北米地域
戦後のわが国さけます漁業は、一九五二年より再開され、日米加漁業条約の規定に従がい、西径一七五度の暫定抑止線以西で、母船式操業が行なわれている。この操業の規模が次第に拡大し、また、きけますに関する調査が進展するにつれ、米国のさけます漁業の最大の中心の一つであるブリストル湾のべにざけが暫定抑止線以西に相当量回遊し、したがって、アジア系のさけますに加えて日本の漁獲対象となっていることが明らかとなってきた。このため米国は、一九五八年より、条約に基づいて設立されている北太平洋漁業国際委員会の年次会議等において、ブリストル系べにざけの回遊状態に鑑み、抑止線は現在の位置から一〇度西へ、すなわち東径一七五度に移動すべきであるとの主張を行なうに至った。これに対しわが国は、べにざけについてみれば、北米系とアジア系の主たる混交水域が抑止線の西にあるのは事実であるが、他の重要な魚種であるしろざけ及びからふとますについてみれば、主たる混交水域は抑止線の東側にあるので、全体としては現在の抑止線の位置は妥当であると反論した。この問題は、米国の川に発生するさけますはすべて米国に属するもので、他国民は一匹たりとも漁獲する権利を有しないと考えている米国のさけます関係漁民の突き上げもあって、未解決のまま現在に至っている。
一九六五年度においては、過去三年ブリストル地方において不漁が続いたせいもあって、ブリストル系べにざけを日本が漁獲することに反対する気運が特に激しかった。すなわち、四月には、『米国のさけます漁業に害を与えるような漁業を行なっている国からの水産物の輸入関税を、一九三四年当時の関税の五〇パーセント増まで引上げる権限を大統領に与える』趣旨の法案(いわゆるマグナソン法案)が提出され、また、シアトルにおいて、米国漁民会議なる団体が結成されて、『本年度、日本漁船がブリストル系べにざけを漁獲したら、日本品のボイコットを全国的に働らきかける』との趣旨の決議を行なった。
政府は、マグナソン法案については、日本のさけます漁業は条約違反ではなく、又資源に悪影響を与えていないこと、本法案の規定する関税引上げはガット違反であることを指摘して、米国政府の善処を求めた。さらに、ボイコット運動については、シアトルにおいて、ひろく財界、漁業界に働らきかけ、日本の立場を説明した。
さいわいボイコット運動は、一、二のデモあるいは荷揚拒否があった程度で、一般の支持を得るに至らず、マグナソン法案は、若干の修正を加えられたのち上院は通過したが、下院において、本法案が歳入に関するものであるので下院に先議権がある由をもって、受理を拒否されたまま現在に至っている。(但し、下院には、同内容の法案が四件提出されている。)
一九六五年度のさけます漁業は、例年どおり日本の沖合漁業が五月末より、米国の沿岸漁業が六月末より開始されたが、ブリストル系べにざけは、未曾有の大豊漁を記録した。日本の推定漁獲量について、日米とも最終数字を未だ発表していないが、推定によれば、約六五〇万尾(六三年一三〇万尾、六四年一七〇万尾)で、現在までの最高を記録した。また、沿岸来遊量(これが沿岸漁獲量と再生産のための遡上量とに分れる)は、五、三〇〇万尾をこえ(六三年六八〇万尾、六四年一、一〇〇万尾)、史上最高の一九三八年の四、〇〇〇万尾の来遊をはるかに上廻る大来遊となった。
この事実は、日本の沖合漁獲が資源に害を与えているとの米国漁業関係者の主張が根拠のないものであったことを示すものと云えるが、米漁業界の一部は、たまたま六五年が豊漁であったからと言って、豊漁は五年に一度位しかないものであり、日本がブリストル系べにざけを取って良いということにはならないこと、及び、豊漁であったのはブリストル湾の河川系中、クヴィチャク河のみであって、他の九河川系は中程度の漁に過ぎなかったが、これは日本が沖合でクヴィチャク河以外の系統のさけを漁獲したからであること、等を主張して依然強硬な態度を示している。
ブリストル系べにざけの取扱いの問題は、米国のさけます関係漁民及びその関係者が抱いている、米国に生れたさけますはすべて米国の所有物であるという考え方のため、その解決が困難となっている。一九六三年より三回にわたって行なわれた日米加漁業条約改訂交渉(本件経緯については前号参照)においても、米国側は、この問題を納得の行くように解決することが先決問題であるとの態度をとっており、これが同交渉の最大の争点の一となっている。なお、条約改訂交渉は、一九六五年においては、諸般の事情から一度屯開催されなかった。
一九五二年八月、日米両国間に締結された民間航空協定の附表で、両国政府がそれぞれ指定する航空企業が定期航空業務を行なうための路線が定められたが、これにより、米国政府の指定するパン・アメリカン及びノースウェスト二社は、米国から東京に乗入れた上、更にアジアの主要地点にまで運航を行なってきたのに対し、日本政府の指定する日本航空は、日本から米国西海岸までの乗入れしか認められていなかった.
