北米の情勢
1 米国の情勢
一九六四年の大統領選挙で「地すべり的勝利」をおさめたジョンソン大統領は、議会における民主党の圧倒的優位を背景に「偉大な社会」実現のための一連の社会改革立法を次々と成立させた。すなわち第八九議会は、医療、保険、教育補助、新移民法、黒人投票権保証関係の諸法案を第一会期(一九六五年)に成立させ、さらに第二会期(一九六六年)においても、六六年公民権法案は成立にいたらなかったが、大気汚染防止および水資源対策、運輸省新設、都市大量交通計画、都市開発などについての諸法案が成立した。このように第八九議会は、社会、教育、運輸、都市問題及び環境改善の分野において大きな進展を示し、ニューディール以来の画期的業績をあげたと評されている。米国経済もやや過熱傾向を示したとはいえ、基本的には好調を続け、一九六四年以降長期にわたる繁栄を継続した。
対外的には、ジョンソン政権はヴィエトナム支援のための軍事的援助を強化しつつも、東西緊張緩和の方向に一層の努力を払い、ソ連との間に文化交流協定、領事条約(六七年三月米国は同条約を批准した)、民間航空協定を調印するとともに、宇宙天体条約を成立せしめ、さらに核兵器拡散防止条約のために積極的な努力を行なった。中共に対しても、「孤立化なきせき止め」政策をとり、中共が膨張主義的政策をとる場合には抵抗するが、中共が外部世界と和解し、平和協力政策をとる場合に備えて門戸を開放しておくという政策をますます明確にするにいたった。
地方、ヴィエトナム戦争は一九六六年に入り一段と激化し、六月にいたって北爆が一層強化されるとともに米軍派遣兵力は二七万六千に達し、以後急速に増強されて六七年一月には四〇万を越すにいたった。これに伴いヴィエトナム戦費も六六会計年度には五八億ドル、六七会計年度は一九四億ドルと急速に増大し、財政面でかなりの負担となってきている。ヴィェトナム戦争の長期化に伴い国内では、いわゆる「ハト派」と「タカ派」の論争が活発となるにいたった。
このような情勢の下に、一九六六年一一月、ジョンソン政権にとっての初の中間選挙が行なわれ、上院議員の三分の一、下院全議員、および州知事三五名ならびに州議会等の改選が行なわれた。中間選挙では、ヴィェトナム問題、インフレ、物価対策等の経済問題、および公民権、黒人暴動に象徴される人種問題が大きな争点になるものと予想された。これらの問題がどれほど選挙の結果を左右したかは疑問とされているが、結果的には中間選挙では多数党の議席が減少する一般傾向通り、共和党が進出を見せた。共和党の進出は全国的に顕著で上院で三議席、下院で四七議席を増やしたのをはじめ、知事選挙でも共和党は新たに八州の知事を増やし、非改選知事を含め、共和党、民主党知事の比率は二五対二五と全く互角となった。とくに共和党がカリフォルニア、ニュー・ヨーク、ミシガン、ペンシルヴァニア州等人口の多い七州のうち、五州の知事を獲得したことは注目に価する。中間選挙の結果、共和党は一九六四年大統領選挙の惨敗から立ち直り、一九六八年の大統領選挙に臨む体制を整えるきっかけをつかんだものと考えられる。
一九六七年一月一〇日、ジョンソン大統領は、一般教書を発表し、米国の内政・外交の基本方針を明らかにした。この中で同大統領はヴィエトナム問題については、「より大きな悪を避けるために、時として大きな悪をも選ばざるを得ない」とし、共産側に態度の変化のない以上、現行政策を継続していかざるを得ないことを再確認するとともに、一九六七年は「米国にとっては試練の年である」と述べ、内外の諸情勢に対処するため、国民に対して一層の覚悟を促した点がとくに注目された。
2 カナダの情勢
一九六五年一一月の総選挙の結果、与党の自由党は過半数を得るにいたらず、ピアソン内閣は依然第一党ながら過半数を持たない少数党内閣のまま政権を担当することとなった。
同内閣は、一九六六年一月総選挙後初の議会を迎えたところ、国内的には仏系カナダ人の地位向上のいわゆる「ケベック問題」や経済的に圧倒的な米国の影響から「カナダの自主性」を回復する問題をかかえ、その施策が注目されたが、連邦・州政府関係の調整、国歌の制定、インフレに伴う物価対策、産業開発対策など各般にわたり意欲的な政策を打出した。各州の権限が強いカナダにおいては、連邦対各州の調整が重大な政治問題であるが、ピアソン内閣は、多数の仏系閣僚の任命、連邦政府内における英仏両語の使用奨励・連邦・各州政府合同会議開催などの積極的施策をとるとともに、福祉制度、課税権の分配、平衡交付金等につき、仏系人の多いケベック州の主張を大幅に容れるなど、同州の協力により統一カナダの理想実現のため努めてきた。
しかし、六月五日行なわれたケベック州下院議員選挙において与党の自由党が敗れ、「ケベック第一主義」を掲げる国民合同党内閣が出現したことは、連邦自由党内閣にとって大きな打撃であり、「ケベック問題」がいっそう注目を浴びるにいたった。
外交面においてピアソン内閣は保守党内閣時代冷却傾向にあった対米関係の調整に意を注ぎ、米国との間にコロンビア河条約、米加自動車協定、米加航空協定が締結された。
また、同内閣は国際問題についても活発な動きを示した。中共問題については、マーティン外相は、第二一回国連総会においては、「中共の参加なしには世界が直面している重要な問題の恒久的解決は不可能であるとの理由から、中共を国連から排除すべきでない」と主張し、注目を集めた。またヴィエトナム問題についても、ICCのメンバーとしての努力のほか一九六六年にはロニング特使を中共および北ヴィェトナムに派遣し、和平の方途の探究に努める等の動きがみられた。