ロクニン・ダクトをめぐる攻防等、波乱含みのまま一九六八年旧正月を迎えたところ、ヴィエトコン・北ヴィエトナム軍は旧正月初日の一月三〇日未明より南ヴィエトナム各地の都市、米・南ヴィエトナム軍事基地に対し一斉攻撃を開始し、ユエ、プレイク、ダラット等南ヴィエトナム四四省都のうち一〇省都を一時占拠するに至り、サイゴンでは米大使館の一部が占拠される事態さえ生じた。これに対し、米・南ヴィエトナム軍側は直ちに反撃にいで、ユエでは掃討のために約一カ月を要したが、その他では、短期間に都市部のヴィエトコン掃討に成功した。
一方、非武装地帯周辺では、北ヴィエトナム正規軍が、ケサン基地に対し、一月下旬から塹壕を掘り進めて接近するとともに、その包囲部隊を三個師団に及ぶ兵力に増強して、砲撃を激化し、基地突入の気勢を示した。これに対し、米軍は悪天候をついてのB-52による爆撃と空中補給を強行して、守備部隊を支援し、北ヴィエトナム軍の圧力に対処している。
なお、一九六八年三月現在における双方の兵力は、米軍約五一万六千、南ヴィエトナム政府軍約六一万九千、その他参戦国軍六万二千、計約一一九万七千であり、一方、ヴィエトコン側は総数約二三-四万、このうち北ヴィエトナム正規軍は約七万-七万五千と推定されている。また、一九六七年(暦年)における戦死者数は米・南ヴィエトナム軍約二万五千(旧正月攻勢による戦死者を含む)、ヴィエトコン・北ヴィエトナム軍約八万五千にのぼると推定されている。
(3) 和平への動き
しかしてこの間和平への動きも各方面で活発に行なわれ、六七年四月一一日にはマーチン・カナダ外相が議会において「(1)軍事行動の縮少、(2)軍事的事態を現行の水準に凍結、(3)陸、海、空すべての戦闘行為の停止、(4)ジュネーヴ協定の停戦条項への復帰」を骨子とする四段階からなる提案を行なった。またマーチン外相は九月、国連における演説において、米国の無条件北爆停止が紛争解決の第一歩たるべき旨表明した。
その後ジョンソン大統領は九月二九日、サン・アントニオにおける演説で、「米国は北ヴィエトナムに対するあらゆる空軍の爆撃と海軍の砲撃の停止が直ちに有効な話合いに導くときには、進んでこれを停止する。もちろんわれわれは話合いが進んでいる間、北ヴィエトナムが爆撃の停止ないしは制限を利用しないものと考える」旨述べた。その後マクナマラ国防長官の後をうけて国防長官に指名されたクリフォード氏は、一二月国防長官就任承認のための米上院軍事委員会での証言において、このサン・アントニオ演説に言及し、「停戦の合意が成立するまで、南ヴィエトナムにおける共産側の軍事活動は続くものと考える。かれらは通常量の物資、弾薬および人員をヴィエトナムに輸送し続けるであろうと考える。その間われわれはわが軍を維持し、支援し続けるであろう。これを大統領の言葉をもっていえば、かれらが北爆停止を利用しないことを要求するということである」と述べ、いわゆるサン・アントニオ方式の意味するところを明確にした。
また、一〇月三木外務大臣は、米国の友好国が米国の平和的意図を保証し、北ヴィエトナムの友好国が北爆停止に対するハノイの好ましい反応を保証するという相互主義により話合いの道を開くという「相互保証方式」の提唱を行なった。
他方北ヴィエトナムおよびヴィエトコン側についてみると、まずヴィエトコンは八月中旬臨時大会を開催して、新たな綱領を採択し、これを南ヴィエトナム大統領選挙直前の八月末に発表した。この新綱領は一九六〇年の旧綱領にくらべ、総じてヴィエトコンの基盤拡大を目的とした姿勢の柔軟さが注目されたが、和平問題に関してはいわゆるヴィエトコンの五条件を再確認して妥協を排する強硬な立場が堅持された。ヴィエトコンはその後一二月、開会中の国連総会で各国代表に対し、ルーマニア代表を通じて、この新綱領の配付を行なった。
グェン・ズイ・チン北ヴィエトナム外相は、一二月三〇日、「米国がヴィエトナム民主共和国に対する爆撃と他のすべての戦争行為をやめて後、ヴィエトナム民主共和国は関係のある諸問題につき米国と話合いを行なう」と述べたが、この言明は北ヴィエトナムの和平に対する前向きの姿勢を示すものとして多大の反響を呼んだ。これに対しジョンソン大統領は、一九六八年一月一七日の年頭教書において、このグェン・ズイ・チン外相の言明にふれつつも、和平のための話合いはサン・アントニオ方式によるべきことを再度確認した。
他方、北ヴィエトナム側の言明の真意打診と和平の可能性探求のため、各国要人の動きも活発となり、一月にはブラウン英外相の訪米、ウィルソン英首相の訪ソ、訪米が行なわれ、さらにカナダ政府も在サイゴン国際監視委員会ディア代表をハノイに派遣した。かかる動きが見られたなかで、一月末突如共産側による旧正月攻勢が行なわれたのであったが、ヴィエトナムにおけるこの新事態の発生は、政治的解決によるヴィエトナム戦争の早期終結の必要性を一層痛感せしめ、各方面における和平の動きは一層活発化した。二月初旬北ヴィエトナム外相は、米国が北爆その他の北ヴィエトナムに対する戦争行為を無条件に停止するならば直ちに話合いが始まり得る旨再確認し、北ヴィエトナムの在外諸代表も積極的な動きを示し、二月中旬から三月中旬にかけて、イタリア、スイス、スウェーデンおよびオーストリアを訪問し、これら各国の政府首脳と意見交換を行なった。また、二月には、ウ・タン国連事務総長もインド、ソ連、英国、フランスを歴訪し、これら諸国の政府首脳と会見するとともに、インド、ソ連、フランスでは現地の北ヴィエトナム代表とも接触を行なうなど和平打診に積極的な動きを示した。この間、中立諸国においては米国の北爆停止を求める声が高まりを見せ、三月にはニールソン・スウェーデン外相は国会で米国のヴィエトナム政策を攻撃し、戦争終結が実現しない場合その責任は米国が負うべしとの政府声明を発表した。
しかるところ三月三一日に至り、ジョンソン米大統領は突如「北ヴィエトナムのほぼ全域に対する北爆停止」を含む新たな和平提案を行なうとともに、次期大統領選挙に出馬しない旨を声明したため、ヴィエトナム和平問題も新たな段階を迎えるに至った。
3 ラ オ ス
ラオスの国内では、依然として右派・中立派とパテト・ラオ(左派)の両勢力が対立したまま膠着状態を続けているところ、一九六七年六月に行なわれた内閣改造では、南部右派および一部青年政治家は、プーマ首相の中立主義には賛成であるが、三派連立はひっきょう擬制にすぎず、あくまでもかかる擬制を貫こうとすることには反対であるとして、パテト・ラオに対する閣僚の席の配分を中止することを要求した。しかし、プーマ首相は内閣改造を最小限にとどめ、また結局従来通り三派連合中立政府の建前を維持した。もっとも、かかる建前にも拘わらず、現実には左派と対立しているラオス政府が右傾化することは自然の勢いともいうべきものであり、政府軍においては右派軍による中立派軍の統合が漸進的に進められており、また中立派警察の政府警察への統合も実現されている。
他方、ラオス領内には、プーマ首相の再三の言明にもみられるとおり、約四万の北ヴィトナム兵が駐留しているといわれ、これら北ヴィエトナム兵はパテト・ラオに対する支援ならびに南ヴィエトナムヘの補給の大動脈であるホー・チミン・ルートの確保等にあたっているものと見られる。しかるに、隣国ヴィエトナムにおける戦争の激化とあいまって、一〇月の雨季明けとともに、各地でパテト・ラオおよび北ヴィエトナム軍の攻撃が活発化し、かれらは一二月には南部のラオガム市を奇襲攻撃し、一九六八年一月には北部のナムパック、二月には中部のタトムをそれぞれ占領したほか、さらに南部の政府軍の戦略的要衝であるサラバンおよびアトプに対し重圧を加え、ひところは極めて緊迫した。かかる共産側の一連の攻撃は、当初は、例年のごとく米の収穫期に食糧を確保することを目的とするための動きではないかとみられていたが、その後、今次攻勢が従来にはみられなかった大規模なものであり、かつ南ヴィエトナムにおける共産側の攻勢と符節を合して行なわれたところから、単にラオスにおける内戦としてではなく、ヴィエトナム戦争との関連においてその成行きが注目されるに至った。
かような緊迫した情勢にかんがみ、ラオス政府は国際監視委員会(ICC)に対し、事態収拾のため緊急措置をとるよう要請したところ、ここ数年来事実上活動不能の状態にあったICCは、ポーランドの反対にもかかわらず多数決によってサラバンを調査のため訪れることを決定し、二月下旬インド・カナダ両代表はポーランド不参加のままICCとしての現地訪問を行なった。この訪問が行なわれたこともあってか、共産側は同市近郊における部隊の集結をゆるめるなど、ややその軍事活動を抑制する姿勢を示すに至っているため、現在ラオス情勢は一応その危機は脱してはいるものの、今後ともヴィエトナム情勢との関連においても、その情勢の推移が注目される。
4 カンボディア
(1) 一九六七年四月から一九六八年三月までの期間におけるカンボディアの外交は、各国から「現在の国境内におけるカンボディアの領土保全」の「尊重」および「承認」の宣言を取付けることに、最も重点を置いた(「わが外交の近況第十一号二一頁参照)。すなわち、一九六七年五月九日、カンボディア政府は声明を発表して、各国に対しかかる「尊重」宣言を行なうよう要望し、さらに七月二二日には、「現在の国境内におけるカンボディアの領土保全」の「尊重」だけでは足りず、「承認」を宣言して欲しいとの声明を発表し、この要請に応えない各国に対しては国交を凍結する方針であると発表した。
その結果一九六八年三月までに、豪州、フランス、インド等非共産圏二一カ国およびソ連、中共、東欧諸国等共産圏一四カ国ならびに南ヴィエトナム民族解放戦線(ヴィエトコン)が「尊重と承認」または「承認」の宣言を行ない、日本、ドイツおよび英国が「尊重」と「現在の国境の不可侵性の承認」宣言を行なった。
(2) 従来カンボディアは、中共を第一の友邦なりとして来たが、中共は、文化大革命の進展にともない、カンボディアの青年層および華僑に対する働きかけを積極化し、露骨な宣伝工作とともに盛んに反政府活動を煽動し、これに苦慮したカンボディア政府としても何らかの対抗措置をとらざるを得ないこととなった。
九月一日、シハヌーク元首は、すべての諸外国との友好協会を解散する措置をとり、これによりカンボディアにおける親中共派要人の牙城であったカンボディア・中共友好協会も解散されたが、中共はこれを無視してカンボディアの親中共派との連携を計り、カンボディア政府を反動派ときめつけて非難した。かかる中共の出方に対し、シハヌーク元首は、激しく中共を非難し、九月一一日親中共系閣僚二名を罷免し、続いて翌一二日には、再び中共の内政干渉を非難するとともに、在中共大使および全館員の引揚げを決定した。かかるシハヌーク元首の強硬な態度の前に中共も低姿勢に転じ、九月一四日、周恩来首相はカンボディア大使を招致し、大使および全館員召還の決定を再考するよう要請した。かように中共が折れて出たため、シハヌーク元首は、九月一八日、在中共カンボディア大使および館員の召還の決定は取消したが、その後も中共の「内政干渉「文化大革命の輸出」を非難し続けた。これに対し、一〇月末、周恩来首相はシハヌーク元首に和解のメッセージを送り、一一月一日、シハヌーク元首は和解に応じる旨発表し、これによりカンボディア、中共間の不和はひとまず解消した。
かように、カンボディア・中共間の不和は、中共がカンボディアに「わびを入れる」形で一応和解が成立したが、これにより両国が二、三年前の緊密な友好関係に戻ったとは到底考えられず、ことに十月以降カンボディアは、内政上の最大の問題となっている叛徒「赤色クメール」に対し中共が補給を行なっていると見ているため、両国間関係は非常にぎこちないものとなっている。
(3) カンボディアと中共との関係が冷却化したのに反し、カンボディアとソ連との関係は、五月下旬から六月上旬にかけて、プリサラ・カンボディア外相がソ連を訪問し、その際ソ連が他の共産圏諸国に先がけて前述の「現在の国境内におけるカンボディアの領土保全の尊重」を宣言したこともあり、一九六五年十月のシハヌーク元首のソ連訪問取止め以来の両国間のわだかまりは払拭され、友好関係は一段と促進された。
(4) カンボディアと米国とは、一九六五年五月以来、外交関係を断絶しているが、さらにその後ヴィエトナム戦争の激化にともない、カンボディア側は、米軍によるカンボディア領誤爆、国境侵犯等を盛んに非難し、他方米国側も、カンボディアの領土がヴィエトコン・北ヴィエトナム軍の「聖域」として、通過・補給等の面で利用されていると見て問題視し、双方で非難反駁が繰返されていた。ところが、一二月上旬にいたり米国側より「ヴィエトコンの聖域」問題に関し話合いを行ないたいとの申し入れが行なわれ、一二月下旬、カンボディア側もこれを受諾し、一九六八年一月八日、チェスター・ボールズ駐インド大使を代表とする米国代表団がプノンペンに到着、翌一月九日より一二日まで、米国・カンボディア間会談が開催された。
会談においては、ヴィエトナム戦争の戦火が国境を越えてカンボディアに波及することを防ぐための措置、なかんずく国際監視委員会(ICC)の強化および効果的な活用等の問題につき話合いが行なわれたといわれる。いずれにせよ、二年八カ月余にわたり全く接触のなかったカンボディアと米国の代表が一つのテーブルにつき、友好的雰囲気のうちに会談を行なったことは、それ自体、インドシナの緊張緩和に資する大きな収穫であると見られた。ただし、国際監視委員会の強化・活用については、ソ連およびポーランドが直ちに反対を表明しているので、これが具体化する見通しは暗い。
(5) 内政面では、かねて左派からの攻撃によってロン・ノル内閣は困難な立場にあったところ、六七年四月中旬、北西部のバッタンバン州で極左分子(「赤色クメール」)の煽動により公然と政府に敵対する住民の叛乱が発生し、全国への波及がおそれられた。ロン・ノル内閣はこれを収拾し得ずに結局四月三〇日退陣し、五月一日、緊急な事態に対処するため、シハヌーク元首を閣僚会議議長とし、その下に首相としてソン・サン国立銀行総裁を据えた臨時内閣が発足した。臨時内閣は、経済・財政の再建に取組むとともに、硬軟両様の施策をもって「赤色クメール」の破壊活動の鎮圧に努めたため、六月頃には、ひとまず政情が安定するかと見られた。しかるに、十月下旬「赤色クメール」の蠢動が再び始まり、その後の「赤色クメール」は、従来の地方における不満分子の一揆のようなものから変容して、北ヴィエトナム・ヴィエトコン等と連携し、中共から武器の補給を受けるなど、外国に操られた政治色の濃い叛逆集団になっているので、その今後の動向が注目される。