政府は、一九六一年以来、日本から米国西海津中部(サン・フランシスコ、及び、ロス・アンゼルス)までの路線を、米国大陸を横断してニューヨークまで延長した上、更に欧州を経て世界一周路線とすることを要求して、米国との交渉を行なってきた。わが方の要求の理由は、(1)日米間の路線は、当事国相互の政経の中心に乗入れるという現在の国際民間航空に関する原則にてらして不平等である。(2)米国は、英国、オーストラリアには、米国太平洋岸中部から米国大陸を横断してニューヨーク経由欧州への路線を認めているので、これらの国々に比べ、日本は差別待遇を受けている。(3)日本経済の成長、日米欧経済関係の緊密化等の結果、日本と米国東部、欧州との間の航空貨客は急激に増加している。等であったが、一九六一年夏および一九六四年夏に行なわれた交渉は、いずれも両国間に合意をみないままに休会となった。(そのほか、政府は、一九六一年以来、一九六四年の交渉の後も含めて、総理、外務大臣の訪米、日米貿易経済合同委員会等、あらゆる機会をとらえて、米側の再考を促すとともに、わが方主張の貫徹をはかってきた。)
その後、一九六五年一月、佐藤総理訪米の際の共同声明(第九号資料二三頁参照)において、この問題についても、双方が受入れうる公正な解決が得られるよう、緊密な協議を行なうことが重要であるとの合意がなされ、また、一九六五年五月には衆議院本会議で交渉促進決議が満場一致で採択され、その後、衆議院運輸委員一行が渡米し、米側関係議員等と意見の交換を行なう等、国会においても、米側への働らきかけが行なわれた。
以上の経緯を経て、一九六五年六月末、ワシントンにおいて米側との間に非公式話合いが開始され、同年七月の日米貿易経済合同委員会における日本側関係閣僚の働らきかけにより、八月一〇日より東京で正式交渉を開始することとなった。
八月一〇日開始された交渉は、九月二二日一旦休会となり、その後は外交ルートを通じて継続された結果、一二月二八日に至り、両国間に最終的合意が成立し、椎名外務大臣とライシャワー在京米国大使との間で附表の修正に関する交換公文が署名、交換された。
今回の合意の主要な内容は次のとおりである。
(1) 日本側の路線として、「日本からホノルル、サン・フランシスコヘ、並びにニューヨーク及びニューヨーク以遠ヨーロッパヘ、並びに以遠」を設ける。
(2) 日本側路線のうち「サン・フランシスコ以遠メキシコ及び中米へ」及び「ロス・アンゼルス以遠南米へ」の部分は、路線権として残すが、米国内の地点において米国以遠の地点を目的地又は出発地とする旅客、貨物及び郵便物のストップ・オーバー又は積込みもしくは積卸しを行なわないこととする。
(3) 日本側路線のうち「日本からシアトルヘ」を削除する。
(4) 米側路線の日本国内の地点として「大阪」を追加する。
(5) 大圏コース経由の日本からニューヨークヘの運航について、(イ)米国が北太平洋路線に二以上の航空企業を指定しようとする場合、または、(ロ)距離にもとづく運賃が太平洋に導入されようとする場合(北太平洋路線は中部太平洋路線より短かいためこの場合、北太平洋路線の方が運賃が安くなる)は、日本側航空企業の競争上の立場にもたらされることのある変化にかんがみ協定の修正が正当化されるか否かを決定するため協議を行なう。
「科学協力に関する日米委員会」の第五回会合は、一九六五年六月二三日より二六日まで、東京及び箱根において開催された。日本側からは兼重寛九郎委員代表ほか一五名が、米側からはH・C・ケリー委員代表ほか八名が出席した。
本会合においては、従来と同様、日米両国が共同して作成した各専門分科会の活動状況に関する報告が提出されたほか、(1)人物交流、(2)科学情報及び資料の交換、(3)太平洋地域の地球科学、(4)生物科学、(5)医学、(6)科学教育、(7)ハリケーンと台風に関する研究、の七つの専門分科会からそれぞれ提出された報告と勧告を検討の上、所要の勧告を両国政府に提出することが合意された。特に、本会合は、(1)従来の研究領域に加え、「神経生理学」、「生気候学」および「大気汚染の人体に対する影響」を、医学分野における共同研究に適当なものとしてとりあげること、及び、(2)農薬による汚染から生ずる有害な作用について両国が当面している問題の重要性にかんがみ、新しい協力分野として「農薬に関する研究」をとりあげること、を両国政府に勧告すること、並びに、(3)「太平洋の地球科学」の専門分科会で、地震予知について実現可能な共同研究計画を策定させること、に合意した。
