アジア地域
(イ) 一般的関係
政府は主として国会における質疑に対する総理、外務大臣の答弁を通じ、わが国の中国問題に対する基本的な考え方を次のとおり明らかにしてきた。すなわち、わが国の中国政策は一方において中華民国との間に平和条約を締結し、これと外交関係を維持しているという事実と、他方において約七億の人口を有する中国大陸との間についても事実上各種の関係をもたざるを得ないという現実を前提としている。そして中華民国政府、中華人民共和国政府の双方がいずれも中国全体の主権者であるとの立場を主張している状況にあっては、わが国としては中華民国との間に外交関係を維持しつつ、中国大陸との間に政経分離の原則の下に貿易を始めとする民間レベルにおける接触を維持して行くことが最もわが国の利益を維持し得る政策であると考えられる。政府は、中共の内外動向及び国際情勢の推移を見究めつつ、当面はかかる政策を続けて行く考えであるが、中国をめぐる問題は、アジアのみならず世界の将来にとっても重要な問題であるので、国連を中心として十分に審議され、世界世論の背景の下に公正な解決がはかられるべきものと考えている。
(ロ) 中華民国との関係
一九六六年度の日華関係は、前年度に引きつづき友好的な関係に終始した。魏道明前駐日大使は六六年六月七日外交部長に就任し、後任の陳之邁大使が九月二四日着任した。魏前大使は帰台後、空港における記者会見で、「日華外交関係はこの一年来正常かつ順調に発展しつつあり、両国は積極的に協力を行なって来ている」とのべている。一方、わが国の木村大使の後任として着任した島津大使は、九月二七日蒋総統に対し信任状を捧呈した。
六七年三月三一から四月二日の間、李国鼎経済部長が外務省賓客として訪日し、佐藤総理大臣、三木外務大臣ほか関係各大臣と会談した。
一九六五年四月に成立した五四〇億円(一億五○○○万ドル相当)の円借款は順調に使用されており、最大の対象プロジェクトである曾文溪多目的ダム建設のコンサルティング契約は六七年一月二七日成立した。
なお日華貿易は一九六六年(暦年)において往復約四億二〇〇万米ドル(通関べ-ス)に増大した。
(ハ) 中共との関係
一九六六年度は、中共の国内においていわゆる文化大革命が進行し、次第に激化の途をたどったため、わが国との実務的関係も大きな進展は見られなかった。しかし、日中貿易は、一九六六年において引続き伸長し、往復約六億二千万ドル(通関べ-ス)に達した。六六年五月には松村謙三衆議院議員(自民党)一行が訪中し、第二次日中綜合貿易長期取決め(一九六八年以降分)の交渉に関し、中共側と原則的な話し合いが行なわれた。政府としては、従来どおり相互の立場尊重及び内政不干渉を建前として、政経分離の原則に基づき、中共との間の交流を進めて行きたい旨明らかにしている。
中共は、一九六六年五月九日に第三回核実験(水爆の予備実験と見られている)を行なったのに引続き、同一〇月二七日に第四回の実験(核弾頭の爆発)、同一二月二八日に第五回の実験を行なった旨発表した。政府は、それぞれに対し、官房長官談ないし外務省情報文化局長談を発表し、従来の実験に対してと同様、厳重な抗議の意を表明し、中共のこのような連続的核実験と核武装の準備行為は、国際世論を無視するものであり、今後中共が全人類の悲願にこたえて、再び核実験を繰り返さないよう中共要路の反省を促す旨表明した。
椎名外務大臣は夫人ならびに小川外務省アジア局長、西山同経済協力局長などの随員を伴い、一九六六年一〇月一九日より一〇月二八日まで、タイ、マレイシア、シンガポールおよびインドネシアの各国を公式訪問した。
椎名大臣の訪問先各国における動静および要人との会談の内容は、それぞれの訪問先で発表された共同声明に明らかにされているが、その概要を示せば次の通りである。
(イ) 動 静
椎名大臣は一〇月一九日より同月二一日まで、まずタイを訪問した。椎名大臣は同国滞在中、タイ国王、王妃両陛下の謁見をたまわったほか、タノム首相およびポット・サラシン開発相を訪問し、さらにタナット外相と会談を行なった。椎名大臣はまた、タイの「世界情勢、国際法協会」において、「アジアと日本」と題する講演を行なった。
(ロ) タナット外相との会談要旨