なお一九六八年一月三一日、右臨時内閣は総辞職して、元老ペンヌートを首班とする新内閣が成立した。
5 インドネシア
(1) 一九六七年三月の暫定国民協議会(MPRS)の臨時会議によって大統領代理に任命されたスハルト陸相は、内閣幹部会議長として、政治の安定と経済の再建、復興を目的とする政策を推進するとともに、いわゆる新体制の確立に努めた。
しかしこの新体制によるスハルト政権にたいしては、国軍の一部にも不満分子があり、また政党は軍部の独裁化をおそれて、強い警戒心を示した。とくに、中、東部ジャワにおいては、スカルノ前大統領を支持する勢力がまだかなり強く、政界では国民党が、この勢力を代表し、同党の青年、学生組織とスハルト政権を支持する回教グループの対立があり、その結果、流血をともなう両者の衝突事件が発生することもあった。六七年七月、国軍内部を統一するため、中部ジャワのジョクジャカルタにおいて、全ジャワ陸軍司令官会議が開催され、スハルトによる新体制の支持と親スカルノ派の排除を主張する声明が採択され、海、空、警察軍も、これを支持する態度を示し、またその後においても、国軍内部および政党等の民間団体から旧体制分子(親スカルノ派)にたいする粛清が強行された。
かくして共産党の壊滅、国民党勢力の後退により、ナフダトゥル・ウラマ(NU)党一派の回教勢力が、政界において優位に立つこととなり、国軍にたいする強い対抗勢力となった。元来スハルト政権の基盤となる国軍は、政党勢力を排して、同政権を確立せんと意図しており、これにたいし政党は、前記のごとく、軍部による独裁化を非難し、またかつてスカルノ追放に大きな役割を果した学生、青年組織も政党に同調する動きを示した。他方旧マシュミ党グループは、かねてからインドネシアの国内政治にたいし民主主義原則の確立を主張し、新党結成に努力していたが、スハルト政権は認可を拒否してきた。しかし、六八年二月、同党中央部の人事に条件をつけ(旧マシュミ党の幹部を役員としない)、「インドネシア回教徒党」として発足することを許可した。これは、またNU党勢力を牽制せんとするスハルト政権の苦肉の策と見られた。
スハルト政権は、軍部独裁とする国内の非難にたいしては、慎重に対応する態度を示した。六七年七月には、国家の内政にたいしても強力な発言権をもっていた「最高作戦司令部」を解散し、その所管事項を内閣に移管し、さらにスカルノ時代から引き続き存在していた地区軍司令官を長とする地方軍政官制度を形式的にも廃止し、地方行政を全面的に、各州知事に返還した。同年一〇月には内閣の機構を改め、九・三〇事件以後設けられていた幹部大臣制と四軍司令官を閣僚とする制度を廃止して、国防大臣を新設した。なお、スハルト大統領代理は、この内閣の組織替えにともない、首相兼国防大臣に就任し、その地位を確立した。
九・三〇事件後、六六年七月のMPRSで六八年七月までに総選挙を実施すべきことが決定され、これが新体制下のインドネシアの大きな課題となった。この総選挙にたいし、政党は優位を獲得する自信を持ち、他方、軍部は政党の進出を懸念し、国会における選挙法案の討議は進捗せず、これに加えて国内の財政事情もあり、六八年三月に予定されたMPRSでその実施時期を再検討することになった。このMPRS第五回会議においては、さらにスハルト大統領代理の大統領昇格問題も討議されることとなった。右MPRS開催を控えた六八年二月、政府は大統領決定をもって国会議員(国内法上国会議員は同時にMPRS議員となる)の入替えと定員数の増加を行ない、これまでの三四七議席を四一四議席とし、さらにMPRS議員を一〇二名追加任命した。これらの新議員には軍部を支持する派の者が任命され、国会およびMPRSにおける同派議員はそれぞれの全議席の過半数を占めることになった。これと同時に、また、六六年以来機能を停止していた、一九四五年憲法に規定されている最高諮問会議を復活し、主要政党の領袖のほか各界の長老を議員に任命した。
MPRS第五回本会議は、六八年三月二一日から三〇日まで開催された。この会議では、スハルト氏の大統領昇格問題、副大統領の任命問題、総選挙の延期問題等に関し、各派議員の意見の対立が見られたが、三月二七日スハルト氏を大統領に任命し、その任期は総選挙によって国民協議会(MPR)が正式に発足するまでとすること、総選挙はおそくとも七一年までに実施すること、六八年七月までに内閣の改造を行なうこと等が決定され(スハルト新大統領は三月二八日正式の大統領として日本訪問の途についた)、さらに会期を三日間延長した。しかし、五カ年計画を含めた国策の大綱、基本的人権問題等の議題は審議未了となった。
(2) 九・三〇事件後、中共との関係は漸次悪化したが、六七年四月頃から国内華僑排斥運動が激化し、八月にはジャカルタ、北京で、それぞれの大使館襲撃事件が発生した。さらに、同年一〇月一日インドネシアの青年、学生団体による中共大使館の襲撃事件の再発とともに、インドネシア政府は在北京大使館の閉鎖を決定し、中共側も一〇月二七日、在ジャカルタ大使館およびインドネシア国内各地の領事館の閉鎖を行ない、両国の国交関係は事実上断絶するにいたった。
マレイシアとの関係は、スハルト政権の樹立とともに漸次改善され、六六年八月一一日国交関係の正常化に関する協定が成立し、さらに六七年八月三一日、両国間の外交関係が正式に開設された。
6 フィリピン
(1) 一九六五年一二月就任したマルコス大統領は、対内的には、経済社会開発四カ年計画を策定するとともに外資奨励法を成立させて(一九六七年八月)、食糧の自給体制の確立、公共施設の拡充、国内治安の維持確保(フク団の討伐および密輸取締りの強化等)に努めており、また対外的には、東南アジア開発閣僚会議、アジア開発銀行、ASPAC(アジア太平洋協議会)およびASEAN(東南アジア諸国連合)等の有力メンバーとして、東南アジアの安定と繁栄のため積極的に協力している。また、マルコス大統領は、一九六六年米国、日本に、次いで一九六八年一月にはマレイシア、インドネシアおよびタイの三国を訪問し、これらの国々との親善関係の増進に資するところがあった。
フィリピンはまた、SEATO(東南アジア条約機構)のメンバーとして自国の安全保障確保の立場から、南ヴィエトナム民生安定工作要員として約二、○○○名の非戦闘部隊を派遣している。
(2) フィリピンでは、一九六七年一一月上院議員の三分の一(八名)および地方自治体の首長(州知事等)の改選が行なわれ、与党ナショナリスタ党は圧勝した。すなわち、上院議員選挙においては、ナショナリスタ党六名、リベラル党(野党)一名、無所属一名が当選した。また、州知事選挙においては、全国六五州のうち五〇余州においてナショナリスタ党所属の候補が当選した。この選挙の結果、議会における党派別勢力分野は次のとおりとなった。
上 院 下 院
ナショナリスタ党 (与 党) 一五 六〇
ナショナリスト・シチズン党(与党系) 一
リ ベ ラ ル 党 (野 党) 七 四〇
そ の 他 一 七
計 二四 一〇七
(3) マルコス大統領は、対日関係を重視し、就任早々わが国を訪問し、戦後禁じられていた本邦商社のフィリピンにおける事業活動を認める措置をとり(一九六八年三月末までに一八社が支店の設置を認められた)、また日比友好通商航海条約の比側における批准実現のため努力している。
7 ビ ル マ
中立主義に徹するビルマ外交にとって、一九六七年は試練の年であった。すなわち、この年の六月二二日ラングーンに発生した暴動事件を契機とする「中緬友好」関係の崩壊は、ビルマ外交の焦点が二、○○○キロの国境を接する中共に置かれていただけに、この国にとって大きな衝撃であった。
この事件は、ラングーンの華僑学生二〇〇名が毛沢東バッジ着用禁止令に反対するデモを行ない、これを取材せんとしたビルマ人記者二名が殴打されたことから始まった。軍隊警察の出動により一応その場は収まったが、その後これに刺激されたビルマ人デモ隊による中国人商店、住宅等の襲撃が頻発するに至った。二八日に至り、デモ隊は華僑街を襲い、中国人多数を殺傷するとともに、一部デモ隊は中共大使館に殺到、ビルマ側警備の網を潜って二名のビルマ人が大使館構内に侵入し、中共技術者一名を殺害し、他の一名に傷害を与える事件に進展した。ビルマ政府は直ちにラングーン市内四地区を戒厳令下に置くとともに、マンダレー、モールメン等の地方都市に集会禁止令を発布、軍警による厳重な警戒体制をしいて、事件の拡大を阻止する諸措置をとった。このため、事態はようやく平静化するに至ったが、この一連の暴動による死者は、華僑五九名、ビルマ人数名に達したといわれている。
この事件を契機として、中共政府はビルマの地下共産党(白旗)支持の態度を公然と表明し、ネ・ウィン政権を「ファシスト」、「米帝国主義の手先」ときめつけた。また、北京の壁新聞は、劉少奇とネ・ウィンを並べて反動ブルジョワ修正主義者として攻撃した。これに対し、ビルマ政府は、確固たる態度で事件の処理に当る一方、公然と中共政府を攻撃することは差控え、事件を限定的に解決する態度を示した。
この暴動事件は、双方の大使の引揚げ、中緬経済技術協力協定の廃棄とこれに伴う中国人技術者の引揚げ、ラングーン駐在新華社特派員の退去命令等の一連の事件を招来し、ここに平和共存五原則に基づく中緬友好関係は全く崩れ去った。
しかしながら、ビルマ政府は、その後も中共の今後の出方を慎重に見守りつつ、従来からの厳正中立政策を依然として堅持する態度を示している。
8 イ ン ド
一九六七年二月の第四次総選挙(詳細は「わが外交の近況」第十一号二六頁参照)において著しい退潮を示したコングレス党政権は、勢威の回復を図るため、同年後半より非コングレス党州政権に対する働きかけを強化した。その結果西ベンガル、ハリアナ、パンジャーブ、ビハール、ウッタル・プラデシュの五州において、非コングレス党政権はいずれも分裂崩壊し、大統領直轄令の公布、新連合政権の成立等の事態を見るに至っている。
過去二年続きの旱魃により不振を極めた農業は、一九六七年のモンスーン期に潤沢な雨にめぐまれ、一九六八食糧年度は独立以来最高の収穫が予想されているため、一九六六年来インド全国でみられた中央政府の食糧政策を非難する動きは漸次鎮静化した。しかるに、一九六七年一一月から一二月にかけ、中央政府が公用語法案を議会に提出し、これを強行採決せしめたことを契機として、英語の存続使用に反対する北インドと、ヒンディー語の公用語化に反対する南インドの各地で暴動が発生し、南北両インドの対立感情の激発を見るに至り、多難な内政に新たな波紋を投ずることとなった。
他方、一九五九年三月のチベット騒乱とダライ・ラマのインド亡命、一九六二年秋の中印国境紛争等により急速に悪化した中印関係は、その後改善を見ることなく推移したが、一九六七年においても、両国の関係に一層の緊張をもたらすいくつかの事件が発生した。
すなわち、六月在北京インド大使館員二名がスパイ容疑で逮捕され、国外追放を宣言される事件が起こり、インド政府もこれに対する報復措置として中共外交官二名の国外退去を命じた。
また、一九六七年五月西ベンガル州ナクサルバリにおいて発生した農民一揆について、北京放送は六月二八日、三〇日と二回にわたって事件を報道するとともに、これをインドの「反動主義者」に対する武装革命闘争として賞讃し、人民日報社説(七月五日)もこれを支援する主張を行なった。インド政府は七月五日中共に対し、この放送は悪意ある反印宣伝であり、国際慣行に反する行為であるとの抗議を行なった。
さらに、インドの保護国であるシッキムとチベットとの国境に位置するナトラ峠において、九月一一日両国軍隊の間に武力衝突が発生、戦闘は一四日まで続けられた。インド側は「インド軍が国境線に沿って鉄条網をはった際、中共軍がこれを妨害し、その後更に迫撃砲、大砲をもって国境越しにインド軍を攻撃した」と発表したのに対し、中共側は「インド軍がナトラ峠を越えて中共軍陣地に攻撃を加え、軍事的挑発を行なった」として、互いに相手方を非難したが、一五日に至って両軍の撃ち合いは停止された。その後一〇月一日に至って、同じシッキム・チベット国境のチョーラ峠において、中印両軍の撃ち合いが行なわれたが、これも三日には停止され、ともに局地的事件にとどまった。
1 米国の情勢
一九六七年における米国の情勢は、大統領選挙を翌年に控えてその前哨戦ともいうべき盛り上りがみられた。「偉大な社会」の建設を標榜し、大砲もバターもともに優先させようとの姿勢で出発したジョンソン政権の施策が大きな試練にさらされた年となった。一九六七年の夏には多くの都市で黒人暴動が発生し、この問題についての従来の経済的、社会的対策の不備があらためて認識された。また、北爆開始後第三年目を迎えたヴィエトナム戦争についても、国民の間に焦燥感が強まり、いわゆる「ハト派」と「タカ派」の間の論戦が深刻化した。
「長く暑い夏」の黒人暴動はこの年も例外でなく、七月中旬のニュー・ワークの暴動を皮切りにデトロイト、ニュー・ヨークなど全米各地に波及し、一月~九月で一六四件、死者八三を数え、とくに七月二三日のデトロイト大暴動は死者四一、被害額四千五百万ドルに達し、連邦軍の出動をみるなど史上最大の暴動となり、国民に大きな衝撃を与えた。かくして黒人問題はもはや放置できない内政上最大の問題となり、ジョンソン大統領はただちに都市暴動諮問委員会を設置して原因および対策の究明に乗り出すとともに、一九六八年の年頭教書においては、暴動の主な原因である都市スラムと貧困対策につき、都市再開発と住宅の建設および雇傭の促進について意欲的な計画を打出した(前記都市暴動諮問委員会の調査報告書は六八年三月一日公表された)。
