中近東とアフリカの情勢
1 中近東情勢
アラブ諸国は一九六五年五月ドイツ(西)との断交問題をめぐって足並みの不統一を露呈して以来、アラブ連合を筆頭とするシリア、イラク、アルジェリア等の革新派と、サウディ・アラビア、ジョルダン、テュニジア、モロッコ等保守派の対立が表面化していたが、六六年に入ってからこの対立・抗争は一層明確になって来た。革新派の雄ナセル大統領は、国内では経済危機が深刻化し、多大の犠牲を払って出兵しているイエメン紛争が膠着状態で解決の見通しが立たず、また世界的に非同盟勢力の影響力が後退し、アフリカにおける急進派勢力も退潮気味であること等により、アラブ世界の大同団結という看板を一時おろさざるをえず、シリア、アルジェリア、イラク等革新派諸国との政治的、軍事的、経済的連携の強化を進めてきた。
一方サウディ・アラビアのファイサル王は、六五年末より六六年九月までアジア・アフリカ回教諸国を意欲的に歴訪してイスラム諸国首脳会議開催の構想を説き、この構想自体は実を結ばなかったが、ジョルダン、テュニジア、モロッコ等の保守派諸国との結びつきを強めており、またアラブ連合に対抗してアラビア半島における主導権を確保するため六五年末以来米英より約四億ドルに上る武器を購入し、勢力の伸長を図ってきた。かかる情勢を背景に、六六年九月にアルジェにおいて開催することが予定されていた第四回アラブ首脳会議は、これを益なしとみたナセル大統領の呼びかけによりサウディ・アラビア、ジョルダン等の反対にもかかわらず無期延期され、このため同会議の産物であったアラブ統合司令部、ジョルダン河開発庁等も麻癖状態に陥ったのみならず、テュニジア、サウディ・アラビア、ジョルダン三国はアラブ統一の象徴であるアラブ連盟の諸会議をボイコットするにいたった。テニュジアは六六年一〇月アラブ連合と国交を断絶し、またジョルダンは六七年二月にアラブ連合より大使を引揚げる措置をとったほか、同じく二月両国はイエメン共和政権の承認を取消した。一方急進派内部では六六年一一月アラブ連合・シリア共同防衛協定が締結された。
アラブ・イスラエル紛争は、六六年四月以降主としてシリアとイスラエルの間で国境紛争が頻発していたが、一一月イスラエルはジョルダンのサムウ村に大量の兵力を投入して攻撃を加え、国連安保理事会はイスラエルを非難する決議を採択した。その後国境情勢は一時小康を保ったが、一二月末から六七年一月にかけてシリア・イスラエル国境の非武装地帯でしばしば小競合が発生し、著しく緊張が高まったため、一月国連事務総長は両国に自重を呼びかけるとともに、一九六〇年以来開催されなかったイスラエル・シリア休戦委員会の開催を受諾するよう要請した。両国はこれに応じ二月二日までに三回会合したが、両国代表はそれぞれ相手方が委員会の活動を妨害し、議題から逸脱したと非難し合ったため暗礁にのりあげ、以後委員会は再開されていない。このため国境情勢は再び雲行きが怪しくなり、発砲事件、爆破事件が散発し始めた。
(この後アラブ連合が五月中旬以来シナイ半島への軍隊移動、国連緊急軍の引揚げ要求、アカバ湾の封鎖を行なってイスラエルを追詰め、他のアラブ諸国も続々とアラブ連合に同調、これに対抗しイスラエルが戦闘態勢を整えるとともに、アカバ湾封鎖に対しては自衛権の行使をも辞せずとの立場をとったため、中東情勢は加速度的に緊迫し、国連内外を通ずる危機打開工作が難航するうちに六月五日遂に戦端が開かれた。)
イエメン紛争は六六年四月からクウェイトがアラブ連合、サウディ・アラビア両国関係の調停にのりだし、八月に両国元首代表による会談がクウェイトにおいて行なわれたがなんら妥協に達しなかった。この間イエメン共和政権のサラール大統領は長期間カイロに在留し、実権はアムリー首相一派に移っていたが、共和政権は次第に国家主義的傾向を示しはじめて来たため、アラブ連合は九月急きよアラブ連合に忠実なサラール大統領をして再び実権を掌握させ、共和政権内部の粛清を断行せしめ共和政権にテコ入れを行なった。これに対し王党派はサウディ・アラビアの援助の下にイエメン内外における宣伝活動を強化した。双方とも相手を軍事的に圧倒することは出来ず、大規模な攻撃を控えているため、戦線は膠着し、紛争が今後一層長期化する様相を濃くしている。