両国外務大臣は、両国間の友好および協力関係が近年ますます強化されつつあることに満足の意を表するとともに、日本とタイおよび自由アジア諸国間の緊密な協力により、アジア地域の平和と進歩ならびに繁栄が遠からず実現されるとの確信を表明した。
両国外務大臣はまた、インドネシア、マレイシア間の紛争が平和的に解決されたことを喜ぶとともに、ヴィエトナム紛争も同じように、平和的方法によって速やかに公正かつ平和的な解決に達するよう強く希望した。
(イ) 動 静
椎名大臣は次に一〇月二一日より同月二四日までマレイシアを訪問した。椎名大臣は同国滞在中、ナシルディン・シヤ国王ならびに王妃両陛下に謁見をたまわったほか、ラーマン首相兼外相およびラザック副首相兼国防相兼国家地方開発相と会談した。椎名大臣はまた、同国の無名戦士記念碑に参拝するとともに、同国ナショナル・オペレイションズ・ルームを視察しここでラザック副首相よりマレイシアの経済開発計画一般につき説明をうけた。
(ロ) 会談要旨
ラーマン首相、ラザック副首相および椎名大臣は、インドネシア・マレイシア間の対決の終結およびマレイシアとフィリピン、マレイシアとパキスタンの和解によってもたらされた東南アジアの新たな情勢に対し歓迎の意を表明した。ラーマン首相、ラザック副首相および椎名大臣はさらに、近年両国間の貿易が着実に伸長しつつあることに満足の意を表明するとともに、貿易、経済、技術協力等の分野における両国間の関係をさらに緊密なものとするため、両国政府が一層努力を払うことについて意見の一致をみた。
(イ) 動 静
椎名大臣はさらに、一〇月二四日、二五日の両日シンガポールを訪問した。椎名大臣は同国滞在中、リー首相を訪問し、ラジャラトナム外相と会談を行なったほか、ジュロン工業地帯等を視察した。
(ロ) ラジャラトナム外相との会談要旨
両国外務大臣は日本、シンガポール両国間の貿易および経済技術協力が着実な発展を遂げつつあることに満足の意を表するとともに、かかる分野における両国間の協力関係が今後ますます緊密なものになることを希望した。両国外務大臣はまた、かねてより両国間において懸案となっていた第二次大戦中のシンガポールにおける不幸な事件に関する補償問題の最終的解決案につき合意に達し、その結果日本政府はシンガポール共和国政府および国民に対し、総額五〇〇〇万シンガポール・ドル(二五〇〇万シンガポール・ドルの無償供与および特定の条件による二五〇〇万シンガポール・ドルの借款よりなる)を供与することに同意した。
(イ) 動 静
椎名大臣は最後に、一〇月二五日より同月二八日までインドネシアを訪問した。椎名大臣は同国滞在中、スカルノ大統領と会見したほか、スハルト内閣幹部会議議長、ハメンク・ブオノ経済・財政担当幹部大臣およびディア外務大臣代理とそれぞれ会談した。椎名大臣はまた同国滞在中、九・三〇事件の犠牲となった将軍たちを葬ったカリバタ英雄墓地に参拝した。
(ロ) 会談要旨
会談において椎名大臣は、インドネシア・マレイシア紛争が解決され、またインドネシアが国連に復帰したことに対して衷心よりの歓迎の意を表した。これに対してスハルト内閣幹部会議議長およびインドネシア側大臣は、右問題の解決に関して日本政府および国民が深い理解と関心を寄せ来ったことを多とする旨述べた。インドネシア側はまた、日本政府がインドネシアの対外債務の返済問題を解決するためのインドネシア債権国会議開催に当ってイニシアティヴをとったことに謝意を表し、とくに日本のインドネシアに対し供与された三千万米ドル相当の同借款に対し感謝の意を表明するとともに、将来におけるインドネシア経済の安定、再建計画のための協力に対する希望を表明した。
アジア太平洋協議会(ASPAC)閣僚会議は一九六六年六月一四日から三日間、ソウルにおいて、わが国をはじめとするアジア・太平洋地域九カ国の参加を得て開催され、同地域諸国間の連帯感の強化、政治、経済、文化等の分野における域内協力の促進、一九六七年バンコックにおける第二回ASPAC閣僚会議の開催等の諸点を含む一三項目からなる共同声明を発出した。
なお、同共同声明第八項の趣旨に従い、六六年八月バンコックにASPAC常設委員会が設立され、現在関係諸国間で域内協力促進のための各種構想の検討並びに第二回閣僚会議の準備が進められている。