ヴィエトナム問題については、ジョンソン大統領は六七年九月二九日、「北爆停止が実りある話合いを速やかにもたらすならば、直ちにこれを停止する」とのいわゆる「サンアントニオ方式」を打出すなど、交渉による解決を求めながらも、北ヴィエトナムに和平の意思がみられないとして、米軍の増強、北爆拡大などの軍事努力は引続き強化する方針を堅持し、国民に対しても現行政策の支持を積極的に呼びかけてきた。しかしながら、ヴィエトナム戦争遂行期間中という条件付きで大統領が提案した増税法案は、容易に議会の採択するところとならず、戦争の早期解決の見とおしのつかない状況にあって、国民の間に次第に焦燥感が広がったことも否定できない。この空気を反映して、議会においても、一九六四年のトンキン湾事件決議を無効と主張し交渉による早期解決を求める上院外交委員会のメンバーを中心とするグループと、北爆強化を主張する同軍事委員会のメンバーを中心とするグループの間に意見の対立がみられた。また、六八年三月一一日に開催された上院外交委員会聴問会においては、ヴィエトナム政策についてラスク国務長官とフルブライト委員長との間に鋭い対立がみられた。従来散発的であった反戦デモ、徴兵忌避運動も、六七年一〇月に入って各種平和団体、新左翼、黒人団体によるワシントン大集会の開催など反戦運動の組織化がみられた。このような動きは、世論調査等によれば決して国民の大多数の支持を受けるに至ったものではないが、いずれにせよ、強硬策によるか、交渉によるかの差はあっても、戦争の早期終結を望む声は次第にたかまってきた。
一方、議会においては、六六年の中間選挙で共和党が大幅に進出したことにより、とくに下院において反政府的傾向が強く、加えて第八九議会においてあまりに多くの法案を通したことの反省もあって、提出重要法案のうちヴィエトナム戦費追加予算、米ソ領事条約は通過したものの、対外援助歳出法案、社会保障法改正法案、初等教育援助法案、貧困対策法案などはいずれも大幅な予算削減の上閉会間際に辛うじて成立する状態であった。さらに公民権法案は棚上げされ、最重要法案とされた増税法案も、連邦予算の削減を要求する下院歳入委員会の反対にあって難航するなど全般的に行政府に対する厳しい態度が顕著であった。「偉大な社会」関連法案も、前記のごとく大幅予算削減ないし現状維持に止まり、増大するヴィエトナム戦費との相克が目立つところとなった。
かくして大統領選挙を翌年に控えた政界の関心は次第に選挙に集中され、内政上のすべての動きは右選挙を念頭においているといって過言ではなかった。一九六八年を政権奪回の好機とする共和党においてとくに慌しい動きがみられたが、最有力とみられたロムニー・ミシガン州知事が脱落、代わってニクソン元副大統領が大きく浮び上ったもののロックフェラー・ニューヨーク州知事の動向もなお看過しえないところである。民主党においては、ジョンソン大統領のヴィエトナム政策に反対して立候補したマッカーシー上院議員が一九六八年三月ニュー・ハンプシャー州の予備選挙で予想外に進出したことが契機となって、ロバート・ケネディ上院議員が立候補を声明した。このようななかにあってジョンソン大統領は三月三一日、北ヴィエトナムの大部分に対する一方的な北爆の停止を発表し、北ヴィエトナムに対し直ちに和平交渉に入るよう提案するとともに、大統領選挙に再出馬しないことを声明して、この和平提案が国内の選挙対策上の考慮からなされたものでないことを内外に示したが、この結果民主党の大統領候補指名の問題は予測を許し難いものとなった。(注、このジョソン大統領の声明はその後の米国の世論および大統領選挙戦に大きな影響を及ぼすこととなったが、本稿は三月三一日を時点として書かれたものである。)
2 カナダの情勢
一九六七年に建国百年目を迎えたカナダは、この百年の間になし遂げた目覚ましい発展を記念すべく建国百年祭を挙行し、国をあげて盛大かつ多彩な式典を催した。
この建国百年祭は、同年開催されたモントリオール万国博覧会の成功とともに、カナダ国民に愛国心と連邦としての連帯感を植えつけ、自信を高めしめたという点で極めて意義深いものがあった。
しかしながら、同年七月、万国博覧会を機会にカナダを公式訪問したド・ゴール仏大統領が、モントリオールにおいて市民の熱狂的歓迎に応えた演説のなかで、仏系カナダ人に対し「自由ケベック万歳」と呼びかけ、ケベック州独立運動主義者を鼓舞するがごとき発言を行なったことが契機となって、建国百年祭および万国博の昂奮のなかで忘れられたかにみえたいわゆる「ケベック問題」が俄かに顕在化し、統一カナダの危機とも呼ばれる政治問題に発展するところとなった。
カナダにおいては、連邦対各州関係の調整が内政上の重要課題であるところ、各州の根強い地域主義は国民の、また各州間の連帯意識を希薄にしており、カナダの統一的発展を指向する連邦政府としばしば対立するところがあった。とくに、同じカナダの創設民族でありながら二流市民の地位しか与えられていないとする仏系カナダ人の不満にもとづく「ケベック問題」は、ケベック州分離の動きもあって、連邦政府のもっとも意を用いる問題であった。ピアソン内閣においても、協力的連邦主義を標榜して、福祉制度、課税権の分配、平衡交付金等についてケベック州政府の主張を大幅に容れ、ケベック州の協力による一つのカナダの理想を実現するべく努力していた。しかし、かかる連邦政府の漸進主義にあきたらないケベック州政府は、カナダ憲法を根本的に改正して英仏系市民の真の平等にもとづく連邦体制の確立を主張していた。ド・ゴール発言は、これを不当な内政干渉とするカナダ政府とフランス政府との関係を冷却化したのみならず、ケベック州の独立の主張あるいはケベック州に特殊な地位を与えるべしとの主張を一層高めることとなった。さらに、このような動きは建国百年祭による国民的意識のたかまりもあって、カナダ連邦の将来を憲法の面から根本的に検討せんとする「憲法問題」にまで発展したのであった。
かくして、六七年一一月下旬、ロバーツ・オンタリオ州首相の提唱により、カナダ連邦の究極的な目的を検討し、より高い見地からカナダの将来に対するヴィジョンについて検討するため、各州首相出席のもとに「明日の連邦」会議が開催された。会議においては、経済問題を第一義とする西部諸州、とくに経済格差是正の面から強力な権限を有する中央政府の指導力を不可欠とする東部諸州など、各州の見解は必ずしも一致しなかったが、各州首相は、ケベック問題に内在する危機を認識し、憲法改正の必要性とその検討について、満場一致の合意に達した。連邦政府としては、憲法問題は漸進的改良主義が唯一の実際的方法との立場をとり、かつ本件会議を認めることは連邦政府の州政府に対する指導性を損う恐れありとして、反対の意向を表明し、わずかにオヴザーヴァーの派遣に止まった。
しかしながら、連邦政府としても、現行憲法改正の必要性は認めているところであり、ド・ゴール発言以後のユニティ・クライシス(統合の危機)ともいわれる政治的危機に直面して、結局、一九六八年二月、連邦・各州政府による「カナダ憲法会議」を召集することとなった。右会議は、仏系カナダ人問題の解決方法を含むカナダ連邦の将来のあり方の検討の第二歩ともいうべきもので、連邦政府はここに初めて憲法改正問題に対する考え方の全貌を明らかにした。これに対し各州政府も、今後とも憲法会議を開催してこれを検討することに合意し、具体的には二言語二文化委員会の最終報告第一巻の勧告に従って、ケベック州以外に住む仏語系カナダ人は、ケベック州に住む英系カナダ人と同じ権利を有すべきことを確認し、ここにおいて懸案のケベック問題、憲法問題の解決のための具体的方向付けが行なわれたといえよう。
このようななかで、かねて引退の意向をもらしていたピアソン首相は、一一月正式に引退を声明し、自由党は一九六八年四月党首決定大会を開催して新党首を選出することとなった(注、選挙の結果ピェール・トゥルドー法務大臣が新党首に選出された)。他方野党第一党の進歩保守党は、もはやディーフェンベーカー党首の指導下には政権を奪回できないとの見とおしに立ち、かつ、同党首の独裁に対する不満もあって、六七年九月党首決定大会を開き、ディーフェンベーカーをしりぞけてノヴァスコシア州スタンフィルド首相を選出した。
かくして、過去約十年にわたるピアソン・ディーフェンベーカー時代は終わり、建国二世紀目に入ったカナダは政治的にも新しい指導者を迎えることとなった。
一九六七年四月から六八年三月までの西欧情勢は、英国のEEC加盟を中心とする欧州共同体拡大問題と、東西間の緊張緩和ムードを背景とした独仏等の対東欧接近政策の諸問題および西欧安全保障体制の改革問題をめぐって展開したといえる。
欧州共同体の拡大問題は、六七年五月英国が正式にEEC加盟の申請を行なったのにつづき、デンマーク、ノールウェーおよびアイルランドも加盟申請を行ない、他方スウェーデンは加入の形式は交渉の過程において定めることとして交渉の開始を要求し、オーストリアはEECとの間に連合の交渉を行なっている(スウェーデンおよびオーストリアについては中立を維持する限り正式加盟には困難がある)。またスペインもEECとの連携を求め、貿易取決めの締結を目指して交渉を行なっている。
右のごとき諸国の動きは、政治的、経済的共同体としての欧州の建設がEECを核として行なわれるべきことが西欧諸国の間で公式に認められたことを意味しており、注目に値する。
しかし、EECの拡大は、六七年一二月のEEC閣僚理事会において、フランスが英国の経済社会体制とEECのそれとの間には未だ懸隔がありすぎ、またポンド危機によって象徴される英国経済の弱体性が解消されない限り、英国の加盟はかえってEECの崩壊をもたらす危険があること等を理由として英国の加盟に対しても事案上の拒否権を発動し(加盟交渉の開始を拒否した)、英国等四カ国のEEC加盟の審議が無期延期となったため、一頓挫を来した。
このようなフランスの態度にもかかわらず、英国は依然としてEEC加盟への決意を変えず、また英国加盟を支持しているEECの他の五カ国も行き詰り打開に努力を続けた。ベネルックス諸国は科学技術協力などローマ条約の枠外における英国等四カ国との協力関係強化を通じて、これら諸国のEEC加盟実現を促進すべしとの提案を行ない、イタリアがこれを支持し、また、英国も右提案に賛意を表明した。
しかし、このような提案はEECと英国等域外諸国との協力関係強化を通じてこれら諸国の加盟の既成事実をつくろうとするものであって、英国を少なくとも近い将来においてはEECに加盟させるべきでなく、もし加盟させるとしても英国が完全にEECと同化出来るよう自らの体質を抜本的に改善すべきであるとするフランスにとって、到底受容し得るところではなかった。他方ドイツは独仏友好関係の維持をその外交政策の基本としている関係上、明らかにフランスの意に反するベネルックス案に支持を与えることは出来ず、ようやく六八年二月の独仏首脳会談において、EECと英国等四カ国との間で貿易障害漸減の取決めを行なうとの提案を行なうことにつきフランスの原則的同意を得た。しかし右提案の具体的内容については、早くも二月末および三月はじめに行なわれたEEC閣僚理事会の討議を通じて独仏両国間で意見の相違があらわれた。
他方、三月に入って尖鋭化したドル危機は、世界経済の秩序維持のためにはドル防衛のための対米協力やむなしとする諸国と、あくまでも米国の通貨政策に対する批判の姿勢をくずさないフランスとの間の溝を次第に深め、欧州における政治的、経済的共同体建設の前途がなお多難なものであることを予想させた。
また、西欧諸国と米国との関係を全体的にみると、例えば安全保障の面においては、駐独米軍の一部引揚げ等の動きは見られるものの、NATO体制における米国の支配的役割には変化なく、経済面についても、技術投資部門においては米国が圧倒的に優位にある等、その関係は基本的には変わっていないといえるが、ケネディ・ラウンドの妥結に至るまでの交渉過程、あるいは、ドル危機、国際金融問題等の中に、米国の対欧関係における相対的地位の低下が感ぜられた。
緊張緩和ムードを背景とする東西両欧州接近の動きとしては、前年度に引続き活発な首脳陣の訪問外交が見られた。フランスにおいては、六七年六月の中東紛争に際してソ連のコスイギン首相が訪米の往路および帰途にそれぞれパリに立ち寄り、ドゴール大統領と会談を行なったことが、同紛争に対するフランスの態度にもかんがみ注目を浴びた。また、ドゴール大統領は九月にポーランドを訪問した。右訪問においてドゴール大統領は、ポーランドの対独警戒心緩和のための働きかけを行なったと伝えられるが、この試みはポーランド側の固い態度に逢着し、見るべき成果を挙げ得なかったといわれる。
イタリアにおいても、六七年一月ポドゴルヌイ・ソ連最高会議幹部会議議長が、副首相をはじめ数人の閣僚を含む大代表団を率いて訪伊したのにつづき、ファンファーニ外相が同五月に訪ソして、伊・ソ領事条約、観光協力協定等の締結を見た。またポドゴルヌイ議長は、訪伊に際しヴァチカンを訪問し、法王パオロ六世と会談を行なった。
ドイツは、六七年一月ルーマニアとの国交を樹立したが、ついで八月にはチェコと貿易・支払い協定を締結し、相互に通商代表部を開設した。代表部は外交・領事特権を享受しないが、査証を発給する権能を認められている。
他方、ドイツは、六八年一月ユーゴースラヴィアとの国交を回復した。
ドイツ・ユーゴー間には一九五一年以来国交関係が存在していたが、一九五七年にユーゴーが東独を承認したために、ドイツは、東独と外交関係を結んだ国とは国交を断絶するといういわゆるハルシュタイン原則を発動して、対ユーゴー外交関係を断絶した。従って、今般の対ユーゴー復交は、このハルシュタイン原則に対する重大な例外的措置であり、中近東諸国・インドなどの一部非同盟諸国がこれに乗じて東独承認を行なうのではないかと取沙汰された。
しかし、今日までのところ、東独承認を行なった国はなく、また対ユーゴー復交が東独側からの強い抵抗にもかかわらず実現したことは、ドイツにとって大きな成功であったと見られる。