なお、本委員会の第六回会合は、一九六六年一〇月ワシントンにおいて開催される予定である。
一九六五年一月、佐藤総理とジョンソン大統領との共同声明において、医学面における協力計画を大いに拡大することが合意されたが(第九号資料編二四頁参照)、この合意の実施について検討するため、一九六五年四月東京において、日本側黒川利雄博士ほか八名、米側コリン・マクラウド博士ほか六名が出席して、日米合同準備委員会が開催された。この準備委員会において、(1)この医学協力計画は、アジア地域にまん延している疾病について基礎的な医学面での研究を行なうことを主目的とする。(2)両国政府の任命する委員によって成される日米医学協力委員会を設置し、委員会のために具体的研究計画を立案、実施する専門部会を、(イ)コレラ、(ロ)結核、(ハ)らい、(ニ)ウィルス疾患、(ホ)寄生虫疾患(日本住血吸虫症及びフィラリア症)の五疾病について設置する。(3)当初は日米両国内で本計画を運営するが、第三国の科学者、研究機関及び国際機関の協力を求めることができる。等を、それぞれの政府に勧告することが合意された。
この勧告にもとづく日米医学協力委員会及び専門部会の第一回会合は、一九六五年一〇月四日から七日までホノルルで開催され、日本側から黒川利雄委員長ほか二二名、米側からコリン・マクラウド委員長ほか三八名が出席した。この会合においては、主として本協力計画の対象とたる各疾病に関する現在の知見の検討と、それぞれの疾病についての今後の研究の進め方についての検討が行なわれた。委員会は、最後に、各専門部会の検討の結果について報告をうけたのち、(1)低栄養の問題を新しくとりあげ、専門部会を設置すること、及び、(2)次回の会合を一九六五年八月日本で開催すること、を両国政府に勧告することに合意した。
佐藤総理は、昨年八月一九日より二一日迄、中村文部大臣、鈴木厚生大臣、安井総務長官、橋本官房長官、田中自民党幹事長ら政府、自民党首脳及び大浜早大総長らを帯同し沖繩を訪問した。
戦後二〇年間、沖繩を現職の総理大臣が訪問することは初めてのことであり、それ自体本土国民の沖繩との一体感を示すものとして注目を浴びた。総理は、沖繩に滞在中、高等弁務官、行政主席、立法院議長等、沖繩の米琉政府首脳及び立法院議員をはじめとする沖繩各界の指導者ならびに広く一般の人々と直接話し合い、自らの眼で沖繩の実情を視察した。
総理は、沖繩本島のみならず、宮古、八重山をも訪問したが那覇を離れるにあたって、今回の視察によって得た体験と知識を将来の日本政府の施策に反映し、九〇万沖繩住民の幸福に結びつける覚悟であると述べるとともに、沖繩と日本本土との間に存在する社会上、経済上の格差を解消し、民生福祉の向上を図ることこそ当面の重要かつ緊急な問題であると述べた。
総理訪沖後まもなく坂田農林大臣、永山自治大臣らが沖繩に派遣され、日本政府の対沖繩政策積極化の方策が検討された。さらに同年の日米協議委員会における討議を通じて、前年度のおよそ倍額に上る昭和四一年度日本政府援助(五八億九七万一、〇〇〇円)が決定をみた。
昭和四〇年一月一三日の佐藤・ジョンソン共同声明に基いて日米協議委員会の機能拡大に関する書簡が四月二日椎名外相とライシャワー大使により調印され交換された。米側は、その書簡で「協議委員会の機能が琉球諸島に対する経済援助のみたらず、住民の安寧向上のために、その他の事項についても協議できるよう拡大される」と述べ、日本側は、その書簡で、これらの書簡が日米両国政府間の合意を構成するものであることを確認した。機能拡大後初の第五回協議委員会は、五月一七日、椎名外務大臣、臼井総理府総務長官、およびライシャワー駐日米国大使が出席して開催され、主として沖繩住民の公衆衛生、教育及び福祉の水準を本土の相当地域での水準に達するよう引上げるとの見地から、教育及び社会保障などに関する事項が討議された。また、沖繩産品のための市場開拓及び沖繩産業に対する融資を含む沖繩経済発展のための若干の方策も討議された。