日韓諸条約の発効後、わが国は誠実にその諸条項を実施し、一九六六年五月二七日には、文化財及び文化協力に関する協定の規定に従い、同協定付属書に掲げられた文化財計一、三二四点をソウルにおいて引渡したほか、請求権、経済協力協定にもとづく経済協力の供与も手続を整備し次第に順調に行なわれるに至った。他方、漁業協定については、一九六六年一〇月の宝栄丸事件(対馬海峡においてイカ釣操業中強風と潮流により韓国漁業水域に押流され、船長は懲役一年執行猶予一年、船体没収の判決を受けた)を除けば、殆んど漁業紛争は見られなかったが、むしろ、第五三海洋丸事件(「わが外交の近況」第十号第一一三頁参照)が契機となり、日韓両国間に、漁業協定についての合意議事録の3において予定されていた両国監視船間の連携巡視と相互に監視船に公務員を乗組ませること等監視船の活動につき協議が進捗し、一九六六年一〇月一八日にソウルにおいて「監視船の活動に関する取決め」等についての公文の交換が行なわれ、それに基づいて早速実施に移され同年一一月には第一回連携巡視、一二月には第一回相互乗船が行なわれるに至った。
他方在日韓国人の法的地位及び待遇に関する協定は一九六七年一月一七日に発効一周年を迎えたが、法務省の統計(一九六七年四月末現在)によれば在日韓国人の永住許可申請総件数二九、四一一、うち許可件数二三、四六〇、却下件数三一五、保留件数五、五〇七、その他(取下、死亡、出国、帰国)一二九の状況にある。
北朝鮮がわが国民間業界との契約により化学繊維プラントの導入を計画し、最終契約の前段階として技術著の入国を許可するよう申請が出され、これが日韓国交正常化以前からの懸案の一つとなっていた。政府は諸般の事情を検討の末、一九六六年七月一五日、先例としないことを明らかにしつつ本件申請に許可を与える決定をした。韓国の朝野はこれに対し日韓基本関係条約の精神に反するとして強く反発し、民間レベルでは日韓高校スポーツ交歓競技会を中断し、その他多くの話合いが進行を止め、政府レベルでは日本人に対する一般の入国査証を一時完全に停止し、在韓日本商社の活動に対する監視を強化するなどの措置をとると共に丁一権国務総理の顧問黄鍾律を日本に派遣して説得に当らせる等の動きを示した。一方強い世論を反映して韓国国会では外務・法制司法.財政経済の三委員会の合同会議で対日非難の決議案を採択した。
政府は、同年八月五日、契約の日本側関係者の一部の態度が変ったことにかんがみ、入国を認めるとの基方方針に変更はないが、差当り入国を認めるのに適当の状況でないとの決定を行なった。
その後、韓国政府は八月末に至り入国査証発給禁止を解除する等常態に復する措置をとった。
北朝鮮平安北道新義州水産事業所所属の漁船平新底四-〇三四号は、かねて日本への亡命を希望した首謀者四名が反乱を起し船長等七名を射殺し、九名を監禁して、一九六六年九月一七日に下関港に入港し、四名は亡命を申し出た。政府は各種の調査及び本人の意志を確認した後、右四名を起訴猶予処分にし、九月二八日韓国向け退去強制せしめ、残り九名は不起訴処分に付し一〇月三日横浜においてソ連船による出国を認め、また、船体は一〇月二四日北鮮の依頼をうけたソ連船に引渡され、事件は落着した。その間韓国政府は、乗組員全員及び船体の引渡しを要求したが、政府は不法入国者の取扱いに関する既定方針等に従い、右のような措置をとったものである。
わが国の貨物船第一室戸丸は釜山に向け航行中、一九六六年九月一九日巨済島付近の海上電話線約六百メートルをマストにより切断した。同船は釜山入港後取調べを受け、同月二六日船長ほか三名は送検され、一〇月一三日にいたり船長のみが起訴となったが、他の三名は起訴猶予、船体は仮還付となって、残り乗組員とともに帰国した。船長は一一月二一日電気通信法違反で懲役六カ月、執行猶予一年の判決を受けた。
政府は、事件発生後、当該電話線が韓国側水路告示の高潮面上の高さ以下に垂れ下っていたとして故意は阻却されるとの判断から早期釈放方申し入れ、また、船員の家族の心痛や積荷の需要者からの陳情にもかんがみ、継続捜査に協力する形での一時釈放等の早期解決に向って種々努力したが、結局遺憾ながら訴訟手続に移行することは回避しなかった。