ドイツは更に、ソ連および東独に対しても積極的な外交攻勢を行なった。六七年七月、ブラント外相は、独ソ国交調整に関する一四項目から成る提案をソ連に対して行ない、ソ連は同年一〇月および一一月にドイツ政府に対する覚書をもって、右提案に対する回答を行なったと伝えられる。しかし、他方においては、同年一二月に、ソ連政府がドイツにおけるネオ・ナチ政党の抬頭に関しドイツ政府に対して行なった声明にも見られるごとく、ソ連のドイツに対する攻撃は依然として続けられている。
六七年四月、キージンガー首相は、東独統一社会党の第七回党大会を前に、ドイツ政府は、ドイツ内部における緊張の緩和を図り、ドイツ民族の離間を防止するために、両独住民間の経済文化関係を促進するという趣旨の声明を行なった。これに対して東独シュトーフ首相はキージンガー首相に書簡を送り、両独関係正常化の前提条件として東独の国際法的承認を要求した。ドイツとしては、東独の承認には現在絶対に応じられないので、その後数次にわたりシュトーフ・キージンガー間で書簡の往復が行なわれたが、話し合いは進展を見なかった。
ドイツの対東欧政策は、ソ連、東独の抵抗、ポーランドの警戒心など幾多の困難に遭遇しているが、前述のルーマニアおよびユーゴーとの国交、チェコとの通商代表部交換をはじめ、ソ連とも話し合いの糸口をひらいたと見られる等無視し得ない成果を挙げつつあり、今後の動きが注目されるといえよう。
一九六九年に固定期間の終了期を迎えるNATOおよびNATOを中核とする西欧安全保障体制も、東西緊張緩和の影響を受けていくつかの新展開を示した。
六七年一二月、ブラッセルで開かれた閣僚理事会において、NATOの政治的役割強化に関するいわゆるアルメル報告が採択された。アルメル報告は、欧州における戦争の危険が遠のき、東西緊張緩和の傾向が生じて来た現時点において、緊張の緩和を促進し、ドイツ問題の解決を含む欧州の恒久平和を樹立するために、NATOが政治的役割を果し得ることを認めている。もっとも、その具体的な内容については、各加盟国が各自の緊張緩和政策の推進に関しNATOの場で協議を行なうことが出来ると定めているのみであり、一九六六年一二月のパリ理事会で提案された当初のアルメル計画からはかなり後退したものといわざるを得ない(当初のアルメル計画は、緊張緩和、低開発国援助等、世界政策の樹立におけるNATOの役割を強化するとともに、欧州における政治的経済的統合への動きを背景に、NATOの場において米国と欧州との真のパートナーシップを樹立するという野心的な内容をもっていた)。しかし、右のような限界にもかかわらず、今日まで軍事同盟として機能して来たNATOが、政治同盟としての性格をも指向するに至ったことは注目される。
懸案となっていたNATO新戦略(柔軟反応戦略)は、六七年一二月のNATO防衛計画委員会(フランスを除く一四カ国による会議で、NATO軍事機構の最高機関)において、採択された。柔軟反応戦略は、一九六四年に米国のマクナマラ前国防長官により提唱されて以来、既に米国の戦略として正式に採用されていたが、NATOにおいては、フランスをはじめ、欧州大陸諸国の反対に遭って、今日まで正式に採用されるに至らなかった。しかし、一九六六年三月にフランスがNATO軍事機構から脱退し、またドイツ等欧州大陸諸国も結局米の説得を容れた結果、今回の採択となったものである。
一二月のNATO防衛計画委員会は、また、ドイツに駐留するNATO軍の一部の配置転換に承認を与えた。これは主として、在独英軍六千人、米軍三万五千人の本国引揚げを内容としているが、その他ベルギー軍およびNATOの枠外でドイツに駐留しているフランス軍も一部が本国に引き揚げるといわれている。米英軍の引揚げは、兵員のみであり、兵器、弾薬等はドイツ国内に残される。また、これら兵員は依然としてNATO軍に属し、一朝有事の際には直ちにドイツの本隊に復帰することになっている。
かかる引揚げが行なわれた理由としては、米英両国の国際収支の悪化等の非軍事的要因が働いていたことは否めないとしても、東西対立の接点たるドイツにおいても、緊張緩和ムードが実感されるようになったことを示すものと見られている。
西欧諸国の国内情勢について見ると、フランスにおいては、下院における与党の勢力がドゴール左派の一部の離脱によりさらに弱体化し、無所属、中間派の支持を得なければ絶対多数が確保出来なくなったとともに、ドゴール大統領の後継をめぐり、政党各派の再編成の動き、および有力候補者間の勢力拡大への動きが活発化しつつある。ドイツにおいては、一九六九年秋の総選挙を控え、大連立内閣内部のキリスト教民主同盟および社会民主党の今後の動きが注目される。
比較的平穏であった西欧において、ギリシャのクーデターおよびベルギーにおける言語問題の再燃が衝撃を与えた。
ギリシャにおいては、従来国王・保守派および左派の間に確執があったが、六七年四月、陸軍部内の右翼分子によるクーデターが発生し、軍事政権が成立して議会制度は停止された。しかるところ、ギリシャ国王は軍事政権の独裁的傾向を不満として同年一二月反クーデターを企図したが、事前にこれを察知した軍事政権側に鎮圧され、国王はローマに逃亡した。その後両者の間で何らかの妥協を図るための話し合いが続けられているが、今日までのところ話し合いはついておらず、国王は依然ローマにとどまっている。ギリシャの軍事政権は、このような成立の事情から、西欧諸国官民の強い非難を蒙ったが、政権の基礎が固まるにつれて、各国は次第にギリシャとの関係を正常化しつつある。
他方ベルギーにおいては、とくに言語問題をめぐるフラマン人(オランダ語系のフラマン語を話す)とワロン人(フランス語)との間の対立が大きな問題となっているが、六八年二月フラマン語地帯にあるルーヴァン大学フランス語部のフランス語地帯移転問題をめぐり、フラマン、ワロンの対立が激化し、遂にヴァンデン・ボイナンツ内閣は総辞職に追いこまれ、国王は国会を解散、三月三一日、総選挙が実施された。この総選挙ではブラッセル等両語地帯において、フラマン人、ワロン人が別々の候補者リストを立てて争い、又選挙の結果では、フラマン系、ワロン系双方の連邦主義派がかなりの伸びを示しており、連邦制問題を含めての両言語系の今後の対立が注目される。
1 中近東情勢
一九六六年末から頻発した国境衝突事件のため、アラブ・イスラエル間の緊張が高まるにつれ、一九六七年五月以来、アラブ・イスラエル双方は戦闘態勢を整え、とくにアラブ連合はシナイ半島への軍隊移動、国連緊急軍の引揚げ要求、アカバ湾の封鎖をもってイスラエルを牽制し、他方イスラエルもアカバ湾封鎖に対しては自衛権の行使をも辞せずとの立場をとったため、中東情勢は加速度的に緊迫し、国連内外を通ずる危機打開工作が難航するうちに、六月五日ついに戦端が開かれた。イスラエルは電撃作戦により、西部戦線ではシナイ半島の大半を収めてスエズ運河東岸に達し、東部戦線ではジョルダン河西岸の全域とシリア領の一部を占領した。アラブ連合は、六月六日スエズ運河を閉鎖し、革新派諸国とともに米英両国をイスラエル支援国と非難し、これとの外交関係を断絶し、他方アラブ産油国は米英等に対し石油禁輸措置をとった。
六月六日の国連安保理で採択された即時停戦要請決議に基づき、一〇日停戦が実現したが、和平のためにはアラブ側との直接交渉による講和やアラブ側のイスラエル承認が必要であるとするイスラエルと、イスラエル軍の無条件撤退こそ和平への先決条件であり、イスラエルの不承認、イスラエルとの直接交渉拒否を主張してゆずらないアラブ諸国の間の対立と両者の非妥協的態度に禍いされて、国連緊急特別総会、安保理等を通ずる戦後処理工作も実質的成果をあげえなかった。
この間にあってソ連や東欧諸国は、イスラエルの生存権は認めるが、イスラエルの即時撤兵が先決であるとし、アラブ諸国を支持する態度を示し、ルーマニアを除く各国がイスラエルと断交した。他方、米国を初め多くの西欧諸国は、イスラエル撤兵を他の主要懸案とともに総合的に解決すべきであるとの立場をとった。ジョンソン米大統領は六月一九日、国連緊急特別総会出席のため訪米したコスイギン・ソ連首相とグラスボロで会談したが、両首脳は戦争回避とイスラエルの生存権承認の二点で一致したのみで、戦後処理に関する基本問題については合意をみるに至らなかった。
なお西欧諸国の中では、仏国のみがアラブ寄りの中立的態度を保持しているのが注目された。他方、チトー・ユーゴー大統領は八月アラブ革新派諸国を歴訪後、中東紛争解決のため、六月四日以前の状態への復帰を骨子とするチトー試案を関係各国に示したが、イスラエルと米国の反対にあい、同試案は具体化されなかった。
しかし、その後八月の第四回アラブ首脳会議を契機として、アラブ世界内に芽ばえ始めた現実的かつ穏健な気運を反映して、アラブ諸国(シリアを除く)は対イスラエル基本方針を貫きつつも、漸次政治的解決に応ずる姿勢を示し、対米英石油禁輸も解除された。このようなアラブ側の雰囲気を背景に、一一月二二日、安保理は中東の恒久的平和の確立を目標として、(1)イスラエル軍の占領地からの撤退、(2)交戦状態の終結とイスラエルの生存権尊重および(3)国連事務総長特別代表の中東派遣の三点を骨子とする決議を採択し、停戦後五カ月にして漸く問題解決の基本線についての国際的コンセンサスが成立した。
右決議に基づき、国連事務総長特別代表に任命されたヤーリング在ソ連スウェーデン大使は、一二月一〇日サイプラスのニコシアに本部を設けて以来、決議に反対し同特別代表の受入れを拒否しているシリアを除く関係各国を再三歴訪した結果、(1)スエズ運河内に閉じ込められている一五隻の外国船の運河外撤去、(2)アラブ連合、イスラエル間の捕虜の交換等第二次的問題の解決に努力し、後者については成功を収めたが、前者については船舶の撤去についてアラブ連合・イスラエル間に合意が成立しないまま、アラブ連合側が調査作業を強行した際、両国軍間に発砲事件が発生したため中止となった。しかし、ヤーリング特別代表は各国首脳と話合いを行なった後、ニコシアでアラブ・イスラエル間の間接的会談を開くよう呼びかけたが、両当事者間の基本的対立が禍してこれが実現に至らず、同特別代表の和平調停工作は行詰っている。
一方、一九六七年秋以来、イスラエル占領地域内におけるアラブ人のゲリラ活動が活発化していたが、六八年二月二八日、イスラエルが占領地を敵国領土から除外する措置をとったこと等を契機にゲリラによる破壊工作が激化したため、三月二一日、イスラエル軍は中東戦争後初めてジョルダン河を越えてジョルダン領に侵入、ゲリラ基地と目される地点を攻撃した。安保理は同二四日、イスラエルの軍事行動を非難するとともに、あらゆる暴力事件の発生を遺憾とする決議を採択した。イスラエルは同決議を拒否するとともに、アラブのゲリラ活動に対しては、あくまで自衛の措置をとると言明し、他方、アラブ諸国もイスラエルの停戦決議違反に対し態度を硬化しており、アラブ側のゲリラ活動とこれに対するイスラエル側の軍事的報復の悪循環は当分続くものと見られる。関係当事国両側に対し最も直接的影響力を行使しうる米ソからの積極的働きかけがないかぎり、膠着した現状が打開されヤーリング特別代表が撤兵、国境画定、難民問題、スエズ運河自由航行問題等、実質的問題の解決に取り組むことは容易に期待しえないと考えられる。
この間にあって中東戦争以後急激に顕著になってきた中東全域におけるソ連の軍事援助の質量両面での拡充およびソ連自体の海軍力の地中海進出が注目される。
ソ連は中東戦争の前後を通じ、黒海艦隊の一部を地中海に南下移動せしめたが、これら艦艇はアラブ連合のポートサイド、アレキサンドリア両港、シリアのラタキア港等を常時訪問し、地中海における地歩を強化している。その外、ソ連は敗戦を喫したアラブ革新派諸国に対し軍事援助を大規模に行なっており、これら諸国が今次戦争で喪失した武器の約八○%を補給し、多数の軍事専門家を派遣しているといわれている。さらに一二月アラブ連合軍のイエメン撤退の後をうけて、イエメン共和政権に軍事的挺子入れを行ない、一一月三〇日独立した南イエメン人民共和国に対しても軍事使節団を派遣している。このようにアラブ革新派諸国に対して軍事援助を積極化する一方、近年ソ連は、イラン、トルコ等一部保守派諸国との関係改善の意欲をも示している。
イエメン紛争に関しては、第四回アラブ首脳会議出席のためカルツームを訪問したナセル大統領は、マハジューブ・スーダン首相のあっ旋により、ファイサル国王と会談、その結果、アラブ連合軍の撤退と王党派に対するサウディ・アラビアの軍事援助の停止を監視するとともに、イエメンの独立、統一および安定を実現することを主要任務とし、スーダン、イラクおよびモロッコからなる三カ国委員会が設置された。しかし、サラール・イエメン大統領がイエメンの参加しなかったナセル・ファイサル協定には拘束されないとし、三カ国委員会ボイコットの強硬態度を示したため、同委員会の調停工作は当初から難航した。
他方、サラール大統領はイエメン紛争の長期化に対する国内の不満を抑え切れず、一一月五日、訪ソのため国外にあった際、軍部の革命により追放された。
王党派との話合いを通じる紛争解決をスローガンとした新共和国政権が王党派に対する態度を次第に硬化せしめつつあったことに対する不満、アラブ連合軍撤退後ソ連が軍事援助に乗り出したことに対する不安等から、王党派軍は一一月末から対共和派攻勢を展開し、約二カ月にわたって首都サナアを包囲するに至った。かくてアイニ文官内閣は退陣し、アムリ総司令官を首班とする戦時内閣が成立した。この後もサナア攻防戦が散発的に行なわれたが、共和派軍はソ連製ジェット機、タンク等の援護をうけて、王党派軍の執拗な攻撃をかわし、王党派の攻勢は一頓挫を来している現状である。
三カ国委員会は内戦激化とともに活動を再開した結果、六八年一月ベイルートで共和、王党両派間の和解会議を開催しようとしたが、両派間の対立を解消するに至らず、和解工作も失敗に帰したため、同委員会はナセル、ファイサル両首脳に事態収拾に乗出すよう要請して、一時休会することとなった。
南アラビアでは、一九六七年後半以来、独立後の主導権争いをめぐり、南アラビア連邦政府、NLF(国民解放戦線)およびFLOSY(被占領南イエメン解放戦線)が三つ巴の闘争をつづけてきたが、まず南アラビア連邦政府が崩壊し、一一月始めアデンにおける戦闘の結果、FLOSYも潰滅的敗北をうけ、NLFの最終的勝利が確定的となった。
