アジアの情勢

1 東南アジアの情勢

(1) 概  況

東南アジアにおいては広くこの地域を色どる政治的諸紛争が災いして、これまでともすれば相互協調の動きに乏しく、諸国間における連帯意識の生育が困難であるとみられて来た。

しかるに、一九六六年ごろからこの地域において、紛争と対立を解消して相互の和解を図り協力関係を育てていこうとする新しい気運が起こりつつあることが認められた。すなわち、同年夏かねてより東南アジアの不安定要因の一つとみられて来たインドネシアとマレイシア間の紛争が事実上終結し、連鎖的にこれと前後してフィリピンとマレイシアの復交、インドネシアのシンガポール承認等相ついでこの地域の国家関係が正常化され、これに伴い東南アジア連合(ASA)の蘇生など相互間の連帯意識が新たに芽生えはじめた。他方わが国も東南アジアにおけるかかる新たな気運を背景に同年四月東京において東南アジア開発閣僚会議を主催し、同会議はかかる気運の促進に寄与するところ大なるものがあった。

さらに同年六月には、アジア太平洋協議会閣僚会議がソウルにおいて開催され、また一二月にはアジア諸国の経済開発および経済成長を助けるための投融資を行なうことを目的としたアジア開発銀行が発足した。

東南アジアにおいてこのように相互協調を指向する新しい傾向が芽生えて来た背景には、いわゆる九・三〇事件後登場したインドネシア新政権が穏健中道的な対外政策を打出したという事情があることはいうまでもない。右のような新たな動きはアジアの情勢に明るい光を投じるものであったが、他方同じ東南アジアの一角であるヴィエトナムでは依然激しい戦火が続いており、和平を望む万人の願いも空しく紛争の平和的解決の兆しは訪れていない。ヴィエトナム紛争の継続は東南アジアに依然強い緊張を生じさせており、その周辺諸国に甚大な影響を及ぼしている。

以下一九六六年四月から六七年三月にいたる期間について、まずインドネシアの情勢を概述し、次いでヴィエトナムとその周辺地域の情勢を述べるとともに他のアジア諸国の情勢にも触れることとしたい。

(2) インドネシア

九・三〇事件(一九六五年)後スハルト陸相を中心とする軍部勢力の著しい進出の結果、スカルノ大統領は、一九六六年三月一一日スハルト陸相に対し、行政の実権を大幅に移譲した。同陸相は次いで三月一二日インドネシア共産党を正式に非合法化し、さらにスバンドリオ第一副首相等十数名の親共、親スカルノ派閣僚を逮捕するとともに同月二七日大幅な内閣改造を行ない、ここにスハルト(国防・治安担当副首相)、マリク(政治・社会担当副首相)、ハメンク・ブオノ(経済・財務・開発担当副首相)の三指導者を中核とする新体制内閣が成立した。

この内閣の出現によって、軍部を主体とする新政権が発足することになったが、国軍および政界の一部に伏在する親スカルノ派の勢力は依然無視し難いものがあり、したがって、スカルノ大統領の国政に対する発言権にも、かなり強いものがあるものと認められ、こうしたインドネシア国政の二元構造のため、スハルト将軍以下の新指導層による新政策の円滑な実施も困難であった。

しかし、危機に直面した国家経済の再建を当面の最高政策とする新指導層は、スカルノ大統領の抵抗を排除しつつ、従前の政策を是正し、対外政策を現実的な中道路線に引き戻し、西側諸国との関係改善を図るなど積極的な動きを見せた。またマレイシア紛争についても紛争を終結せんとするイ・マ両国指導者の熱意が実を結び一九六六年六月一日マリク・インドネシア外相とラザック・マレイシア副首相との間で国交正常化を行なうための原則について合意が成立し、続いて、六月二日インドネシア政府はシンガポールの独立を承認した。