実行可能な限り速やかに日韓間に航空協定交渉に入ることを予定している日韓基本関係条約第六条の規定に従い、韓国政府は一九六六年早々わが方に交渉開始方申入れて来た。わが方としても、日本航空と大韓航空との間の民間務契約に基づく航空業務を出来るだけ早期に法的な安定した基盤におくことが望ましいとの見地から、この申入れに応ずることとし、同年八月末のソウルにおける第一次予備折衝、同年一〇月末東京における第二次予備折衝を通じて鋭意協定案文につき協議を重ね、ついに一九六七年二月一〇日ソウルにおいて日韓航空協定並びに合意議事録の英文テキストにイニシアルが行なわれるに至った。
一九五九年以来いわゆるカルカタ協定により取り計らわれて来た在日朝鮮人の北朝鮮への帰還事業については、一九六六年八月二三日の閣議において「本事業は、人道的見地に立って帰還希望者を多数早期に帰還させることを目的とし、関係当局の多大の努力により、円滑に実施され、その成果をあげて来たところであり、おおむね所期の目的を達成した」との判断から、「本協定は、一年間延長する(一九六七年一一月一二日まで)。延長は今回限りとする。」との方針が了解された。
かくて協定による北鮮への集団帰還事業は、一九六七年一一月一二日をもって終了することとなったが、この終了に伴う処理ぶりについては関係各省が協議した結果、この協定の終了後も在日朝鮮人が本邦から出国する途を閉すのではなく、本人の自発的意思に基づいて北朝鮮に帰還を希望する者は、一般外国人と同様に、必要な出国の手続を履行すれば、便船により、任意に出国することができることとなった。
一九六二年二月、シンガポールの一建築現場より多数の遺骨が発掘されたのを契機として、戦時中の中国人集団殺害事件につき、現地の中華総商会(中国系住民の商工会議所)を中心に対日補償要求運動が起った。わが国はこれに対し、賠償問題は桑港平和条約により既に解決済みと考えており、本問題についても賠償的性格を帯びた要求には応じられないが、シンガポールとの友好関係の維持発展を願う立場から、戦争中の日本軍の行為に対する償いのジェスチャーとして適当な措置をとる用意はある旨を明らかにし、かかる立場よりシンガポール政府との話合いを行なったが、結論を見るに至らなかった。
この間、シンガポールの動きに刺激されてマラヤ各地の中華総商会も同様の対日補償要求を提起するに至ったので、一九六三年九月シンガポールを含め新たにマレイシアが成立するに及び、マレイシア中央政府がこの問題を一括して取り上げ、日本政府と話合いを行なうこととなった。
その後、本問題の解決に関する両国間の話し合いは数次にわたり行なわれたが、マレイシア側において、マレイシア紛争等同国内外に重要問題が発生したため、両国間の交渉は遅延を重ねることとなった。
そのうち、一九六五年八月シンガポールはマレイシアより分離独立し、本件対日補償要求問題は再びマレイシア、シンガポールそれぞれとの問題となった。
シンガポール政府は、その後、一九六六年六月本件補償要求問題の早期解決につき、あらためてわが国に申し入れを行ない、日本・シンガポール両国間の交渉が再開され、同年一〇月二五日、東南アジア四カ国訪問の途次、シンガポールを公式訪問した椎名外務大臣とシンガポール側ラジャラトナム外務大臣との間で、有償二五〇〇万シンガポール・ドル、無償二五〇〇万シンガポール・ドル、合計五〇〇〇万シンガポール・ドル供与により、本問題を最終的に解決することにつき、合意を見た。
他方、マレイシアにおいても、シンガポールの対日補償要求問題がマレイシアに先んじて大筋の合意を見たのを契機として、本問題の早期解決を要求する動きが俄かに高まり、一九六六年末以来同国中華総商会は対日ボイコット提案等を通じ、日本・マレイシア両国間の交渉に側面から圧力を加えつつあるが、両国間の話し合いは未だ合意を見るに至っていない。
6 日本・マレイシア航空協定の改正及び日本・シンガポール航空協定の締結