かくて英国はNLFに政権を移譲することを決定、一一月二一日からジュネーヴにおいてNLF代表団と独立交渉を行なった結果、二九日独立に関する合意メモランダムの調印が行なわれ、一一月三〇日をもって南イエメン人民共和国が独立した。同国は一二月一二日アラブ連盟、同一四日国連への加盟が認められた(わが国は一二月一二日同国を承認した)。アラブ諸国のうち、サウディ・アラビアのみはNLF政権が真に民意を代表した政権ではないとして同国を承認することを拒否している。
アッシャービー大統領は就任後の演説において、国内的には社会主義政策、対外的には中立非同盟政策をとることを明らかにし、イエメンとの統合促進のため、イエメン共和政権との協調体制を樹立する旨言明している。英国は南イエメンに対し、独立後六カ月間に一、二〇〇万ポンドの短期援助を行ない、それ以後の長期援助については、両国間で交渉を行なうことになっている。
六八年一月一六日、ウィルソン英首相が一九七一年末までにペルシャ湾岸地域よりの英軍撤兵を発表して以来、この地域にある関係諸国首脳間の往来が活発化したが、世界有数の産油地帯である同地域の安全保障問題は大きな焦点となってきている。
英保護下のペルシャ湾土侯諸国においては、英軍撤退の決定は驚愕の念をもって迎えられたが、徐々にショックより立直り、右決定により予想される空白を自らの手でうめるための対策を自らのイニシアティブにより創り出すべきであるという考え方に立ち、まず、トルーシャル・オマンのドゥバイ、アブー・ダビーの二土侯国で、二月一八日連邦の成立について合意を見、他の土侯諸国にも加入を呼びかけた。右を契機として地域的連帯のムードが醸成され、九土侯諸国(バハレーン、カタル、トルーシャル・オマン七カ国)の首長等は二月二五日より同月二七日までドゥバイにおいて首脳会議を開催、同二七日「アラビア首長国連邦」を結成する協定に署名した。
連邦結成の反響については、アラブ諸国は連邦結成により同地域のアラビズムおよび独立が維持されるとして一様にこれを歓迎しており、クウェイトのサバーハ首長は二月二八日全首長に祝電を発してこれを祝福、イラクのアレフ大統領は三月三日「われわれはかれらを支持し、かれらがその機構強化に必要な全てを得られるように支持する用意がある」と述べ、アラブ連合はそのスポークスマンを通じ二月二八日、連邦はそれが同地域人民の意思の真の表明であればア連合の承認するところとなろうと表明、アラブ連盟事務総長も右を支持しており、サウディ・アラビアは公式声明を発していないが、同国紙はこれを歓迎している。バハレーン領有権、大陸棚中間線等の問題もあって同地域に対し微妙な利害関係を有するイランは、連邦結成に重大な関心を払いつつも現在のところ静観する態度をとっている。
トルコ、イラン両国は過去数年来引続き自主独立外交路線を推進しており、欧米諸国との友好関係を維持しつつ、ソ連および共産圏諸国との関係改善に努めており、アフガニスタンも非同盟主義の下に米ソ両陣営から援助を受けている。
イスラエルは中東戦争における軍事的勝利を利して、自国の安全保障を確立し、アラブ諸国にイスラエルの存在を承認せしめようとして強硬な態度を維持している。中東戦争直前、イスラエルは挙国一致内閣を組閣して難局を乗り切ったが、一九六八年一月、与党の労働三党が大同団結して同国最大の政党を結成した。
2 アフリカ情勢
アフリカ諸国の一部にはいまだ過激な言動がみられるものの、大勢としては、独立当時の急進的傾向が次第に影をひそめて、より現実的かつ穏健な方策により国家建設に努める傾向が強まって来た。
一九六五年半ば以来のクーデターの続発により、アフリカ大陸の一〇カ国以上に軍事政権の成立を見たが、これも、強力な中央政府の指導の下に国家の統一を維持し、国造りを推進しようとの意図の現われと見れば、アフリカ諸国の政治姿勢は概して落着きをみせて来たといえよう。
もっとも、この落着きと安定とは逆に、国内紛争が武力闘争にまで発展した地域もある。例えば、一九六〇年の独立当初ブラック・アフリカの模範生と目されていたナイジェリアにおいては、一九六七年五月連邦を構成する四州の一つである東部州が「ビアフラ共和国」の名の下でナイジェリア連邦からの分離独立を宣言し、これを違法であるとして認めない連邦政府との間に内戦が勃発した。この背景としては、連邦政府の主流を占める北部のハウサ族と、主として東部州に住むイボ族との従来からの対立が、一九六六年の二度にわたる軍事クーデターを通じて極度に高まりを見せたこと、これに加えて、東部州の石油をめぐる利害対立がからんでいること等が挙げられる。
戦況は、兵員・装備において優る連邦軍がビアフラ軍を包囲して優勢であるが、ビアフラ住民の結束が固く、また、ビアフラ領土がゲリラ戦に適する要害の地であるので、戦闘はゲリラ戦の様相を呈している。
世界の主要国は公式には介入を手控えて成り行きを静観しているが、連邦、ビアフラ双方とも、東西両陣営から軍用機、武器弾薬等を購入することに努めていると伝えられる。なお、三月末までに「ビアフラ共和国」を承認した国はない(注、その後四月にタンザニア、五月にガボン、象牙海岸、ザンビアが承認に踏み切った)。
OAU(アフリカ統一機構)、英連邦事務当局等の国際機関が和平調停を試みたが、これまでのところ双方ともに自己の立場を譲らず、和平への糸口はつかめていない。
また、独立以来何度かの内戦を経験したコンゴー(キンシャサ)においては、一九六七年六月の新憲法制定および通貨改革の実施により、モブツ政権の基礎が固まり同国の今後の発展の基盤が形成されたものとみられていたが、七月に至り外人傭兵の反乱が発生して国内治安が著しく悪化した。これよりさき、一九六五年一一月のクーデター後スペインに亡命していたチョンベ前首相が、一九六七年六月、チャーター機により飛行中、アルジェリアに強制着陸を命ぜられ、直ちにアルジェリア当局によって抑留されるという事件が起きた。コンゴー政府は、一九六七年三月、特別軍事法廷において、欠席裁判によりチョンベに対し大逆罪のかどで死刑を宣告していたので、直ちにアルジェリア政府に対し身柄引渡しを要請したが、アルジェリアは依然として同人の抑留を続けている。
キサンガニに発生した上記外人傭兵の反乱は、チョンベの政権復帰の陰謀に関連ありとの観察も行なわれたが、この反乱の直接の動機は、一九六七年九月コンゴー(キンシャサ)政府がOAU元首会議の開催前に外人傭兵の解雇を決定したことにあると考えられる。
南部アフリカ問題については、南西アフリカと南ローデシアの問題がますます尖鋭化し、同地域における植民地独立問題、人種差別問題解決の困難性を露呈した感がある。
一九六七年五月、国連第五回特別総会は、南西アフリカの独立まで同地域を統治するために、一一カ国より成る南西アフリカ理事会を設置し、同理事会をして南西アフリカの施政権委譲について南ア政府と協議せしめるとの決議を採択したが、南ア政府は決議採択後直ちに、この決議を受諾する意向の全くないことを内外に明らかにしたのみならず、主にテロ行為を行なったかどで三七名の南西アフリカ人を逮捕し、プレトリアにおいて裁判に付した。国連は、第二二回通常総会において、これを不法な逮捕、裁判であるとなし、南ア政府に対し、これら南西アフリカ人の即時釈放、即時帰国を要求する決議を採択した。しかし、南ア側はこれに耳をかさず、一九六八年二月、三三名に対し有罪の判決を下した。これに対し、国連安保理は同年三月一四日、南アを非難すると共に、それら南西アフリカ人を即時釈放・帰国せしめるよう南アに要求し、南アが拒否する際は、再び安保理を開いて適当な措置をとるとの決議を採択した。
南ア政府のかかる態度に対し、国連を中心とする国際世論の圧力は益々増大しつつあるが、南ア政府は他方ではその周辺アフリカ諸国と友好関係を維持する政策をとり、バンダ大統領のもとに黒人国としては極めて現実的な方策を打ち出しているマラウイと外交関係を樹立し注目をあびた。
南ローデシア問題については、一九六六年一二月、国連安保理で南ローデシアに対する選択的強制経済制裁決議が国連史上初の経済制裁決議として採択され、南ローデシア経済に対しかなりの打撃を与えたものの、南アやポルトガル(モザンビク)の協力が得られないため決定的効果をあげるに至らず、南ローデシア政権をして、妥協の道を選ばせ、南ローデシアと英国との間の話合による妥結を実現せしめるまでには至っていない。トムソン英連邦相は、一九六七年一一月、ソールズベリーを訪れ、スミス非合法政権首相と会談したが、この会談の結果は、英国と南ローデシア双方の立場の相違が従前よりも大であることを明らかにしたに過ぎなかった。スミス政権は、先に主としてテロ行為容疑で死刑判決を受けていたアフリカ人三名の死刑執行につき、英国女王が大権を発動して死刑赦免決定を通告したにもかかわらず、六八年三月六日これを無視して三名の死刑を執行し、さらに数日後二名のアフリカ人の死刑を執行した。この挙により英国と南ローデシアとの間の話合いの余地はますます狭められたと見られるのみならず、本死刑執行は世界の多くの国の激昂を惹起し、アフリカ急進派諸国は武力行使を含む英国の行動の必要性を従来より一層強硬に主張するに至っている。こうした事情を背景として、三月一九日以降、国連安保理において、対南ローデシア全面的強制経済制裁が審議された(注、五月二九日に至り、右決議は全会一致で採択された)。
一九六七年九月、コンゴーのキンシャサで開催された第四回OAU元首会議においては、急進的スローガンの宣言に終始して実際の行動となると空しい結果に終わっていた従来の行き方を改め、ナイジェリア内戦問題、コンゴー(キンシャサ)の外人傭兵問題、ケニア・ソマリア間の国境紛争、象牙海岸・ギニア間の相手国国民の抑留問題等、ブラック・アフリカ自身の抱える内部の重要懸案の解決のため、地道な話合いが進められ、それぞれの問題につき具体的な解決策ないし解決の糸口を見出す努力がなされた。こうしたOAUの行き方は、アフリカ諸国指導者の現実的アプローチの傾向を裏付けるものとして注目に値する。
アフリカにおける最近の動きの特色の一つは、中共、ソ連等共産圏諸国の勢力が退潮傾向を示していることであり、とくに国連第二二回総会の中国代表権問題の投票振りが一年前に比して中共の不利に傾いたのは、アフリカの票の動きによったものと言えよう。これは、共産圏諸国の浸透工作が内政干渉を伴うことが多く、アフリカ諸国の民族主義を傷つけることが多かったこと、共産圏よりの経済援助が政治的動機に基づく単なる約束に止まり、実行を伴わない場合が多かったこと等により、アフリカ諸国の不信、不満が高まったためと見られる。しかし、中共は、最近タンザニア・ザンビア鉄道敷設計画のための借款供与に関する協定に署名したと伝えられており、上記両国のほか、コンゴー(ブラザヴィル)、ギニアなどの地域を拠点としてまき返しに出ることは十分予想される。
一九六七年四月以降の中南米の政治情勢を概観すると、キューバのゲリラ分子のヴェネズエラおよびボリヴィアにおけるゲリラ活動の活発化をめぐり、キューバ制裁のための決議が第一二回米州機構(OAS)外相会談で採択された以外は、全般的に平静に推移した。
メキシコにおいては、一九六七年七月下院議員二〇八名の改選が行なわれた結果、与党の立憲革命党が、一七一議席の圧倒的多数を占め、依然政局の安定を示した。中米諸国中、グァテマラにおいては、共産ゲリラのみならず都市における左右両翼のテロ分子による治安攪乱活動がますます激化している。一九六八年一月以降、非常事態が宣言されていたが、さらに三月下旬には戒厳令が宣せられ、政情の不安は解消の兆を示していない。エル・サルヴァドルにおいては、一九六八年三月の国会議員選挙の結果、与党の国民和解党(PCN)が従来の三一議席から二七議席に減少した。一方、野党のキリスト教民主党(PDC)が一五議席から一九議席を占めるに至り、このチリのキリスト教民主党に類似する政党の進出は、同国における新しい政治勢力の抬頭として注目されつつある。なお、一九六七年五月、エル・サルヴァドルとホンデュラスの国境警備隊の間に衝突事件が発生したが、両国の混合委員会により、事態の一応の収拾が行なわれ、その後中米機構により、最終的な解決のための努力が続けられている。また、パナマにおいては、一九六七年半ば、米国との間に起草を了した新パナマ運河条約案が野党の政府攻撃材料に利用され、一九六八年五月に予定されている次期大統領選挙戦を白熱化させることとなっている。国会における政府反対党は、現ローブレス大統領の選挙活動を憲法違反なりとして、一九六八年三月二四日、同大統領の罷免決議を成立させた。
カリブ海域のドミニカ共和国においては、一九六六年成立したバラゲール政権の下で、民主主義政治の確立と経済の再建のための努力が続けられており、一九六七年半ばには輸入制限措置の強化により外貨収支の改善を図っているが、いまだ革命の傷あとから脱却するに至っていない。ハイティにおいては、依然デュヴァリエ終身大統領の独裁政治が続き、一九六七年六月に起こった女婿ドミニック大佐を中心とする陰謀事件は、数百人の政治犯の逮捕と、多数の処刑者を出した後、ようやく鎮圧されたが、その政情の不安は解消されるに至っていない。一方西印度諸島の新興独立国は、そのうちバルバドスが一九六七年一〇月米州機構への加盟を認められたように、米州機構との連帯を強化しつつあり、またカリブ海域の経済統合を目標とするカリブ海自由貿易連合結成のための積極的な準備が進められている。
キューバにおいては、カストロおよびカストロの支持者が、党および軍部を完全に掌握しているので、国民の一部にあるカストロ政権に対する不満にもかかわらず、反革命分子の策動は問題とするに足らないものとなっている。ただ一九六八年に入って以来、ソ連からの援助の削減に伴うガソリンその他食料品配給制度の強化により、国民一般に耐乏生活を更に強要する一方、零細個人企業の国有化、自由職業の否認など、一層徹底した革命的施策を発表するに至った。