しかしこうした新指導層の行き方に対しては、前述のごとくスカルノ大統領の強い抵抗があり、新政権の政策実施にあたって両者間の関係の調整が問題となることもしばしばであったため、新指導層の政策推進を望む側からかかる新指導層の行き方に大義名分を与え、かつスカルノ大統領の権限に掣肘を加えるために国権の最高機関である暫定国民協議会(MPRS)の開催を求める声が高まり、六月二〇日から七月六日まで第四回MPRS本会議が開催されるにいたった。この本会議においてスハルト陸相に与えられた権限(前記のごとく三月一一日付で委譲されたもの)の確認が行なわれるとともに新指導層が推進せんとする一般施策の基本方針が承認され、外交面ではマレイシア紛争の平和的解決、国連復帰等の重要な外交方針が承認された。同会議はまた六八年七月五日までに総選挙を行なうことや終身大統領制を廃止する等の重要決定も行なった。この会議の結果、新指導層はその政策推進のため強力な足がかりを得ることとなった。これに引続き新指導層は七月下旬新内閣を組織し、スハルト大将が内閣幹部会議議長に就任して内閣の中枢的地位に就いたのをはじめ新指導層は閣内での主導権を確保し、もってその欲する新政策の推進に一層の力を注ぐこととなった。八月一一日、マレイシアとの間に国交の正常化に関する協定が正式に調印され、サバ、サラワクの民意確認を待って両国の間に正規の外交関係が再開されることになった。また国連総会は九月二八日インドネシアの国連再参加を承認し国連復帰が実現した。

スカルノ大統領の第一の側近とみられていたスバンドリオ前第一副首相の軍事裁判は一九六六年一〇月一日から開始され、同月二五日死刑の判決が下された。さらに一二月五日からは九・三〇事件の関係者の一人と目されたダニ前空相の軍事裁判が開始され、同月二四日死刑の判決が行なわれた。ダニ空相の裁判が進行するにともない、スカルノ大統領の政治的責任を追求する動きが新たに高まり、国軍の急進派、各種学生組織によるスカルノ追放の動きが積極化した。

しかし、国軍の主流派は国軍の一部および学生組織等の急進派の過激な行動を抑えつつ、スカルノ大統領に対してはその態度変更を求めて大統領との話合いを重ねた。

しかるに六七年一月一〇日スカルノ大統領は報告書を提出して九・三〇事件には全く関知せず、また過去に失敗があったとしてもそれは自分だけの責任ではないとの強い態度を示した。しかし、かかるスカルノ大統領の強い態度は、かえって先方の反発を招くところとなり、スカルノ大統領と国軍首脳部との折衝がくり返された結果、遂に二月二二日にいたりスカルノ大統領が同月二日付をもって、スハルト大将(内閣幹部会議長)に対し、行政権を全面的に移譲した旨が公表された。さらに、その後いわゆる大統領問題に決着をつけるべく開かれたMPRS本会議においては、スカルノ大統領を直接罷免する決定こそ行なわれなかったが、同会議はスカルノ大統領がMPRSの全権受託者の義務を果さなかったことを非難し、MPRSの全権委任および一九四五年憲法に規定する国家の行政権を撤回するとともに、一九六八年七月に予定される総選挙まで政治活動を禁止し、国民協議会(MPR)の選挙が行なわれ大統領が選出されるまで、スハルト大将を大統領代理に任命する旨の決定が行なわれた。かくて、スカルノ大統領は実質的に大統領としての地位を追われ、スハルト大将を中核とする新政権の体制が名実ともに整い、新政権は国内経済の再建を最重点事項とする新政権の推進にその力を傾注することとなった。

(3) ヴィエトナム

(イ) ヴィエトナムの軍事情勢についてみると、一九六六年半ばごろから一七度線の非武装地帯を通過して侵入して来る北ヴィエトナム正規軍の数が増大したが、南ヴィエトナム・米軍側もこれを積極的に迎撃するに及んで、夏から秋にかけて一七度線の南側における戦闘が熾烈化した。またこれと並行して南ヴィエトナム・米軍側による中部海岸地方、およびサイゴン北上のいわゆるCゾーン、Dゾーンのベトコン基地攻撃が大規模に展開された。

この結果一一月から一二月にかけてベトコン側の通常戦的な行動は、かなり大幅に減少し、準ゲリラ的な方式の攻撃が増加するという現象が認められた。また一一月一日の革命記念日にベトコンが迫撃砲弾をサイゴン市内に射ち込み、その後一二月四日タンソンニュット飛行場(サイゴン空港)がベトコンの奇襲に遭うという事件が起こり、サイゴン周辺でのベトコン活動が注目された。

