東西関係

東西関係は、この一年間ヴィエトナム問題を別とし、米ソの間に協調の気運の発展がみられ、とくに、欧州における緊張緩和への動きが顕著であり、この間、ソ連の西側諸国に対する活発な外交が注目された。他方、中共は、ひきつづく対外影響力の減退と「文化大革命」に伴う「外交不在」に近い状態のなかで、「米帝国主義」と「ソ連の現代修正主義」を同列のものとして、これに対する攻撃を強めつつ、自らによる国際的孤立化を意に介しない態度であった。

まず米ソ接近についてのべると、そのイニシアティヴは、米国によってとられた。すなわち、米国政府は、一九六六年五月ソ連に対し、宇宙平和利用に関する国際条約締結を呼びかけるとともに、ソ連、東欧に対し、最恵国待遇を与える東西貿易関係法案を議会に提案した。

これに対し、ソ連は、同月三一日、国連事務総長に、宇宙平和利用条約問題を第二一回総会の議題とするよう要請し、また同日のチェッコ共産党大会に出席したブレジネフ・ソ連共産党書記長は、東西の軍事同盟を平和協力の組織に転換することに賛成する旨述べたといわれる等、四月初めのソ連共産党第二三面大会における「米ソ関係悪化」という表現とは異る反応を示した。

この後、六月末、米機によるハノイ、ハイフォン地区貯油施設爆撃が行なわれるに及び、ソ連は社会主義国として、米国のこの行動を黙視し得ずとし、七月、対米スポーツ交流を停止し、また、同月、ブカレストにおけるソ連東欧首脳会議の声明で、対米非難を強める態度に出たが、他方、すでにジュネーヴで始められていた宇宙天体条約に関する軍縮委員会会議や、モスクワでの米ソ漁業専門家会議における米ソ間の対話では協調的であった。

このような米ソ間の対話は、九月に入り、グロムイコ・ラスクの二回にわたる会談に発展したが、これと前後し、米国は、国連総会におけるソ連の「核兵器拡散防止条約締結を妨げる行為禁止決議案に共同提案国となり、また、宇宙天体条約案につき、対ソ譲歩の用意を示す等、両国接近の動きが目立ってきた。

ついで、ジョンソン大統領は、グロムイコ外相との会談を三日後にひかえた一〇月七日、ニュー・ヨークの全米論説記者会議において、ドイツ統一の達成は漸進的な東西融和によるほかないとして、ドイツ問題の解決が緊張緩和の前提であるとする従来の方針の転換を明らかにするとともに、在欧米ソ兵力の相互削減、核兵器拡散防止条約締結への努力および対ソ連東欧輸出規制の緩和にも言及する演説を行なった。

これを契機として、一一月の米ソ間航空路開設協定の妥結、国連における「宇宙天体条約採択決議案」および「核兵器拡散防止条約締結を妨げる行為禁止決議案」の採択が進み、一九六七年一月二七日、宇宙天体条約は、六三年の部分的核実験禁止条約の場合と同様、米ソ英三国の首都で多くの国により署名された。

さらに三月に入り、米国上院は一年半棚上げとなっていた米ソ領事条約を批准した。ただこれより先、米ソ間には一九六六年秋の国連総会当時より核兵器拡散防止条約草案作成のため累次協議が行なわれていたが、とくに核兵器非保有国の利害をめぐって議論が百出し、結局二月下旬からジェネーヴで開かれていた一八カ国軍縮会議は米ソ共同案の提出をみることなく、三月二三日、五月までの休会に入った。