英国は南アラビア連邦に対し一九六八年までに独立を与え、かつ駐留軍を撤収する方針であるが、独立の方式、期日、憲法、安全保障等に関する英国と連邦政府の思惑は一致しておらず、他方急進野党たるFLOSY(被占領南イエメン解放戦線)、NLF(国民解放戦線)のテロ行為を主とする反英・反連邦政府運動はますます激しさを加えるとともに、野党間でもFLOSY、NLFおよび、より穏健なSAL(南アラビア連盟)三者の相互の対立が激化し、情勢は混とんとして独立の具体的な準備は一向に進展していない。六六年一二月、国連総会は南アラビア連邦に関し、民族自決と独立の権利を認め、事務総長に対しアデンに派遣する特別調査団を任命し選挙の実施と監督・中央選挙管理内閣の設立等に関する勧告を提出せしめることを要請する決議案を採択した。右に基づき、ヴェネズエラ、マリ、アフガニスタンの三国より成る国連調査団が任命され、六七年三月末アデンに赴いた。
アラブ連合、シリア、イラク等と欧米諸国との関係は依然好転していないが、これら諸国とソ連との関係は六六年五月のコスイギン首相のアラブ連合訪問以来深められ、相互の要人の往来も頻繁に行なわれている。他方サウディ・アラビア、ジョルダン、モロッコ等保守派諸国と米国・英国等の関係は一層強められている。ドイツ(西)とアラブ諸国の国交再開問題は、再開の機運が徐々に形成され、主としてアラブ連盟事務局を通じドイツ(西)側と接触が続けられ、六七年三月のアラブ連盟定例理事会で正式に討議される予定であったが、六七年二月ジョルダンが突如単独で国交再開に踏切ったため各国はこれに反発し、同問題に関する決定は同年九月の次期定例理事会まで持越された。
イランおよびトルコは欧米諸国との友好関係を維持しながら、六五年に引続きソ連および東欧諸国と要人の往来を頻繁に行ない、主として経済関係強化を通じて関係改善に努めている。
2 アフリカ情勢
アフリカにおいては、一九六五年央より各地に続発したクーデターにより政情不安が深刻化した。
一方、一九六六年九月三〇日には、旧英領ベチュアナランドがボツワナ共和国として、また一〇月四日には旧英領バストランドがレソト王国としてそれぞれ独立し、アフリカ大陸の独立国は三九を数えるにいたった。
アフリカ諸国を襲ったクーデターの嵐は、一九六六年七月二九日のナイジェリアの第二次クーデターを初め、ブルンディ(一一月二六日)、トーゴー(一九六七年一月一三日)、シエラ・レオーネ(六七年三月二一日)と続いて何れも軍事政権の樹立をみ、また同四月一七日には、失敗に終ったがガーナでも現軍事政権転覆の試みが行なわれた。これらは直接の動機こそ異にしているが、独立後、政治的イデオロギーが先行して経済建設の地道な努力がなおざりにされ、その結果各種の不満が生じて部族間の対立が激化したことを共通の原因にしている。クーデター後は、各国とも経済建設重点主義の意向を表明しているが、民政移行への時期とも併せて、諸種の困難が予想される。しかし、こうしたことを契機として、アフリカ諸国の指導者層は、一般的により現実的な国造りにまい進して努力を払う方向に向かっている。
アフリカ最大の人口を有するナイジェリアで、一九六六年七月二九日第二次クーデターが起こった。ナイジェリアでは、部族間の根強い対立が表面化し、イボ族の支配する東部州は、経済的にも有利な地位にあることから、ハウサ族を主体とする連邦政府に対する不信感を露骨に示して、連邦離脱の動きを強めている。
今後、連邦政府が東部州の経済封鎖、さらに最悪の場合には武力行使に訴えることも考えられ、安定した大国といわれたナイジェリアが深刻な政情不安に見舞われていることは、他のアフリカ諸国の政情に及ぼす影響も少なくない。
コンゴーのモブツ大統領は、独立後経済のコンゴー化を強力に推進していたが、その一環として、一九六六年六月来ベルギーのユニオン・ミニエール社の本社をキンシャサに移転するよう要求していた。しかし交渉は一二月末決裂し、コンゴー政府は、同社のコンセッションを接収することを決定して、新しいコンゴー法人GECOMIN社の設立を発表した。ユニオン・ミニエールはコンゴーの外貨収入の七〇%を賄なっており、同社の今後の事業経営は、同国経済の安定ひいては国内治安に重大な影響を持っている。その後も両者間に交渉が重ねられていたが、一九六七年二月半ばにいたって、GECOMINとユニオン・ミニエールの姉妹会社SGMとの間に、技術協力協定が締結され、コンゴー産銅の生産、販売につき一応の合意をみるにいたった。