他方、一二月末南ヴィエトナム政府軍は、メコン・デルタ地域においてベトコン掃討作戦を開始し、また米軍もこれに呼応して一九六七年一月六日デルタ地域に進駐した。

しかしながら年末にクリスマス休戦が行なわれたのに始まり、その後新正月休戦を経て、二月上旬に旧正月休戦が行なわれ、この間各方面で和平工作が行なわれたこともあって、この期間にはサイゴン北方のいわゆる鉄の三角地帯で行なわれたシーダァフォール作戦を除くと全般的に大きな動きはなく、戦況は不活発に推移した。

ただ北ヴィエトナム側は休戦期間を利用して南への兵站、補給を強化したといわれ、これにともなって休戦明けが訪れると、一九六六年九月以降比較的平静であった一七度線の南側地域ならびにプレイク、ビンディン地方においてベトコン・北ヴィエトナム側兵力の動きが活発化した。

このため米軍は六七年二月下旬、一七度線に近い北ヴィエトナムの海岸地方に対する艦砲射撃、砲兵部隊による北ヴィエトナム領砲撃、北ヴィエトナムの河川への機雷敷設等の新たな対抗措置をとった。

かくて二月中旬の旧正月休戦明け以降戦闘は激化し、三月に入ると南ヴィェトナム・米軍側の掃討作戦が大規模に行なわれ、とくにサイゴン北方のCゾーンならびに一七度線非武装地帯の南側における戦闘は熾烈をきわめた。

この結果、三月の双方の人的損害はヴィエトナム戦争始まって以来最大のものとなり、戦況は厳しい様相を示すにいたっている。

北爆も引続き継続され、一九六六年六月末から七月初めにかけてハノイおよびハイフォン地区、一二月中旬にハノイ地区、一九六七年三月にタイ・グェン地区の目標が攻撃された。一九六六年一二月のクリスマス、一九六七年一月の新正月および旧正月の各休戦瞬間中は北爆も停止された。

一方、南ヴィエトナムの政治情勢は、一九六六年三月中部ヴィエトナムで人望のあったティ第一軍団長が解任された事件を契機として、反政府運動が高まり、その後これが仏教徒、学生等による民政移管の要求に発展して一時は緊迫した様相を呈したが、これに対し、キィ政府が反政府運動の鎮圧に努めるとともに、他方早期民政移管を約したことから徐々に事態は落着きを取戻した。

九月一一日、民政移管への第一歩として制憲議会設置のための選挙が実施され、その結果九月下旬制憲議会が発足した。同選挙における登録者数は約五二八万人で、その八○・八パーセントが投票に参加したと発表された。

ベトコンの選挙妨害にもかかわらず、この選挙がこのような好結果を得たことは、キィ政府にとって少なからぬ成果となった。

制憲議会はスー前国家主席を議長とし、新憲法草案の討議を進め、一九六七年三月にいたり、三権分立、大統領制、二院制の立法議会の設置等を骨子とする新憲法を採択したところ、国家指導委員会側もこれを承認し、新憲法は翌四月に公布される運びとなった。

この間一九六六年一〇月に政府部内の南北出身間の対立が表面化したが、翌一一月の内閣改造により右対立は一応収拾され、その後政局は軍部の集団指導体制の下に一応安定した姿を持しつつ、民政移管の方向に向かって推移している。

この間キィ首相は一九六六年八月にはフィリピン、一九六七年一月にはオーストラリア、ニュー・ジーランドの両国をそれぞれ親善訪問した。また一九六六年一〇月二四、二五日の両日、南ヴィエトナムのチュウ国家主席、キィ首相、ドウ外相ならびに米国のジョンソン大統領、ラスク国務長官、韓国の朴大統領、フィリピンのマルコス大統領、タイのタノム首相、オーストラリアのホルト首相、ニュー・ジーランドのホリオーク首相等はマニラに参集し、いわゆるヴィエトナム参戦七カ国首脳マニラ会議が開催された。同会議は閉会にあたって、(1)自由の諸目標および(2)アジア・太平洋地域における平和と進歩に関する宣言を採択するとともに、南ヴィエトナムの自由を確保する決意を表明した共同声明を発表した。その際相手側がその兵力を北に引揚げ、浸透を止め、これによって破壊活動が鎮まるならば、諸国軍はそれより六カ月以内に撤退する用意がある旨が宣言され注目をひいた。

