共産圏の動向

本年度(一九六六年-一九六七年)において、世界の耳目を集めたのは、中共国内で激しく展開された紅衛兵運動に象徴されるいわゆる「文化大革命」である。この「文化大革命」は毛沢東党主席によって強力に推進されているが、これまでの過程において、劉少奇国家主席、トウ小平党総書記、陶鋳党宣伝部長、彭真党北京市委員会第一書記兼北京市長、羅瑞卿総参謀長、陸定一国務院文化部長、楊尚昆党弁公庁主任等をはじめとする党、軍の要人や、著名な作家等多くの人々が相次いで「ブルジョア反動路線を歩む者」「修正主義者」あるいは「反革命・反社会主義者」として非難攻撃され、その地位を追われたり、権威を失墜した。

この「文化大革命」は、一九六五年一一月評論家たる姚文元(現中央文革小組組員)が、呉ハン北京副市長の歴史劇「海瑞罷官」を批判したことがその発端といわれているが、その根源は遠く一九五八年の「大躍進」「人民公社」政策およびその後とられた調整政策の時代にさかのぼるとみられている。すなわち、当時の党指導層のなかには毛党主席に代表されるような、急速な社会主義建設を重視し、そのため精神的側面を強調して、経済、行政、軍事などの合理性を従属的に考えるものと、劉少奇国家主席に代表されるような、「穏歩前進」を建前とし、現実の客観的諸条件を重視して、経済、行政、軍事などの合理性をできるだけ尊重しよ弓とする現実主義的な立場をとるものがあり、重要な国家政策の遂行をめぐり、意見の対立があったものとされ、それが経済調整期を終了し、第三次五カ年計画を迎えようとする一九六五年後半期にいたり、対内、対外政策をめぐって尖鋭化し、毛党主席は遂に後者のごとき考え方をする者の一掃を決意したものとされている。

すなわち、毛党主席は、前述の呉ハン批判以来、言論機関を動員して、田漢、トウ拓(北京市委書記)等の作品を反党・反社会主義として批判せしめるとともに、社会主義文化大革命の推進を強調せしめたが、同時に解放軍を握る林彪国防部長と結び、一九六六年六月に党北京市委を改組、当時北京を牛耳っていたといわれる彭真北京市委第一書記を罷免、八月に入って中共党第八期中央委員会第一一回総会を開催し、「プロレタリア文化大革命に関する決定」を採択した。この決定は、「文化大革命」の全面的総括であると同時に、今後の方向と、その基準とを個別的に明示した重要な決定であり、その第一項目は、今回の「文化大革命」のプロセスが「社会主義改革の新段階」であると規定し、「文化革命小組」「文化革命委員会」「文化革命代表大会」などの組織と機関を全国的機関として常設し、大衆運動に依拠して今後とも長期にわたる「文化大革命」を継続すること、八月二〇日以来の紅衛兵運動の伏線ともいうべき四旧(旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣)の打破、今回の運動の重点は、資本主義の道を歩む党内の実権派に向けられる旨等を規定している。同総会は、一三日さらに公報を発表したが、同公報は、「文化大革命」の経過と内容を党中央委員会として全面的に承認するとともに、国防部長林彪の功績をとくに強調した点が注目された。

このような背景の下で登場したのが紅衛兵である。八月一八日「プロレタリア文化大革命」の勝利を祝する大会が北京で開催されたが(北京放送は、この集会の主要参加者を、毛沢東、林彪、周恩来、陶鋳、陳伯達、トウ小平、康生、劉少奇、朱徳の序列で報じ、林彪の毛主席に次ぐ地位と、劉少奇の地位の異常な低下を確認し、この序列は「文化大革命」による新しい政治的リーダーシップの方向を示すものとして注目された)、この日、高級中学生、大学生を中核とする紅衛兵がはじめて登場、これら紅衛兵は、八月二〇日から首都北京を皮切りに、上海、天津、広州、南京等全国主要都市で、毛主席万才を叫びながら、つぎつぎと街頭に進出、四旧打破の大旋風を巻き起こした。かれらは、街路、商店などの旧名称変更、特別列車や一等車の廃止、民主諸党派の解散、公私合営企業家への利子支払停止等、政治、経済、社会の根本的変革を要求したが、かれらの行動は、ソ連その他の外交官、外人宣教師、外人記者への暴行にまで発展し、排外主義的傾向さえ見られるにいたった。このような過激な運動に対し、人民日報は社説でその行過ぎを是正するよう警告を発し、初期の激しい行動は若干改められたが、劉少奇国家主席をはじめ、前述の党・軍人等いわゆる「資本主義の道を歩む党内の実権派」に対する非難攻撃は、紅衛兵集会あるいは街頭にはり出したいわゆる壁新聞等によって全国的に展開された。なお、北京においては一一月二六日まで八回にわたり毛沢東主席謁見の紅衛兵大集会が催され、約一、一〇〇万人の紅衛兵が参加したといわれる。

