中南米の情勢

一九六六年四月以降の中南米の政治情勢を概観すると、キューバと革命の起こったアルゼンティンの両国を除く諸国の政情は一般的に平静に推移した。メキシコでは、経済情勢の好調持統とあいまってグスターボ・ディアス・オルダス現政権は安定しており、グァテマラ、エル・サルヴァドル、ホンデュラス、ニカラグァおよびコスタ・リカの中米五カ国では、グァテマラにおける共産ゲリラおよびテロ分子の治安攪乱活動が依然継続しているにしても、いずれも民主政治の下でおおむね政情の安定を得ている。なお、これら五カ国のうち、コスタ・リカでは一九六六年五月ホセ・ホアキン・トレーホス・フェルナンデスが、グァテマラでは同年七月末フリオ・セサル・メンデス・モンテネグロがそれぞれ新大統領に就任し、またニカラグァでは一九六七年二月、エル・サルヴァドルでは同年三月ともに大統領選挙が行なわれ、アナスタシオ・ソモサ・デバイレとフィデル・サンチェス・エルナンデスがそれぞれ新大統領に当選し、選出された両大統領は五月および七月にそれぞれ就任した。パナマでは、近年パナマ運河地帯に対する主権問題にからむ騒乱事件が起こり、社会不安が増大していたが、パナマ運河条約の改訂等を目的とする対米交渉が一九六六年以来進捗し、これに伴い政情は落着いてきている。

アルゼンティンについては、一九六三年一〇月に成立したイリア文民政府が発足後二年半以上を経ても財政、経済の建直しに成功せず、また増大するペロン派の政治活動を十分抑えることができなかったため、軍部の不満がこうじて、一九六六年六月二十八日、軍事革命が起こり、ファン・カルロス・オンガニア陸軍大将を大統領とする政権が樹立された。この革命の結果最高裁判事、州知事はすべて更新され、国会と政党も解散されたままとなっているが、現政権はかなり長期間にわたって政権を担当し、その間に文民政治への復帰準備を行ない、経済の建直しを図るための施策を実施中である。

ブラジルについては、一九六五年一〇月第二制度令の公布により解散させられた全政党は、与党ARENA(全国革新同盟)と野党MDB(ブラジル民主運動)に再編成され、一九六六年九月以降実施される一一州知事、大統領および国会、州議会議員の選挙に対処するとととなった。

一九六六年九月実施された二一一知事選挙は、州議会による間接選挙で行なわれ、いずれも与党ARENA候補が当選した。

その後一〇月三日実施された大統領選挙において与党候補アルトゥール・コスタ・イ・シルヴァ元帥(前陸軍大臣)が大統領に、ペドロ・アレイショ下院議員が副大統領に、それぞれ国会の多数票を得て当選した。さらに与党は一一月一五日実施された国会議員選挙において上下両院ともに三分の二以上の絶対多数を確保した。

この選挙の結果に力を得た政府は、制度令で行なった改革を恒久化し、大統領の権限を大幅に強化する新憲法を国会に提出してこれを可決せしめ、一九六七年一月二四日公布(三月一五日発効)せしめた。

同年三月一五日就任したコスタ・イ・シルヴァ新大統領は、強力な権限と国会における絶対多数を背景として今後四年間安定した政治情勢の下に革命政府の政策の維持推進、経済開発政策の促進を図るものと見られている。

チリ、ペルー、コロンビアおよびヴェネズエラの四カ国は、中道左派ないし準中道左派の政治路線を歩んでいる。チリ、ペルー両国の政情はおおむね安定しており、コロンビア、ヴェネズエラ両国では、それぞれ国内で共産ゲリラもしくはテロ分子による破壊活動があるにしても、内政の動向を左右するほどの影響力を有していない。

ウルグァイでは、一九六六年一一月、憲法改正のための国民投票を行ない、執政協議会を廃止して一四年振りに大統領制に復帰した。なお、国民投票と同時に行なわれた総選挙でオスカル・ヘスティード陸軍大将(退役)が大統領に選出され、一九六七年三月一日就任した。パラグァイでは、アルフレド・ストロエスネル現大統領は一九六八年八月任期(五年)を終了するが、同年二月に行なわれる次期大統領選挙において連続三期当選を期し、連続再選を二期に限定している憲法を改正すべく制憲会議構成のための選挙を一九六七年五月に行なうこととした。ボリヴィアでは、一九六六年七月大統領選挙および国会総選挙が行なわれ、ボリヴィア革命戦線(四政党の連合)が圧勝し、レネ・.バリエントス・オルトゥーニョ(軍人出身)が大統領に当選、八月就任したが、東南部のアルゼンティンとの国境地帯に国際共産ゲリラ活動が起こり、政府はその討伐に腐心している。

エクアドルでは、一九六六年一〇月制憲議会のための総選挙が行なわれ、さらにこの結果成立した同議会において、一一月臨時大統領の間接選挙が行なわれ、オット・アロセメーナ・ゴメスが当選した。制憲議会は新憲法の草案を審議中であるが、大統領選挙は一九六八年六月に行なわれることになっている。

カリブ海域のドミニカ共和国では、一九六六年六月一日大統領選挙が行なわれ、穏健保守階級と農民層の支持を受けた改革党の候補ホアキン・バラゲールが当選し、同月末就任し、また前記革命動乱収拾のため駐留中であった米州軍も同年九月中に撤退を完了した。バラゲール政権は疲弊した経済の建直しに努力している。