その後南ヴィェトナム、米国両国首脳はさらに一九六七年三月二一日、二二日の二日間にわたってグアム島において会議を行ない、軍事作戦、平定計画等の進め方について協議を行なった。

(ロ) ヴィエトナム紛争の激化と並行して、国際間の和平への動きも各方面で展開された。すなわちカナダは一九六六年六月、ロニング特使をハノイに派遣し、フランスも六月から七月にかけてサントニー特使を中共、北ヴィエトナムに派遣したところ、これらはいずれも和平に対する北ヴィエトナム側の態度を打診することをひとつの狙いとしたものとみられた。しかしながらこれら特使の派遣は、いずれも従前よりの北ヴィエトナムの強硬な態度を確認したにとどまり、みるべき具体的な成果はもたらさなかったようである。下って九月にはド・ゴール仏大統領がカンボディアを訪問し、プノンペンにおける演説で、米国に対し一定期間内に軍隊を南ヴィェトナムから撤退するよう呼びかけた。

また一〇月にはブラウン英外相が六項目からなる和平提案を発表し、ベトコンの代表を含めた関係国会議の開催を提唱した。

さらに六六年末にはクリスマス休戦および新年休戦の機をとらえ、ゴールドバーグ米国連代表が、ウ・タン国連事務総長に和平討議実現のためのあっせんを要請し、またブラウン英外相も新たに米国と南北両ヴィエトナムの三国による会議開催を提案した。

かかる一連の和平への努力が行なわれたなかにあって、北ヴィエトナム側の態度が注目されたが、六七年一月、ファン・ヴァン・ドン北ヴィエトナム首相はニュー・ヨーク・タイムス紙ソールズベリー記者との会見において「北ヴィエトナムの要求している四項目は和平の話合いの条件ではなく、問題解決の基礎をなすものであり、話合いの効果的結論である」と述べた旨が伝えられ、この発言は北ヴィエトナム側の和平に対する態度の変化を示唆するものとして注目された。同月末グェン・ドイ・チン北ヴィェトナム外相はバーチェット記者に対し「北ヴィェトナムに対する爆撃その他すべての戦争行為の無条件停止後においてのみ、北ヴィエトナムと米国との間の話合いがあり得る」と述べ、この発言内容がその後北ヴィエトナム側の公式言明で繰返し引用されるに至り、北ヴィエトナム側が北爆無条件停止という厳しい条件を付しつつも話合いを行なう可能性を認めた証左として、その後の事態の進展は広く関心を呼んだ。かくて、交渉開始との関連において北爆停止の問題が大きくクローズアップされたが、これに対し、米国側は北ヴィエトナムが南への浸透を停止するならば北爆を停止する用意がある旨を明らかにした。

さらに二月にはコスイギン・ソ連首相が英国を訪問し、ウィルソン英首相と会談したが、この会談においてもヴィエトナム問題が討議されたと伝えられる。また同月、ジョンソン米大統領はホー・チ・ミン北ヴィエトナム大統領に対し親書を送り、(1)両国が直接の話合いをもつこと、(2)南ヴィエトナムヘの地上や海路による浸透が停止されるとの保証を得られれば、北爆と南ヴィエトナムでの米軍増強を停止することを提案したが、ホー大統領はその返書において北ヴィエトナムに対する米国の爆撃およびその他一切の戦争行為の無条件停止のあとでのみ、両国の会談は可能であるとして同提案を拒否したことが北ヴィエトナム側の発表(三月)によって明らかになった。

さらに、ウ・タン国連事務総長は二月から三月にかけてラングーンにおいて北ヴィエトナムと接触し、和平打診を行なった後、(1)全面的休戦、(2)予備会談、(3)ジュネーヴ会議の再開の三段階による紛争解決を呼びかけた新提案を発表したが、右提案も北ヴィェトナム側の拒否するところとなった。かくして北ヴィェトナム側の強硬な態度の前に和平への見通しは未だ容易に立ち難い情況にある。