一九六七年に入って毛主席をはじめとする党主流派は、党・政機構において指導権を掌握しているいわゆる「実権派」から、権力を奪取し、新しい党・政機構を確立せんとし、実権派に対する激しい奪権闘争を、上海をはじめ、各地で展開したが、奪権を意図する「造反派」相互の対立と、意外に根強い実権派の抵抗にあって奪権闘争は遅々として進まず、各地で衝突事件が発生した。

二月に入って、中共の農業生産にとって最も重要な春耕期を迎えるにいたって、党首脳部は、農村の末端機関である生産大隊、生産隊において奪権闘争を停止し、解放軍の春耕援助を指令するとともに、工鉱企業の労働者に対しても、「文化大革命」は勤務時間以外に行なうよう指示、奪権闘争の混乱から生ずる生産の低下を防止することに努めたが、一方、奪権闘争による実権派打倒が、極めて広範囲にわたったため、行政的にまひ状態を生ずるにいたり、党首脳部は、敵を最少限度に絞る毛沢東戦略にそって実権派幹部でも誤ちを認めたものは受入れるという妥協的な政策をとるとともに、革命造反大衆、革命的指導幹部、解放軍の三者のいわゆる三結合」による大連合によって奪権闘争を行なうことを強調した。四月下旬までに奪権に成功した地域はわずか、北京、上海の二直轄都市および黒龍江、山東、山西、貴州の四省のみで、これらの地域には、臨時最高権力機構としての革命委員会が成立しているが、その他の地域においては、乱立した紅衛兵組織間や、革命造反大衆組織間の対立、一月末以来奪権闘争に介入したと伝えられる解放軍に対する一部大衆の反発、実権派の巧妙な抵抗等によって混乱状態が依然続いており、さらに毛主流派内部においても、「文化大革命」の遂行について急進派、穏健派の対立があると伝えられ、「文化大革命」は今後なお幾多の紆余曲折があるものとみられている。

なお、中共は、一九六七年第三次五カ年計画の二年目に入ったが、依然としてその計画内容は発表されておらず、今回の「文化大革命」による混乱がどの程度中共の経済に影響を及ぼすかが注目されるところである。

一方中共は、「文化大革命」による国内混乱をよそに、核兵器の開発を着々と進め、一九六四年と六五年に各一回、六六年には五月、一〇月、一二月と三回にわたり核実験を行ない、とくに一〇月における実験はミサイルによる核爆発と伝えられ、その開発の急速な進歩は世界の注目のまととなっている。

「文化大革命」の異常な進展は対外的にも大きな影響を与え、中共の教条主義的な考え方は中共の国際的孤立化をますます深めている。とくにアジア諸国に対する影響力の後退は著しく、インドネシアとは九・三〇事件以来急激に国交関係は悪化し、最近は華僑問題をめぐって激しく対立しており、マレイシアも反中共的傾向を深めている。

一方米国に対しては米国のヴィエトナム戦争の段階的拡大政策に対し、激しい非難攻撃を加えるとともに、北ヴィエトナム支援の決意を表明している。

中共の「文化大革命」の進展に伴って、中共の反ソ言動はますます尖鋭化し、一九六六年八月の中共第一一中全会が「帝国主義に反対するには必ず現代修正主義に反対しなげればならない」として米ソを同列の敵と見なし、中ソ間には「中間の道」はなく「ソ連と共同行動をとることはできない」との反ソ路線を公式に打出すに及んで、ソ連の対中共態度も漸次硬化し、中共が「反ソ路線を党の公式政策として正式に採択」したことを非難し、とくに、一一月二七日付プラウダ紙論文は「『毛沢東とそのグループ』の推進している『文化大革命』は、マルクス・レーニン主義とは全く無縁のものである」として、毛林派指導下の中共とは妥協の余地のないことを示すと同時に、攻撃目標を「毛沢東とそのグループ」のみにしぼって、反毛勢力の台頭を期待するとの態度をとった。