ハイティでは、デュヴァリエ政権の強権政治が依然続いており、政権は引続き不安定である。

ジャマイカおよびトリニダッド・トバゴの両国は政情の安定を得ており、他方、英領ギアナは一九六六年五月二六日、英領バルバドスは同年一一月三〇日、それぞれ国名をガイアナおよびバルバドスとし、エリザベス二世英国女王を国家元首とする英連邦諸国家の一員として独立した。

キューバの情勢については、同国政府が一九六六年三月カストロ首相の暗殺計画の発覚を契機として、国防次官等政府官吏、労働組合幹部等を対象とする広範囲の粛清を行なったことは、国内不安の存在を示すものとみられた。その後六月上旬より暫くの間カストロ首相が公式行事に姿を現わさず、沈黙を守ったので、同首相の病気説または失脚説が国外に一時流布されていたが、同首相は七月二六日の革命記念日に姿をみせ、共産主義よりもむしろ民族主義的な政治路線を強調する演説を行なった。この演説は国際的な反響を呼び、キューバがソ連のかいらいと化したといわれることに対する反発ではないかとの観測が有力であったが、いずれにしても、キューバは中南米地域において孤立しており、ソ連からの軍事および経済援助に頼らざるを得ないとみられている。

キューバと米国との関係は依然膠着状態を続けた。この間、一九六六年五月グァンタナモ米海軍基地で、キューバ兵一名が射殺される事件が発生し、キューバ政府が全軍の警戒体制を布き、共産圏義勇軍の受入れの用意があることを声明する等一時米国とキューバの関係が緊迫したが、大事にはいたらなかった。

キューバと中共との関係は一九六六年一月砂糖と米の輸出入問題およびキューバ国内の中共側宣伝活動のあり方に端を発して悪化し、一時は国交断絶の危機をはらんだが、その後同危機は時日の経過とともに解消した。

キューバは中南米諸国に対しては、革命輸出、すなわち、これら諸国における民主政権の打倒を目的とする武力闘争の支援を推進しており、現在その主目標をヴェネズエラ、コロンビア、中米五カ国(グァテマラ、エル・サルヴァドル、ホンデュラス、ニカラグァおよびコスタ・リカ)、パナマ、ドミニカ共和国、ペルー、ボリヴィァ等の諸国においている。現在ヴェネズエラ、グァテマラの両国に続発している共産ゲリラおよびテロ分子の破壊活動は革命輸出に基づく浸透工作の顕著な現われである。もっとも革命輸出は未だ見るべき成果を挙げていないが、一九六六年一月ハヴァナで開かれた第一回アジア、アフリカ、ラテン・アメリカ三大陸人民連帯会議において採択された、中南米諸国における革命武力闘争の統合および組織化の決議と、その後ラテン・アメリカ連帯機構がハヴァナに設置された事実にかんがみ、キューバよりの浸透工作に呼応する中帯米諸国内極左分子の動向が注目される。

米州機構(OAS)の動きとしては憲章改正問題が重視される。一九六六年三月パナマで開催された米州機構憲章改正準備会議においてまとめられた米州機構憲章改正草案に関し、米国とラ米諸国は「経済的基準」および「社会的基準」の規定の点で鋭く対立した。そこで本件統一的見解のとりまとめに苦慮した米州理事会は米国の主張を容れ、米州経済社会理事会特別会議開催にふみきり、右会議において妥協案を作成せしめた。一九六七年二月ブエノス・アイレスにおいて開催された第三回米州特別会議において「経済的基準」および[社会的基準」については上記妥協案、その他についてはパナマ草案がほぼそのまま新憲章として採択され各国の批准をまつこととなった。

主な改正点は次の通りである。

(1) 機構上の改革

(イ) 米州会議を総会と改め毎年一回定期的に開催することにしたこと。

(ロ) 理事会を常設理事会と改め経済社会理事会および教育科学文化理事会を格上げし、常設理事会と同格としたこと。

(ハ) パン・アメリカン・ユニオンを事務局と改め事務総長の任期を五年としたこと。

(ニ) 従来まで米州機構との関係が不明確であった「進歩のための同盟全米委員会(CIAP)」を「進歩のための同盟」が存続する限り、経済社会理事会の常設執行委員会とすること。

(ホ) 法律家理事会の代りに全米法律委員会を設置し、全米人権委員会を常設化したこと。

(2) 実質上の改革

(イ) 「経済的基準」および「社会的基準」の諸条項において米州諸国の統合的経済社会開発を促進するための基本的目標および方途等を詳細に定めたこと。

(ロ) 常設理事会に紛争の平和的解決に関する調停権限を与えたこと。また常設理事会の上記任務の補助機関として「全米平和的解決委員会」の創設を規定したこと。

第三回特別会議と並行して同じくブエノス・アイレスで開かれた第一一回外相会議は、第二回米州首脳会議を四月一二日より一四日までウルグァイのブンタ・デル・エステで開催することを決定するとともに、中南米共同市場設立をはじめとする六項目からなる首脳会議の議題を定めた。

かくして予定通り開催された米州首脳会議は、最終日、米州首脳宣言を採択することによりその幕を閉じたが、中南米共同市場を一九八五年までに完成させることを具体的に定めた以外は、大した成果は見られなかった。

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