(4) カンボディア

一九六六年五月から七月にかけて、米国が米国の費用負担により国際監視委員会のカンボディア・南ヴィエトナム間国境監視活動を強化すべしとのカンボディアの提案を受諾したこと(この提案は、一九六四年二月以来数度にわたってカンボディアが行なっていたが米国の受諾後ソ連、中共、北ヴィエトナム等の反対により結局実現しなかった)および、ハリマン米国特使のカンボディア訪問の申入れをカンボディア側が受諾したこと等により、カンボディア・米国間関係の険悪な空気にも一時緩和の兆しが見られたが、その後七月末から八月初めにかけての米軍機によるカンボディア領誤爆事件の発生により、カンボディアはハリマン特使の来訪を拒否し、再び以前の厳しい反米姿勢に戻った。

八月末から九月初めにかけて、ド・ゴール・フランス大統領がカンボディアを公式訪問し、シハヌーク国家首席をはじめカンボディア官民から盛大な歓迎を受け、両国の関係は従来にも増して緊密の度を加えた。

八月末、カンボディア・タイ間関係の改善を図るため、ドゥ・リビング国連事務総長特別代表が現地に赴いたが、両国の主張が合致しないため未だ関係改善の曙光は見られない。

他方ヴィエトナム紛争の激化にともない、カンボディアの南ヴィエトナムに対する態度は硬化し、カンボディアは北ヴィェトナムおよびベトコン支援の立場を強く打出し、一一月には、シハヌーク国家首席の呼びかけにより、ファン・ヴァン・ドン北ヴィェトナム首相、グエン・フートー・ベトコン議長による「インドシナ頂上会議」が近く開催される旨発表されたが、その後「頂上会議」の開催は北ヴィエトナム側の都合により取止めとなった。、

内政面では、六六年九月一一日、国民議会議員の総選挙が施行され、一〇月一八日、新国会が成立し、同月二二日、ロン・ノル前副首相兼国防相を首班とする新内閣が発足したが、その二日後の二四日、シハヌーク国家首席は、政府に対する監視および批判の機関として、民社同盟内に、ウン・ホン・サット前国民議会議長を首長とする「影の内閣」を成立させた。

かようにして発足したロン・ノル内閣は、右寄りの傾向が強く、内閣成立直後は左派の反対および「影の内閣」から掣肘を受け、容易に身動きの出来ない状況であったが、同年末頃から次第に行政の実績をあげ始め、一九六七年一月六日、シハヌーク国家首席が療養のためフランスに向かってからは、左派のロン・ノル内閣攻撃もしばらく鳴りをひそめ、政情は比較的平穏裡に推移した。しかるに三月五日、ロン・ノル首相が自動車事故で重傷を負って入院し、同月五日、シハヌーク国家首席がフランスから帰国して以来、左派の政府に対する非難攻撃は再び活発化し、三月三〇日には左派から攻撃されていた有力な二人の閣僚が外国援助物資払下げをめぐる不正事件を理由として国会の不信任決議で失脚し、カンボディアの政情は新たな動揺を示すにいたった。

(5) ラ オ ス

ラオスにおいては、米国の北ヴィェトナム爆撃およびラオス政府空軍によるパテト・ラオ地区の継続爆撃とにより、パテト・ラオ側の軍事活動は低下しているが、三派連合の政府の機能回復等基本的な問題解決の兆しはまだみられない。すなわちパテト・ラオの首脳は依然としてその本拠地であるカンカイに留まり続け、事実上プーマ連合政府から脱落しており、国内勢力は実質的に右派・中立派対パテト・ラオの二派に分れて対立のまま膠着状態を続けている。

かかる情勢にあって、六六年九月、ラオス国民議会はプーマ政府提出の予算案を否決して政府不信任の態度を表明したため、プーマ首相はラオス憲政上はじめて枢密院の採決にまで持込んで国会解散を強行した。六七年一月一日総選挙が実施された結果、プーマ首相は南部右派勢力を抑えて新国会において一応過半数を制することに成功した。他方、政府軍内部においては、右派軍将軍間における軋礫から一〇月、タオマー空軍司令官の率いる空軍部隊が首都ヴィエンチャンの空港等を爆撃するという事件が突発したが、同司令官のタイへの亡命により事件は落着した。また一九六〇年八月のクーデター以来一貫して中立を標ぼうしてプーマ首相を支持してきたコンレー中立派軍司令官は六六年一一月、右派との軋礫から国外に追放され、六七年三月にはその地位を解かれた。