このような中ソ関係の険悪化した中で、一九六七年一月二五日、モスクワで発生したいわゆる「赤の広場事件」をきっかけとして、中共において激しい反ソ・デモがはじまり、とくに、北京のソ連大使館に対して、大規模な激しいデモが十数日問続けられ、この間種々の事件が続発し、中ソ双方の間で、激越な言葉で厳重抗議や非難の応酬が行なわれ、ソ連大使館員家族も引揚げる等、中ソ関係は、両国、両党関係史上、最悪の危機的局面に達した。しかし、二月中旬、中共側の戦術転換により、反ソ・デモは急速に鎮静し、危機状態は回避されたが、その後改善の兆しは見られず、中ソ関係は極めて悪化したまま膠着状態にある。

ヴィエトナム戦争に関連して、中共は、「ソ連は米国の第一の共犯者である」と非難してきたが、ソ連側も、「米中間に暗黙の合意がある」ことをほのめかしたり、「中共はヴィエトナム戦争の長期化を策している」等非難を行ない、一九六七年四月、ブレジネフ書記長は、「中共を含む全社会主義諸国の広範な統一行動ができたならば、ヴィエトナム支援は、はるかに効果的であったろう」と述べた。これに対し中共は直ちに反論し、「ソ連とは統一行動をとることはできない」と拒否した。そのころ、ソ連の北ヴィエトナム援助物資の中共経由輸送につき、中ソ間に合意が成立したとのうわさが伝えられたが、これをもって、中ソ関係改善の兆しと見得ないとされている。

中ソ対立は国際共産主義運動にも反映して、前線組織においても対立、分裂が激化しているが、ソ連はますます優位に立ち、中共は孤立化を深めている。世界共産党会議開催問題については、一九六六年三月の、ソ連共産党第二三回大会でブレジネフが、「条件が熟せば世界共産党会議の開催を支持する」旨演説したが、その後ソ連は、本間題に関し沈黙を守っていた。

しかし、一一月に行なわれた、ブルガリアおよびハンガリーの各党大会で、「世界共産党会議開催の条件が熟している」旨演説したジフロフおよびカダールに、ブレジネフが賛意を表明することにより、また一二月一三日、ソ連共産党中央委員会が同趣旨の決定を採択することにより、ソ連は、一九六七年の革命五〇周年を機に、世界共産党会議を開催したいとの意向を明らかにしてきた。

ただ、世界共産党会議開催問題に対する各国党の態度は複雑で、中共、アルバニアをはじめ中共路線を信奉する諸国党はもちろん、ルーマニア、ユーゴー、北ヴィェトナム、北鮮、日共等「自主独立」路線を標ぼうする各国党も、これを現在開くことには反対とみられ、さらに会議開催に一応は賛成の意向を表明している党の中にも、イタリア、オーストリア各党等のごとく、「全世界の共産党の参加」、「広範にして充分な討議」、開催時期等の条件を留保しているものが多いとみられ、その前途は甚だ険しいものがあるといわれる。

かかる情勢下、三月二二日から二六日まで、ワルシャワで、欧州の一九カ国党出席の下に、欧州共産党会議準備会議が行なわれ、欧州共産党会議を四月二四日から二七日までの間、チェッコのカルロヴィヴァリで開催すること、討議議題を欧州の安全保障問題とすること等を決定したが、同準備会議には、ルーマニア、ユーゴー等七カ国党が不参加であった。

ソ連の国内動向を見るに、ソ連現政権は、ブレジネフ書記長、コスイギン首相らを中心とする集団指導体制の下に、経済改革、国民生活の向上を重点とする施策を堅実、地道に行なっている。第八次五カ年計画の第一年度に当る一九六六年のソ連経済は、ソ連当局の公表によれば、建設部門を除き概して良好で、とくに従来不振であった農業は、天候に恵まれ、また農産物買上価格の引上げ措置等により、前年比一〇%増と好調を示した。一九六六年には利潤導入、企業の自主性拡大等を主要な内容とする新経済管理方式への工業企業の移行が開始され、一九六七年三月末までに約二、五〇〇(全工業企業の約五%)の企業が新体制に移行した。また同年四月には、国営農業企業にも新体制を導入することが決定され、同年中に三九〇の企業が「実験的」に新体制に移行することになっている。

国民生活向上のため、新経済体制の活用等による消費財の増産と勤労者の所得増大、一部消費財の価格引下げ等の措置がとられているが、消費財の不足および住宅不足の状態は依然として解消できず、ブレジネフ書記長も同年三月一〇日の演説で、この状態を確認し、消費財については増産のみならず、輸入によっても不足の緩和を図る意向を示唆した。

東欧諸国内においても、それぞれ国情に応じた経済改革、国民生活向上に重点をおいた施策が進められている。

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