キューバと米国の関係は、依然膠着状態にあり、また中共との関係は、一九六六年以降の微温的友好関係に止まっているが、ソ連との関係においては、キューバ政府の対ラ米武力革命促進政策とソ連の平和共存政策とが、両国間の軋轢の原因となり、一九六七年六月のコスイギン首相のキューバ訪問の際行なわれたと考えられる両国の戦術調整も結実せず、同年八月、ハヴァナで開催されたラ米連帯機構第一回会議を契機として、両国間の革命に対する戦術面での考え方の相違は一層表面化し、一九六八年一月には、カストロは党幹部から数名のソ連派共産党員を追放し、ブダペスト協議会議への参加を拒否するなど、ソ連路線から離脱した自主路線を明らかにしつつある。
アルゼンティンについては、一九六六年六月軍事革命により成立したオンガニア政権は、ストライキ禁止、一部労組の法人格否認、資金の凍結などにより、ペロン派勢力の源泉である労組を弾圧するとともに、反共法を制定し共産活動を抑えるなど、着々とその独裁体制を築いている。一方、ペソの大幅切下げ、緊縮財政、徴税強化など、経済安定のための諸施策を実施し、その成果にはみるべきものがあるが、それにもかかわらず、物価騰貴の趨勢は依然根強く、経済政策が成功するか否かは今しばらくその動向を見守る必要があろう。
なお、一九六八年三月、大統領(陸軍大将)が行政能率化および合理化の成果が上っていないことを理由として、政府幹部を公然と批判したことに憤慨して、国防大臣(文官)が辞任したが、軍内部の結束は依然として固いものがあり、政権の安定度には大きな影響はないものと判断される。
ボリヴィアでは、バリエントス政権は、その後楯であるボリヴィア革命戦線および農民団体の派閥抗争ならびに一九六七年三月同国東南部に発生した共産ゲリラの活動によって政情は混迷していたが、同年一〇月共産ゲリラを指揮していたキューバの元工業大臣エルネスト・ゲヴァラが戦死し、共産ゲリラ勢力が衰微した結果、バリエントス政権は、対外的にも対内的にも強化され、政情は一応落ち着きを示している。
ブラジルにおいては、一九六七年三月一五日就任したコスタ・イ・シルヴァ大統領(陸軍元帥)は、カステロ・ブランコ前政権が一九六四年四月革命以後築き上げた成果を基礎とし、新憲法により拡大された強力な権限を行使して安定した政情の上に経済発展を推進する体制を固めるための努力を行なった。同大統領は革命の「ヒューマニゼーション」を唱え、政治面ではその正常化、経済面では経済開発をはかりつつインフレを抑制する方針を示している。
就任後一年を経過し、インフレ率の低下は見られたものの、国民大衆の生活は依然苦しく、現政権反対派のフレンテ・アンプラ(広汎戦線)結成運動と相まって、政府に対する批判が相当強くなる可能性もあるが、コスタ・イ・シルヴァ大統領が軍部を掌握している間は、その指導力、統制力に変化はないと思われる。
チリについては、フレイ政権は上院における与党キリスト教民主党が劣勢のため、政府の意図する革新政策を迅速かつ円滑に遂行できない状況にあり、他面、インフレの再燃傾向、国際収支の悪化等の国民生活への圧迫増大のため、現政府に対する国民の人気は低下の傾向を示しているが、政情の大きな変化はない。
コロンビアでは、ジェラス・レストレポ政権が国民戦線体制の下に政治の刷新と経済の建直しに積極的に努力している。
エクアドルについては、一九六七年五月新憲法が公布され、同時にオット・アロセメナ臨時大統領が新憲法に基づく大統領となったが、次期大統領選挙は一九六八年六月に行なわれ、政情の帰趨はその結果如何にかかっている。
ガイアナでは、一九六六年五月独立以来、バンハム政権は積極的に諸外国との外交関係を樹立し国際協調の実を挙げつつあるほか、米国の経済援助により同政権の経済社会政策はかなりの成果を挙げている。しかし、一九六八年一一月ないし一九六九年三月までに行なわれる予定の次期国会議員選挙において野党第一党のジャガンを党首とする急進派の人民進歩党の勢力がさらに伸長する可能性もあるとみられている。
パラグァイにおいては、ストロエスネル現大統領の事実上の独裁体制に大きな変化はなく、一九六七年五月に行なわれた憲法制定議会において与党国民共和党は勝利をおさめ、この結果、同年八月ストロエスネルの三選を可能ならしめる新憲法が公布された。その後一九六八年二月新憲法の下で大統領選挙が行なわれ、ストロエスネルが次期大統領に当選し、また、同時に行なわれた国会議員の選挙においても、上下両院ともに与党国民共和党が圧倒的な勝利をおさめた。
ペルーについては、一九六七年初頭以来政府の予算削減と関税引上げを骨子とする均衡財政政策に対する野党側の攻撃によって、与野党間の対立は深刻化し、政局は少なからず動揺したが、同年九月一日政府はソール貨の平価切下げを行ない、その後財政・経済の建直しのため真剣に努力しており、政局も次第に安定をとり戻しつつある。
ウルグァイでは、一九六七年三月新憲法の下で大統領制復帰後初の大統領に就任したオスカル・ヘスティードは、同年一二月急逝し、直ちに副大統領のホルヘ・パチェコが大統領に就任したが、与党コロラド党内の派閥抗争、慢性的な経済不況などによって政情は安定していない。
ヴェネズエラについては、ラウル・レオニ政権は経済・社会改革の努力を払っており、政情は一応安定しているが、一九六八年一二月に大統領選挙を控え、現在各与野党は候補者の擁立、政党間の取引等をめぐって活発な選挙運動を行なっている。
ラ米連帯機構第一回会議では、革命の基本路線として、武力革命方式が打ち出されたことが注目される。すなわち、
(1) 一九六六年一月ハヴァナにおいてアジア・アフリカ・ラテンアメリカ三大陸人民連帯会議が開催された際、ラ米諸国より二七代表が同会議に参加し、ラ米における反帝闘争の統合調整および推進を目的としたラ米連帯機構(OLAS)が創設され、その第一回会議が一九六七年七月三一日から八月一〇日までハヴァナで開催された。この会議は、ラ米諸国の共産勢力がソ連派、中共派、カストロ派に分裂し、それぞれ自己の路線を主張して各派が対立している状況下にあって、カストロ派の指導の下に開催されたものであり、同派の提唱する武力革命方式が、ラ米の共産革命の基本路線として打ち出されるか否か注目されていたものである。なお、ヴェネズエラ、ブラジル、アルゼンティン、エクアドルの各共産党は、代表を派遣しなかった。また、中共、ユーゴーなどに対しては、オブザーヴァー派遣の招請がなされなかったと伝えられ、ソ連は、低い地位のオブザーヴァーを派遣したにとどまった。
(2) この会議においては、主に次の議題が討議された。
(イ) ラ米における反帝闘争
(ロ) ラ米に対する帝国主義の浸透に対する共同の立場と行動
(ハ) 民族解放闘争とラ米人民の連帯
(ニ) ラ米連帯機構の規約採択
これらの議題の審議の過程において、カストロ支持派とソ連支持派の対立が表面化し、とくに、ソ連など東欧諸国のラ米諸国に対する友好的態度を非難する旨の決議案をめぐり、両派の意見の衝突があったが、結局、主に次の決議がカストロ派の路線に沿って採択された。
(イ) マルクス・レーニン主義が革命の方針である。
(ロ) 武力闘争が革命の基本路線であり、他の闘争は、武力闘争に奉仕すべきである。
(ハ) ゲリラが解放軍の基礎をなし、ラ米における多くの国の革命闘争を開始し、発展させる最上の手段である。
米州機構(OAS)の動きとしては、米州頂上会議および第一二回(OAS)外相会議が重要視される。
(1) 米州頂上会議
この会議は、一九六六年三月イリヤ前アルゼンティン大統領の提案に端を発し、一年余のう余曲折の後、一九六七年四月ウルグァイのプンタ・デル・エステにおいて、米州諸国二〇カ国の首脳出席の下に開催された。ラ米諸国の中には、この会議の開催理由につき疑問をはさむ向きもあったが、米国は、ラ米諸国の首脳を一堂に集め、停滞気味の「進歩のための同盟」に活気を与えるため、また、ヴィエトナム戦争に巨額の金をつぎ込んでもっぱら関心をアジアに向けているというラ米諸国の対米非難に対し、米国は、ラ米を忘却しているのではないという印象を与えるため、この会議の開催に非常に熱心であった。
会議の課題は、次のとおりであった。
(イ) ラ米経済統合問題
(ロ) 経済・産業・社会開発基盤強化のための多数国間計画の推進
(ハ) ラ米各国の国際貿易条件改善のための方針
(ニ) 農村生活の近代化と農業生産性の向上
(ホ) 教育・技術・科学の開発および衛生に関する計画の強化
(ヘ) 不必要な軍事費の削減
会議は最終日、宣言と活動計画の二部よりなる米州大統領宣言を採択した。エクアドル大統領が、米国はマーシャル・プラン型の多額の直接援助資金の供与を行なうべきで、援助額の少ない共同市場構想は、米国の責任回避であるとして署名を拒否した以外は、すべての参加国首脳がこの大統領宣言に署名した。
この会議の中心議題であったラ米共同市場創設問題については、ラ米諸国の中の比較的先進国と低開発国との間の経済力の格差、ラ米共同市場創設基金の問題、既存のラテン・アメリカ自由貿易連合(LAFTA)と中米共同市場(CACM)との調整の問題など、種々困難な事項が山積しているため、米州諸国がラ米共同市場の完成に向かって順調に進み得るかを疑問視する向きも多いが、各国首脳が平等の立場で発言し、率直な討議を行なった後、米州大統領宣言において、ラ米共同市場を一九八五年までに完成することを決議し、また、ラ米の経済開発への域内諸国の共同努力を確認したことは、一大成果であった。
(2) 第一二回OAS外相会議(キューバ制裁問題を扱ったもの)
ヴェネズエラが、一九六六年初頭ハヴァナで開催された三大陸人民連帯会議以降のラ米における共産主義者による破壊活動、ならびにキューバの対ヴェネズエラ内政干渉、およびゲリラによる侵攻行為に対し、OASがとるべき措置につき決定するよう強く求めてきた結果、第一二回OAS外相会議が一九六七年九月ワシントンで開催された。かねて、一九六四年七月ワシントンで開催された第九回OAS外相会議で、キューバと外交・領事関係、貿易関係および海上輸送関係を維持しないことなどが決議されていたので、それ以上のいかなる対キューバ制裁措置を決議し得るかにつきとくに注目されていたものである。この会議ではヴェネズエラの提案にかかる一一項目を中心に、米国、ヴェネズエラなどの強硬派とメキシコ、チリなどの穏健派との間で連日の検討の結果、キューバの武力革命政策およびその具体策たる破壊的侵略行為に対する一般的非難と、OAS非加盟国に対し、反キューバ・キャンペーンヘの参加を強く勧奨する目的でのOAS諸国の結束の表明ということにしぼられ、全六部より成る決議が採択されたが、そのうち主なものは、第三部および第四部であり、その概要は、下記のとおりであった。なお、メキシコは、現在キューバと航空輸送関係を維持しており、第三部につき棄権した。
第 三 部
(イ)キューバのヴェネズエラ、ボリヴィアなどにおける内政干渉的行動を非難する。
(ロ) 域外友好諸国に対し、対キューバ貿易および金融取引、海上および航空輸送、ならびに政府系企業の取引と輸送の抑制を要請する。また、これら諸国の政府信用または信用保証供与に対する反対の態度を表明する。
(ハ) OSPAAAL(アジア・アフリカ・ラテンアメリカ人民連帯機構)支持国への支持撤回アピール、およびOLAS(ラテンアメリカ連帯機構)の動向の監視強化を行なう。
(ニ) OAS非加盟国へのキューバ支持撤回アピールを行なう。
(ホ) OAS加盟国に対し、キューバからの破壊活動分子、宣伝物資、資金、武器などの流入防止につき、その監視を強化するよう要請する。
(ヘ) キューバ貿易に従事した船舶に対し、政府物資または政府の融資による物資の積み込を拒否するよう、ならびに上記船舶に対し、OAS加盟国港湾において燃料補給を禁止するようOAS加盟国に対し勧告する。
(ト) 今次会議の決議を国連の安保理へ報告すること。
第 四 部
キューバの行動に関し、国連の正当なる権限を有する機関に対し注意を喚起すること。
(1) 一九六七年春から一九六八年春にかけての一年間は、国際連合にとり極めて多忙な年であった。すなわち一九六七年四月、南西アフリカ問題の審議を主目的とする第五回特別総会が開催され、国連南西アフリカ理事会の設立という一応の結論を得て閉会された直後に、中東においてアラブ諸国とイスラエルとの間に戦端が開かれ、安全保障理事会の審議を経て、六月、中東問題に関する緊急特別総会の開催を見るに至った。その後を受けて九月に開かれた第二二回通常総会は、変動する国際情勢を反映して種々波瀾に満ちたものであり、多数の議題の処理に忙殺された結果、最重要議題であった拡兵器不拡散条約問題、中東問題および南西アフリカ問題の三議題について審議を完了し得ないままに一旦閉会され、これら諸問題についての審議を継続するために一九六八年春に改めて通常総会を再開することとされた。
この間、安全保障理事会は中東における戦乱、およびそれに引続く同地域の不安定な状況を反映して、頻繁に会合を重ね、また一九六八年に入ってからは、南ローデシアをめぐる緊張の増大に伴い、南部アフリカ諸問題について安保理事会の活動が活発である。他方、一八カ国軍縮委員会はジュネーヴにおいて会合を重ね、核兵器不拡散条約案の確定のために努力を重ねて来た。
経済関係については、一九六七年四月アジア極東経済委員会(エカフェ)の創立二〇周年記念総会が東京で開催され、また一九六八年二月にはニュー・デリーにおいて歴史的な大会議である第二回国連貿易開発会議が開かれるなど、南北間の経済格差是正の問題について、大規模な国際会議が頻繁に開催された。