タンザニアでは、一九六七年二月、ニエレレ大統領がいわゆる「アルーシャ宣言」を発表して、同国の自力による社会主義実現という大原則を打出したが、その第一歩として、同大統領は、同月銀行、主要企業等の国有化を発表した。本措置が、諸外国の不信感を惹起した面は否定出来ず、タンザニアの今後は少なからざる困難に直面するとの見方も多い。
仏領ソマリーランドでは、一九六七年三月一九日、今後同地域がフランスの海外領土として留まるか、または完全独立するかを決定するための住民投票が行なわれ、その結果、投票総数の約六〇%の支持を得て、同地域は引続き仏領として留まることとなった。かくして、問題の真の解決は今後に引延ばされ、同地域の継承をめぐるエティオピアとソマリアとの紛争、域内部族対立の深刻化等を考え合わせると、同地域をめぐる国際情勢は予断を許さないものがある。
アフリカにおける植民地解放、人種差別撤廃問題は、南部アフリカ問題に集約的に表現されるが、とくに南西アフリカ問題に関する一九六六年七月の国際司法裁判所の判決は、ブラック・アフリカ諸国に著しい不満を生み、彼らは国連の場における政治闘争を盛り上げることに全力を傾注した(国際連合第二一回総会の項参照)。
一方南アフリカ共和国政府は、従来の態度を変じて、一九六七年三月上旬同国駐在各国外交団代表に対し、南西アフリカ視察旅行の招請を発し、また同月、南西アフリカのオヴァンボランドに部分的自治を付与する旨宣言するなど、四月の特別総会を控えて硬軟両様の構えを見せている。
南アのフルウールト首相は、一九六六年九月六日、ケープタウンの下院議場内でギリシャ系白人に刺殺され、代って登場したフォルスター新首相は、アパルトヘイト(人種差別)政策を基幹とする南アの政策には何ら変りない旨宣明した。
新首相は、AA諸国よりのアパルトヘイト政策非難に対しては、南アの国内政策に対する干渉としてこれを受入れずとの強い方針を維持しているが、しかし他方において、南アは新独立国レソト、ボツワナに援助の手を差しのべるとともに、マラウイとも一九六六年三月二一百貿易取決めを締結して、近隣の黒アフリカ諸国と接近する姿勢を示していることは注目に値する。
南ローデシア問題について、英国、南ローデシア双方とも、もし出来ることなら事態を話合いにより解決し、本件を国連に委ねることを回避せんとして、両者間に慌しく最後の話合いが行なわれた。
ウィルソン、スミス両首相は、一二月二、三日の両日、英艦タイがー号上で会談したが、結局この最後の話合いの試みも失敗に帰した。かくて本件は、約束どおり国連安保理事会に持ち込まれ、同理事会は、一二月一六日国連創設以来初めて国連憲章第七章による強制制裁決議を成立せしめた。
アフリカ統一機構(OAU)は、複雑な諸問題を抱えるアフリカ諸国を、とにかくも団結させる上で大きな役割を持っていたが、続発した政変と、政治から経済への重点移行など、各国がそれぞれの転換をみせて、内部での急進、穏健両派の対立は依然として深刻であり、OAUは重大な試練に立たされている。
一九六六年六月二五日からアフリカ・マダガスカル共同機構(OCAM)の結成のための元首会議がタナナリヴで開催され、OCAM憲章の署名をはじめ、多くの成果を挙げた。OCAMの目的は、OAUの活動の強化にあるとされるが、OCAM結成の直接の動機は、あくまで穏健派勢力の結集ということであろう。
第三回OAU元首会議は、一九六六年一一月五日アディス・アベバで開催されたが、会議直前にガーナで突発したギニア代表団逮捕事件は、OAUの内部対立を暴露した感がある。元首会議では、解放委員会の存続をめぐり議論が白熱し混乱したが、本問題を通じ、OCAMを中心とする穏健派勢力が、過去に華やかな活躍を示した急進派にとって代ろうとする動きをみせた。
アフリカ諸国の共産圏諸国とくに中共に対する警戒心は、アルジェのAA会議前後から高まっていたが、一九六六年に入ってから中共と断交していたダホメ、中央アフリカに引続き、遂にガーナも断交するにいたり、中共はアフリカにおける重要な外交上の拠点を失なうことになった。さらに穏健派諸国、東アフリカ諸国にも中共の反政府活動を警戒する動きが出ており、中共の対アフリカ外交は、これまでの正規の外交関係を盾とした浸透策から、今や地下工作中心へと重要な転換を来したように観測されている。