日本航空のシンガポール乗入れは日本・マレイシア航空協定(一九六五年二月一一日署名)に基づいて行なわれていたところ、一九六五年八月九日シンガポールがマレイシアより分離独立し、翌一九六六年五月一四日マレイシア・シンガポール両国間にマレイシア航空の共同運航に関する協定が締結されるに及び、マレイシア、シンガポール両国は同年五月二八日、マレイシア航空の地位の変更を理由として現行航空協定の廃棄並びに新協定締結の希望をすべての関係国に通報した。よってわが国は同年一一月両国との交渉に入り、マレイシアとの関係においては現行日本・マレイシア航空協定を存続させると共に必要な附表の改正を行ない、またシンガポールとの間に新たな航空協定を締結することにつき合意を見るに至り、本年二月一四日、日本・シンガポール航空協定の署名を了し、更に同三月一四日、日本・マレイシア航空協定の附表改正を確認する公文の交換を行ない、日本航空のシンガポール乗入れは引続き確保されることとなった。
英領植民地時代のサラワクにおいては、わが国船舶の取得する海運所得に対する課税はサラワク所得税法に基づき免除されていた。
しかし、一九六四年一〇月に至り、マレイシア所得税法の改正により課税されることとなった旨サラワク税務当局より関係船会社に対し通報があった。よって、政府としては、旧マラヤ連邦とわが国との間の二重課税の回避及び脱税防止のための条約(一九六三年八月二一日発効)がサラワク州及びサバ州両州にも適用さるべきであるとのわが国の立場をマレイシア政府に申入れていた。一九六七年三月に至りマレイシア政府は口上書をもって、本件問題につき交渉に入る用意ありと回答してきたので近く交渉に入る予定である。
日印租税条約は一九六〇年一月調印され、同年六月に発効し現在に至っているが、一九六一年にインド所得税法の全文改正が行なわれたため、改正が必要となっていた。一九六六年一二月わが国は交渉団をインドに派遣し話合いを行なった結果、大すじの合意に達したので近く所定の手続を経て正式合意を見ることとなっている。
事務レベルによる第二回日印定期協議は、一九六六年一〇月二八日から一一月一日まで東京において、日本側からは牛場外務審議官、在インド伊関大使、吉良アジア局参事官が、またインド側からはジャー外務次官、メタ政策局長、ナラヤナン東アジア局長が出席して開催された。
この協議では、広範な国際問題その他日印両国間に関心のある諸問題について意見の交換が行なわれ、特に第一回定期協議以降の新しい発展に討議の重点がおかれた。なお、第三回日印定期協議は一九六七年秋ニュー・デリーで開催する予定である。
パキスタン政府は、一九六三年六月施行の新憲法により、首都をラワルピンディに隣接する地区に建設する新都市イスラマバードとすることとし、同市建設中は中央政府をラワルピンディに置くこととした。
その後パキスタン中央政府機関はラワルピンディ又はイスラマバードに次々に移転し、一九六六年中頃までにはほとんどの政府機関が移転を完了した。
これに伴い政府は既にイスラマバードに確保済である用地に、在パキスタン日本国大使館を建設する予定であるが、完工までには少くとも四、五年はかかるものと予想されるので、それまでの間、ラワルピンディに大使館用建物を借り上げ、同地において事務をとり行なわしめることとし、一九六六年一〇月一日付をもって、在パキスタン日本国大使館をカラチよりラワルピンディへ移転せしめた。
モンゴルヘの墓参は、これまで邦人旅行者による個別的墓参が数回にわたり行なわれたのみで、未だ遺族による墓参は行なわれていなかったが、一九六六年四月、未帰還問題協議会藤山愛一郎会長のツェデンバル・モンゴル首相あて書簡を在ソ中川大使より在ソ・モンゴル大使に手交し、邦人遺族のモンゴル墓参の実現かたを申入れた。これに対し、同年五月ツェデンバル首相より藤山会長あて書簡をもって、わが方の申入れに同意する旨回答があったので、政府は、厚生省、外務省、未帰還問題協議会(民間団体)等の間の協議を経て、遺族代表八名、政府職員四名よりなる墓参団を同年八月二日羽田発、ウランバートルへ派遣した。墓参団には、顧問三名(国会議員二名及び秘書一名)が同行した。墓参は、ウランバートル地区邦人墓地及びスフバートル地区邦人墓地に対し行なわれ、墓参団一行は同年八月三〇日羽田に帰着した。
一九六六年七月一二日モンゴルのウランバートル地区を襲った異常豪雨による水害に対し、政府は、同年八月一六日日赤を通じ見舞金三〇〇〇ドルを贈った。