(2) 一九六六年の第二一回国連総会がアフリカ総会であったとすれば、一九六七年は国連にとっては専ら中東問題の年であったといえよう。この年六月に勃発したアラブ諸国とイスラエルとの間の戦乱は、先ず安保理事会において審議され、一応停戦にまで漕ぎつけた後、戦後処理の問題につき、ソ連の提唱により緊急特別総会が開かれたが、十分な結論を得られなかったため、再び問題は安保理事会に付託されるという経路をたどった。その結果、第二二回総会自体においては、中東問題は必ずしも中心的議題とはならず、この問題は専ら、総会と並行して同時に会合を重ねた安保理事会に委ねられた。中東問題につき国連が果して十分な業績を残し得たか否かについては、安保理決議に基づいて任命された事務総長特別代表ヤーリング特使の調停努力が(四月現在)継続中であることにもかんがみ、早急に結論を出すことは困難であるが、戦乱の勃発と同時に安保理がいち早く停戦決議を採択して戦乱の拡大と長期化を阻止したこと、その後あい次いで起こった戦闘行為に対し、安保理がそのつど行動して停戦決議の履行を求め、戦火の再燃を防止したこと、並びに中東問題の恒久的解決のための諸原則を打ち出したこと等は、国連がこの問題につき果たした役割の成果として正当に評価されるべきであろう。わが国は安保理事会の一員として、公正な立場に立ってこの問題解決のために積極的努力を重ねたが、かかるわが国の努力は、当事者諸国を含め、多数加盟諸国から高く評価された。
(3) 従前に引続き、ヴィエトナム問題も国連の場における重要な政治的底流となった。米国はこの問題を再度安保理事会に上程することを試みたが、結局これを断念し、またいずれの国からもこの問題を正式な議題として総会において審議しようとする動きは示されなかったが、多数加盟国の関心はヴィエトナム問題に向けられ、国連の場において各国の間に活発な意見交換が進められた。第二二回国連総会一般討論において、大多数の加盟国代表がヴィエトナム問題に言及し、四〇カ国以上の代表がアメリカの北爆停止を呼びかけた事実は、国連が本問題に寄せる関心の度合いを示すものにほかならない。またこの年、南ヴィトナム民族解放戦線が一時国連への代表派遣の可能性を打診し、かつ、その政治綱領を国連の場において配布するなど、国連を政治目的のために活用せんと試みたことも注目に値する事件であった。これらと並行して、ウ・タン事務総長のヴィエトナム和平実現のための個人的努力も活発に進められ、同総長は北ヴィエトナム側との接触、米、ソ、仏等関係諸国首脳との意見交換を通じて、この問題に関して積極的な外交活動を進めた。
(4) 中国代表権問題については、前総会の場合同様、イタリア、チリ等の西欧、ラ米の諸国から、この問題研究のための委員会設置の提案を骨子とする決議案(いわゆるイタリア案)が提出されたが、全体として従来の例に比して大きな実質的変化は見られず、重要問題確認決議の採択、イタリア案およびアルバニア案(中華民国の国連からの追放と中共の国連加入を決定する趣旨のもの)の否決という結果の繰返しに終わった。表決の内容について見るかぎり、前回に比して国府支持側が若干有利な結果を得たが、これは中共内部における混乱が反映され、かつ国府支持側諸国の外交的努力が成果を収めたものと考えられる。
朝鮮問題については、ヴィエトナム等のアジア情勢および南北両鮮間の緊張の増大という事実を反映して、本問題の審議をめぐって国連の場における米ソ両陣営の対立激化という徴候が示されたが、表決の結果は従来と大差なく、韓国支持側の優位の中に、朝鮮問題に関する国連の権威と責任が確認された。
(5) 右のごとく中東および極東における緊張の増加に伴い、国連の場においても東西対立の激化が見られた反面、軍縮問題、とくに核兵器不拡散条約の問題をめぐる米ソの協調は維持され、またこれに対する中小諸国の反発の増大という傾向もうかがわれた。
米ソ両国は、ともに核兵器不拡散条約の早期成立を希望しながらも、空白となっていた条約案第三条の案文について合意に達しなかったため、一八カ国軍縮委員会における審議は停滞し、この結果同委員会と併行して開催されていた第二二回国連総会においても本件の実質的な審議を行なうことが出来なかった。この間未完成の条約案が国連総会で審議されることを希望しない米国およびソ連等は同総会における本件審議の棚上げをはかり、このため本件の実質審議を希望する一部中小諸国がこれに反発する動きもみられた。
一九六八年一月、一八カ国軍縮委員会の審議再開にあたり、米ソ両国より空白となっていた第三条案文を含む改訂条約案が提出され、これをめぐる同委員会の審議が引き続き行なわれていたところ、三月に入り、米ソは再改訂条約案を提出し、三月中旬、同委員会は右再改訂条約案を付属とする報告書を採択し、その後これを国連総会に送付した。
[注、これに伴い四月下旬より国連総会が再開され、総会第一委員会において本件が審議されていたところ、五月末、米ソ両国より新改訂条約案が提出された。六月一二日、総会本会議は、核兵器不拡散条約推奨決議案を賛成九五(わが国を含む)、反対四(アルバニア、キューバ、タンザニア、ザンビア)、棄権二一(アルゼンティン、ブラジル、ビルマ、フランス、インド、ポルトガル、スペイン等を含む)により採択した。]
(6) アフリカ問題も引続き国連の場において大きな比重を占めた。南アフリカ共和国、南ローデシアにおける人種差別政策が、度重なる国連決議にもかかわらずなんらの改善も見せず、また南ローデシアに対する選択的強制経済制裁が所期の効果を挙げ得ない現状に直面して(注、安全保障理事会は五月二九日南ローデシアに対する全面的強制経済制裁決議を採択した)、アフリカ諸国の間には一種の焦燥感が高まり、この結果国連の場において、表現は激越であっても実効性の伴わない決議が多数提案される傾向がいよいよ顕著となっている。アジア・アフリカ・グループ諸国のかかる態度は、他面西欧諸国の関心と熱意の冷却化を招いており、国連による対南ア、対南ローデシアないし対ポルトガル政策の効果的推進を阻害しており、現状においては、かかるアフリカ諸問題解決の曙光は今なおうかがわれない状況である。
(7) 経済関係については、南北問題、すなわち経済的先進国と低開発国との間の格差是正の問題が引き続き国連の最大関心事であった。第二回国連貿易開発会議は、前例をみないほどの大会議であり、この問題解決に向かっての決定的契機ともなり得べきものであったにかかわらず、低開発国側の過大な要求と、最近の国際的経済環境の深刻化に伴う先進諸国の慎重な態度とにかんがみ、十分な具体的成果を収め得なかった。
(8) わが国は一九六七年末をもって安全保障理事会の任期を終了した。二年間の安保理在任期間を通じて、わが国が常に積極的に行動し、公正中立の立場から各問題に対処し、国連の活動を通じて国際の平和と安全の維持に貢献するとの態度を示したことは、多数加盟諸国から高く評価され、今後国連の場においてわが国が果すべき役割に期待する国際世論が一層の高まりを示したといって過言ではない。
安保理事会の任期終了と同時に、第二二回総会においてわが国は、一九七〇年まで三年間の任期で経済社会理事会に選出された。わが国は、一九六〇年から一九六五年まで六年間にわたり経済社会理事会に在任した経験に基づき、かつ、アジア地域における経済的先進国として、また国連経費の分担率からして安保理の五常任理事国に次ぐ第六位の責任ある国連加盟国としての立場から、今後とも国連の経済的、社会的諸活動に積極的に参加して行く所存である。
今日の世界経済の基本的要請は、国際協力を通ずる経済秩序の維持と経済活動の拡大であるが、この一年間には、このような世界経済の基本に触れる問題をめぐって大きな動きがあった。すなわち、ケネディ・ラウンド交渉の妥結は、貿易拡大の基礎を固めたものであり、またIMFの特別引出権の創設について合意が得られたことは、拡大する貿易に対応して国際流動性の安定的増大への道を開いたものであって、ともに国際協力の成果を示すものとして、今後の世界経済にとって歓迎すべきものであった。しかし他方、英国のポンド切下げとそれに続いて起こったゴールド・ラッシュや国際的な高金利現象および米国における保護主義や、輸入課徴金創設等の動きは、国際金融面、貿易面を通じて世界経済秩序の安定を脅かし、世界経済の拡大を妨げるものとして懸念された。
一九六六年において全般的に好況を維持した主要先進国の経済は、同年末に始まった米国景気の停滞やドイツにおける景気後退の影響もあって、一九六七年上半期においては、日本、イタリア等を除き全般的な景気停滞の様相を示し、多くの国においては下半期に至り景気の回復がみられたものの、一九六七年の経済成長率(実質)は、OECD(経済協力開発機構)加盟の先進国全体としては、三・三%と六六年の五・一%をかなり下廻った。
このような主要先進国の景気停滞を反映して、一九六七年の世界貿易(共産圏を除く)の伸び率も鈍化し、輸入総額(CIF)の成長率は、六六年の九・八%に比し五・三%と低水準に止まった。
ここで冒頭において触れた国際経済上の大きな動きを、貿易面と金融通貨面に分けて略述してみよう。
先ず貿易面で一九六七年六月末関税一括引下げ交渉、いわゆるケネディ・ラウンド交渉が妥結し、世界貿易拡大の基礎を固めたことは、「わが外交の近況」第十一号でも触れたところであるが、その後、一九六八年一月一日には米国、カナダ等一一カ国が早速第一年度分の関税引下げを実施し、日本、EEC諸国、英国等も七月一日より引下げを行ない、ケネディ・ラウンドはその第一歩を踏み出した。
しかるに、経済面における国際協調の推進に中心的役割を果してきた米国において、ケネディ・ラウンド交渉終了後まもなく保護主義の動きが台頭してきた。すなわち、一九六七年秋の米国議会には各種の輸入制限法案が続々と提出され、かかる法案が成立すれば、関税一括引下げの効果を減殺し、世界貿易の縮小を招くとして、国際的な注視の的となったのである。このような保護主義的な動きは、ジョンソン大統領をはじめとする行政府の強い反対に会って、その後一応下火となり、一九六七年中には輸入制限法案はついに一件も成立することなく終わった。しかし、他方において、一九六七年の米国の国際収支は大幅な赤字を記録することが明らかとなり、国際収支の改善が焦眉の急とされるに及び、米国政府は、一九六八年一月一日、広範なドル防衛策を発表、その後、その一環として国境税調整、輸入課徴金、輸出リベート等の輸入制限ないし輸出補助的措置の検討を開始するに至ったが、かかる措置の実施は、各国の対抗措置を誘発し、世界経済の縮小を招く恐れが強いとして、再び論議を呼ぶに至った。このような情勢の中にあって、EFTA(欧州自由貿易連合)諸国、日本、EEC(欧州経済共同体)諸国等は米国が輸入制限措置を実施しないこと等を前提としてケネディ・ラウンドで合意された関税譲許を繰上げて実施する用意のあることを明らかにした。このような各国の働きかけの結果、米国政府もようやく輸入課徴金制度の創設を断念するに至った。しかし米国議会においては、保護主義の動きが依然として強く、この点に関する米国国内における今後の動きを引続き見守っていく必要があろう。
国際金融面では、この一年の間に、現在の国際通貨体制の本質に触れるような動きがあったといえよう。戦後、国際的基軸通貨としての役割を果たしてきた米ドルおよび英ポンドが大きな転機を迎えたのである。英国の国際収支は、英国産業の競争力の低下による貿易収支の不調や多額の政府海外支出等の要因を背景に悪化し、過去三年間、たびたび通貨危機が伝えられてきたが、一九六七年一一月一八日、国際的なポンド支援交渉の難航を契機として、英政府はついにポンド平価の一四・三%切下げを行なった。ポンド切下げ自体は、追随切下げを行なった国が比較的少数にとどまったこともあり、世界経済に直接深刻な影響を与えるには至らなかったが、ポンドの地位の低下は残された唯一の基軸通貨としての米ドルの負担を増大させる結果となった。米国は依然として強大な経済力を誇っているが、国際収支面においては、貿易収支の黒字幅の縮小とともに、海外投資、観光収支、軍事費とくにヴィエトナム戦費、経済協力費等の諸項目における多額のドル流出のため恒常的な赤字を続けており、一九六七年には、それがとくに悪化し、赤字幅は三六億ドルと前年の三倍近くに達した。そのため、対外ドル債務は累積し、連邦準備銀行の金準備も急激に減少するに至った(一九五七年末に二二八億ドルの高水準にあった米国の金準備はその後の一〇年間に一〇〇億ドル以上減少、一九六七年末には一二〇億ドルを下回り、その後も減少を続けた)。このような中にあって、ポンド切下げは、ドル不安を顕在化させ、金価格引上げの思惑を呼び、一九六七年の年末には、ロンドン金市場を中心とする欧州市場において二度にわたる金買占め、いわゆるゴールド・ラッシュが起こった。これら第一次、第二次のゴールド・ラッシュは、関係諸国の協調により一応収まったが、米国政府は、ドルに対する信認の回復の必要性を痛感し、一九六八年に入り、前述のように年間三〇億ドルの国際収支改善を目標とするドル防衛策を発表、早速これを部分的に実施した。しかし、米国の国際収支は少なくとも短期的には改善の兆が見えず、ドル不安は依然くすぶり続けていたところ、二月末、再びゴールド・ラッシュが始まり、米国等の金プール諸国による金の売り支えにもかかわらず、三月中旬に至り金取引は未曾有の額に達し、三月一五日遂にロンドン金市場は閉鎖された。それとともに金プール参加七カ国会議がワシントンで開催され、従?フ公的金価格(金一オンス=三五ドル)の維持を確認するとともに、金プール諸国中央銀行による民間金市場への介入の停止を決定、いわゆる「金の二重価格制」が採られるに至った。
国際金融面で注目すべきもう一つの出来事は、新しい国際流動性の創出に関する動きであった。世界貿易拡大の趨勢に対応して、数年前から検討されてきた国際流動性の増加については、一九六七年九月のIMF総会において、特別引出権いわゆるSDR創出の大綱についての合意が得られたことにより一歩前進することになったが、その後既述のポンド切下げ、ドル不安等国際通貨体制の動揺を経て、主要関係国の間に見解の調整が必要となり、一九六八年三月末ストックホルムで開催された十カ国蔵相・中央銀行総裁会議において再び論議がかわされた。その結果、IMF協定改正案につきフランス以外の九カ国の合意が得られ、近い将来において、特別引出権が創出される目途がついたわけである。ただし、基軸通貨国たる米国の国際収支の改善が特別引出権の発動条件とされていることに留意する必要があろう。今後、前述の金の二重価格制が定着するとともに特別引出権制度の具体化が進み国際通貨体制が安定に向うかどうかの鍵は、主要先進国の協力態度にかかっていると同時に、基本的には米国の国際収支の成行き如何にあり、この観点から米国における財政金融政策の動向とヴィエトナム和平をめぐる動きは注目を要する。