他方ソ連は対西欧外交においてもとくに仏、英等の対ソ話合いの態度に呼応して積極的な姿勢を示した。フランスのNATOに対する動きを歓迎したソ連は、一九六六年三月の二三回党大会において、全欧州安全保障会議の開催を提唱し、四月にはグロムイコ外相がソ連外相として初めてローマ、ヴァチカンを訪問し、六月にはド・ゴール大統領を西側主要国の元首として初めてソ連に迎え、大々的歓迎を行なった。ついで、ウィルソン英首相の訪ソ(七月)、コスイギン首相の訪仏および訪英(一九六六年一二月および六七年二月)、ポドゴルヌイ最高会議幹部会議長の訪伊(一月)等ソ連と西側諸国との間の首脳外交は極めて活発であった。さらにこの間ソ連はグロムイコ外相をわが国に派遣し(七月)、進んで両国外交当局の定期協議開催をとりまとめた。

このような空気を反映し、六六年一二月のNATO閣僚理事会においても東西和解の促進が今後のNATOの課題とされるにいたった(西欧の情勢の項参照)。

ソ連と米国および西欧の間の緊張緩和は、必然的に東西両欧間の接触を促進する。かくてフランス外相の戦後初めての東欧四カ国歴訪(六六年六-七月)、伊外相のポーランド訪問(七月)等の動きがみられたが、最も注目されたのはエアハルト首相の退陣を機とし、ドイツ社会民主党との「大連立」の上に新内閣を組織したキージンガー独首相がその施政方針演説(一二月)において、従来のごとき対ソ批判を避けつつ独ソ関係改善の希望を表明するとともに、東欧諸国との国交関係樹立の意欲を明らかにし、また東独との官庁レベルの接触にも言及する等東側との関係改善を通ずるドイツ問題解決の方向を示し、一九六七年一月にはルーマニアとの国交樹立を実現するにいたったことである。

ところがソ連は、このようなドイツ(西)の積極的対東欧姿勢に対し、孤立化を憂慮する東独を擁護する立場から、ドイツ(西)が全独代表権を主張することを非難するノートを送るとともに、二月には、ワルシャワでソ連、東欧の外相会議をひらいて、東欧の結束をはかり、東欧諸国の対独接近にストップをかける態度に出た。かくて、欧州における緊張緩和推進にあたっての障壁は、依然ドイツ問題であることがうかがわれる。

一方、アジアにおける東西関係改善の障壁をなすものは、ヴィエトナム問題であり、この一年間、ソ連は、わが国を含む主要自由諸国との会談において、北ヴィエトナムの立場と和平斡旋への消極的態度を変えなかった。これは、ソ連が社会主義国の大国として、中共に対する立場を考慮せざるを得ないことにもよる。

最後に、中共と西側諸国の関係についてみると、米国は、前述のごとく、対ソ接近に努める一方、中共に対しては、「せき止め」の基本政策の上に、弾力的態度を打出し注目された。すなわち、六六年四月、ラスク長官は、米中間の非公式接触、人事交流のよびかけを含む対中共政策一〇原則を発表、翌五月には、マクナマラ国防長官が米中間に破局をもたらす誤解を避けるために、米中間に「橋を架けること」を提唱し、また、ジョンソン大統領は、七月一二日、太平洋国家としての米国とアジアとの不可分関係を説きつつ、中共に対する「和解による平和」について演説を行なった。さらに一九六七年の年頭教書には大統領教書としてはじめて中共に言及しているが、その姿勢は、中共の「文化大革命」による混乱を慎重に見守りつつ、中共自らの対外態度の変化を待つというにあった。

中共は、米国のこれらよびかけに対し、米国は「侵略」と「平和的転化」の両刀使いであるとしてうけつけなかったが、ワルシャワにおける米中大使会談は、断続的ながら行なっており、また、「米帝国主義」と「ソ連修正主義」に対する激しい非難をつづけ、ヴィェトナム和平への動きに終始反対を表明する反面、中共の行動は慎重で、防衛的姿勢に立っていることがうかがわれる。一方中共のわが国および西欧諸国との貿易は、「文化大革命」のなかでもこれを維持することに努め、この間、フランスとの間に航空協定を締結したが、他方、インドネシアやビルマ等との関係悪化をはじめ、中共のAA外交の不振の色の深まりはおおうべくもなかった。

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