その後、昭和四〇年秋には三回の委員会が開催され、日本政府の昭和四一年度対沖繩財政援助計画案を討議し、一一月二日の第八回委員会にいたって、農林漁業、公共事業、社会福祉、教育、技術援助、その他の分野に関する日本政府の対沖繩援助計画案が日米間で合意された。この援助計画案は、項目において前年度より四項目多い六〇項目、金額では前年度より二九億三、五三四万一、〇〇〇円増しの五八億九七万一、〇〇〇円となった。援助額の大巾増大とともに、援助計画には、義務教育職員給与の半額負担、教科書無償供与、公務員退職年金及び医療保険の初年度準備金、先島のテレビ局設置等の新規事業計画二〇項目が盛り込まれており、援助の質的向上が可能となった。援助の量的ならびに質的の向上は、本土と沖繩との一体化および沖繩住民の民生の向上に貢献するものと期待される。
旧小笠原島民の墓参問題は昭和四〇年一月佐藤総理とジョンソン大統領との会談の際採り上げられ、両者の共同声明において、ジョンソン大統領は、「旧小笠原島民代表の墓参を好意的に検討することについて、同意した。」ことが明らかにされた。ついで同年三月四日在京米大使館より外務省あてに、島民代表の墓参を許可する旨の通報があり、昭和三二年藤山外務大臣が米側に申し入れを行なって以来の懸案であった旧小笠原島民の墓参が実現されることとなった。輸送手段の都合もあって、墓参は硫黄島墓参団と父島・母島墓参団の二つに分けて実施された。すなわち、硫黄島墓参については、一〇名の島民代表と政府関係者、報道関係者など一七名計二七名からなる墓参団が、同年五月一八日日航特別機をもって日帰りで硫黄島を訪問し、現地で尉霊祭を行なった。父島・母島墓参については、一八名の島民代表と政府関係者など一三名計三一名からなる墓参団が、海上保安庁巡視船「宗谷」で、同年五月二〇日より六月二日までの二週間にわたり、父島および母島を訪れた。その間、一行は大根山、小曲、衣館、静沢の各墓地において墓地の整備及び清掃ならびに慰霊祭を行なった。
日米安全保障条約に基づいて日米間の安全保障上の連絡協議の一機関として設けられた安全保障協議委員会は、これまで五回会合を行なってきたが、その第六回会合が一九六五年九月一日外務省で開かれた。日本側からは椎名外務大臣及び松野防衛庁長官、米側からはライシャワー大使及びシャープ太平洋軍司令官が出席し、椎名大臣が議長をつとめた。
会議においては、主として極東における日本と米国との共通の安全上の利害に関連する最近の国際情勢について意見を交換し、また、日本の防衛に関連する諸問題について討議が行なわれた。
一九六五年一一月二六日米国原子力空母エンタープライズ号及び原子力フリゲート艦ベィンブリッジ号が第七艦隊に配属された。その際米側から非公式に将来本邦への寄港が必要となるかも知れない旨連絡してきた。政府としては、現在米側とも連絡の上、安全性の問題等について技術的な検討を行なっている。
政府は、一九六四年八月二八日米側に対して、原子力潜水艦の本邦寄港に異議ない旨通報した。以後、現在までのところ、原子力潜水艦は佐世保に八回寄港している。
政府は毎回入港の際には艦周辺のモニタリングを行ない出航時には一次冷却水をも採取して放射能の調査を行なっているが、何らの異常も認められていない。
椎名外務大臣は、国連総会に出席するため、一九六五年九月二三日から二九日まで、ニューヨークに滞在したが、その間、九月二六日同地でラスク国務長官と国際情勢について会談を行なった。
ロッヂ現ヴィエトナム大使(当時在野)は、米国大統領特使として、ヴィエトナム問題について話し合うため、一九六五年四月二四日より二六日まで来日し、その間、二五日佐藤総理大臣(椎名外務大臣、ライシャワー駐日米大使同席)と会談した。
ハンフリー米国副大統領は、フィリピンのマルコス新大統領就任式に出席の途次、一九六五年一二月二八日、二九日の両日日本に立ち寄り、二九日佐藤総理大臣(椎名外務大臣、ライシャワー駐日米大使同席)と会談し、主としてヴィエトナム問題に関し米国の立場を説明し、種々意見の交換を行なった。
ハリマン国務省無任所大使は、米国大統領特使として、ヴィエトナム問題の平和的解決につき話し合うため、ポーランド、ユーゴスラビア、パキスタン、インド、イラン、エジプト、タイを歴訪ののち、一九六六年一月六日、日本を訪れ、七日午前、佐藤総理大臣と、同日午後椎名外務大臣と、それぞれ会談した。同特使は、九日オーストラリアへ向けて出発した。