次にこのような世界経済の流れの中において、国際協力の中枢的な役割を果しているいくつかの国際機関の動静に簡単に触れておこう。
国際通貨基金(IMF)の基礎となっているIMF協定は、特別引出権の創出に伴い、改正されることとなっているが、今回の改正により、特別引出権の発動に関する決定のほかIMFの他の主要事項(平価の一律変更等)に関する決定についても、EECに拒否権が与えられることとなっており、このことはEEC諸国の世界経済に占める地位の向上を象徴的に示すものとして興味深い。
ガット(関税及び貿易に関する一般協定)は、一九四八年に発足して以来、二〇年を迎え、世界貿易拡大の為に大きな業績を残してきたが、世紀の大交渉といわれたケネディ・ラウンド交渉の妥結直後の現在、直ちに大規模な関税引下げ交渉を開始することは困難とみられる。しかし、ガットの場においては引き続き非関税障壁の軽減撤廃、工業品および農産品貿易の拡大、低開発国貿易問題等多くの問題が活発に検討されている。
他方、経済協力開発機構(OECD)は自由主義先進国の経済面における協力機構として、最近とみに重要性を加えている。OECDの活動は、各国の経済政策の調整、開発援助の促進、技術格差問題の検討、加盟国の資本自由化の推進等広範に亘っており、一九六七年には、特恵問題に関する先進国側の見解の調整活動を行なって注目された。今後、経済の各分野にわたって、自由主義諸国間の協調関係が緊密化するにつれて、OECDの機能は質的にも量的にも強化されてゆくものとみられる。
地域統合の動きの代表的なものとして注目を浴びてきたEECは、一九五八年一月一日に発足して以来、一〇年を迎えるに至り、一九六八年七月一日には、域内工業品関税を全廃し、遂に関税同盟を完成した。しかし、EECが真の経済共同体として機能し、効率的な経済発展をとげるためには、経済政策の一元化が不可欠の要請であり、今後は、加盟各国の産業政策、通商政策等各種経済政策の調整が続けられることとなろう。他方、英国は一九六七年五月EECに対し再度加盟を申請したが、フランスが消極的態度を採ったため、結局加盟交渉に至らず、英国のEEC加盟が早急に実現する可能性は当面薄らいだ。
東西間の経済交流は、両陣営間の緊張の緩和と中ソ対立の激化を背景としつつ、漸次拡大を続けてきており、東西貿易の規模は一九六七年には約二〇〇億ドルに達したものと見られ、世界貿易総額の約五%を占めている。ここ数年間における西側諸国、とくに西欧諸国や日本の対共産圏貿易の伸び率は高く、西側諸国とソ連・東欧諸国との経済交流の活発化が注目されているが、その具体的な動きとしては、東欧農産品に対する西欧諸国の輸入制限緩和、東欧地域における見本市・展示会への西欧諸国の積極的参加、政府間における長期貿易協定や経済・科学・技術協力協定の締結、産業協力推進の動き等があげられよう。このうち、とくに産業協力は、西欧諸国の技術、設備と東欧諸国の豊富な労働力や一部の原材料を有機的に結合させるものであり、単なる貿易関係を越えた経済交流緊密化の新しい形態として注目を要する。また、これと関連して、ソ連がシベリア開発計画について日本産業界の実務的協力を求めていることも各国の注目を惹いている。
この一年間における出来事のうち、とくに注目されるのは、ポーランドのガット加盟およびその他東欧諸国のガットに対する関心の増大である。一九六七年一〇月ポーランドがガットに正式加盟したことは、東欧諸国における自由化傾向が国際経済面に反映してきたものであると同時に、従来自由主義諸国を中心に運営されてきた国際経済協力の場が、東欧諸国をも含むより幅の広い場に発展して行く道を開く契機になるのではないかとみられている。
他方、中共は、中ソ対立の激化に伴う対ソ貿易の減少、国内経済建設の必要等の事情を反映して、その自由主義諸国との貿易関係をここ数年間にわたり拡大してきており、一九六六年における中共の対外貿易約四二億ドル(推定)うち、共産圏以外の諸国との貿易はその四分の三を占めるに至っている。ただし一九六七年については、中共の自由主義諸国向け輸出は、減退した模様であり、これは生産部門や流通部門に表われた文化革命の影響にもよるものと考えられるが、他方西欧諸国とくにドイツ、英国等からの輸入は、一九六七年においても機械類を中心に増大している。中共の自由主義諸国との貿易は、短期的には、文化革命の今後の成行き等中共国内の事情や自由主義諸国の景気動向などによって影響をうける可能性があるが、今後の長期的な展望としては、中ソ対立が今後も続き、かつ中共の指導者が現実に即した国内建設を進めようとする限り、経済建設に不可欠な資材の輸入を軸として拡大傾向をたどるのではないかとみられる。
一九六〇年代に入って国際社会において世界的な注目を浴びてきた南北問題は、六七~六八年において国連貿易開発会議(UNCTAD)を初め、ガット、FAO、OECD、エカフェ、東南アジア開発閣僚会議等の全世界的あるいは地域的な場においてますます頭をもたげてきた。その最高潮は六八年二月一日より二カ月間にわたってニュー・デリーで開催された第二回UNCTADである。これには一二一カ国が参加した。六六年末から六七年中頃にかけてはケネディ・ラウンド交渉に没頭したかの感があった先進諸国は、六七年六月末をもって、ケネディ・ラウンド交渉が終了したのを機に、南北問題に本格的に取組む姿勢を示し始め、ケネディ・ラウンド後の世界経済における最大の焦点は南北問題であると取沙汰されるようになった。また、低開発諸国は六七年一〇月アルジェにおいて七七カ国閣僚会議を開催して、貿易と開発についての低開発諸国の要求を盛りこんだアルジェ憲章を採択し、先進国にその受諾を迫った。しかしながら、六七年一一月の英ポンド切下げおよび一連の国際金融面での動き(三次にわたるゴールド・ラッシュ、その根底をなすドル不安の顕在化、ドル不安に対処するためのドル防衛策、金の二重価格制の採用等)は南北問題に対するこのような盛り上りに水をさす結果となった。第二回UNCTADはこのような国際環境を背景に開催されたのであった。
近年南北問題が台頭してきた一般的な背景については、「わが外交の近況」第十一号を参照ありたいが、南北問題は低開発国の経済開発と貿易に関連する諸問題を指す総称である。このような開発と貿易の問題には低開発国の自助努力、地域協力、および国際協力の三者が一体となって対処しなければならないという基本的な考えが次第に確立されつつある。UNCTADなどの国際機関を通じ求められている国際協力の必要性が強く認識されるに至った背景には、低開発諸国と先進諸国との間の経済格差、なかんずく低開発国と先進国の間に存在する一人当りの所得水準の格差が拡大しつつあるという事実がある。すなわち一九六〇年以降一九六五年までの一人当りの実質国民総生産の伸び率をみると、低開発国のそれは二・〇%にとどまり、先進国の年率三・六%よりはるかに低い。一九六六年における低開発国の実質経済成長率は四・五%とかなり高かったが、低開発国の近年の人口増加率は年間二・五%で、先進国の一・二%の倍以上であるため、一人当りの伸び率でみると、先進国の平均三・八%をはるかに下回り、二・〇%に留まっている。
しかしながら先進国と低開発国との間の経済格差自体は何も新しい問題ではない。それが南北問題として脚光をあびるに至ったのは、結局その政治性に由来するところが大きい。
すなわち現在、低開発諸国は国連を中心に国際社会において相当強い発言権を獲得しつつあり、低開発諸国は南北問題に関する限り、一致団結して、かかる国際的な発言権を背景に先進国側に対し、低開発国経済の発展のために国際経済秩序の変革、具体的にはとくに低開発国の輸出所得の拡大のための諸方策の実施、および援助の拡充を要求している。
そもそも低開発諸国においては、低い貯蓄率、低い技術水準等の国内的困難のほか、低開発諸国の輸出所得の約九〇%を占める一次産品の輸出は、全体としては伸び悩んでおり、この結果、多くの低開発諸国は国内経済開発に必要とする諸資材等の輸入が困難となっており、国際収支難の点からも経済開発の遂行が阻まれている。また、先進諸国よりの低開発諸国向け資金の流れ(純額)は近年停滞気味であり、他面、低開発国の債務累積問題は次第に深刻化している。
こうした経済困難にあえぐ低開発諸国が「離陸」し、安定した発展段階をたどる方策として、まず第一に低開発国自らの貿易を促進して、輸出所得の拡大を図ることが重視され、そのための諸措置(低開発国関心品目に対する貿易障害の除去、一次産品の価格安定、製品、半製品に対する特恵供与等)が強く要求されるようになっている。こうして六〇年代に入ってからは、「援助よりも貿易」というスローガンが唱えられて来ている。また同時に、経済開発促進のために、先進国による資金、技術援助の強化を求める声もますます強まる傾向にある。
次に過去一年間において、南北問題をめぐってどのような動きが見られたかを、第二回UNCTADを中心に述べてみる。
低開発国輸出の大部分を占める一次産品貿易の分野については、貿易障害の軽減、撤廃のほか、商品協定による価格および輸出収益の安定化が検討されている。貿易障害の軽減撤廃について、先進諸国はケネディ・ラウンドにおいて低開発国関心品目につき相互主義に基づかない貿易障害の軽減撤廃を約束しており、これが低開発国の貿易拡大に大いに貢献しうると考えているが、他方低開発諸国は、ケネディ・ラウンドは主として先進国間で交渉された結果、低開発国の利益が忘れ去られてしまったとして大きな不満を表明している。低開発国関心産品の貿易障害の軽減撤廃問題はガット(なかんずく、貿易開発委員会)において取上げられていると同時に、UNCTADにおいても低開発諸国の主要関心事項の一つとなっている。しかしながら第二回UNCTADにおいては、本問題については先進国、低開発国間の歩み寄りがみられず、何らの決議も成立しなかった。
商品協定についてはすでに小麦、砂糖、コーヒー、錫、オリーブ油につき協定がある。第二回UNCTAD前にココアについて新協定交渉が妥結することが期待されていたが、六七年一二月開かれたUNCTAD主催のココア会議はまとまらず、交渉は六八年に持越された。(注、砂糖については現行協定は実質上機能を停止しており、新協定を作るための交渉が六八年五月開催されたが、まだ妥結に至っていない。)なお六八年二月、第二次コーヒー協定についての交渉は妥結した。また第二回UNCTADではココア、砂糖、油糧種子、天然ゴムを含む一九品目についての今後の協定交渉ないし政府間協議ついての日程について決議が成立している。
製品貿易は未だ低開発国輸出の極く少ない部分を占めるにすぎないとはいえ、その伸び率は高く、低開発国の工業化促進と輸出収益の増大のひとつの鍵と考えられ、その重要性は高まってきている。この分野での最大の懸案は対低開発国特恵供与の問題である。この問題は、戦後の世界貿易の基本原則であった無差別最恵国待遇の原則の変更を部分的にせよ意味するものであるだけに、当初より過去数年間大きな議論を呼んでいたが、ジョンソン米大統領が一九六六年四月一三日の米州頂上会議(「中南米の情勢」中(1)米州頂上会議の項参照)公式演説の中で、他の先進工業国とともに対低開発国特恵供与の可能性について検討する用意があることを明らかにしたことは、互恵、無差別の自由貿易の見地から特恵に反対して来た従来の米国の態度を根本的にくつがえしたものとして画期的な意味を持つものであった。そうした低開発諸国の強い要求を背景に、先進諸国はOECD内において特恵につき統一政策を打出すべく検討を進めることとなり、一九六七年一一月三〇日、一二月一日の第七回閣僚理事会は、特恵に関し第二回UNCTADに臨む先進諸国の共通の原則につき合意した。
第二回UNCTADにおいては、かかるOECD原則を掲げる先進諸国とアルジェ憲章を掲げる低開発国が厳しく対立したが、結局は今後UNCTADに特恵特別委員会を設立し、特恵制度の早期導入のため、検討を進めるという趣旨の決議が成立した。
援助の分野では、第一回UNCTADで採択された国民所得の一%を援助に向けるという決議(いわゆる一%目標)および一九六五年OECDの開発援助委員会で採択された条件緩和に関する勧告が、先進諸国の援助活動の指針として大きな意味を持っていた。低開発国側は、経済開発の阻害要因たる外貨不足を解決するためには、先進国による援助が一層増大される必要があるとの認識に立って、一九六七年のアルジェ憲章においては、前記一%目標の大幅な改訂、援助条件の大幅な緩和等の要求を強く打出した。第二回UNCTADにおいては、厳しい国際経済環境を反映して、先進国側の態度は一部の国を除き一般的に前向きとはいえなかったが、国民総生産(GNP)の一%という援助量の努力目標、援助条件緩和、補足融資措置の政府間グループによる検討の継続、民間投資の増大等いくつかの諸点につき意見の一致が得られた。
第二回UNCTADは、国際経済環境の悪化、アルジェ憲章に盛られた厳しい要求、低開発国間の利害対立の顕在化等を反映して終始難航し、最終段階における折衝の結果、主要問題につき妥協が成立したが、低開発国側は今次会議の成果につき少からぬ失望と不満を抱いている。しかしながら、特恵、援助等の主要問題につき原則的合意が成立したことは、UNCTADの将来にレールを敷いたことを意味するものであり、プレビッシュ事務局長やシン議長が述べたごとく、会議の成果は軽々に論ずべきではなく、客観的、かつ公正に評価し、今後UNCTADが辿る長い歴史的観点からとらえるべきであり、先進国、低開発国双方の一層の協力が望まれる次第である。
南北問題をめぐる国際的な動きは上述してきたとおりであるが、南北問題の解決は根本的には低開発国における「経済成長を妨げる古い障害物や抵抗を克服」するための国民の熱烈な意欲、政府による賢明な自助努力なくして達成されるものではないことはいうまでもない。しかし低開発国の安定と繁栄なくして世界の平和を確立しえないことを考えるとき、低開発諸国のかかる努力とあわせて、先進諸国の協力が強く望まれるのであり、先進諸国としては貿易面、援助面の双方から低開発諸国に協力すべき責務を有しているといえよう。