2 そ の 他

(1) 韓  国

韓国は長年の懸案たる日韓国交正常化を達成しえて、外交・内政両面に積極的にのり出した。まず、内政面では日韓国交正常化に批判的であった野党勢力も一応これを既成事実と認め、経済協力を中心とする日韓関係の緊密化の状況を注視するとの態度をとる一方、一九六七年五-六月にわたり予定された大統領および国会議員選挙に備えての戦線整理に主眼を移して行った。

しかるに、一九六六年九月、三星財閥系の韓国肥料株式会社が、日本からの民間信用により建設中の肥料工場建設資材の輸入に関連してサッカリンの密輸入を行なったことが明らかにされ、九月二二日には国会審議中一野党議員により丁一権国務総理を含む国務委員が汚物をふりかけられるという事件まで発生した。野党は、この密輸事件をもって、財閥の政府との「腐れ縁」として国民に訴える方策をとった。これに対し、事態の急速な鎮静化を望んだ朴大統領は特命をもって調査団を派遣するほか、本事件に関連して財務、法務、文部の三部長官を更迭する等の対処策をとり、他方、国会の品位をけがしたとして除名された前記議員は送検された。当の韓国肥料株式会社は、李社長が、工場完成後、これを国家に献納すべき旨の発表を行なった。

内政上更に重要な一事件としては、野党の民衆党および新民党の統合がある。日韓国交正常化に関する態度の差から、尹潽善氏を中心とする強硬派は民衆党から脱党し新韓党を結成していたが、その後も野党各派の統合が試みられ、いずれも挫折した。

しかし、一九六七年一月に入って、大統領選挙に統一候補をもって臨むことが有利との判断から、遂に前記両党を中心とした野党合同が整い、二月七日新民党が結成され、大統領選挙には旧新民党党首尹潽善氏を候補とすることになり、与党たる民主共和党の朴正煕大統領との対決となることが明らかになった。

なお、内政上の大きな展開としてとくに挙げねばならぬ要素は、一九六六年末をもって終了した第一次経済開発五カ年計画の大きな成果である。韓国政府の発表によれば、鉄鋼、機械部門を除いて、すべての部門で計画を達成し、経済成長率は年平均七・一%を八・五%に高め、一九六六年の食糧生産と漁獲量は一九六〇年の二倍となり、輸出貿易は一九六〇年の七・六倍に伸びたとされ、この実績をふまえて、一九六七年からはじまる第二次五カ年計画では、一人当り年間所得一二〇ドルを二〇〇ドルに高め、食糧を四〇%増産して自給できるようにし、国民総生産を二五%増大するとともに、第二次産業の構成比を二二%から二八%に高め、輸出は四倍の一〇億ドル以上、米国援助は余剰農産物の綿花以外はなくすることを目標としている。かくして達成される自立した経済力を背景とし、政治的にも実力をえた政府は、一九七〇年代後半には、統一問題に積極的に取組む態勢をとることを明らかにしている。

外交面に眼を転ずれば、韓国は引続きヴィエトナムヘの派兵を継続し、一九六五年末には在ヴィエトナム兵力は約四万五千名に達した。その士気の高さと実績は諸外国より高い評価をうけ、韓国の国際的地位の昂揚を助けており、これがまた韓国民一般の民族主義に訴えているとみられる。また、ヴィェトナム戦争の積極的介入が韓国に与える影響は大きく、対ヴィェトナム貿易収入のほか、前記派遣軍と並んでヴィェトナムに派遣されている約一万名もの技術者、労務者からの本国送金が韓国の経済建設に見逃せない寄与をしている。さらに、ヴィェトナム派遣に伴う米国との合意により武器の近代化が進められていることも注目される。この情勢を背景として、ヴィェトナム戦争への寄与に関し、韓国国内において当初反対ないし批判的な態度を持していた野党も次第に認識を改め、増派反対を唱える態度が後退し、大統領選挙における争点としての重要性は減じた。