一九六六年八月下旬より九月上旬にかけて東パキスタン全域を襲った異常降雨による水害に対し、政府としては、九月八日佐藤総理大臣よりアユーブ大統領に対して見舞電を発出するとともに、同月二四日パキスタン政府に対し、在パキスタン高木大使を通じて見舞金一五〇〇ポンド(約一五〇万円)を贈った。
一九六六年六月二七日北西ネパールが地震に襲われ甚大な被害をうけたため、政府は八月五日在日ネパール大使を通じてネパール政府に対し、見舞金三〇〇〇ドルを贈った。
一九六六年一二月六日政府は、同年一一月二日インドのマドラス地区を襲った台風による被害に対する見舞金として、一〇〇〇ドルを在マドラス吉川総領事を通じてマドラス州政府に贈った。
一九六六年八月ラオスとの国境となっているメコン河の増水により生じた、タイ東北地方ノンカイ県及びチエンライ県地区水害に対し、政府としては、同年九月米貨五〇〇〇ドルを見舞金として在タイ粕谷大使を通じタイ政府に贈った。
フィリピン共和国大統領フェルディナンド・E・マルコス夫妻は、米国訪問の後ラモス外務大臣以下二二名の随員を帯同、一九六六年九月二八日から一〇月三日まで、国賓として、日本を訪問した。
同大統領は、滞日中天皇、皇后両陛下に謁見を賜ったほか、佐藤総理大臣と会談、一〇月三日同総理とマルコス大統領との共同声明が発表された。
フィリピン共和国副大統領フェルナンド・ロペス夫妻はコンセプシオン二世控訴院判事以下一一名の随員とともに、一九六六年五月七日から一三日まで政府賓客として日本を訪問した。
同副大統領は滞日中天皇、皇后両陛下に謁見を賜ったほか、佐藤総理大臣を表敬、会談した。
また、同副大統領は京都、大阪において、工場、農林技術センター等の視察を行なった。
一九六六年一一月七日、ソン・サン・カンボジア国立銀行総裁(現首相)は、シハヌーク国家首席の名代として、東京における「今日のカンボジア展」の開幕式を主催するため来日し、同月一七日まで外務省の賓客として接遇され、その間、佐藤総理、椎名外務大臣、三木通商産業大臣と会談した。同総裁はさらに、アジア開発銀行設立総会に出席のため、同月二七日までわが国に滞在した。
プーマ・ラオス首相は、東南アジア開発閣僚会議に出席のため、一九六六年四月四日から同一八日まで滞日し、その間公賓に準じて接遇された。同首相は、滞日中、佐藤総理と会談するとともに、わが国産業施設等の視察を行なった。
ラオス王国ヴィエンチャン地区司令官クープラシット・アバイ将軍は、米国訪問より帰国の途次、九月二三日より一〇月二日まで外務省賓客として本邦を訪れ、その間関西地方を視察した。
ビルマ連邦革命委員会議長ネ・ウィン将軍は、日本政府の招待により、一九六六年九月一九日から二六日まで国賓として日本を親善訪問した。同議長には、議長夫人、情報文化大臣タウン・ダン准将、革命委員会委員ティン・ウ大佐およびビルマ連邦政府高官が随行した。
同議長および議長夫人は、滞日中、天皇、皇后両陛下と親しく交歓されたほか、佐藤総理との間に、現下の国際情勢並びに日本ビルマ両国が共通の関心を有する諸問題について会談した。
一九六七年三月一九日から三月二五日まで、リー・シンガポール首相はフリードリッヒ・エベルト研究所主催の社会民主主義に関するゼミナール参加のため日本を非公式訪問したがその間、佐藤総理、三木外相を表敬懇談し、その後四月一日まで川奈、京都、奈良方面に赴き観光および工場見学を行なった。
セヌ情報放送、文化青年スポーツ大臣は、一九六六年八月四日から一三日まで外務省賓客として来日し、わが国の新聞放送工業および関連産業の視察、青少年運動関係者との懇談を行なった。
K・ビスタ・ネパール外務大臣は、国連総会に出席のため訪米の途次、一九六六年九月一四日から四日間わが国を訪問し、その間天皇、皇后両陛下に拝謁し、佐藤総理、椎名外務大臣を表敬訪問した。
ラダ・ビノード・パール博士(インド)は、同博士歓迎事務局の招きにより、一九六六年一〇月一日から二日間わが国を訪問したが、その間、世界の平和と正義の確立のために努力した同博士の偉徳を讃えて、天皇陛下により、勲一等瑞宝章が授与された。
なお、パール博士は一九六七年一月一〇日病死したため、佐藤総理および三木外務大臣から、遺族に対し、それぞれ弔電が送られた。
C・S・ジャー・インド外務次官一行は、第二回日印定期協議に出席のため、一九六六年一〇月二六日より一一月二日まで来日した。