また、韓国が提唱した東南アジア外相会議のための非公式及び公式の二回にわたる準備会議(「わが外交の近況」第十号一五頁参照)の結論にもとづき、日本、韓国、中華民国、タイ、フィリピン、ヴィエトナム、オーストラリア、ニュー・ジーランド、マレイシアのほか、ラオス(オブザーバー)が参加して一九六六年六月一四日から一六日までソウルにおいて韓国政府の主宰の下に第一回アジア太平洋協議会閣僚会議が開催されたが(各論一三八頁参照)、これは韓国の積極的な対アジア外交のあらわれと評されている。

さらに、韓国政府は、一九六六年四月、その国際的地位の向上を目指して、従来の共産圏諸国に対する強硬な態度を放棄し、新たに、分裂国の共産国を除き、共産圏における国際会議には政府の代表を派遣することとし、また、韓国における国際会議に出席する共産圏諸国代表の入国を認めるとの方針を明らかにした。同年五月チェッコの世界保健機構およびソ連における第二回国際海洋学総会に出席を予定した韓国代表はいずれも入国査証を拒否されたため、右の措置の実効は未だ挙っていないとはいえ、これは韓国の外交にとっては大きな方針の修正を示すものとして注目に値する。因みに、同年七月には、自由圏の諸国の商社で、共産圏との取引を行なうものについても韓国入国を制限しないとの大統領声明が出されたこともこれと関連して特記されるべきであろう。

しかし、この韓国の対共産圏関係外交姿勢にかかわらず、対アジア外交については対カンボディア関係の悪化が注目される。

一九六六年一二月、プノン・ペンでの第一回アジア・ガネフォ大会に出席した北朝鮮代表団のボクシング選手金貴河は、在プノン・ペン日本大使館に日本への亡命を申出るという事件が発生した。同人は日本大使館を出たところをカンボディアの警察に身柄を保護されたが、韓国総領事のカンボディア政府に対する要請に反して同政府は金選手の身柄を北鮮代表団に引渡したため、領事関係開設以来円滑を欠いていた韓・カ関係はこれを契機に急速に悪化し、ついに一二月二一日領事関係は断絶された。

次に、韓国と北朝鮮との関係であるが、一九六六年七月、八月頃以来北朝鮮から陸路休戦ラインを越え、また海路により、韓国に秘密工作員を派遣し、発見される事件が頻発し、とくに非武装地帯における衝突が著しく累増した。これは、韓国の大統領選挙を控えて北朝鮮の対韓攪乱工作の一環として広く理解されているが、北朝鮮の真意のほどは明らかでない。しかし、かかる事件の頻発は、韓国に北からの武力進出に対しての強い危倶を生み、韓国軍の武装近代化の要望を強めている。

(2) イ ン ド

インドの第四次総選挙(総選挙は五年毎に実施され、今回の選挙は中央議会下院議員五二一名および各州議会議員三、五六三名を選出するもの)は、一九六七年二月一五日から一週間インド全国で行なわれ、有権者二億五、○○○万人のうち、一億五、○○○万人が投票に参加した。

開票の結果コングレス党(与党)は中央議会において辛うじて過半数を獲得したものの、前回総選挙の結果に比し八七議席を失い、州議会においても一六州のうち八州において過半数を獲得することに失敗した。これに対しスワタントラ党(親米、右派)とジャン・サン党(国粋、右派)が目ざましい進出をとげ、とくにスワタントラ党は共産党を抜いて野党第一党の地位を確保した。この他、合同社会党、人民社会党、DMK党(南インドの独立を主張する右翼政党)等も従来以上の議席を獲得したため中央議会においてはコングレス党の独占態勢が大きく後退し、多党化の傾向が強まった。

一方コングレス党が過半数を占めることに失敗したケララ、マドラス、西ベンガル、ビハール、パンジャーブ、オリッサ、ウッタル・プラデシュの七州では、野党の手になる州政府が発足したため(同じくコングレス党が過半数獲得に失敗したラージャスターン州に対しては、政情不安を理由に大統領直轄令が布告された)、中央政府の各州政府に対する指導力もまた著しく減退するところとなった。

なお、インディラ・ガンジーは三月一二日コングレス党議員団によって首班に再選され、翌一三日第二次ガンジー内閣が発足した。ガンジー首相は新内閣の発足に当り、内政については民主的社会主義社会の建設、外交については非同盟主義の推進という従来の基本方針を踏襲するとの態度を表明した。

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